今年最後のブログを書く。長くなるので、1日おき3回に分けて投稿する。
わたくしごとでは、一時、今年いっぱい持つかな、と思ったほど健康状態が悪化し、何度か入退院を繰り返した。数週間にわたってブログも中断を余儀なくされたし、一時は体重も7~8kg落ちた。
私の母は、順天堂大学病院で胆石の手術を受けた際、医療器具の消毒が不十分で緑膿菌に侵され、42歳の若さで命を失った。父はその後、再婚したが、その継母もくも膜下出血で倒れ、帰らぬ人となった。まだ60歳だった。父は若いころ肺結核にかかり、東大病院で手術し、手術は成功したがろっ骨3本を切断する大手術で、以降家族旅行しても大風呂には入らず、家族風呂のある施設にしか行かなかった。その父は、82歳まで天寿を全うした。
私は今年7月、喜寿を迎えることができたが、昔の男性の平均寿命からすれば十分長生きしたほうだと自らを納得させ、医師から余命を宣告された時は、残された時間をどう生きるかと考えたほどだった。病院のベッドの上で、それまでの人生を振り返りながら、波乱に満ちた77年間だったが、思い残すようなことはなかったと、自らに言い聞かせた。
幸か不幸か、いまは健康を取り戻し、こうしてブログ活動も再開でき、唯一の趣味ともいえるゴルフにも復帰できるようになった。以降、私のゴルフ・プレーは、すべてのホールをパーで上がったことにすると決めた。たまたま組み合わせになったパートナーにはスタート前に「私はもう認知症になったので、パーの数だけ打ったら、後の打数は数えられないので、常にパープレーで上がったことにしますから、スコア・カードの私の打数はすべてパーの数を書いてください」とお願いし、皆さん笑いながら「いいですよ」と言ってくれる。が、時にハンデをあげてもらうために、オール・パーのスコア・カードを提出しようとしてパートナーにアテストを頼んでも、だれもサインをしてくれない。顔見知りの友人ですら、そうなのだ。人間とは、なんと冷たい動物なのかと、悲哀をかみしめる昨今である。
ゴルフに次ぐ趣味はフィットネスだったが、フィットネスもいちおう復帰はしたが、体調を崩す前のようには無理をせず、いまは週に1~2回、ジムで30~40分ほど汗を流す程度に抑えている。水泳やスタジオでのレッスンに参加していた時は、いわば学校の授業のように「今日はあれとこれ」という感覚で、多少疲れていても無理をしてしまっていた。健康のために始めたフィットネスだったが、かえって健康を害する結果になったのでは、元も子もない。
飲酒は前々からかかりつけ医に「量はほどほどに。必ず休肝日を作るように」と指導は受けていたが、1年365日、入院中を除いてアルコールを切らしたことはなかった。極端な話、1泊2日のドックに入ったときでも、ひそかに缶ビールを2~3本持ち込んで個室の冷蔵庫に隠し、一般病棟が就寝時間になるのを待ってビールを飲みながらテレビを見るほどだった。
その私が、いったん、ピタッと飲酒をやめた。医師から禁酒を指導されたことがきっかけだった。とにかく入院時のγ‐GTPが1300くらいになったのだから、医師が飲酒を命じるのも当然だった。
で、退院して、家に保管していたアルコール類はすべて処分し、飲酒を断行することにした。結果は恐ろしいほどで、健康状態はみるみる回復し、11月にはγ‐GTPも200を切り、私は自分で勝手に禁酒を解禁することにした。ただ前のような飲み方はやめた。週に2~日、夕食時に缶ビールを1本飲む程度に飲酒量を減らした。こうして無事に2018年を迎えられそうである。
今年1年がどういう年であったか、メディアはクリスマス明けから恒例の10大ニュースを競って発表しだした。それぞれの家庭でも。大晦日には家族そろってテレビを見ながら「我が家の10大ニュース」選びに熱中するのではないだろうか。
今年最後のブログでは、私がこれまであまり書かなかった、来年以降にも持ち越されるであろう3つのテーマについて書く。
① 慰安婦問題。
② 建設業界の談合体質など経済事犯問題。
③ 脱原発問題。
今日は第1回目として、いったん「最終かつ不可逆的に解決」されたはずの慰安婦問題を取り上げる。
旧日本軍が引き起こした慰安婦問題が、いまだに日韓両国間ののど元に突き刺さったとげとして、年を越す懸案となってしまった。この問題に対する対応を誤ると、国際社会から日本国は国家としての尊厳を問われることになる。政府はそのくらいの気概を持って、この問題に取り組んでもらいたい。対応を誤ると、真っ先に被害をこうむるのは、おそらく在日韓国人になる。彼らが、心無い人たち(その人たちも日本人なのだが…)のヘイトスピーチの対象になり、心に癒しがたい傷を負うことになる。私たち日本人は「先の大戦」という重い荷物だけでなく、「人種差別民族」と言われても仕方がない過去を背負っている。「人種差別は日本人だけではない」という反発があるかもしれないが、それなら「日本人はこうやって人種差別を克服した」と、世界のお手本になりたいと私は思う。私たちが生きるこの国の尊厳は、私たち自身が作り上げていかなければならない。
いまさら河野談話が正確な事実に基づいていたのかどうかとか、金儲けの手段として「慰安婦狩り」の捏造「ノンフィクション」作品を発表して一躍時の「ヒーロー」になった吉田清治氏の罪をあげつらったところで、はたまた吉田氏を「ヒーロー」に仕立て上げた朝日新聞記事の偏向を追及したところで、いま振出しに戻ってしまった慰安婦問題の解決に一歩でも近づけるわけではない。
問題は、いまさら慰安婦問題の真実を解明することではない。歴史学者やジャーナリストにとっては、政治的に決着すべき問題ではなく、今後も出来うる限り真実を解明するための努力を怠るべきではないが、国家間においてはこの問題は政治的に解決済みの問題である。もはや日韓両国間に横たわっている懸案事項ではない。私はそういう認識からスタートする。
たとえば河野談話。安倍総理は一時、河野談話の作成過程の検証プロジェクトを立ち上げ、河野談話を否定しようとしたことがある。河野談話は短期間に一部の元慰安婦の「証言」を基に作成されたことはすでに明らかにされており、かつ「軍の関与」についても証拠はない。河野氏のリベラルな思想が、氏の思い込みを強めたきらいはあると思われる。また村山談話と異なり、閣議決定を経たものではないことも、河野談話の権威性が疑問視される理由になっている。だが、河野官房長官が慰安婦問題について「軍の関与」を認めた談話を発表したのは1993年8月だ。以降、20数年にわたって政府は河野談話を黙認してきた。いまさら見直すことは、政治に対する信頼を根底から覆す行為に等しい。メディアや学者が河野談話の検証を続けることは当然だが、政府が河野談話を否定するために作成過程を検証するというのは、国際社会からの批判を浴びてもやむを得まい。民間の研究や検証作業は尊重した上で、政府は真摯に慰安婦問題の解決に向けて韓国政府と話し合うべきだったし、またその結果としての合意であったはずだ。実際、合意内容は、多少の玉虫色的な部分はあったにせよ、「最終的かつ不可逆的な解決」に至ったことに、多くの日本国民は胸のつかえを下したのではないだろうか。
2015年12月28日、両国政府は「日本軍の慰安婦問題を最終的かつ不可逆的に解決した」と、それまで日韓両国間に横たわっていた懸案を解決した旨、国際社会に向かって高らかに発表した。合意事項の文書化はされなかったが(その理由は不明。文書化しなかった理由について、メディアはなぜ菅官房長官の記者会見の場で追及しなかったのか? 私自身、このブログを書くに際してネットで調べて初めて知った)、両国政府(直接的には交渉を重ねてきた日韓の外相)が記者会見を開いて発表した。「言った、言わない」のたぐいの蒸し返しはナンセンスだ。
韓国内で、この合意では不十分だ、という声が、その後巻き起こったらしい。朴前大統領を巡る様々な疑惑が少しずつ明らかにされ、最終的には朴前大統領は辞任を余儀なくされ、逮捕までされた。が、日本政府が朴政府との交渉過程で不正(贈賄など)を働いたというならともかく、少なくともそうした事実は明らかにされていない(絶対になかったとは言い切れないが…)。で、ある以上、国際間の約束事は政権交代が行われようと、遵守しなければならないというのが国際秩序を保つための基本的ルールである。
もし日本側が韓国・文政権の要求に屈して合意の破棄に応じて再交渉を始めるようなことがあったら、これは右とか左とか、あるいは保守とかリベラルとかの政治思想や政治的立ち位置の問題ではなく、国家としての尊厳を放棄することを意味する。ということは、韓国において前政権が行った国際間の約束事を、国内世論に押されて破棄しようとしている文政権は、自ら国家としての尊厳を放棄したことを意味する。これが、私の文理的解釈である。
政権が変わるたびに、前政権の約束事を破棄するといったことが許されるなら、そういう国とは今後いかなる約束も出来ないという、毅然とした姿勢を日本政府は示すべきである。もっとはっきり言えば「わかった。合意の破棄には応じてもいいが、日本政府は二枚舌を使い分けるような国とは、たとえ隣国であってもお付き合いしかねるので、今後二国間の直接交渉は一切しない。つまり国交を解消させていただく」と、韓国政府に最後通告を発すべきである。最後通告は、必ずしも宣戦布告を意味するものではない。
日本政府が、そうした毅然とした姿勢を示せば、国際社会は日本国と日本国民の誇りの高さを改めて認識してくれる。
さらに言えば、韓国の市民団体が韓国内だけでなく、アメリカの主要都市で韓国系アメリカ人が多い都市で「少女像」を建立していることにも、政府がいちいち神経をとがらせる必要もない。それどころか、ソウルの日本大使館前の「少女像」に、大使館員が毎日花束を手向ける「神対応」を示せば、韓国内の対日世論は逆転するかもしれない。「神対応」に感動するのは日本人だけではない。毅然とした姿勢と、大人の対応、それが今の日本外交に求められている。
慰安婦問題のぶり返しで、日本政府がどういう対応を示せるか…世界が注目している。
[追記]
27日午前1時過ぎに投稿したこのブログは、あらかじめ韓国で行われていた康京和(カン・ギョンファ)外相直属の作業部会が、慰安婦問題解決の日韓合意に至る過程を検証した報告書をこの日に発表することなど、私は全く考えてもいなかった。
ただ韓国政府が合意の見直しを進めようとしていたことは周知の事実であり、韓国政府が具体的な行動に出た場合のことを考えて、日本政府がとるべき姿勢について論じたまでである。
昨日の日本政府の対応は、河野外相の毅然たる姿勢に見られるように、国際間の約束事に対する重みを十分理解されていると思われる。このブログで私が蒸し返したように、日本も安倍総理がかつて「軍の関与」を認めた河野談話の作成過程の検証プロジェクトを立ち上げようとした時、それを支持した一部の国際感覚ゼロのメディアは別として良識あるメディアは一斉に批判した。私も河野談話が十分な検証をせずに、また閣議決定も経ずに官房長官としての地位を利用して自分の信念的感覚で発表した河野談話については厳しい批判をしたが、河野談話の発表直後に当時の政府が「必要にして十分な検証結果とは言えない」として再検証作業を進めることを明らかにしていればともかく、20数年間にわたって歴代政府が河野談話を黙認してきた以上、河野談話に示された慰安婦問題についての認識は国際社会に定着していると考えるべきで、いまさら安倍政権が作成過程の検証を行うということは国際社会における信義の問題になると批判してきた。
幸い安倍総理は「河野談話を見直すつもりはない」とプロジェクトを解散したが、同様の火の粉を今度は韓国政府が浴びることになる。
私はこのブログ記事で、日本政府は国交断絶の覚悟で対応すべきとしたが、いきなりは早すぎる。いま日本政府が取るべき対応は、「万が一、韓国政府が日韓合意を一方的に破棄するようであれば、日本政府としては冬季オリンピックへの参加を見送らざるを得ない」と内外に公表することであろう。こうした対応をすれば、この問題は一気に国際社会に拡散して、韓国政府は国際社会で孤立化する。そうなった時はじめて、韓国政府と韓国世論をあおった韓国メディアは、とんでもないことをしてきたことに気が付くだろう。
歴史認識はつねに勝者の側の認識が基準になる傾向が国際社会にはある。「勝てば官軍、負ければ賊軍」というわけだ。中国との間にくすぶっている歴史認識の相違についても、いまはとりあえず棚上げにして友好関係を深める方向に向かっているが、火種は残したままだ。日中間で経済摩擦が生じたり、尖閣諸島の帰属問題で激しく衝突したりするような事態が生じれば、旧日本軍の「残虐行為」が蒸し返されるのは火を見るより明らかだ。
そうした事態が生じないように、日中関係が良好な今こそ日中両政府が協力して、例えば「南京事件」などの歴史認識問題を可能なかぎり検証する作業を行っておくべきである。「いま、せっかくいい関係になりつつあるのだから、そーっとしておこう」といった事なかれ主義が、戦後70年たってもくすぶり続ける遠因になっていることに、そろそろ日本政府も気づいていいころだと思うが…。
わたくしごとでは、一時、今年いっぱい持つかな、と思ったほど健康状態が悪化し、何度か入退院を繰り返した。数週間にわたってブログも中断を余儀なくされたし、一時は体重も7~8kg落ちた。
私の母は、順天堂大学病院で胆石の手術を受けた際、医療器具の消毒が不十分で緑膿菌に侵され、42歳の若さで命を失った。父はその後、再婚したが、その継母もくも膜下出血で倒れ、帰らぬ人となった。まだ60歳だった。父は若いころ肺結核にかかり、東大病院で手術し、手術は成功したがろっ骨3本を切断する大手術で、以降家族旅行しても大風呂には入らず、家族風呂のある施設にしか行かなかった。その父は、82歳まで天寿を全うした。
私は今年7月、喜寿を迎えることができたが、昔の男性の平均寿命からすれば十分長生きしたほうだと自らを納得させ、医師から余命を宣告された時は、残された時間をどう生きるかと考えたほどだった。病院のベッドの上で、それまでの人生を振り返りながら、波乱に満ちた77年間だったが、思い残すようなことはなかったと、自らに言い聞かせた。
幸か不幸か、いまは健康を取り戻し、こうしてブログ活動も再開でき、唯一の趣味ともいえるゴルフにも復帰できるようになった。以降、私のゴルフ・プレーは、すべてのホールをパーで上がったことにすると決めた。たまたま組み合わせになったパートナーにはスタート前に「私はもう認知症になったので、パーの数だけ打ったら、後の打数は数えられないので、常にパープレーで上がったことにしますから、スコア・カードの私の打数はすべてパーの数を書いてください」とお願いし、皆さん笑いながら「いいですよ」と言ってくれる。が、時にハンデをあげてもらうために、オール・パーのスコア・カードを提出しようとしてパートナーにアテストを頼んでも、だれもサインをしてくれない。顔見知りの友人ですら、そうなのだ。人間とは、なんと冷たい動物なのかと、悲哀をかみしめる昨今である。
ゴルフに次ぐ趣味はフィットネスだったが、フィットネスもいちおう復帰はしたが、体調を崩す前のようには無理をせず、いまは週に1~2回、ジムで30~40分ほど汗を流す程度に抑えている。水泳やスタジオでのレッスンに参加していた時は、いわば学校の授業のように「今日はあれとこれ」という感覚で、多少疲れていても無理をしてしまっていた。健康のために始めたフィットネスだったが、かえって健康を害する結果になったのでは、元も子もない。
飲酒は前々からかかりつけ医に「量はほどほどに。必ず休肝日を作るように」と指導は受けていたが、1年365日、入院中を除いてアルコールを切らしたことはなかった。極端な話、1泊2日のドックに入ったときでも、ひそかに缶ビールを2~3本持ち込んで個室の冷蔵庫に隠し、一般病棟が就寝時間になるのを待ってビールを飲みながらテレビを見るほどだった。
その私が、いったん、ピタッと飲酒をやめた。医師から禁酒を指導されたことがきっかけだった。とにかく入院時のγ‐GTPが1300くらいになったのだから、医師が飲酒を命じるのも当然だった。
で、退院して、家に保管していたアルコール類はすべて処分し、飲酒を断行することにした。結果は恐ろしいほどで、健康状態はみるみる回復し、11月にはγ‐GTPも200を切り、私は自分で勝手に禁酒を解禁することにした。ただ前のような飲み方はやめた。週に2~日、夕食時に缶ビールを1本飲む程度に飲酒量を減らした。こうして無事に2018年を迎えられそうである。
今年1年がどういう年であったか、メディアはクリスマス明けから恒例の10大ニュースを競って発表しだした。それぞれの家庭でも。大晦日には家族そろってテレビを見ながら「我が家の10大ニュース」選びに熱中するのではないだろうか。
今年最後のブログでは、私がこれまであまり書かなかった、来年以降にも持ち越されるであろう3つのテーマについて書く。
① 慰安婦問題。
② 建設業界の談合体質など経済事犯問題。
③ 脱原発問題。
今日は第1回目として、いったん「最終かつ不可逆的に解決」されたはずの慰安婦問題を取り上げる。
旧日本軍が引き起こした慰安婦問題が、いまだに日韓両国間ののど元に突き刺さったとげとして、年を越す懸案となってしまった。この問題に対する対応を誤ると、国際社会から日本国は国家としての尊厳を問われることになる。政府はそのくらいの気概を持って、この問題に取り組んでもらいたい。対応を誤ると、真っ先に被害をこうむるのは、おそらく在日韓国人になる。彼らが、心無い人たち(その人たちも日本人なのだが…)のヘイトスピーチの対象になり、心に癒しがたい傷を負うことになる。私たち日本人は「先の大戦」という重い荷物だけでなく、「人種差別民族」と言われても仕方がない過去を背負っている。「人種差別は日本人だけではない」という反発があるかもしれないが、それなら「日本人はこうやって人種差別を克服した」と、世界のお手本になりたいと私は思う。私たちが生きるこの国の尊厳は、私たち自身が作り上げていかなければならない。
いまさら河野談話が正確な事実に基づいていたのかどうかとか、金儲けの手段として「慰安婦狩り」の捏造「ノンフィクション」作品を発表して一躍時の「ヒーロー」になった吉田清治氏の罪をあげつらったところで、はたまた吉田氏を「ヒーロー」に仕立て上げた朝日新聞記事の偏向を追及したところで、いま振出しに戻ってしまった慰安婦問題の解決に一歩でも近づけるわけではない。
問題は、いまさら慰安婦問題の真実を解明することではない。歴史学者やジャーナリストにとっては、政治的に決着すべき問題ではなく、今後も出来うる限り真実を解明するための努力を怠るべきではないが、国家間においてはこの問題は政治的に解決済みの問題である。もはや日韓両国間に横たわっている懸案事項ではない。私はそういう認識からスタートする。
たとえば河野談話。安倍総理は一時、河野談話の作成過程の検証プロジェクトを立ち上げ、河野談話を否定しようとしたことがある。河野談話は短期間に一部の元慰安婦の「証言」を基に作成されたことはすでに明らかにされており、かつ「軍の関与」についても証拠はない。河野氏のリベラルな思想が、氏の思い込みを強めたきらいはあると思われる。また村山談話と異なり、閣議決定を経たものではないことも、河野談話の権威性が疑問視される理由になっている。だが、河野官房長官が慰安婦問題について「軍の関与」を認めた談話を発表したのは1993年8月だ。以降、20数年にわたって政府は河野談話を黙認してきた。いまさら見直すことは、政治に対する信頼を根底から覆す行為に等しい。メディアや学者が河野談話の検証を続けることは当然だが、政府が河野談話を否定するために作成過程を検証するというのは、国際社会からの批判を浴びてもやむを得まい。民間の研究や検証作業は尊重した上で、政府は真摯に慰安婦問題の解決に向けて韓国政府と話し合うべきだったし、またその結果としての合意であったはずだ。実際、合意内容は、多少の玉虫色的な部分はあったにせよ、「最終的かつ不可逆的な解決」に至ったことに、多くの日本国民は胸のつかえを下したのではないだろうか。
2015年12月28日、両国政府は「日本軍の慰安婦問題を最終的かつ不可逆的に解決した」と、それまで日韓両国間に横たわっていた懸案を解決した旨、国際社会に向かって高らかに発表した。合意事項の文書化はされなかったが(その理由は不明。文書化しなかった理由について、メディアはなぜ菅官房長官の記者会見の場で追及しなかったのか? 私自身、このブログを書くに際してネットで調べて初めて知った)、両国政府(直接的には交渉を重ねてきた日韓の外相)が記者会見を開いて発表した。「言った、言わない」のたぐいの蒸し返しはナンセンスだ。
韓国内で、この合意では不十分だ、という声が、その後巻き起こったらしい。朴前大統領を巡る様々な疑惑が少しずつ明らかにされ、最終的には朴前大統領は辞任を余儀なくされ、逮捕までされた。が、日本政府が朴政府との交渉過程で不正(贈賄など)を働いたというならともかく、少なくともそうした事実は明らかにされていない(絶対になかったとは言い切れないが…)。で、ある以上、国際間の約束事は政権交代が行われようと、遵守しなければならないというのが国際秩序を保つための基本的ルールである。
もし日本側が韓国・文政権の要求に屈して合意の破棄に応じて再交渉を始めるようなことがあったら、これは右とか左とか、あるいは保守とかリベラルとかの政治思想や政治的立ち位置の問題ではなく、国家としての尊厳を放棄することを意味する。ということは、韓国において前政権が行った国際間の約束事を、国内世論に押されて破棄しようとしている文政権は、自ら国家としての尊厳を放棄したことを意味する。これが、私の文理的解釈である。
政権が変わるたびに、前政権の約束事を破棄するといったことが許されるなら、そういう国とは今後いかなる約束も出来ないという、毅然とした姿勢を日本政府は示すべきである。もっとはっきり言えば「わかった。合意の破棄には応じてもいいが、日本政府は二枚舌を使い分けるような国とは、たとえ隣国であってもお付き合いしかねるので、今後二国間の直接交渉は一切しない。つまり国交を解消させていただく」と、韓国政府に最後通告を発すべきである。最後通告は、必ずしも宣戦布告を意味するものではない。
日本政府が、そうした毅然とした姿勢を示せば、国際社会は日本国と日本国民の誇りの高さを改めて認識してくれる。
さらに言えば、韓国の市民団体が韓国内だけでなく、アメリカの主要都市で韓国系アメリカ人が多い都市で「少女像」を建立していることにも、政府がいちいち神経をとがらせる必要もない。それどころか、ソウルの日本大使館前の「少女像」に、大使館員が毎日花束を手向ける「神対応」を示せば、韓国内の対日世論は逆転するかもしれない。「神対応」に感動するのは日本人だけではない。毅然とした姿勢と、大人の対応、それが今の日本外交に求められている。
慰安婦問題のぶり返しで、日本政府がどういう対応を示せるか…世界が注目している。
[追記]
27日午前1時過ぎに投稿したこのブログは、あらかじめ韓国で行われていた康京和(カン・ギョンファ)外相直属の作業部会が、慰安婦問題解決の日韓合意に至る過程を検証した報告書をこの日に発表することなど、私は全く考えてもいなかった。
ただ韓国政府が合意の見直しを進めようとしていたことは周知の事実であり、韓国政府が具体的な行動に出た場合のことを考えて、日本政府がとるべき姿勢について論じたまでである。
昨日の日本政府の対応は、河野外相の毅然たる姿勢に見られるように、国際間の約束事に対する重みを十分理解されていると思われる。このブログで私が蒸し返したように、日本も安倍総理がかつて「軍の関与」を認めた河野談話の作成過程の検証プロジェクトを立ち上げようとした時、それを支持した一部の国際感覚ゼロのメディアは別として良識あるメディアは一斉に批判した。私も河野談話が十分な検証をせずに、また閣議決定も経ずに官房長官としての地位を利用して自分の信念的感覚で発表した河野談話については厳しい批判をしたが、河野談話の発表直後に当時の政府が「必要にして十分な検証結果とは言えない」として再検証作業を進めることを明らかにしていればともかく、20数年間にわたって歴代政府が河野談話を黙認してきた以上、河野談話に示された慰安婦問題についての認識は国際社会に定着していると考えるべきで、いまさら安倍政権が作成過程の検証を行うということは国際社会における信義の問題になると批判してきた。
幸い安倍総理は「河野談話を見直すつもりはない」とプロジェクトを解散したが、同様の火の粉を今度は韓国政府が浴びることになる。
私はこのブログ記事で、日本政府は国交断絶の覚悟で対応すべきとしたが、いきなりは早すぎる。いま日本政府が取るべき対応は、「万が一、韓国政府が日韓合意を一方的に破棄するようであれば、日本政府としては冬季オリンピックへの参加を見送らざるを得ない」と内外に公表することであろう。こうした対応をすれば、この問題は一気に国際社会に拡散して、韓国政府は国際社会で孤立化する。そうなった時はじめて、韓国政府と韓国世論をあおった韓国メディアは、とんでもないことをしてきたことに気が付くだろう。
歴史認識はつねに勝者の側の認識が基準になる傾向が国際社会にはある。「勝てば官軍、負ければ賊軍」というわけだ。中国との間にくすぶっている歴史認識の相違についても、いまはとりあえず棚上げにして友好関係を深める方向に向かっているが、火種は残したままだ。日中間で経済摩擦が生じたり、尖閣諸島の帰属問題で激しく衝突したりするような事態が生じれば、旧日本軍の「残虐行為」が蒸し返されるのは火を見るより明らかだ。
そうした事態が生じないように、日中関係が良好な今こそ日中両政府が協力して、例えば「南京事件」などの歴史認識問題を可能なかぎり検証する作業を行っておくべきである。「いま、せっかくいい関係になりつつあるのだから、そーっとしておこう」といった事なかれ主義が、戦後70年たってもくすぶり続ける遠因になっていることに、そろそろ日本政府も気づいていいころだと思うが…。