1981(昭和56)年6月25日木曜日、北海道旅行5日目の阿寒湖
阿寒湖に到着した続き。
さて、今晩の宿を探そうとウロチョロしているうち、今朝ウトロで別れたSさん家族と再び偶然に出会った。これからバスで美幌峠に向かうとの事。余りにも偶然なので、お互いの住所を知らせて年賀状の交換を申し出た。そこでSさん家族とは別れた。
さあ宿だ。今まで民宿だったので有終の美を飾るべくホテルにしようと腹に決めていた。
予約してなかったが、ぶっつけでニュー阿寒ホテルなる立派なホテルに行ってみた。残念ながら満室で特別室なら空いているとの事。仕方なく次のホテルへ行ったが、ここも満室。
さて困ったなあ、旅館にでもするかなあと歩いていると、空き室ありという表示があるホテルの前へ出た。「くまやホテル」と言うホテルで見た目は旅館で名ばかりのホテルと思ったが宿泊をあせっていたのでそこにした。
木造で二流旅館と言う感じ。一泊7000円だと言ったが、せっかくの場所だから「阿寒湖の見える部屋を」と言う事で8000円だった。
三階建ての三階、一番端で確かに阿寒湖を望めた。
荷物を降ろし、くつろいでいると私服の女中が来てお茶を入れてくれた。
遊覧船に乗りたかったので聞いてみると、30分毎に出ていて次は5時だと言う。
急いで船着き場へ行く事にした。
もう夕やみせまっていた。半袖で乗り込んだが動き出すと風は涼しく、寒さで震えてしまった。
右側に雄阿寒岳、後ろに雌阿寒岳がそびえ立ち、阿寒湖の遊覧船はまっすぐマリモのある島へと向かった。
マリモ・・・それは不思議な自然の産物だ。直径20㎝位もあるマリモは正直言ってびっくりした。すべて4~5㎝位だと思っていたからである。藻類が湖の波に揺られながら湖底で回転運動をし、徐々に丸くなって成長しているのだ。
水族館では大小様々なマリモが上がったり下がったり回転運動をしていた。阿寒湖のマリモだけでなく、他の山中湖等のマリモと比較していたが、やはり阿寒湖のものが最大である。
船は阿寒川の水門などを経て、夕日が沈む様を映しながら進んだ。
乗船中、スピーカーから「毬藻の唄」(マリモのうた)が盛んに大音量で流れるので、覚えてしまった。
〽 水面をわたる風さみし・・・マリモよマリモ 緑のマリモ
自分への土産として阿寒湖の状差しを買ったので、それにその歌詞が書いてある。
ホテルに着くと部屋に入り、暮れて行く阿寒湖の素晴らしさを眺めていた。
6時50分夕日が完全に山の麓に没した。空の雲に反射した夕焼けが私の心を感傷的にさせたが、辺りが段々暗くなりやがて阿寒湖らしさだけが残ると、私は風呂に入るべく部屋を出た。
大浴場は私以外誰もいなかった。壁などは温泉地特有の汚れで匂いは確かに温泉の匂いであり、温度は適温でゆっくりつかった。
部屋の外にもう食事は届いていた。7時の指定だったからである。
電話を入れ女中を呼び、食事の用意をしてもらった。小さな鍋物とフライであまり美味しいとは言えず、印象は良くなかった。ビールを飲んだが、とにかく急いで食べた。
それには理由がある。アイヌ部落で8時からアイヌ踊りが上演される由の宣伝カーが回っていたからである。
急いで浴衣に下駄をつっかけてアイヌ部落へと歩き出した。
あちらこちらからも浴衣姿でアイヌ部落の方へ向かっている。失敗したのは下駄だった。
浴衣に似合うのだけれども、その下駄がやや小さいので、かかとが外に飛び出して足の裏が痛くて仕方ない。しかも暗い夜道を一人カランコロン歩くのは、気持ち良いものでは無かった。
アイヌ部落に入って8時を回っていたが始まる気配が見られない。周りは土産物店がいっぱいあり、ほとんど木彫りの熊とブローチ類だった。
8時30分にスピーカーでの呼びかけで小屋に入った。500円。造りはアイヌ的でかやぶきである。一目散に一番前の席を取った。
このアイヌの踊りは無形文化財に指定されており、小屋は釘一本も使ってないとの事。
やがて、アイヌ語での歓迎の歌があり、踊りが始まった。歌は聞いていてもさっぱり解らないが、踊りは描写的で解り易かった。
特に松の木を人間が演じ、風が吹いて揺れる様は、髪の毛を前後にゆすって上体を大きくゆらす白熱の演技であった。
珍しく竹で作った原始的な楽器「ムックル」を聞かせてもらえた。それは20㎝位のもので、竹を切って真ん中をリードにし、それに紐をつけてひっぱる事によってそのリードが振動し、音がするのである。
そのリード状の所を口にあてがう事により、口の中で共鳴し増幅され音楽として表現される。
極めて原始的にビーンビーンと多少の音程をつけ一曲演奏された。
やがて一時間位の上演を終わると、外の広場でも上演すると言う。ただしこちらは無料。
興味を持ったので再び外で鑑賞、今度は火を燃やして踊りが始まった。先程の踊りと変わらないものをやったが、その他「剣舞」もあった。男と男が刃物で戦うものでその男の裏に女性が一人づつついている。戦いに勝った男と結婚するというものだ。
残念だが「北海道旅行記」はここで終わってしまっていた。
記録に無いともう思い出せない。多分、翌朝阿寒湖からバスで釧路に行き、釧路から空路羽田経由で帰って来たのは確かである。
フィルムの写真がどこかにあるはずで、それには日付けも表示されている事だろう。
北海道には翌年、縁があって「きたみ東急」開店時に旭川まで飛行機に乗りA君と会い、又彼の旭川での結婚式1984(昭和59)年11月にも出席して披露宴で尺八を演奏した。
上記の「北海道旅行記」を見れば解る通り、A君には多大なお世話になり、感謝しきれない程の恩を感じており、上京でもたまに会うが、本当にありがとう。感動はいつまでも忘れない。
阿寒湖に到着した続き。
さて、今晩の宿を探そうとウロチョロしているうち、今朝ウトロで別れたSさん家族と再び偶然に出会った。これからバスで美幌峠に向かうとの事。余りにも偶然なので、お互いの住所を知らせて年賀状の交換を申し出た。そこでSさん家族とは別れた。
さあ宿だ。今まで民宿だったので有終の美を飾るべくホテルにしようと腹に決めていた。
予約してなかったが、ぶっつけでニュー阿寒ホテルなる立派なホテルに行ってみた。残念ながら満室で特別室なら空いているとの事。仕方なく次のホテルへ行ったが、ここも満室。
さて困ったなあ、旅館にでもするかなあと歩いていると、空き室ありという表示があるホテルの前へ出た。「くまやホテル」と言うホテルで見た目は旅館で名ばかりのホテルと思ったが宿泊をあせっていたのでそこにした。
木造で二流旅館と言う感じ。一泊7000円だと言ったが、せっかくの場所だから「阿寒湖の見える部屋を」と言う事で8000円だった。
三階建ての三階、一番端で確かに阿寒湖を望めた。
荷物を降ろし、くつろいでいると私服の女中が来てお茶を入れてくれた。
遊覧船に乗りたかったので聞いてみると、30分毎に出ていて次は5時だと言う。
急いで船着き場へ行く事にした。
もう夕やみせまっていた。半袖で乗り込んだが動き出すと風は涼しく、寒さで震えてしまった。
右側に雄阿寒岳、後ろに雌阿寒岳がそびえ立ち、阿寒湖の遊覧船はまっすぐマリモのある島へと向かった。
マリモ・・・それは不思議な自然の産物だ。直径20㎝位もあるマリモは正直言ってびっくりした。すべて4~5㎝位だと思っていたからである。藻類が湖の波に揺られながら湖底で回転運動をし、徐々に丸くなって成長しているのだ。
水族館では大小様々なマリモが上がったり下がったり回転運動をしていた。阿寒湖のマリモだけでなく、他の山中湖等のマリモと比較していたが、やはり阿寒湖のものが最大である。
船は阿寒川の水門などを経て、夕日が沈む様を映しながら進んだ。
乗船中、スピーカーから「毬藻の唄」(マリモのうた)が盛んに大音量で流れるので、覚えてしまった。
〽 水面をわたる風さみし・・・マリモよマリモ 緑のマリモ
自分への土産として阿寒湖の状差しを買ったので、それにその歌詞が書いてある。
ホテルに着くと部屋に入り、暮れて行く阿寒湖の素晴らしさを眺めていた。
6時50分夕日が完全に山の麓に没した。空の雲に反射した夕焼けが私の心を感傷的にさせたが、辺りが段々暗くなりやがて阿寒湖らしさだけが残ると、私は風呂に入るべく部屋を出た。
大浴場は私以外誰もいなかった。壁などは温泉地特有の汚れで匂いは確かに温泉の匂いであり、温度は適温でゆっくりつかった。
部屋の外にもう食事は届いていた。7時の指定だったからである。
電話を入れ女中を呼び、食事の用意をしてもらった。小さな鍋物とフライであまり美味しいとは言えず、印象は良くなかった。ビールを飲んだが、とにかく急いで食べた。
それには理由がある。アイヌ部落で8時からアイヌ踊りが上演される由の宣伝カーが回っていたからである。
急いで浴衣に下駄をつっかけてアイヌ部落へと歩き出した。
あちらこちらからも浴衣姿でアイヌ部落の方へ向かっている。失敗したのは下駄だった。
浴衣に似合うのだけれども、その下駄がやや小さいので、かかとが外に飛び出して足の裏が痛くて仕方ない。しかも暗い夜道を一人カランコロン歩くのは、気持ち良いものでは無かった。
アイヌ部落に入って8時を回っていたが始まる気配が見られない。周りは土産物店がいっぱいあり、ほとんど木彫りの熊とブローチ類だった。
8時30分にスピーカーでの呼びかけで小屋に入った。500円。造りはアイヌ的でかやぶきである。一目散に一番前の席を取った。
このアイヌの踊りは無形文化財に指定されており、小屋は釘一本も使ってないとの事。
やがて、アイヌ語での歓迎の歌があり、踊りが始まった。歌は聞いていてもさっぱり解らないが、踊りは描写的で解り易かった。
特に松の木を人間が演じ、風が吹いて揺れる様は、髪の毛を前後にゆすって上体を大きくゆらす白熱の演技であった。
珍しく竹で作った原始的な楽器「ムックル」を聞かせてもらえた。それは20㎝位のもので、竹を切って真ん中をリードにし、それに紐をつけてひっぱる事によってそのリードが振動し、音がするのである。
そのリード状の所を口にあてがう事により、口の中で共鳴し増幅され音楽として表現される。
極めて原始的にビーンビーンと多少の音程をつけ一曲演奏された。
やがて一時間位の上演を終わると、外の広場でも上演すると言う。ただしこちらは無料。
興味を持ったので再び外で鑑賞、今度は火を燃やして踊りが始まった。先程の踊りと変わらないものをやったが、その他「剣舞」もあった。男と男が刃物で戦うものでその男の裏に女性が一人づつついている。戦いに勝った男と結婚するというものだ。
残念だが「北海道旅行記」はここで終わってしまっていた。
記録に無いともう思い出せない。多分、翌朝阿寒湖からバスで釧路に行き、釧路から空路羽田経由で帰って来たのは確かである。
フィルムの写真がどこかにあるはずで、それには日付けも表示されている事だろう。
北海道には翌年、縁があって「きたみ東急」開店時に旭川まで飛行機に乗りA君と会い、又彼の旭川での結婚式1984(昭和59)年11月にも出席して披露宴で尺八を演奏した。
上記の「北海道旅行記」を見れば解る通り、A君には多大なお世話になり、感謝しきれない程の恩を感じており、上京でもたまに会うが、本当にありがとう。感動はいつまでも忘れない。