ルーズベルト大統領夫人 エレノア(1884~1962)
スターリンは、ソビエトのために尽くす知識人や芸術家を「役に立 つ馬鹿(useful idiots)」と呼んだらしい。
自らの考えを絶対善(真)と考え、いささかの迷いもなく、口だけで自称愛国保守と振舞うお馬鹿たちが「役に立つ馬鹿」になりやすい。
共産党のスパイと疑われないように愛国保守と自ら振舞ってくれるのが、コ中国・ロシアなどミンテルンには有難い。
日本でいえば、親中露のアホボン安倍と、元々リベラルでそれを隠すかの如く愛国保守を自ら大声でアピールし、実はやっていることが真逆で、反日・親中政策をとる高市早苗みたいなものである。
ただ、彼らは頭が悪く、抜けだらけで、とてもスパイにはなれきれずお馬鹿をやる彼らに、私はスパイとは言えません。(頭脳明晰のスパイに失礼)
話を、エレノア・ルーズベルトに戻します。 第5列とは、スペイン内戦時にフランコ軍の将軍、エミリオ・モラが発した言葉に由来します。将軍は四個部隊を率いてマドリードを攻略しましたが、市内にフランコを装って潜入していた第5の部隊がいると語りました。
モラ将軍の攻撃に呼応して敵陣内で放棄する隠れ部隊です。 これが第5列の語源。 これは国際常識なので覚えておきましょう。
フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領の妻エレノアはその典型でした。 第5列はスパイではありません。 しかし、彼女は共産党の友人(中にはスパイもいました)を多く持ち、若き共産主義者を愛人にしました。
本来政治力がないはずのファーストレディの影響力を行使し、彼らを政府の要職に就けました。 彼女の行動がソビエト外交と体米内政干渉に利したことはいうまでもありません。
常軌を逸した彼女の行動と、それが米国の外交・内政に与えた負の影響について詳しく紹介していきます。
あまりに酷い親中政策をとつ安倍首相と愛人と称される高市早苗、みかねたジャパンハンドラーズの米シンクタンクCSISが安倍政権を公然と非難した直後にアホボン安倍晋三は電撃辞任。 安部さん入院もせずに元気でしたけどね。w
そして菅政権が誕生し、菅政権・岸田政権は反中露政策。 安部元首相が首相に返り咲こうと活動を始めた矢先に暗殺されました。
高市早苗は元々蓮舫と朝日TVのキャスターをやっていたバリバリのリベラル左翼。松下政経塾卒業後、反日・親中の小沢一郎率いる新進党に入党し、小沢と反日活動をやっていました。
そして、話題となった山本拓との再婚。 山本も小沢と反日をやっていた親中のド左翼。 高市の実の弟は山本の秘書という一族挙げての反日職活動家です。
国民にそっぽを向かれ、高市・山本ともに自民党に鞍替え、山本は親中で有名な二階派に所属。 分かり易いですね。
高市早苗は、当時清話会の権力者森喜朗に押しかけ女房のように近づき、自民党内で役職を得ます。 しかし、清話会を裏切り、今度は町村派の町村氏に接近。 次は稲田朋美よろしく女性関係に緩い安倍晋三に押しかけ女房。
アホボン安倍は、すぐに鼻の下を伸ばし、彼女らを防衛大臣とか総務大臣に任命し、安倍派の議員たちから評判が悪いのはご存じの通り。
今回の総裁選でも、麻生氏が議員たちに高市に投票城と命令して20人の推薦人すら集まらなかった高市が1回目の投票ではNo.1となり、アホの高市とその信者たちを喜ばせ勘違いさせました。
私がいつも言っているように、第二次大戦の敗戦後、アメリカの承認なしに日本の首相、総理大臣にはなれません。 案の定、最終決戦では高市は敗れました。
麻生太郎が、議員たちに高市に投票しろと命じたのは、宿敵の菅元総理が推す小泉進次郎を絶対に日本の首相にしたくなかったからと報じられています。 それはそれで分かり易いのですが、
一つ解せないのは麻生派には前回の総裁選でも岸田首相の次に票を集めた実力者の河野太郎がいるのに、何故河野太郎ではなく、高市早苗なのかです。 『政界で、飲みーの、やりーの、飲みまくりと自叙伝を書いた高市は有名ですが、おそらくそういう事なのだと理解しています』
また、地方の国立大学の学部卒の学歴の高市早苗が、近畿大学の教授になれたのは、選挙に落選し失業中に、これまた自民党の重鎮の世耕議員に接近したからです。 wikiにもあるように、近畿大学の理事は代々世耕一族が就任しており、自民党と近畿大学、日本大学はズブズブなのです。
話を、赤いファーストレディ、エレノア・ルーズベルト(第5列の女王)に戻します。
NKVDと米共産党による内政干渉
NKVD(内人民務委員部(ないむじんみんいいんぶ)とは、ソビエト連邦の人民委員部の一つで、ヨシフ・スターリン政権下で刑事警察、秘密警察、国境警察、人権報機関などを統括する組織です。 wiki
1940年5月23日、ノア・メイソン下院議員(イリノイ州共和党)は、フランシス・パーキンス労働長官とエレノア・ルーズベルト大統領夫人を厳しく非難しました。
パーキンスはルーズベルト大統領(FDR)に心酔する左翼思想の忠僕でした。 第一期政権発足時(1933年)から第四期政権まで労働長官であり続け、FDRの死(1945年4月12日)に涙を流して辞任しています。
NKVDと米共産党は、内政干渉にあらゆる手段を講じましたが、なかでも労働組合運動の利用は、その中核となりました。
労働行政の長である労働長官が共産主義シンパであることは、ソビエトに好都合でした。 彼らは政府組織内における労組結成を最重要課題としました。
当時、ソビエトは組合オルグ能力に長けた工作員を米国に移民として数多く送り出しました。 米国の安全保障上、危険と思われる人物も、やすやすと入国し、帰化できました。彼らは短期間に共産党系組織の幹部に登用されました。
これを問題視したワシントン議会は、非米活動調査委員会を設置(1938年5月)し、行政府の親ソ政策を監視することを決めました。委員長は共産主義拡散を警戒するマーチン・ダイズ議員であったことから、『ダイズ委員会』と呼ばれました。メイソン議員は同委員会の委員でした。
「メイソン議員は、「FDR政権の左傾化に一人の女性が関わっている。 wレノア大統領、夫人である」と発言し、次のように続けました。
「1938年3月、ウィリアム・ヒンクリーが教育省幹部に登用される事件がありました。 彼は長きにわたり米国青年議会(AYC:American Youth Congress)の全国委員長を務め、米国共産党の方針に沿って動いていたバリバリの活動家です。
そのような人物を、重要な役所の幹部に据えることは国家的恥辱である。 彼の登用は大統領夫人の口利きだと聞いている」。
メイソン議員の発言からも分かるように、大統領夫人エレノアの行状には、多くの議員が眉をひそめていました。 大統領夫人には、そもそも公的な政治権力はありません。 にも拘わらず、FDR政権幹部は、政権内に自然発生した「共産主義容認の空気」の中で、容共的なエレノアも、ホワイトハウスの女王のように扱い、彼女は女王のように振舞いました。
止まらない彼女の『悪行』に評論家ウェストブルック・ペグラーが嚙みつきました(1942年2月12日)。 『ワシントン・ポスト』紙の連載コラム「Fair Enough」欄で次のように書いています。
「彼女(エレノア)は、共産党系組織であるニュースペーパーギルドの会員をオファーされ、嬉々として受けた。 本来ならば彼女には会員資格はない。 新聞業界に身を置く者はこの組織がモスクワ傘下にあり、汚いやり方で運営されている事を知っている。 多くの仲間がギルドの迫害を経験している。
彼女は、我々新聞人の敵となった。 彼女がギルドのメンバーシップをオファーされたのは、大統領夫人であるというただそれだけの理由である。 共産主義者は大統領夫人を利用すると決めたのである」。
「ダイズ委員会は、彼女の悪行が長きにわたって続いている事を知っている。 エレノア夫人は、大統領府の影響力をかさにして同委員会の予算を削ろうとさえしている」。
ペグラーのエレノア批判は止むことはありませんでした。 同年7月3日コラムは、エレノアの労働組合の悪行に対する無知を咎める公開質問状のスタイルをとりました。 幹部による一般組合員への脅し、組合資金流用などの事例を挙げて。こうした組合を擁護する大統領夫人は彼らの活動実態をどれほど知っているかと聞きました。
エレノアは、止まらない批判への対処を友人の組合幹部ジェイムズ・B・カレイ(産業別組み合会議:CIO)やジョージ・ミニー(米国労働総同盟:AFL)に相談しました。 ペグラーの批判の妥当性を知っている二人は、無視を勧めました。 ペグラーが要求する組合の横暴を調査する評議会設置の提案もスルーするよう『指導』しました。
しかし、彼女はおとなしく『同士』のアドバイスに従うタマではありません。 FBIに圧六をかけペグラーを国家反逆罪容疑操作させると決めます。 FBIは大統領夫人のプレッシャーを前にして、捜査すると約束せざるを得ず捜査の正当化(見かけ上だけでも)できる『事件』を待ちました。
そのキッカケとなったのは、1942年11月28日付けのコラムでした。 この日のコラムではペグラーは読者からの投稿を紹介しています。
投稿者はアンドリュー・ヘルチャ(Andrew Helcha Jr.)と言い、フィラデルフィアの洗車製造工場(BaldwinLocomotive社)の組立工でした。
同工場の組合は、様々な労働条件を経営側から引き出し、その結果工場の生産性が著しく落ちていた。
ヘルチャは、組合が『妨害』しなければもっと多くの戦車生産が可能であると訴えていた。 ペグラーは、投稿者の実名は明かしませんが、FBIの捜査でヘルチャからの訴えであることが判明しました。
いうまでもなく、組合は捜査に協力しました。 Baldwin Locomotive社は、元来は機関車製造の名門です。
明治期には少なくない数の同社製機関車が輸入され、愛知の明治村では九号蒸気機関車が今でも保存されています。
Baldwin Locomotive社の組合は、大手鉄鋼会社ユナイテッドスチール労組に加盟していました。
同労組は、ただちにヘルチャを貶める証言を収集しました。
彼の同僚行員7人から、「ルーズベルト大統領はユダヤの犬」「ヒトラーやムッソリーニの方がルーズベルトよいまし」といったルーズベルトの悪口をヘルチャから聞かされたとする証言を得ました。
しかし、 Baldwin Locomotive社組合幹部を含む他の同僚からヘルチャが親ナチス・親ムッソリーニではありえないとの反証が上がりました。
ッヘルチャにナチス・シンパのレッテルを貼りたいユナイテッド・スチール労組は、党機関紙『デイリーワーカー』紙に情報をリークし、「ペグラーは親ナチスの行員を使って軍事工場労働者を侮蔑した」とする記事を掲載させました。
同労組は、さらに加えて、ジョセフィーヌ・アダムスなる女性に意見書を書かせエレノアに届けさせました。
ジョセフィーヌの素性(役割)が明らかになったのは戦後しばらくしての事です。ここらが、日本人から見てアメリカの面白いところですが、
彼女は1956年1月16日、上院国内安全保障小委員会の場で自身が米国共産党アール・ブラウダーとルーズベルト大統領の連絡係を務めていたこと、彼女はホワイトハウスだけでなく私邸(ハイドパーク)にも招かれ計40回ほど、大統領あるいはエレノアと会ったと証言したのです。
1942年12月31日、エレノアはフーバーFBI長官に、ジョセフィーヌ作成の文書を見せました。 エレノアも「Dear Mr.Hoover」で始まる長官あての親書を書いています。
そこには、FBIはただちに、当該反米工作活動(ヘルチャの行為、ペグラーの言論活動)を調査すべきこと、長官への要請は夫(ルーズベルト大統領)の提案によるものであることなどが書かれ智ました。
ここまでされるたフーバー長官は,仕方なく直ちに捜査を開始。
ジョセフィーヌの知り合いの女性やBaldwin Locomotive社、組合幹部の聞き取り、ペグラーのコラムや『デイリーワーカー』の記事を入手し分析。 その上で年が明けた1943年1月6日にエレノアに報告しました。
「捜査は継続中ですが、これまでのところヘルチャが反米工作に関わっている事を示す事実は見つかっておりません」。
「ヘルチャは、Baldwin Locomotive社をすでに辞めていますが、その際の彼の言葉は、同社の戦車製造量が少なすぎる。その原因は組合の妨害(効率経営の妨害)だ、というものです」。
より多くの戦車を製造して対独戦争に資するべきというだと訴えるヘルチャが親ナチスである筈がありませんでした。
しかし、エレノアは承服しませんでした。更なるプレッシャーをFBIにかけました。
彼女はFBI報告書をジョセフィーヌに見せてもいます。 FBIはヘルチャを直接尋問せざるを得なくなりましたが、彼はルーズベルトは嫌いなことは認めましたが、親ナチスであるはずがないと笑いながら否定しました。
「僕はチェコスロバキアからの移民の子である。心底ドイツ人が嫌いである!」
エレノア、若きロシア人共産主義者、ジョセフ・ラッシュとの不倫現場盗聴される
エレノアは、1918年以降、夫(ルーズベルト大統領)とは仮面夫婦でした。
祖の原因が夫と自身の秘書との不倫で会ったせいか、その後はフェミニズムの女性闘士と交流を深め、更には女性ジャーナリスト(ロレーナ・ヒコック)とレズビアン関係となりました。
男へのルサンチマンがなせる業でありました。 1933年、大統領夫人に収まると多くの左翼思想の若者が彼女に近づきました(彼女からのアプローチした可能性も大)。
その一人に、ジョセフ・ラッシュ(米国青年共産主義者同盟書記長:ロシア系ユダヤ人)がいました。 エレノアは彼と愛人関係になります。 彼女は両性愛者だったのです。
1938年3月に5月に設置されたダイズ委員会は、翌1939年米国青年議会(AYC:American Youth Congress)の調査を開始しました。 この組織は米青年共産主義者同盟(Young Communist League)と密接な関係にありました。
彼らは複数の赤い学生組織のメンバーをワシントンに集結させ、暴力的に審議妨害を企てました。
下院委員会に大挙して押しかけ、ダイズ委員長は非難するビラを撒くなどしました。驚くべきことに、そうした若者グループの先頭にエレノアがいました。 衛視が彼らを制止できなかったのは、そのためです。
大統領夫人が左翼学生の暴力的示威行為に加担する前代未聞の光景でした。 同委員会で証言を求められた一人が、エレノアの愛人、ジョセフ・ラッシュでした。 ラッシュは1909年、ロシア系ユダヤ移民の二世として、ニューヨークに生まれました。
ニューヨーク市立大学、コロンビア大学で学びました。 学生時代から共産主義思想に傾倒し、1936年から米青年共産主義者同盟書記長になっています。
スペイン内戦では共和軍の加勢にスペインにわたるほどの絵にかいたようなスターリン崇拝者でした。 1938年頃には、米国でも知られていたスターリンの『血の静粛』にも動じず、ソビエト支持を貫きました。
スターリンと敵対したトロッキーに激しく反発し、「トロッキーは共産主義を脅かす梅毒である」とコキおろしました。
彼はダイズ委員会の証言では、委員を子馬鹿にした発言に終始し、不都合な質問には黙り込む典型的な「敵対的証人(Hostile witness )」でありました。
エレノアは,その『勇姿』に惹かれました。
エレノアは証人喚問の場にいましたが、ラッシュの奮闘に興奮し、後方の席から最前列に移ると委員長を睨みつけました」。
公聴会が終わると、二人は文通を始める仲になり、それは次第にエスカレートし性的関係に発展したのです。
日米戦争が始まると、ラッシュは海軍に志願しましたが不採用となりました。 エレノアは不採用の理由が「ラッシュはユダヤ人だから」だと思い込みます。 ダイズ委員会に召喚されたのもそれが理由と疑いました。
FBIは、ラッシュの左翼活動を警戒していました。 同様に陸軍防諜部(Counter Inteligence Corps of G-2)も監視しました。防諜部から報告を受けファイルしていました。
FBIは、大量に残されたファイル(およそ7000)は情報公開法に基づき1983年に公開されました。 ワシントンポスト紙によれば、公開請求者はマルケット大学(ミルウォーキー)のエイタン・テオハリス(歴史学)です。
まだ、プライバシー保護などの理由ですべてが公開されているわけではありません。ファイル1000P相当が未公開です。
ラッシュは海軍不採用後、陸軍に採用されました。 前線には出ない気象観測部門への配属でした。 おそらく大統領夫人エレノアの力でしょう。 愛人を戦死させたくないからです。
フ:ーバーFBI長官は、赤いファーストレディの居座る大統領府にその愛人の監視報告書を提出するほど、やわではありませんでした。 報告はフーバー長官の私的ファイルに保管されました。
同ファイルにある陸軍防諜部の1943年3月6日、および7日付け報告書は、エノレアとラッシュが肉体関係にあることをはっきりと示していました。 医科がその内容です(一部省略)。 まるで、現代の浮気調査レポートです。
調査報告書(Confidential)
・調査開始地:イリノイ州者ムート陸軍基地
・報告日:1943年3月6日
・ファイル番号:ジョセフ・P・ラッシュ#201
・捜査対象者:ジョセフ・P・ラッシュ
・住所:イリノイ州者ムート陸軍基地(この頃、ラッシュは者ムート陸軍基地で気象観測の訓練を受けていました)
本官は、1943年3月5日午後6時に対象(ラッシュ)に対する行動監視を開始した。
監視はシャムート基地を起点とし、その後の行動を記録するものである。
シャムート基地での気象予報講座は午後6時35分終了。 (中略)午後7時、ラッシュは兵舎を出て同基地西ゲートに到着(7時10分)。 大きめの茶封筒(25cmx38cm)を手にしていた。 講座で使う器具などを入れる封筒と同じタイプのものである。
門衛に身分証明書を提示し、基地を出ると、通りを渡りバスを待った。 正門近くで(尾行のために)待機しているアーク調査員に連絡。対象はその後バスを待ったが、やってきたバスはいずれも満員で乗ることはできなかった(7時05分)。 対象はその後バスを待ったが、やって来たバスはいずれも満員で乗ることはできなかった(7時25分)。 対象は苛立った様子で通りを往ったり来たりしていたが、7時37分、基地正門にランタウル(基地近くの町、シカゴの南およそ200km)のタクシーが乗客を降ろすのを見ると、小走りで同タクシーをつかまえた。行先はランタウルのバスターミナルだった。
7時50分、対象はシャンペーン(ランタウルの南およそ30kmの町)行のバスに乗った。 8時25分、バスはアーバナ(シャンペーン近郊)の町に入り、対象はアーバナ・リンカーンホテルのある一区間前で下車。 同ホテルに徒歩で向かった。
・報告日:1943年3月7日
・ファイル番号:ジョセフ・P・ラッシュ#201
・聴取対象者:情報提供者
本官は信用できる情報提供者(以下提供者とする)から1943年3月5、6、7日にわたって聞き取り調査をイリノイ州アーバナで実施。 聴取情報は、共産主義者(組織)との関係が深い対象(ラッシュ)の行動に関わる者である。
提供者によれば、フランクリン・ルーズベルト大統領夫人(以下夫人とする)は、アーバナ・リンカーンホテルに1943年3月5日午前11時45分にチェックインした。 (私設秘書の)マルヴィーナ・トンプソンを連れていた。 夫人は、同ホテル滞在は秘密にしたいこと、シャムート基地所属の若い友人がやってくる友人用とし、夫人は332号室に入った。 両部屋ともツインベッド二つがあり、両部屋は(室内のドアの鍵は必要に応じて開錠でき)連結できる。
提供者によれば、夫人は三人分のルームサ-ビスを注文、8時半頃に332号室に運ぶよう指示した。 ラッシュが到着すると、クロークに預けてあったと思われるトンプソンの鞄類は夫人の部屋332号室に運ばれた。
提供者によれば、翌6日、夫人と対象はホテル内のレストランで昼食を取った以外は全日部屋に籠ったままであった。
提供者によれば、翌朝(3月7日)7時35分に夫人はチェックアウトした。その数分前に対象はホテルを出ている。
なお、3月6日はラッシュの全日非番の日であった。 また、夫人の手紙を参考資料として添付したが、そこには夫人が3月5日にシャンペーンの町にいると記されている。(後略)
大統領の怒り
(中略)後で書きます。
・・・・
資料の中にホテルに仕掛けた盗聴器による録音記録があった。 それは夫人とラッシュの間に性行為があったことを示していた。 を大統領は聞き終わると、ホワイトハウスに住む夫人を会儀室に呼んだ。
夫人は証拠の録音を突きつけられた。 その後、二人の間で激しい口論が起きた。
翌朝5時頃、大統領はアーノルド将軍(陸軍航空司令官)を呼び出した。大統領は将軍に対して、ラッシュを10時間以内に、国外に赴任させるか、前線に出すよう命じた。
更にこの事を知る関係者すべてをその任から外し、南太平洋戦線に遣り、JAP(日本軍)にやられるまで戦わせろと命じました。
ビッセル大佐は、この事実を知る関係者は全員ホワイトハウスのブラックリストに載ったままになるだろうと語りました。
実際、大統領は全ての関係者を南太平洋に送り戦死させたかったらしい。 しかし、それは叶いませんでした。 事実を知る者が余りに多かったからです。
ビッセル大佐については、ワトソン将軍が擁護しました。 「ビッセルがこのことで口を滑らすことはない」と助け船を出したようです。
1938年、ラッシュに関わるFBIファイルが公開されました。『ワシントンポスト』はそれをベースにした記事を掲載しました(1938年12月12日付)。
それによれば、この事件の数週間後、ラッシュは確かに南太平洋の全線赴任が命じられ、フォート・ホラバード(Fort Holabird、バルチモア市メリーランド州)に本部があった陸軍防諜部は解散となりました。