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時代を繋いで - 回天の島へ Part2 -

2015年08月15日 | 戦争遺跡への旅

前回からの続きをお話しさせて頂きます。

回天基地跡を後にした私は、その後、回天記念館へ向かいました。

 

回天記念館へ続く道も人影は無く、寂しい道です。

 

少しばかり長い坂道もありました。

この坂は「回天坂」とも言われているそうです。

 

坂道を上がりきったところに回天記念館がありました。

とても静かな場所です。

 

門から記念館までは石畳の道が続き、その脇には戦死者の名前を刻んだ石碑が並んでいます。

また、敷地内には平和記念の鐘や、回天の碑(いしぶみ)がありました。

 

私は回天碑の前に立ち一礼・・・。

「本当にご苦労様でした。」と言葉をかけました。

 

近くには森繁久彌さん(俳優)の詩碑があります。

 

詩の内容は、下の画像をみていただければと思います。

 

不思議に思ったのが、上の画像を見ていただけるとお分かりになると思いますが、

何故か古めかしい腕時計が置かれていました・・・。

忘れていったものなのか? 捨てられたものなのか? それとも故意に置かれたものなのか?

故意に置かれたものならば、どんな物語があったのだろうか・・・。

針が折れて時を刻めない腕時計・・・。

でも、閉じられた時間の中で腕時計は静かに存在し、誰かを待っているように思えます。

そっとしておこう・・・。

私はこの場を離れました。

 

記念館の前には実物大の回天のレプリカが展示されていました。

潜航艇というよりも、これはやはり魚雷です・・・。

決して人が乗る物では無いと思う・・・。

私は記念館へ入りました。

入館料300円を払い、スタッフに「館内は撮影可能ですか?」と訊ねました。

すると「展示物を個々に撮影しなければ大丈夫ですよ」との返事をいただきました。

 

館内は思ったほど広くは無い・・・、

ただ、展示されている内容が深い・・・。

まずは遺影写真に写る若者達を拝見させていただきました。

 

遺影の数と、少年の面影を持った若者達が多かったことに驚きました。

年齢を見ると殆どが20歳前半です。

この回天による戦没者は145名(搭乗員、整備員など)で、

没時の平均年齢は21.1歳と記念館のパンフレットに記載されていました。

 

彼等の遺影を見て、私の口からでる言葉はやはり「ご苦労様でした」・・・それだけです。

館内には回天の操縦席のレプリカが展示されていました。

このレプリカは映画の撮影用として、実際の回天よりすこし大きめに作られているそうです。

佐々部清監督の「出口のない海」で使用されたものです。

他にもじっくり見てみたい展示品が沢山あったのですが、徳山へ戻る船の時間が迫っていました。

後ろ髪を惹かれる思いで、私は仕方なく記念館を後にしました。

きっとまた訪ねようと思います。

「天を回らし、戦局を逆転させる!」この言葉から「回天」の歴史がはじまりました。

人が操縦して敵艦隊に体当たりするという特攻兵器「回天」。

その多くは欠陥品だったと言われています。

欠陥品と分かっていて、出撃させていたのです。

だから多くの若者は、敵艦に体当たりする事なくこの世を去っているのです。

だからと言って、彼等が無駄死にしたとは思っていません。

彼等の「死」があったから、現在の平和があるのです。

彼等はしっかりと時代を繋げてくれました。

戦争はいつも若者に「戦え!」と叫びます。

若者は無理やり家族と離され、すべてが戦争に奪われていきます。

「今日」も「明日」も戦争に奪われます。

やがて若者は、顔も人生も知らない相手の命を奪います・・・。

また、顔も人生も知らない相手に命を奪われます・・・。

家族の知らない土地で、若者の命は絶えます。

多くのものを戦争に奪われた若者たち・・・。

でも、信じたいのです・・・心だけは彼等のものだったと・・・。

島を離れる間際、また雨が降り出しました。

さよなら・・・回天の島。

8月15日は終戦の日です。

前回と今回の記事を、是非とも読んでほしい・・・。

この回天の記事が、ほんの少しでも戦争の事を考えるきっかけとなれば本望です。

 

 

回天記念館

住所 山口県周南市大津島1960
TEL・FAX:0834-85-2310
定休日 水曜日



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