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時代を繋いで ー 回天の島へPart1 ー

2015年08月15日 | 戦争遺跡への旅

この日の朝、私は眠たい目をこすりながら、駅に向かって歩いていました。

 

台風11号が西日本に接近している事が嘘のような、すがすがしい朝でした。

新大阪駅から6時50分発のさくら543号に乗車。

 

まずは最初の目的地、山口県を目指します。

 

窓から暖かい日が差し込んで来ます。

車内で簡単に朝食を済ませ、台風とどう付き合っていこうか?

そんな事を考えたりしました・・・。

しばらく天気は良かったのですが、岡山県を越えたあたりで雲が多くなり、

広島県に差し掛かった頃には雨が降りだしました。

結局その後、雨は降り続けたままで目的地の徳山に到着です。

 

駅を出ると私は港(徳山港)の方へ向かいました。

駅から港へは歩いて3分ほど。

 

港に到着した時、雨脚が強くて台風から挨拶されているような気がしました。

こうなったら台風と仲良くするしかない。

とにかく、晴れでも雨でも今を楽しまなければ・・・。

今回、この場所を訪ねたのは、この港から18分ほど離れた場所にある島、

大津島・・・別名「回天の島」へ行く事が目的だったのです。

港には↓↓このように実物大の回天の模型が展示されていました。

 

こちらの模型は、映画「出口のない海」の撮影で使用されたそうです。

「回天」というのは、第二次世界大戦中に開発された特攻兵器です。

1~2名搭乗できる特殊潜航艇で、若い兵士達がこれに乗り、敵艦隊へ突っ込んでいったのです。

「人間魚雷」とも言われています・・・。

 

私がこれから向かう島には、この回天と共に、短い生涯を終えた若者達の歴史が記されています。

私が生きていること、生かされていること、楽しんだり悲しんだりすること・・・、

怒ったり笑ったりすること、私がこうして旅をしていること・・・、

そのすべては多くの命から成り立っていると、私はそう思っています。

ですから、戦争で亡くなられた若者達の命にも、もちろん支えられているわけです。

だから私は、彼等のことを知る必要があるのです。

 

回天の島、大津島へは高速船で向かいます。

出発の時刻まで少し時間があったので、しばしフェリーターミナルで小休止。

 

フェリーターミナルでは団体で来られている若き自衛隊の姿がありました。

研修目的で大津島へ行くようです。

 

ターミナルには、漫画家佐藤秀峰氏の作品「特攻の島」の大きなPOP板があります。

また、原寸大では無いですが、回天のレプリカも展示されていました。

 

このターミナルで船の往復切符を購入。

雨脚が強く、船が動くのか心配でしたが、どうやら大丈夫のようです。

 

切符には「大津島」ではなく「馬島」と記載されていますが、それは独立した島でなく、

大津島の中にある「馬島」という地名なのです。

この馬島に回天記念館と回天基地跡があります。

 

出発時刻の10分前に乗船しました。

最初は静かな船内でしたが、徐々にお客さんが増え、騒がしくなります。

 

先ほどフェリーターミナルで見かけた若き自衛隊の方々も乗船されていました。

そして午前9時30分、大津島へ向けてフェリーは出港、18分ほどの船旅です。

船の窓から景色を撮ろうとしたのですが、雨に邪魔されてうまく撮れませんでした。

でも、ここで奇跡が・・・。

島が見え出した時、雨が上がったのです。

 

今までの雨が嘘だったように、傘をさすことなく大津島へ上陸です。

 

島へ上陸すると、多くの人は回天記念館へ行かれます。

ですが私は、先に回天基地跡(回天発射場跡)へ向かいました。

 

人が少ない方が撮影しやすいからです。

案の定、基地跡へ向かうのは私ひとりだけです。

ただ、ひとりで行くにはとても寂しい道です・・・。

 

少し歩いたところでトンネルが見えました・・・。

相変わらず人影はありません・・・。

立看板に書かれている通り、このトンネルは第二次世界大戦当時からのものです。

下の画像では中が明るく見えますが、実際はけっこう薄暗いです・・・。

 

トンネルの長さは247m、暗所恐怖症の私に耐えられるかどうか分かりませんが、

とにかく前へ進むことにしました。

事前の情報では、トンネルの途中で自動的に音声案内が入るらしい。

トンネル内をしばらく歩いていると、遠くからボワァ~ンと不気味な音が聴こえて来る・・・。

よく聴くと人の声だ。

どうやらセンサーが私を検知して、事前の情報通りに音声案内が開始されたようです。

スピーカーの10mほど手前で開始されるので、予備知識が無いとビックリすると思います。

スピーカーのある場所では、当時の写真が展示されていました。

 

展示されている写真を見ながら歩いていると、10mほど後方で物音が・・・。

振り向くと、女性の方がひとり、こちらを見て立ち止っていたのです。

観光客の方だと思います。

ただこの後、この女性とすれ違うことはありませんでした。

発射場跡へ行くにはこの通路しか無いのに・・・。

私が思うに、女性の方向から私を見ると、

私の姿はシルエットになっていて不気味だったものと思います。

それに加えて、例の音声案内がボワァ~ンと聴こえてきたものだから、

怖くなって引き返したのでしょう・・・。

 

トンネルの向こうに海と発射場跡が見えて来ました。

暗くて怖かったですが、何とかトンネルを抜ける事が出来ました。

 

トンネルを抜けてすぐのところに「魚雷発射場跡」と記された石碑があり、

そこには「この地より 海の砦として 若ものは征く」と書かれていました。

そして目の前に発射場が・・・。

先の大戦中、多くの若者が、あのトンネルを抜けてここまで歩いて来たのだ・・・。

彼等の足音が今も尚、ここに残っているように思えるのです・・・。

 

20歳前半の若者達がこの場所で、

一度出撃すれば二度と陸には上がって来れない、人間魚雷に搭乗したのです。

 

周りに誰もいなかった事が幸いでした。

私は目を閉じ、耳をすませました。

そうする事で、当時の彼等の声が聴けそうな気がしたからです。

 

でも、私の耳に聴こえるのは波の音だけ・・・。

ザーザーと、とても寂しい音です・・・。

死を覚悟して、

二度と帰郷出来ない事を覚悟して、彼等はこの地に立っていたと思います。

それに比べて私は・・・。

死を覚悟している訳でもないし、いつでも帰郷出来る・・・。

そんな私に、彼等の声なんて聴こえるはずが無い。

 

でも、信じたいのです。

彼等の望んでいた未来が、戦争をしていない現在の日本だという事を。

死を覚悟して、この地に立つ人間がいなくなる事を彼等は望んでいた・・・、

そう信じたいのです・・・。

戦争のない世の中にしていく事で、彼等との絆が強まると信じています。

「絆」という言葉は、生きている者だけにある言葉では無く、

生きている者と、死んでいった者との間にもあるのです。

 

どんよりした空に、発射場がさみしく映ります。

故郷に帰りたかっただろうに・・・。

ご両親に甘えたかっただろうに・・・。

君達が命を懸けて繋いでくれた時代を、私は大切に生きようと思う。

 

つづく

 

↓↓トンネル内で展示されていた写真



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