小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

希望の党・小池代表が排除する民進党系立候補予定者は、ホントウに「リベラル」派だったのか?

2017-10-02 15:45:07 | Weblog
 メディアはしきりに「小池氏率いる希望の党は民進党のリベラル派を排除」と報道しているが、本当にそういう事実があるのか。
 少なくとも私はテレビで報道される小池氏の発言(肉声)で、小池氏自身が「リベラル派は排除する」と語ったシーンを見たことがない。私が知っている限り、小池氏が排除するとした民進党前議員・今回総選挙民進党公認立候補予定者を希望の党が公認する条件として踏み絵にしたのは、憲法改正、安保法制容認の二つだけである。そのことは、小池氏が民進党代表の前原氏と初めて「合流」について話し合ったとき、明確に申し上げていると主張している(このことはテレビの肉声報道で確認している)。
 が、メディアによる「リベラル派排除」といった表現が蔓延したためか、民進党前議員の辻元氏(社会党のち社民党党首の土井チルドレンとして政界デビュー)は記者たちに「リベラルの力と重要性を信じている。だから私は(希望の党に)行かない」と、無所属で立候補することを宣言した(これも肉声報道を確認)。
 一方民進党代表選で前原氏と争った枝野幹事長は、小池氏が民進党からの受け入れに踏み絵を踏むことを条件にしたことに反発し、昨10月1日、新党結成に動き出したという。党名は民主党とし、赤松・辻元・阿部氏ら旧社民党系議員が集結するという。「三権の長経験者として排除された菅・野田両氏はまだ態度を決めかねてようだ(毎日新聞などの報道)。

 いったいメディアが一斉に報道した「リベラル派の排除」とはどういう意味を持っているのか。もともと日本にはあまり根付いた政治概念とは思えないのだが…。
 私が「リベラル」という政治概念について漠然とイメージしていたのはアメリカの民主党である。アメリカでは[共和党=保守][民主党=リベラル]というイメージで語られることが多いが、民主党自体は「リベラル政党」と位置付けられることに反発しているようだ。実際、共和党は選挙のとき民主党候補者に対して「リベラル」と批判することが多い。アメリカでは「リベラル」という言葉に嫌悪感を持つ人が多いのかもしれない(そうした事情は州によって異なるが…)。
 アメリカでは共和党と民主党との大きな違いは、「小さな政府vs大きな政府」という対立構造でもしばしば語られる。「共和党=小さな政府」は、国民や団体(企業なども含む)に対する政府の干渉は極力抑えて自由と自己責任を重視するという考え。一方「民主党=大きな政府」は社会の規律を守るために、ある程度国民や団体の自由を規制し、社会的弱者を保護することに政治の目的を置くという考え。
 そうした基本的政治理念の相違から、民主党は一貫して銃規制を主張し、共和党は「自分の身を守るための銃を規制すべきでない」「銃所有の権利は憲法で保障されている」と対立してきた。また日本のような健康保険制度がないアメリカで、民主党は民間の医療保険制度に加入できない低所得層のための健康保険制度の確立を悲願としてきた経緯があり、クリントン大統領時代にもヒラリー・クリントンが必死に法制度化しようと努力したが成功せず、オバマ大統領がやっと悲願を実現した(通称「オバマケア」)。そのオバマケアを、現大統領のトランプ氏は目の敵のように潰しにかかったが、肝心の足元の共和党からも造反者が続出して代替案も出せない状態になっている。
 ではアメリカにおける保守とリベラルとはどういう政治概念なのか。アメリカの政治風土に詳しい渡辺靖氏(慶応大学SFC教授)は「自由主義の枠内の中での『右』と『左』との違い、いわば『コーク』か『ペプシ』の違い」と喝破している。渡辺氏は共和党と民主党との争いは「コップの中の嵐」に過ぎないと言いたいようだ。

 保守とリベラルとの対立構造がその程度の差異ということであれば、私に言わせれば自民党と希望の党との対立は、いわば「コップの中のさざなみ」程度の差でしかない。憲法改正については自民の中でも、9条に3項と追加して自衛隊の位置づけを明記するというごまかし改憲派(その筆頭が安倍総理)と、そうした改正では2項との整合性が取れないと、2項そのものを書き換えるべきという正統改憲派(筆頭は石破氏)の対立が溶けない。
 そうした中で、憲法改正を踏み絵にした小池氏の、肝心の憲法改正論がいまだ見えてこない。希望の党への鞍替えを希望する民進党系立候補予定者に「憲法改正」を踏み絵にしながら自らの憲法観を明確にできないようでは、「キャッチフレーズだけの政治屋」と刻印を押されても仕方あるまい。
 ところで「リベラル」について言葉の意味を辞書やネットで調べてみた。おおよそこういう解釈でいいと思う。「政府による統治権限の行使を憲法や法律に基づいて防止・制限・抑制する」という考え方。とすれば、日本で「憲政の神様」と呼ばれた尾崎行雄氏の「立憲主義論」が、日本ではリベラル派の原点になっていると考えてもいいだろう。朝日新聞編集委員の高橋純子氏が9月30日付朝刊で、『改憲の道理、主権者が吟味を』と題したコラム記事で素晴らしい問題提起をしているので、無断転載させていただく。もし著作権侵害で訴訟を起こされたら、私は無条件で認める。著作権に触れないように氏の主張のエッセンスだけをちりばめ、私の主張のごとく書くことは技術的には可能だが、私はそういう姑息な方法はとらない。

 「『ただ一貫したる道理によってのみ支配せられる。』これが立憲政治の精神である」(尾崎行雄「政治読本」)
 1890年の第1回衆院選挙で初当選した「憲政の神様」は、憲法に基づく政治は元来「道理」を離れて運用できないと喝破した。「政治は力なり」は専制政治の悪弊。勝敗や損得ではなく道理によって動く、それが立憲政治である、と。
 はてさてそれから1世紀、当世の政治を眺めれば、「無理が通れば道理が引っ込む」専制の世に回帰したかのごとくである。
 憲法53条に基づく臨時国会召集の要求を3カ月もたなざらしにした揚げ句、演説も質疑もすっ飛ばしての冒頭解散。三権分立をないがしろにし、議会制民主主義の根幹を揺るがす行状にみじんの道理も見いだせない。安倍晋三首相にも自覚はあるのだろう、「国難」を道理の穴埋めに利用している。
 目的のためには手段を選ばず。勝てば官軍負ければ賊軍、道理は後からついてくる――。そんな首相の政治観は、憲法を扱う手つきによく表れている。
 「国民の手に憲法を取り戻す」。憲法改正の要件を引き下げる96条改正を打ち出した時、こう胸を張った首相だが、批判を浴びるやスッと引っ込め、今度は「教育無償化」をあげて日本維新の会に秋波を送り、さらには歴代自民党政権が「合憲」としてきた自衛隊を「合憲化」するため、9条に明記すると言い出した。
 何でもいいからとにかく変えたい。そんな首相の情念に引きずられ、今回の選挙では憲法がかつてなく重いテーマとなる。さすればまずもって自覚すべきは、主権者は私たちひとりひとりであり、憲法は、公権力に対する私たちからの命令であるという基本だ。
 それがいつの間にか回答者席に座らされ、改憲に賛成か反対か、二つの札を持たされていることの不思議。「さあどっち?」と迫られるままつい札を上げてしまうようでは、主権者としていかにも怠慢である。
 そもそも変える必要があるのか。何を成すためにどこを変えねばならぬのか。改憲自体の道理をよくよく吟味しなければならない。道理が引っ込む世の中とは詰まるところ、力に屈服するしかない世の中である。それでいいのかが、究極的には問われている。
 立憲主義は、苛烈(かれつ)な主権者意識を抜きには成り立たない。自らの権利は自ら守る。そのための何よりの武器が、選挙権だ。

 ただ高橋氏のコラム記事で1か所だけ、違和感を覚えた個所があるので指摘しておきたい。これは実は憲法問題を語るとき、極めて重要な視点だと思うからだ。その個所は「憲法は、公権力に対する私たちからの命令であるという基本だ」という位置づけである。
 このことを指摘すると改憲派に絶好の口実を与えかねないので、これまで敢えて書かなかったことだが、国民の聡明さを信じて書くことにした(実は友人たちとは、私が1992年に『日本が危ない』という本を上梓して以降、何度も議論してきたことだが…)。
 その重要なポイントは、現行憲法はGHQの占領下において、大日本帝国憲法が定めていた憲法改正要件に従い、国会で制定された憲法だということである。つまり、一度も国民の審判を仰いでいないという弱点を持っているのだ。少なくとも、日本が独立を回復した時点で、当時の吉田内閣は独立国としての憲法の在り方について、現行憲法を継承するならするで、国民の審判を仰いでおくべきであった。そうしていれば、「押し付けられ」議論などが横行する余地はなかったし、高橋氏が主張するように「憲法は、公権力に対する私たちの命令」と胸を張って言えるのだが、残念ながら現行憲法は私たち国民不在の中で制定され、70年という長い年月の間に定着してきたにすぎない。私はむしろ、国民の間から、新しい視点での憲法論議が巻き起こることに期待したい。そして本当に「公権力に対する私たちの命令」と、私たち国民が公権力を縛れる力を持つ憲法を作り上げたいと思う。

 いずれにせよ、日本における立憲主義が、いわゆる「リベラル」であるとするならば、小池氏はなぜリベラル的な考えを持つ人たちを排除しようとするのか、私には疑問が残る。
ただし、朝日新聞のお客様オフィスに問い合わせたところ、小池氏自身は民進党の「リベラル派は排除する」とは言っていないようだ。実際、小池氏はリベラル派の主張と同じく「反原発」も党是として掲げており、またリベラル色が強い小泉元首相や細川元首相とも価値観を共有している部分が多い。となると、メディアはなぜ小池氏が排除しようとしている民進党の人たちを一派ひとからげで「リベラル派」と称することにしたのか、そこに何らかの作為がないと言えるのか、私は多少の疑問を感じざるを得ない。
ただ民進党が自民党離党者などの保守勢力から旧社会党(社民党)からの入党者などの寄せ集め(私は「細川政権は野合政権、民主党政権は野合政党政権」と呼んできた)であり、結局足の引っ張り合いで何も決められない政治を繰り返してきた歴史を小池氏は熟知しており、だから基本理念・政策を共有するという縛りをかけたのだと思うが、自民党にもリベラル志向が強い政治家は過去も現在もかなりいる。公明党も「平和の党」を党是としていたくらいで、本来はリベラル政党だったのだが、自民党との連立政権を長期にわたって維持してきたことから、リベラル色が次第に薄れてきた。が、独裁的権力を行使してきた安倍総理ですら、政策の立案については、公明党の顔色をかなり窺いながら進めざるを得ないのが現実だ。
 が、もし希望の党が今回の選挙で一定の議員数を確保できれば、選挙協力した維新の会とともに自民と競い合う保守二大勢力時代が訪れることになる。これがはたして政治に民意を反映させるべき「政権交代可能な二大政党体制」なのだろうか。むしろ二つの保守勢力が、互いに挑発し合って「どっちが保守本命か」と日本がどんどん右傾化していくことになるのではないかと、なにか、イヤーな予感がする。

 前回のブログ『消えた総選挙――前回記録した戦後最低投票率記録更新の可能性も大に…』の、現実性がその後の政局でかなり高まった。
 前回の総選挙では公示日の翌日に私はブログで「憲政史上空前の低投票率を記録することだけは間違いない」とブログで書いた。結果はどうだったか。戦後最低の投票率を記録した前々回の総選挙の投票率59.32%を大幅に更新する52.66%だった。私がなぜそう予測したか。有権者にとって選択肢がなかったからだ。そういう意味では「自公VS希望・維新連合」は、選択肢どころか争点すらなくなった。前回記録した戦後最低投票率さえ更新する可能性が高まったといえよう。
 そうなると、選挙の結果もおのずと見えてくる。書きたくはないが、与党の圧勝に終わる。そして安倍一強体制が復活する。日本は暗黒の時代に向かってまっしぐらだ。
 なぜそう言えるのか。実は内閣支持率は選挙と同じく無党派層の動向が大きく影響する。だから内閣支持率はメディアが行う世論調査の時期と、メディアの報道スタンス次第で大きくぶれる。9月に内閣支持率がV字回復したのは北朝鮮の核・ミサイル問題で政権が危機感を煽り立て、メディアが一斉に追随した結果だった。が、10月の内閣支持率はやはりメディアが「大義なき解散」と一斉に批判したためUターン的に急落した。無党派層はメディアの報道によって大きく左右される。メディアは報道に際し、そういう自覚と責任を持ってもらわないと困る。
 一方政党支持率はメディアによって多少数字のばらつきはあるが、世論調査のたびに急上昇したり急降下したりはしない。今回は希望の党が出現し、変化を求める無党派層の一定の支持を得て自民に次ぐ支持率の高さを記録したが、一方民進党の希望の党への「合流」作戦で有権者の政治不信は極限に達した。選挙で当選するためなら、政治スタンスを180度転換する厚顔無恥な政治家を目の当たりにして、「政治を信じろ」と言われても無理な話だ。今回の総選挙は、投票率の最低記録を更新するとともに、固定支持層を持つ自民・公明・共産だけが有利な選挙になる。
 そして与党(自民党+公明党)の支持率は40±5%程度で安定している。共産党はせいぜい3%前後だ。いったんは民進党がまるごと「合流」するはずだった希望の党への支援を約束した連合は、神津会長の独断専行に対して猛反発しており、おそらく神津氏の首は飛ぶ。連合が、枝野新党(党名は民主党が予定されているようだ)の支持母体になって、共産党や社民党などとの選挙協力を回復しても、いわゆる「リベラル」勢力は数十人程度にとどまるだろう。結果、現在の与党が国民から支持されたという形だけ残り、安倍一強体制はかえって強化される。そして国民の政治不信は、回復がおぼつかないほど深刻なものになる。
 今日まで、ヒチコック映画張りのどんでん返しの連続だった解散劇だが、私のブログがトリガーになって、もう一度どんでん返しが起きることを期待して今回のブログを終える。