令和3年8月15日。
本日は終戦記念日という事もあり、このような記事をアップさせていただきました。
コロナ禍でなければ広島県の呉を訪ねる予定でしたが、
まん延防止措置や緊急事態宣言などで、呉を訪ねるのは中止しました。
コロナ禍でも終戦記念日に向けて何かできないかを考えた結果、
私の地元である大阪府内の戦争遺跡や空襲のあった場所を訪ねる事にしました。
まず最初に訪ねたのが、JR大阪環状線京橋駅南口の「京橋駅爆撃被災者慰霊碑」です。
昭和20年8月14日13:16~14:01の間、大阪砲兵工廠を中心に、
大阪市東区・城東区でB29爆撃機145機から707トンもの爆弾が投下されました。
第8次大阪大空襲です。
終戦前日の空襲です・・・。
大阪砲兵工廠への空襲で、その流れ弾(1トン爆弾4発)が京橋駅に落下。
当時は昼間という事もあり、駅のホームには沢山の乗客がいました。
京橋駅は城東線(現:JR大阪環状線)と片町線が立体交差していて、
乗客の多くは城東線ホームの下、片町線ホームへ避難しました。
ただ、不幸にも流れ弾のひとつ(1トン爆弾)が城東線ホームを突き破り、
多くの乗客が避難していた片町線ホームに落ちたのです。
被爆犠牲者は判明しているだけで210名とされています。
ただ実際には、500~600名が犠牲になったとも言われています。
流れ弾が落ちた事で、京橋駅は地獄のような惨状になったそうです。
当時は京橋駅へ学徒動員されていた女学生達がいて、
改札や出札、駅名連呼の作業をされていたそうです。
多くの女学生は駅員の誘導で防空壕へ避難し、難を逃れたようです。
1時間近く続いた空襲による爆撃が終わり、防空壕から出ると、
辺り一面に遺体が横たわっていたそうです。
彼女達は憲兵に遺体を運ぶ作業を命じられます。
爆弾により被爆したご遺体がどういう状態のものか?想像してみて下さい。
多くの女学生はこれまで遺体に触れた事がなかったそうです。
そういう彼女達が、被爆したご遺体を運んだのです・・・。
次に訪ねたのが「大阪砲兵工廠跡碑」です。
「工廠(こうしょう)」とは、軍直属の軍需工場の事を言います。
大阪砲兵工廠は、現在の大阪城ホールを中心に、大阪ビジネスパーク一帯から、
JR大阪環状線の東側と森ノ宮方面までの広い範囲に亘って存在していました。
当時は東洋一の兵器工場と言われ、終戦直前には6万人以上が働いていたそうです。
昭和20年8月14日の空襲により、大阪砲兵工廠は徹底的に爆撃されました。
工場設備の9割が壊滅。
防空要員を除いた多くの工員は、空襲警報により退避出来ましたが、
残念ながら382名もの尊い命が奪われました。
大阪砲兵工廠の本館だった建物は、昭和56年まで現存していましたが、取り壊され、
跡地に大阪城ホールが建てられました。
次に訪ねたのは大阪城天守閣です。
大阪砲兵工廠への爆撃により、大阪城の敷地内でも被害を受けています。
8月14日の空襲で、二番・三番・伏見・坤の4櫓と京橋口多門が焼失しました。
また、大阪城天守閣の東北隅と西南隅に1発ずつ1トン爆弾が投下されています。
それぞれの石垣は戦後に補修されましたが、
東北隅では現在も尚、石垣のズレを見る事が出来ます。
↓↓【大阪城天守閣東北隅の石垣(空襲被害跡)】
あと、大阪城の本丸には旧第四師団司令部庁舎が残存しています。
1665年に落雷で炎上した天守閣の復興のために集められた寄付金150万円のうち、
80万円を投じて、1931年(昭和6年)に建てられたのが第四師団司令部庁舎です。
昭和4年頃の銀行員の初任給が約70円だったそうですから、
80万円という寄付金がどれだけ膨大な額だったか理解出来ますね。
↓↓旧第四師団司令部庁舎(現:ミライザ大阪城)
こちらの建物はドイツの城砦を模したそうです。
建立後すぐに陸軍の管理下に置かれました。
終戦直後は連合国軍が接収し、接収解除後には警察の庁舎となり、
昭和35年から大阪市立博物館として使われました。
平成29年に耐震補強、外装、内装の改修工事が完了して、
現在の「ミライザ大阪城」として、
土産物店や飲食店などのテナントが入った施設に変貌を遂げました。
昭和6年に国民の寄付金で建てられてから、実に86年もの歳月を経て、
ようやく民間の手に戻って来たのです。
次に向かったのが大阪城の山里丸。
山里丸の石垣では、大阪大空襲の中、
機銃掃射により傷つけられたと思われる痕跡が残っています。
↓↓【山里丸石垣の機銃掃射痕】
とても生々しい戦争の傷跡です。
旧陸軍兵器支廠本部門にも訪ねました。
嘗ては大阪陸軍兵器支廠があり、兵器や兵器材料の保管および修理などを行っていました。
戦後、兵器支廠の倉庫などは取り壊されて、現在は大阪城公園城内詰所となっています。
尚、門柱と塀は当時のまま残存しています。
↓↓【旧陸軍兵器支廠本部門】
次に城南射撃場跡を訪ねました。
明治時代、露天の射撃場だった場所に、
昭和7年、コンクリートで出来た長いトンネル式の射撃場が竣工。
在阪陸軍歩兵部隊の実弾射撃訓練場として使われていました。
↓↓城南射撃場跡
戦後は陸上自衛隊が射撃練習場として使用し、昭和43年には撤去されました。
次に大阪砲兵工廠の表門だった場所を訪ねました。
↓↓旧大阪砲兵工廠表門
↓↓表門の近くには明治初期に建てられた守衛所が残存。
守衛所から少し歩くと寂れた大きな建物が現れます。
それが旧大阪砲兵工廠化学分析場です。
↓↓【旧大阪砲兵工廠化学分析場】
こちらの建物で、兵器の研究開発および化学実験が行われたとされています。
戦後は国の庁舎、大阪大学工学部の校舎、自衛隊の庁舎として使用されました。
現在は放置状態で立入禁止となっています。
建物の老朽化により、現状のままで使用するのは無理らしい。
でも、何とか保存してほしいと思います。
ここに戦争があったという事を伝えるために・・・。
次に訪ねたのは大阪の繁華街である道頓堀です。
道頓堀一帯は、第一次大阪大空襲で壊滅的な状態になりました。
第一次大阪大空襲は昭和20年3月13日23:57~27:25の間、
大阪市浪速区、港区、天王寺区など広い範囲で、B29爆撃機274機により、
焼夷弾1773トンが投下されました。
「恐怖の火の豪雨」と称された焼夷弾は、逃げ惑う人々に容赦なく襲いかかりました。
辺り一面が炎に包まれ、逃げ場を失った人々は、
先を争うように道頓堀川へ飛び込んだそうです。
道頓堀から近い湊町では、人々が人口貯水池に飛び込み、難を逃れようとしましたが、
貯水池は爆撃による炎で沸騰し、多くの人が重症火傷を負い亡くなったそうです。
NHKの朝ドラ「おちょやん」に登場したうどん屋さん、
「岡福うどん」のモデルとされている「道頓堀今井」さんもこの空襲により、
「道頓堀今井」の前身「今井楽器店」が廃墟と化しました。
今井さんの空襲当時の話は↓↓こちらのサイトで詳しく語られています。
【道頓堀今井~今井と道頓堀の200年「芝居とジャズと、宵町柳」~】
是非ともご覧になって下さい。
道頓堀から南へ少し歩くと高島屋があります。
大阪市の北エリアが爆撃された第三次大阪大空襲の後、
現在のJR大阪駅から高島屋がはっきりと見えたそうです・・・。
次に訪ねたのが大阪市東住吉区の「模擬原子爆弾投下跡地之碑」です。
↓↓【模擬原子爆弾投下跡地】
昭和20年8月6日に広島県で原爆が投下される11日前、
7月26日9:26に現在の田辺小学校北側に爆弾が投下されました。
落とされた爆弾は長崎に投下された原子爆弾と同じ形、同じ重さものです。
通称パンプキン爆弾と言われています。
中身は高性能火薬、トリニトロトルエン火薬(TNT火薬)約5トンの爆弾です。
この爆弾こそが、原爆の投下訓練として使われた模擬原爆だったのです。
模擬爆弾は昭和20年7月20日から日本各地に投下され、
死者200名、負傷者1200名とされています。
「模擬原子爆弾投下跡地之碑」は恩楽寺の門前に設けられています。
こちらの恩楽寺も本堂が模擬爆弾の爆風により傾いたそうです。
私が訪ねた時は、残念ながら見学する事が出来ませんでした。
次に訪ねたのが阪急京都線崇禅寺駅前の、
柴島(くにじま)浄水場壁面の空襲による弾痕です。
案内板には下記の内容が記されています。
「柴島浄水場壁面の空襲による弾痕
一九四五年六月七日・六月十三日・六月二十六日、
東淀川区は米軍による空襲にみまわれた。
特に六月七日の空襲は激烈をきわめ、一トン爆弾や焼夷弾が雨あられと降りそそいだ。
米軍機はさらに低空の機銃掃射を繰り返し、
浄水場の崇禅寺駅側壁面に弾痕が約五十メートルにわたり残された。
この弾痕は空襲に倒れ、傷つき、死んでいった物言わぬ多くの人々への生き証人として、
私達に語りかけている。」
米軍がこの柴島浄水場を爆撃したのは、大阪の水を断つためでした・・・。
次に訪ねたのが旧長柄橋弾痕です。
淀川に架かる長柄橋の南詰に明倫観世音菩薩像があり、
隣接するコンクリートブロックの銘板に「旧長柄橋弾痕」と記されています。
このコンクリートブロックは、旧長柄橋の橋脚です。
↓↓【旧長良橋弾痕】
昭和20年6月7日11:09~12:28の間、
B29爆撃機とP51戦闘機547機が大阪市の北エリアに、
機銃掃射による攻撃と焼夷弾など2594トンもの爆弾を投下しました。
第三次大阪大空襲です。
北エリアは火の海と化しました。
旧長柄橋の下には、逃げ場を失った人々が退避して来ましたが、そこに直撃弾があびせられ、
400人もの尊い命が奪われました。
次に訪ねたのが大阪市旭区の城北公園です。
↓↓【城北公園】
この城北公園北側、淀川の堤防のところに千人つかというお堂があります。
↓↓【平和地蔵尊 爆撃犠牲者之精霊 千人つか】
昭和20年6月7日の第三次大阪大空襲で、壊滅的な状態になった大阪市の北エリアでは、
身元不明のご遺体があちらこちらに放置された状態でした。
それを見かねた市民が自らの手で、城北公園北側の淀川堤防中腹にご遺体を集めたのです。
ご遺体は千数百人・・・、この地で燃やされました。
その煙は黒く、三日三晩燃え続けたそうです。
千数百人の遺骨は市民の手により、庭石に「千人つか」と刻んで弔われました。
その後千人つかは、淀川の堤防工事により何度も移設されます。
一時期は雑草に覆われ、忘れ去られそうになった時期もあったそうです。
戦争の記憶が、決して風化される事のないように、
千人つかは現在の場所に落ち着きました。
千人つか由来記には、下記の言葉が記されています。
「千人塚由来記
日本未曾有の大敗戦の昭和二十年六月七日残存せる大阪を壊滅せる大空襲により
戦災死者数万人中身元不詳の千数百の遺体を此処に集め
疎開家屋の廃材を以って荼毘に付す
鬼哭啾々たる黒煙天に柱し、三日三晩に及ぶ
悉く市民の奉仕協力による遺骨は其の侭土中にして此処に葬る
訴うるに声無き無辜の国民の痛恨の空しく土に埋もれ草に掩れて
世に忘れ去られんを憂いて巷間の義人東浦栄二郎氏庭石に唯千人つかと刻して此処に置く
進駐軍治下と近畿地建の管理地なるを以ってなり
爾耒三十有星霜香華他ゆる事なきも世人この塚の謂れを知らず茲に其の由来を刻し
地下に眠る無辜無縁の霊位の冥福を祈り国家安泰と軍官専横苛政による
国民塗炭の痛因と犠牲の再現を永く阻止し世界人類の和平を祈願する日本国民の総意を
世に問うものなり
一九八〇年五月五日 後世正亮記」
淀川の河川敷には、今もなお爆弾が投下された跡が多く残存しています。
地元では「爆弾池」と呼ばれています。
この空が戦争により、黒く赤く染まらないように強く平和を祈ります。
この町に戦争があった事を忘れません。
大阪では昭和20年3月13日から終戦前日の8月14日まで、
8度にわたって空襲を受けています。
大阪大空襲により、大阪府では死者1万2620人、行方不明者2173人、
被災家屋34万4240、被災者122万4533と言われています。
「大阪府警察局 大阪府被害状況(1945年10月)」より
〖その他の戦争遺跡〗
【淀川橋梁(赤川鉄橋)】(大阪市東淀川区)
戦時中は物資の輸送で使われていました。
大阪大空襲では、米軍が輸送路を断つために何度も爆弾を投下しました。
幸いにも直撃は免れて、現在はJRおおさか東線の車両が走っています。
【加賀谷家防空壕跡」(大阪市住之江区)
終戦前日に完成したコンクリート式の防空壕です。
【旧陸軍大阪航空廠通用門の門柱】(大阪府八尾市)
【旧大正飛行場格納庫跡】(大阪府八尾市)
【大正飛行場掩体壕】(大阪府八尾市)
掩体壕は言わば戦闘機専用の防空壕です。
現在大阪府で唯一残存している掩体壕です
先の大戦において、尊い命を捧げた戦没者の御霊に、
謹んで哀悼の意を表するとともに、
ご遺族の方々には心よりお悔やみ申し上げます。
放浪うどん人 tati
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