アグネス・スメドレー(1892-1950)
アグネス・スメドレー 中国共産党に尽くした女スパイー2: ゾルゲとの出会いと別れ
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からの続き
ゾルゲと別れたづメドレーは、その後も上海の左翼勢力と積極的に交流した。
逮捕されたスイス人夫婦を救う組織が陳幹笙や宋慶齢らによって結成されていたが、彼女がそのメンバーになったのは当然だった(彼らは、夫婦の開放を世界世論に訴えたが、二人は終身刑となった)。
一九三三年に大きな動きがあった。
ソビエトが対蒋介石外交を再開したのである。 ソビエトは一九二七年に蒋介石による共産主義者パージ事件以降、国民党政権から距離を置いていたが方針を変えた。
この変化がスメドレーをさらに刺激した。
彼女は一九三〇年頃から上海の知識人層との交流を深化させ、芸術活動を共産主義宣揚プロパガンダのツールと認識していた。
彼女の眼鏡にかなった知識人の一人が茅循(ぼうじゅん:Mao Dun、一八九六年生)だった。 中国の芸術に思想性を持たせ、一斉に協賛主義礼賛に変えた男である。
彼女を魯迅に紹介したのも彼であった。小説家であり、文芸批評家だった茅循は中華人民共和国成立(一九四九年)後に、初代共和国文化部長に就任し一九六五年までその要職にあったことから、彼の中国共産党への貢献がいかに評価されていたかが分かる。
スメドレーは、彼と協力し、中国の社会主義芸術作品の外国語への翻訳作業を進めた。
スメドレーは、魯迅とも積極的に交流した。スメドレーと初めて会ったときには、既にドイツ語版の『大地の娘』を読んでいたこともあり、二人はたちまち意気投合した。
左翼作家連盟(League of Left Wing Writers)を結成し、メンバーの作品を西欧社会に紹介した。 彼女はこの活動を『文化ゲリラ戦(Cultual Guerrilla War)』と自慢した。スメドレーは魯迅を中国革命におけるヴォルテールに喩えた。
*ヴォルテールとは
ヴォルテール(1694~1778)は、フランスの哲学者、文学者、歴史家で、啓蒙思想家として知られています。理性と自由を掲げ、専制政治や教会、狂信や不正裁判に反対して闘いました。
この時期のスメドレーの『敵』の主体は『英国』であった。上海租界地は基本的にはヨーロッパ勢力(後に日本も加わる)の安全地帯として生まれたものでありその中心に英国がいた。 スメドレーはインド民族派の独立運動を支援していただけに、繁栄感情がすさまじかった。
ところが、彼女のその意識は、満州事変(一九三一年九月)以降、反日本に次第に変化していくことになる。
当時の関東軍の狙いは満州に近い支那北東部諸省を非武装化し緩衝地帯にすることであった。軍閥や国民党軍による満州の不安定化工作に一定の歯止めをかけたかったのである。
この方針は、第一次上海事件後に成立した塘沽協定(タンクーきょうてい:一九三三年五月三十一日)で実現した。
*塘沽協定とは
塘沽停止戦協定は、1933年5月31日河北省塘沽で日中両軍終了された軍事停戦協定。
この協定は、米国の史書でも書かれているように、国家間協定で有効なものであると西洋諸国も理解した。
時代は少し下るが、スターリンは、国家安全保障を理由に、東欧諸国の共産化っをテヘラン会議(一九四三年)などの首脳会談を通じて、ルーズベルトとチャーチルに認めさせた。 日本の塘沽協定は、ソビエトの外交方針と同じ性質のものであった。
スメドレーと独紙『フランクフルター・ツアイトウング』との契約が第一次上海事件の起きる少し前に切れている。
ドイツでは、一九九三年初めにヒトラー政権が発足することから分るように、独国内世論はヒトラーにベルサイユ体制の鎖からの解放の願いを託したいtの考えにシフトしていた。
不条理な体制を前提に、英仏と折り合いをつけながら国力の回復が、ワイマール体制の基本であったが、独国民はそれに我慢できなくなっていた。
ヒトラー政権は、ワイマール体制下の民主主義的手続きによって成立していた。
こうした世論の変化で、『フランクフルター・ツアイトウング』紙にとって、スメドレーの中国情報の市場価値が低下したのである。
ドイツへの論文発表の道は閉ざされたがスメドレーは困っていない。 この頃には米国への発言ルートを作り上げていた。 とりわけ二人の米人共産主義者との人脈は彼女の財産になっていた。
一人はハロルド・イサックス(Harold H. Issacs、一九一〇年生)である。 裕福な家庭に育ち、二〇歳でコロンビア大学を卒業すると暫くニューヨークタイムズ紙に勤務した。 その後上海に渡った。
彼は政治的にはノンポリだったが、上海でスメドレーとフランク・グラス(Frank Glass)と知り合ったことで共産主義者となった。
グラスは世界革命を夢想するトロッキストであった。 一九〇一年生まれ(英国バーミンガム)の彼は1一九〇九年に南アフリカに移住した。 一九二一年には、同地の共産党創設に参加した。
一九二八年頃には反スターリングループ(Opposition Left : トロッキスト)に属し、世界革命を夢見る過激共産主義者となった。 一九三一年には活動拠点を上海に移し、西洋人社会に潜り込んだ。 一九三二年から三三年にかけて、タス通信のレポーターだった。
スメドレーはこの二人と中国共産党の拡声的週刊誌『China Forum Weekly』を発刊した。魯迅の短編小説や左翼作家連盟所属作家の作品も掲載しながら、反国民党の論陣を張った。
中国でもスメドレーと五サックスが共同編集した『国民党による反動(反革命)の五年間(Five Years of Kuo-mintang Reaction)』(一九三二年五月)はインパクトのある論文で会った。
国民党政府からの厳しい検閲を惹起したことは言うまでもない。
アグネス・スメドレー 中国共産党に尽くした女スパイー4: 中国共産党幹部との接触
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に続く