基坂通のハイカラさんの反対側に彫刻あり。
旅を続ける男
峯田義郎
人間はなぜ旅を続けるのだろうか
峯田義郎の銘板は詩も書かれており、簡単な作品説明になっていてうれしい。
五稜郭の行啓通に2作品あり、2つとも詩入りの銘板でした。
膝に鳥が乗っていてほのぼのしています。
基坂通を少し上ると、宇須岸河野館跡の説明書きがあり。
宇須岸河野館跡(うすけしこうのたてあと)
享徳3年(1454年)津軽の豪族安東政季に従って、武田信広(松前氏の始祖)、
河野政通らが蝦夷地に渡来したという。
政通は、当時「宇須岸」と呼ばれていたこの地に「館」を築いたが、これが
「宇須岸河野館」で、その大きさは、東西35間(約63m)、南北28間(約50m)と
伝えられ、四方に土塁を築き、乾壕をめぐらしていたといわれる。この「河野館」
に由来して、「箱館」という地名が生まれたと伝えられている。(明治2年「函館」
と改称された。)
永正9年(1512年)アイヌとの抗争で、河野季通(政通の子)ら一族が敗れたため、
箱館は以後百余年にわたって衰微したとの伝承が生まれた。
箱館は18世紀初頭(元禄時代末)から亀田川下流域からの住民の移住が増加、
これに伴い相次いで寺院も移転し、箱館港の繁栄が顕著になっていった。次いで、
寛保元年(1971年)には松前藩のこの地域の行政庁「亀田番所」が「河野館」跡地
に移されて、繁栄への基礎が築かれた。
寛政11年(1799年)幕府は東蝦夷地を直轄地とし、享和2年(1802年)函館奉行が
置かれ、この地に箱館奉行庁舎も築かれ、箱館に拠点を据えた高田屋嘉兵衛の活躍
などもあって箱館は大きく発展した。箱館奉行庁舎は、明治に入ってから開拓使の
庁舎となり、その後、北海道庁函館支庁庁舎となるなど、「河野館」跡は函館の
行政の中心地であった。
ペリー提督来航記念碑
日本と和親条約を締結したアメリカ海軍提督M.C.ペリーは、安政元年(1854年)
5月17日、開港される箱館港を下検分するため、5隻の艦船を率いて来航した。
滞在中には、箱館湾の海図を作成したほか、銀板写真術(ダゲレオタイプ)の
初公開、西洋音楽の吹奏などを行い、当時の人々の驚きの様子が記録として残って
いる。
このペリー来航が契機となり、蝦夷地(北海道)を統治する箱館奉行所の移転先と
して五稜郭が築造されることになったほか、開港場として欧米文化の影響を受け、
本市が国際観光都市として発展する礎となった。
ペリー広場
ペリー提督箱館来航150周年を記念して、このペリー提督増の立つ敷地の一画を
「ペリー広場」(愛称)と命名します。(正式名称「函病跡地緑地広場」)
ペリー広場に彫刻あり。
ペリーの功績を称えて建てられた銅像は、ペリーの生誕地・アメリカのロード
アイランド州ニューポート市にあるペリーの全身像をモデルに、函館出身の
彫刻家 小寺眞知子が制作しました。
大きな彫刻です。
銅像のたもとには、ペリーにちなみ、アジア東北部原産で1668年(寛文8年)に
日本へ渡来した「クロフネツツジ」が植えられています。
「ペリー提督 来航時の足跡絵図」
函館市弥生町2