「土門拳 骨董の美学」というのは1999年に平凡社から出版された書籍です
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良く知られているように、土門拳は酒田市の出身(と言っても7歳頃に東京に移住しているが)で、酒田には土門拳記念館があります
土門拳は骨董収集家でもあり、伊万里でも初期伊万里や色絵古九谷を収集していたようです。
そんな土門拳自身が書いた文章の中に「まぼろしの古九谷」という部分がありますので、ちょっとだけ紹介したいと思います。
日本色絵磁器の王者古九谷は、加賀百万石の支藩大聖寺藩で焼かれた。
その窯址と目されるものは。大聖寺川の上流、石川県江沼郡九谷村の谷間に、こんもりとした杉林におおわれてある。(中略)
写真は失敗だったし、陶片も拾えなかったけれども、古九谷窯址をこの目で見ただけで、僕の気はすんだと云えなくもない。
なぜなら、古九谷窯址は大聖寺川の氾濫によって洗いざらい流されてしまったであろうという説を何かで読んだことがあるが
厳として遺存していることがわかった。(中略)
古九谷すなわち伊万里説がある。全面説はともかくとして、古九谷とされるものの一部には有田で焼かれた素地に加賀で絵付けしたものが
混じっているという一部移入説は相当広く信じられているようである。
ぼくは全面説はもとより一部移入説にも絶対反対である。古伊万里は泉山の磁土であり、古九谷は九谷村の磁土であって
素地の味わいが全く異質である。(中略)
古九谷は大体明暦年間に焼きはじめられたと認められているが、それもあくまで一説の中の一説にすぎない
産業奨励の藩窯であるはずなのに、大聖寺藩にも、加賀藩にも一行の記録もない
元禄年間に廃窯になったと認められているが、それも記録にあるわけではない。(中略)
日本の古陶磁の中で一番近世に位置するものでありながら、しかも名もない民窯ならばいざしらず、百万石の雄藩に近縁の藩窯でありながら
すべては黒い霧につつまれているのである。
日本色絵磁器の王者古九谷は、ついにまぼろしの古九谷と云うほかないのだろうか。
この文章がいつ頃に書かれたのかは判りませんが、ワタシが古九谷論争について初めて知ったのは、土門拳氏のこの文章だったように思います。