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この町に戦争があった。 ー 大阪大空襲の傷跡 ー

2023年08月15日 | 戦争遺跡への旅

今回の記事は、8月15日「終戦の日」の特別企画として執筆致しました。

うどんに関する情報は全く記載していませんので予めご了承下さい。

 

梅雨が明け、本格的な夏が到来。

太陽の光が燦々と降り注ぎ、その輝きはまるで炎天下の鏡のようです。

地面はじりじりと熱く、歩くたびに足元から暑さを感じました。

そんな中、私が最初に訪れたのは大阪市都島区内代町の『内代公園』です。

1945年6月7日11:09〜12:28の間、豊中市と大阪市の北部から東部にかけて、2,594トンの爆弾や焼夷弾、機銃掃射が町を襲いました。

第三次大阪大空襲です。

こちらの公園周辺では60名余りの尊い命が犠牲となりました。

園内には平和を祈念する碑が建てられています。

碑の裏には以下の内容が彫られていました。

昭和二十年年大東亜戦争も日に日に戦局不利となり再三にわたり本土上空に敵機の来襲を見るにいたりました

内代町も同年六月七日折からの大空襲に一瞬にして火の海となり降りそそぐ焼夷弾、機銃掃射によって老若男女、幼児に至る六十有余名が悲惨な犠牲となられました

全部この地で荼毘に付され遺骨は雲観寺、一心寺へと納められましたが無縁の遺骨は散り散りに埋没、一時供養塔を建立供養を営みましたが公園整備で取り除かれ、その後四十九年二月霊の願に依り町内世話人相はかり同年六月供養塔を建て年ごとの法要を営み五十二年六月五日三十三回忌も無事回向、供養塔に変え世界の平和を祈り茲に碑を建立する

昭和五十三年六月吉日

内代町世話人一同 

聖護院門跡光徹九十六書

現在、公園の隣に佇む小学校から、無邪気な子供たちの声が透き通った空気に溶け込み、公園一帯に楽しい響きを届けています。

公園内でくつろぐ大人たちの姿からは、穏やかな時間の流れを感じました。

内代公園
〒534-0013 大阪府大阪市都島区内代町3丁目2−6

 

内代公園を後にして訪ねたのは大阪市北区曽根崎の『お初天神(露天神社)』です。

境内に入ってすぐのところ、「曽根崎道祖神」の愛らしい像が目に付きます。

その像の裏にある、標柱(しめばしら)に戦争の傷跡が残っています。

こちらも『内代公園』と同じ日、第三次大阪大空襲で被害を受けています。

標柱には機銃掃射の跡が残っています。

もうひとつの標柱にも同じ様な傷跡が残されていました。

空襲により社殿は焼失。

現在の社殿は1957年に再建されています。

お初天神(露天神社)
〒530-0057 大阪府大阪市北区曾根崎2丁目5−4

 

お初天神を後にして訪ねたのは京橋です。

上の画像はJR学研都市線京橋駅2番ホームから撮影しました。

こちらの京橋駅では終戦日前日1945年8月14日の第八次大阪大空襲で、多大なる被害を受けています。

京橋駅での被害状況については、以前、当ブログで公開したこちらの記事をご覧頂ければと思います。

京橋駅はJR環状線、学研都市線、東西線、京阪京橋駅などの乗り継ぎ駅で、多くの方達が利用されています。

ただ、殆どの人が、このレンガ造り窓について、知る人は少ない。

このレンガ造りの窓は、第八次大阪大空襲で被害を受けた田村硝子の工場跡なんです。


(上の画像はWikipediaより引用)

画像は空襲から10ヶ月経った京橋駅の様子です。

電車の向こうにある建物が田村硝子の工場です。

また、駅から少し歩いた場所にあるマンションにも、硝子工場の跡が残されていました。

京橋駅への爆撃により、被爆犠牲者は判明しているだけで210名とされていますが、実際には500~600名が犠牲になったとも言われています。

京橋駅
〒536-0015 大阪府大阪市城東区新喜多1丁目 2番31号

 

京橋を後にして訪ねたのは森ノ宮です。

JR大阪環状線森ノ宮駅のすぐ近くにある『森之宮神社(鵲森宮)』へ参拝。

第八次大阪大空襲では、東洋一と言われた軍需工場『大阪砲兵工廠』がターゲットにされました。

現在の大阪城ホールを中心に、大阪ビジネスパーク一帯から、JR大阪環状線の東側と森ノ宮方面までの広い範囲に亘って存在していました。

終戦直前には6万人以上が働いていたそうです。

ですから砲兵工廠があったこの森ノ宮でも、空襲により被害を受けています。

また、第八次大阪大空襲以外でも、この周辺では幾度に渡り空襲を受けています。

『森之宮神社』では、境内にある狛犬の台座に空襲の傷跡が残っていました。

こちらの傷跡は機銃掃射の跡だそうです。

一説に当時の米軍は、戦闘機の兵士に向け「動いている物があればとにかく撃て!」と命令されていたそうです。

この場所に機銃掃射の跡が残っているのは、恐らく参拝されている人を狙って撃ったと思われます。

先に紹介したお初天神の傷跡も、理由は同じものと思われます。

下の画像は第七次大阪大空襲で被害を受けたとされる森ノ宮駅の様子です。


(上の画像はWikipediaより引用)

そして現在のJR大阪環状線森ノ宮駅ホームの画像が↓↓こちらです。

屋根を支える鉄骨ですが、その一部は空襲当時からのものです。

空襲に負けず、こうして残っています。

森ノ宮駅を出て、東に向かって5分ほど私は歩きました。

目的地の『森之宮団地』。

実はこの団地、大阪砲兵工廠の跡地に建てられた団地なんです。

団地内の静かな場所に、碑が立っていました。

JR大阪環状線森ノ宮駅
〒540-0003 大阪府大阪市中央区森ノ宮中央1丁目1−45

 

森ノ宮を跡にして訪ねたのは玉造。

真田幸村ゆかりの地、大阪市天王寺区『三光神社』を訪ねました。

大阪城からこの地まで続く「真田の抜け穴」、その抜け穴の出入口がこの神社にあります。

そしてこの神社に隣接してあるのが↓↓こちら。

『真田山陸軍墓地』です。

この墓地の存在は、現在、残念ながら大阪の人にもあまり知られていません。

こちらの墓地は、日本で最も大きな規模を持つ陸軍墓地とされています。

1873年の徴兵令施行以前の兵士や、西南戦争、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦における軍人や陸軍関係者、病死者で亡くなられた人々が埋葬および納骨されています。

この墓地で眠る多くの御霊に、敬意と哀悼の意を捧げます。

戦争で亡くなった人々の犠牲を忘れず、平和への願いを持ち続けることが大切なんだと、この地を訪れ、心にひしと感じました。

真田山陸軍墓地
〒543-0013 大阪府大阪市天王寺区玉造本町14−83

 

真田山陸軍墓地を後にして、JR大阪環状線玉造駅へ向かいました。

実はJR玉造駅「黒門町架道橋」(高架下は長堀通)にも戦争の傷跡が残っています。

橋を支える橋脚をよく見ると、不自然な穴や裂け目があるのが分かります。

この穴や裂け目は機銃掃射の跡です。

森ノ宮同様、この玉造も幾度に渡り空襲を受けています。

この橋梁も、それらの空襲に負けず、こうして現在も橋を支え続けているのです。

JR大阪環状線玉造駅
〒543-0014 大阪府大阪市天王寺区玉造元町

 

今回、最後に訪れた場所がこちら。↓↓

『上方芸能発祥之地 てんのじ村記念碑』

戦前から戦後にかけて、多くの芸人が集った場所、それが『てんのじ村』です。

阪神高速道路阿倍野入口の傍ら、金網に囲まれてひっそりとその記念碑は佇んでいました。

空襲で、壊滅的な被害を受けた大阪でしたが、てんのじ村はその戦災から免れました。

空襲で家を失くした芸人に対し、演芸斡旋事務所がこの地で暮らせるよう取りはからったり、戦争中、散り散りになっていた芸人が戻って来たりと、終戦後もてんのじ村は多くの芸人で賑わっていたそうです。

たが当時、演芸劇場の多くを空襲で失っていました。

そんな中、芸人に光を当てたのが、この記念碑からほど近い場所にあった演芸劇場『天王寺館』です。

てんのじ村の芸人達は、その劇場で芸を振るったそうです。

戦争は多くのものを奪い取っていきましたが、でも、芸人から「笑い」を奪い取ることは出来ませんでした。

人間の強さはそういう事なんだと思います。

命を奪うものよりも、命を楽しませるものの方が強い。

てんのじ村記念碑
〒557-0001 大阪府大阪市西成区山王1丁目10 阪神高速 阿倍野入口

 

戦争で亡くなった方々に心から哀悼の意を捧げます。

戦争のない世界を築く為、微力ですが努力していきます・・・。

 

放浪うどん人tati



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