JR旭川駅です。
駅の中にある、旭川観光物産情報センターです。
いつの間にか彫刻がありました。
啄木さんの隣の座席が空いています。
どうぞ一緒に記念撮影して下さい。
◆旭川の石川啄木像・歌碑の由来◆
国民詩人石川啄木と旭川とは、どんなかかわりがあるのだろう。
それは、啄木の不朽の歌集「一握の砂」の中にあった。
彼は、小樽から釧路へ向かう途中1908年(明治41)1月20日、旭川駅前の「宮越屋旅館」に1泊し、翌朝釧路へと向かった。わずか15時間余の滞在であった。しかし旭川の歌4首が、のちに作られ同歌集に収められた。
2010年10月、東京旭川会において、旭川に滞在した啄木の足跡を残そうという提言が、旭川出身の著名な啄木研究家近藤典彦氏によってなされた。
2011年7月、これに賛意を表する旭川の文化人・経済人・東京旭川会会員らでつくる有志によって「旭川に石川啄木の歌碑を建てる会」が結成された。そして、啄木没後100年「悲しき玩具」刊行100年を期して啄木像・歌碑を建てる活動が始まった。それは講演会・パネル展などの開催、大々的な募金活動などとなって展開された。
2012年4月13日、ついに100年目の「啄木忌」を迎え、念願の啄木像・歌碑の除幕式の日となった。今後、全国に向かって旭川の啄木像・歌碑からメッセージが発信されることになる。いつまでも愛されることを希うものである。
啄木像制作:中村園(造形作家)=旭川出身
歌碑揮毫:中西清治(画家)=旭川出身
隣に座って一緒に写真を撮るといいです。
石川啄木像・歌碑 旭川
◆歌の解説◆
石川啄木は一九〇八年(明治41)一月二〇日旭川駅で下車した。すぐに「停車場前の宮越屋旅店」に向かった。宿屋の「帳場の上の時計は、午後三時十五分を示して居た。」(雪中行)新聞記者啄木は早速市内見物に出かけた。
北海道奥地の新興都市旭川が気に入った。
夜になって釧路新聞社長白石義郎が合流した。一泊して翌朝六時半の汽車で釧路に向かった。旭川滞在は一五時間余であった。
一九一〇年(明治43)一〇月、啄木は旭川滞在を改装して四首の短歌を作り、不滅の歌集「一握の砂」に編集した。二週間滞在し非常に気に入った札幌の場合でさえ四首である。旭川の四首は当時の印象が鮮烈であったことを物語る。
四首は二首一組になっている。
名のみ知りて縁もゆかりもなき土地の
宿や安けし
我が家のごと
北海道奥地の旅館なのにどっしりとして広い部屋、大きな桐胴の火鉢、行き届いたサービス。啄木にとって旭川の好印象と重なる宿となった。
伴なりしかの代議士の
口あける青き寝顔を
かなしと思ひき
白石社長(五月衆議院議員になる)の寝顔には、福々しいこの人がふだん見せることのない疲労と苦痛が表れていた。啄木は人生のむなしさが見えるようで、悲しいと思った。これもあの宿につながる思い出だ。
以上二首は一月二〇日のことをうたっている。
次の二首は二一日の歌である。
今夜こそ思ふ存分泣いてみむと
泊まりし宿屋の
茶のぬるさかな
六年前の一九〇二年(明治35)一月二五にち氷点下四一度を記録した旭川である。
この日も猛烈な寒気が天地を覆う。宮越屋旅館にも寒気は容赦なく侵入する。
熱湯は急須に注ぐとぬるくなる。湯呑に入れるとなお冷める。口に含むころには夏の川の水のよう。
「茶のぬるさ」はこの日の厳寒の表現なのである。
水蒸気
列車の窓に花のごと凍てしを染むる
あかつきの色
六時半発の汽車に乗る。まだ日の出前である。この日の気温は氷点下二七、一度。
列車のすべての窓には千変万化の模様が満遍無く凍り付いている。
東南東の化雲岳あたりから射して来る紅い光がその模様を染める。
こうして二首は旭川の大寒のあかつきをうたっているのである。
旭川観光物産情報センター
北海道旭川市宮前通西4153-1 JR旭川駅構内
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