鼠小僧といえば、時代劇ファンでなくとも名前ぐらいは知っているだろう。100軒以上の大名屋敷に忍び込み、3,000両以上の金子(現在価値で約5憶4千万円)を盗み出し、義賊として芝居や講談で取り上げられた。盗賊の中でもヒーロー的存在である。しかし、その実態、素顔はあまり知られていない。
次郎吉が生まれたのは、寛政9年(1797年)江戸新和泉町(現在の中央区人形町3丁目)、父親は定治郎、歌舞伎芝居の出方(案内、接待係)を務めていた。出方とは芝居小屋内の管理責任者であり、仕事柄ヤクザ者とも付き合いがあった。定治郎は片目が不自由で、「めっかち定」と呼ばれた。
次郎吉もひどい近視で、身長は5尺に満たない小男であった。父親は次郎吉が処刑される3年前に亡くなっている。父親は次郎吉が盗賊稼業をしていることにうすうす気づいていたようだ。次郎吉は父親の働く歌舞伎芝居の役者や仲間が困っていたときは金銭の支援をしていたからだ。
次郎吉は盗みを始めて一度、文政6年(1823年)土浦藩上屋敷に忍び入ったばかりのところを捕縛されている。そのときは、盗みを白状せず騙し、博奕を行ったことのみを白状して、博奕の罪で入れ墨、中追放となっている。当時は盗みより博奕の罪の方が軽かった。
その後も江戸の八丁堀に居住し、盗みを続けた。そのため別名「八丁堀入墨無宿」と呼ばれていた。八丁堀は同心などの武家屋敷もあり、捕り手のど真ん中に住んでいたことになる。灯台もと暗しである。
(盗賊名) 鼠小僧次郎吉 (本名)次郎吉(治郎吉とも言う)
(生没年) 寛政9年(1797年)~天保3年(1832年) 享年36歳
鈴ケ森刑場で獄門処刑。
次郎吉は、10歳で神田紺屋町の箱職人に奉公に出るが、バクチに没頭。16歳で親元に戻り、箱職人の手間賃雇いになるも、バクチは収まらず、鳶の部屋に出入り、鳶人足も務めた。27歳頃、遊びやバクチの金欲しさに武家屋敷に盗み入るようになる。
大名屋敷は、外囲は厳重でも中に入れば、警備は緩く、盗みやすい。特に奥向きの区域で奥女中の部屋に男は入れず、手箱の中にある金は存分に盗みができた。治郎吉は大名屋敷1軒あたり、平均して30両余りの金(約540万円)を盗んだことになる。テレビに出てくるような金蔵から千両箱を盗む盗賊はいない。リスクが多すぎるからである。
次郎吉は盗みに入るとき、塀を乗り越えるだけでなく、演技力があり、門番に「だれだれに面会の用事がある」と嘘を言って、堂々と屋敷内に入り、盗みをしている。被害にあった大名には、美濃大垣藩戸田采女正の屋敷のように一度に424両の大金を盗られた大名もある。会津若松の松平肥後守の屋敷のように1年おきに数回も度重なり盗まれた大名もいる。
一方で、下野宇都宮戸田因幡守の屋敷のように、警護が厳しく、奥向きのしまりも固く、金を盗むことのできなかった大名もあった。なかには財政事情が悪く、奥向きの手持ち金がなかった大名屋敷もあったかもしれない。
盗んだ金は、吉原、バクチで使い、バクチで丸裸になった人にも惜しみなく金銭を与えた。また、次郎吉は4~5人の情婦と付き合いがあり、関係した女たちに難が及ばないよう、逮捕前に離縁状を渡し、一人住まいの女には、大家や近所に贈り物をするなど、細かい気配りを見せている。
次郎吉は、上野国小幡藩3万石松平宮内小輔の屋敷で捕えられ、今にも殺されようとしたとき、「ここで命を奪わず、町奉行所に差し出してくれ。奉行所で吟味を受けてから処刑されたい。」と願い出た。
その理由を聞くと、「俺が盗みに入った屋敷では、その責任をとって切腹した人もいる。金銀が紛失したので疑われている人も多い。奉行所で残らず白状して、その人たちの罪をそそぎたい。」と言った。松平家も幕府に届けると、その後の手続が面倒となるため、奉行所に連絡して、門前から次郎吉を追い払ったところを待ち受けた同心の大八木七兵衛が捕縛した。
捕まった次郎吉は、北町奉行榊原忠之の吟味を受けた。ひとくちに白状と言っても犯行は10年以上もさかのぼるが、次郎吉は記憶力も良く、お詫びの気持ちもあり、可能な限り詳しく犯行を供述した。しかし奉行所の役人が江戸留守居役に盗難事実の確認をしても、武家の恥として盗難の事実を認めない大名も多かった。にも拘らず、次郎吉は正直にすべてを自白した。
これも次郎吉が義賊と言われる理由の一つかもしれない。また、捕まった時はろくな家財道具も金も残していなかった。獄門引き回しの時も、奉行所の配慮により薄化粧の口紅姿で、悪びれた様子も見せず、馬上で目を閉じて「何無妙法蓮華経」と唱えていた。引き回しが日本橋3丁目あたりに来た時、路上で二人の女が次郎吉に目礼したという。次郎吉が世話をした情婦だろう。
鼠小僧次郎吉の墓は東京両国回向院の墓が有名である。そのほかにも愛媛県松山市、岐阜県各務原市にも墓がある。これらは義賊次郎吉に恩義を受けた人たちが建てた墓と伝えられている。
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盗賊・田舎小僧という人
写真は愛知県蒲郡市JR蒲郡駅近くの委空寺にある鼠小僧次郎吉の墓。
次郎吉が生まれたのは、寛政9年(1797年)江戸新和泉町(現在の中央区人形町3丁目)、父親は定治郎、歌舞伎芝居の出方(案内、接待係)を務めていた。出方とは芝居小屋内の管理責任者であり、仕事柄ヤクザ者とも付き合いがあった。定治郎は片目が不自由で、「めっかち定」と呼ばれた。
次郎吉もひどい近視で、身長は5尺に満たない小男であった。父親は次郎吉が処刑される3年前に亡くなっている。父親は次郎吉が盗賊稼業をしていることにうすうす気づいていたようだ。次郎吉は父親の働く歌舞伎芝居の役者や仲間が困っていたときは金銭の支援をしていたからだ。
次郎吉は盗みを始めて一度、文政6年(1823年)土浦藩上屋敷に忍び入ったばかりのところを捕縛されている。そのときは、盗みを白状せず騙し、博奕を行ったことのみを白状して、博奕の罪で入れ墨、中追放となっている。当時は盗みより博奕の罪の方が軽かった。
その後も江戸の八丁堀に居住し、盗みを続けた。そのため別名「八丁堀入墨無宿」と呼ばれていた。八丁堀は同心などの武家屋敷もあり、捕り手のど真ん中に住んでいたことになる。灯台もと暗しである。
(盗賊名) 鼠小僧次郎吉 (本名)次郎吉(治郎吉とも言う)
(生没年) 寛政9年(1797年)~天保3年(1832年) 享年36歳
鈴ケ森刑場で獄門処刑。
次郎吉は、10歳で神田紺屋町の箱職人に奉公に出るが、バクチに没頭。16歳で親元に戻り、箱職人の手間賃雇いになるも、バクチは収まらず、鳶の部屋に出入り、鳶人足も務めた。27歳頃、遊びやバクチの金欲しさに武家屋敷に盗み入るようになる。
大名屋敷は、外囲は厳重でも中に入れば、警備は緩く、盗みやすい。特に奥向きの区域で奥女中の部屋に男は入れず、手箱の中にある金は存分に盗みができた。治郎吉は大名屋敷1軒あたり、平均して30両余りの金(約540万円)を盗んだことになる。テレビに出てくるような金蔵から千両箱を盗む盗賊はいない。リスクが多すぎるからである。
次郎吉は盗みに入るとき、塀を乗り越えるだけでなく、演技力があり、門番に「だれだれに面会の用事がある」と嘘を言って、堂々と屋敷内に入り、盗みをしている。被害にあった大名には、美濃大垣藩戸田采女正の屋敷のように一度に424両の大金を盗られた大名もある。会津若松の松平肥後守の屋敷のように1年おきに数回も度重なり盗まれた大名もいる。
一方で、下野宇都宮戸田因幡守の屋敷のように、警護が厳しく、奥向きのしまりも固く、金を盗むことのできなかった大名もあった。なかには財政事情が悪く、奥向きの手持ち金がなかった大名屋敷もあったかもしれない。
盗んだ金は、吉原、バクチで使い、バクチで丸裸になった人にも惜しみなく金銭を与えた。また、次郎吉は4~5人の情婦と付き合いがあり、関係した女たちに難が及ばないよう、逮捕前に離縁状を渡し、一人住まいの女には、大家や近所に贈り物をするなど、細かい気配りを見せている。
次郎吉は、上野国小幡藩3万石松平宮内小輔の屋敷で捕えられ、今にも殺されようとしたとき、「ここで命を奪わず、町奉行所に差し出してくれ。奉行所で吟味を受けてから処刑されたい。」と願い出た。
その理由を聞くと、「俺が盗みに入った屋敷では、その責任をとって切腹した人もいる。金銀が紛失したので疑われている人も多い。奉行所で残らず白状して、その人たちの罪をそそぎたい。」と言った。松平家も幕府に届けると、その後の手続が面倒となるため、奉行所に連絡して、門前から次郎吉を追い払ったところを待ち受けた同心の大八木七兵衛が捕縛した。
捕まった次郎吉は、北町奉行榊原忠之の吟味を受けた。ひとくちに白状と言っても犯行は10年以上もさかのぼるが、次郎吉は記憶力も良く、お詫びの気持ちもあり、可能な限り詳しく犯行を供述した。しかし奉行所の役人が江戸留守居役に盗難事実の確認をしても、武家の恥として盗難の事実を認めない大名も多かった。にも拘らず、次郎吉は正直にすべてを自白した。
これも次郎吉が義賊と言われる理由の一つかもしれない。また、捕まった時はろくな家財道具も金も残していなかった。獄門引き回しの時も、奉行所の配慮により薄化粧の口紅姿で、悪びれた様子も見せず、馬上で目を閉じて「何無妙法蓮華経」と唱えていた。引き回しが日本橋3丁目あたりに来た時、路上で二人の女が次郎吉に目礼したという。次郎吉が世話をした情婦だろう。
鼠小僧次郎吉の墓は東京両国回向院の墓が有名である。そのほかにも愛媛県松山市、岐阜県各務原市にも墓がある。これらは義賊次郎吉に恩義を受けた人たちが建てた墓と伝えられている。
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盗賊・田舎小僧という人
写真は愛知県蒲郡市JR蒲郡駅近くの委空寺にある鼠小僧次郎吉の墓。
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