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小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

最終段階に迫った「集団的自衛権行使」問題をめぐる攻防――その読み方はこうだ。③

2014-06-20 05:48:04 | Weblog
 さて防衛大学校名誉教授の佐瀬昌盛氏は「集団的自衛権行使は『戦争』に非ず」とのたまう。本当か。
 戦争をしたがっている日本人はいない。ま、有権者だけでも1億人を超えるのだから、戦争をやりたがっている日本人もゼロではないかもしれない。が、少なくとも一国の総理である安倍晋三氏が、戦争目的で集団的自衛権行使を可能にしようなどと考えているわけはない。
 かといって、戦争をなくすために集団的自衛権の行使を可能にするといった論理は、どう考えても理解不可能だ。しかも、安倍=高村ラインは、やっと集団的自衛権についての従来の政府解釈を変更することを明らかにした。私が今年1月にブログで指摘したことだ。安倍=高村ラインが「新解釈」を明らかにしたことで、メディアもようやく気が付いただろう。
 高村氏が公明党に示した「自衛権発動の新3要件」とはこうだ。

1.我が国に対する武力攻撃が発生したこと、または他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるおそれがあること
2.これを排除し、国民の権利を守るために他の適当な手段がないこと
3.必要最小限の実力行使にとどまるべきこと

 これはいったい「集団的自衛権」の新解釈なのか、それとも「個別的自衛権」の新解釈なのか? はっきり言って、「又は」という接続詞で国連憲章が加盟国に認めた二つの同等な「固有の権利」である個別的自衛権と集団的自衛権をごちゃ混ぜにすることによって、憲法解釈が可能になるとでも主張しているように見える。というより、それが目的なのだろう。
 従来の集団的自衛権についての政府解釈は「自国が攻撃されていないにもかかわらず、密接な関係にある国が攻撃された場合、自国が攻撃されたと見なして実力を行使する権利」で、「日本も固有の権利として保持してはいるが、憲法9条の制約によって行使できない」というものだった。
 なぜ歴代自民党政府は「権利はあるが、行使できない」としてきたのか。個別的自衛権についての政府解釈を前提にする限り、集団的自衛権の行使が不可能なのは当り前である。
 主権国家である以上、自分の国は自分で守るための自国の軍隊・戦力を持つことは当然のことである。憲法9条は芦田修正によって自衛権まで否定したものではないという意味が込められたが、いったん明文化されると、憲法に限らず独り歩きを始める。とくに何らかの特定の意図を持って、それなりに世論への影響力を持つ団体(政党を含む)・メディア・学者・ジャーナリストなどが解釈しようとすると、とんでもない誤解が世間に定着してしまうことになる。
 たとえばNHKの籾井会長が就任の記者会見で「政府が右と言っているのに左と言うわけにはいかない」と発言したことをとらえ、自公政府に批判的なメディアは一斉に「政府の言いなりになるのか」と噛みついた。確かに籾井氏はそういう発言はしたが、NHKの国際放送について「竹島・尖閣諸島についてはどういうスタンスで報道するのか」という記者の質問に答えたのが先の発言であった。小中学生の教科書にも領有権を明記することになったケースについて、この質問をした記者は「竹島・尖閣諸島の領有権は日本にはない」と言いたかったのか。質問をした記者が、この問題についてどういう認識を持とうが、それは個人の自由だが、記者とのどういう質疑応答の中で、いわゆる「籾井発言」が飛び出したのかは不問にされ、「政府が右と言っているのに左と言うわけにはいかない」という一部の発言だけが切り取られ、独り歩きしだした結果、「NHKは公共放送でありながら、政府の言いなりになるメディアだ」と決めつけられてしまった。さらに籾井氏がまずかったのは、その発言の趣旨を明確にせず「個人的見解であり、自分の個人的見解をNHKの報道に反映させるようなことはしない」と、おかしな弁明をしてしまったことである。
 同様に、憲法9条が認めていると政府が解釈している個別的自衛権についても、これまで自民党政府はとんでもない解釈と行使についての限定を加えてきた。まず9条に明文化された「戦争の放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」が足かせになって、再軍備に踏み切って以降政府は一貫して、「戦力に至らない程度の必要最小限での実力は保持できる」とし、その実力の範囲は「専守防衛のための必要最小限」としてきた。だから自衛隊は、国内では依然として「軍隊」や「戦力」ではなく「実力」と言う意味不明な言葉で定義してきた。防衛庁を防衛省に格上げした際、自衛隊も自衛軍あるいは国防軍と名称を改めた方かいいという議論も出たが、そうすると憲法の「戦力の不保持」に抵触するといったバカげた主張によって一蹴されてしまった。
 では、自衛隊が保有できる「専守防衛のための必要最小限の実力」とはどういうことか。従来の政府解釈によれば「外国からの違法な侵害に対して、自国を防衛するための緊急の必要がある場合、それに武力をもって反撃する国際法上の権利である個別的自衛権の行使」に限定され、日本が攻撃された場合に初めて発動が許されるという解釈に立っている。もちろん「専守防衛」だから、日本を攻撃するために発射されたミサイルを迎撃したり戦闘機や軍艦を攻撃することはできるが、肝心の敵国の軍事基地を攻撃することは憲法解釈上許されないことになっている。
 この専守防衛を、分かりやすい例で考えてみよう。ボクシングの練習で、ボクサーが繰り出すパンチを野球のキャッチャーミットのような大きなグローブを両手にはめて受け止めるシーンをテレビや映画でご覧になった方は多いと思う。その大きなグローブこそ、ボクサーが繰り出すパンチに対する専守防衛の道具なのである。ボクサーを攻撃するための武器にはなりえない。
 実際には自衛隊の「実力」は敵国の軍事基地を攻撃する能力は十分備えており(ただし短距離ミサイルに限定されているから、中国・北朝鮮などの近隣諸国しか攻撃できない)、またミサイル誘導技術は世界でもトップレベルと言われている。が、そのミサイルは、敵国にとってはさしたる脅威にならない。なぜなら自国(敵国のこと)を攻撃するための武器としては使用しないと日本政府が決めているからだ。敵国は、安心して日本を攻撃できることになる。ただし、アメリカが日本防衛のために軍事介入しなければという前提だが。
 私は日本国憲法の平和主義は世界に誇るべきものだとは思っている。が「平和憲法」が日本の平和を守ってきたと主張している超楽観主義の護憲論にはくみできない。日本が戦後安全だったのは、日本防衛の「義務」をアメリカが
負っていると外国から見られてきたこと(※さりげなく書いたが、日本政府も
含めほとんどの国がそう思っている。肝心のアメリカを除いて…)、また日本を攻撃して何が得られるかと冷静に考えたら、得るものはほとんどなく逆に国際的に孤立することは間違いないという判断が国際社会で定着していること、また日本から攻撃される心配はしなくてもいいという理解がこれまた国際社会で定着していること、この三つの要素が日本が安全を維持できた理由である。
 が、現行憲法の平和主義が、偏見をもって流布されて「9条を守れ」という大きな世論の形成にあずかってきたことも、まぎれもない事実である。もちろん、そうした偏見解釈が一定の合理性を持ってしまったことは私も否定はしない。確かに憲法9条は「戦争の放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」を明文化しており、芦田修正によってそれが完全に否定されたと解釈するのはやはり無理があると私も思う。この連載ブログで引用した芦田氏の真意がどうであろうと、9条に「自衛のための戦力の保持と、自衛のための行使を除いて」という限定を加えなかったことが、その後の憲法解釈の混乱を招いたこと、また憲法改正の最大のチャンスだった日本の独立回復時に、吉田内閣が経済復興を最優先するため占領下において制定された憲法(※占領下において制定された憲法は占領軍に押し付けられた憲法、と主張している極右勢力の憲法論は私は認めていない)を改正せずに存続させたこと、また存続に際して国民の意思を問わなかったことが大きな禍根を残したことは、指摘しておく必要がある。
 実は、日本にはもう一度憲法改正の大きなチャンスがあった。誰も分かっていないが…。
 そのチャンスは湾岸戦争の時に偶然訪れた。湾岸戦争はイラクのフセイン大統領(当時)が突然クウェートに対する領有権を主張して武力侵攻したことによって生じた。このときフセイン政権は自国内の外国人をすべて拘束した。日本人141人も拘束された。が、当時の海部内閣は、この事態に対して思考能力を完全に失った。他国の国家権力によって日本人の安全が脅かされているのに、政府としての主体的な解決努力を放棄し、ひたすら国連頼み、アメリカ頼みに終始した。主権国家としての誇りと尊厳をかけて、人質にされた同胞の救出と安全に責任を持とうとするのではなく、アメリカやイギリスの尻馬にのってイラクへの経済封鎖と周辺諸国への医療・経済援助、さらに多国籍軍への資金カンパに応じただけであった。
 このとき、海部総理が国内外に「もし人質にされた日本人のたった一人にでも万一のことが生じたら、日本政府は重大な決意をもって事態に対処する」と、公式メッセージを発表していたら、おそらく国論を二分する騒ぎになっていたと思う。国会では野党が「自衛隊をイラクに派遣するつもりなのか」と政府に噛み付いたであろうし、海部内閣は「それなら国民に信を問う」と国会を解散
して、「これは海外の国家権力によって日本人の生命と安全が脅かされている事態だ。憲法9条の片言隻語の解釈にこだわって同胞を見捨てていいのか」と国民に訴えるべきだった。そうしていれば、その時点で憲法改正論はおそらく世論の大きな支持を得ていたはずだ。
 安倍総理の大きな間違いは、そうした歴代自民党政府の過ちを素直に認めて国民に謝罪していないことだ。それをせずに「戦争状態に陥った海外から脱出する日本人を乗せた米艦を防衛するために憲法解釈を変更する」などとおかしな主張をするから、内閣支持率や憲法改正についての国民の理解は高いのに、「解釈改憲による集団的自衛権行使の限定容認」には国民がソッポを向くのだ。安倍さんには、この世論の落差の意味が分からんだろうな。もちろん防衛大学名誉教授の佐瀬昌盛さんにも理解できんだろう。(終わり)