A whiSper Of memOrieS

☬Murmure de mémoire☬

Urayasu-434

2021-09-17 | Urayasu
空から自然が落ちてきた。|空から落ちてくる自然物といえば、せいぜい雨、雪、雹ぐらいのものである。隕石も地球のどこかに落ちているはずだが、博物館でしかお目にかかったことはない。|昨朝、マンション1階の駐車場付近で、隼が仰向けに倒れていた。体調40㎝ほどで、毛並みに艶があり、まだ若そうである。宮中(*ママ。空中?)で何かにぶつかった衝撃で落ちてきたのか。かといって、身体に傷は見当たらず、羽も足も骨折していない。嘴付近に血のようなものが見え、すわ吐血かと思いきや、よくよく観察すると濃い紫の花弁のかけらが纏(まと)わりついている。なんとも紛らわしい。でも、身体の自由は利かない。ただし、首だけは上下に動かすことができる。両目をかっと見開き、口は半開きで、呼吸がやや荒い。|無防備なお腹を指すってやりたくなったが、そこは猛禽類、万が一突かれたら事なので止めておいた。近くにしゃがみこみ、「大丈夫?」と何度か話しかけると、大きな目をパチパチさせた。話しかけると瞬きで応えるのは、うちの愛犬と同じである。「動物病院に預けたら助かるかも…」という考えが頭を過ぎったが、仕事に向かわねばならないので断念。「自分がもし獣医だったら助けていただろうし、助かる命だろう。」|普段、上空を翼を広げ悠然と舞う姿を仰ぎ見るしかない生き物が、地上の、しかも自分の足元で無抵抗に横たわっている不思議。|空といえば海。海の生き物といえば魚介類。いつでも魚屋やスーパーに並べられ、買う時も食卓でも常に我々より下の目線にある。それに比べて、(中型・大型の)鳥となると日常ではほとんど縁がない。鶏はたしかに鳥だが地上の鳥である。カラスはよく見かけるが、お互いに警戒し合って至近距離では接しない。あとは梟カフェの梟ぐらいか。1回しか行ったことはない。要は、空の世界は海の世界に比べ、決して身近な存在ではないのだ。|隼の姿を近距離で観察しているうちに、上空から下界を「鳥瞰する」視線、風を切りながら急降下する感覚、空気や樹木の匂い、敵との牽制の仕合、地上に蠢く餌などといった「空中生活」の一部が隼もろとも地面に落ちてきて、目の前にあるかのように思えてきた。そしていつの間にか、自分がもし隼だったらという疑似感覚にとらわれた。|文章にすると長いが、5分間程度のことである。|夕方、帰宅すると、隼はすでに跡形もなく消えていた。息絶えて、そのマンションの管理人さんに処分されたか。それとも回復して飛び去ったのか。|後日談。翌日、どうしても気になって、そのマンションの管理人さんに話を聞きに行った。隼のことはまったく知らない、朝、見回りもしたが何もいなかった、という。「えっ、でもいましたよ」と写真を見せる。「ほーっ」。すると、「そういえば昨日、4階の住人の方から、窓に鳩がぶつかってきたと連絡がありましたね」。|あの隼のことではないのか…。そこの部屋には鳥が突進してしまうようなガラス窓でもあるのか。視力は人間の倍あると聞いた(読んだ)ことがあるが、透明な窓ガラスは鳥の目にも見分けがつかないのか。だとしたら、方々で隼が窓にぶつかって地上に落下しているはずではないか。「鳥脳力」は発揮されなかったのか。|…結局、あの隼は脳震盪程度で済んだのかもしれない。|暇人?いや、犬の散歩がてらたかが数分間、費やしただけのことである。というか、人間以外の生き物こそ興味深い。総裁選のニュースなんかを見るよりも、鳥の生態を知ることに時間をかける方がよほど「生産的」で、普遍的価値が高い。党首が変わったぐらいで日本が良くなる(「日本を前に進める」という現首相の無意味な言葉をリユースしてる。)などというのは、毎度繰り返される幻想の叩き売りに過ぎない。現に、党内に巣くう「ガン細胞」は剔出しませんと明言している。自己批判はせず、既得権益は死守したうえで、「日本を前に進める」なんて笑止千万。祭りが過ぎれば元の木阿弥。どうせ数か月後には「そういえば、そんなこともあったっけ」になる。刹那主義的に茶番劇を垂れ流すマスコミにも踊らされない。|そんなことより、隼に生きていてほしい。|BGB:『鳥の仏教』(中沢新一著、新潮社、2008年)☞ P57挿絵のインド・チョウゲンボウが隼に似ている。|『従順さのどこがいけないのか』(将基面貴巳著、ちくまプリマ―新書、2021年)☞「ニュース」を鵜呑みにしてたらアホになる。(中年サンデー毎日)
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