兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

博徒・合の川政五郎

2022年04月05日 | 歴史
「合の川」とは、現在の群馬県邑楽郡板倉町と埼玉県加須市の境界を流れる、利根川の流路の一つである。ただし現在は廃川となっている。この付近は利根川流路を利用して、銚子の海産物、醤油等を江戸へ送る船運基地として物流商業が繁栄していた。

(博徒名)合の川政五郎 (相の川、間の川とも書く)
(本 名)高瀬仙右衛門茂高
(生没年)天明8年(1788年)~万延元年(1861年)12月25日死去 享年73歳 

この邑楽郡大久保村(現・板倉町)出身の博徒で「合の川政五郎」がいる。政五郎はこの地域で廻船問屋を営む高瀬家の次男として生まれた。政五郎の兄は常蔵といって高瀬家八代目にあたるが、若いころから遊び好きで、女性と揉め事を起こし、金銭強要されたことから、この女性を殺害してしまった。

さらに被害者の遺族が訴訟を起こし、裁判が長期化した。最終、常蔵は勝訴したが、訴訟費用がかさんで、高瀬家は破産同様になった。しかも当事者である常蔵は、責任を感じてか、高野山に上り、出家してしまった。

高瀬家七代目の先代平八は若死にしており、高瀬家には、幼い政五郎以外女ばかりとなったため、政五郎は、先代平八の昔からの知人でもある近くの村の博徒・新八に預けられ、育てられるようになった。博徒・新八に育てられた政五郎は、15歳のころから賭場に出入りし、大人相手に博奕をやるようになった。

やがて博徒修行のために旅に出た政五郎は、東海道、甲州、信州をめぐり、最終、越後の長岡に腰を落ち着けた。この時は「越後の政五郎」と呼ばれていた。旅の途中、政五郎の度胸の良さと男気で、各地で色々な伝説を残し、博徒として一人前となっていった。

その後、信州善光寺門前町の権堂に移り、遊女常設の旅籠「上総屋」を経営する主人となった。当時は「上総屋源七」と名乗った。当時この辺りは、善光寺参りの人に紛れて、各地から追手から逃れた博徒が集まり、地元の者からもこれらやくざ者管理の要請があったためである。

この当時、政五郎は40歳近くで、子分2,000人余りを抱える上州出身の親分に成長していた。この頃、国定忠治が信州に逃亡した際、善光寺権堂の合の川政五郎の世話になったと話もあるが、時期的に合わず、信用できない。忠治との年齢差は22歳年上となる。

政五郎は、42歳になった時、考えるところがあって、弟分の島田屋伊伝次に縄張りを譲った。そして堅気となって、故郷の邑楽郡大久保の生家に戻り、没落した高瀬家の再興を図る。故郷に戻った当時は「大久保政五郎」と名乗った。

生家立て直しをして八代目高瀬仙右衛門茂高を名乗り、文政11年には関東取締出役の案内役になった。その後名主を務め、最後には川俣組合40ケ村の大惣代をも務めた。大惣代とは改革組合村という広域の自治組織の長であり、治安警察機能も果たした。晩年は自分の無学を恥じて、日夜読書に努めたと言う。

没年は万延元年12月25日、享年73歳。合の川政五郎(高瀬仙右衛門茂高)の墓は大久保本郷(現在の板倉町大高嶋)清浄院にある。法名は「受法院清徳翁居士」

ブログ内に下記記事があります。よろしければ閲覧ください。
博徒・間ノ川又五郎という人



写真は合の川政五郎(高瀬仙右衛門茂高)の墓のある清浄院(邑楽郡板倉町字大高嶋甲320)政五郎の墓には万延紀元庚申年十二月二十五日歿とある。


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2 コメント

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津向文吉の墓 (兵藤恵昭)
2022-04-29 18:35:17
正確な住所は判りません。
場所は山梨県西八代郡市川三郷町鴨狩津向301付近です。
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Unknown (ひでぞう)
2022-04-29 08:01:32
はじめまして
おはようございます

私現在甲州におりまして
津向の文吉親分の墓所を正確に教えていただくわけには参りませんでしょうか?
どうぞよろしくおねがい致します
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