「選挙落ちた。前原・小池、二人とも死ね」…そんなうめき声が希望の党に移った旧民進党立候補者から噴出するのは、あと1週間後だ。私が危惧した最悪のシナリオが進行している。
希望の党が苦戦している原因は、ほとんどのメディアや政治評論家たちが解説しているような、小池氏が希望の党への「合流」の条件とした安保法制容認と憲法改正という踏み絵を踏まない旧民進党議員を「排除する」という発言ではない。確かに「排除」という言葉はきついが、それが原因ではない。
最大の理由は、やはり私がこれまで何度もブログで指摘してきたように、それまで安保法制に体を張って抵抗してきた人たちが、選挙のために手のひらを返すように信念をかなぐり捨てたことへの、痛烈なしっぺ返しである。私は『総選挙を考える』シリーズの1回目(7日投稿)でこう書いた。
「踏み絵を踏んで希望の党の公認を得た人たちは、地元の選挙区で有権者に自身の変節・転向についてどう説明するのか。国民をこれほどバカにした政治行動を、私はかつて見たことも聞いたこともない。彼らの政治行動の結果は、22日、有権者によって容赦ない審判を下されるだろう」
もう一つ、国民の小池離れを加速したのは都民ファーストの会の音喜多・内田両都議の離党騒動だ。二人とも小池都知事実現のために大奮闘した功労者で、とくに音喜多氏は都民ファーストの会の初代幹事長にも就いたほどの大幹部である。その二人が「都民ファーストの会はブラックボックスだ」と告発して離党した。小池氏の超ワンマンぶりが、この1件で明らかになった。これで有権者の小池離れが一気に進んだと言える。
さらにダメ押しをすると、小池氏の「二枚のわらじばき」である。東京オリンピックや豊洲・築地の市場問題は都政の喫緊の課題である。それを放り出して国政に色気を出した。新党「日本ファーストの会」を立ち上げた若狭氏が、唐突な安倍総理の「自己都合解散」に慌てて、小池氏を都議選と同様「選挙の顔」として担ぎ出したというのが真相だと思うが、前原民進党代表の「1対1の選挙にしないと自公に勝てない」という「机上の計算」に乗り、踏み絵を踏んだ旧民進党議員を大量に抱え込んで、「政権選択の選挙」と舞い上がってしまったことへの、「思い上がりもいい加減にしろ」という国民の反発が重なった。
メディアの世論調査で、希望の党が「予想外」の低支持率だったのは、こうした事情が重なった複合的要因による。「排除」という言葉に国民が嫌悪したからではない。ある意味では筋を通した枝野新党の立憲民主党が、「予想外」の支持を集めたのも、私に言わせれば当然の結果だった。実際12日のBSプライムで反町MCのしつこいくらいの挑発にも一切乗らず、早急に政権獲得を目指したりして旧民主党の轍は踏まないと言明、野合政党も野合政権も作らないと主張した。まだ有権者の約4割が態度を決めていないというから、立憲民主党の支持層はさらに拡大すると思われる。
私はこれまで今回の解散劇を安倍総理の「自己都合解散」と命名してきた。が、今日から「たなぼた解散」と改名する。私のブログの読者はこの改名の意味はすぐお分かりと思うが、いちおう簡単に理由を説明しておく。
安倍内閣の支持率はモリカケ疑惑や稲田防衛相の国会答弁問題で5~7月にかけて急落し、自民党内の反安倍勢力が公然とアベノミクス批判や安倍改憲論批判を始め、「安倍一強体制」の崩壊は時間の問題と思われていた。8月初めには内閣改造効果によっていったん支持率下落に歯止めがかかったかに見えたが、野党が要求していた閉会中審議が8月中に数回開催されたものの、肝心の安倍総理が出席しなかったりと、逃げ回っていた。当然9月の支持率調査では再び下落に転じて「安倍一強」にとどめが刺されると、私は内心思っていた。が、9月の世論調査で内閣支持率が一気にV字回復した。北朝鮮が8月29日、襟裳岬上空をかすめるミサイルを発射し、政府がJアラートを東北地方にまで流す大騒ぎをした挙句、これ幸いとばかりに「北朝鮮の脅威」をがなり立てた。
この事態をメディアが冷静に受け止めていれば問題は生じなかったが、NHKをはじめ安倍批判を強めていたメディアまで先を争うように「北朝鮮に対する圧力と制裁の強化」を主張した。まさに戦時中を想起させるほどで、こうした場合、政権への求心力が高まるのは歴史的必然でもある。9月の世論調査で内閣支持率が「たなぼた」的にV字回復したのはそのためで、安倍総理はこの千載一遇のチャンスに飛びつき、再び「安倍一強」を復活させるべく解散に踏み切ったというわけだ。
私はこの時メディアの報道姿勢に猛烈に批判した。私は一度も「北朝鮮の挑発」とブログで書いたことはない。私は一貫して米朝の「挑発ごっこ」と書いてきた。だいたい弱者のほうから強者に対して「挑発」を仕掛けるという自殺行為を行うことは、本来ありえない。TBSの『時事放談』で丹羽宇一郎氏が日本の対米開戦をたとえに「窮鼠、猫を噛む」危険性を指摘したことがあったが、これも私の主張のパクリではないかと思っている。
安倍総理が解散に踏み切るという事態になってメディアも報道姿勢を転換しだした。その結果、10月の世論調査では再び内閣支持率が急落し、私はブログで安倍総理は「(解散を)早まったと思っているかもしれない」と書いた。が、すでに述べたように、希望の党への民進党議員の「合流」で国民の政治不信が極限に達し、固い支持層に支えられている自民党の一人勝ちの選挙戦序盤となったのである。それゆえ私は今回の解散劇を、安倍総理にとって「たなぼた解散」になったと解釈することにしたというわけだ。
さて「国難は北朝鮮と少子化」として「国難突破解散」を宣言した安倍総理。北朝鮮問題が「国難」だというなら、その「国難」は安倍総理自身が招いた国難ではないか。そのことについては次回のブログで検証する。
もう一つの「国難」の少子化。最近、安倍総理は「少子高齢化」と言い換えているが、高齢化対策については何ら具体的政策を提起していない。前回のブログで「まさか高齢者に生存定年制を設けるつもりではないだろうな」と揶揄したが、せっかく高齢者対策も「国難」に入れてくれたので、私が誰も考えもしなかった高齢者対策を提案する。
私の提案をパクってくれてもいいが、中途半端なパクリ方はやめてほしい。私は断片的な政策や制度として提案しているわけではなく、様々な諸問題を総合的に解決するベターな方策として提案しているのであって、その一部だけを「この方法はいい」とご都合主義的に採用しても、効果はない。
高齢者対策については後で書くが、まず少子化対策である。高齢化は食生活の向上や、高齢者自身の健康管理、医療技術に飛躍的進歩などの複合的結果であり、それが社会問題化したのは少子化つまり高齢者を支える基幹的制度である年金財源の危機と、医療費の高騰による健康保険財政の危機が目前に迫っているからだ。
まず少子化問題から検証する。少子化が始まった原因から考察する。①核家族化が急速に進んだこと。②女性の高学歴化や男女機会均等法などにより女性の社会進出と活躍の機会が増えたこと。③女性の生き方や働き方についての価値観が大きく変化したこと(つまり子育て以外の、仕事や趣味、友人たちとの交流などを重視するようになったこと)。――こうした要因がとりあえず考えられよう。だから、少子化対策は、そうした要因に対する対策でなければ意味がない。はっきり言って安倍政権の政策は、ブレーンがしっかりしていないせいか、「付け焼刃」的な対症療法の域を出ないものが多い。
実は②と③の要因には、実効性がある対策はない。女性労働力の活用は社会的要請でもあるし、女性の生き方や働き方についての価値観も時代の反映であり、政府が関与すべきことではない。そこで①に対する対策として保育園の活用を図ることを優先的に考えるのが、政治の目的でなければならない。
で、私の提案を述べるが、いたずらに保育園を増やすことを目標にするのではなく(保育園増設を公約にすることは、女性票の獲得には有利な政策だが…)、第2子、第3子…を妊娠した女性の子供の入園を最優先することだ。
大家族だった時代、女性が妊娠したら、子育て中の幼児の面倒は女性や夫の実家の父母が見るのが当たり前だった。が、核家族化と若い夫婦の大都市集中によって、「スープが冷めない」距離に自分たちの実家がないケースが圧倒的に増えている。女性が妊娠しても、子育て中の幼児を預けられる実家が身近にないこと、さらに高齢者もいまは高齢者同士の世界が地域社会に生まれており、孫の世話とは別の生きがいを持つようになっている。
そうした現実に対する対策として、女性が安心して第2子、3子…を妊娠できるように、妊娠したら育児中の幼児を保育園があずかる優先枠を設けることだ。育児休暇中の女性の子供を排除するなど、とんでもない話だ。建前としての「公平性」をバカの一つ覚えのように適用しようとするから、少子化対策どころか、第2子、第3子…の妊娠を女性がためらうことになる。
少子化対策とは、女性が安心して妊娠できる環境を整えることであり、そういう思想抜きにただ保育園を増やし保育士の待遇を改善すればいいという問題ではない。誤解されると困るので、私は保育園を増やすな、保育士の待遇を改善するな、と主張しているわけではない。「仏作って、魂入れず」のような政策を批判しているだけだ。
次に高齢者対策である。これは少子化対策よりはるかに厄介な問題だ。なぜ安倍総理が「国難」の少子化に高齢化を加えたのかはわからないが、実は私は以前から高齢者対策について考えてきたことがあったので、この機会に問題提起しておきたい。
少子化問題と同様に、高齢化社会によってどういう問題が生じ、政治の力でどう解決を図るべきかということからスタートする。
高齢化によってどういう社会的問題が生じているか。①認知症「患者」の増加と介護の問題。②医療費の高騰による健康保険財政の破たん。③健康に加齢を重ねるための社会的整備の充実…などが考えられよう。
高齢化社会の進行とともに、社会問題として急速にクローズアップされてきたのが認知症「患者」の増加である。患者に鍵カッコを付けたのは、認知症は病気ではなく、厚労省の定義によれば「いろいろな原因で脳の細胞が死んでしまったり、働きが悪くなったためにさまざまな障害が起こり、生活するうえで支障が出ている状態(およそ6か月以上継続)を指す」(厚労省ホームページより)症状で、端的に言えば「脳の老化現象」だからだ。だから認知症が進行すれば、自分の名前や住まいまで忘れてしまい、徘徊して行方不明になったりする。病気ではないから病院には入院できないが、老人ホームでの介護の対象にはなる。が、都市部では保育園どころか特養(特別養護老人ホーム)の数が圧倒的に足りず、民間の有料老人ホームに入れる経済力があれば別だが、そうでない場合は息子や娘が仕事を辞めて、親の介護にかかりきりという状態になりかねない。これは大きな社会的損失でもある。
特養は規模的にも保育園とは比較にならないほどの施設が必要なので、ニーズを満たすだけの施設の拡充が困難なことは認めるが、「認可保育園」のように「認可老人ホーム」の有資格施設への入所については、国や地方自治体が生活保護並みの支援を行うようにすべきだと思う。
次に高齢者の医療費増大による、健保財政の破たん問題だ。私も後期高齢者で窓口負担は1割組だが、「国民皆保険制度の見直し」が必要な時期に来ていると言わざるを得ない。具体的には窓口負担の割合に応じて、保険医療の適用範囲を制限してしまう。3割負担の人の保険適用の医療行為の範囲を仮に100とすると、2割負担の人は90,1割負担の人は80に限定する。その範囲を超える医療については原則自己負担とし、その代わり公共的な医療保険制度を設け、保険加入者には限度を超えた医療も3割負担で受けられるようにする。高齢者が負担する保険料は、資産や収入に応じるようにする。この方法以外に、健康保険財政を破たんから防ぐ道はないと思う。
最後に健康に年を重ねるための自助努力、に対する公的助成制度を設けてもらいたい。いまゴルフプレーにかかるゴルフ場利用税が、70歳以上は無料になっている。70歳以上でゴルフができる人は、はっきり言って同世代でもかなりの富裕層と考えてもいい。高齢者の健康増進が目的だと思うが、富裕層に対するそういう支援の必要があるのだろうか。
高齢者のゴルフ場利用税の非課税化を廃止して、一定の資格要件を満たしたジムやフィットネスクラブの利用料金について、70歳以上の低所得者への支援を行うようにしたほうが有効ではないか。若い人たちのゴルフ離れが激しい今、ゴルフ業界は猛反対するだろうが、政治は特定の業界のためにあるものではない。ただし、河川敷などに作られている公営ゴルフ場などについては、従来通り利用税の非課税を続けてもいいだろう。
私も後期高齢者である。私たち世代が現役だった時代、私たちが親や祖父母の世代の年金生活や健康保険制度を支えてきた。私はしばしば世代間の違いを「地下1階、地上2階」の建築物に例えてきた。現役世代が地上1階の住民、2階はリタイアした年金生活世代、地下1階は社会人(現役世代)になる前の、幼児から学生までの若い世代だ。
私たちが現役世代として地上1階の住民だった時代、私たちが2階の住民を支えてきた。その私たちが今2階に上がっている。私たちは1階の住民のとき2階の住民を支えてきたのだから、2階に上がった今、1階の住民によって生活を支えてもらう権利はある。権利はあり、いまはどうにか1階の住民によって生活を支えてもらっているが、その間に年金財政や健康保険財政はどんどん悪化している。
いま1階の住民が2階に上がった時、1階の住民になるのは、いま地下にいる若い人たちだ。そのとき1階の住民が、2階に上がった現在の現役世代の生活を、いまの制度を温存したままで支えられるだろうか。不可能なことは、政治家なら全員わかっているはずだ。分かっていて、いまやらなければならないことに目をつむっているのは、政治の怠慢と言われても仕方あるまい。1階の住民だった時代に、2階の住民の生活を支えてきた私が、権利に固執するのではなく、いま地下にいる若い人たちのために制度設計の見直しを要求しているのだ。その主張の重みを感じない人たちには、政治の世界から1日も早くリタイアしてもらいたい。
これは今回の選挙のテーマにはなっていないが、生活保護についても一言言っておきたい。生活保護の申請・受給者が増え続けている。そのこと自体が政治の失敗の証明とも言えるが、国民の税金で生活保護を受けている人たちにも、憲法で保障された権利ではあるが、その権利には義務も伴うことを、十分理解してもらえるような制度設計が必要だと思う。
具体的には自治体ごとに、生活保護者を収容する施設を作り、そこで社会復帰が可能な人には社会復帰するための様々なスキルなどを習得してもらう。刑務所とは違うから施設に閉じ込める必要はないし、自炊したい人は自炊すればいいし、食堂でみんなでワイワイガヤガヤしながら食事するのもいい。ただしパチンコ、競馬競輪などの賭け事は禁止にする。飲酒や喫煙もある程度制約する。一般の人たちの生活と隔離するのが目的ではないから、人里離れたところに施設を作る必要はない。もちろんすべて個室で、部屋には最低でも調理設備、冷蔵庫、テレビ、エアコンを標準設置する。快適で文化的な生活は保障する。
その代り、社会復帰が可能な人には、社会復帰のための努力を最大限していただく。そうすれば、血税も生きてくるというものだ。
いま社会はさまざまにひずみを抱えている。ある意味ではこれまでの政治がその場しのぎの対処療法的政策しか行ってこなかった結果でもある。本来メディアが、そうした政治の在り方に対するチェック機能を果たさなければならないはずなのだが、そうした機能を喪失しているとしか思えないのが残念だ。
いま生じている社会のひずみを放置していると、ひずみはますます広がり、手の付けようがなくなっていく。多数決原理の民主主義政治システムにおいては、「政治のポピュリズム化」はどうやっても避けられない。メディアが政治と同様にポピュリズムに奔っていては、日本と日本人の未来は明るくならない。
希望の党が苦戦している原因は、ほとんどのメディアや政治評論家たちが解説しているような、小池氏が希望の党への「合流」の条件とした安保法制容認と憲法改正という踏み絵を踏まない旧民進党議員を「排除する」という発言ではない。確かに「排除」という言葉はきついが、それが原因ではない。
最大の理由は、やはり私がこれまで何度もブログで指摘してきたように、それまで安保法制に体を張って抵抗してきた人たちが、選挙のために手のひらを返すように信念をかなぐり捨てたことへの、痛烈なしっぺ返しである。私は『総選挙を考える』シリーズの1回目(7日投稿)でこう書いた。
「踏み絵を踏んで希望の党の公認を得た人たちは、地元の選挙区で有権者に自身の変節・転向についてどう説明するのか。国民をこれほどバカにした政治行動を、私はかつて見たことも聞いたこともない。彼らの政治行動の結果は、22日、有権者によって容赦ない審判を下されるだろう」
もう一つ、国民の小池離れを加速したのは都民ファーストの会の音喜多・内田両都議の離党騒動だ。二人とも小池都知事実現のために大奮闘した功労者で、とくに音喜多氏は都民ファーストの会の初代幹事長にも就いたほどの大幹部である。その二人が「都民ファーストの会はブラックボックスだ」と告発して離党した。小池氏の超ワンマンぶりが、この1件で明らかになった。これで有権者の小池離れが一気に進んだと言える。
さらにダメ押しをすると、小池氏の「二枚のわらじばき」である。東京オリンピックや豊洲・築地の市場問題は都政の喫緊の課題である。それを放り出して国政に色気を出した。新党「日本ファーストの会」を立ち上げた若狭氏が、唐突な安倍総理の「自己都合解散」に慌てて、小池氏を都議選と同様「選挙の顔」として担ぎ出したというのが真相だと思うが、前原民進党代表の「1対1の選挙にしないと自公に勝てない」という「机上の計算」に乗り、踏み絵を踏んだ旧民進党議員を大量に抱え込んで、「政権選択の選挙」と舞い上がってしまったことへの、「思い上がりもいい加減にしろ」という国民の反発が重なった。
メディアの世論調査で、希望の党が「予想外」の低支持率だったのは、こうした事情が重なった複合的要因による。「排除」という言葉に国民が嫌悪したからではない。ある意味では筋を通した枝野新党の立憲民主党が、「予想外」の支持を集めたのも、私に言わせれば当然の結果だった。実際12日のBSプライムで反町MCのしつこいくらいの挑発にも一切乗らず、早急に政権獲得を目指したりして旧民主党の轍は踏まないと言明、野合政党も野合政権も作らないと主張した。まだ有権者の約4割が態度を決めていないというから、立憲民主党の支持層はさらに拡大すると思われる。
私はこれまで今回の解散劇を安倍総理の「自己都合解散」と命名してきた。が、今日から「たなぼた解散」と改名する。私のブログの読者はこの改名の意味はすぐお分かりと思うが、いちおう簡単に理由を説明しておく。
安倍内閣の支持率はモリカケ疑惑や稲田防衛相の国会答弁問題で5~7月にかけて急落し、自民党内の反安倍勢力が公然とアベノミクス批判や安倍改憲論批判を始め、「安倍一強体制」の崩壊は時間の問題と思われていた。8月初めには内閣改造効果によっていったん支持率下落に歯止めがかかったかに見えたが、野党が要求していた閉会中審議が8月中に数回開催されたものの、肝心の安倍総理が出席しなかったりと、逃げ回っていた。当然9月の支持率調査では再び下落に転じて「安倍一強」にとどめが刺されると、私は内心思っていた。が、9月の世論調査で内閣支持率が一気にV字回復した。北朝鮮が8月29日、襟裳岬上空をかすめるミサイルを発射し、政府がJアラートを東北地方にまで流す大騒ぎをした挙句、これ幸いとばかりに「北朝鮮の脅威」をがなり立てた。
この事態をメディアが冷静に受け止めていれば問題は生じなかったが、NHKをはじめ安倍批判を強めていたメディアまで先を争うように「北朝鮮に対する圧力と制裁の強化」を主張した。まさに戦時中を想起させるほどで、こうした場合、政権への求心力が高まるのは歴史的必然でもある。9月の世論調査で内閣支持率が「たなぼた」的にV字回復したのはそのためで、安倍総理はこの千載一遇のチャンスに飛びつき、再び「安倍一強」を復活させるべく解散に踏み切ったというわけだ。
私はこの時メディアの報道姿勢に猛烈に批判した。私は一度も「北朝鮮の挑発」とブログで書いたことはない。私は一貫して米朝の「挑発ごっこ」と書いてきた。だいたい弱者のほうから強者に対して「挑発」を仕掛けるという自殺行為を行うことは、本来ありえない。TBSの『時事放談』で丹羽宇一郎氏が日本の対米開戦をたとえに「窮鼠、猫を噛む」危険性を指摘したことがあったが、これも私の主張のパクリではないかと思っている。
安倍総理が解散に踏み切るという事態になってメディアも報道姿勢を転換しだした。その結果、10月の世論調査では再び内閣支持率が急落し、私はブログで安倍総理は「(解散を)早まったと思っているかもしれない」と書いた。が、すでに述べたように、希望の党への民進党議員の「合流」で国民の政治不信が極限に達し、固い支持層に支えられている自民党の一人勝ちの選挙戦序盤となったのである。それゆえ私は今回の解散劇を、安倍総理にとって「たなぼた解散」になったと解釈することにしたというわけだ。
さて「国難は北朝鮮と少子化」として「国難突破解散」を宣言した安倍総理。北朝鮮問題が「国難」だというなら、その「国難」は安倍総理自身が招いた国難ではないか。そのことについては次回のブログで検証する。
もう一つの「国難」の少子化。最近、安倍総理は「少子高齢化」と言い換えているが、高齢化対策については何ら具体的政策を提起していない。前回のブログで「まさか高齢者に生存定年制を設けるつもりではないだろうな」と揶揄したが、せっかく高齢者対策も「国難」に入れてくれたので、私が誰も考えもしなかった高齢者対策を提案する。
私の提案をパクってくれてもいいが、中途半端なパクリ方はやめてほしい。私は断片的な政策や制度として提案しているわけではなく、様々な諸問題を総合的に解決するベターな方策として提案しているのであって、その一部だけを「この方法はいい」とご都合主義的に採用しても、効果はない。
高齢者対策については後で書くが、まず少子化対策である。高齢化は食生活の向上や、高齢者自身の健康管理、医療技術に飛躍的進歩などの複合的結果であり、それが社会問題化したのは少子化つまり高齢者を支える基幹的制度である年金財源の危機と、医療費の高騰による健康保険財政の危機が目前に迫っているからだ。
まず少子化問題から検証する。少子化が始まった原因から考察する。①核家族化が急速に進んだこと。②女性の高学歴化や男女機会均等法などにより女性の社会進出と活躍の機会が増えたこと。③女性の生き方や働き方についての価値観が大きく変化したこと(つまり子育て以外の、仕事や趣味、友人たちとの交流などを重視するようになったこと)。――こうした要因がとりあえず考えられよう。だから、少子化対策は、そうした要因に対する対策でなければ意味がない。はっきり言って安倍政権の政策は、ブレーンがしっかりしていないせいか、「付け焼刃」的な対症療法の域を出ないものが多い。
実は②と③の要因には、実効性がある対策はない。女性労働力の活用は社会的要請でもあるし、女性の生き方や働き方についての価値観も時代の反映であり、政府が関与すべきことではない。そこで①に対する対策として保育園の活用を図ることを優先的に考えるのが、政治の目的でなければならない。
で、私の提案を述べるが、いたずらに保育園を増やすことを目標にするのではなく(保育園増設を公約にすることは、女性票の獲得には有利な政策だが…)、第2子、第3子…を妊娠した女性の子供の入園を最優先することだ。
大家族だった時代、女性が妊娠したら、子育て中の幼児の面倒は女性や夫の実家の父母が見るのが当たり前だった。が、核家族化と若い夫婦の大都市集中によって、「スープが冷めない」距離に自分たちの実家がないケースが圧倒的に増えている。女性が妊娠しても、子育て中の幼児を預けられる実家が身近にないこと、さらに高齢者もいまは高齢者同士の世界が地域社会に生まれており、孫の世話とは別の生きがいを持つようになっている。
そうした現実に対する対策として、女性が安心して第2子、3子…を妊娠できるように、妊娠したら育児中の幼児を保育園があずかる優先枠を設けることだ。育児休暇中の女性の子供を排除するなど、とんでもない話だ。建前としての「公平性」をバカの一つ覚えのように適用しようとするから、少子化対策どころか、第2子、第3子…の妊娠を女性がためらうことになる。
少子化対策とは、女性が安心して妊娠できる環境を整えることであり、そういう思想抜きにただ保育園を増やし保育士の待遇を改善すればいいという問題ではない。誤解されると困るので、私は保育園を増やすな、保育士の待遇を改善するな、と主張しているわけではない。「仏作って、魂入れず」のような政策を批判しているだけだ。
次に高齢者対策である。これは少子化対策よりはるかに厄介な問題だ。なぜ安倍総理が「国難」の少子化に高齢化を加えたのかはわからないが、実は私は以前から高齢者対策について考えてきたことがあったので、この機会に問題提起しておきたい。
少子化問題と同様に、高齢化社会によってどういう問題が生じ、政治の力でどう解決を図るべきかということからスタートする。
高齢化によってどういう社会的問題が生じているか。①認知症「患者」の増加と介護の問題。②医療費の高騰による健康保険財政の破たん。③健康に加齢を重ねるための社会的整備の充実…などが考えられよう。
高齢化社会の進行とともに、社会問題として急速にクローズアップされてきたのが認知症「患者」の増加である。患者に鍵カッコを付けたのは、認知症は病気ではなく、厚労省の定義によれば「いろいろな原因で脳の細胞が死んでしまったり、働きが悪くなったためにさまざまな障害が起こり、生活するうえで支障が出ている状態(およそ6か月以上継続)を指す」(厚労省ホームページより)症状で、端的に言えば「脳の老化現象」だからだ。だから認知症が進行すれば、自分の名前や住まいまで忘れてしまい、徘徊して行方不明になったりする。病気ではないから病院には入院できないが、老人ホームでの介護の対象にはなる。が、都市部では保育園どころか特養(特別養護老人ホーム)の数が圧倒的に足りず、民間の有料老人ホームに入れる経済力があれば別だが、そうでない場合は息子や娘が仕事を辞めて、親の介護にかかりきりという状態になりかねない。これは大きな社会的損失でもある。
特養は規模的にも保育園とは比較にならないほどの施設が必要なので、ニーズを満たすだけの施設の拡充が困難なことは認めるが、「認可保育園」のように「認可老人ホーム」の有資格施設への入所については、国や地方自治体が生活保護並みの支援を行うようにすべきだと思う。
次に高齢者の医療費増大による、健保財政の破たん問題だ。私も後期高齢者で窓口負担は1割組だが、「国民皆保険制度の見直し」が必要な時期に来ていると言わざるを得ない。具体的には窓口負担の割合に応じて、保険医療の適用範囲を制限してしまう。3割負担の人の保険適用の医療行為の範囲を仮に100とすると、2割負担の人は90,1割負担の人は80に限定する。その範囲を超える医療については原則自己負担とし、その代わり公共的な医療保険制度を設け、保険加入者には限度を超えた医療も3割負担で受けられるようにする。高齢者が負担する保険料は、資産や収入に応じるようにする。この方法以外に、健康保険財政を破たんから防ぐ道はないと思う。
最後に健康に年を重ねるための自助努力、に対する公的助成制度を設けてもらいたい。いまゴルフプレーにかかるゴルフ場利用税が、70歳以上は無料になっている。70歳以上でゴルフができる人は、はっきり言って同世代でもかなりの富裕層と考えてもいい。高齢者の健康増進が目的だと思うが、富裕層に対するそういう支援の必要があるのだろうか。
高齢者のゴルフ場利用税の非課税化を廃止して、一定の資格要件を満たしたジムやフィットネスクラブの利用料金について、70歳以上の低所得者への支援を行うようにしたほうが有効ではないか。若い人たちのゴルフ離れが激しい今、ゴルフ業界は猛反対するだろうが、政治は特定の業界のためにあるものではない。ただし、河川敷などに作られている公営ゴルフ場などについては、従来通り利用税の非課税を続けてもいいだろう。
私も後期高齢者である。私たち世代が現役だった時代、私たちが親や祖父母の世代の年金生活や健康保険制度を支えてきた。私はしばしば世代間の違いを「地下1階、地上2階」の建築物に例えてきた。現役世代が地上1階の住民、2階はリタイアした年金生活世代、地下1階は社会人(現役世代)になる前の、幼児から学生までの若い世代だ。
私たちが現役世代として地上1階の住民だった時代、私たちが2階の住民を支えてきた。その私たちが今2階に上がっている。私たちは1階の住民のとき2階の住民を支えてきたのだから、2階に上がった今、1階の住民によって生活を支えてもらう権利はある。権利はあり、いまはどうにか1階の住民によって生活を支えてもらっているが、その間に年金財政や健康保険財政はどんどん悪化している。
いま1階の住民が2階に上がった時、1階の住民になるのは、いま地下にいる若い人たちだ。そのとき1階の住民が、2階に上がった現在の現役世代の生活を、いまの制度を温存したままで支えられるだろうか。不可能なことは、政治家なら全員わかっているはずだ。分かっていて、いまやらなければならないことに目をつむっているのは、政治の怠慢と言われても仕方あるまい。1階の住民だった時代に、2階の住民の生活を支えてきた私が、権利に固執するのではなく、いま地下にいる若い人たちのために制度設計の見直しを要求しているのだ。その主張の重みを感じない人たちには、政治の世界から1日も早くリタイアしてもらいたい。
これは今回の選挙のテーマにはなっていないが、生活保護についても一言言っておきたい。生活保護の申請・受給者が増え続けている。そのこと自体が政治の失敗の証明とも言えるが、国民の税金で生活保護を受けている人たちにも、憲法で保障された権利ではあるが、その権利には義務も伴うことを、十分理解してもらえるような制度設計が必要だと思う。
具体的には自治体ごとに、生活保護者を収容する施設を作り、そこで社会復帰が可能な人には社会復帰するための様々なスキルなどを習得してもらう。刑務所とは違うから施設に閉じ込める必要はないし、自炊したい人は自炊すればいいし、食堂でみんなでワイワイガヤガヤしながら食事するのもいい。ただしパチンコ、競馬競輪などの賭け事は禁止にする。飲酒や喫煙もある程度制約する。一般の人たちの生活と隔離するのが目的ではないから、人里離れたところに施設を作る必要はない。もちろんすべて個室で、部屋には最低でも調理設備、冷蔵庫、テレビ、エアコンを標準設置する。快適で文化的な生活は保障する。
その代り、社会復帰が可能な人には、社会復帰のための努力を最大限していただく。そうすれば、血税も生きてくるというものだ。
いま社会はさまざまにひずみを抱えている。ある意味ではこれまでの政治がその場しのぎの対処療法的政策しか行ってこなかった結果でもある。本来メディアが、そうした政治の在り方に対するチェック機能を果たさなければならないはずなのだが、そうした機能を喪失しているとしか思えないのが残念だ。
いま生じている社会のひずみを放置していると、ひずみはますます広がり、手の付けようがなくなっていく。多数決原理の民主主義政治システムにおいては、「政治のポピュリズム化」はどうやっても避けられない。メディアが政治と同様にポピュリズムに奔っていては、日本と日本人の未来は明るくならない。