小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

NHKとの契約・受信料義務化裁判で最高裁大法廷のロートル判事が下したアナクロニズムな判決とは…

2017-12-07 00:13:38 | Weblog
≪緊急割り込み記事≫ 朝日新聞のネット配信によって、森友学園への国有地売却に関して、昨年3月下旬に近畿財務局と学園との間で国有地売却の価格交渉が行われた事実を、昨6日の衆院国交委員会で財務省の富山理財局次長が認めたことが明らかにされた。
 これまで財務省は不動産鑑定士による同地の鑑定価格が出る前の事前価格交渉の有無について一貫して否定してきた。が、今年8月、NHKと朝日新聞が価格交渉があったことを報道し、立憲民主党の森山氏が委員会で事実確認を求め、富山氏が昨年3月24日に価格交渉を行っていた事実を認めたという。価格交渉が行われた日に学園側が同地の購入を申し入れており、価格交渉の席で近畿財務局は同地の汚染土撤去作業に1億3200万円をすでに支払っていることを明らかにしたうえで「売却額はそれ以上安くはできない」と主張、学園側は「払えるのは1億6000万円以下」と対応したという。
 同地の鑑定価格(更地)9億5600万円は2か月後の5月末に出たが、その翌月に国はごみ撤去費8億2000万円を値引きして1億3400万円で森友学園に売却した。なおごみの撤去費とされた8億2000万円は不当な高値であることを会計検査院が指摘していることは周知である。
 同省の当時の理財局長であった佐川氏は、国有地払い下げの記録はすべて廃棄したと国会で証言、安倍総理をかばいきった論功行賞として国税庁長官に出世したと言われているが、特別国会で国有地払い下げ問題が再浮上し、野党の追及で再び窮地に陥った総理の側近が「トカゲのしっぽ切り」に踏み切ったのかもしれない。もし、早晩、佐川氏が更迭されるようなことがあったら、私の推測が裏付けられたことになる。


 やはり最高裁大法廷はNHK勝訴の判決を下した。最高裁は男性が主張してきた「契約の自由」を認めず、契約と受信料支払いの義務化を容認したからだ。
 私は前回のブログで放送法64条と、64条に基づいて作られたNHKの受信料制度の問題は、分けて考えるべきだと書いた。
 まず放送法についてだが、NHKとの契約を結ぶのは「協会(日本放送協会=NHKのこと)の放送を受信することのできる受信設備を設置した者」と規定されている。「者」とは人であり、受信設備を設置した者がだれかを、NHKは明確に特定しなければ、契約できないことになる。ひとり暮らしの場合は、ほかに設置できる人はいないのだから、NHKと契約する人も明らかだが、2人以上の家族世帯の場合は、家族のだれが受信機を設置したかを突き止めなければならない。また家に受信設備が1台しかない場合は、いちおう世帯主が設置したとみなすことが出来るだろうが、複数台ある場合は、放送法64条を素直に読む限り、1台ごとに設置者と契約しなければならないことになる。
 この文理的解釈は、放送法64条が「契約の自由」を保障した憲法に違反するか否かとはまったく別次元の問題である。たとえ「契約の自由」にも一定の制約があり、公共放送については自由が制限されるという拡大解釈が出来たとしても、複数台の受信設備がある家庭においては、1台ごとに設置した者を特定して、1台ごとに設置者と契約する必要がある。放送法64条には、間違いなくそう書いてある。
 次に受信料の支払い義務の問題だ。これも二つの要素に分けて考える必要がある。
 ひとつはだれが支払い義務を負うかという問題だ。受信設備を設置した者というのは、テレビを買った人のことなのか。テレビは昔と違って、いま一人1台の時代だ。私は仕事をしていたころ、私が見るテレビはLDKと寝室と書斎の3か所にあった。さらに子供たちは大学生になったころから自分の個室にテレビをそれぞれ持っていた。私は買ってやった記憶がないので、自分がバイトで稼いだ金で買ったのだと思う。こうした場合、放送法64条の規定によれば、私は3台分の、子供たちもそれぞれNHKと契約する必要があるはずだし、契約した以上その契約に従って受信料を支払う必要も生じるはずだ。放送法64条が憲法に違反しているかどうかは知ったことではないが、受益者負担の原則が無視された法律であることだけは間違いない。
 もう一つは一人の人が複数の受信設備を設置した場合、その人が同時に複数台の受信設備を利用することは、聖徳太子でも無理だ。なのに、ある人が複数台の受信設備を設置したとしたら、その人は設置した受信設備ごとに受信料を支払わなければならないことになる。実際、私の昔の友人は個人事務所を構えていた時は、自宅と事務所と二重に受信料を払っていたという。こういう矛盾を放置しておいて、受信料支払いの義務を容認したのが頭のいい(おっと、論理的思考力は中学生以下だが、六法全書を暗記する記憶力だけは人並みすぐれているという意味)最高裁判事たちが下した結論だ。
 一つ目の問題と二つ目の問題を重ねてみると、より矛盾が明確になる。私の場合、当時は家の中に3か所テレビを置いていた。だが、3台のテレビを同時に見ることは、すでに述べたように不可能だ。もしNHKから3台分の受信料を請求されたら、「ふざけるな」と間違いなく追い返す。が、子供たちはどうか。LDKのテレビは私が設置したから、子供たちには受信料の支払い義務は当然ない。しかし、自分たちの部屋のテレビは、子供たちが設置したのだから子供たちにそれぞれ支払い義務が生じるはずだ。そう解釈しなければ、放送法64条は違憲か合憲かを論じる以前に、法律として無効だと私は考える。ブログ読者の皆さんはどう思う?
 最後の義務と権利の関係だ。この関係くらいは判決の中で明確にしてほしかったが、最高裁は全く触れなかった。つまり、権利のない義務だけをテレビ設置者に求めたのだ。NHKに対する要求はせいぜい公共放送にふさわしい「良質な番組を制作すること」だけだった。
 ならば、今後NHKが放送するあらゆる番組を最高裁判事がチェックして、視聴者の代わりに良質な番組か否かを判断し、NHKに対するお目付け役になってくれるのか? そんなことがあり得るはずがない。では、視聴者にその権利を保証してくれたか。それもない。ということは、NHK自身が自分たちで番組の良質性を判断しろということを意味する。そんなことが、NHK職員にできるか。良心的な職員が真面目にその役割を果たそうとしたら、たちまち僻地に飛ばされる。それが、NHKに限らず組織を存続させるための鉄則だからだ。
 最高裁判事は、「義務」をあまりにも軽々しく考えていないだろうか。「権利」とか「責任」とか「自由」など、私たちが生きている社会において個々人が自覚して自らを律すべきことの意味を、あまりにも軽く扱われては困るのだ。
 現行憲法は、大日本帝国憲法が国民の「権利」や「自由」より、国家や天皇のために生きるために国民が負うべき「義務」や「責任」を重視しすぎてきたことへの反動から、「権利」や「自由」を過大しすぎている面が多少あることは私も認める。
 極端なことを言うと、例えば「権利」や「自由」にしても、人を殺したり、他人の物を盗んだりする「権利」や「自由」まで憲法が認めているわけではない。そんなことは、ことさら強調するまでもなく常識と言えば常識である。
 だから、公共放送との契約については憲法が保障している「契約の自由」の範疇から逸脱していると判断するのであれば、「公共放送と国民の関係」一般論を根拠にすべきではなく、NHKが公共放送としてふさわしい番組作りと放送体制を構築しているか否かの検証から、契約の自由について論じるべきであった。
 私も公共放送の重要性を否定しているわけではない。が、前回のブログでも書いたように、アナログ放送時代に難視聴地域対策のために始めたBS放送を、その使命が終わったのちもBS放送を継続するためにエンターテイメント番組をどんどん増やし、なぜ公共放送が民放と対抗して視聴率争いに奔走するのか、という今の放送体制に対する警鐘を最高裁大法廷は、なぜ鳴らさなかったのか。
 私はNHKのBS放送がくだらない番組ばかり流しているとは言わない。地上波放送よりはるかに公共放送にふさわしいコンテンツも多いことは認める。私はだから、地上波で放送しているエンターテイメント放送はすべてBSに移行し、BSの質の高い番組を地上波に移したほうがいいとすら考えている。そうすれば、地上波の受信料の値下げも可能になるし、BSの受信料が高くなって運営が困難になれば、その時点で改めて放送体制と受信料体系について抜本的な対策を講じたらどうか、とも考えている。職員を首にできないという理由を最重要視して、そのためにBS放送を継続するというなら思い切ってBSは民営化し、CMを入れることで採算をとることを考えてもいいのではないか。質の高いエンターテイメント番組をNHKがBSで放送するようにすれば、いまの民放のBS放送も競争上、質の高いコンテンツに注力するようになるかもしれない。 
 だが、基本的には若い人たちのテレビ離れをNHKだけの努力で食い止めることは不可能だ。企業努力で、時代の流れに竿を指すことは、はっきり言って無理だ。たとえばアベノミクスによる黒田・日銀総裁の大胆な金融政策によって一時的に円安が進み、自動車など輸出産業の国際競争力が回復したものの、メーカーが設備投資をして安倍総理の期待に応えたかというと、メーカーはそうしなかった。円安で輸出競争力が強化されたにもかかわらず、メーカーはドル建て輸出価格を据え置いて為替差益をがっぽりため込むという経営方針を採用した。国内市場が、少子化と若者の自動車離れで縮小しているため、設備投資をして生産量を増やすことは、メーカーにとって極めてリスキーな経営を余儀なくされるからだ。
 金融機関も同様だ。日本の企業はなぜかシェア至上主義で、これまでは規模の拡大競争に奔走してきた。その結果、都心部だけでなく郊外の住宅街でも銀行は出店競争を繰り広げてきた。住宅街の資金需要はせいぜいのところ、住宅ローンや自動車・教育費のローンくらいしかない。郊外の金融機関支店の役割は、資金需要にこたえるためではなく、預金集めのためであった。だからかつては年金受給資格が近くなった顧客には、年金の振込先として指定してもらおうと、若手の営業社員にはノルマさえ設けて金集めに奔走していた。
 いまはどうか。表向き嫌な顔こそしないが、年金の振込先に指定されることにいい顔をしない。現に年金の振込先の手続きをする場合、昔(そんなに大昔の話ではない)なら手続きはすべて金融機関が代行してくれたし、お土産までくれた。いまは手続きのためのはがき(もちろん切手など貼ってない)をただでくれるくらいで、極端な話、提出先の社会保険事務所の住所すら「お客様がお調べください」と言われる始末だ(支店の管轄内の社会保険事務所の場合は、そこまで冷たくないが)。だから今メガバンクは一斉に郊外の住宅街から逃げ出そうと、こぞって店舗網の縮小と人員の削減計画に取り組もうとしている。生き残るための「脱出作戦」だ。
 そういう時代に、公共放送という看板だけで、NHKが企業努力をせずに生き残るということの是非を、最高裁はどう考えているのか。若い人たちのテレビ離れが進行している中で、公共放送の在り方を根本から問うた上で、受信料体系と契約の義務化を、最高裁には論じてもらいたかったが、前回のブログで書いたようにしょせん無理な話だった。最低、受信設備設置者負担という現行の受信料制度の矛盾くらいには気づいてもらいたかったのだが、それもロートル判事の能力の限界を超える話だったのかもしれない。(了)