風に吹かれて旅ごころ

はんなり旅を楽しむはずが、気づけばいつも珍道中。

2012-11 福井・いにしえのドラマ index

2012-11-05 | 中部(北陸)


◇ 1st day 一乗谷朝倉遺跡
初めて訪れた福井。おとずれた一乗谷は、あさくら祭りでにぎわっていました。
戦国時代の遺構を元にした復元町並の保存のよさ。
ちょうどラリーニッポンの訪問地となっており、クラシックカーが会場に華を添えていました。



◇ 2nd day 平泉寺白山神社
戦国時代の復元膳をいただいてから、白山神社に連れて行っていただきました。
苔むした古めかしい参道に、往時が偲ばれます。
個人が建てたという勝山城博物館にびっくり。



◇ 3rd day 恐竜博物館
福井は知る人ぞ知る恐竜王国。
恐竜博物館にも連れて行っていただきました。
とってもおもしろくてためになる場所で、子供は一日中夢中で過ごしそう。
日帰りの強行軍でしたが、実り多い旅で、すっかり福井が好きになりました。


2012-11 福井いにしえのドラマ1-3

2012-11-04 | 中部(北陸)
1-2からの続きです。

○ 恐竜博物館
○ 北ノ庄城址(柴田神社)
○ 毛谷黒龍神社と西光寺
○ 足羽川の幸橋・桜橋
○ AOSSA
○ epilogue


○ 恐竜博物館

白山神社の参拝後、勝山にある恐竜博物館にも連れて行っていただきました。
その道の人(?)には、絶大な人気がある、恐竜博物館。
遠景が、森に落ちた銀色の巨大な卵のようで、見るからに目を引きます。



建築設計は黒川紀章。え~、天下の黒川氏ですか!
勝山城といい、恐竜博物館といい、勝山にはビックリな建物が多いんですね。



越前和紙で造られたという恐竜がいました。
特殊加工をしているため、雨にぬれても平気なんだそうです。



山をどんどん登って、到着したのは広大な敷地。
恐竜の口の中に子供たちが入って遊んでいて、ギョッとします。
至るところ、恐竜のオブジェがあります。ファンにはたまらないでしょう。



建物の中も、とても近未来的。シンメトリーのモダンな建築デザインに、目を奪われます。
さすがは紀章デザイン。
「恐竜の肋骨なのでは?」と写真を見た人に言われました。なるほど!





中はまさに、ジュラシックパークのよう。ダイナミック・ダイナソー!
等身大の恐竜が「キェーッ!」と叫びながら、こちらに首を伸ばし、グワッと大口を開けて威嚇、いえ歓迎してくれ、心臓バクバク。





迫力ありすぎて、こわーい。子供だったら泣いちゃいそう。
でも、館内の子供たちはみんな、キャッキャッと嬉しそうにはしゃいでいました。
家族連れに大人気のスポットのようです。ホネホネロック~。





数え切れないくらいの恐竜の全身骨格が陳列されており、広い館内の天井にも届きそうなほど。
どれも、度肝を抜くほどビッグ。自分との大きさを直接比較して、(ああ、これは助からないな)と、ジュラ紀に生まれなかったことを感謝しました。
(人間はまだ出現していないけど)



生きているように動くディノが何頭もいます。それを上から眺めることもできます。
恐竜を見下ろすなんて、映像でも見たことがなくて、新鮮。





六本木ヒルズで、夏に恐竜展が行われた時、すごい人混みだったと聞いています。
ここは県立で入場料500円とは思えない充実度と満足感。



展示室は、国内最大級の4500㎡。ここに通い詰めたら、まちがいなく恐竜博士になれますね。
これは、アンモナイトが作った道の化石。芸術です。



「ここは職員希望者が多いでしょうね」と言ったら、「立ち上げ時に職員を募集したら、高倍率になりました」とのこと。
日本では、恐竜学という学問が確立していないため、アメリカの大学で単位を取った人が応募してくるそうです。
狭き門ですね。



ゾウやシカの祖先となる恐竜骨格には驚きましたが、巨大なカメの恐竜には度肝を抜かれました。
だって、ありえないほど大きいんですもの。「ありえないっっ!」と何度も叫んでしまいました。
これなら、浦島太郎だけでなく、浦島一族全員が乗れそうです。



勝山で発掘された恐竜の骨格と復元模型も、展示されていました。
フクイティタン、フクイサウルス、フクイラプトルなど。
世界的にフクイの名前が広がりますね。
恐竜はもちろんのこと、古代の化石や岩石まで標本陳列して、つぶさに解説されています。



実は『ジュラシックパーク』『ザ・ロストワールド』のあまりの恐さに、恐竜に恐怖心を抱くようになっていた私。
でも、ここはとてもおもしろかったし、興味をかき立てられました。
これは、恐竜ファンではなくても、近くにあったら何度でも通いたくなりますね。
福井は恐竜王国!横浜にもできればいいのに。(恐竜は発見された…?)

○ 北ノ庄城址(柴田神社)

夕方になり、日が陰り始めています。
福井に戻り、最後に北ノ庄城址に連れて行っていただきました。



ここは戦国武将柴田勝家の居城で、7層の安土城よりも多い、9層の、日本最大級の豪壮な天守閣だったそうです。
勝家は、越前一向一揆を殲滅した功で、織田信長からこの城を与えられました。
滅びた朝倉家の居城、山間の一乗谷よりも便のよい北ノ庄に城を築き、この城から福井の地名はかつて北ノ庄と言われたそうです。

勝家は信長の後継者として羽柴秀吉と対立し、賤ヶ岳の戦い(1583)に敗れて、妻お市の方と共に城に火を放って自害しました。
敷地内には、勝家、お市の方、浅井三姉妹の銅像があり、勝家を祀った柴田神社もあります。
照明が暗いですが、三姉妹の右には勝家、左にはお市の像が見えます。



勝家時代と推定される石垣の一部が保存されていました。



また、九十九橋の一部が保存されていました。
足羽川に架けられた九十九橋を、柴田勝家は半石半木にしたそうです。
敵が攻めてきたときに、木の方を壊して、渡らせないようにするためだとか。
今でもそうだとおもしろいのですが、さすがに現在の交通にはコンクリでないと耐えられないのでしょう。



福井駅前で、ワタナベさんと解散しました。
今回は、県の担当の方に休日返上で、つきっきりのマンツーマンガイドをして頂いた形になります。
聞けば何でも答えてもらえるというありがたい状況で、プロの方にいろいろと教えていただき、たった1日滞在とは思えないほど、福井について詳しくなった気がします。
ワタナベさん、ミタケさん、本当にどうもありがとうございました。

○ 毛谷黒龍神社、西光寺

一人になり、帰り時間までまだ間が合ったので、川の方を散策してみることにしました。
毛谷黒龍(けや くろたつ)神社が気になっていたので、向かってみます。
ここは平安時代、京を中心に、東に常陸鹿島大明神、西に安芸厳島大明神、南に紀伊熊野大明神、北に越前黒龍大明神を配して、国土の守護を祈念された、日本古来の四大明神の一社。
ほかの三社、鹿島、厳島、熊野は参拝済みのため、ぜひともここをお参りしたかったのです。
思ったよりもずいぶん小さな社でしたが、幽玄な雰囲気に包まれていました。



それから、柴田勝家の菩提寺である西光寺を訪ね、勝家のお墓をお参りしました。

○ 足羽川 幸橋、桜橋

福井市内を流れる足羽(あすわ)川沿いは、日本一の桜並木として知られるとのこと。
桜の季節ではない上、もう夜になっていましたが、橋はライトアップされて明るい界隈だったため、幸橋から桜橋まで散策しました。
ほかにもそぞろ歩きをしている人々がおり、市民の憩いの場となっているようです。





遊歩道を歩いている途中、かわいい黒猫が寄ってきました。
今では、川の守り神は、黒龍じゃなくて黒猫なのかしら。それとも龍が猫に姿を変えているのかしら。
あとから何匹も兄弟がやってきて、一緒にゆっくり川沿いを散歩しました。

  


○ AOSSA

帰り際に見た、ガラス張りの建物は、AOSSA(アオッサ=会おう)という商業施設です。



(青森の「アウガ=会うが」に似てるなあ)と思ったら、まさにアウガをモデルにしたものなんだとか。
中には大きなクリスマスツリーが飾られていました。

○ epilogue

今回は、自分でもびっくりの弾丸ツアーとなりましたが、十分実り多い一日でした。
考えてみれば、一乗谷朝倉遺跡、平泉寺白山神社、恐竜博物館、北ノ庄城址と、全て歴史の中に埋もれた場所ばかりを案内していただいたことになります。
「福井にあるものは、みんな埋まっていて、現存しているものが少なくて」とワタナベさんは言われましたが、その分まだ見ぬものを発掘するというロマンがあります。
歴史の浅い横浜人からすれば、たとえ敗北の歴史であっても、ゆかりの史跡があるのはうらやましいものです。

旅行前に、ミタケさんからいただいたメールに「せっかくのご来福なので」という表現がありました。
福井に来ることを「ご来福」というなんて、とっても雅だなあと、うっとりしました。
(福島もそうですね)
でも神奈川は「ご来神」とは言わないんですね。何のことか分からなくなりそうですもんね。
あっ、「ご来福」と「ご来神」って、なんだか縁起がいいですね。

そんなことまで考えてしまう、満足のいく歴史の旅でした。
さあ、蘭麝酒をいただきながら、思い出に浸ろうかな。

2012-11 福井いにしえのドラマ1-2

2012-11-04 | 中部(北陸)
1-1からの続きです。

○ 一乗ふるさと交流館で昼食~朝倉膳
○ メンバー挨拶
○ 復元城下町と蘭麝酒
○ 平泉寺白山神社
○ 勝山城(と越前大仏)


○ 一乗ふるさと交流館 昼食~朝倉膳

ふるさと交流館でお座敷に通されると、すでに今回の参加者たちが勢ぞろいしていました。
お膳には見慣れない料理が並んでおり、料理人の方に一つ一つ説明していただきました。



朝倉家が将軍に献上したものを簡素に、そして現代風味付けにアレンジしたものだそうですが、13品もあってとっても豪華。
天ぷらは、今風につけられたとのことです。
「呉汁」というのは、丸大豆で作った、一乗地区の料理だそうです。



私は「ごまころ」がとても気に入りました。
里芋に、細かくすったペースト状の黒ゴマをつけたものです。
一つのおイモに5gものゴマがついているとのことで、栄養価たっぷり。
家でも食べたいわ。



「福井では、水ようかんは冬に、こたつの中で食べるものです」と言われて、ハッと思い出しました。
そういえば、『秘密のケンミンSHOW』でも取り挙げられて、(うそでしょ~)と思って見ていました。
本当なんですね!
こちらでは、夏には食べないんだそうです。なぜなのー?不思議よー。
福井の水ようかんは、薄味で、つるっとのどごしいいものでした。

○ メンバー挨拶

食後に、メンバーの自己紹介をしました。
主催者側3名のほか、今回招待を受けたブロガー7名は、私以外、なんと全員福井の人でした。
ふくいブランド大使の人が多く、Facebookのフォロワーが4000人いる人など、選ばれし県民のようです。
アレ、私は…うっかり飛び込んじゃった感じ?

そのためか、ワタナベさんにマンツーマンでガイドをしていただくという、とても丁重な待遇を受けています。



これまで福井出身の人にほとんど会ったことがないため、私以外全員福井人というシチュエーションがとっても新鮮。
みんなが話す県内の地名がわからず、ちんぷんかんぷん。
私が「神奈川出身です」と言ったら、「金沢?」と聞き返されました。
お隣の県じゃありませーん(笑)!

○ 復元城下町・蘭麝酒

食後は再び復元城下町に向かい、いったん自由行動となりました。
改めて見学し直します。
染物屋の暖簾がかかった家の中に入ると、染料を入れた大甕がいくつも置いてありました。





「戦国あさくら市」ということで、通りには市がたくさん並んでいます。
売り子さんがみんな、当時の格好をしており、雰囲気たっぷり。







さらにここでは「円」ではなく、当時の通貨の「文」でお買い物をします。
本当にタイムスリップした気分。



市場を散策していたら、一乗谷のお酒、蘭麝酒(らんじゃしゅ)を見つけました。
朝倉氏一門の健康維持のために造られ続けてれた健康酒だそうです。
名前もなんだか秘密めいているし、朝倉家ゆかりのお酒なら、買ってみようっと。
「よっ、お菊はん、この銭で売ってくれぇな」「あいよっ」という感じに、入手しました。



冷え性にいいらしいので、この冬はこれで乗り越えられそう。

○ 平泉寺白山神社

その後、ワタナベさんに平泉寺白山神社に連れて行っていただけることになりました。
今回、私が個人的に永平寺や平泉寺白山神社に行く時間はあるかと質問したところ、「個人では交通の便が悪く難しいから」と、便宜を図っていただいたのです。
ほかの地元メンバーにとっては見知った場所なので、私一人。恐縮の至りです。
永平寺は入山時間が限られているので、また次の機会に。

九頭竜川に沿って、勝山市まで向かいます。橋を渡る際、すぐ横にダムがありました。下荒井ダムでした。



平泉寺白山神社は、朝倉氏との関係も深いため、セットで見学することをお勧めしたいというお計らいです。
一乗谷の戦いの時に、早々に谷を脱出した朝倉義景はこのお寺に逃げ込みましたが、裏切られて自刃に追い込まれました。

白山神社は、西暦720年頃に、泰澄(たいちょう)大師が創建した古社で、平泉寺はその別当寺です。
室町時代には、48社・36堂・6千坊を数えという巨大な宗教都市となり、恐るべき僧兵8千人の力を有していたとのこと。
それでも、朝倉家滅亡の1年後に、一向一揆により壊滅したそうです。

6千坊って!!善光寺にもたくさんの坊がありますが、それでも数十戸でしょう。
どれだけすごい数だったのか、考えるだけでめまいがしそう。

壊滅後、江戸時代に少し復興し、明治時代の神仏分離で寺から白山神社となったそうです。
平泉、と聞くと、どうしても中尊寺の方を連想しますが、今では平泉寺とは、地名のみが残っているとのこと。
神主さんは平泉さんというお名前だそうで、由緒の正しさを感じます。



資料館でひとしきりの説明を受けた後、お参りに上がります。
敷地内に入るまでに、かなり杉林の中の坂道を上がっていきましたが、社殿はさらに上にある様子。





苔むした石段の両脇には、青々としたみごとな苔の絨毯が広がり、脚の疲れを忘れます。
うっそうとした杉林から漏れる日光を浴びて、キラキラと輝く芝生。気持ちよさそう。
境内の苔は、京都の西芳寺と比類するほど有名なんだとか。





静寂が広がる、幽玄な雰囲気。ここでは七五三や結婚式は行われないそうです。
拝殿は、かつては三十三間拝殿と言われる国内最大のだったそうですが、兵火で焼失し、今は風雨にさらされた小ぶりの木造社殿でした。



見渡す限りの杉木立に囲まれ、満ち満ちた自然のパワーを感じます。
拝殿奥の寛政年間建立の本殿に参拝し、竜の木造彫刻の躍動感に目を奪われました。





石畳道を踏みしめながら歩きます。この石畳もすべて発掘されたものだそう。
プリミティブな自然に捧げる、人々の信仰の力を思います。



途方もない手間と年月がかかっていますが、その道の人にとってはワクワクする作業でしょう。
それにしても今回は足場の悪いところを歩くことが多く、(スニーカーでよかった)と思いました。



南谷の発掘現場は、休日ということもあり、無人ながらも作業途中の現場が見られました。
土塀と門が近々復元されるようです。



朽ち果ててなお自然に抱かれた幽玄な雰囲気に、京都の高山寺を連想しました。
あそこのように、ここも世界遺産に認定されればよいのですが。
ところで、福井の名所、東尋坊は、悪僧東尋坊を突き落とした場所ですが、彼はここの僧だったそうです。
手に負えない僧兵の中でも、どうしようもなかった悪玉で、もう、酔わせて突き落とすしかなかったんでしょうね。

お土産屋さんは天井に驚くほど太い梁の渡った、立派な古民家でした。



店先には、色鮮やかな唐辛子が干してありました。



「この辺りの家々に特徴的なのが、あのように白壁に桟を入れた建築です」と教えてもらいました。
たしかに、この界隈には昔ながらの大きな家々が立ち並び、あちこちでこうした壁を見かけます。



イギリス・チューダー様式の建築に似てるなあと思いました。
こんなおうちが故郷の実家だったら、すてきだわあ。

○ 勝山城・(越前大仏)



帰りに、巨大なお城を見つけました。
「あれは、地元のタクシー会社の社長が、故郷に錦を飾ろうと、私費で建てたものです」
「その話なら知っています。越前大仏を建立した人ですね?」
「そう、お寺は向こうの山麓に見えます」



お城もお寺も、目を引く巨大なものでした。
これはすごいわー。でも、見るからに、新しい出来合いさが感じられます。
ワタナベさんは「地元の人にはちょっと評判は…」と、あまり話題にしたくなさそうでした。
その気持ち、わかりますが、これはこれで話題スポット。
少なくとも創建中は、地元の雇用は潤ったわけですからね。

奈良の大仏よりも巨大な、日本最大17mの越前大仏は、お堂に入っていて、外からは見られませんでした。
ちょっと残念ー。

1-3へ続きます。

2012-11 福井いにしえのドラマ1-1

2012-11-04 | 中部(北陸)
○ prologue
○ 小松駅
○ 福井城址(福の井)
○ 一乗谷朝倉遺跡
  ・復元町並
  ・越前朝倉将棋
  ・ジオラマ
  ・橋飾り
○ ラリーニッポン2012
  ・瓜割清水
  ・朝倉館跡
  ・唐門
  ・湯殿跡庭園
  ・諏訪館跡庭園
  ・上城戸と下城戸
○ 朝倉義景、そして越前から見る戦国武将


○ prologue

福井県の一乗谷朝倉遺跡で行われる「戦国あさくら市」にご招待いただき、日曜日に行って参りました。
(片山津温泉に行ったことがあるから福井は二度目~)と思ったら、片山津は石川県でしたね。
つまり、福井を訪れるのはこれが初めてです。

知らせを受けたのが直前だったため、弾丸日帰り旅行になりました。
横浜から北陸って、なかなか行きづらいものですね。
新幹線だと、京都や滋賀から北上する形になります。
うーん、北陸って遠いんだわ。

○ 小松駅

今回は、小松から北陸入りしました。
「空港と駅は少し距離があって、駅にはなにもないよ」と言われていた通り、なにもない駅でした。
(それでも、なにかはあるでしょう)と、駅前を散策してみたところ、弁慶の銅像が。
隣にいるのは、義経ではなく、富樫でした。男と男の間に、張り詰める緊張感。
ここは安宅の関にほど近い場所なのです。



ホームからは、巨大なブルドーザーが見えました。「こまつの杜」と書いてあります。
隣には、KOMATSUと書かれたビルがあります。
ん?小松製作所のこと?本社はここなのかしら?
後で調べてみたら、現本社は赤坂ですが、発祥の地はここ小松で、企業城下町になっているそうです。



○ 福井城址(福の井)

そこから特急で福井まで30分。待ち合わせの時間まで少しあったため、車窓から見えた福井城址に向かいました。
ここは家康の次男で初代福井藩主の結城秀康が築城し、石垣とお堀のみ現存しています。





石垣内の本丸跡には県庁と県会議事堂、県警がありました。
金沢城址内にはかつて金沢大学が置かれていたのは知っていますが、福井県庁がお堀の中にあることは、知りませんでした。
職員は、気持ちがいいでしょうね。テロが起きても籠城できるし(!?)



天守台の遺構のそばには「福の井」という井戸が残っていました。
「福井」の語源の由来だという説があるということで、来てみたかったのです。
思ったよりも大きな井戸で、覗くと水が見えました。



○ 一乗谷朝倉遺跡

駅前で、県のご担当者ワタナベさんとお会いし、会場へと向かいました。
softbankのCMですっかりおなじみの一乗谷は、戦国時代には朝倉家の拠点であり、熾烈な戦いが行われた場所。
名門朝倉家は初代孝景から5代義景までの100年にわたって一乗谷で栄え、城下町も人口1万人に上る大きなものでしたが、1573年の織田信長との一乗谷の戦いで、滅び去りました。

その後は長らく水田や畑地に使われていましたが、遺跡の発掘調査が進められ、今では四百年前の戦国城下町が復元されるに至っています。
ここは、国の三重指定(特別史跡・特別名勝・重要文化財)を受けた場所で、そんな場所はほかに京都の金閣寺、銀閣寺、醍醐寺三宝院、広島の厳島神社の4箇所しかないそうです。

地図で見ると、一乗谷は高い山々で囲まれた長細い地形で、まさに自然の要塞といったところ。
地の利を得て、朝倉家が発展したことが伺えます。
278ヘクタールという広大な面積で、じっくり見ると一日がかりになりそう。

・ 復元町並

復元町並は「戦国あさくら市」のメイン会場。当時の衣装姿の人々であふれ、一気に時代をさかのぼった気分になりました。



ここで、今回のご担当のミタケさんにお会いしました。町娘の格好でご挨拶していただいたため、なんだかタイムスクープハンターになったような、不思議な気分です。
柱に大工がつけた模様や、染物屋の大甕、茶室などがきちんと再現されていました。
町人の町屋と通りを隔てた大規模な武家屋敷の対比もなされています。



これらは、発掘された石垣や礎石を使用しているとのことです。とってもリアル。

・越前朝倉将棋

ワタナベさんに「将棋の駒も出土されました」と教えていただき、陳列されている大駒を見ます。



「酔象(すいぞう)って、聞いたことありませんが」
「今の将棋にはないですね」
「どうして無くなったんでしょう?」
「それがあると、いつまでも勝負がつかないからだそうです」
なるほど、それは困りものの駒ですね。

・ジオラマ

遺跡のジオラマがありました。建物がびっしりで、繁栄のほどがうかがえます。



まだ発掘復元中の箇所も多く、井戸の跡がたくさん出ているのが印象的でした。
一乗川にほど近い場所にありながら、それぞれの家一戸一戸に水を引いているというところに、生活水準の高さを感じます。
瓦が出土されなかったため、木の屋根に石を置いていたと推測されるそうです。



復元町並みを上からのぞくと、とても風情があります。
時代劇にも使われそうですね。



今は、すぐ横の道路を車が通っていますが、ゆくゆくはマイカーを規制して、遺跡内部には低公害バスのみを通すというパークアンドライド案も出ているそうです。
さらに、道路沿いの電柱をすべて地中化するという計画もあるとのこと。
そうなると、一層昔の風情が蘇ることでしょう。

・橋飾り

一乗川に架かる橋は、どれも橋下に木の飾りがついています。



「これも当時の雰囲気を出しているんですね」と言ったら、「実はあれで、橋の下を通っている水道管などを隠しているんです」と教えてくれました。
なるほどー。景観を損なわない、グッドアイデアです。

○ ラリーニッポン2012

ちょうどこの日は、クラシックカーラリーイベントが行われており、朝倉遺跡が立ち寄り場所になっていました。



福井駅前でも何台か見かけて(おや?こちらの人はずいぶんレトロな車に乗るんだなあ)と思ったら、彼らは前日、京都の上賀茂神社をスタートして、ここで昼食休憩を取り、岐阜へと向かうそうです。
ここは2012ポスター撮影の場所になった、今年の代表ポイント。唐門前の車はランボルギーニ・ミウラ。



ピカピカに磨かれたクラシックカーと渋い一乗谷は、しっくり合っていました。
6日、靖国神社でゴール予定だとか。イギリス紳士のようで、優雅だわー。
ファンがたくさん集まって、勢ぞろいした80台をファインダーに収めていました。



ラリーニッポン2012 DAY2

・瓜割清水

ラリー会場の奥には、瓜割清水がありました。
こちらには誰も人がいません。
底まで見える透き通った水が古来より湧き出ている場所。



「瓜割って地名ですか?」と聞いたら、「瓜が割れるほど冷たい、という意味です」と教えてもらいました。
「瓜割の滝とかありますよね」・・・知りませんでした。
「本当に瓜って冷たいと割れるんでしょうか?」
この問いには、ワタナベさんもわからないそうです。

あとで調べてみたら、瓜割の滝は、若狭の天徳寺にあるそうです。
瓜割の湯という銭湯も福井県内にあるようだし、瓜割と名のつくものは、福井に集まっているのかもしれません。

・朝倉館跡

それから、石段を登り始めました。



どんどん山道を上がっていくため、(も、もしや、これから一乗城に向かうのかしら?けっこう高い山城と聞いているけど)と思ったら、途中で上り道からそれました。



案内されたのは、朝倉館を上から見渡せる場所でした。
朝倉義景の屋敷で、今残っているのは遺構のみですが、それでもかなり広いことがわかります(1900坪)。



朝倉義景は戦に向かないものの、文化人で、将軍足利義昭の滞在のために、裏山を削って屋敷を増築し、能舞台などを造ったそうです。
敷地内からは16棟の建物跡が発掘され、将軍の元服式も行われたとのこと。

・唐門

今では朝倉氏遺跡のシンボルとなっているこの唐門。



朝倉館跡の入り口に立っていますが、朝倉館の門ではなく、朝倉氏が滅んだ後に菩提寺として建ったお寺のものだそう。
江戸時代のものですが、苔むしており、十分古めかしさを醸し出しています。



そういえば、CMでお父さん犬がこの門の前をダッシュしていましたね。



・湯殿跡庭園

ここは、義景の母親の屋敷があったとされているそうです。
池の石の大きさに驚きます。



亀石、鶴石などと縁起のいい名前で呼ばれる石もあり、故岡本太郎氏がひどく気に入って、数時間この石の前から動かなかったそうです。
インスピレーションを感じたんでしょう。名前はこの庭園そばに湯殿があったからだとか。

・諏訪館跡庭園

朝倉館跡の隣の湯殿跡庭園のさらに隣に、諏訪館跡庭園がありました。
ここには義景の側室、小少将の屋敷があったと聞いて、「なるほど、やっぱり側室よりは母親の屋敷を身近に建てたんですね」と言ったら、
「でも義景は、戦の意欲がなく側室にべったりだったんです。しかも小少将も魔性の女だったようで」とワタナベさん。
「うーん、楊貴妃みたいですね」





先ほどの湯殿跡庭園は、ダイナミックな巨石の配置が印象的ですが、この庭園は、優美さを感じます。
池泉回遊式庭園で、ぐるっと周ってみました。
私は岡本氏とは違って、こちらの方が好みだわ。

・上城戸と下城戸

この前のCMでトミー・リー・ジョーンズが歩いたという道を教えてもらいました。
滝のシーンは、佐々木小次郎がつばめ返しを考案した一乗滝だそうです。
小次郎は、山を二つ越えたところにある家から、一乗谷の師範、冨田勢源の道場へ通っていたそうです。タフね!



発掘途中の場所を見学しながら、上城戸跡の土塁を通ります。
朝倉遺跡は一乗谷の上城戸と下城戸で区切られ、そこが玄関口となっていました。
今の入り口は、一乗谷側が注ぐ足羽川川ですが、そちらは下城戸。
下城戸の方が、メインの入り口なのに、なぜ山側の上城戸が正面玄関とされるのかと聞くと、「こちら側の方が京都に近いから」だそうです。
なるほどー。
当時は、応仁の乱の戦火から逃げてきた貴族たちから、一乗谷に雅な文化が導入されたとのことです。

○ 朝倉義景、そして越前から見る戦国武将

浅井長政が好きな私。「なぜ長政は最後まで朝倉義景を見棄てなかったんでしょうね?」とワタナベさんに聞くと「"いいかげんにしろ"と何度も思ったでしょうね」と苦笑交じりに話されました。
地元福井県人のワタナベさんは、それでも敗軍の将びいきかと思いましたが、そんなことはなく「せっかく建てた山城で徹底抗戦することもなく、家来を見棄てて逃げるなんてとんだ武将だ」と、クールな評価をしています。

世の歴史好き男性は、概して織田信長ファンが多いため、あえて聞いてみましたが、一乗谷だけでなく、この地方あちこちを容赦なく焼け野原にしてしまった信長は、福井の人にはとても評価が低い様子。
「加賀の前田利家も、この地を蹂躙したので、よく思われていませんね」
そうですか!豊臣政権の五大老としての利家は、最後の家康ストッパーとして好きですが、槍の又左時代はあまりよく知りませんでした。
そういえば信長の小姓だったんでしたね。金ヶ崎の戦いや姉川の戦いもありましたね。
すぐに連想できないなんて、まだまだ歴史勉強不足です。



それでも、御当地武将に誇りを持てないのは残念なこと。
「朝倉義景は、武将の器ではなかったかもしれませんが、文化人だったんですね」
東山文化の将軍足利義政のような感じでしょうか。
文化人という側面から、これから評価されるかもしれません。

戦いに明け暮れた戦国武将は、見る立場によって、英雄に思えたり卑劣漢に思えたりするものです。
『天地人』でも負けた側が主役になったことですし、浅井・朝倉両氏などで大河ドラマになったりしたら、一層この地も盛り上がりそうです。

1-2へ続きます。

2012-11 迎賓館赤坂離宮 前庭公開

2012-11-03 | 東京
文化の日に、はじめて迎賓館を見学しました。
11月1日から3日間、前庭が一般公開されたのです。

前日に行った母から、「すごい見学者の数で、入るまでに1時間半も並んだ」と聞いて、(休日はさらに混んでるかも)と戦々恐々としていました。
秋の日の光を受けて明るく輝く石畳を歩いていくと、豪華な門が見えてきます。
見学者は大勢いましたが、閉門間近に行ったためか、さほど待たずに入れました。



丁寧に剪定された松の木々の間から、噴水が見えるのが、和洋折衷。
正直、なにかちぐはぐに感じますが、外国人にとってはこの組み合わせが斬新なんでしょう。



石砂利を踏みながら建物のそばに行くと、あまりにも完璧な西洋建築を前に、なんだかヨーロッパにいるような錯覚を起こします。
豪華でありながら瀟洒で、まさに舞踏会に訪れたお姫さまの気分。



午後は逆光になってしまいましたが、存分に写真を撮りました。
車寄せ前の所々に人垣ができていました。解説員が説明をしてくれていたので、私も聞き入ります。



この建物は、旧東宮御所として一時期天皇の住まいだったこともあるほか、国会図書館だった時もあるんだとか。
え~、図書館の時に訪れたかったわー。
調べてみたら、1948–61年の間だったとのことで、まだ生まれていませんでした。



「国家元首しか泊まれない国営ホテルです」という解説員の表現に、なるほどと思いました。
「さらに国会閣議で決められた人だけで、予定にない国家元首も泊まれません」
突然、オバマ大統領が「泊めて~」と来ても、ダメなわけですね。



さらに、四ツ谷の正門から入れる人は国賓だそうです。解説員は公開日のこの日も入れず、裏門から入ったとのことでした。



ジョサイア・コンドルの一番弟子、片山東熊の設計による、日本唯一のネオバロック様式の洋風建築物。
1909年(明治42年)に完成しました。
堂々たる国宝ですが、国宝というと、だいたい和風の芸術品という印象が強いため、新鮮さを感じます。



下から見上げると、金のがちょうが四方から天球を守っているようで、迫力がありました。
(金のがちょうといったらグリム童話・・・?)と思ったら、あれは鳳凰なんだそうです。
えっ、霊鳥なの・・・?(国宝に失礼)



がちょう、いえ鳳凰にばかり目が行っていましたが、「中央の屋根飾りをご覧ください」と解説員。
「上に載っているのは、非常に珍しい、兜なんですよ」
本当に、兜と鎧が載っていて、驚きました。



「ちゃんと、阿吽の形を取っているんですよ」
目を凝らしてみると…左の武士は「あ」、右の武士は「うん」…本当です。

   


ということは、彼らは狛犬がわりなんでしょうか?(えっ)

謎でしたが、なんだか武士の亡霊のようでもあり、迫力がありすぎて、少しこわくさえ感じました。
富国強兵時代のモチーフだそうですが、まさか西洋風の建物の上に、和のオブジェが載っているなんて。



車寄せの玄関ドアのゴージャスな模様の中央には、桐のご紋がありました。
正門の瀟洒な大門も、みるからにヨーロピアンな造りですが、一番上には菊のご紋が埋め込まれていました。
まさに和洋折衷の粋。
洋にちょっぴり和アイテムを織り込んだ、という方が正しいですが。



西洋風でありながら、さりげなく日本意匠と融合させているところに、西洋では見られないオリジナリティを感じます。
夏には内覧会も行われていますが、かなりの倍率だとか。
今回は前庭だけでしたが、すばらしい建築と広い庭園を見られて満足度が高かったので、いつか内覧会にも参加してみたいです。