サバ奈子

むかし猫ブログ、いま趣味ブログ

函館市 野外彫刻 緑の島

2020-04-20 05:30:54 | 野外彫刻

函館の緑の島に彫刻あり。

このモニュメントは、青森市と函館市のツインシティー(双子都市)提携20周年を
記念して、制作したもので、旧制中学時代を青森市で過ごした太宰治(1909-1948)
が小説「思ひ出」の中で、弟礼治と青森港桟橋から海峡を渡る連絡船を眺めながら、
運命の女性と結ばれる“赤い絲”について語り合った挿話を基に、両市の大学生や
高校生などの協力により、お互いの絆を深めるモニュメントとして、両港にそれぞれ
設置したものです。

ふたり 峯田義郎

赤い絲のモニュメント の説明書き

頭が切れちゃった。

函館山をバックに記念撮影。

函館港の万代・港町泊地浚渫工事によって生じた土砂を利用し、港内を護岸で囲って
確保した処分場工事によって誕生した埋立地であり、埋立土量は約70万立方メートル
になる。新島襄に因んた「新島橋」で陸地と繋がっており、陸地側には「新島襄海外
渡航記念碑」が建立している。大町地区にあり、散策や遠足、釣りなどのほかスポー
ツやイベントの会場としても利用している。なお、『函館港花火大会』や『道新花火
大会』開催時、天候状況などによって入場を規制または禁止する場合がある。

緑の島
函館市大町15番

緑の島の対岸に、新島襄海外渡航の地碑があり、新島襄が脱国後、上海で作った
漢詩が自筆の碑文として刻まれています。
異国への夢と故郷を思う気持ちの間で揺れる心情があふれる内容です。

ここから徒歩5分くらいのところに、新島襄ブロンズ像があるのですが、
工事のため撤去中。残念。

新島 襄(にいじま じょう 英字表記:Joseph Hardy Neesima、天保14年1月14日
(1843年2月12日) - 明治23年(1890年1月23日))はキリスト教の教育者である。
江戸時代の1864年(元治元年)に密出国してアメリカ合衆国に渡り、そこでキリスト
教の洗礼を受けて神学を学ぶ。そして、改革派教会(カルヴァン主義)の清教徒運動
の流れをくむ会衆派系の伝道団体である「アメリカン・ボード」の準宣教師となった。
日本に帰った後の1875年(明治8年)にアメリカン・ボードの力添えによって京都府
にて同志社英学校(後の同志社大学)を設立した。

北海道第一歩の地碑

明治維新後、函館は名実ともに北海道の門戸となり、この北海道の地を踏むものが
その第一歩を記したのが東浜桟橋(旧桟橋)である。
青函航路は、明治6年(1873年)に開拓使の弘明丸によって一般輸送を開始し、
明治12年(1879年)に三菱会社が開拓使から青函航路を譲り受け、以後、日本郵船
鉄道会社などによって継続されてきたが、明治41年(1908年)に国有鉄道の航路と
して比羅夫丸、田村丸が就航した。
当時、連絡船はお気に停泊し、客は艀舟でこの桟橋との間を行き来した。この東浜
桟橋は、明治4年(1891年)に作られた。
連絡船の桟橋は、明治43年(1910年)2月に若松ふ頭に新設移設したが、その後も
この桟橋は活用され、北洋漁業の拠点などとしても重要な役割を果たしてきたが、
とくに戦前の北洋漁業の発着時には、大変な賑わいをみせていた。平成30年度から
架け替え工事を実施。
この記念碑は、熊にいかりを配し、開道100年を記念して開拓に渡道した先人の足跡
をしのぶと共に、北海道発展の未来を志向して、昭和43年(1968年)9月に建立され
たものである。                函館市

そうか・・すぐ近くの旧桟橋(東浜桟橋)を撮ってこないといけなかったんだ。
(後で検索して文字起こしする際に気がついた)
下調べが足りなかった。

コメント
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