自分の経験をあれこれしゃべり過ぎたと後悔することがある。ただ、少しの間、そのことを悩みはするが、いつしかそれは消えている。忘れることできっと精神の均衡を保っているのだろう。|言葉は書きつけられている時、揺れているはずなのだが、その揺れの過程を見せてくれる書き手と、そこは無駄だとばかりに切り落としてしまう書き手がいる。冗長はご免だが、私は前者に魅かれる。|リズミックな文章とメロディックな文章がある。 . . . 本文を読む
著書を読み感動した著者の講演会や対談や鼎談をまた聞きに行きたい。その文章や内容に心酔したら、今度は生の声を聴きたくなる。ライブハウスでもカフェでもカルチャースクールでも本屋でもどこでも構わない。|対談ならお2人の著書を、鼎談ならその3人の著書をいずれも既読済であることが望ましい。その方が10倍楽しめるし興奮度も違う。|講演会や対談に行き始めたのは大学時代から。講演ではないが、ツテで他大学の授業にも . . . 本文を読む
読書の仕方に決まりはない。ここ最近はつまみ食いならぬ「つまみ読み」を試してる。まず、本は全部読まなくちゃ読んだことにはならないという強迫観念は捨てる。本の一部をたとえば10分か20分読んだだけでも当然、読書したことになる。|書架から本を2、3冊選び、1時間ぐらいかけて、それぞれを一話ずつつまみ読みする。休みの日は2時間、3時間かけてもいい。本の組み合わせや関連性はなるべく意識せず、その時の気分で選 . . . 本文を読む
芸術作品、とりわけコンテンポラリーアートと向き合うと、かなり高い確率で穏やかな気持ちになれる。意図が明確ではなく、多数の解が見いだせるから落ち着く。ひとつだけの答えを示されたり、要求される日常時間は退屈。単純化は安心より不安が増大する。|高雄で養蜂家と話ができたのは興味深い体験であった。|台南の林百貨店は以前よりも洗練され、書店も入っていた。|友人が先日行ったという野球のふるさと・嘉義も訪れたい。 . . . 本文を読む
普段から「なるべく今までしていなかったことをする」ことを心がけてる。チャレンジするなどという大袈裟なことでなく、日常の細事からの実践である。|たとえば、犬の散歩中に、この道にはまだ入ったことがないからとりあえず入ってみる。その道が過去に歩いたことのある路地へと抜けていることを発見できたら、それだけで小さな驚きと喜びを感じる。そこが袋小路だと初めて知ることになることもあるが、無駄だとは思わないし、後 . . . 本文を読む
森田真生氏の語る言葉に衝撃を受ける。言葉が柔らかくも切り立ってる。類ない、これまでに本で読んだことも、講演で聴いたこともない言葉をもつ人に魅かれる。「この人しかこんなこと言わへん」へ吸い寄せられる。久々に積読本渉猟への衝動が掻き立てられる。「今までなんで読まなかったのだ」というのも一興ではないか。||感情史、感情論関連の書籍が増えているのは最近の出版業界の流れのひとつ。公権力による内心の監視・管理 . . . 本文を読む
出音チェック:Baby Audio "Atoms”、Beatsurfing "Random"、Traction “Outersect Modeler”.いずれも個性的で灰汁が強い。尖った楽曲を作るのに適す。|スネアに特化したBeatsurfingの“7DeadlySnares”もまた興味深き音世界。|Oro、Ha Noiを経て、遂に来た~インド!と思ったMNTRAのNaada。ハルモニウム、ガタム . . . 本文を読む
天孫降臨を呑みながら天孫降臨を読む。|別に怖くはないでしょ。|「AをBしながらAをCする」の多重パターン、今後もたまにクリエイトしてみたい。|視覚と意味との「重ね」の多様性。| . . . 本文を読む
それしかないときに、それはやたらと大事にされ、重宝される。それ以外もあるとき、それは多くのうちのひとつと見做され、軽視され、後回しにもされる。|どこで何を食うたかなどについて公表するのが野暮に思えて久しい。これまでにもビジュアルとして興味深い食べ物の写真を載せたり、食にまつわるエピソードを少しは書いたことがあるが、食レポそのものは気恥ずかしい。食通でもないし、涎誘ってどうすんねん。|「どこかで見た . . . 本文を読む