長崎ぺんぎん日和

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正覚寺下電停~大徳寺公園ぶらぶら(前編)▪正覚寺と高島秋帆宅跡

2018-01-25 21:00:00 | 長崎ぶらぶら
久しぶりのぶらぶら歩き。



今回はここです。
正覚寺下電停。
路面電車の終着駅のひとつですね。
実はこの電停は川の上にあります。



こんなふうに。
ちょっとこわい(笑)。
電停の下から川は暗渠となり思案橋付近の下を通って銅座の方へ抜けていきます。



ちなみにこの川の少し上流にある新玉橋(あらたまばし)の下からはこんな大きなオオウナギが見つかったことがあるそうです。
平成22年ですから、そんな昔じゃないですよね。



さて、こちらがすぐ近くにある正覚寺の山門です。
「正覚寺下」という電停の名前は知っていても、実際に正覚寺には行ったことがない方も多いのではないでしょうか。



そして、入口には「長崎茂木街道ここに始まる」の碑があります。



茂木街道は田上を通って茂木に向かう街道で、長崎街道に次いで江戸時代の主要なメインストリートであったそうです。
その出発点が正覚寺の辺りだったわけですね。



さて、正覚寺の中へ入ってみます。



立派な本殿です。

正覚寺は1604(慶長9)年に道智という人によって鍛冶屋町で開かれました。
当時の長崎はキリシタン全盛期。
道智はそんな中で仏教再興のための布教活動をしていたといいます。
正覚寺は長崎(旧長崎市街地)最初の寺となります。
何度か移転をして1676(延宝4)年に現在地に移ったそうです。



境内にあるこちらは「陰陽石」。
陰石が女性のシンボル、陽石が男性のシンボルを表しており、子孫繁栄の象徴だそうです。






さて、正覚寺を出て、坂を登って(つまり旧茂木街道を進んで)行きますと、我が国最初の西洋砲術家であった高島秋帆(たかしましゅうはん)宅跡があります。



こちらの家は1806年(文化4)年に、秋帆の父・茂紀によって別邸として建てられたそうです。
高島家の本邸は大村町(現在の万才町)にありましたが、1838(天保9)年の大火事で焼失したため、こちらの別邸に移り住んだとのこと。



元は別邸とはいえ、高島家は代々町年寄の家柄で、立派な石垣にもその名残がうかがえます。



家の建物は原爆で破壊され、現在は塀や石倉などを残すのみとなっています。



こちらは砲術練習場跡。
砲の的となったとされる砲痕石が残されており、秋帆はここで砲術研究に励み、後に江戸で指導を行ったとされています。



次回に続きます。




参考:「長崎ぶらぶら好き(長崎ケーブルメディア)」「長崎游学3 長崎丸山に花街風流 うたかたの夢を追う」