やっと復活しました、
家のネット環境。
ほぼ一ヶ月ぶりです。接続までにもひと悶着あったので、
今、ちょっと感動です。
咲き誇ってますね。アジサイ。
*
家でネットがつながらない間。
静かに本を読んだり、
先日見た映画のことを黙々と考えたり、
片付けしたり、
たっぷり寝たり。
ゆっくり、静かめに過ごしていました。
一方、仕事の現場では:緊迫的問題発生中で けっこう大変だったので
たぶん、ちょうど良かったです。バランス的に。
最初は
「あー、せっかく素敵な写真撮れたけど、アップできない!くやしー!」
とか
そもそもテレビも無いので、入って来る情報量が格段に減ったことに 不安になったりしたものの、
だんだん ちゃんと慣れて来てね。
まーあ、楽になりました。
気持ち的には、「休暇」みたいな感じでした。
超大量情報奔流社会システムの 目まぐるしい怒濤の渦から
いったん飛び抜けて、
ちょっとお休み頂きました。っていう感じ。
休んでみると、
「ああ、こういう機会を、今まさに必要としてたのかも。」って想えて来ます。
偶然のような必然のような。
*
パソコン。ケータイ。iPod。インターネット。
一度手を染めると、
それが「無かった」頃のサイクルには、なかなかどうして、戻り難いもの。
あれ。
なんか、電気系ばっかりですね。
現代文明の利器っつったら、やっぱり電気系だからでしょうか。
でも、
無きゃ無いで、なんとかなるもんです。
ふつーに、生きられるもんです。
(原発だって、きっと。)
*
「それが無いと、私は 生きられないのか?/死んでしまうのか?」
あるモノの取捨選択を迫られる時。あるモノを買おうとしている時。
自分にそう、問い質してみる。
極論的な命題ですが、これは効きます。
だって、
大概のモノは、無くても「命に別状は無い」レベルのものばっかり。
無くても、それはそれで、大丈夫なものばかり。
無くても、ふつーに、そこそこ、生きられるんです。
一度、明日さえ生きられるかどうか、、という極貧恐慌状態に陥った時に、悟りました。
「生きるか死ぬか」基準で、考える。
そのモノの、「今この瞬間の自分の生死にとっての価値」を、考える。
この自問行為で、だいぶ“断捨離”、できると思うのです。
もちろん、
「これ無くても確かに死にはしない、、けど、、やっぱりどうしても手放せない!!」
っていうモノも、あります。
それはたぶん、
自分の“精神的な生命”にとって、必要なものなんだと、想います。
それがないと、自分の「魂」が、“死んだようになる”というくらいのもの。
身の回りに集まったモノの中には、そのくらいに強く結びついているものも、やっぱりあります。
どういったご縁か、巡り合わせかは いざ知らず、
ただの「物質」という次元を超えて、自分の魂的なものと密なる絆が生まれてしまったもの。
どうしても手放せない。やっぱり、どうしても棄てられない。
そういうものは、もちろん棄てる必要ない。
*
さて
なんの話なんだか、結論があるんだかないんだか、脱線してるんだかしてないんだか よくわからなくなって来ましたが
そうこうしているうちに、
タチアオイが、ぐんぐん背を伸ばしています。
梅雨と共に伸び続ける、
夏の入りを告げる、この花。
この花を見るたびに、内心、盛り上がって参ります。
夏がいよいよ来る!というか、もう来てる!
っていう興奮に。
梅雨が明けたんだか明けてないんだかの、際の時季。
この季節は、期待感でいっぱいになるので、大好きです。
曇っていようと、雨が降ろうと。
*
この時季特有の 風がまた、
とても好きです。
夏寸前の陽射しの、ちょっと本気出してきましたみたいなじりっとした熱さを
ひゅっ、と かわすような、
そして、心をひゅっと透き通らせるような、
ひんやり潤った風。
夜明けのような。
ひたすら静かな、潤んだ空気をたたえた雲の波のような、
雨の気配。
これから落ちてくる雨の気配をこっそり含んだ、
澄まして踊るような風の、眼に見えない、青い香り。
タチアオイの花と、この風。
造園を志し始めた頃の 初々しい気持ちを じんわり、憶い出します。
花の名前を 手当たり次第に覚え始めた頃の、我武娑羅な、
初々しい熱の感覚。
*
さて、
結局なにが言いたかったんだか。
なにをどうしたいんだかよくわからないまま、
想うがままに書き連ねてしまいました。
そんなこんなで、ちょびっとながら、お久しぶりな気持ちです。
アジサイと対照的な鮮やかさで
ノウゼンカズラも、あふれんばかりです。
*
ついでに。
これは、ゼニアオイ。
タチアオイより小さめで、ちょっと早く咲き始める お仲間。
ちなみに、
タチアオイと同じくらい大きめで、ちょっと遅く咲き始めて、秋まで咲いて、
木みたいになるのは、
「ムクゲ」。
ムクゲが咲くのは、まだまだ。もう少し先のこと。
、、、なんて
悠長に想ってたら、すぐに見かけるようになるんでしょうね。
もうすぐ 六月も終わりです。
そういえば、
同僚の娘さん(=まだ幼稚園)が、アオイちゃんって名前なの。これがまた、超可愛いの。
お父さんは自分と同い年だって。あはははー。笑えなくって、むしろ笑える。
*
家のネット環境。
ほぼ一ヶ月ぶりです。接続までにもひと悶着あったので、
今、ちょっと感動です。
咲き誇ってますね。アジサイ。
*
家でネットがつながらない間。
静かに本を読んだり、
先日見た映画のことを黙々と考えたり、
片付けしたり、
たっぷり寝たり。
ゆっくり、静かめに過ごしていました。
一方、仕事の現場では:緊迫的問題発生中で けっこう大変だったので
たぶん、ちょうど良かったです。バランス的に。
最初は
「あー、せっかく素敵な写真撮れたけど、アップできない!くやしー!」
とか
そもそもテレビも無いので、入って来る情報量が格段に減ったことに 不安になったりしたものの、
だんだん ちゃんと慣れて来てね。
まーあ、楽になりました。
気持ち的には、「休暇」みたいな感じでした。
超大量情報奔流社会システムの 目まぐるしい怒濤の渦から
いったん飛び抜けて、
ちょっとお休み頂きました。っていう感じ。
休んでみると、
「ああ、こういう機会を、今まさに必要としてたのかも。」って想えて来ます。
偶然のような必然のような。
*
パソコン。ケータイ。iPod。インターネット。
一度手を染めると、
それが「無かった」頃のサイクルには、なかなかどうして、戻り難いもの。
あれ。
なんか、電気系ばっかりですね。
現代文明の利器っつったら、やっぱり電気系だからでしょうか。
でも、
無きゃ無いで、なんとかなるもんです。
ふつーに、生きられるもんです。
(原発だって、きっと。)
*
「それが無いと、私は 生きられないのか?/死んでしまうのか?」
あるモノの取捨選択を迫られる時。あるモノを買おうとしている時。
自分にそう、問い質してみる。
極論的な命題ですが、これは効きます。
だって、
大概のモノは、無くても「命に別状は無い」レベルのものばっかり。
無くても、それはそれで、大丈夫なものばかり。
無くても、ふつーに、そこそこ、生きられるんです。
一度、明日さえ生きられるかどうか、、という極貧恐慌状態に陥った時に、悟りました。
「生きるか死ぬか」基準で、考える。
そのモノの、「今この瞬間の自分の生死にとっての価値」を、考える。
この自問行為で、だいぶ“断捨離”、できると思うのです。
もちろん、
「これ無くても確かに死にはしない、、けど、、やっぱりどうしても手放せない!!」
っていうモノも、あります。
それはたぶん、
自分の“精神的な生命”にとって、必要なものなんだと、想います。
それがないと、自分の「魂」が、“死んだようになる”というくらいのもの。
身の回りに集まったモノの中には、そのくらいに強く結びついているものも、やっぱりあります。
どういったご縁か、巡り合わせかは いざ知らず、
ただの「物質」という次元を超えて、自分の魂的なものと密なる絆が生まれてしまったもの。
どうしても手放せない。やっぱり、どうしても棄てられない。
そういうものは、もちろん棄てる必要ない。
*
さて
なんの話なんだか、結論があるんだかないんだか、脱線してるんだかしてないんだか よくわからなくなって来ましたが
そうこうしているうちに、
タチアオイが、ぐんぐん背を伸ばしています。
梅雨と共に伸び続ける、
夏の入りを告げる、この花。
この花を見るたびに、内心、盛り上がって参ります。
夏がいよいよ来る!というか、もう来てる!
っていう興奮に。
梅雨が明けたんだか明けてないんだかの、際の時季。
この季節は、期待感でいっぱいになるので、大好きです。
曇っていようと、雨が降ろうと。
*
この時季特有の 風がまた、
とても好きです。
夏寸前の陽射しの、ちょっと本気出してきましたみたいなじりっとした熱さを
ひゅっ、と かわすような、
そして、心をひゅっと透き通らせるような、
ひんやり潤った風。
夜明けのような。
ひたすら静かな、潤んだ空気をたたえた雲の波のような、
雨の気配。
これから落ちてくる雨の気配をこっそり含んだ、
澄まして踊るような風の、眼に見えない、青い香り。
タチアオイの花と、この風。
造園を志し始めた頃の 初々しい気持ちを じんわり、憶い出します。
花の名前を 手当たり次第に覚え始めた頃の、我武娑羅な、
初々しい熱の感覚。
*
さて、
結局なにが言いたかったんだか。
なにをどうしたいんだかよくわからないまま、
想うがままに書き連ねてしまいました。
そんなこんなで、ちょびっとながら、お久しぶりな気持ちです。
アジサイと対照的な鮮やかさで
ノウゼンカズラも、あふれんばかりです。
*
ついでに。
これは、ゼニアオイ。
タチアオイより小さめで、ちょっと早く咲き始める お仲間。
ちなみに、
タチアオイと同じくらい大きめで、ちょっと遅く咲き始めて、秋まで咲いて、
木みたいになるのは、
「ムクゲ」。
ムクゲが咲くのは、まだまだ。もう少し先のこと。
、、、なんて
悠長に想ってたら、すぐに見かけるようになるんでしょうね。
もうすぐ 六月も終わりです。
そういえば、
同僚の娘さん(=まだ幼稚園)が、アオイちゃんって名前なの。これがまた、超可愛いの。
お父さんは自分と同い年だって。あはははー。笑えなくって、むしろ笑える。
*