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はやぶさ 秀逸な動画と音楽  RJ人気記事

2024-11-09 23:26:12 | 音楽全般・ダンス・映画・アニメ、オペラ、クラシック、POP、


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アグネス・スメドレー 中国共産党に尽くした女スパイー4: 中国共産党幹部との接触

2024-11-09 20:33:39 | 世界史を変えた女スパイたち



アグネス・スメドレー(1892-1950)

 

 

アグネス・スメドレー 中国共産党に尽くした女スパイー3: 西洋人共産主義者とのプロパガンダhttps://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/f5191256ae9c9e00515142bea52f9479

からの続き

 

 

スメドレーの活動は上海だけに留まらなかった。 特に北京を訪問し、エドガー・スノー(一九〇五年生)に会った。 スノーは一九二八年七月に上海にやってくると、同市で発行されていた週刊誌(China Weekly Review)の記者となった。


一九三三年には北京の燕京大学(私立)に移った。国民党政府鉄道省の嘱託として中国各地を旅したこともあり、国内事情に詳しい人物だった。 一九三六年には、その事情を記したエッセイ集(Living China
)を発表した。

スノーが中国共産党の支配する陜西省北部に入ったのは一九三六年夏のことである。多くの共産党幹部にインタビューした。 毛沢東とのインタビュー(七月一六日)の内容が発表されたのはChina Weekly Review (同年一一月一四日、二一日号)紙上だった。毛の英語は拙かったから通訳(Wu Liang -ping)がついた。インタビューと次のように始まった。

 

スノー : 日本を中国から駆逐出来たら、西洋諸国による帝国主義的中国侵略の問題
      のほとんどを解決できると考えますか?

毛沢東 : そうだ。他の帝国主義国が日本のような態度を取らず、我が国が日本を敗    
      北(駆逐)させたら、大衆は目を覚ましてくれる。 そうなれば大衆を動 
      員し独立が可能だ。 我が国における帝国主義国家による侵略問題のほと
      んどが解決する。

スノー : 中国ソビエト政府(中国共産党政府)は、他の政党や軍に対して団結する
      ことが重要で、日本陸軍を駆逐できれば日本帝国主義に打ち勝つことがで
      きると訴えているのですね。

毛沢東 : 注意すべきは日本も我が国も単独で動いているわけではないということ
      だ。 世界の動きと連動しており、極東が平和になれば世界は安定する。 
      日本には、ドイツとイタリアがついている(注:潜在的協力国)。 日本
      に対抗するには中国も他国の支援が必要だ。 だからと言って中国が、外
      国支援なしでは日本と戦えないとは言っていない。 われわれは、(必要
     とあらば)自力での抗日戦を戦える。

 

スメドレーは、一九三三年には、中国の大衆を憐れむ『中国の宿命(Chinese Destinies)』、中国共産党を礼賛する『中国紅軍は前進する(China's Red Army Marvhes

)』を書いた。 スノーのインタビューは、スメドレーが積極的に続けていた中国共産党礼賛の活動に連動していた。

一九三六年、上海の逼塞状況に苛立ったスメドリーは西安に移った。 この転居が彼女に幸いした。 時を図ったかのように、この年の一二月一ニ日、この町で張学良(満州軍閥)が蒋介石を誘拐する事件(西安事件)が起きた。 張は、蒋介石に共産党弾圧の中止を強要し、共同して対日戦を進めるよう求めた(第二次国共合作)。

 

運よく現地にいたスメドレーは、この事件を詳細にレポートした。共産党に好意的な彼女の報道に気をよくした中国共産党は、彼女を共産都本部(中央委員会)が置かれている延安に招いた。 

西安事件の報道でスメドレーの名は広く西洋各国に知れることになったが、延安の山中の洞窟で毛沢東、周恩来、彰徳懐、朱徳らの話を聞いた。 彼女のお気に入りは貧農から身を立て軍指導者となった朱徳だった。 スメドレーの執筆した朱徳の伝記はスメドレーの死後二上されている(一九五六年)。

 

一九三七年に入ると、スメドレーはますます意気軒高となった。 中国共産党要人とのインタビューを果たしたことで舞い上がっていたらしく、中国共産党入党を決めたのである。 然し党幹部はそれを認めなかった。 落ち込むスメドレーを、「党員にならな方が、あなたの活動は価値がある」と諭した。 共産党は第五列の有効な利用法をよく知っていた。

 

入党は断られたが、彼女の昂揚はおさまることはなかった。 洞窟で暫く暮らすことを決めると、洞窟内の鼠の駆除作業、菜園づくりに嬉々として参加した。 更には共産党幹部に西洋式ダンスまで教えた。 幹部の妻たちは、『西洋女』に指導され破顔して踊る夫を、苦々しく見つめていた。

 

延安での生活をエンジョイしていたスメドレーが落馬で背骨を傷めたのは、この年の九月のことである。 彼女が西安に戻らなくてはならなくなったのは、この怪我が原因だった。 暫くすると朱徳からのコンタクトがあった。 自身の指揮する八路軍への同行を誘ったのである。 三ケ月にわたる同行取材を終えると、臨時首都となっていた漢口に移った(一九三八年一月)。

 

同地でも彼女は精力的に中国赤軍に尽くした。 赤十字からの医薬品を軍に配給する作業のかたわら、マンチェスターガーデン紙に寄稿した。 彼女の中国共産党幹部への「食い込み」は、西欧諸国にも知られており、彼女のレポートを欲しがった。 レポートは『China Today』『The Nation』『Modern Review』などの有力誌にも掲載された。

 

一〇月には漢口も陥落した。 スメドレーは、新たに編成されたゲリラ戦主体の新四軍に参加し、揚子江南岸を転戦する同軍の衛生兵として活躍した。 同時に従軍記者として寄稿を続けた。 一九三八年一一月から一九四〇年四月までのレポートは『中国に捧げる賛歌(Battle Hymn of China)』としてまとめられた(一九四三年発表)。

彼女は中国を愛する西洋人女性ジャーナリストとして下級兵士の間でも人気があった。特に、彼らの前でスピーチすることもあった。

 

彼女の赤軍での『セレブ生活』は突然に終わった。 胆嚢が悪化し、香港の病院(Queen Mary Hospital )で手術が必要となったのである(一九四〇年八月)。 香港の英国官憲は彼女を監視下に置いた。 警察は、執筆活動のスベテを禁じ、メディアへの接触を許さなかった。

彼女が帰米したのは、翌四一年のことである。以後、二度と中国の地を踏むことはなかった。 毛沢東らが利用した最高の第五列女性ジャーナリストは、中国を去ったが、彼らの期待通り、中国礼賛の言論活動を帰国後にも続けた。

 

 

 

 

アグネス・スメドレー 中国共産党に尽くした女スパイー5: スメドリーを支援していた米国務省https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/0de36463345568f460480f294e3c3223

に続く

 

 

 

 


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