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にしん文化歴史公園 です。道の駅おびら鰊番屋の向かいにあります。
松浦武四郎翁の像
北海道の名付け親松浦武四郎は、文政元年(1818年) 伊勢国須川村(現三重県三雲村) に代々郷士であった松浦家の四子として生まれる。
翁は27歳の春、蝦夷地探検を発起以来6度に渡り蝦夷地を案内のアイヌの人々と踏査し、詳細で実情をあますところなく書き記された地図・絵図・記録は高く評価され、探検家・研究者として、その功績は偉大である。
翁の身長は4尺8寸(1m45cm)足の大きさは24cmと小柄ながら、その旺盛な精力と知識欲により未開の荒野を踏査・探険し、当地へも4度に渡って訪れ、鰊漁場の賑いをきわめた往時の鬼鹿の歴史を詩に残している。
松浦武四郎は、社会科学史上・文化史上に輝く燦然たる偉人であるとともに北海道の史実を証するものとして、今もなお道民の心の中に生き続けている。
「名にも似ずすがたやさしき女郎花なまめき立てるおにしかの里」の歌碑。
幕末の探検家・松浦武四郎は鬼鹿には4度足を運んでいますが、この歌は『西蝦夷日誌』に収録されたもの。
新明紫明の句碑
こころよきものに直線燕来る
ここ小平町は、江戸時代後期から昭和30年代に到るまで「にしん漁」で栄えた町です。
「にしん」は身欠き鰊や数の子として食用とされ、これらは京都の「にしんそば」や東北地方の「数の子豆」「鰊の山椒漬」など全国各地に鰊食文化を育みました。しかし、多くは「〆粕」に加工され、江戸から明治時代を代表する肥料として本州へ移出され、木綿や藍などの商品作物の生産を伸ばして私たち日本人の生活を豊かにし、稲作や畑作などに広く利用され私たちの食を支えていったのです。
小平町でにしん漁がおこなわれたのは鬼鹿地区と臼谷地区。
鬼鹿地区には、現存する鰊番屋では最大の規模となる国指定重要文化財「旧花田家番屋」があり、経営者である親方家族の住居であると同時に、最盛期200名を超える漁夫や職人が寝泊まりする漁場の拠点となった施設で、明治38年(1805)年頃建築の代表的なにしん漁遺産です。
さらに、明治34年(1901年)瀧川弁藏氏によって小樽から「松前神楽」が伝えられ、道南から当地鬼鹿へ来住した漁夫達によって盛んに演じられ、今も鬼鹿松前神楽保存会によって小平町無形文化財として脈々と受け継がれています。
臼谷地区には、享保21年(1736年)、村山伝兵衛と施主銘がある小平町有形文化財「臼谷弁財天碑」があり、場所請負人として蝦夷地各地の漁場経営を担い、当時富商として全国的に知られた村山伝兵衛のこの地での活動を明らかにしています。
江戸・明治・大正・昭和の長きにわたり、広く全国に行きわたり日本人の生活を支えた「にしん」。その「にしん」のもたらした繁栄の歴史と「にしん文化」息づくまちを結ぶ道しるべとするとともに、あらたな観光ルートとして確立し地域の活性化につなげるために、この「にしん街道」の標柱を設置します。
この「にしん街道」の標柱と道の駅を一緒に撮るといいらしい。
以前に来たときには雪の中で撮れなかったので、再訪です。
にしん文化歴史公園
北海道留萌郡小平町鬼鹿広富
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