ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

今日の夕陽

2011-01-16 23:02:27 | Weblog
なんとなく、阿弥陀如来を感じる夕陽だった。



西方に浄土があるかどうか、それを科学的に実証しようとしても意味がない。
古代エジプトでも、西は生命の行きつく先だった。

これは、きっと人間のもった生命がささやくことなのだろう。

私が好きな女性に、中国清朝の西太后がいる。
咸豊帝の正妻が東太后で、貴妃だった玉蘭は西太后となった。
西太后が愛した圓明園も頤和園も、北京の西のほうにあった。

清朝のおわりとともに語られる西太后。

西太后という人について、また想いがつのる。

言語の不思議な体験

2011-01-16 16:26:06 | Weblog
昨日は、何ヶ月かぶりに、中国語の会話に2時間半ほど参加したら、すっかりノドが疲れた。
昼間のうちに王菲のCDで発音のチューニングをした。
自然に中国語で考え、中国語で話すようになるまで2時間近くかかった。
少し意識して中国語と接するようにしなければ。

とはいえ、昨日、少し不思議な感覚を味わった。
行きの電車に、きれいな中国語を話す女性が2人乗っていた。
言葉づかいも話し方も、話し声のトーンも、とても上品な2人で、
聞いていて、とても心地よかった。

私は日本語の本を読んでいて、目では日本語の文章を追っているのだけれど、
耳ではずっと彼女たちの中国語の会話をとらえていて、
脳内では、普通に2つのストーリーが同居し、進行していた。

終点に着き、電車を降りたところで彼女たちとは離れ、
まわり全部が日本語になった。

そしたら、日本語が聞き取れなくなった。
そして、頭の中が一瞬にして混乱した。
久しぶりに、平衡感覚を失ったような、強烈な不安を味わった。

次の電車に乗り換えた。やはりまわりはすべて日本語。
でも、言語として入ってくることはなく、
外国に行ったときに、まわりの人の話し声が心地よい雑音となるような、
そんな感覚だった。
そして相変わらず、日本語の文章を、何の苦もなく読みつづけた。

待ち合わせ場所で中国語を話す人たちと落ち合い、
そこからは中国語の会話になった。
もちろん、あまりにも久しぶりなので、私は最初、中国語が出てこない。
でも、それは中国語として立ち止まる、ということであって、
日本語なら出てくるのだけど、ということではなかった。
あたかも私にとっての言語の選択肢は中国語しかなくて、
そのなかで言葉が見つからない、という感じ。
だから、日本語で言ってみて、と言われても、やはり話せない。
それまで、ずっと日本語の文章を読んでいたわけだし、
過去何ヶ月も日本で暮らし、日本語のなかで仕事をしていたのに、である。

ただしこれは、母語を外国語が超えうる、と言いたいのではない。
あくまでも思考のベースも限界も、私は日本語に負っている。

言語って何なんだろう。
脳のどの部分がどんなふうに反応しているんだろう。
そんな疑問がわいた。

脳は、私が意識しているよりもずっと、複雑で繊細な働きをしているのだろう。