今回の法要の布教師さんは、万行寺ご住職の本多靜芳先生でした。
本多先生は、東洋大学で講師として教鞭をとられている他、築地本願寺にある東京仏教学院の講師でもあり、私の恩師でもあります。
永代経法要に併せ、追悼法要をするとの知らせを受け、先生は急遽追悼法座のご用意をしてくださいました。
本多先生は、3月11日の震災を飛行機の中で体験し、着陸後もなかなか降りることができなかった上、携帯もつながらず、事態の把握に時間がかかったとのこと。
奥様は築地本願寺にいらっしゃって、羽田空港から車で迎えに行くも、大渋滞に巻き込まれ、奥様とそのまま築地本願寺に留まり、翌朝まで過ごされたという帰宅難民者の一人だったそうです。
築地本願寺では、帰宅難民者を率先して受け入れ、職員(全員僧侶)がおにぎりを握り、スープを作り、毛布を配って、300人以上の方々に温かな場所を朝まで提供し続けました。
そこで本多先生は、設置されたテレビを見て、ようやく事態の深刻さを知ったとのことでした。
テレビでは映さないように配慮されていましたが、実際は無数のご遺体が折り重なっていたと聞きます。
その光景は、疫病や飢饉や戦乱に満ちていた、親鸞聖人が生きられた時代において日常的に見られるものでもありました。
そのような状況を、親鸞聖人は『御消息』と言われるお手紙の中で、こう記されています。
去年今年と、老少男女、多くの人々が亡くなっていることを、とても悲しく思います。
しかし、生まれれば死す、出逢えば別れるという生死無常のことわりは、すでにお釈迦さまが説いていらっしゃることであり、驚くことではありません。
自分自身の身の上から言えば、命が終わるときの状況の善悪は関係なく、阿弥陀さまただ一仏に全てをおまかせすると決めた人の心には疑いがないので、案ずることなく仏としてお浄土に往生することでしょう。 (超意訳)
仏教は「ことわり」を明らかに見る宗教です。
「ことわり」とは「道理」であり、「真理」であり、「法」のこと。
「法」の漢字の辺に「さんずい」があるのは、水はどんな場所でも上から下へと流れる様に、決して変わることのない「ことわり」を示しているとの説明がありました。
災害を天罰と言った人がいます。
ピアノだけが無事だったことを、音楽の神さまが守ってくれたと喜んだ人もいます。
ニュアンスは違えど、災害の背景に神仏がいると、無意識に言っている。
ならば、その人たちの言葉に、天罰を受けたと感じた人は、音楽の神に見放されたと感じた人は、災害を前にして自分を責めるしかないのでしょうか。
それは違います。
神仏を自分の都合の良いように扱う言葉に、「ことわり」はありません。
御消息にもある「ことわり」は、畢竟依(究極の拠り所)となるもの。
そこには、原因と結果という明らかな因縁のないものはありません。
「不思議な力が働いた」というような、現実を歪めるようなことも説きません。
水が上から下へと流れるように、物事には道理がある。
災害の起きる原因に神仏はいません。
惑わされそうな自分に気づくこと、そして「生死無常のことわり」を拠り所とするところに念仏者の人生の指針がある。
指針を元に世界を広げ、自分を深めることで、社会と自分を知ることができる。
すると行動も変わっていく。
そこに、自分と他者が共に救われていく道が開けていく……というお話をいただきました。
最後の部分はボランティアに通じるお話でもあり、今できることを自分を見つめながら考え、行動していくことの大切さを改めて感じました。
そして、親鸞聖人の「案ずることなくお浄土に往生する」というお言葉が、今は何よりも有り難く身に染み入りました。
本多先生、ありがとうございました。