<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=sakitablog-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4167540096&fc1=000000&IS2=1<1=_blank&lc1=0000ff&bc1=000000&bg1=ffffff&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>岸田秀という方はちょっとかわっている。中学時代から強迫神経症に悩み、73歳の現在も、まだわだかまりがある様子。それでいてそういう病気の専門家で大学の先生である。フロイド(フロイト)の専門家のようで、個人の精神分析の手法で国家などの集団も考察する手法は見事。いろいろな雑誌などに掲載されたエッセイを集めたエッセイ集。
親たちの今:「人間は本能の壊れた動物である」というのが前提で、そのため、子育てもなんらかの理由がないとやっていられない。昔は道徳とか宗教とかがしっかり力を持っていたのでそれが根拠になったが、今はそれらの力がなくなったので、親は自己満足のために育児をする。親の自己満足がいけないとなると、子育てに伴う犠牲を引き受ける動機がなくなり、産んでしまったのでやむなく世間に対してみっともなくはない程度に適当に育てるしかないとあきらめて育てるか、捨てるか、殺すかしか選択肢がない。現代の親は昔の親に比べてとやかく言われているが、昔の親よりはるかに困難な状況にある。
☆これは私のようなどうも育児が苦手で、手放しで子どもがかわいいなどとはとても思えない親にしてみれば、自分が変なのではなく、そういうものだ、と肯定されているようで心強い。しかし、だからといって目的を設定して、自己満足のために育児をすると大変なことになるということも書いてあって、ドキッとする。ついつい「面倒見てるんだから従え」というニュアンスのことを言ってしまうので、小2にして「家を出る」とすぐに言う。出られると困るので、あの手この手で説得する訳だが、どうもその論理は心もとない。
近頃のおかしな母親たち:日本文化は壊れた本能を母子一体の幻想で埋め合わせてきた。日本の母親は子を自分の延長、自分の一部と見なして育児をしてきた。そのため子の恥は親の恥、子の罪は親の罪、子の誉れは親の誉れとなる。育児の目的が個人を超えて、家のため、国のため、世間のためというように外に向かって開かれていれば、それは子どもの心にも開かれている。普遍的な目的であれば押し付けなくても自発的に親子で共有できるし、できない場合(子がその目的に向いていなかったり嫌がったりすれば)それを放棄しても母親のアイデンティティやプライド、親子関係は崩れない。が、そのような普遍的な目的を親子で共有することができにくいため、閉鎖的な自己満足が目的になってしまいがちである。我が子がいたずらをして他人にしかられると、昔の母親は感謝したが、近頃の母親は我が子を守って他人に怒る。我が子を育てて外の世界へつなごうとする気がなく、二人の閉じられた関係の中で楽しくやっていればいい母親には、他人の口出しはただうるさいだけである。
☆習い事での我が家の攻防は、果たして自己満足的なものなのか、外へ開いたものなのか、自分でもわからない。子どもを叱ってくれる他人には感謝を感じるので、最後の部分は当てはまらないと思いたいが、学校などには大いに文句を言っているので、それも怪しい。正直なところ、学校への非難は、昔の親のように学校を尊敬していなくて、自分よりも能力が劣っていると思っている節があるので、それが表面化し対立している気もする。もっとうまくできないのか?という腹だたしさを感じてしまうのである。いろいろな本を読むと(たいていは学校関係者、教育者が書いている)、学校も大変ね、と同情もするのだが、、、。私の場合は育児に向いていないので、子を自分の延長と考えて同一視し愛情をそそぐというよりは、自分のことをよくわかってくれる友人のような気持ちでいるので、私の気持ちが通じなかったりすると、ひどくがっかりしてあたったりしてしまう。8歳にして不惑をすぎた人に頼りにされる子どものほうが気の毒だけど。
学級崩壊:戦後の教育は性善説に基づいていて、破壊、意地悪、傲慢、エゴイズム、卑劣などは本来善である人間性の自由な発展を妨害し、抑圧し、ゆがめたために生じた物で、妨害や抑圧をやめれば自ずから消えてなくなるはずであると信じられている。が、人間は本能の壊れた動物で、「自由にのびのびとその可能性を伸ばす」なんてことをすれば、むちゃくちゃな怪物にしか育たない。自由主義的、放任主義的、平和主義的教育理念は戦前戦中の極端に抑圧的な軍国主義教育への反動である。たしかに軍隊に向かない人間をつくるのに成功したが、そのついでに社会生活にも向かない人間を作ってしまった。軍国主義教育が間違いなのは言うまでもないが、その正反対は絶対に正しいという、あまりにも単純で愚かな思考形式である。大切なのは中庸である。
☆なるほどね。自由教育の幼稚園が低学年の学級崩壊の原因だということはあちこちでささやかれているけれど。私はまさに戦後の自由主義の申し子のような両親に育てられたので、かなり左な思想を刷り込まれていて、卒業式の国旗や国歌にも嫌悪感を感じるのだけれど、なんとなく納得してしまう。「叱らない子育て」という類いの本も何冊も読んだが(叱りたくないので)、そんなこと不可能!といつも思っていた。また、味方がいたような感じがして心強いのだが、では、実際の問題として「中庸」ってどんなの?っていうあたりが書いていないのであった。「女王の教室」のスペシャルを見たけれど、マヤも結局極端から極端へ走っていった訳で。中庸と中途半端。言葉はなんとでもなる、、、。
あきっぽい子と粘り強い子:ある子をあきっぽいと判断する人(教師や親)は、ずっと続けてやってもらいたいことをその子がやらない、やり始めてもすぐにやめるので「あきっぽい」という。もし、判断する者が好ましくない、やめさせたいと思っていることをその子が始めてもすぐにやめれば「素直な」とか「あきらめがいい」とか「意志が強い」とか褒められるし、好ましくないと思っていることをいつまでも続けている時には「しつこい」「執念深い」「かたくな」とか評価される。誰でも好きなことをやっている時は「粘り強い」か「しつこい」のであり、嫌なことをやっている時は「あきっぽい」か「あきらめがいい」のである。あることに対して「あきっぽい」を「粘り強い」子にしようとする時、親や教師は今はその子の意にそわなくても、結局はその子のためになると信じているが、それは親や教師のもくろみの自己正当化にすぎず、そのもくろみが実現した時に満足を感じるのは子どもではなく親や教師である。子どもは親や教師の言うことに従うのではなく、その行動パターンを取り入れるものなので、子どもに取り入れられたら困るような行動パターンを自制するしか方法がない。親や教師が子どものためだということで子どもに嫌なことを強制するということを繰り返すと、子どもは強制されたことを身につけるのではなく、人に嫌なことを強制するという行動パターンを身につけて、みんなの嫌われ者になるかもしれない。
☆これは、大変耳が痛い。「子は親の鏡」ということわざとか、詩とか、いつも言われるのは同じことなのだが、「こうなってほしい」という強い望みがあるので、いろいろ指図してしまう。親は黙ってサッポロビール、ではなく、こどもの理想像たれ、ということか、、、。そういえばウチの子は仲間にやたらと指図するのが好きだ?!まずい、、、。
その他にも「人間好き」が挫折する訳、電車にひかれた女の子の話、等々、、、面白い話はつきない。中庸がいいといいつつ、ちょっと極端では?と感じる部分もないではないが、多くはなるほどねぇ、そういう見方もあるねぇ、と楽しく読める。自分で難解な文章を書くやつ、それをありがたがって読むやつは馬鹿、と言うような文を書いているだけあって、読みやすくわかりやすい。「電車にひかれた女の子の話」ではJ・ピアジェの発達心理学の話を引用して、幼児の認識能力について解説しているが、それを読んで、社会ってまさにこれだな、と妙に感心してしまった。そこにある現実は、おそらく一つなのだが、それを見ている人がどこに立っているかによって、見え方が全く違う。対角線上にいる人なら、まったく逆に見える訳で。それは具体的な家と木と池というものの関係だけでなく、目に見えない事象に関しても、その人が立っている位置(立場)が違えば、まったく逆のことのように見えたりするのだろうな、と。そんなことを言いたくてこの引用をした訳でないのは明らかだけど、勝手に、納得してしまった、、、。
ありふれた育児本に飽きたら、是非。
親たちの今:「人間は本能の壊れた動物である」というのが前提で、そのため、子育てもなんらかの理由がないとやっていられない。昔は道徳とか宗教とかがしっかり力を持っていたのでそれが根拠になったが、今はそれらの力がなくなったので、親は自己満足のために育児をする。親の自己満足がいけないとなると、子育てに伴う犠牲を引き受ける動機がなくなり、産んでしまったのでやむなく世間に対してみっともなくはない程度に適当に育てるしかないとあきらめて育てるか、捨てるか、殺すかしか選択肢がない。現代の親は昔の親に比べてとやかく言われているが、昔の親よりはるかに困難な状況にある。
☆これは私のようなどうも育児が苦手で、手放しで子どもがかわいいなどとはとても思えない親にしてみれば、自分が変なのではなく、そういうものだ、と肯定されているようで心強い。しかし、だからといって目的を設定して、自己満足のために育児をすると大変なことになるということも書いてあって、ドキッとする。ついつい「面倒見てるんだから従え」というニュアンスのことを言ってしまうので、小2にして「家を出る」とすぐに言う。出られると困るので、あの手この手で説得する訳だが、どうもその論理は心もとない。
近頃のおかしな母親たち:日本文化は壊れた本能を母子一体の幻想で埋め合わせてきた。日本の母親は子を自分の延長、自分の一部と見なして育児をしてきた。そのため子の恥は親の恥、子の罪は親の罪、子の誉れは親の誉れとなる。育児の目的が個人を超えて、家のため、国のため、世間のためというように外に向かって開かれていれば、それは子どもの心にも開かれている。普遍的な目的であれば押し付けなくても自発的に親子で共有できるし、できない場合(子がその目的に向いていなかったり嫌がったりすれば)それを放棄しても母親のアイデンティティやプライド、親子関係は崩れない。が、そのような普遍的な目的を親子で共有することができにくいため、閉鎖的な自己満足が目的になってしまいがちである。我が子がいたずらをして他人にしかられると、昔の母親は感謝したが、近頃の母親は我が子を守って他人に怒る。我が子を育てて外の世界へつなごうとする気がなく、二人の閉じられた関係の中で楽しくやっていればいい母親には、他人の口出しはただうるさいだけである。
☆習い事での我が家の攻防は、果たして自己満足的なものなのか、外へ開いたものなのか、自分でもわからない。子どもを叱ってくれる他人には感謝を感じるので、最後の部分は当てはまらないと思いたいが、学校などには大いに文句を言っているので、それも怪しい。正直なところ、学校への非難は、昔の親のように学校を尊敬していなくて、自分よりも能力が劣っていると思っている節があるので、それが表面化し対立している気もする。もっとうまくできないのか?という腹だたしさを感じてしまうのである。いろいろな本を読むと(たいていは学校関係者、教育者が書いている)、学校も大変ね、と同情もするのだが、、、。私の場合は育児に向いていないので、子を自分の延長と考えて同一視し愛情をそそぐというよりは、自分のことをよくわかってくれる友人のような気持ちでいるので、私の気持ちが通じなかったりすると、ひどくがっかりしてあたったりしてしまう。8歳にして不惑をすぎた人に頼りにされる子どものほうが気の毒だけど。
学級崩壊:戦後の教育は性善説に基づいていて、破壊、意地悪、傲慢、エゴイズム、卑劣などは本来善である人間性の自由な発展を妨害し、抑圧し、ゆがめたために生じた物で、妨害や抑圧をやめれば自ずから消えてなくなるはずであると信じられている。が、人間は本能の壊れた動物で、「自由にのびのびとその可能性を伸ばす」なんてことをすれば、むちゃくちゃな怪物にしか育たない。自由主義的、放任主義的、平和主義的教育理念は戦前戦中の極端に抑圧的な軍国主義教育への反動である。たしかに軍隊に向かない人間をつくるのに成功したが、そのついでに社会生活にも向かない人間を作ってしまった。軍国主義教育が間違いなのは言うまでもないが、その正反対は絶対に正しいという、あまりにも単純で愚かな思考形式である。大切なのは中庸である。
☆なるほどね。自由教育の幼稚園が低学年の学級崩壊の原因だということはあちこちでささやかれているけれど。私はまさに戦後の自由主義の申し子のような両親に育てられたので、かなり左な思想を刷り込まれていて、卒業式の国旗や国歌にも嫌悪感を感じるのだけれど、なんとなく納得してしまう。「叱らない子育て」という類いの本も何冊も読んだが(叱りたくないので)、そんなこと不可能!といつも思っていた。また、味方がいたような感じがして心強いのだが、では、実際の問題として「中庸」ってどんなの?っていうあたりが書いていないのであった。「女王の教室」のスペシャルを見たけれど、マヤも結局極端から極端へ走っていった訳で。中庸と中途半端。言葉はなんとでもなる、、、。
あきっぽい子と粘り強い子:ある子をあきっぽいと判断する人(教師や親)は、ずっと続けてやってもらいたいことをその子がやらない、やり始めてもすぐにやめるので「あきっぽい」という。もし、判断する者が好ましくない、やめさせたいと思っていることをその子が始めてもすぐにやめれば「素直な」とか「あきらめがいい」とか「意志が強い」とか褒められるし、好ましくないと思っていることをいつまでも続けている時には「しつこい」「執念深い」「かたくな」とか評価される。誰でも好きなことをやっている時は「粘り強い」か「しつこい」のであり、嫌なことをやっている時は「あきっぽい」か「あきらめがいい」のである。あることに対して「あきっぽい」を「粘り強い」子にしようとする時、親や教師は今はその子の意にそわなくても、結局はその子のためになると信じているが、それは親や教師のもくろみの自己正当化にすぎず、そのもくろみが実現した時に満足を感じるのは子どもではなく親や教師である。子どもは親や教師の言うことに従うのではなく、その行動パターンを取り入れるものなので、子どもに取り入れられたら困るような行動パターンを自制するしか方法がない。親や教師が子どものためだということで子どもに嫌なことを強制するということを繰り返すと、子どもは強制されたことを身につけるのではなく、人に嫌なことを強制するという行動パターンを身につけて、みんなの嫌われ者になるかもしれない。
☆これは、大変耳が痛い。「子は親の鏡」ということわざとか、詩とか、いつも言われるのは同じことなのだが、「こうなってほしい」という強い望みがあるので、いろいろ指図してしまう。親は黙ってサッポロビール、ではなく、こどもの理想像たれ、ということか、、、。そういえばウチの子は仲間にやたらと指図するのが好きだ?!まずい、、、。
その他にも「人間好き」が挫折する訳、電車にひかれた女の子の話、等々、、、面白い話はつきない。中庸がいいといいつつ、ちょっと極端では?と感じる部分もないではないが、多くはなるほどねぇ、そういう見方もあるねぇ、と楽しく読める。自分で難解な文章を書くやつ、それをありがたがって読むやつは馬鹿、と言うような文を書いているだけあって、読みやすくわかりやすい。「電車にひかれた女の子の話」ではJ・ピアジェの発達心理学の話を引用して、幼児の認識能力について解説しているが、それを読んで、社会ってまさにこれだな、と妙に感心してしまった。そこにある現実は、おそらく一つなのだが、それを見ている人がどこに立っているかによって、見え方が全く違う。対角線上にいる人なら、まったく逆に見える訳で。それは具体的な家と木と池というものの関係だけでなく、目に見えない事象に関しても、その人が立っている位置(立場)が違えば、まったく逆のことのように見えたりするのだろうな、と。そんなことを言いたくてこの引用をした訳でないのは明らかだけど、勝手に、納得してしまった、、、。
ありふれた育児本に飽きたら、是非。