イスラム国家での自爆テロ事件が絶えない。最近では子供、女性も自爆テロ要員になっているという。なぜ平和を愛するムスリムが、自分も含め、多くの人間の命を奪うのだろうか?美しい菊を愛でながら、殺人も辞さない刀を尊ぶ日本人を理解できない米国人や外国人の思いも同じかもしれない。
わが国の歴史の中で「太平の世」と言われる江戸時代にも、自爆攻撃をする「捨足軽」というテロ要員に近い戦闘員がいたことはあまり知られていない。
時は、(1844年)天保15年の長崎のこと。オランダ軍艦パレンバン号が、オランダ国王ウイレム二世の開国勧告親書を将軍に奉呈するため長崎港に入港していた。
いわゆる「鎖国」時代、唯一の国際貿易港長崎の防衛は、長崎奉行の指揮下に、福岡黒田家と佐賀鍋島家が1年交代であたり、それぞれ約1,500名ほどの戦闘要員の武士、士卒を提供していた。
この年、天保15年の警備担当黒田家中に「捨足軽」と称する焔硝を小樽に詰めて肌身につけた80人の自爆戦闘員が、万が一に備えて待機していたという記録が残っている。もう一方の鍋島家中は非番であったが、やはり同じような自爆戦闘員「捨足軽」がいつでも出動できるように準備していたという。
幕末天保時代より40年ほど前、文化5年(1808年)、イギリス軍艦フェートン号が、オランダの国旗を掲げ、長崎に来航した。その際、オランダ出島駐在のオランダ人を人質に取り、幕府側に薪水、食料供給を強要し、不法に長崎に入港した事件があった。
シーボルト日記には、この時、長崎町年寄(最高上級町人の役人)の高島茂紀が、衣装の下に80ポンドの火薬を隠し持って、フェートン号に乗り込み、長崎港退去の交渉を行ったと書かれている。高島はフェートン号艦長ペリュー卿と艦長室で直談判し、無事に解決したとの記載がある。
これを機会に、町役人の警備、交渉に代わって黒田家、鍋島家の武士が前面に出て、両家が長崎出島の警護を任された。その警護はいざとなれば、外国船とともに自爆覚悟の警備の必要性から「捨足軽」制度が設置された。公儀のために自己犠牲をいとわないことが、日本人の特質と考えられていたのだろう。
この事件の不始末で長崎奉行松平康英は、不祥事の責任を取って、切腹した。更に警備担当の佐賀藩主鍋島斉直は100日の逼塞謹慎を幕府より命じられた。また、この謹慎により、直接の警備担当の鍋島藩士数人が切腹したと言われている。
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明治最後の仇討・白井六郎事件
写真は復元された長崎出島表門橋である。
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いわゆる「鎖国」時代、唯一の国際貿易港長崎の防衛は、長崎奉行の指揮下に、福岡黒田家と佐賀鍋島家が1年交代であたり、それぞれ約1,500名ほどの戦闘要員の武士、士卒を提供していた。
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