人はなぜ人に進化できたのか。その謎が遺伝子から読み解けるかもしれない。数百種の動物のDNAを解読する壮大な研究から、人だけで「脱字」のように欠けているDNA配列が1万カ所以上見つかった。「人は失って得たもので進化した」という仮説が浮かび上がっている。
4月、小さなコウモリから巨大なクジラまで240種の哺乳類のゲノム(全遺伝情報)を解読して分析したプロジェクト「ズーノミア」の11本の論文が米科学誌サイエンスに一挙に掲載された。哺乳類の進化の謎を解き明かそうとする国際研究の第1弾だ。
ゲノムという「生命の設計図」が書き込まれたDNAに、その秘密は刻まれている。DNAには塩基が対になって並ぶ。ヒトゲノムの場合、全長は約30億塩基対にもなる。
哺乳類の中で人はユニークな存在だろう。直立二足歩行し、大きく発達した脳を持つ。言語や道具を巧みに操り、文明を築いた。進化論を唱えたダーウィンが見抜いたとおり、人はサルから進化した。
こうした人の特徴がどうして生じたのかは人のDNAだけを調べてもよく分からない。研究に参加した米ジャクソン研究所の毛利亘輔研究員は「多くの動物のゲノムが分かったことで詳細な比較が可能になった」と話す。
米ブロード研究所などの研究グループは動物と人のゲノムを比較し、人だけで失われているDNA配列に注目した。他の動物にはあり、人だけで欠けた配列は1万カ所以上あった。
なぜ人にはこうした脱字があるのだろうか。「多くの動物に共通して残る配列には何らかの役割があるはずだ」と進化学では考える。そして人が失ったのは、人にとって大事ではないか、現状維持よりも良い変化になったのかもしれないと仮説を立てる。
脱字の影響は意外なものだった。失った配列の大半は遺伝子の働きを調節する部分にあった。細胞実験で調べると、そのうちの800カ所では遺伝子の働き方が変わっていた。遺伝子の働き具合を抑える「ブレーキ」が弱まるか、「アクセル」が強まって遺伝子の働きが活発になるパターンが4割を占める。DNAが欠けても遺伝子の働きを損なうとは限らず、逆に活発になることもあるわけだ。
人の特徴である脳の発達につながりそうなものもあった。働き具合が変化した遺伝子には脳や神経に関係するものが多い。一つ一つの脱字による変化は小さいかもしれないが「何百という蓄積が大事なのだろう」(毛利研究員)。
もちろんDNAの変異も人の進化に影響したはずだ。ズーノミアでは、人だけで変異が蓄積した例も調べた。DNAの「ヒト加速領域(HAR)」と呼ばれる部分は、人以外の動物では同じなのに、人だけで多数の変異がある。神経関連の遺伝子の働き方を調節するものが多く、進化との関連を期待させている。
20年近く前にHARを発見した米カリフォルニア大学サンフランシスコ校のケイティ・ポラード教授らが今回、哺乳類と人のDNAを比較すると、約300カ所のHARが見つかった。人とチンパンジーでDNAの形が異なる部分にHARの3割があった。
DNAの形が変わるだけで遺伝子の働きに影響する場合がある。例えばチンパンジーで遺伝子Aを調節する配列が、人では遺伝子AとBの両方を調節するようになる。人で遺伝子Bの働き方が大きく変わることで、進化が急速に進んだのかもしれない。研究に参加した京都大学の井上詞貴特定准教授は「HARは脳の発達などに関係する可能性がある」と語る。
様々な霊長類のゲノム解読も進む(左からボルネオオランウータン、チンパンジー、アビシニアコロブス)
=北海道大学の早川卓志助教撮影
進化の謎を解くには、人やサルの仲間である霊長類の違いを探ることが欠かせない。北海道大学の早川卓志助教が参加した「霊長類ゲノムプロジェクト」では27種のサルのゲノムを新たに詳細に解読し、人を含む計50種を比較分析した。「行動や生態の野外調査だけではサルのことは分からない。ゲノム研究との融合が重要になる」(早川助教)
ヒトゲノムの解読から20年。解析費用は劇的に下がり、データの分析や実験手法も進歩している。進化の謎に迫る発見はこれからも続きそうだ。(越川智瑛)
ゲノム解読
ヒトゲノム計画は米国主導で1990年に始まり、2003年に解読された。当時のヒトゲノム解読費用は約4000万ドルだったが、現在は1000ドル以下にまで下がった。10年にはネアンデルタール人のゲノムが解読され、太古のゲノムを研究する「古代ゲノム学」も発展している。