人生訓読 ブログ(日本語)

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御言葉選集3(10,11)

2024年03月02日 17時24分56秒 | 学習
文鮮明先生の言葉集 3 - 10. 神の悲しみを知る者となろう (1957年10月25日)

1957年10月25日(金曜日)、前本部教会

創世記6:5-13



<祈祷>
 愛のお父様! 私たちが6000年の歴史を振り返るとき、あなたがいつも安らかに休まれ、楽しまれた時が一度もなく、むしろ悔いと悲しみに閉じこもってこられたことを認めます。またノアの時代を振り返ると、その時代と今日の時代が同様に神の前に立ち、悲しみの涙の跡を作っていることを私たちは感じます。
 無知な人々の中で信仰の子孫を見つけるためにお父様の足跡が言い表せないほどの悲しみと哀しみに満ちていたその事情を今ここに集まった息子娘たちが慈しみ得るように許してください。初めてのノア一人を広大なサタンの世界の前に立たせるしかなかったお父様の心情も悲しかっただけでなく、ノアの心情も言い表せないほど悲しく孤独だったことを今この時私たちは悟らせてください、愛する父様、切に願います。
 天の御心の前に選ばれた預言者たちはいつの時もその時代の人々の前に犠牲の供物として現れ、神の無限の悲しみの象徴として現れたのはノアだけを通してでなく、今までの歴史の過程で数多くの先達たちを通じても現れたことを私たちはよく知っています。またノアの後、神の御心を受け入れた多くの先達たちもノアのその道を再び歩んでいるという事実もよく知っています。
 今最後の審判を迎えなければならない私たち自身、自らを天倫の前に立てねばなりません。私自身がノアと同じ心情を抱いているか、または今まで数多くの先達たちが愛くるしく思っていたその心情を持っているかを反省できるよう許してください。そして私たちこの時、お父様の前にお父様の子としての面目を保てるように導いてください、愛する父様、切に願います。
 私たち、最後の審判を恐れて逃げる者となりたくないと願うお父様が導いてくださり、お父様の無限の憐れみの心情を慈しんで、お父様の悲しみを慰め、お父様の御心をこの地上で成し遂げるためにどのような不正の力とも戦う心を持てるように許してください、愛する父様、切に願います。
 お父様、この時、ここに集まった息子娘を慈しんでください。昔、ノアに教え示されたような言葉を彼らに与えてください。それによって、私たち一人ひとりが持つすべての決意が一時的なものに終わらないように許してください。生涯を通じて困難な試練を克服し、他者を助ける知恵と力を持ち、また、何万ものサタンが周囲に立ちはだかっていても、それを打ち破って進む覚悟と決意を持つことを許してください。愛するお父様、切にお願い申し上げます。
 お父様、この時伝える言葉に共にしてください。言葉を受け取る者の心と伝える者の心が一つになるようにしてください。お父様の恵みに満ち、天が動くならば私たちも動き、天が静まるならば私たちも静まり、天の御心と意志を理解できるように許してください。そして私たちの心に感じるその意志を永遠のお父様の前に立てる意志として受け入れ、進んでいけるようにしてください。愛するお父様、切にお願いいたします。
この一時、私たちの一身をただお父様の前に献げることができるように許してください。愛するお父様、切にお願いし、お願い申し上げます。この残りの時をお預けください。主の御名によって祈ります。アーメン。




<御言葉>
 この時間は、「神の悲しみを知る者となろう」と題して皆様にしばらくお話しいたします。
悲しみは、これまで何千年もの歴史を経て、私たち人間と切り離せない不可分の関係を築いてきたことを皆さんはよくご存知です。また、皆さんは、人間だけが悲しんでいるわけではなく、人間と関わりを持つすべてのものが悲しんでおり、また、万物を創造し、人間を造られた創造主である神様も悲しんでおられることをよくご存知です。
皆さんが今、心を清め、上を見上げ、下を見下ろし、この地上の人類を見渡すとき、誰が神を代わりにして、人間を代わりにして、万物を代わりにして、悲しみの苦しみから解放されたと叫び立ってきたでしょうか?そのような人は、今まで一人もいなかったことを知るでしょう。
神の悲しみが取り除かれない限り、地上の人間の悲しみも取り除かれることはなく、地上に住む人間の悲しみが取り除かれない限り、人間をために造られた動物たちも悲しみを免れる道はありません。
では、神に悲しみをもたらした主たちは誰だったのでしょうか?その主たちは神でも万物でもなく、まさに人間でした。神の中心的な使命を担うべき人間、万物に対して与えられた責任を果たすべき人間が堕落によって神に悲しみをもたらし、万物にも悲しみをもたらしたのです。
ですから、今日の皆さんは自らが天地の前に独り立ちしていることを自覚し、心に流れるその悲しい感情を取り除く闘いの過程を経なければならない運命にあることを心に留めておく必要があります。
また、皆さんの悲しみはただ自分自身の悲しみで終わるものではなく、その悲しみは天の悲しみ、万民の悲しみにつながるものです。皆さん一人一人がその悲しみを持ち、自分の家庭、社会、国家、世界にまでその波及を及ぼすことになります。ですから、今日の皆さんはこのように重大な立場にあることを認識しなければなりません。
では、今日の私たちが同様に悲しい立場にある場合、どのような感情で天の悲しみを代弁し、どのような感情でこの地上の万民の悲しみを代弁し、または万物の悲しみを代弁したいと思うでしょうか。このような問題は、最後の審判を超えなければならない私たち堕落した人間が抱える問題の一つです。世界的なゴルゴダの試練に直面した今、私たちはその重荷と負担を自己負担に置き、『私は自由の身であり、希望の身であり、幸福の身であり、天地万物を愛する身である』と自負できるようにならなければなりません。また、私たちは神の悲しみを取り除き、万物の悲しみまで解消したと言える基準を超える人間にならなければなりません。
もしもそのような基準を超えられなかった場合、今日の皆さんがこの一時間に喜びを持つことができたとしても、その喜びは一瞬で終わり、喜びを得たとしても、その恵みは一瞬で終わり、すぐに悲しみに覆われることになります。そのような悲しみを取り除く責任が私たちにはあります。
では、私たちはその悲しみをどのように克服できるのでしょうか?それは人間単独では克服できません。そのため、天はこれまで何千年もの間、私たちに新たな力と新たな恵み、復活の歴史をもたらし、その悲しみを取り除くための闘いを私たちが知らないうちに行われてきたことを、私たちは原理を通してよく知っています。
そして、皆さんは人間の悲しみが天地の悲しみとなり、堕落した人間によって神と万物とが一つとなって進むべき愛の道を阻まれたことをよくご存知です。
ですから、今日の皆さんは自らの悲しみによって自滅する立場に立つべきではありません。皆さんの立場よりも先に、これまでの長い歴史を通じて多くの人類に対して悲しんでこられたお父様の悲しみが何であるかをまず考えるべきです。そうすることで、皆さんがそのお父様の悲しみを自分の実際の生活で感じる人間となれば、自らに降りかかる悲しみを単に自分自身の悲しみとして考えることができない状況に直面することになります。そのような立場を超えることができない場合、皆さんは終末の審判の頭を越えて神の心情を慰める資格者として立つことができないことを心に留めておく必要があります。
では、神様はどのような悲しみを抱えておられるのでしょうか?これが私たちが知るべき非常に重要な問題です。それは、神様が創造理想を達成するための中心的責任者として置かれたアダムとイブが堕落し、神が彼らを通して築こうとした創造の本質的な世界を成し遂げなかったことによる悲しみです。したがって、今日の皆さんはそのような神の悲しみを理解し、共感する人間とならなければなりません。
 つまり、アダムとイブが堕落したことによって、永遠の神の愛と理想を中心に、愛の楽園で永遠の幸福を享受している創造の理想が挫折され、神様がこれまで数千年にわたって苦労されないわけにはいかなくなったことです。そのため、今日の皆さんはアダムとイブが堕落したことによって成し遂げられなかった創造理想を達成するために、神様が今までにサタンと戦いながら感じられたその悲しい心情を共感する人間とならなければなりません。
 それでは、今、皆さんはアダムが失ったあの時の悲しみ、アダムとイブが神を裏切り堕落した時の神のその悲しい心情を共感しなければなりません。そのためには、まず神の愛が何であるかを知り、神が人間をどの程度愛されているかを共感しなければなりません。
 そうでなければ、皆さんは神様がアダムとイブを失い悲しまれたあの心情をどうしても共感することができません。そのため、今日の皆さんは何よりもまずアダムとイブの堕落によって創造理想が実現されなかった神様の悲しい心情を共感しなければなりません。
 創造理想を達成するための神の懐切な心情は、全ての人類に絡みついています。それを償うためのものが、これまでの歴史の中での神の摂理の歴史であることを皆さんは知らなければなりません。アダムの後、ノア、アブラハム、モーセ、イエスの時代まで続いたすべての先知先覚たちは、この地上で何を人々に証明し、何を紹介したでしょうか?彼らはただ神の悲しみを無知な人々の前に伝えたのです。
 皆さんは、神が人間の堕落によって創造理想を実現できなかった悲しみを抱えていると同時に、その創造理想を達成するために多くの先知先覚を送り、彼らにサタンと戦わせた後、それを見て悲しみを感じざるを得なかった、二重の悲しみを持っていることを知らなければなりません。
 つまり、神を裏切る無知な民衆に対して今まで誰も歓迎していない神の意志と、神のその悲しい心情を紹介するために、多くの先知先覚たちは懐切な苦労の歴程を歩んだのです。彼らは神の悲しみが内的に共感されるほど、地上のために神代わりの悲しみを感じなければならなくなり、神と同じ懐切な心情を持ち、サタンと戦わなければなりませんでした。
 また、神の永遠の意志を代わって価値を認められる存在として現れなければならなかった彼らは、むしろ無知な人々に軽蔑され、拒絶され、非難されながら無価値にこき使われ、その姿を見ている神様は二重の悲しみを感じたのです。
 神にとっては、自らの創造理想を達成しなかったことも悲しみですが、その創造の理想を実現するために、地上の無知な人々を目覚めさせ、サタンと戦わなければならない運命に置かれた多くの先知先覚たちを見ることも言い表せないほどの悲しみでした。このように、神は二重の悲しみを持っていたことを皆さんは忘れてはいけません。
 ノアの時代を振り返れば、1600年にわたり神は言い表せないほどの懐切な心情に包まれましたが、耐え忍ぶ道を歩み出しました。どの瞬間も忘れることのできない人間に対する悲しみが襲いかかりましたが、それを全て耐え抜き、自らの悲しみを代わりに全人類の前や全てのものの前に完全に表したかったために、ノアを選んで立てられたのです。
 それでは、なぜ神はノアをその当時の人間が理解できない立場に立てたのでしょうか?1600年間にわたり人間が神を悲しみに打ちひしがれさせたことをノア一人を立ててその悪人の悲しみと苦しみを感じさせるために、この理解できない環境に置いたのです。
 ノアは自らを信じずに反対し、嘲笑する人々の前に沈黙して現れるようになりました。そして、120年後にこの地を審判するという天からの予告を受けたときも、彼は天に対する信仰の道理を全うしたのです。彼を見て当時の正しい人と言われました。彼が正しい人であった理由は、彼が生きる当時の社会が背信的であるほど、ますますその社会を心配し、悲しんだからです。
 多くの人々が自己の怠慢に陥っている中、ノアだけが正義の道を求めて奮闘し、天の摂理を心配し、他人が望まない環境で悲しんでいたのです。そのようなノア、つまり当時の人々を心配し悲しむ心を持っていたノアだったからこそ、神は彼を呼ばれたのです。
 ノアだけでなく、これまで神の意志を達成しなければならない責任を負ったすべての先知先覚が選ばれた理由は何でしょうか?それは彼らが全て当時の反逆的な土地と反逆的な人々を一人で心配していたからです。そのように個人や家庭、社会、国家、世界を心配する心を持ち、他人には知られずに、「天がありますか?もしそうなら、この罪深い地を救い出してください。」と祈りながら、天に対する熱い心情で忠誠を尽くしたため、彼らは天の呼びかけを受けることができたのです。
 神がノアならノア、どんな預言者なら預言者を選び出すときのその心情は言葉にできないほど悲しみに打ちひしがれたことをあなたは知らなければなりません。また、神の前に召された預言者が地上の人々に不信と裏切りを受ける中で、必死に悲しい心情を持ち、「ああ、父よ!」と叫ぶ祈りの声が響き渡ったとすれば、その祈りの声は人々にとって喜びの声ではありませんでした。
 しかし、そのような祈りを聞く神はその切ない嘆願に動かされて現れました。したがって、今日まで多くの先知先覚は神の悲しみを慰めるために、どんな苦難の道でも受け入れて歩んだのです。
 誰もが懐切な心情を持ち、このように天に訴え、祈るその姿を見て神はますます感動し、涙する悲しみを持って彼らを受け止めたのです。
 しかし、神が自分を信じて従う愛する預言者、または愛する子どもたちに対して、いつも安心して命令することができない立場であり、時間や場所を超えて協議できない状況であったことをあなたは知らなければなりません。このように、どのような象徴的な条件を設けてから、人間を扱うことしかできない神のその悲しみをあなたは知らなければなりません。
 したがって、旧約時代は犠牲を通じて、新約時代はイエス・キリストを通じて神の悲しみを取り除く歴史が進んできたことを、皆さんはよくご存知でしょう。しかし、それによって神の御心がすべて成就したわけではありません。神は直接あなた方と心を通わせ、そしてあなた方を抱きしめ、神の愛の領域内で永遠に共に生きたいと願っておられます。神はすべての人を自分の子供として呼びたいと願っておられます。そして、すべての憎しみや悲しみを打ち明けたい心を、今日に至るまで抑えながらおられることを、皆さんは知っておかねばなりません。
 今日、この地上に生きる皆さんは、自分の悲しみを他人や家族、または民族の前に告白できるかもしれませんが、神はそうすることはできません。また、皆さんは困難な時に、「私は悲しい。私は孤独だ」と自分の状況を告白するかもしれませんが、神様は数千年にわたる歴史の過程で、悲しくても悲しいと一言も言われなかったことです。このように、神の心情を感じ取ることができるべきです。
 過去の歴史の中で、先知たちが自分の悲しみを紹介する前に、彼らの代わりに地上のすべての人々の悲しみを先に示したことを、皆さんは知っているでしょう。そして今、あなたが天に立ち向かいたいと思うなら、まず自分の過去を省みなければなりません。皆さんが自分の生活領域の中で6000年という長い歳月を通じて悲しんでいる神の前に慰めになる何か小さなことでもしたかを思い起こしてください。
 そして未来を見据え、自分の所属する家族のために、またはこの国、この民族のために心配する人にならなければならず、また世界が揺らぐ中でも死の権力の中に巻き込まれるようになっても変わらない心で天を向いて歩む人にならなければなりません。そのようなあなたがなるならば、決して失敗することはありませんし、神から呪いを受けることもありません。
 ですから、神は人間が堕落して創造理想を達成できなかったことから悲しんでおられ、また達成されなかったその理想を再び達成するために、この地を代わりに心配し努力する一人を探し出しておられるのです。今日のあなた方は、そのように悲しい立場にある神を慰め、その悲しみを取り除く道を持たなければならない運命に置かれています。
 しかし、神が悲しみを与えたのも人間であるため、その悲しみを追放しなければならない者も人間であることを、皆さんはよく知らなければなりません。天主を代わって神の悲しみを解消する者が、まさにあなた自身であることに気づき、その悲しみを解消するために努力しなければなりません。これが皆さんが重視すべき最も重大な問題であることを確実に理解しなければなりません。
 これまで神様は選ばれた人々の生涯のいかなる時も、一瞬たりとも悲しまれなかったことがありませんでした。なぜなら神様は、あなたの悲しみを和らげるために存在し、心から真心を尽くして中心的な使命を果たす人もいましたが、いつでもあなたの心が満足するほどに慰められることはありませんでした。神様はあなたが選ばれた人と心が通じ、事情が通じる立場にいらっしゃいましたが、その望まれることを彼らが当代に達成できなかったことを、お気の毒に思われたのです。
 このような悲しみの歴史が4000年を経過した後、神様はついにこの地上に4000年の歴史を代わりに持ち、その4000年の歴史の中に行ったり来たりしたすべての預言者たちを代わりにできる方を送られたのです。
 神様は天を代わって、万物を代わって、人間を代わってくださる一人の存在を送られました。その方が誰であるかと言えば、まさにあなたが信じているイエス・キリストです。その日は万物が喜び、すべての人が喜び、天が喜ぶ日であったことを、あなた方は知っておかねばなりません。
 では、イエス様がこの地上に持ってこられたのは何でしょうか?彼は歴史の全ての人類の悲しみを代わりにし、すべての生物の悲しみを代わりにした存在、つまり言い表せない悲しみを抱えてこの地上に現れられたのです。そして、神の胸の中で4000年間痛み続けた悲しみを全人類とすべての生物の代わりに解消していただかなければならない責任を持ってこの地に現れられた方でした。
 イエス様は人間が神を裏切り、神から離れたその堕落の歴史を振り返り、新しい視点から人間の命と宇宙の命を妨げているサタンと戦ったのです。つまり、いかなる悪魔的な血統とも関係を結ばず、神との関係を結ぶ唯一の思想、唯一の希望と喜びを追求されたのです。
 イエス様は30年余りにわたってそのような歴程を歩まれましたが、誰一人として信じて共感してくれる人がありませんでした。4000年にわたる神の悲しみを和らげ、神の御心を達成するために30年余りも血の滴るような忠誠を尽くされましたが、イエス様のそのような事情を真実に理解してくれる者が一人もいなかったのです。
 ユダヤ教会から、またはイスラエルの民から追われて、最終的にはどこにも行き場もなく、住む場所もなく、この町からあの町、この山からあの山へとさまよい続けたイエス様の悲しい事情を今日のあなたは感じなければなりません。
 では、イエス様の悲しみはどのようなものでしたか?神の御心の前で担った使命を果たせない悲しみであり、無知な民に神の御心を説き起こすことができない悲しみでした。そのため、イエス様は当時の自分を反対し、信じないユダヤ教を悲しみ、イスラエルの民を悲しみました。
 これらの悲しい事情に直面しているイエス様を見守る神様は、イエス様を迫害し、信じないユダヤ教とイスラエルの民を直ちに裁き滅ぼしたいと望んでいましたが、それが叶わなかったのです。このような神様の優しい悲しみがあったことを、あなた方は知っておかねばなりません。
 イエス様がこの地上において万民の救い主として来られたのは、全人類の悲しみを代わりにし、すべての生き物の悲しみを代わりにしたからであることを、あなた方は確実に知らなければなりません。
 ですから、今こそ、イエス様の孤独な心に触れ、その悲しみがどのようなものかを感じようとする心の姿勢を持たなければなりません。人知れぬ悲しい立場にあったイエス・キリストの友となりたい心を持たなければなりません。
 あなた方がイエス様と一日の友になれないとしても、一時間の友でありたいという心を持たなければなりません。もしあなた方にそのような心が少しでもない場合、あなた方は天の御心を代わって進むことができず、人間を代わって神の悲しみを慰めることができず、むしろ天の前で反逆者の立場に置かれることになります。
 あなた方は慈悲深い心を持ち、任された使命を果たすために無限に努力しましたが、結局は十字架にかけられるイエス様の姿を見守られた神様の悲しい心情を感じ取ることができなければなりません。
 イエス様には全人類を代わって全宇宙を代わって神の悲しみを癒やし、神の御心を成就し、サタンを屈服させなければならない使命がありましたが、信じない群衆に追いやられ、最終的にはゴルゴダの丘で十字架まで背負わされることとなりました。そのようなイエス様の心情がどのようなものであったかを考えてください。
 自分を中心として約束されたすべての意志が破壊され、最終的に自分の一生が十字架の架け橋に至ると感じたイエス様でしたが、それでもイエス様は最後まで天を裏切ることなく、天の前の忠誠の道を尽くされました。すべての人間がイエス様を信じなかったとしても、イエス様はそれに関わらず天路を目指し、天の御心に向かって一生の目標としました。
 このようなイエス様の一生が、私たち人間にとって歴史的に希望の道となったことを、あなた方は心に留めておかなければなりません。十字架の死の直前に、「わが神、わが神、どうして私を見捨てられましたか?」(マタイ 26:46)と祈るしかなかったイエス様の立場を見守られた神様の悲しい、悲痛な心情を理解することができなければなりません。
 4000年にわたって悲しみを耐えられた神様であられますが、愛する御子娘がどのような条件を提示される前には、直接裁定することができないため、彼らが条件を提示するまで耐えなければならない神様であることを皆さんは知っておかねばなりません。
 では、イエス様はこの地上でどのようにされていたのでしょうか? 今日の皆さんと同じように、自由に言葉を発したり行動したりしていたでしょうか? それはそうではありませんでした。 イエス様は常に緊張した立場に立たれませんでした。 どこにいても何を食べても、どこに行こうとも、常に神の悲しみの心情を表現せざるを得なかったのです。
 イエス様はどこで語られようとも、信じない群衆から自分の骨が溶けるような悲しみを感じながら、当時のパリサイ人やユダヤ人、イスラエルの民の前で声を大にして叫ばれました。
 イエス様は彼らから受けた様々な悲しみに心を痛め、無知な人々や信じない群衆と協議することができなかったのです。 このような悲しい状況がイエス様にあったことを今日の皆さんは忘れてはなりません。
 天からいかなる使命を受けてこの地に来られたのかをご存知のイエス様は、天の希望と自らが生きている現実との間に大きな違いがあったため、悲しい心情を抱かれたのです。 イエス様は、そのような悲しみが天国を覆い尽くすことができたとしても、自らの事情による悲しみは持ち得なかったのです。
 今日の皆さんも、自らの事情に囚われず、全人類の悲しみと歴史的な神の悲しみを憂い、慰めようとしたイエス様の30年余りの生涯を見習わなければなりません。 そして、自らがイエス様のその悲しい状況をいかに憂い、また神の御心を達成するためにそのような悲しみの域までどれだけ進んでみたのかを反省しなければなりません。
 神様はアダムとイブが堕落してしまい、創造理念を失ったことによって言葉では言い表せない悲しい心情を感じるようになりました。 そこで神様は、人々にイエス様を信じさせて、あなたの悲しい心情を慰める希望の日を迎えようとされましたが、イエス様を十字架に釘付けにして殺す悲惨な状況を再び見られることになりました。
 4000年にわたって苦労してイエス様一人を立ててあなたの悲しみを解き、またこの地上に天国を建設しようとされたのに、そのようなすべての意志が一時に挫折されたとき、その神の心情がどのようだったか、考えてみるとよいでしょう。 この時の神の悲しい心情は、昔のアダムとエバが堕落したときに感じられた悲しみ以上のものでした。
 アダムとエバの堕落の時、神は天と地が崩れ落ちるような悲しみを感じられました。そして、イエスが十字架にかかる時、神は4000年間血の汗と涙で築いた愛情の塔が一時に崩れ去り、再び創造の歴史を始めなければならなかったため、堕落の時の悲しみが重くなり、言葉にできない悲しみを嘆息されないことはありませんでした。
 そして、今日のあなた方はどのような立場にいますか?今日のあなた方は、堕落によって神に悲しみをもたらしたアダムとイブの子孫です。また、あなた方は、神の悲しみを和らげるために来られたイエス・キリストを殺して神の悲しみを増した者たちの子孫であることを知るべきです。
 神は人間があなたに悲しみをもたらした裏切り者であることを忘れ、再びその子孫たちを懐かれ、支配されています。神は人間とすべての生き物の一部となり、地上で神の国が実現されるその日が早く来ることを切に願っておられます。
 では、今日のあなたたちはどのような状況にいますか?今日のあなたが見ている現実はどうですか?世界はどのような状況にありますか?意志がある者としては、今日の現実を見据えて胸を打ち、嘆き、悲しみを感じる時です。
 この地上に神の愛を紹介し、神の悲しい心を慰めるために来られたイエス・キリストの使命を知る人がいるとすれば、彼は全地上で自らの闇と不明瞭な心を打ち明けることができません。なぜなら、今日の現実は神の意志からは遠く、背信と矛盾と闘争に満ちているからです。
 ですから、今日のあなたたちは極めて悲しい神の心を感じながら、神の無限の愛を求め、他人が侮辱し、迫害しても、ただ一つの望みの日を実現するため、すなわちこの地上に神の国を築くためにもがきながら倒れることがあっても、私たちはその一途な道を歩むべきです。それが私たちに課せられた歴史的責任です。あなたたちは、そのような使命を果たす過程で、自らが不信の群衆から受ける様々な悲しい出来事があっても、それよりもっと神の前で悲しい立場にいることを私たちは神に告げるべきではありません。
 神は人間に対する悲しみが測量する道はないが、それを今まで人間の前に全体的に示したことがないのです。今日のあなたたちは、神が自らの悲しみを受け止めて人間を救うための計画を成し遂げたことと同じように、自らの悲しみを受け止め、サタンと戦いながら進んでいかなければなりません。そして、あなたがたが祈りを捧げるとき、自分の利益をすべて忘れ、ただ父の悲しみを和らげる存在となり、今まで父に結び付けられた歴史的な憎しみと宇宙的な悲しみをすべて受け入れるように祈らなければなりません。
 そして、神の御心を成就するためにサタンと戦い続けなければなりません。そのような人間になるならば、神の御心を成し遂げるためにただもがき続けて消える一時があったとしても、絶対に失敗しないでしょう。
 ですから神は、この時代にそのような人が現れることを熱望されています。自らの生命を捧げてでも父の悲しみを和らげようとする人を求められているのです。神は、そのような人に対して、天の摂理の無限な生命の力を吹き込み、彼を通じてあなたの悲しみを和らげ、永遠の関係を結びたいと願われています。また、彼を通じて家庭的な悲しみ、社会的な悲しみ、国家的な悲しみ、さらには世界的な悲しみまで和らげたいと願われていることを、あなたは今この時、確実に知らなければなりません。
 では、あなたにとって天からの悲痛などの悲しみは何ですか?あなたはあなた自身のための悲しみを持ってはならないはずです。もしもあなたがあなた自身のための悲しみを抱えているなら、あなたは不幸な人です。
 あなたはあなた自身よりも、あなたの家庭、社会、国家、世界、さらには神のための悲しみを抱え、そのようなすべての悲しみを解消する人でなければなりません。昔のノアのおじいさんを思い出してみてください。彼は神が120年後にこの地を洪水で審判するであろうと予告されたとき、その予告の一言を120年もの間、いつの時も忘れることなく信じて生きていきました。一言の命令に120年もの間服従したのです。これは驚くべき信仰です。
 しかし、このように神の言葉に絶対服従した人はノアだけではありませんでした。アブラハムも同様に神の言葉に絶対服従した人でした。神がカルデア・ウルを離れろと命じられたとき、彼はその祝福の言葉を忘れることなく荒野に出て行き、一日も欠かさずサタンと戦ったのです。
 そしてヤコブも同様でした。イサクから受けた祝福と神からの祝福を忘れずに生きたために、彼はハランで21年もの苦難の生活を耐えることができたのです。また、イエスも同様でした。イエスは自分に約束された一言の命令を受け入れ、その約束の言葉を実現するために30年以上もサタンと戦い続けたのです。
 このように神の前に召命されたすべての預言者たちは、天から授かった一言の言葉に自らのすべてをささげて、一生を信仰によって守り抜いたことを、あなたは確実に知らなければなりません。
 では、今や歴史的な悲しみがあなたを通り過ぎているこの時代に、あなたはどうすべきでしょうか?まず最初に、神の悲しみを思いやる人とならなければなりません。そして、イエス・キリストと聖霊が神と人間に対して悲しんでいた心情、そしてこれまで6000年もの間この地に来たり去ったりした数多くの先賢たちが悲しんでいた心情を思いやる人とならなければなりません。
 ですから、あなたが自らのすべてを捧げて進み、歴史的なすべての悲しみを解消し、神に喜びと栄光を捧げる人とならなければなりません。そのようなあなたになることを神は今も切望されていることを、今日あなたは決して忘れてはいけません。






文鮮明先生の言葉選集 3 - 11. イエスの神秘的な生涯と彼の勝利の目的 (1957年10月27日)

1957年10月27日(日曜日)前本部教会

聖書拝読:マタイによる福音書 12:18-37



<祈祷>
 死んでもあなたの遺産を継がなければならない戦いの歴史が今日この場に集まった私たちにとって残されていることを思い至ったとき、立ち止まって自分自身をお父様の前に差し出し、果たして戦うことのできる天の武器、戦って勝利することのできる天の武器が私たち自身に備わっているか自問自答できるように許してください、お父様、切に願い求めます。
 今、私たちが戦わなければならない敵は地上のどの一人でもなく、6000年という長い歴史の過程を経て神に対して反抗し、神を讃えなかった、空中の権力を握ったサタンであることを私たちは知っています。
 今日この巨大な敵をお父様の前に降伏させなければならない責任と使命が私たちにあることを思い至ったとき、私たちは今まであまりにも簡単な生活を望んでいたし、あまりにも恵みに閉ざされお父様の愛だけを求めていたことに気付きます。お父様、許してください。
 敵を降伏させるためには荒れ狂う嵐や戦いや十字架の苦難からもその精神と心が変わってはならない立場にあることをこれまで私たちは忘れていましたが、今後は変わらぬ心を持って万人のサタンたちに対して一人で戦う天の武器たちとなるように許してください、愛する父よ、切に願い求めます。
 この意志を受けて戦いに疲れた子どもたちはいますか?お父様! 力を与えてください。躊躇する者がいますか? お父様の勇気を与えてください。そして勝利の目的に向かって走ることができ、戦いの目標に向かって直進し突進できる愛する子どもたちとなるように許してください、愛するお父様、切に願い求めます。
 最後の決戦を経て勝利に向かってゴルゴダの丘を越えなければならない責任が私たちにあるので、お父様の力と心と覚悟と決意を持ち、このすべての戦場に向かって走り出すことができ、祝福されて勝利できるお父様の子どもたちとなるように許してください、愛するお父様、切に願い求めます。
集まった子どもたちは少数の集団ですが、彼らが留まるその場所で満足してはならないように許してください。与えられた恵みに感謝することを学ばせてください。
 今日与えられた恵みは私一人のためのものではなく、地上または天上のすべての聖徒を代表して数百万のサタンを降伏させる責任と使命を担う代表的な恵みであることを知らせてください、愛するお父様、切に願い求めます。
心が留まる場所はどこですかを父の前に差し出し、父の意志を一つの目的として示し、サタンと対決して勝利の基準を示さなければならない使命を持つ子どもたちが、お父様、弱い立場にいますか? 力を与えてください。お父様の前で祈り、天の悲しみを表現する者はいますか? お父様、喜びを許してください。天国を求める者はいますか?善と正義の歴史を示してください。
 そして彼らにお父様の意志と、お父様の恵みとお父様の計画を一人で負って戦い、指示のない子どもたちとなるように許してください、愛する父よ、切に願い求めます。
 この日は聖なる日であり、三千万の民衆を代表して集まる多くの教会に祝福を与え、また隠れた祭壇を築き、お父様の計画が実現される時期を教え、知らず知らずのうちに熱い涙を流す子どもたちが多いことを知っており、お父様、普遍的な恵みを示してください。
 終わりに聖霊の恵みを注ぎ、約束されたことを早く実現してください。生命のたいまつを持って父の代理者として栄光をささげることができる自己になり、一つの回帰の園を形成するために協力できるよう、お父様、推奨してください、切に願い求めます。
 お父様、召された子どもたちがますます父の意志の前で感謝できるように許し、責任を果たして父に栄光を帰し、この1時間の間に決意します。愛するお父様の栄光のために、すべてを求めるとき、お父様の恵みによって再び認め、お父様の意志の前で一つの基準と一つの目標に向かって進むことができる恵みの歴史がこの時間のすべての聴衆に示されることを許してください、愛のお父様、切に願い求めます。
 今、私たちが進むべき戦いの野に障害が立ちはだかっても、一人でこれを負ってお父様の意志に向かって行けるように許してください、愛するお父様、切に願い求めます。
 イエス様が十字架を前に置きながらも無限の苦しみを乗り越えて行かれた勝利の姿を見習い、私たちも最後の命を捧げても、勝利することができる父の子どもたちの基準を立てられるように許してください、愛するお父様、切に願い求めます。
 今、私たちが集まったので、心と心が共に動くことを許してください。お父様の前に一つになって進むことができるように許してください。そして天にいる無数の天使たちの守りの下で、サタンが隙を突かないように保護してください、お父様、切に願い求めます。
 残された時間を完全にお父様に託しました。聖三位一体が主導してください、そして私たちに勝利の栄光を許してください、切にお願いいたします。すべての言葉を主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。


<御言葉>
 堕落した後、今日まで神の復帰の計画がなかった場合、罪に陥っている人間が神を「父」と呼ぶことはできず、また死の血統を受け継いだ存在としても、また天国の贈り物や愛の贈り物について考えることはできないでしょう。
 また、今日私たちが生命の権利の下に留まるのも、神がお休みにならずに復帰の計画を何度も行われた贈り物であることを知る必要があります。
 イエス様の神秘的な生涯とは、すべてが含まれています。神は4000年の歴史を経てイエス・キリストを送られ、神がイエス様を中心にして新しい計画を始められるようになりました。
 つまり、神が地上の人々と自由に交流することができなかったために、多くの天使を使者として派遣して、古代の時代を経て地上で直接的な歴史を築く実在のキリストを置かれることで、堕落した人々を再び包む神の計画が始まったということです。このような内容を持つキリストの誕生について知る必要があります。
 キリストが来られてから2000年の歴史が経ちました。したがって、今日、皆さんは父の贈り物の権威の下にあり、イエス・キリストを主として受け入れることができ、聖霊の保護を受けて贈り物を受け取ることができるということを知る必要があります。
 イエス様が来られる前の4000年の間、神が直接的に人々と交流できなかったために、多くの天使を使って人々を訪れられた父の苦労の計画があったことを知る必要があります。また、天と地を分け、計画をしていた父が人間の前に直接的で平面的な計画を立てるためにイエス・キリストを送られたことを知る必要があります。
 イエス・キリストが来られてから約2000年の歴史が経過した今日、皆さん自身がその恵みの前に選ばれるには、イエスの来られる前の約4000年間、霊的な面で人間を求めて来られた神の心情を共感しなければなりません。また、イエス様がこの地上においでになり、ご自身の生涯や目的をかけて、皆さん一人一人をご自身の生活に同行させ、その生涯に同行させ、その永遠の目的に同行させようとする計画の意志に直面している歴史的な過程に立っていることを忘れてはなりません。
 イエス様はこの意志を30年以上の生活目的として、また全体的な生涯の目的として立て、これを達成するために2000年の歴史を経て、皆さんの先祖を導いてきました。そして今後も皆さんの子孫を導いていく責任がイエス様に残っていることを感じなければなりません。
 このような立場にいるイエス様が意志に直面するとき、イエス自身だけが喜ぶ生活、イエス自身だけが喜ぶことができる生涯、イエス自身だけが永遠をかけて安穏の日を迎えることができないことを皆さんはよく知っています。
 では、今日、天の縁を見つけ出せず、天が求める希望の一日を見つけられないこの時に地上に住む人々はどのような立場にあるべきでしょうか?どんなに安穏を求めようとしても見つけることはできません。心でどれほど平和を求め、どれほど理想的で思想的な世界を夢見ようとも、それを保証される運命に置かれていません。
 なぜなら、天地を創造された神の意志が悲しみの意志であり、この地の堕落した人間を救いの意志を遂行するために来られたすべての存在であるイエス・キリストもまた悲しみの心情を抱き、意志に直面しているため、地上のどんな人間もその心の安穏を見つけることはできず、私は勝利の栄光を持った者であると自慢することはできないのです。
 このような意志の運命を負って人を導いていく神の悲しい心情が残っている限り、また皆さんを導いてくれるイエス・キリストの懇切な心情が残っている限り、そして数え切れないほどの聖徒たちが意志に直面する悲しみが残っている限り、今日の人類が望む善の園や、人類が敬愛する神の愛を永遠に手に入れることはできません。
 このような意志に直面する天が人を導いていくことも容易なことではないが、そこにはどんなものがあるのかと言うと、悲しい心情の父の前に人を条件にしてサタンが邪魔し、中傷し、抵抗しているということです。これを皆さんは知っておかなければなりません。
 皆さんの生活や生涯の中で、または皆さんが望む理想の中で、千里を射る原則、または神の創造思想に合わない要素がある場合、どのような条件も省かずにサタンから無慈悲な中傷を受けることになり、皆さん代わりに悲しんで、皆さん代わりに戦い出る父と主と聖徒たちがいることを皆さんは認識しなければなりません。
 ですから、神の御計画の中には、神の悲しみが残っており、イエス・キリストの悲しみが残っており、そしてこれまで神の御計画に従ってきた無数の聖徒たちの悲しみが残っていますが、それ以上に大きな神の悲しみとは何でしょうか?それは、私たちを守りながら再びサタンと対決しなければならないという悲しみです。このような立場にいる神であるということを皆さんに知っていただかねばなりません。
 さて、皆さんは今、イエス・キリストの誕生と生涯について考えなければなりません。イエス様がこの地上に生まれる前までは、人間と神との間には遠い距離がありました。そのため、神は人間が尽くしている努力を持ってしても、サタンの支配する闇の世界のすべての条件を踏み破り、つまりは天空の領域を掌握した闇のサタンの権力を打ち破り、神のもとに辿り着けるように願われました。そうすれば、人間は神の恵みを受けることができたのです。これが旧約時代の御計画でした。
 しかし、人間の努力や苦労だけでは、決して神を見つけることはできないと悟られた神は、この地上にイエス様をお遣いになり、平面的な立場から相対的な価値を持って神を代表する中心的存在となるように、中傷の目にさらされていた堕落した人間を天に向かって顔を上げ、泣き悲しむような人間にするための地位に立たせてくださいました。これが4000年の御計画におけるサタンに対する勝利の条件であり、自慢の条件でした。
 しかし、人間たちの不信心により、イエス様がこの地上に来られた目的を完遂することができなかったため、今も私たちは天に向かって祈り続け、真心を尽くさなければならない運命に置かれています。
 元々、人間の視点を平面的に見て動くことができるように創造されていたにもかかわらず、どうして心は天に向かうべき立場に置かれたのか?皆さんが平面的な領域内で神の御計画の意志を達成し、神が喜ばれ、イエスや聖霊が喜べるように、地上のすべての人が喜べるようにするためです。
 このような状況が実現されることが、私たちの希望が実現するための第一歩であり、この目標を達成するためにイエス・キリストをお遣いになったものの、人間の不信心のために去られたイエス様を再び迎え入れなければならない責任が皆さんにあることを知っていただかねばなりません。
 イエス様はこの地上に来られて、その御計画的な生涯の最初の一歩として、天が御計画の意志に従って生活の道を進むことを開始しました。この生活の中心は何でしたか?まず第一に、人々を引き連れて神のもとに進むと同時に、人間を中傷するサタンと対決することでした。このような両面的な立場から、イエスは始まったのです。
 見えない霊的な世界では、サタンから中傷を受け、見える肉体的な世界では、あらゆる不信の矢から反対を受ける立場から、イエス様は一人で4000年にわたって神の悲しみを代わり、天路の悲しみを代わりに感じました。このような心持ちを持ち、その御眼はイスラエル民族に向けられ、神の愛の心情に従って選ばれたユダヤ教を対象にしました。
 しかし、イエス様の使命を完遂するために協力すべきイスラエル民族と神の御旨を受け入れるべきユダヤ教会は、イエスの前に一切現れず、全てが反対の立場にありました。現代のキリスト教徒は、これが必然的な事実であると信じている時、イエス様の真の心情を理解すべき時が来ていることを知らなければなりません。
 イエスは霊的に侵略されるサタンの力を防ぎ、多くの人々によって肉体的に飛びかかるあらゆる不信の矢を阻止しなければなりませんでした。しかし、イエス様はそのような戦いだけをすることができませんでした。もっと大きく、もっと遠い神の御旨とその希望を見据え、そこに自身の身心を合わせなければならない立場にあったキリストの生涯の出発を、皆さんが同じ立場から同情する心を持つべきです。
 このような立場から出発したイエス・キリストにとって、どのようにして神の御旨を達成し、どのようにしてサタンを屈服させ、どのようにして堕落した全人類を再び回復するかということが問題でしたが、イエス様はこれを解決するために立ち上がりました。
 この地上で権勢を握っていたサタンは、神の栄光を自分たちで享受し、神が統治すべき人々を自分たちで統治しました。そのため人々はサタンの圧力の下で生きていたのです。したがって、イエス様はこの地上において、最初には反対する人よりも、人間を自分に反対させる霊的なサタンと対決しなければなりませんでした。この戦いからキリスト教の歴史が始まったことを皆さんは知っておかねばなりません。
 それでは、サタンの本質と対峙するために現れたイエス様は、その生涯の領域内でまず何を示し、現れましたか?サタンができないことをしなければなりませんでした。このような責任を果たすために、イエス様は彼の生活領域内で実践的な行動を示し、現代のキリスト教の福音の原則となったのです。
 言葉だけでなく、彼の心も、彼の生活も、彼の生涯も、彼の死に至るまで、サタンが行うことのできない条件を設定するためでした。このようなイエス・キリストの生涯の経過を皆さんは知らなければなりません。神の法もが厳然として存在するため、言い換えれば法を中心にすべてを統治する神が存在するため、イエス・キリストはこの法に従ってサタンを撃破したのです。
 サタンの本質は高慢と血気です。このような性質で世の人を扱うサタンでしたが、イエス様は穏やかさと謙遜で世の人の前に現れました。
 イエス様は、卑しく謙遜な立場に立ったわけではありませんでした。どんな誰よりも最高に高い存在であり、栄光を享受することができましたが、イエス様はこれらすべてを捨てて卑しく謙遜な立場に立ったのです。サタンはこのようなイエス・キリストと対決して戦おうとしましたが、サタンには神の前に屈服しなければならない条件があることを知っていたため、イエス様は最後まで卑しく謙遜な態度をとることができました。したがって、サタンの本質である高慢と血気に対抗する卑しく謙遜な姿勢を示したのです。
 また、厳然とした天律があることを知るサタンであったため、最終的にはイエス・キリストを認めざるを得なくなったのです。つまり、謙遜と謙遜を持ち出してからサタン世界も自然と屈服するのです。このような原則を知るイエス様は、サタンが行うことのできない、サタンがすることのできない卑しく謙遜な立場を取ったのです。こうして卑しく謙遜な立場に立たなければ、中心を通じて歴史を進める神へと向かう新しい道を開拓することができるということを皆さんは知る必要があります。
 そして、イエス様が何を示してくれたかというと、従順と服従です。従順は応じられる環境で命令に従うことであり、服従は応じられない環境で従うことです。イエス様は不信する人々にこのような従順と服従の道理を教えました。これもまた、サタンの本質、サタンのすべての生活的な要素を阻止するためのものです。
 サタンは自分を中心にして他人がどうなろうと関係ない存在です。これがまた別のサタンの本質です。したがって、サタンの後に従うと不幸になります。そこでイエス様はすべての人々が自分を信じ、自分に従い、天に従うように教えました。このようなイエス様の意図を知らずに、人々はむしろイエス様を神の御旨の前に不正な人間と考えました。
 このような立場で、言葉では言い尽くせない侮辱と非難を受けながらも、イエス様は従順の道を切り開いて行きました。また、イエス様は犠牲と奉仕の精神を持ちました。実際には、天の栄光を代わりにして、神の独生子としてこの地に来られたイエス様は、万民や万物、サタンさえも支配し、彼らの犠牲と奉仕を受け入れなければならない立場でしたが、その反対の立場に立たれたのです。
 サタンがあなたの前に従順し、奉仕し、犠牲を捧げるようにするために、つまり、このようなサタンのすべての力を屈服させるために、イエス様は無限の犠牲と奉仕の犠牲を払う努力をしました。これを皆さんは知る必要があります。
 サタン世界は人間を扱ったり、または創造物を扱ったりする限り、無限に利用し、搾取しようとしますが、イエス様はその反対の立場を取りました。このように、サタンが行えない生活をイエス様が代表的にしたため、つまり、卑しく謙遜であり、従順であり、服従し、犠牲と奉仕の生活をしたため、サタンもその面で屈服しなければならなかったのです。
 皆さんは自分をイエス様が教えられた卑しさや謙遜、従順や服従、犠牲や奉仕に照らして見て、その教えを自分の生活領域内で実践できないと感じる場合、まだまだサタンの子孫であることに気づかなければなりません。
 ここまで、皆さんの生活はどうでしたか? 自己中心的で高慢な生き方をする人々はまだいますか?早くそのような立場から脱出しなければなりません。イエス・キリストが設けた基準、サタンを屈服させる最後の戦いで勝利するための基準である、柔和と謙遜、従順と服従、犠牲と奉仕の姿勢で、血気によって天を追い詰める者たちに対して戦っていく内的な覚悟を養わなければなりません。
 意志に反抗して背く立場に立ったのがサタンであり、これがサタンの生き方とされています。そのため、自らの意志に反発しようとする心は、自身の心ではなく、サタンの力が環境に満ち、その環境に縛られているために、自らも気づかぬうちにサタンの力が自分を中心にして現れるのです。イエス様は憎しみと悲しみがサタンの世界に結びついていますが、犠牲と奉仕を覚悟し、この道を解決しようとしました。
 今日、私たちが直面している終末には、二つの道が残されています。それはサタンが行く道と天が行く道です。しかし、サタンが行く道と天が行く道は異なります。天が行く道は、サタンが行けない道です。つまり、サタンはイエス・キリストのように、神に服従し、柔和で謙遜であり、意志を従順にし、全人類を代表して犠牲と奉仕を行うことができないということです。
 したがって、イエス様は善においては王の中の王であり、柔和で謙遜であり、従順と服従であり、犠牲と奉仕においても王の中の王であったことを知っておく必要があります。
 地上の多くの人々は柔和さを知らず、従順さを知らず、犠牲を捧げる道を歩むことを知りません。イエス様は4000年の歴史の中で多くの人々が来たり去ったりしましたが、彼らができなかったこと、つまり天の前で最高の柔和の基準、最高の従順の基準、最高の犠牲の基準を設け、サタンの世界のすべてを踏み越えて登ることができた理由です。イエス様はこのようにサタンを屈服させる苦しい努力を私たちに示しました。
 イエス様はこの地上に来て、柔和で謙遜であり、従順で服従し、犠牲と奉仕する生活をしましたが、神がこの地を通して長い歴史を経て疲れられたその心と同じ心を持ち、そのような生活をしてきたため、サタンは根本的に屈服しなければならず、根本的に変わらなければならない歴史的な出発点ができたのです。これを知っておく必要があります。
 サタンは神の心情を知りながらも、人間が神に向かって進もうとする道を阻止し、むしろ自分に導いていく存在です。自ら高くなりたがり、自ら対抗しようとし、自ら人々を利用しようとします。しかし、神とイエス・キリストに向かえば、決して頭を上げることができなくなります。イエス様の生活領域内でこれらの条件が設けられたことを知っておく必要があります。したがって、私たちがイエス様に従うと、私たちからサタンが離れるのです。イエス様の生涯は、このような歴史的な出発を果たした生涯でした。
 このような基準をイエス様はどのように設定されたのでしょうか? イエス様はまず、神と私は別々ではなく一体であるという基準を設けました。神が永遠であれば私も永遠であり、神が不変であれば私も不変であり、神が無限の慈悲を持っておられるならば私も無限の慈悲を持つだろうという心を持たれました。つまり、神の内面的な心情をイエス様は誰よりもよく感じ、一体化できたため、サタンとの闘いの中で勝利の基準を設定できたのです。
 しかし、イエス様が来られて以降、今日までこのサタンの世界では、神とイエスとの内面的な心情をつなげるその言葉、また神とサタンとの間にどのような進展、どのような問題があるか、ということを知る人は誰もいませんでした。
 おおよそ約2000年前、イエスはこの地上に来られ、サタンを屈服させる方法として、「柔和で謙虚であれ」「従順で屈従せよ」「献身と奉仕をせよ」と人々に教えられましたが、地上の人々はイエス様が教えられたとおりに柔和で謙虚に、従順で屈従しながら感謝し、献身と奉仕しながら感謝できる生活環境を持たず、自分でも気づかぬうちに従順の心が変わり、血気と高慢、対立と反対になり、奉仕と献身が変わり、利用と搾取になってしまいました。
 イエス様はこのような問題点を解決することができたのは、神と切り離せない関係があり、神とサタンとの間に切ってはならない問題があり、サタンをどのように分断すれば良いかということを知るため、イエスはそのような道を歩むことができたためです。しかし、そのような内容を人々は知らないため、イエス様と同じ道を歩むことができなかったのです。
 そのため、皆さんは天に向かって「父よ」と叫び、イエス様に向かって祈り、神とイエス様の心情を知り、サタンの策略まで知り、歴史的なサタンの犯罪を暴露し、現実的にサタンの集団を屈服させ、神の摂理の秘密を明らかにしてこれを清算しなければなりません。
 柔和で謙虚でなければ、イエス様の心情を理解することはできません。また、従順で屈従し、献身と奉仕をしなければ、イエス様の前に近づくことはできません。これを皆さんは知るべきです。
 現在の私たちには、そのような生活を完全に行い、神を求めて入ることが難しいです。そのため、人々は「ああ、神よ、臨んでください。」「神よ、あわれみたまえ。」と懇願しています。そして、「神の時はいつ訪れるのか?」「イエスと聖霊はいつこの地のすべての人々に現れるのか?」とその時を待ち望んでいます。これが歴史的な悲しみの状況として残っていることです。
あなたがたは、神とイエスとサタンの間の問題について疑念を持つ人々であったため、イエス様が伝えたいことを伝えることができなかったイエス様の心情を理解する必要があります。
 それゆえ、従順の献身として、歴史の献身として、犠牲と奉仕の犠牲として、サタンに「なぜ神の摂理に従わないのか?」と叫びながら、霊と肉を結ぶ実体としてサタンを屈服させる秘密を見つけ出さない限り、イエスが霊的にサタンに勝利したことを現実的にも体現し、サタンを屈服させることはできません。
 そのため、「私はまだあなたがたに言うべきことが多いが、今はあなたがたが耐えられないであろう。」(ヨハネ 16:12)、「私が地のことを語ってもあなたがたが信じないならば、いったい天のことを語ればどう信じるだろうか?」(ヨハネ 3:12)と述べ、すべてを伝えられなかったイエス・キリストの心情を理解する必要があります。
 そうすると、このような歴史的な審判の日が私たちの前に迫っている今、あなたがたが悲しみを持つとすれば、どのような悲しみを持つべきでしょうか? イエス・キリストがサタンを屈服させるために悲しんでいた以上の悲しみを感じる聖徒として存在しなければなりません。
 イエス様が十字架を前にし、ゲツセマネの園に登り、叫ばれた瞬間は、想像できないほど悲しい瞬間でした。自らの死が問題ではなく、天と地が揺り動かされる出来事でした。サタンの支配を解消したいという思いから、自らに衝撃を受け、ゲツセマネの園で祈り、叫び続けたイエス様の心情を共感し、さらには神の心情まで理解し、サタンを神の前に立たせ、サタンを屈服させることができるあなたにならなければなりません。そうでなければ、この地に再臨する主もまた、また悲しみの主となるでしょう。
 では、今日の私たちはどうすべきでしょうか? 私たちは今や死を覚悟し、意志に従う者として、柔和で謙虚なリーダーとして立たなければなりません。意志に従う者として、逆らう者がいようともイエス様が独りで行かれたように、あなたたちも神の意志のために従順で服従的な犠牲として存在しなければなりません。そして、このような覚悟を持って全世界が反対しようとも、父の意志に従う者として奉仕と犠牲の犠牲となり、その意志の前に差し出されなければなりません。
 では、柔和で謙虚であり、献身的であり、従順で服従的である程度はどの程度でしょうか? 神の栄光があり、イエス・キリストの栄光がある以上、あなたがたは神とイエスの栄光を称える立場にありますので、3000万人を代表して柔和で謙虚で、サタンの血気と高慢と対決できなければなりません。そして3000万人を代表して従順で服従し、サタンの対立と抗議に立ち向かわなければなりません。
 したがって、利用し、搾取しようとするサタンに対して犠牲と奉仕の心情を持って立ち向かわなければならず、神とイエスが持っていたサタンに対する憤りの心情を持ち、サタンとの対決に打ち勝つことができなければなりません。もし、あなたがたがこのような聖者になれないとするならば、臨まれる主を地上で迎えることはできず、また主が来られてもその方と何らかの関係を結ぶことはできないでしょう。
 では、今日のクリスチャンが持つべき生活的な理念は何でしょうか? 私がまず従順に従い、私がまず柔和で謙虚であり、私がまず犠牲をし奉仕することを意志します。このような道を通して、父の御心が達成され、父とイエスの心情が満たされることを知らなければなりません。これにしがみつき、教会と国を代表して献身し、天の御心のために従順に服従することができる聖者が、三千万の民の中に多く現れることを天は期待しています。
 イエス様がこのように戦って勝利し、サタンを分別したように、今日私たちもサタンと戦って勝利し、父の腕に抱かれることのできる子どもたちとならなければなりません。終わりの日が今日、この地にはイエス様が内的にサタンと対決して戦われた生活的な理念を継承した柔和で謙虚な人々、従順で服従的な人々、犠牲を捧げ奉仕する人々がいて、全体の使命は果たせないかもしれませんが、神の審判と回帰と摂理を全世界の民を代表して分担しなければなりません。また、一つの分野を一人で負担できないなら、複数が団結してその責任を果たさなければなりません。このような神聖な運命が私たちの前に置かれていることをあなたは知らなければなりません。
 イエス様が4000年の歴史を代表して犠牲の価値を象徴的に示されたように、この時代において私たちはイエス様を代表する立場に立たなければなりません。そのためには、イエス様と従順で服従的な友人になり、柔和で謙虚な友人になり、犠牲を捧げ奉仕する友人にならなければなりません。そうすることができる人が現れることを天は期待しています。
 あなたがたがそのような姿になるためには、他人が何と言おうと、どのようなサタンの非難や妨害、苦難があろうと、それらに打ち勝たなければなりません。そして、イエス様がゲツセマネの園を通って十字架を担いでゴルゴダの丘まで行かれる悲しい心情が従うでしょうが、そのような場面でもイエス様が柔和で謙虚であり、喜んで犠牲の供えとなられたように、あなたも柔和で謙虚であり、従順でなければなりません。私たちは神の子として、神の栄光を称えなければなりません。
 イエス様が自らの立場を誇示したり自らを主張せず、常に神の立場を主張されたように、私たちも神の子として、天の法を守り、自らを誇示すべきではありません。しかし、イエス様が柔和で謙虚であり、従順で服従的であり、犠牲を捧げ、奉仕したのは神から来たからです。神が元々そうであるからです。
崩壊していく命を救い、この堕落した世界を救うためには、すぐに従順で謙虚になり、速やかに柔和で謙虚になることが必要です。すみやかに献身し奉仕することが必要です。こうした人々が世界中で増えれば、サタンの支配や敵対者の支配下にあったこの地が立ち直るでしょう。
 あなた方は柔和で謙虚であり、献身的であり、他者に何を与えても無限に与えなければなりません。そうすれば、天の怒りに満ちた感情を持ち、サタンと戦っていたイエス・キリストが再び来られるとき、審判の権威を持ち、栄光の姿でこの地に現れるとき、共に加わることができるのです。
 イエスはこの地に来られて、愛情深く、悲しみに満ちた生活をされながらも、自らの人生が終わる日を迎えることはありませんでした。ですから、自らの心情を打ち明け、自らのすべての福を委ね、自らのすべての意志を託せる日を望み続け、今日まで2000年の歴史を過ごしてこられたことを理解しなければなりません。
 イエス・キリストはこの地で言いたいことを言わず、やりたいことを行わず、持ちたい家庭を持っていなかったのです。では、イエス様が言いたかった言葉とは何でしょうか?それは神の奥義であり、サタンの奥義であり、人間の奥義を明らかにされる言葉でした。
 このような言葉は一人で述べることができるものではありません。神が創造原則、自律的な運行法則によって支配されるように、言葉を述べるには自然な環境が先に整えられなければなりません。このような自然な環境が整った日をイエス様は持つことができなかったのです。
 あなた方はイエス・キリストが人々に自由な環境で心を許して言葉を述べられる日を迎えられるようにするべきです。その言葉の中で神が共にあり、イエス様が共にあり、私が共にあり、サタンも自らのすべてを捨ててあなた方を従うことができる勝者となり、神も喜び、イエス様も喜び、私たちも喜ぶ日がこの地で実現しなければなりません。そうすれば神の意志が成就することを理解しなければなりません。
 イエス様は言葉の主人として来られ、人格の主人として来られ、愛の主人として来られました。神から天地万物を支配する祝福を受けたアダムとイヴが堕落し、この言葉を実現することができなかった悔しさを残したため、イエス様はそれを解消するために来られました。また、イエス様は万物を支配できる人格的な基準を回復し、万物を支配しているサタンを打ち負かして神の支配権を回復させる言葉の主人、真理の主人であることを理解しなければなりません。
 さらに、イエス・キリストは全ての人々、信じる者だけでなく信じない者さえも愛し、サタンの束縛から嘆息する人々を解放する無限の愛を持って来られた方です。今日、キリストの花嫁の理念を求めている私たちは、その花嫁の理念を持つためにはどうすればよいでしょうか。それについて問われると、「私こそが道であり真理であり命です」と(ヨハネ14:6)、その言葉を受け入れ、その通りに生きなければなりません。
 また、サタンを服従させるためには、サタンが持っていない言葉、サタンが持っていない人格、サタンが持っていない愛を持たなければなりません。そして、イエス・キリストが地上の人々に示されなかった懇切な思いを理解しなければなりません。今日、あなた方は統一教会に通っています。私は時折言っています。「哀れな人の道をたどるあなた方は哀れであり、悲しい人の後をたどるあなた方は悲しむでしょう。しかし、その哀れや悲しみは私のためではありません。」
 あなた方が本当にその立場になったとき、天から与えられるでしょう。その心情を通して、「私はキリストの心情を知り、キリストの生涯目的を知ったから、この目的を代わりに果たし、サタンに対して戦うでしょう。キリストが魂と肉を合わせてサタンを服従させるために戦われたが、私が今その戦いを負うことで、この悪党を打ち破り、サタンを服従させるでしょう」と自信を持って言える人を探さなければなりません。天はそのような人を探し求めています。
 さらに、審判の日が近づいているので、私たちは苦難と悲しみの頂点を超え、死の犠牲となり、新たな真理の言葉を抱え、新たな人格を代わりに立てて、新たな生活理念を見つけ立てることから始めなければ、真の生活をすることはできませんし、生涯の目的を達成することも、新たな永遠の理想的な生活を始めることもできません。これは神がすることでもなく、イエスがすることでもなく、あなた自身がするべきことです。
 イエス・キリストは神の外部の言葉だけを聖書に示しましたが、今、内部の言葉を持って再び来て、サタンの秘密を明らかにし、サタンを永遠に囚人に閉じ込めるでしょう。したがって、あなた方は再び来られる主から与えられた真理の主人たちにならなければなりません。
 その真理の言葉とは、神も納得し、忠実な信者も納得し、サタンまで納得できる言葉でなければなりません。そして、その言葉の前では、正常で本来の心を持つ者であれば誰もが動かされ、引かれる言葉でなければなりません。
 あなた方は真理の言葉を持たれたイエス様が犠牲になられるまでにも、神の前で這いつくばる気持ちを感じたかのように、イエス様の前に這いつくばる花嫁となり、父の前に犠牲として捧げられる人格を持たなければ、人格審判の頂点を越えることはできません。そして、真理審判の頂点を越えることによって、神がアダムとイヴに与えられた万物支配権を回復することができるのです。
 そこから新しい人生の始まりが実現されるのです。花婿花嫁の資格を持ち、永遠の神の愛を中心に新しい生活が始まること、これが終末的な希望であり、千年王国の基盤であるということです。皆さんが原理を学び理解していることであるが、天使長の愛よりも奇妙な神の愛を受けることができる勝利の資格者となり、「ハレルヤ、アーメン!」と言えるようにならなければなりません。
 そして、サタンの死の支配から解放されて、自由と平等と幸福と愛と善と美を中心に生きるが、自己中心的ではなく、神と主と天律を中心に生きることができなければなりません。そして、主の御心が私の御心であり、主の愛が私の愛であり、主の美が私の美であるように、すべてが私の前に現れるとき、皆さんがイエス様を崇拝するように、万物も皆さんを崇拝するでしょう。このような資格を持つ花嫁となることが終末の希望なのです。
 同様に、皆さんが花嫁の資格を完成させ、地上で霊と肉を合わせてイエス・キリストを代表し、彼の願いを達成しサタンに誇りを持てる姿となって全体を指導できるようにならなければなりません。そうすれば、イエス・キリストの希望の日が勝利の日として永遠に天国の前に立てられ、人間の前に立てられ、神の前に立てられるでしょう。



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御言葉選集3(8,9)

2024年02月12日 16時08分33秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 3-8 イエスの真の家族となろう 1957年10月18日

1957年10月18日(金)、前本部教会。

聖書拝読:マタイによる福音書10:16-42


<祈祷>
 困難に直面しても、彼らを目覚めさせるために努力されたお父様! 険しいこの地上に、強烈なサタンの勢力が及んでいる中でも、彼らにお父様を求め、お父様の前で謙遜することを許してくださった恵みにまず感謝申し上げます。
 今日、私たちが存在するのもお父様の努力の結果であり、私たちがお父様の子女であると誇れるのも、お父様の無限の愛の結果であることをこの時再び感じさせてください。
 お父様、この夕べ、私たちは父の言葉を聞きたく集まりました。この時、愛する子供たちに父の勧めの言葉を示してください。切に願います。
 今日の私たちの立場は、かつてイスラエルの60万の民が40年間の荒野の旅で暗闇の勢力と戦った時に、カナンの地の福を目の前にしても、新たな決意と覚悟を持って立ち向かったヨシュアとカレブに従わなかった時と同じです。父よ、このことを勧めてください。また、天がその時、ヨシュアとカレブに対して「強く勇んでいなさい」と強調されたその言葉が今日私たちの心に持つべき言葉であることを心に留めてください。愛する父よ、切に願います。
 何百万ものサタンたちはかつて彼らを巻き込み、苦しめ、十字架を背負わせて彼らの前進を阻止しようとしていますが、彼らは一心不乱な忠臣の態度を持って、天の御心を成し遂げる誇らしい子女たちになれるように許してください。また、この時、彼らの父の前に一歩踏み入れ、「彼らが父に差し上げるべき供え物は彼らの身体であり、心だけであり、受け入れてください」と言える子女に導いてください。愛する父よ、切に願います。
 お父様、この一時間も、私たちが心配していることを私たちは知っています。父よ、私たちの一生でも、暗闇の中に行かせないでください。また、今、父の喜びと栄光を歌わなければならない時が近づいていることを知っています。今日、私たちが自分の仕事を心配して進むべき道を進めないようにしてください。既に行かれた多くの聖賢たちの心情と天の心情を思いやるのに不足がないようにしてください。愛する父よ、切に願います。
 お父様、今この一時間、足りないものが集まって、これまでの生活を悔い改め、再び新たな決意と覚悟で歩み出すことを望んでおります。父の無限の愛の腕の中にもっと進むことができる子女となるように許してください。愛する父よ、切に願い求めます。
 残りの時間も、ただあなたが統率してくださるように願い、悪魔が乗り越えてしまわないように許してください。栄光の恵みとして私たちを保護してください。愛の手で私たちを抱きしめてください。その時、すべての言葉を主の名によって訴えます。アーメン。




<御言葉> このマタイによる福音書10章の言葉は、意味のための最後の覚悟を持ち、また、この地でサタンとの戦いを指導しなければならない重大な使命を持たれたイエス様が愛する弟子たちに最初に伝えられた言葉です。
 この言葉を通じて、私たちはイエス様が非常に悲しい気持ちの中でも、弟子たちに対して無限の愛と愛情の心を持っておられたことが分かります。一方で、イエス様が選ばれたイスラエル民族に新しい福音の言葉を伝えるために弟子たちを送り出される際、去っていく弟子たちのその心情や状況も憐れまれるべきですが、送られるイエス様の心情や状況も誰にも語ることのできない難しい立場であったことを理解する必要があります。また、イエス様は何百万ものサタンと戦わなければならない弟子たちが勝利して父の栄光を歌えるように祈り、もし戦いの中でつまづいてしまい、天の心配を引き起こしてしまうかもしれないと憂慮されているときに語られた言葉であることを理解する必要があります。
 この言葉はイエス様が、愛する弟子たちが最後の戦いに覚悟を持って立ち向かう歩みであったため、そこには必ず敵が現れるだろうとお分かりになり、その時に彼らと戦って勝ち、勝利の記念を呼び、彼らが父の子女であることを証明できる喜びの一時を迎えることを心から願いながら、愛する弟子たちを励まされた言葉であり、今日のあなた方はこの言葉を当時の使徒だけのための言葉として見ないでください。
 すなわち、この言葉は今日のキリスト教徒が戦っていかなければならない前世の闘いを暗示する言葉であり、これまで長い歴史的過程を経て、キリストの意志を中心にこの地上に勝利の基盤を築きたいとする万民に対して語られた言葉です。
 ここでイエス様の心情を推し量ると、去っていく使徒たちの信仰を懸念され、また、使徒たちが信じがたい環境に直面するだろうと感じられるときに語られた言葉であることが分かります。そのためイエス様は愛する弟子たちがサタンと戦って勝利し、父の前で栄光を返上することを願いながら、誰にも語ることのできない固い覚悟と心情で弟子たちに語られたと理解する必要があります。
 また、ここで、イエス様が愛する弟子たちを送り出しつつ、「あなたたちが行くどころか、どこにも歓迎してくれる者がない」と述べられたことを思い出すべきです。これは天の子女となるために天の道を歩む者には常にサタンが狙っていることを知っていて、そのことを語られたことを理解する必要があります。さらに、イエス様が「あなたがたの行く道を遮る者は信じない異邦人でも、選ばれたイスラエル人でも、信仰を持っているユダヤ人でもなく、あなたの家族です。」と言われたことを思い起こすべきです。そして、今日のあなたがたにはたとえ持ち物がなく、天の前に差し出すものがないとしても、イエス様が述べられたその言葉の意味を理解できる人となったとすれば、そのような言葉を述べられたイエス様がどのような心情や覚悟、誓いの心を持って語られたかを考える人とならなければなりません。
 この言葉をイエス様ご自身に照らしてみると、イエス様には当時この地上で互いの心情を共有できる一人の友がいなかったことが分かります。また、国があるけれども、それが自分の国ではなく、選ばれた民族があるけれども、それが自分の民族ではなく、立てられた教会があるけれども、それが自分の教会ではなかったことを示しています。
 したがって、その言葉を述べられたその瞬間は、天を代わって歩まれたご自身の状況をただそのままこの地上の弟子たちに引き継ぐための瞬間であったことを理解するべきです。また、あなたがたが理解すべきことは、「キリストの真の家族とは誰か?」というのがイエス様が今日のあなたに問う内容であるということです。
 この地上には多くの国があり、多くの民族があり、多くの家族があり、多くの人がいますが、その中でイエス様の真の家族はいません。ですから神様は今日までそのような人を探し出し続けておられることを理解しなければなりません。
 それでは、イエス様が愛する弟子たちを敵の手に送り出された目的は何でしょうか?彼らを通じてどのような教団を築くためではなく、彼らを通じて選ばれたイスラエルの民を立て、国を築くためでもありませんでした。まず、愛する弟子たちを送り出し、天が喜ぶことのできる家族、天の御心に生きることのできる天の真の家族を見つけようとされたのです。そのため、「キリストの真の家族とは誰か?」ということが最も重要であることを心に留めておくべきです。
 それでは、今あなたがたはどうすればよいでしょうか?持ち物がなく、知識がなく、誇るものがないとしても、神様があなた一人を通じて、あなたはイエス様の真の家族と言える必要があります。すなわち神様と共に永遠に住むことのできるあなたがなり、神の栄光を示す天の家族として神様が認め、イエス様が認め、あなた自身も認めることのできる姿となるべきです。それが、父が求める人、キリストが求める人、そしてあなたが望む人であることを理解しなければなりません。
 では、これから私たちがイエス・キリストの前で真の家族となるためには、どのようにすればよいでしょうか?皆さんは神の前に現れた真の個人であり、唯一生まれ、すなわち天の家庭で初めて現れた天の子としてのイエス・キリストを、自分の生活領域内で迎え、共に生きることのできるイエス・キリストの家族となるべきです。
 そして、神の前で、天が家庭領域で第一の者として立てられたイエス・キリストの生涯、つまり父の子として父の家で生きることのできる基準を示していたイエス・キリストの生活が、まさに私たちの生活となるべきであるということです。
 イエス様は不信の地に住むイスラエル民族を再び天の腕に抱きしめるための使命を果たす神の子であることを自ら証言し、「私は天の家族です」と証言しました。
 イエス様は誰が反対するかに関係なく、そのことを恐れずに父の御心を伝え、証言され、命を賭けて闘われたことを皆さんは知らなければなりません。
 ですから、今日の皆さんも神の子であったイエス様がこの地上において全ての生涯を神の御心を証言するために捧げられたことと同じように、そのイエス様の心情を証明する者とならなければなりません。また、サタンと戦う者となり、神の御心をこの地上で成し遂げるために死ぬ覚悟のある者とならなければなりません。
 それでは、私たちが証言する目的はどこにあり、戦う目的はどこにあり、なぜ死を覚悟しなければならないのでしょうか?それはこの地上に暗いサタンの力があり、皆さんがイエス・キリストの真の家族となれないようにしているからです。ですから、皆さんが証言しなければなりませんし、皆さんが戦わなければなりませんし、また、皆さんが御心のために死を覚悟しなければなりません。
 しかし、敵は神の心を万民の前に宣言するイエス様を迫害し、イエス様の進む道を阻んだのです。つまり、イエス様一人を殺すためにサタンたちが行ったのです。ですから、イエス様はそのようなすべてのものをこの地上から追放し、滅ぼすために、夜も十分に眠ることもできず、十分に食べることもできず、サタンを従わせるために苦労されました。つまり、イエス様はサタンのすべての攻撃を阻止するために、自らの一切を犠牲にし、戦いの旗を掲げて進まれました。
 ですから、今日の皆さんは、イエス様がこのように神の御心を証言するために死を厭わずに戦いの道に進まれ、十字架の道まで進まれたことを思い起こしながら、これがまさに神の子とされたイエス様の道であったことを知らなければなりません。
 では、今後、私たちがイエス・キリストを信じ、希望することは何でしょうか?それは、私たちが真の神の子女となり、イエス・キリストを迎え入れ、共に生きることのできるイエス・キリストの家族となることを願うことです。ですから、今日の皆さんは、まず最初に、天の心情を代表するイエス・キリストの前で堂々と立つ人とならなければなりません。つまり、皆さん一人ひとりが、父の前で頭を垂れ、一つの領域を形成し、イエス・キリストが安らかに休むことのできる一つの塀を築き上げる、イエス・キリストの真の家族とならなければなりません。
 なぜなら、当時のイエス・キリストはこの地上においても安らかに休む環境を持つ真の家族を持っていなかったため、今日の皆さんはそのようなイエス・キリストの心情を慰め、解放できる、イエス・キリストの真の家族とならなければならないからです。イエス・キリストを私の兄弟として、イエス・キリストを私の兄として、私の家庭に迎え入れ、その方の悲しみが私の悲しみであり、その方の優しさが私の優しさであり、その方の心配が私の心配であると感じ、その心配を共にすることができる心情を持たなければなりません。もし皆さんがそのような心情を持たないならば、皆さんはイエス・キリストの真の家族となることはできません。これを皆さんは覚えておいてください。
 イエス・キリストはヨセフの家族で30年間、愛する兄弟たちと一緒に暮らしていましたが、その家族が天の心情を持つイエス・キリストの真の家族ではありませんでした。家庭はあったが、イエス様が望む家庭ではなかったし、イエス様が望む家族でもなかったため、イエス様はその村から追放され、別の村からも追放されざるを得なかったのです。さらにはユダヤ人から迫害を受け、イスラエルの民からも迫害を受け、今までの歴史の中でも迫害を受けてきたのです。
 そのような迫害の中で、イエス様が悲しい心情を抱き、希望したのは何でしょうか?イエス様はこの地上に来て、父の心情を持ち、父の子として生き、父を迎え、父の家族として生きることを願いました。また、イエス様は愛する家族を抱き、父を慰めるだけでなく、その家族までもが父を慰められることを願ったのです。しかし、イエス様はそのような家族を持てなかったため、ユダヤ教徒やイスラエルの民全体が不信する立場に置かれることになりました。
 ですから、イエス様は「狐には巣穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には頭を懸ける所がない」と述べることで、どこに頼るべきない自分の無念な心情を表現しました。そのため、今日の皆さんは、イエス様のそのような状況に同情し、彼が頭を懸ける場所がなかったという休息所を作り上げる必要があります。
 しかし、もしもあなたがイエス様を迎え入れる家庭がない場合でも、少なくとも自分の心の中にでも、イエス様を迎える心を持たなければなりません。そして、イエス様を迎えて休ませる場所がない場合でも、少なくとも自分のひざの上にでもイエス様を休ませる心情を持たなければなりません。また、あなたはこれまでにこの地上で救いの意志を達成するイエス様の真の家族になることを望んでいたでしょう。ですから、今日のあなたは、イエス様が望みを持って現れる場合に、それに反対する他の要因をすべて取り除くことができなければなりません。
 イエス様は天の心情を通じて、「自分の家族が敵だ」と言われました。イエス様はすべての人を家族と同じように扱い、家族と同じように育てようとしましたが、そのようなイエス様の意志を誰も知らず、信じ、頼りにしていた最も身近な人々がむしろイエス様と対立することになりました。
 したがって、サタンはそれを条件にしてイエス様を十字架にかける楽しみを持つことができるようになりました。ここで、あなたは人類の生命の木としておいでになったイエス様が、そのような自分の状況を代わってくれる真の家族をどれほど望んでいたかを感じることができる人でなければなりません。
 それでは、今日ここに集まったあなたがイエス様の状況と心情を理解し、イエス様と永遠に共に生きることができる家族の立場に立つためには、どうすればよいでしょうか?それをするためには、イエス様の心情を代わって持つことができなければなりません。
 どんな環境、どんな状況でも、天に対して変わらず忠実であったイエス様の心情と人格を見習う人にならなければなりません。また、新しい道を開拓しなければならない使命を背負ったあなたが探し出すべきものは何でしょうか?イエス様が安らかに休まれ、楽しまれる環境を作り上げる真の家族の立場をあなたが築かなければなりません。
 したがって、イエス様が「自分の家族が敵だ」と言われたのは、誰でしたか?イエス様が悲しむときに悲しむことを知らない者が敵であり、天の心情を証言するために傍に共に喜び、悲しむことができなかった者たちが敵であったことを理解しなければなりません。また、あなたはイエス様の道に向かう途中で、イエス様の母や兄弟がイエス様の真の家族となれず、敵となった事実をしっかりと理解しなければなりません。
 さらに、一生懸命に心を尽くし、命を捧げて教え導いてくれた弟子、つまり3年間共に歩んだ使徒たちさえもがイエス様の真の家族となれなかったことを理解しなければなりません。イエス様が死の山、十字架の山に向かおうとしたとき、愛する弟子たちがイエス様の状況と一体化し、真の家族となれずにイエス様の敵となったことです。
 したがって、今日のあなたたちは、私たちの先祖が神の心情を理解せず、神が要求する時機を見計らって神の真の家族にならなかった歴史的な事実を知らなければなりません。
 ですから、今日のあなたたちは、家族という言葉を使っていますが、それは実際には恐ろしい言葉です。もしもあなたが信仰の道で間違った方向に進んでしまえば、イエス様が神の意志を証言していた立場を妨げる敵になるのです。イエス様がサタンと戦っている時に、苦労し、悩み、ため息をつかれたそのすべての心情を共感できる人物であるでしょう。
 ですから、イエス様が十字架の道を歩まれる時、単に従うだけの人はイエス様の家族ではなく、十字架の道に進むまでのその心情を理解できる人こそがイエス様の家族であることをはっきりと理解しなければなりません。
 そして、あなたはイエス様がこの地上においでになり、30年以上もの間、真の証人としての使命を持って現れられた時、あなたのために証言する真の家族を持てず、サタンと戦う中で一緒に戦ってくれる家族、ゴルゴダの十字架を背負って進む道に一緒に行ってくれる真の家族、さらには天に誇ることのできる真の家族を持てなかったことが、最も大きなイエス様の悲しみであったことを知らなければなりません。
 では、今日のあなたたちは何をすべきでしょうか?2000年前にイエス様が神の意志を証言するために労し、今日のあなたも同じように神の意志を証言しなければなりません。また、当時のユダヤ教の宗教指導者やイスラエルの民の反対にもかかわらず、決然とした心情と覚悟を持って、サタンと対決し、天の意志の成就のために心配したイエス様の心情を持ち、代わりに意志を成就させる人とならなければなりません。
 さらに進んで、天の意志を達成するために進む道を阻むすべてのものを取り除くために、生命さえも捧げる覚悟をしていたイエス様のその決然とした心情を理解できる人でなければなりません。また、自ら民族のために十字架を負うという犠牲の精神も持つべきでしょう。
 また、あなたはイスラエルの民の代わりに生け贄となるだけでなく、2000年前のイエスの心情を理解し、イエスの人格を持つ人にならなければなりません。あなたはサタンの前に屈する死んだ生け贄になってはなりません。イエスの心情に共感し、神の意志を証言している間に絶望してはならず、サタンと闘って敗北する人にもなってはなりません。
 したがって、終わりの日に立つあなたは、死の谷を踏み越え、敵を神の愛のふところに導く覚悟と心情を持った人にならなければなりません。
 それでは、イエス様が神の大きな御心を代行し、進まれる際に、誰がイエス様の心情を悲しませたのでしょうか?イエス様と最も親しい人々がイエス様の心情を悲しませました。当時の予備されたイスラエルの人々が反対したことが悲しいことではなく、ユダヤ教の信者たちが反対したことが悲しいことでした。
 3年間も一緒にいた弟子たち、愛する弟子たちが信じるべき時に信じず、証言するべき時に証言せず、戦うべき時に戦わず、死ぬべき時に死ななかったという事実がイエス様にとって最も大きな悲しみでした。これをきちんとお考えください。
 それでは、あなたが天の真の家族として語るにはどうすればよいでしょうか?まず第一に、あなた一人ひとりが一つの心となって動いていかなければなりません。そして、一つの目標に向かって戦うことを知り、また、その一つの目標、すなわち神の意志を達成するために死を覚悟し、進んでいく覚悟を持つ人でなければなりません。また、イエス様が2000年前にこの地上においでになり、天の意志を全うできずに去られたことから生じたその悲しみを解消し、慰める人でなければなりません。これらすべてを成し遂げた時、あなたが天の真の家族として語ることができるということを心に留めておいてください。
 それでは、今日のあなたは自らの信仰の立場で何を持つべきでしょうか?あなたは真の家族を持つ人にならなければなりません。あなたは家に戻ればその家で真の家族を持たなければならず、教会に行けばその教会で真の家族を持たなければなりませんし、社会に出ればその社会で真の家族を持たなければなりません。
 また、あなたはイエス様が神を代表して証言し、神を代表してサタンと戦い、神を代表して帰られたことと同じように、そのようなイエス様のために証言し、イエス様のために戦い、イエス様のために死ぬ覚悟が必要です。
 さらに、そのような立場に立った後に、自分自身を証言するもう一つの仲間を持つ人にならなければなりません。そうすれば、イエス様を証言していた使徒たちがいたように、あなたも自分自身を証言する人になることができます。
 つまり、あなたが神の子娘と呼べる立場に立つためには、あなたを変わらない神の子娘として証言できる一人の仲間を持つ必要があり、あなたのために戦ってくれる仲間を持つ必要があり、あなた自身のために死んでくれる仲間を持つ必要があるということです。
 そのような人になるためには、あなたはどうすればよいでしょうか?誰よりも多くの人のために犠牲の道を進む指導者にならなければなりません。つまり、多くの人のために犠牲の戦いをしなければならないということです。言い換えれば、あなたが多くの人のために犠牲の十字架を負う真の聖者になる前には、あなたを代わりに証言し、あなたを代わりに戦ってくれ、あなたのために死んでくれる人を持つことはできないということです。
 イエス様が神を代表して自分を捨てる道を歩んだため、彼が証言したのは自分自身を証言したのではなく、神を証言したのであり、彼が戦ったのもまた、自分自身のために戦ったのではなく、神のために戦ったからです。また、十字架を負うことも、自分自身のためではなく、神の全体的な計画を実現するためでした。
 そのため、今日まで多くの聖人たちはイエス様のために証言し、イエス様のために戦い、イエス様のために死んでいきました。したがって、今日のあなたも帰還の意志を完成させる過程で、あなたを証言し、あなたのために戦ってくれ、あなたのために死んでくれる仲間を持たなければなりません。もしもそのような仲間を持たない場合、天国の前やイエス様の前で敵対する立場になることを覚えておく必要があります。
 イエス様がこの地上に来られた理由は何か?それは、自分のために死んでくれる人がいなかったからです。イエス様がこの地上で戦った理由は何か?それは、自分のために戦ってくれる人がいなかったからです。また、イエス様が自分自身を証言した理由は何か?それは、自分のために証言してくれる人がいなかったからです。
 したがって、あなたはイエス様の心情を代わり、イエス様の仲間とならなければならず、自分を証言し、戦い、死ぬ覚悟のある一人の仲間を持たなければなりません。もしもそのようなあなたになれない場合、キリストの30年の生涯の中であなたが代償として、父の前に差し出せなかった恨みが残ることを覚えておく必要があります。これを心に留めておいてください。
 では、今日のあなたたちにはどうすべきか?真の仲間を探し出すこの一歩において、あなたたちはイエス様が心配されていたその心配の気持ちを持ち、また神が心配されていたその心配の気持ちを持たなければなりません。さらに、仲間たちのために祈る心を持つ必要があります。また、イエス様が愛した弟子、愛した民族のために祈ったが、イエス様の愛を受け入れずに疎遠になってしまった全ての恨みを解き放ち、慰めていくあなたたちにならなければなりません。
 そのため、今日のあなたがイエス様を中心とした教会や民族を建てるためには、他の人が遊んでいる時に神をサタンの前に証言することが必要ですし、他の人が知らない間にサタンと戦っていく覚悟が必要です。
 では、イエス様は誰のために十字架の死を受け入れられましたか?それはもちろん愛する家族のためでした。さらに、多くの民族や人々のためでもありました。イエス様は祈る時も、自分自身のために祈るのではなく、全ての人のために祈ったのです。そして、彼が証言したことも、戦ったことも、死んだこともそうでした。
 そのため、今日のあなたはそのようなイエス様の仲間になるために、全力を尽くさなければなりません。つまり、あなたは証言の道を通じて、戦いの道を通じて、死の道を通じてイエス様の真の仲間になるために、すべての努力を払って進む必要があります。
 あなたは、自分の価値を決定するために、そのような仲間を持っているかどうかを知る必要があります。したがって、あなたはこれまで信じ、希望し、留まっている立場がどのようなものかを見極める必要があります。
 今日、天国の意志を実現する人はその過程で敵に直面するでしょう。最初に、家庭で自分の行く手を遮る敵が現れるでしょう。つまり、あなたの家庭では、妻が教会に出ると夫が敵になり、夫が出ると妻が敵になるということです。子供が出ると親が敵になり、親が出ると子供が敵になるという状況に直面するでしょう。
 では、今あなたはどのような立場にいますか?今まで持っていた家庭を失い、夫や妻を失う立場にいます。さらには、親を失わなければならない立場にもいます。そのため、今日のあなたは家族の親と一緒に真の親を見つけなければならず、あなたが真の夫または真の妻になり、さらには天国の真の家族にならなければなりません。
 では、今日のあなたがそうなるためにはどうすればよいでしょうか?あなたの家庭で親が悲しんでいるなら、子供も悲しむべきであり、子供が悲しんでいるなら親も悲しむべきです。夫が悲しんでいるなら妻も悲しむべきであり、妻が悲しんでいるなら夫も悲しむべきです。
 もしもあなたの家庭で、家族全員が一心同体になって天国の意志を受け入れ、その意志を実現できる環境を築けないなら、あなたたちのような不幸な人はいないでしょう。そのようになった場合、あなたは家庭から追い出され、社会からも追い出され、国からも追い出されるでしょう。そのような時に、あなたは天国の意志を中心にした家族が必要になります。
 世俗の親に従っている代わりに、真の親を持つ必要があり、夫婦が互いを信じない立場から真の夫婦を形成できる家族の一員を見つけなければなりません。世俗のもので引き裂こうとしても引き裂けない、死の縁まで共に行けるような仲間関係を築く必要があります。
 世俗の親でも子供が死ぬ立場なら、代わりに死ぬ愛の情を持っています。なおかつ、天国の愛で繋がったあなたたちが、世俗の家庭以上の愛を持ち、お互いに与え合う環境を築くことができないなら、あなたが滞在する場所にはイエス様が来られることも、神様が安息されることもありません。そのような時、終わりの最後の瞬間を迫られるとき、あなたはどうすればよいでしょうか?あなたは同じ教会の中でも互いの心を理解し合えず、互いの事情や気持ちを理解できないでいるといけません。それと同様に、互いの事情や気持ちを知らずに生きることが敵です。
 そのため、今日のあなたは隣人に対する関心を持ち、彼の事情が自分の事情であり、彼の悲しみが自分の悲しみであると認識し、永遠で真の家族の関係を築いていく必要があります。つまり、あなたが神の愛の心を持ち、互いに一つの家族として、親子、夫婦、兄弟姉妹の立場から互いに支え合い、生きることのできる真の家族の関係を築いていくことです。
 しかし、あなたが神を礼拝し、神を安息させようとする際、必ずそれを妨げる敵が現れるでしょう。これまであなたが結んできたつながりが敵に変わるということです。そして、その敵はあなたの家庭や社会、国、そしてこの世界で存在していることです。
 ですから、今日のあなたは家庭や社会、国、そして世界に存在する敵を排除しながら、天国へと進んでいく重大な責任を負っています。つまり、あなたは神の計画とイエス・キリストの心を通して、一つの親を持ち家庭を築き、社会や国、世界に連なっていく重大な使命を担っているのです。
 そのため、今後は家族の立場から互いに証しを与え、戦い、死に至る関係を築いていく必要があります。本当にそうしたあなたが、イエス・キリストの真の家族になることを心に留めてください。




<祈祷>
 愛する父よ。今日ここに集まった子どもたち、あなたの真の家族の立場に立たせてください。
 今日の私たちは自分を中心にして父の心と調和しなかったことが、その条件であなたの前で敵の立場に立つこととなったことを、この時知らせてください。
 愛の父よ、今日の私たちは天国の心を理解し、その心を愛する家族に伝えるための証しの戦いをしなければならず、またそれを妨げているサタンと戦わなければなりません。また、そのようなことが実現しない場合でも、生命を捧げてでもその使命を遂行しなければならない責任が私たちにはあることを、この時知らせてください。愛する父よ、熱心に願い求めます。
 イエス様も宇宙的な歴史を行う前に、愛する3人の弟子が問題であったように、今日の私たちの教会が一致して発展するためには、自分が隣にいる3人の家族と一体になれるかが問題であり、父よ、彼らと一体になれるように許してください。また、それがイエス様の前で真の家族になれる道であるということを、この時知らせてください。愛する父よ、熱心に願い求めます。
 まず、私たちの心と体が一つになり、イエス様の心の代理人として、自らサタンに対して証しを立てられ、サタンと戦って死ぬ姿として、父の意志を遂行する使命を完遂しなければなりませんので、その過程で敵の策略を避けることができるように導いてください。また、私たちの教会全体が一致して、今後の民族的な敵の群れを阻止できるように助けてください。そして、さらには神の意志を中心にして三つの民族が団結し、世界的な敵を阻止できるように助けてください。愛する父よ、熱心に願い求めます。
 もし私たち一人一人が民族のために戦い、人類のために祈り、人類のために死ぬ覚悟を持って進むならば、イエス・キリストを私たちの家庭の中心、社会・民族・世界の中心に安心して迎え入れることができます。そして、そうした私たちでなければイエス・キリストの真の家族になることはできないことを知っておりますので、愛する父よ、そうした立場に至るように導いてください。
 切に願い求め、すべての言葉を主の名によってお祈り致します。アーメン。



文鮮明先生の言葉選集 3 - 9. 裏切る者にならないように (1957年10月20日)


1957年10月20日(日)、全本部教会。


英所拝読:マタイによる福音書23:29-39


 お父様、この時、ここに集まった子どもたち、自らが父の尊い子であることを知らず、ただ日々を過ごすことでこれまで生きてきた様子をお許しください。
お父様でなければ彼らを慰めることもできないし、あなたの栄光を彼らに許すこともできないことを知っている私たち、もしかすると私たちの心が罪悪に染まって自分を主張することはありませんか?自分を中心に動いたことが天倫を背叛した行動となった歴史的な事実を私たちは知っていますので、この時のすべてを父の前に差し出し、聖霊の賜物を受けることができるように許してください、愛するお父様、切に願います。
それによってまず私たちの心がお父様の心に、私たちの身体がお父様の身体に表現されるように許してください。お父様の動く心が私たちの心を代わり、お父様が要求する望みが私たちの望みを代わり、願われる意志のために戦うその心の中にも今日私たちの戦いの心が共にすることを許してください、不屈の精神でただお父様の意志だけを受け入れて奉仕できるように祝福してください、愛する父よ、切に願います。

 これまで生きてきた私たちの生活は邪悪なものであり、不正な罪悪の中で脱出できなかったことを知っているので、今や私たちは、時間と空間を超えた絶対的な価値を求めさせ、一つの中心を通じてその価値を示そうとするその意志の前に自分のすべてを捧げることができるように許してください。

 また、その意志の前に私たちの心が活動できる相対基準を形成し、天の栄光をそのままから歌う喜びを持つことができるように許してください、愛するお父様、切に願います。

 今日まで人間のために努力してきた父の苦労の歴史を私たちが知り、また最初にこの地に来た数多くの先祖が父の意志のために流した血痕を私たちが守り、お父様の前で愛され、サタンの前で誇示できる子供になることを許してください、お父様、切に願います。

今でもお父様の御心に自ら感謝することを知らない者がいるでしょうか? お父様! そうした者がいるならば、慈悲の手で包み込んでください。復活の全能で彼らの心を屈服させ、お父様の前で悔い改める心を持たせてください。また、お父様の前で謙遜に感謝する心を持たせてください。お願いします、お父様、切に願います。

 今、お話を拝聴したいと思いますので、お父様、この聴衆をお預かりください。長い間、お父様が悲しい心で彼らを訴えてきたことを知っていますので、その訴えに顔を背ける者にならせないでください。また、自分たちが不足してお父様の御心を阻むことがないように許してください。自分たちが未熟でお父様の御心に背く立場に立たないように導いてください。愛するお父様、切に願います。
この時、父子聖霊が主導してください、私たちが自ら立てたすべてをお父様の前に差し出し、お父様の望まれる御心に従って動くことを許してください。
そのようにして、感謝の美徳を父の前に捧げるその一身一心となることを許してください、愛するお父様、切に願います。この時、イエス様が30年以上も血の汗を流し、あらゆる労苦をもって弟子たちを愛されましたが、結局、彼らの裏切りのために十字架に戻られざるを得なかったその悲しい事実をこの時、再び感じることができますように、お願いします。

 今まで天を信じて歩んできた私たちが、最後まで不変の忠誠を父の前に捧げる様子となれるように許してください。お父様の前に栄光の実として現れるように許してください、お父様、切に願います。
サタンが潜んでいるこの場所とならないように許してください。何百万ものサタンがこの場所を狙っているかもしれませんが、自分が父の前に捧げる生け贄としてこの時間を許してください。

 お父様、この時間も孤独な家族が各地に散ってお父様の前にひざまずいて祈っていることを知っていますので、集まる場所ごとにお父様の勝利の栄光が共にあるように許してください。驚異的な父の栄光が彼らの身心に満ち溢れ、お父様の子供となったことを感謝しながら、お父様の前に栄光を捧げることができる子供たちとなるように祝福してください、切に願います。すべての言葉は主の名によってお祈り致しました。アーメン。




<御言葉>
 今日のこの時間に、皆さんと一緒に少し考えようとする説教の題目は「裏切る者にならないように」です。
 現代の私たちが生活している環境は、神の律法を見つけて築くには非常に難しい環境です。また、一人の友人を見つけて永遠の友情の関係を築きながら、生涯を通じて永遠の命の喜びを共に楽しむことができるような友人を持つことは非常に困難です。
 友人だけでなく、家庭でも永遠に共に生きることのできる夫婦や、永遠に共に生きることのできる両親、兄弟を持つことが難しい世の中にいることを、皆さんはよくご存知でしょう。
 私たちの心を見つめると、私の心が変わらず、私が生活している環境のすべてが変わらない中で、驚くべき大きな理念の中で共に生きることを人間は今も切望しています。
 本来、人間は互いに永遠に信頼し、永遠に頼ることができ、また永遠に愛する心を持ち、自分のすべてを他者に託し、自分のすべての良いことを他者に自慢することができる環境の中で生きるようにされています。
 しかし、そのような環境を失ってしまったことで、それを再び見つけ出さなければならない運命を背負うことになりました。この事実は偶然の歴史によってもたらされたものではありません。ここには私たちが知らない折り返しがあるのです。
 今まで歴史を経てきた私たちの先祖たちが、絶対的な神の原則を破った条件や、私たちが知らない、犯された暗闇の条件があるために、それが今日の皆さんの血肉を抑えつけ、同時に皆さんの生活環境まで抑えつけていることを、皆さんは知るべきです。
 では、このような立場にある現代の私たちはどうすればよいのでしょうか?本来、人間が持っているべき本質的な理念を中心に据え、不変の神の姿を持ち、永遠の理念を私の理念とし、永遠の神を私の神として生活領域内で示さなければなりません。そして自分の生涯を超えて永遠に楽しむことができるその日を迎えることです。今日、多くの人々がまさにそのような日を切望して探しています。
 では、私たちはどのような存在なのでしょうか?それはまだ堕落の系譜から抜け出せていない存在です。つまり、罪の縁から解放されていない私たちということです。ですから、今日の皆さんには罪の枷から解放されなければならない責任が残っています。
 これまでの自分の誤った生活を反省しなければなりませんし、誤りの連続を阻止しなければなりません。私たちが楽しむことができる環境と、私たちが楽しむことができる生の理念を見つけない限り、私たちにはまだ残されている運命を知らなければなりません。
 私たちがこのような立場にあるのは、皆が堕落しているからです。その堕落とは何を意味するのでしょうか?人間が永遠に変わり得ない中心体として、信仰の目的を完遂した理念の中心体として、または万物に対して永遠の中心存在として現れなかったことです。
 つまり、互いに変わり得ず、分かれることのない人間と神との関係が分かれ、変化することが堕落なのです。それが今日まで私たちに残されている悲しみです。人間が悲しみを持つのは、天が立てた原則を自ら捨てたからです。すなわち、人間が神が立ててくださった創造の原則を中心に据え、この地上に神を代わりの中心存在として現れなければならないその意志を信じずに破壊したために、悲しみを持つようになったのです。
 では、今日の私自身、つまり私の身体と心を通じて現れる私の生活全般が、神と共に絶対的な善と絶対的な正義を代わりにしなかったことを感じるとき、自分が悲しむべきは何でしょうか?私の身体と心が神を裏切った裏切りの痕跡が残っていることに悲しみを持つべきです。
 人間が天道を裏切らなければ、裏切りという名詞、不信という名詞は存在しなかったでしょう。神と切り離せない父子関係を築くべきアダムとイブが天の意志を裏切ったこの一事実が、今日の宇宙の悲しみであり、歴史上のすべての人生の悲しみとなって残っています。そして、それが今日も私の心と身体の悲しみとして残っていることを、皆さんは明確に知るべきです。
 今、皆さんはこのような歴史的な条件を持っている自分を父の前に差し出して、敵に立ち向かわなければなりません。さらに、自分の生活環境と戦わなければならず、この地上のすべての闇の権力に立ち向かわなければなりません。皆さんはまさにこのような生の運命を背負っていることを知るべきです。
 では、今日の自分の姿を立てて神の絶対的な律法を探して進もうとするとき、自分も知らず知らずのうちに裏切りの立場を取るのをどうすれば防ぐことができるでしょうか?血縁的に結びついており、心と生活と社会環境全体がこのような背景を持っていることをどうすれば突破して進めるでしょうか。これが問題です。
 神が人間を創造された後、6000年の歴史の中で神の摂理に従ってこられたことを、皆さんはご存知でしょう。その過程で、多くの先賢たちを遣わして彼らを信じさせ、永遠に変わらない絆を結ぼうと努められたことも、また、皆さんはよくご存知です。
 では、その神の心情はどうでしょうか?神は無限に人間を愛しようとされました。そのため、神は今まで人間のために裏方で尽力されているのです。ですから、今日の皆さんは、何千年もの歴史の過程を耐え忍んで捨てられなかった神の内なる悲しみ、永遠に変わらない人間として神の永遠の意志を代表して立ち上がる人を探し出そうとしている神の内なる悲しみを理解し、考察することが必要です。
 神とはどのような存在でしょうか?6000年もの間、辛抱強く人間に天を信じる信仰の条件を設けるよう努められた方です。人間が堕落した後、今日まで誰一人として神を裏切らなかった立場から、彼らを許し、抱きしめなければならない悲しい心情を持っておられる神です。これを皆さんは確かに理解しなければなりません。
 では、私たちが信じている父と私たちが敬うイエス、そのイエスと父がこれまで数え切れないほど裏切られながらも信じ、信じ続けた心情を知る人がいるでしょうか。その人は社会的であり、国家的であり、歴史的なあらゆる裏切りの条件を踏み越えて、父と直接協議できる資格を持つ者となるでしょう。皆さんがそのような人になるためには、皆さんは神の心情を正確に理解する必要があります。
 神が信用しない人々を今まで容認してきた心情を知る人が、この地上に何人いるでしょうか?今日この時間に集まった皆さんは、神のその心情を感じることが重要です。裏切る人々を見据えても耐え忍び、彼らを再び受け入れる神の優しい気持ちを感じなければなりません。
 今まで何千年もの歴史の中で裏切られながらも耐え忍んで人間を愛し信じてきた神の心情を知る人でなければ、皆さんは歴史的な裏切りのノウジョンを打破することはできません。
 では、人類の歴史の過程で人間が神を裏切ったのはどこから始まったのでしょうか?最初にアダムとイヴが、家庭を単位として神の愛の支配権を裏切ったことから始まりました。神の創造思想を設けるべきアダムが、天使長によって堕落し、天の意志を信じなくなったことから、裏切りの歴史が始まったことを、皆さんは知らなければなりません。
 これまでの歴史の中で、神は信じられる一人の人を再び見つけて立てようとして、ノアを選ばれました。神はノアに120年間努力させ、神の御心を成し遂げようとしましたが、彼も達成しませんでした。そのため、その御心はノアの後、歴代の信仰の先祖たちを経て、モーセに伝えられました。
 神はアダムの家族が堕落し、地上の多くの民族が乱れたため、その多くの民族の中から信じられる一つのイスラエルの民族を選び、その中からモーセを選んで立てました。しかし、神がモーセを通して不変の律法を確立したにもかかわらず、モーセに従っていたその民族は神を裏切りました。
 そのため、家族でも民族でも神の御心を達成できなかったが、再びイスラエルを正しい水の中から引き抜いて、カナンの民と戦わせる戦いの歴史を経て、4000年の歴史を代表する一人の主人公を送りました。それが誰だったかと言えば、それはイエス・キリストでした。
 その当時、民族的に受け入れるべきモーセを裏切った人々が、国家的に受け入れるべきイエスを果たして受け入れたのでしょうか?むしろ、イスラエルの民はイエス・キリストを家族的にも、社会的にも、国家的にも裏切りました。
 歴史の先祖たち、または歴史の先祖たちが御心の前に立って天の使命を担おうとするとき、神は信じられる彼らがなるよう望みました。そのような歴史的条件を整えるために、天の使命を担うために選ばれたのは、ノア、アブラハム、ヤコブ、そしてさらにはイエス・キリストだったということをあなた方は知るべきです。
 では、イエス・キリストはどのような心境でこの地に現れましたか?イエス・キリストは神の全ての属性を代わりに持ち、神の歴史的な言葉を代わりに伝え、神が求めていた希望の実体として現れた人でした。

 では、イエス・キリストがこの地上に来られて何を感じられたでしょうか?イエス・キリストがご自身が神の言葉を持って現れ、世界に向かって叫びかける時、その言葉は歴史的な言葉でありながら、多くの先人が示そうとした言葉であることを感じました。さらに、その言葉は数多くの人々から裏切られた言葉であり、信じられる地上の姿を無限に探し求めるお父様の悲しい心情を感じられたのです。

 更に、イエスは神がエデンの園ですべてのエネルギーを注いで人間を造り、分裂することのない永遠の理想的な愛の実現を望まれた、その愛の心情を感じ、裏切られたアダムとの関係を自ら修復しなければならない使命感を感じたものでした。イエスの立場は、堕落を懸念された神の立場でもありませんでした。

 イエスは堕落した人類の苦しみを感じ、愛情を込めた歴史の過程で天秤にかけていた立場に立っていました。目に見えない実在に対する見える実体として語りかけ、現れました。また、神の心情を共有し、神の姿として現れました。

 長い歴史の過程で多くの人々から拒絶され、軽蔑されていたその言葉を自分のものとし、軽蔑され、軽視されていたその心情を自分のものとし、神殿としての体を自分のものとし、イエスは現れたのです。このような立場から、イエスは希望として求められ、要求された一つの目的がありました。それは善の一日を築くために戦い、また帰られたのです。

 イエスは、神の前で言葉を持って現れる際に、歴史的な過程で拒絶されたすべての言葉を取り戻し、祖先たちが誤って築いた裏切りの歴史を取り消し、父を慰める責任を感じたのです。ですから、イエスは、「ああ、父よ! 父の聖なる殿と心を踏みにじり、踏みにじった祖先たちの4000年の歴史を見捨てて私を見て慰めてください。」と祈りを捧げる心を持って現れたのです。イエスは、自分が地上で何を清算しなければならない使命を感じたのです。歴史的なすべての裏切りと現実的なすべての裏切りを排除し、再び裏切りの歴史を後世に残さない決意でした。

 イエスはこの使命を負い、天に向かって覚悟を決めました。イエスは神の言葉が呼びかけられる場所に裏切りの歴史が起こることを知り、神の心を持って現れる場所に悲しみや苦悶があることを知りました。そして、神の体が現れる場所には、サタンの矢があることを知り、覚悟を決めたのです。このように、イエスは自分の立場を守り、自分を守ってくれることを望みながらも、信じない人々に対して黙って耐え忍んでいました。

 人々には知らない悲しみを抱え、人類のためにゲッセマネの園で、またはオリーブ山で一人で祈っていたその悲しみの状況を今日の皆さんは知らなければなりません。当時の地上にいる人間とイエスを比較すると、イエスは誰よりも哀れな人物でした。

 そして、歴史の過程で多くの人々から裏切られる言葉を持ち、その言葉の主である神の心を代わりに持って地上に現れたイエス様のように、その言葉を抱きしめ、「ああ、私の主よ、私の花婿よ、私の導き手よ!彼らの命を父の前に導いてください」と祈った人は誰もいませんでした。

 4000年にわたる神の歴史が裏切りによって終結された事実を感じたイエス様でしたが、それでも裏切られたその人類のために涙を流されたのです。しかし、彼は4000年間裏切られながらも人間を求めて来られた神を思い起こすと、裏切られても悲しむことができず、生活が困窮していても絶望することができず、自らの命が犠牲にされる恨みはないという立場にありました。

 4000年間裏切った民族をそれでも捨てずに愛で接する父の心情を感じたイエス様だからこそ、その父を慰めることができました。さらに、父と直接すべてを話し合う立場にいらっしゃったことを、今日の皆さんは確実に知らなければなりません。

 では、イエス様はこの地上で何を望んでいたのでしょうか?裏切りの歴史を清算し、裏切る現実を屈服させて、裏切る子孫たちが現れないようにイエス様は望んでいたのです。しかし、そのイエス様の願いはまだ実現されず、今日の皆さんの願いとして残っています。

 今日の私自身を考えると、私が生きてきた過去が裏切りの立場であり、私が生きている現実が裏切りの環境であり、私は子孫たちに対する裏切りのルーツであることを、皆さんは知っておかなければなりません。そして、それを悲しんで、哀しんでいなければなりません。

 では、イエス様はこの地上で何を望んでいたのでしょうか?裏切りの歴史を清算し、裏切る現実を屈服させて、裏切る子孫たちが現れないようにイエス様は望んでいたのです。しかし、そのイエス様の願いはまだ実現されず、今日の皆さんの願いとして残っています。

 今日の私自身を考えると、私が生きてきた過去が裏切りの立場であり、私が生きている現実が裏切りの環境であり、私は子孫たちに対する裏切りのルーツであることを、皆さんは知っておかなければなりません。そして、それを悲しんで、哀しんでいなければなりません。

 そのような立場で、イエス様は民族の前で拒絶され、国家の前で反逆者として追われ、後には強盗以上に重い罪人として追われることになりましたが、そのような立場でも彼らの罪を彼らに戻さないでいただくようにと祈る彼の心はどこから来たのでしょうか?それは、歴史的な裏切りをする民族に対して数千年にわたって耐えてきた父の優しい心情から生まれたものです。

 自らの生命が犠牲にされるかもしれないとしても、父が4000年間裏切られた心情には比べることはできないと悟ったからこそ、死の山を越えながらも裏切る群れ、裏切る民族に祝福を送ることができたということを皆さんは知らなければなりません。

 また、イエス様はこの地上に来られてから今日まで、ずっと私たちを求めておられます。今日まで人類は信じられない歴史の過程を経てきましたが、イエス様は今もなお人間を信じておられます。時と場所を問わず裏切ることができる状況に置かれた人間を非難することなく、むしろ救いの手を差し伸べておられるのです。しかし、今でもこの地上にはイエス様の言葉を代わりにし、イエス様の体を代わりにし、イエス様の心を代わりにして現れた人は一人もいません。さらに、そのような民族や国もありません。

 当時のイスラエル民族は神の御心を代わりにし、その言葉を受け継ぐべき民族でした。しかし、イエス様がおいでになる場所ごとに歓迎する人はいなく、言葉を持って出ても、いつどこでも誰一人として歓迎する人がいなかったのです。

 イエス様がこのような歴史的な道を辿ったため、皆さんもその言葉を持ち、進む時は必ず兄弟から、または教会から、または民族から拒絶されることになるでしょう。しかし、皆さんはそのような環境でさえも裏切る者たちに祝福を与える人とならなければなりません。

 それでは、今日の皆さんが持っている言葉や信仰、立てている宗教思想はどのような状態にあるでしょうか?2000年前、イエス様は個人から家庭・教会・イスラエル民族・国家から裏切られる立場を経験しました。これが今日の民族・国家を超えて世界に及ぶまでの裏切られる段階に留まっているのです。

 皆さんがエデンの園でカインがアベルを殺した後から今日までの歴史が悪が善を打ち負かす歴史であることは分かりますが、天に向かって進むには裏切る者が真ではなく、裏切られる者が真であり、さらに彼らが天の歴史を成し遂げていることを知らなければなりません。

 それでは、今日のどの民族が世界を代わってすべての面で裏切られる立場にあるでしょうか?天の御心を探し立てて、天の御心を代わり得る、天に近いこのような民族がいるとしても、その民族はその民族が持つすべてのものにわたって裏切られるこのような歴史的な運命を持つことになるでしょう。

 では、その民族は何から裏切られるのでしょうか?アダムとイブが堕落したとき、天使たちとの間で起こったそのすべての条件によって裏切られることになったのです。そのため、最初に言葉を中心にした裏切りを受ける立場になります。園の中央にあるすべての実を摘み取りながら、善悪を知らせる木の実だけは摘み取らないようにする約束の言葉が裏切られる立場に立たされることになります。

 したがって、天使が現れ、その実を食べれば目が開き神のようになるという言葉を通じて、一つの国、一つの思想圏内に他の国の思想的なものが現れるような、そのような歴史が現れることを意味します。

 したがって、一つの思想、一つの目的、一つの中心を目指すべき心が第二の心の形で現れ、新しい目的を紹介するように見えましたが、結局は裏切りの原点を作り出すことになったことを皆さんは知らなければなりません。

 では、この裏切りの原点は何によって生じたのでしょうか?言葉によって生じました。ですから最後には、天の前に立つべき国があるとすれば、その国はある時点で、言語からさえも裏切られる立場にあり、その国の言葉を代わりにする文章があるとすれば、その文章さえも裏切られ、さらにはその国の歴史、その国の民族性さえも侮辱される立場に立つことになります。

 では、今日、世紀末の終末時点を見ると、そのような国がどこにあるかと言えば、それは韓国ということです。韓国は歴史上、多くの民族の侵略を受け、多くの裏切り者が現れました。私たちは日帝の圧制の下で、言葉さえもほとんど失いました。私たちの文字さえも、私たちの民族性さえも、私たちの誇りさえも、私たちの思想さえも、すべて破壊されたのです。

 さらに、今日、同じ民族同士が互いに裏切る立場にあります。同じ民族同士が互いに裏切ると同時に、兄弟同士が裏切り、親戚が裏切り、富める者同士が裏切り、夫婦同士が裏切るという裏切りの局面を経ています。

 では、この民族はどうすれば良いのでしょうか?この民族は神の人類の前に裏切られ、その悲しみの心情をある時点で経験することになります。その時にこの民族は、イエス様が神の心を持って裏切る民族に対して呪わず、むしろ彼らのためにゲツセマネの園で祈っていたことと同様に、今日、この民族も裏切られる世界のために天に向かって祈るべきです。そうすれば、この民族の道があることになります。

 したがって、この民族は裏切る世界を乗り越えなければなりません。むしろその裏切りを通じて、裏切られたイエス様の言葉を自分の言葉として、裏切られた神の心を自分の心として、裏切られた先祖の身体を自分の身体として天の前に伏し、訴えるべきです。

 天が無関心でイスラエルが滅びると思われましたが、イスラエルの中にイエス様が現れたように、この国が滅びるように思われますが、この国に神の希望があるということです。ですから、今この民族がすべきことは、6000年間裏切られた父の言葉を自分の言葉と自分の身体、心として受け入れ、6000年間の父の悲しみを自分の心情として感じることです。

 これからは、誰にも頼らないでください。誰の言葉も信じないでください。誰かを判断しないでください。あなたたちは本来、他人に頼るべきではありません。誰かを信じるべきではありません。また、誰かを判断すべきではありません。本来の人間が不足しているからこそ、他人に頼り、他人の言葉を信じ、他人の行為を判断してしまうのです。

 ですから、本来の目標に向かって進むべきあなたたちは、信頼できる信念の存在そのものにならなければならず、頼れる存在そのものにならなければならず、判断できる存在そのものにならなければなりません。つまり、自分自身を頼りにし、自分自身を信じ、自分自身を判断できるようにならなければならないのです。

 神様が人間に対して黙って耐えてくださったように、あなたたちも誰よりもよく我慢できるようにならなければなりません。そして黙々と、自分自身を頼りにし、自分自身を信じ、自分自身を判断できる人間にならなければなりません。

 さらに、そのような自己を確立し、「父よ、私を見て慰めてください」と言う立場になり、父が私を信じてくださり、私が父を信じ、父が私であり、私が父である関係が築かれるときに、天の悲しみはあなた自身から離れていくことでしょう。そうすると、あなた自身で神様の戦いが終わるということを覚えておいてください。
 今や、アダムとイブが天から授かった本性によって堕落しなかったとしたら、彼らは堕落しなかったでしょう。ですから、今日、あなたもその心が永遠の理念と永遠のルールを通じて、不動の役割を果たす完全性を持っているならば、その心はあなたを堕落させません。
 したがって、今や、何千年もの歴史を通じて裏切られてきた中で弁解することができましたが、一日も一時間も弁解しなかった父や、また、2000年間弁解することができましたが、弁解せずに地球のために心配し続けているイエス様を信じる人々として、黙々と我慢し、弁解しない人々であり、さらに自分が第二の天使の立場であることを明らかにできる人々でなければなりません。

 今日、周囲にはあなたの環境を脅かし、侵害しようとする無数のサタンがいます。このようなとき、あなたは天のルールを知り、感じ、身体で体現しなければなりません。その後で、あなたはすべてを正しく判断できるでしょう。

 したがって、神はその一日を審判の日として待ち望み、イエス・キリストもまた2000年間、無数のサタンと戦いながらその一日を待ち望んでいるのです。言いたいことをすべて言い尽くし、したいことをすべて成し遂げる人は、何も持っていないでしょう。したいことをすべて成し遂げた人は、栄光の基盤を持つことができないでしょう。自分の思い通りに生きたいと思った人は、後世に裏切り者や背信者になることを知らなければなりません。

 裏切られる立場でも、言いたいことを言えず、したいことを思うようには生きられなかった方は、まさにイエス・キリストであり、また私たちの先祖でもありました。ですから、今日の皆さんもこの事実を認識し、自らを不変の存在として抑制することを知っておかなければなりません。

 いつ、どんな時に天を裏切る立場に立つかわからないことを心に留めてください。もしも皆さんが裏切る立場に立つならば、どのような条件にも縛られることになるでしょうか? 皆さんが6000年間の裏切りの悲しみを耐え忍んでいたその父を裏切るとき、皆さんは終末の審判を逃れる方法がないことを意味します。

 天が皆さんに対して6000年の悲しみを一挙に解放しようとしている審判の日を、皆さんは超えることができないということです。ですから、今や皆さんは世界の犠牲になって黙って十字架に戻られたイエス・キリストの心情を代わって持ち出し、持って行かなければなりません。

 進む道は1年ではありません。10年でもありませんし、30年でもありません。一生を通じて後世に受け継ぐ信仰を持って進むべきです。また、皆さんは今日の自分を見つけ、開拓し、国を照らし出さなければなりません。そのようにして、自分と天との関係がこの悪の世界を超え、宇宙的な終末に至ることができることに気づき、自分の生活圏内で父と共に楽しむ勝利の条件を整えなければなりません。その時に皆さんは、天の意志と約束を裏切らず、永遠の勝利の息子娘として立つことができるということを心に留めてください。


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御言葉選集3(7)

2024年02月10日 15時25分43秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 3-7 その国とその正義を求めて立ち上がろう

1957年10月13日(日曜日)、前本部教会

聖書拝読:マタイによる福音書6:16-34


<祈祷>
 天地の父なるお父様、この時もこの地のすべての人々の上に、あなたの悲しみが今も残っていることを、私たちの心と体が理解できるように許してください。エデンから堕落したアダムとイヴを追放された父なる神のその悲しみの痕跡が、今も私たちの心と体に残っていることを、ここに集まった息子たち娘たちが認識できるように許してください。
 私たちの心が望むのは永遠の父なる神の理想郷であり、私たちの体が望むのはサタンと闘って勝利した栄光の姿を、父なる神の前で誇示できるその日を見つけることであります。私たちの心が父なる神の栄光を受け、私たちの体が父なる神の姿に似て、私たちの心と体が父なる神の喜びの対象として現れ、栄光の姿で示されるように許してください、愛する父よ、切に願います。
 そのような勝利の息子娘の姿を持たねばならない私たちですが、今日ここに集まってあなたの前にひれ伏した息子娘たちが、その心を父なる神の栄光の前に、その体を父なる神の姿の前に、自分のすべてを差し出し、熱心な態度で、過去の不足だった自己をこの時、悔い改め、反省できるように導いてください。
 お父様、私たちが真に父なる神の愛を尊び、父なる神の人格に似たいと望んでいる心があるならば、今日の父なる神のその悲しみが私たちの悲しみであり、父なる神の憐れみが私たちの憐れみであるべきことを知っています。愛する父よ、私たちがそうなるように導いてください。
 愛のお父様! 私たちの中に死と暗黒の道に向かっている者がいることを知りながらも、まだ悔い改めていない息子娘がいますか?父よ、力を持って現れてください。父よ、力を持って現れてください。父よ、再創造の復活の歴史を起こしてください。そして、私たちの心と体に父なる神の無限の愛の腕を向けて走り込むことができる能力を与えてください、愛する父よ、切に願います。
過ぎ去った一週間、父なる神の抱擁から離れて生きている者がいますか?自分自身が父なる神の前に悔い改めさせてください。もしくは、私たちの中に正しくない心を抱き、父なる神の意志に逆らった者がいますか?この時、父なる神の前に悔い改めて、父なる神の慈悲深い恵みと愛の中で休息できるように導いてください、愛する父よ、切に願います。
 お父様、時が進むにつれて最後の戦いの日が私たちの目前に迫っていることを知らせてください。その戦場で絶望する者にならないようにお願いします。父を代わって最後の勝利の基準を設けるまで、戦い続けることができる天の兵士になれるように許してください、愛する父よ、切に願います。
 この時も無数のサタンたちは私たちを狙っていますので、父のその愛の恵みを捨て裏切る者がいないようにお願いします。一人でもサタンのもとに引きずられる者がいないようにお願いします、愛する父よ、切に願います。
 愛のお父様、過ぎ去った一週間、私たちは父とはあまりにも遠い場所で生活していましたので、この一時間でも父の愛の腕に抱かれ、父の許し無しには勝手に動かない子供になれるように許してください。この時も地方に散在する孤独な子供たちがサタンとの戦いに疲れて父の前にひれ伏し、訴えていることを知っていますので、どこにいても同じ恵みで共にし、同じ栄光の場所に立ててください。
 この日まで私たちと同じように悲しんでいただき、私たちと同じように戦っていただき、私たちと同じように苦難を受けられた父よ!今、父の望みの一日を見据えて戦わなければならない新しい戦いが私たちに残っていることを知っていますので、父よ、私たちに無限の力を注いでその戦いに勝つことができるようにしてください、決して不足する姿にならないよう助けてください。
 愛のお父様、自身の問題のために父の意志に向かって進まずに留まる者がいますか?そのような者がいないようにしてください、この一日、私たちのすべての行動が父の栄光を示すことができるように助けてください、父の心情を理解し、父の姿に似せることができるようにしてください、愛する父よ、切に願います。
 この時三千万の民族を代表して集まる数多くの祭壇があることを知っていますので、愛の父よ、集まる場所ごとに約束された意志を達成していくことを許してください、聖霊を注ぎ、無数のサタンたちを打ち負かし、父の栄光を明らかにできる貴重な祭壇になれるようにしてください。
 そして、この民族が父の愛の腕に抱かれ、進んで民族を通じてこの地の多くの人々が父の栄光の一日を迎えることができるように許してください。
 また、人類を通じて天国へと向かう、二つではなく一つの世界を形成し、父の栄光を賛美し、父の愛を理解し、新たな帰還の理想郷が早くこの地上に成就するようにしてください、父よ、切に願います。
 ここに臣従した私たちは、目的を達成するためにすべてを捧げて立ち上がった子供たちですので、父であるあなた、その足取りが止まらないようにしてください、どんな困難や逆境が来ようともそれを乗り越えられるように一緒にしてください。
 この時も試練と困難に直面し、孤独ながら父に訴える子供たちが多くいること を知っていますので、愛の父よ、彼らがどこにいても一律の恵みで導いてください、一律の愛で包んでください。
 どうか勝利の日、父の国を成就するその日まで、戦いに疲れ果て倒れないように、父が支えてくださることを切に願い求めます。残りの時間を父に委ねますので、すべてを支配してください。
主の御名によってお祈り致します。アーメン。



<御言葉>
 今日は皆さんと「その国とその正義を求めて立ち上がろう」というテーマで一緒に考えたいと思います。
 現代に生きる多くの人々は、神が予告されたその国とその正義を見つけることができていません。ですから、その国とその正義を求めることが今日の私たち人類の希望であり、また、これまでの何千年もの歴史の中で人類にとって一つの希望であったことを皆さんは理解する必要があります。
 では、このような希望のその国、希望のその正義がどうして私たちの最後の目標として残っているのでしょうか?それは人間が堕落したからです。人間の堕落によって、その国とその正義の中心となる神と人間との関係が全く結べない状態に置かれました。
 つまり、その国とその正義の中心である父について詳しく知らない人間となったために、神はそのような無知な民族や人類を目覚めさせ、その父がどのような方であるかを知らせるために、これまでの歴史の進行で苦労されてきたのです。ですから、その国とその正義を求めることが今も私たちの希望であり、目標として残っているのです。
 このようにその国とその正義をこの地上に立てようとする父がおられるのであれば、その父の意志がこの地上に必ず残っていることを皆さんは知っておかなければなりません。
 それでは、このように人間が希望する神の国、神の正義を立てるために皆さんはどうすればよいのでしょうか?これまでの歴史の進行で人間と関係を結び、その国とその正義を立てるために努力してきた父を探す必要があります。まずその父を見つけなければ、その国とその正義を立てることはできません。
 ですからこの世に生きる人々は誰もがどのような歴史的過程を経てでも、まずその国の主役である父を見つけなければならないのです。しかし、もし人間がその父を見つけられない場合、その父の栄光がこの地上に現れることはできないばかりか、人間が希望する神の国と神の正義をこの地上に立てることもできないのです。
 そしてイエス様が現れるまで、この地上で天と地に向かって「私はその国の主役である」と宣言した人は現れませんでした。つまり、イエス様が来られる前には、その国の正義を代わりに実践し、その正義に従い、その正義の実体と自信を持って叫び出した人はいませんでした。
 しかし、このように希望がない静寂なる天地に、天の希望と正義の血統を引き継いで生まれ、『私はその国の父であり、私がその国の正義の実体』と主張して立ち上がった方がいたことは、この地上の人類にとっては福音の中の福音であり、喜ばしい知らせの中の喜ばしい知らせでした。それは、今日の皆さんが信じているイエス・キリストであることを確実に知っておかなければなりません。
 では、そのイエス様がこの地上に現れて何と言われたでしょうか?4000年の歴史を覆し、「私は神と一体である」と言い、「私は神の子である」と主張しました。
 また、「私を信じるなら、父を知り、私を信じるなら、その国を築く」と言われました。そして、「私は道であり、真理であり、命」であるとも言われました。このように、天の全体的な目的を達成するためには、自分を信じなければならず、自分を通じなければならないとイエス様は力強く語られました。
 そして、天上と地上に障害されているすべてを打ち破って現れ、その国とその正義の中心である神との関係を結べない堕落した人々に、「私を信じることで、各自が自分の生活の中で『神と関係を結んでいける』」とイエス様が言われたことは、堕落した人々にとっては福音の中の福音となったことを皆さんは知っておかなければなりません。
 では、皆さんはイエス様のそのような福音を信じている今日のキリスト教徒にとって、イエス様だけをただ見つめているだけではいけない時が来ていることを知らせなければなりません。
 その国とその正義を築こうとする神の希望は人間や生き物を離れて成し遂げられるのではなく、人間を通して成し遂げられるのです。その希望は真の人間を通して神と万物が調和することでした。
 ですから神様は堕落した人間の前に神を代わって一つの実体として、天の血統を代表する方として、イエス様をこの地上に送られたのです。つまり、イエス様はこの地上に最初に神の歴史的な希望を達成してくださるために来られた方でした。
 したがって、そのようなイエス様については当時言及することさえ不要であり、現代に生きる人類や命を持つあらゆる存在さえも反対すべきではないということです。地上に生きる人類は、その国の栄光とその正義を証明できる生活環境を整えなければならない存在であり、その目的が実現される日を希望しているのです。
 この事実を振り返ると、イエス様が帰られることは、人間にとって無限の悲しみであり、最も悲惨な出来事であるはずがありません。そのために歴史的な苦痛の過程に直面しなければならなくなったのです。
 では、私たちが求めている国はどのような国でしょうか?その国とその正義の本質が何であるかを皆さんは知る必要があります。イエス様はこの地上において人間が求めるその国の正義を示すために努力され、すべての民を愛し、すべての民を救うために犠牲の道を歩まれたのです。
 そのため、イエス様が成し遂げようとされたその国は、『主は愛』が溢れる国であり、奉仕する犠牲の生活が溢れる国であったということです。これは、皆さんが霊的な世界を体験するときに完全に感じることができるものです。
 では、この国を統治される神はどのような方でしょうか?万物に対し、人間に対し情熱的な心を持ち、愛を与えるために努力される方です。そのような神が望まれる生活とは何でしょうか?神は地上のすべての民が自分のすべてを捨て、犠牲を払い、奉仕しながらその国の建設のために労苦を惜しまない生活を望まれるのです。
 今日の皆さんは、人間が求めるその国は本質的な愛が実現された国であり、また愛の本質は愛を与えるために情熱的であることを知り、その正義と共有できるそのような犠牲と奉仕の生活環境を歩んでいかなければなりません。
 では、神の悲しみとは何でしょうか?あなたの愛を完全に捧げられる相手を見つけられなかったことが神の悲しみです。そして、神が人間に対して無限に犠牲を払い、奉仕するように、隣人に対して無限に奉仕し、犠牲することができるそのような人を見つけられなかったことが神の悲しみです。
 それでは、イエス様がこの地上において終わりを予告される際、何を言われたでしょうか?神の心情を受け継ぎ、神の実体として現れたイエス様は、神の愛を語られました。そして、イエス様はこの地上の全ての人々に対して「あなたがたは私の友人である」とおっしゃり、神の愛をすべての民の前に証明し、自ら行われました。
 天国の愛を表現するために努力されたイエス様の心に駆り立てたものは何でしたか?それはどうやって万民に天国の愛を与えることができるかについての思いでした。そして、イエス様がその愛を与えられた目的は何でしたか?その目的は、あなたを信じて従う者だけを愛することではなく、イスラエルの民やユダヤ教会、さらには異邦の民までを愛し、この地を神の愛が満ち溢れる楽園に建設することにあったのです。しかし、その当時、イエス様を信じ従う弟子や群衆、または反対したユダヤ教徒やイスラエルの民の中で、イエス様のその愛の心情と永遠の関係を築くことができた者は一人もいませんでした。
 愛を与えたいと願う神の心に共感する存在を見つけ、教会や民族、イスラエルの国家、そしてさらには世界を通じてこの地上に神の国を築こうとしたのですが、その時、イエス様の意志を邪魔したのは家族であり、教会であり、従っていた弟子であり、イスラエルの民でした。
 ですから、神の意志を再びこの地上で成就するためには、イエス様が再び来られなければなりません。そして、そのような主が再び来るその日が、今日のキリスト教徒たちが望んでいる再臨の日であることをあなたは知らなければなりません。
 また、イエス様が人間を愛する心に共感する一方で、生活の面でも他者のための奉仕の生活を送っていたことを知る必要があります。万民を導くことであれば、自分がサタンの前に引き裂かれ、犠牲になることをいとわない姿勢があるかぎり、一身のすべてを忘れて犠牲と奉仕の道に進んでいたのがイエス様でした。
 しかし、その当時、そうしたイエス様の心情を知り、神の真の子として民衆に拒絶されたイエス様を見て、悲しんだ人がいたでしょうか?いませんでした。もしもそのような人が一人でもいたなら、驚くべき証しの使命を果たしたでしょう。イエス様の望む愛の心情を代弁する人がいれば、イエス様を模範とし、神の意志を成就させることができました。
 しかし、そのような愛を与えたいと願うこの世の楽園、天国の正義を地上の生活で表現できる一人の人間がいなかったために、今日のあなたに天国の国を望み、その正義を求める悲しい立場にいます。だからこそ、今日のあなたはどうしてもその意志を実現させなければなりません。
 あなた方は、世界中に溢れる多くのクリスチャンが結束したからといって、その意志が成就するわけではないことを知る必要があります。神の本質的な愛に100%適合でき、そして、従っていたイエス様の愛の心情を通じて共感できる一つの花嫁になれるかどうかが問題なのです。イエス様は、あなたが実践してきた犠牲と奉仕の生活を代替する存在を探しておられます。また、そのような存在はイエス様だけでなく、神様も探しておられることをあなたは心に留めておかなければなりません。
 この宇宙に関する神の摂理が終わらない限り、この地上にそのような存在になるための一つの基準を必ず設定しなければなりません。もしもあなたがそのような基準を設定しないなら、イエス様が愛情深く「すべてを捨ててただ国とその義を求めよ」と語られたその言葉の目的と、あなたとは何の関係もなくなります。
 では、今日の私たちの悲しみは何でしょうか?私の悲しみは何でしょうか?キリスト教の悲しみは何でしょうか?そして、世界の悲しみは何であり、この地上の悲しみは何であり、天国の悲しみは何でしょうか?与えたいと願う神の愛はどこに留まるでしょうか?これらのすべての問題をまだ解決していないことが、天国のため息であることをあなたは知るべきです。
 今日、この地上に住む人々を見ると、そのような問題を解決できる存在になったかと問われると、そうではありません。ですから、神様はこの時間も愛情を持ってため息をつき、あなたたちの前にはそれを補正し、超えなければならない歴史的な運命、つまり裁きの過程を通って進んでいく運命が掲げられています。
 神様は、あなたがそのような道を進む過程で、あなたが天国の愛を感じないための悲しみではなく、天国の正義を感じないための悲しみではないと言っておられます。人間のどのような思考や概念を超越し、永遠の存在の価値を持つ人間として、自然の法則に従い、神の相手となる心情を持つ存在がいないために、悲しんでいると言っています。
 自然に神の愛を感じ、自然にその国とその義の本質である奉仕の心情を持ち、生活を送ることができるべきなのに、人々はそのような生活をしていません。ですから、あなたは信仰の過程で混乱と矛盾と闘争の過程を経て、神の愛を持ち、奉仕の生活をするために努力しなければなりません。
 それでは、あなたの敵は何でしょうか?民族の敵は誰でしょうか?この世界と天の敵は何でしょうか?それは、見えない無数のサタンが支配しているこの宇宙全体が敵であると言うほかありません。
 しかし、あなた方にとって、そのような敵が問題視されるべきではありません。問題はあなた方個人です。あなた方個人に潜んでいる敵から始めて排除していくことが、緊急の問題であるということです。民衆を救うためにこの地においでになったイエス様の敵は誰でしたか?彼らを絶対的な価値の存在ではなく、相対的な価値の存在として理解する人々こそが、イエス様の敵でした。
 ですから、イエス様は彼らの中から、あなたの本質と関係を築き、「あなたの心であり、私の心でもある」と言える一つの存在が現れることを待ち望まれました。そのような存在が現れれば、イエス様が十字架にかけられても、その人の愛と信念はこの地上に確立されていたでしょうが、そうならなかったことがイエス様の悲しみであったことをあなたは理解しなければなりません。
 また、その国とその義が成された世界はどのような世界かと言えば、互いに奉仕し、犠牲を喜ぶ愛の世界であり、神の御心のために奉仕し、犠牲する生活が輝く世界であることをあなたは理解しなければなりません。ですから、そのような世界は今日の私たちが住んでいるようなこの世界ではないということです。
 では、あなたが神の真の愛を受けるためにはどうすればよいでしょうか?先ほども述べたように、あなた自身が他者のための犠牲の道、奉仕の道に進むときに、ようやく神の愛を受けることができるということを心に留めておいてください。
 この地上の人間をそのような道に導く立場にあるイエス様にとって、当時の地上に住んでいた人々の中には、他者を愛し、他者のために生きようとする人は誰もいなかったのです。むしろ、自分のために生きてもらいたいし、愛されることだけを望む人ばかりだったため、どの人も同情の対象と見られたのです。このように、神の御心をこの地上に実現するために犠牲と奉仕によって神の愛を示す存在を見つけられなかったことが、イエス様にとって最も大きな悲しみであり、苦しみであったことをあなたは理解しなければなりません。
 イエス様は、見せても見えない無知な人々に対して、手渡してもわからない人々を相手にしながら悲しみました。ですから、イエス様は彼らに「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと心配するな」と言われました。それは自分の生活を否定する言葉であり、すべての状況を否定する言葉なのです。
 イエス様は、それが人間が生きるために必要な必然的な条件であることを知らずにそう言われたのではありませんでした。堕落した人間はそのような道を歩み上がって初めて希望の一日を迎えることができるということをご存じだったからです。何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかを心配せずに、まず最初にその国とその義を求めようと言われたのです。最初にその国とその義を実現する人は、この自然の法則圏の中ですべてのものを管理でき、自然にそのようなものに対する心配はする必要がなくなるための言葉なのです。
 イエス様はこの地上に来て、サタンからいくつかの試練を受けました。40日間の断食の間、ますます食べることを求められました。サタンはイエス様の前に現れ、石を命じてパンになるようにしろと言いました。これは飢えた人々にとっては朗報であるでしょう。しかし、イエス様はこれを拒否し、自分が食べ物のために来たのではないことを示しました。むしろ、神の言葉を主張することで、人が生きる実際の生活圏内でのすべての条件を失わなかったという立場を示したのです。
 それまで人間は物質を中心にした闘争の歴史を経てきましたが、イエス様がサタンの第一の試練に勝利することで、そのような物質を中心にした闘争の歴史を終結させることになったことをあなたは知るべきです。
では、その後イエス様はどのような試練を受けたのでしょうか?イエス様はサタンに導かれて教会の聖堂の頂上に立たされ、そこで「もしあなたが神の子であるならば、飛び降りよ」という試練を受けました。
 イスラエル民族やユダヤ教を導く宗教的思想を持って現れたイエス様にとって、「飛び降りよ」というこの言葉は何を意味するのでしょうか?それはユダヤ教的な習慣と彼らの主張に屈し、彼らの指導者の立場を放棄することを意味します。しかし、イエス様はここでサタンの試練に陥ることなく勝利しました。
 その後はどのような試練があったのでしょうか?サタンはイエス様を非常に高い山の頂上に連れて行き、全世界とその栄光を見せながら、「もしあなたがひれ伏して拝むならば、これらすべてをあなたに与えよう」と言いました。しかし、イエス様はここで宇宙的な思想を持ち、神の国、つまり天国を建設しようとする神の御心を示すために、サタンのそのような要求を退けました。
これらの事実は何を意味するのでしょうか?この地上に新しい天と新しい地、つまり天国を建設できる思想を持ったイエス様だったため、その御心を示す実現過程で、歴史的な不信のすべての条件を除去し、回帰する象徴的な条件を設定しなければならなかったのです。
 ですから、終わりの日を迎えた今日のあなたにも、物質的な条件を中心にした闘争が行われることになります。しかし、今日のすべての人間がそのような物質的な闘争で勝利できずに敗北すると、この地は自然に暗黒の世界に変わるでしょう。
 したがって、今日の皆さんはそのような物質的な闘争を乗り越えて、イエス様の天国の思想を受け入れて、そしてさらに、世界中のクリスチャンと力を合わせて神の国をこの地上に建設しなければなりません。
 言い換えれば、昔のイスラエル全体の価値を象徴できるユダヤ教徒と一体となって、世界に帰還しなければならない使命があったように、今日の世界中のクリスチャンにも、世界を代表し、民主主義の思想、そしてその基礎にあるキリスト教の思想を中心にして一致団結し、神の国をこの地上に建設する使命があることを知る必要があります。
 そして、イエス様がサタンのすべての試練を乗り越えて勝利したように、皆さんもそのようなプロセスを経なければならないことを知る必要があります。だからこそ、終末が来ると、物質的な闘争のプロセスを超えなければならず、その次に宗教的な闘争のプロセスを超えなければなりません。ここでは分裂や矛盾を解決し、その通りに進む宗教が現れるということです。これはイエス様が経験した試練を象徴している時代なのです。
 イエス様はどんな逆境の場や死の場面でも変わらない自らの姿を示したように、皆さんもイエス様のそのような人格を似せなければなりません。また、終末に直面した今日のクリスチャンは、過去に好きだった何かに執着することなく、イエス様の生涯に相応しい生活に立つべきです。そして、皆さんは歴史的な使命を持ってこの地に来られたイエス様のその生涯に相応しい生活に立つべきです。なぜならば、皆さんの前には歴史的な闘いの時が待っているからです。
 これまで世界的な栄光を享受してきたサタンが最後の戦いに敗北することで、神の子どもたちがひれ伏して礼拝する時が必ず来るということです。
ですから、そのようにサタンを従わせ、神の御心だけが現れる日が早く訪れるべきであり、また、そのようなことをできる一人の人が現れなければならないということです。しかし、もしもそのような一存在が現れない場合、イエス様がまずその国とその正義を求めるように叫んだその意志がこの地上で実現されることはありません。
 したがって、この世界的な終末時代に直面している皆さんは、誰もが今日を終末と呼んでいるこの時、つまり歴史的な終わり、科学的な終わり、倫理的・宗教的な終わりを予告するこの時に、どのように行動すればよいのでしょうか? イエス様が叫ばれた言葉、つまりまずその国とその正義を求めよという言葉と同様に、自分のすべてを考えずに、この地上にただ神の国と神の正義を築くために不変の忠誠を尽くす人にならなければなりません。その結果、皆さんは宇宙の前で誇りを持つことができ、皆さんは神の代理人の使命を果たす人にならなければなりません。
 つまり、その国の本質的な思想を自己の生活に適用し、それが皆さんの生活の実質的な価値を形成し、永遠の未来を約束する希望のその日を実現しなければならないということです。 しかし、もしもそのようなことができない場合、皆さんは神がアダムとイヴの堕落後、4000年間苦労された後にイエス様を遣わして歴史を進める意志と、イエス様以降、今日までイエス様と聖霊を合わせた三位一体が歴史を進めたその意志とは何の関係もなくなります。
 この視点から、皆さんは今、何を見つけるべきですか? 皆さんはその国とその正義を築くことができない、つまり天主的な思想を築くことができない不正な条件を見つけ出さなければなりません。 その結果、皆さんは一神教の生活から闘いを通じて勝利し、神の子イエス様の代理存在にならなければなりません。
 つまり、皆さん自身がその国にふさわしい人、その国の正義の人々になりたいと思うならば、食べること、着ることだけを持って闘う愚かな人になってはいけません。 食べる問題、飲む問題、着る問題を超えて生きる人になり、むしろそのようなものが自分に少しでも与えられたら、それを裸になり、飢える人に分け与えることができる人でなければなりません。
 皆さん!神の心情はどのようなものかご存知ですか? 一切れのパンがあれば、そのパンを一人で食べるのではなく、多くの人に分け与えたいと思う心が神の心情です。イエス様はこのような心情を持っていましたが、イエス・キリストの前に現れた人々はそうではなかったのです。
 それでは、今日の家庭に争いが生じる原因は何でしょうか? それは家庭が自分だけのために存在すると考えているからです。 食べるものがあれば、それが自分だけが食べるためにあるものだと考えるため、争いが起こり、不和が生じるのです。 これが罪の矢であり、サタンであることを皆さんは心に留めるべきです。
 したがって、今日の皆さんは食べる問題を解決しなければならず、着る問題を解決しなければなりません。 自分だけを思う心、つまり家庭不和の条件を打ち破らなければならず、まさにそのような歴史的な矛盾を明らかにして立ち上がらなければなりません。 これによって、皆さんは衣食住のすべての問題を超えて、神の前で真の勝利者の姿として現れるべき立場にありますことを忘れてはなりません。
 それでは、当時、まずその国とその正義を求めるように呼びかけられたイエス様はどのような立場にいらっしゃいましたか? ひとつの物事でも、それを扱う神の心と人間の心との間に差があるときは、悲しくて悲しいことです。 そのため、イエス様は神の心と自分の心が一体となった状態で、人間の心が自分の心と一体となることを願われたのです。
 しかし、人々がその方を不信し、反対することで彼らと一体になることができなかったため、言い表せない悲しみと悲しみの立場にいたことを皆さんは知っておかなければなりません。 もしも皆さんに食べるものがあるなら、皆さんは何を考えながら食べるべきでしょうか? 神の本質とその国の本質を慕いながら、与えたい愛の心を持って食べなければなりません。
 他者のために犠牲をし、奉仕する心を持って食べるべきです。 このような心を持って生きる人にならなければなりません。 多くの宝を持つことになっても、そのものを自分の気ままに扱うことはありません。
 したがって、皆さんは与えたい父の心が小さなパンの一切れを通じても現れていることを感じながら、食べる人にならなければならず、またこの地上に成就すべき神の意志と、困難な状況に置かれた多くの可哀想な人々を憂いながら食べる人にならなければなりません。 このような人になると、彼には物質的な不足がなくなるのです。
 しかし、今日の皆さんはそのような立場にありません。 皆さんは物質を中心にした闘いに苦しみ、いますぐ神の心を示すべきである行動を取ることができるか、この物質を私よりも愛する父の子供がいるのですか? この物質が私のものではなく、父のものだと思い、それを父に使用させるという謙虚な心を持たなければなりません。
 そのようなときに、皆さんの心に潜んでいた本性が現れ、皆さんは永遠の希望の領域に向かって進むことができるように、イエス様が物質を使用する姿勢について語られたことを知っておかなければなりません。
 したがって、今やあなたがたが敵として対処すべきものは何ですか? それは、あなたがたが自分のものだと考える貪欲な心です。 そのため、あなたがたはパンの一切れでさえも、それをすべての人が分かち合うことを願う神の心を代表できるようにならなければなりません。
 食べ物があれば、それを食べる前に家族のために分け与える心にならなければならず、社会、民族、国家、そして世界の人類のために分け与える心を持つ必要があります。 このような心を持つことが人間が正常な過程を経て完成することができるのに対し、今日の大部分の人々はそれを忘れたまま生きていることをあなたは哀れんでおかなければならず、またそれが堕落の立場であることを知っておかなければなりません。
 では、今日の敵は何によってやってきていますか? 物質的な条件によってやってきています。 しかし、神の祝福も物質を通じてやってきています。 つまり、物質を通じて神と私たちの敵が同時にやってくるということを確実に知り、物質を通じて堅固な信仰の中心を築くことができる人にならなければなりません。
 どんなものでも一つの中心を築くと、自然に相対的な存在が生じるものです。 完全なプラスがあれば、自然と完全なマイナスが生じるのが宇宙の法則ですから、あなたがたはこの地上で原則的な信仰の核、一つの基準を見つけて立てなければなりません。 イエス様がそのような原則をご存じだったので、まずその国とその正義を求めるように呼びかけたことを確実に知らなければなりません。
 次に、あなたがたが知るべきことは何ですか? 食べることによって家族間で争いが起こることです。 食べることによって義理母と嫁、兄弟間で争いが起こり、国家間で争いが起こり、親族間で争いが起こることをあなたは知っておかなければなりません。
 したがって、イエス様もそれを踏み越えるために家族のために、社会、国家、世界のために苦心する心を持っておられたので、その国とその正義を築けない悲しい気持ちを述べられたのです。 ですから、今日の皆さんもイエス様のそのような気持ちを体験し、その人格を模倣しなければなりません。
 その次に、あなたがたの前に着ることによって争いが生じることになります。 あなたの信仰の納得の上で着る問題を解決し、それを乗り越えなければならないプロセスがあります。 ですから、今日の皆さんはサタンのどの中傷にも束縛されることなく、そのような問題を自由に解決できる人でなければなりません。
 このように、あなたがたの食べることや着ることが同時に悪魔となり、悪魔が活動する場となることを理解しなければなりません。ですから、今後、あなたがたが行うすべてのことには、悪魔が侵入しようと狙っていることを知り、悪魔が侵入できる条件を一切与えないような人にならなければなりません。
 そのために、今日のあなたがたは自分だけのために生きてはいけません。より大きな目的のために生きる必要があります。あなたがたが家族に属しているなら、その家族のために生きるとき、それはあなた自身のために生きることになりますし、一つの国に属しているなら、その国のために生きるとき、それはまたあなた自身のために生きることになります。また、あなたがたが天国のために生きるとき、あなたは真に自分のために生きる立場となるのです。
 したがって、今日のあなたがたは、これらすべての事実があなたがたの生活環境を通じて実現し表れていることを心に留めなければなりません。今やあなたがたが神の御心のために、神の心情を理解し、その国とその正義を確立するために立ち上がったのならば、あなたがたはどうすればよいでしょうか? あなたがたに食べるものがあれば、それを持たない人々に分け与え、自分自身を飢えさせる心、また食べるものがあれば、むしろあなたを迫害する人に与える心を持つ人にならなければなりません。
 そうすることで、あなた自身が「自分の実践的な側面で与えたい心に生きているか、奉仕のための理念に生きているか、それとも今日のこの現実を追求し、その国の理念を実現するために奮闘しているか」ということを反省できる人にならなければなりません。そうすることで、あなたはパウロが「ああ、わたしは悩み深い人間である」と嘆いたその気持ちを感じることができるでしょう。
このように、あなたはあなたの実践的な心によって生涯全体の価値を見出す使命があることを理解しなければならず、またそのような使命を果たすためにこの地上に希望の実体としてやって来られた方が、まさに2000年前のイエス・キリストであることを知らなければなりません。
 しかし、今日の人々はイエス様がそのように与えたい心によって生きた方であることを知りません。また、あなたがたが食べるパンや着る一着の服に、神の愛情深い涙の痕跡が込められていることを知らずに生きているのです。これがまさに神の悲しみであり、ため息の条件であることをあなたは確かに知らなければなりません。では、今後再び訪れるべき主は、どのような方として現れるのでしょうか? その方もまた、神の国を建設し、与えることの理念の主役として来られるのです。永遠に変わらない天国の原則によって、親の子に対する愛情を持ち、その愛情を今日の私たち人間に与えるために再び来られるのです。
したがって、あなたがたは来られるその主を通して、人間の祖先の堕落によって失われた人間の尊厳を取り戻すために、これまで6000年間にわたって神の愛情深い心情を受け継がなければなりません。そうすることで、あなたがたはこの地上に来て犠牲となったイエス・キリストの愛情深い心情の仲間として進まなければなりません。
 もしも今日の信者たちがそのような位置に達しないならば、キリスト教はいくら信者が多くても発展することはできず、国にはいくら人が多くてもその国は繁栄することはできないでしょう。ですから、今日のあなたがたは告知された神の御心を受け継ぎ、イエス様がこの地に対して愛情深く持たれた心情をあなたがたの生活領域で体現する人とならなければなりません。
 神様は今この時も、与えたい心に生きる人が現れることを望まれ、イエス様は自分を殺したこの地のすべての悪の勢力を踏みつけて立ち上がることのできる人が現れることを待ち望んでいます。もしもそのような存在が現れれば、彼はまさにこの社会の主役となり、この国の主役となるでしょう。しかし、まだそのような一人の人物も現れないことが神様やイエス様の悲しみであることを、あなたがたは知らなければなりません。
 そのような主役となるためにこの地上に来ていた多くの先知先哲がいましたが、歴史上の先祖たちは彼らを埋め、また迫害し、嘲笑してきました。ですから、今日のあなたがた自身を確立し、そのような歴史的なすべての間違いを清算しようとするのが、神の望みであるということをあなたは理解しなければなりません。
 では、そのような神の望みを果たすためには、あなたがたはどうすればよいでしょうか? まず第一に、神の国と神の正義のために十字架の道を歩まれたイエス・キリストに従う人となり、次にはこれまで6000年間の歴史の中で多くの先知先哲が自らの一神の栄光を捨てて神の御心を達成するために努力したその道をたどる人とならなければなりません。
 しかし、もしもあなたがたがそのような道を歩まず、自らの栄光のための道を歩むならば、あなたがたは神の前や多くの先祖の前で堂々と立つことはできません。また、死んで霊界に行っても、父の前に立つこともできず、父の愛の腕に抱かれることもできません。つまり、信じることも自分のために信じ、死ぬことも自分だけが救われるために死ぬ人は、あの世に行っても父の前に堂々と立つことができないことを、あなたがたは心に留めておかなければなりません。
 したがって、あなたがたは自分を否定し、その国とその正義のために生きる人とならなければなりません。どんな困難な状況にぶつかっても、あなたは自分を向ける父の希望があることを考えながら、その環境と戦って勝つ人とならなければなりません。そのようなあなたがなって初めて、神の真の子や娘であると言えるでしょう。
 では、神の国を建設できる人はどのような人でしょうか? 自己を否定し、愛情深い心で天国を目指す人です。自己を否定し、社会や民族・国家・世界のために尽くす人が、まさに神の国を建設できる人なのです。
 さらに、国や世界を否定し、それでも天国を目指す人が、天国を建設できる人であることです。また、どんな悲惨な状況に直面しても、自己のためではなく、社会や国家・世界、さらには天国のために悲しむ人でなければ、神の国を建設することはできません。
 したがって、今日のあなたは、個人の欲望を満たすために努力するのではなく、より大きな目的のために犠牲を払い奉仕する信仰生活を送らなければなりません。そして、ただ神の御心と人間のために尽力したイエス・キリストの精神的な基準に従うだけでなく、これまで努力してきた神の愛情深い心情を慰める神の真の子女の位置に至らなければなりません。
 そのため、今日のあなたは、不正を見ると怒り、与えたい神の愛を持ち、この世界の果てまで行っても神の国と神の正義を建設するために努力し、さらには人類を救うために努力してきた神の心情を慰めることができなければなりません。
 さらに、あなたが神の国と神の正義を建設する過程で、サタンとの戦いに負けずに勝利し、あなたが個人から家庭・社会・民族・国家・世界を一体化させる人とならなければなりません。
 つまり、あなたがどのような状況にあっても、そこでサタンと戦って勝利する人でなければなりません。社会に出れば、その社会のどんな環境でもサタンと戦って勝利し、国に出ればその国の最も困難な問題を引き受け、サタンたちと戦って勝利する人でなければなりません。
 もしもそのような人が現れれば、私たちが見る限りではすぐには終わりそうにないかもしれませんが、後には成功することをあなたは知っておかなければなりません。また、そのような人がどの家庭や職場・団体・国家の主人であることです。家庭では親のために自らの命を捧げて孝行の道を行い、夫婦がお互いに尊敬し合い、国王のために忠臣の道を行う人が、その家の主人であり、その国の主人なのです。
 したがって、今日のあなたも、6千年の歴史の目的を代表し、今日の現実的な宇宙的イデオロギーを代表して、どのような困難な道でも「父よ、ありがとう」と言いながら威風堂々とそれを乗り越えることができるようになるべきです。そして、あなたの偉大な姿があなたの心から湧き出て身体に溢れ、サタンすらもあなたを尊敬し、従うようになるとき、あなたはその国とその正義を建設する民として立つことができるのです。

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御言葉選集3(5,6)

2024年02月03日 15時34分52秒 | 学習
文鮮明先生の言葉集 3 - 5. 捨てられたイエスを探して立てる花嫁になろう (1957年10月4日)

1957年10月4日(金曜日)、礼拝、前本部教会。

聖書拝読:ヨハネによる福音書12:44-50


<祈祷>
 父なる神様、これまで私たちを守ってくださったお父様の前に、心から感謝いたします。特に今日は私たちが覚えておくべき日であることを知っております。
 愛のお父様! 過ぎ去った日を思い出し、その時の敬意と感情を振り返りながら、今日の私自身がどこにいるか、また先週、お父様の前にどれだけの栄光をささげたかを反省できるように、この時間を私に許してくださいと心から願っています。
 多くの人々の中で私たちを最初に呼んでくださり、哀れな国民の中で私たちを最初に見つけ立ててくださったお父様に、心から感謝いたします。私たちが負うべき責任が重いことを知り、愛するお父様、どうかそれを許してくださいと切に願っています。
 私たちの目指す目標は地上の物事ではなく、私たちが追い求めるものは地上の欲望のためではなく、天運に結びついたお父様の意志を解き放つためであることをお父様がご存知ですから、その意志を捨て、後退する者にならないように導いてください。
 さらに、お父様の勝利の旗を高く掲げ、三千万の民族をお父様の愛の前に導き、同志になり得る子供たちになることを許してくださいと切に願います。
そして、三千里半島がお父様の愛の腕に抱かれることを許し、聖霊が宿ることができる場所になるように許してください。
 愛するお父様! 今日は私たちはあなたの前により一層近づきたいという気持ちで集まっています。自分の不足をお父様の前で懺悔し、自分の正しくないすべてをお父様の前で清算し、お父様の命じる命令に従って進んでいけるよう、私たちが許されるようにしてください。愛するお父様、切に願い求めます。
これまで私を中心に据えて行ったことについて、何かございますでしょうか? 自分を主張するために生きてきた何かがありますでしょうか? もしもそのようなものが私たちにあるのであれば、お父様、この時を清算してください。そして、私たち自身がお父様の前に主張できる条件は何もないことを知るようにしてください。
 それによって私たちの持つすべてをお父様に託し、頼り、望むこの一時を許してください。ただし、お父様の許された恵みと、お父様の導かれる歴史だけが現れるようにしてください。愛するお父様、切に願い求めます。
 お父様、ここに集まった家族を統一的な恵みとしてこの時を主宰してください。そして、今夜も地方に散らばる孤独な家族が父の前に伏し、国のために祈っていることを知っています。お父様、彼らの心にも統一的な恵みを共有し、愛の聖霊が彼らの未来を保護し、また喜びの恵みがこの時に彼らの心を満たすように許してください。
 愛のお父様、ここに参加できなかった家族もいますし、試練と逆境の中で孤独を経験している家族もいます。お父様、彼らを守ってください。
今まで耐えてこられた心情、お父様の悲しい心情を、お父様、この一時に解放してください。私たちがお父様の前に献身する代わりに、お父様の実在する子供として現れることができるその日が早く来るように許してください。愛するお父様、切に願い求めます。
 この時点以降のすべての手続きをお父様に託しましたので、愛で保護してください。そして、私たちがお父様の愛を感じることのできる時間に導いてください。切に願い求めながら、すべての言葉を主の御名によってお祈り致しました。アーメン。



<御言葉>
 今日のこの時は、「捨てられたイエスのものを探して立てる花嫁になろう」と題してお話しいたします。
人々が今まで信じてきたイエス様、または今の時代において、キリストと呼び、主と呼ぶイエス様は、当時地上においでになって栄光を受けなかったことは皆さんもよくご存じです。
 今日信じている私たち自身もそうですが、当時の人々の中にはイエス様が残していかれた言葉を天の言葉と信じた人はおらず、その言葉を自分の命を代わりに捧げる言葉と信じた人も一人もいなかったということです。
このようにして地上に降り立ったイエス様でしたが、地上の人々からは歓迎されなかったということです。個人を代わりに彼を真に歓迎した人は誰もおらず、家族を代わりに彼を歓迎した人も一人もいなかったことを皆さんは理解すべきです。
 イエス様は30年間、ヨセフとマリアの家族で生活しましたが、その家族では誰もがイエス様が抱く心、イエス様の望み、イエス様の生活とやるべきことについて無知でした。さらに、イエス様の言葉の深い意味を理解し、イエス様をキリストとして迎える者は誰もいませんでした。むしろ、イエス様を信じずに拒絶する立場を取っていたのがイエス様の家族でした。
家庭で見いだすべき義務があり、個人に対して見いだすべき使命があり、また生活を通して、仕事を通して見いだすべき使命がイエス様にはありましたが、その当時のユダヤ人たちの中にはそのようなイエス様の使命を自分のものと感じる人は一人もいなかったということです。
 イエス様が見、聞き、語り、行い、働くすべての生活が無知な地上にあったとしても、その生涯は地上の人々のためだけではなく、人々が知らない新しい神の意志のために生きていたのです。したがって、こうして新しい天命のために生きたイエス様には、まさに人知れぬ背後の悲しみが言葉や信念、行動や生活に表れていたことを皆さんは知るべきです。
 さらに、イエス様は家庭で自分の意志を立てることができなくなると、社会を通じてまたは教団を通じて自分の意志が知れ渡ることを望んでいました。しかし、イエス様はユダヤ教の前にまたはイスラエルの民族の前にも歓迎されず、拒絶されたのでした。
 こうしてイエス様の一進が拒絶されただけでなく、さらにはイエス様が述べられた言葉も拒絶され、イエス様の生活とイエス様が成し遂げようとしたその一切がすべて拒絶されたことを皆さんは知るべきです。
 ですから皆さんは、そうして拒絶を受けたイエス様の心情、拒絶を受ける時の孤独さ、心に刻まれたその苦しみがどれほど大きかったかを考えなければなりません。もしもそのようなイエス様の苦しみを知らない者になると、皆さんは4000年の歴史を背負ったイエス様の生涯、彼の信念、彼の生活、彼の業績、そして彼の言葉を知る者として、決して現れることはできません。
 今日私たちは、イエス様のそうした事情が表れている聖書の言葉を通じて少しは知っているかもしれませんが、それもあくまで頭で知っている程度であり、また耳で聞いて知っている程度です。しかし、それだけでは駄目だということです。
昔のイスラエルのユダヤ人たちに対して、イエス様が語りかけたときでも、彼らはただ耳で聞いて頭で理解するだけでした。現実の生活で感じ取れず、耳で聞いて頭で理解するだけだったため、逆に彼らはイエス様を十字架の道に進むようにさせたのです。だからこそ、言葉を頭で理解し、耳で聞いてだけではだめだということを皆さんは明確に理解しなければなりません。
 では、今日私たちはどうすれば良いのでしょうか?  聞いた言葉を頭で知るだけでなく、心で理解し、行動できるようにならなければなりません。しかし、当時、イエス様が十字架の死の道を歩むまで、このように言葉を頭で知るだけでなく、心で理解し、行動する人は一人も現れませんでした。
 イスラエルの民族、ユダヤ教、そしてイエス様が3年間にわたって共に過ごし教えた弟子たちの中でも、そのような人は一人も現れず、全員が不信の立場に追い込まれ、拒絶する結果となりました。
 イエス様は熱心に教え、夢を通じて神の計画を知り、また神の摂理に無知な彼らに「私を見た者は神を見た者だ」と語りかけ、熱心に彼らを覚醒させました。しかし、当時のイエス様の愛する弟子たちは、このようなイエス様の背後の事情をまったく理解していませんでした。聞こえる言葉や見る目、知る頭でなく、言葉を頭で理解し、心で感じ、身体で行動した人は一人もいませんでした。
 それでは、今日、歴史的な終末の時代を迎えるにあたって、私たちの責任は何でしょうか? 失われたイエス様のすべての信念を回復し、この地上のすべての邪悪と戦って勝利し、天国の世界を築き上げ、イエス様を花嫁として迎え入れる資格を持たねばなりません。
 単にイエス様の事情を聞いて知る程度でなく、自分の頭で理解するだけでなく、心で感じ、身体で感じ取れることが必要です。したがって、皆さんはイエス様が語られた言葉の中に、当時の人々の前で父の意志をすべて打ち明けられなかった事情、天命の秘密を全て明らかにし、語られなかった無限の苦悩があったことを理解しなければなりません。
 もしも皆さんが、そのようなイエス様の事情や心情を知らなければ、イエス様の言葉を真に理解することはできません。また、イエス様が言葉を立てるために生活された事情も理解できませんし、地上の諸民族を救うために努力されたイエス様のその使命も理解できません。
 当時のイエス様の心情と、彼に対する人々の心情は無限の差がありました。イエス様は自分の深い心に秘められた言葉を述べることなく、無知な一般の人々を覚醒させるための忠告の言葉だけを述べていたのです。
 それでは、当時のイエス様が話された内容はどのようなものでしょうか? それはサタンの支配する世界、邪悪な地上、敵対者たちの世界に住んでいるが、天の子となることを望む者たちの前で述べた忠告の言葉でした。サタンの支配する世界で試練を受けずに勝利できる手段を提示した言葉でした。言い換えれば、イエス様は人々がサタンの支配下であっても、あなたの言葉を守り、あなたの心情を代わりに生きることができる足場を残していったということです。
ですから、イエス様は私たちに対してどのような最後の言葉を残されたでしょうか? それは「あなたたちは私の花嫁である」という言葉です。当時のイエス様は、このように愛する弟子たちに対しても直接的に話すことができず、後日を約束する立場から話さざるを得なかったということです。このようなイエス様の心情を皆さんは理解する必要があります。
 天が託してくださった意志を抱えて、イエス様はあなた方の弟子やイスラエル民族、ユダヤ教を愛する心に変わりはありませんでした。しかし、無知な民、無知な教団、無知な弟子であったため、イエス様はサタンと戦う先鋒として、一人であらゆる矢を受け、彼らに人生の道を開いてやるために苦難の道を歩まれました。
 つまり、自分の心の奥深くに隠された感情、天の花嫁の信念を告白し、話せる環境を持たなかった悲しいイエス様であったということを、今日の皆さんは確かに知っておかなければなりません。それでは、イエス様が行かれる中で、この地の我々が喜びの一日を迎えることができる希望の兆しとして、「あなた方はわたしの花嫁」と言われた言葉はどうだったでしょうか? 今日、その花嫁の信念はどうなっているのでしょうか? まだ何千年もの歴史の過程を経て、サタンとの激しい戦いに勝利し、イエス様の花嫁の立場に入った者がいなかったということです。
 ですから、今日の皆さんは、2000年前に天から選ばれ、立てられたイスラエルが築けず、愛する弟子たちが築けなかった、イエス様が望まれる花嫁の信念を代わりに築いていかなければなりません。そして皆さん自身がイエス様の心情に立ち向かうことができる人間にならなければなりません。
 それでは、イエス様が話された言葉はどのような立場から話されたものでしょうか? 花嫁の信念を完成させていない立場を置いて話された言葉なのです。彼の言葉は花嫁が信じる人々が真に花嫁の資格を持ち、イエス様の熱意なる事情を通じて進むことができるようにするために残された言葉でした。
 ですから、今日の私たちはイエス様が授けられた言葉の真意を実現し、イエス様が求める花嫁として、花婿の言葉で立ち上げなければなりません。そして、その当時のイエス様が感じられた内面的な心情に感情移入できる立場まで進まなければなりません。もしもこのような立場まで進む者がいなければ、イエス様が30年以上にわたって語られたその言葉の目的は達成されないことを皆さんは知っておかなければなりません。
 それでは、イエス様がこの地上で言葉を伝えた時の状況はどうだったでしょうか? 万民がイエス様の言葉を歓迎せず、むしろ反論し、さらには迫害まで行ったことです。ですから今日の皆さんは、イエス様がそのような状況でも逆に迫害される彼らのために語られた内面的な心情を把握できる人にならなければなりませんし、全人類の花嫁となられたイエス様のその心を感じ取る人にならなければなりません。
 また、皆さんはイエス様が2000年以上前に語られたその内面的な心情が今日の自分の胸と体と頭を震わせている感覚を持っていなければならず、さらにはイエス様を慰められる人にならなければなりません。その上で当時却下されていた言葉を歓迎し、イエス様の言葉の目的をこの地上で確実に果たす聖徒にならなければなりません。
 こうして花嫁となられたイエス様の言葉はこれまで数多くの歴史の難所を越えて私たちに伝えられてきましたが、終末の時を迎えた今日において、その言葉にはどのように対処すべきか? 皆さんはその言葉を頭で理解するだけでなく、心で理解し、身体で理解しなければなりません。
 そして皆さんはイエス様の言葉が却下されたと同時に、イエス様が30年以上にわたって捧げた生涯の節目も却下されたことを理解しなければなりません。つまり、イエス様の言葉が却下されただけでなく、イエス様自身も却下され、またイエス様自身が却下されたことによって、自身の30年以上の生涯も却下されることになったことを理解しなければなりません。
 では、花嫁とならなければならない今日の皆さんは、これから何をすべきでしょうか? イエス様があのように却下された30年以上の生涯の節目を皆さんの一忍で受け入れることができなければなりません。
 イエス様は30年もヨセフの家庭で生活していましたが、彼がしていることを誰もが歓迎したことはありませんでした。また、イエス様はどこでも自由に行ける環境で生活できなかったことを理解しなければなりません。
 イエス様の意向と言葉は、彼がしている生活とは非常に顕著な違いがありました。自分の事情を打ち明けることのできる存在を見つけられなかったため、イエス様は自分が言いたいことを言えず、黙って大工の仕事をしていました。
また、イエス様は神が数多くの預言者を送って成し遂げようとされたその意向を実現できる主役でした。つまり、その時、イエス様は国の中心であり、教団の中心であり、さらには個人の中心だけでなく、全体を代表する中心でした。
しかし、イエス様は自分がこのように地上のすべてを代わりにする主であると同時に、霊的な領域まで支配しなければならないことを理解していました。これらのすべての事実が逆らわれることで、彼はますます苦しい生活をしていきました。
 こうしてイエスの生活を捨てさせた責任は、古代のイスラエル民族だけでなく、ユダヤ教団、ヨセフの家庭、バプテスマのヨハネ、そしてイエス様の愛する弟子たちにもあるという事実です。
 それでは、このような事実に対処するにはどうすればよいでしょうか? 皆さんは再び世界と国を代表して来られるイエス様を、花婿としての希望として慰める存在となり、多くの教団を代表して慰め、今日の多くの家庭を代表して慰め、イエス様の愛する弟子を代表して慰める存在にならなければなりません。
また、神様はイエス様が生きていた時に骨と肉に触れるほど感じた辛い心情を、今日の一信者が感じるためにもがく存在が現れることを望まれて、これまで地上で歴史を支配していることと、また聖霊を通して歴史を支配していることを知らなければなりません。
 イエス様は新しい福音を語るために行く先々で不信を受け、動くたびに迫害されながらも、イスラエルの民族の悩みや難題を引き受けられました。しかし当時、こんなにも一人で全ての人間の悩みを引き受けたイエス様の仕事と言葉を、自分の仕事と言葉として受け入れ、共に努力した者は一人もいなかったのです。
 したがって、今日の皆さんは当時ユダヤ民族がイエス様の言葉を捨て、世界を捨て、イエス様の仕事を捨てたそのすべての誤りと悪を清算し、イエス様の理念をこの地に立て直さなければなりません。
 また、皆さんはイエス様が天の意志を代わりにして創造主となる友になろうとしたそのような理念を見つけ、立て直さなければなりません。そして今日、私たちが聖書の視点から見ると、イエス様は地上に来て当時のユダヤ民族の不信心のために、神の永遠の理想全体を十分に示すことができずに去って行かれました。
 それでは、そのようなイエス様の理想は一体何だったのでしょうか? 彼の理想は天と地を合わせて一つの国、一つの世界、一つの理想郷を築くためでした。しかし、これは簡単なことではないと私たちは知らなければなりません。
一つの国が存在すれば、その国には一つの国家イデオロギーが存在します。また、その国を統治するための政治機関が生まれ、そこには必ず何らかの政策があり、更にはその政策を立てる一つの政党が存在するということです。そのため、国民はそれぞれが一つの政党を中心に据え、個々に異なる方法で生活していることを私たちは知っています。
 一つの国が国家イデオロギーを築くためには、このような複雑なプロセスを経なければ、本来の目的を達成することはできません。そして更には、天の意志を達成するために、人間一人ひとりにイエス様の言葉や生活、仕事を見つけて築く責任があるということを理解する必要があります。
 しかしながら、今までにその責任を果たした人がいないため、イエス様の理念は未だに地上に現れず、神の前で大きな悲しみをもたらしていることを確実に理解する必要があります。
 また、皆さんはイエス様がこの地に新しい天国、つまり楽園を築こうとして天に対して誠実であったその誠実を手本にしていく存在にならなければなりません。イエス様が愛する弟子たちに対して述べた言葉の中で最も重要なものは、「あなたたちは私の花嫁である」という言葉でした。つまり、イエス様はこの地に来て花婿と花嫁の理念を築き、去られたのです。
 したがって、今日の皆さんは花婿と花嫁の位置を経て、家庭を超えて社会や国家、そして世界と結びつき、天の理念である造物主である父と一体化する位置まで進まなければなりません。
 皆さんが進む中で足りない点があるとすれば、それはイエス様がそこに比例するだけの悲しみをもたらすことを理解しておくべきです。したがって、今日の終わりに直面する聖徒たちはどうすべきでしょうか?イエス様と同じ心情を通じて戻ると同時に、生活の理念を戻し、彼の仕事を戻すべきだということです。
 それによって家庭を超えて社会を通り、国家や世界、宇宙全体に通じる人にならなければなりません。イエス様は天国の理念を確立するために呼ばれ、神はイエス様をこの地に立て、この地上に天国を築くための新しい理念を紹介されたからです。
 イエス様はこの使命を引き継ぐために、自分の一生のすべてを捨て去り、一つの宗教を代わりにし、神を代わりにする道を歩まなければなりませんでした。その結果、彼は孤独な道を歩まれ、人類に対する嘆きと祈りの言葉を残して去られたことを、今日の皆さんは忘れてはいけません。
 したがって、現代に生きる皆さんがイエス様の使命を回復し、この地上に天国を築くためには、ますます何を求めなければならないでしょうか?まず、イエス様の思想である御言葉を最初に見つけることが重要です。生活を通して、イエス様の思想を確立していく必要があります。今では捨てられているイエス様の使命を、今後は日常生活の中で見つけ、実践していくことが求められています。
 このようにして、個人を通じて家庭の形を経て、宗教の形を経て、国家や世界にまで進んでいく過程で、神が動くとイエスも動き、イエスが動くとこの地も動く、そのような一体的な関係を築く人にならなければなりません。なぜなら、そのような関係はイエス様と聖霊の力だけで成り立つものではないからです。
 したがって、イエス様の言葉は邪悪な世界、すなわちサタンの侵略を受ける環境で、その苦難を防ぐことができる言葉なのです。では、今、皆さんが理解すべきことは何でしょうか?イエス様がこの地に来て全ての人々に語るべき言葉を果たさないまま、神の計画を果たさないまま、やるべきことをやり尽くさないまま、人々に対して命じずに去られたという事実を理解する必要があります。このように、イエス様がこの地に来て全く達成せずに去られたのは、この内面的で哀れな悲しみの状況を感じることができる人になるためです。
 花嫁として花婿を迎える花嫁は、花婿の希望を自分の希望とし、花婿の生活が自分の生活となり、花婿の言葉も自分の言葉となり、花婿の行動も自分の行動となる絶え間ない関係を永遠に築いていくべきです。同様に、今日の皆さんもイエス様の花婿となるためには、このような花嫁の資格を備える場に立たなければなりません。
 ですから、今日の皆さんは、イエス様が歩まれたその道を皆さんの実生活で感じ、思いやりを持たなければならず、さらには不信仰の群れの前でもイエス様の言葉と御心を伝えなければなりません。また、皆さんが神の御心に対するイエス様の心情が切実であるほど、またイエス様と一体になればなるほど、より謙虚な立場で兄弟と一体となりながら進んでいく必要があります。
 そうしたとき、皆さんはこれまでに人間が歩むべき道、人生の真の道に向かって歩んできた宗教の主人公たちを理解できるでしょう。では、イエス様が今日の終わりの聖徒たちに対して望まれていることは何でしょうか?イエス様はあなたがたがなりうる花嫁となることを望んでいます。
 しかし、その花嫁とはどのような花嫁でしょうか? 単に家庭にとどまる花嫁だけではなく、またはユダヤ教界にとどまる花嫁でもなく、選ばれしイスラエルの民とその国を代表でき、また世界を代表できる花嫁であると同時に、天国地上を代表して神の業を代わりに担いで果たせる花嫁であり、神の意志を実現するために義の法則に従い共に協議できる花嫁であることを望まれ、またそのような花嫁を求めておられるのです。
 今、皆さんは自分が信仰生活をしながらどれだけイエス様が望む花嫁の資格を持っているかを反省する必要があります。皆さんは生活において本当にイエス様の業を見つけていますか?本当にイエス様の思想を実践するために努力していますか?つまり、言葉においても行動においても、皆さんはイエス様の言葉と行いを代わりにしようと努力していますか?これについて皆さんは反省しなければならないということです。
 そして、皆さんは自分の生活が当時のイエス様の思想に関連し、当時のイエス様の業と関連する行動をするべきであり、また天国を代表してこの地に来て全てを失ってしまったあなたのイエス様の内面的な悲しみをすべて引き受けなければならず、さらにはその悲しみを解消できるようにならなければなりません。これらの使命が皆さん一人ひとりに与えられていることをはっきりと理解しなければなりません。
 それでは、今度は皆さんは、イエス様がこの地に来られて花嫁一人を見つけるために努力されていた、その悲しい心情を持ち、あらゆる人間やすべての教団を見ることができなければなりません。つまり、神の御心を達成せずに悲しい悲しみの心情を抱えて死んでいかれたイエス様の心情を理解し、真の勇気を持って戦って進むことができる人にならなければなりません。
 つまり、サタンの前で一人で立ち、十字架の死さえも恐れず、むしろその十字架を踏み越えて天国の前で栄光を讃えられたイエス様の実践的な生活を手本にする人にならなければなりません。そして、皆さんはイエス様の実践的な生活を手本にするだけでなく、ある日サタンと戦って勝利したとしても満足するべきではなく、この宇宙がイエス様の思想によって永遠に支配され、天国の栄光がイエス様の栄光、または皆さんの栄光として現れる場所まで満足すべきではありません。つまり、皆さん自身が天を感動させ、イエス様を感動させ、父を喜ばせて全宇宙が喜べる日を実現することで満足する必要があります。
 天を感動させつつ得るべきなのは何か?最初に皆さんはイエス様の四方を代わった皆さん一人一人を見つけるべきです。そして、皆さん一人一人がかつての12部族を代わった個々の姿にならなければならず、12部族を代表して立てたキリストおよびその12部族とはどのような関係にあるかを明確に知る必要があります。そして、どんな環境でもイエス様と共に歩み、彼の思想をこの地上で成し遂げる天国の主人公にならなければなりません。
 また、皆さんは家庭を代表していたイエス様の悲しみを知り、教会を代表して悲しんでいたその事情を知り、皆さん自身も集まり、最後の使命を引き継がなければなりません。そして、当時のイスラエルとユダヤ教を代われる私たちの教団を作らなければならず、使徒たちが天国を代わってサタンの前で成し遂げなければならなかったすべてを成し遂げる人にならなければなりません。
 もし当時の使徒たちが人間を代わる一人の個人を作り、全イスラエルを代わる一つの民族を作り、また世界を作ったなら、イエス様はもう何も語っていたでしょうか?また、イエス様の言葉に従うべきであり、彼の行動を真似るべきであり、一度でもサタンと戦って勝利しただけで満足すべきではなく、今日の皆さんはこれらすべてを再び見つけて築き直せる人にならなければなりません。
 それでは、今度は皆さんが地上においでになり、お生まれになり、戦い抜かれ、地上においでになりながらも、生涯であなたが求めた意志を一つも見つけることなく、生涯の終焉を迎えたことを知ったとき、単にイエス様のおられた道をたどることで満足するだけではありません。皆さんは、イエス様がおられた内面的な悲しみを感じることのできる人にならなければなりません。なぜなら、イエス様は弟子たちを死の道、死の道に追いやるしかなかった花嫁であり、そしてイエス様の内なる悲しみを知り、花嫁を一人にし、十字架に向かわせた歴史的な誤りを心に留め、希望の日を見つめ、戦い続ける人にならなければなりません。つまり、イエス様の根本的な思想を理解し、彼が抱えられた内なる怨みを解き放ち、彼が残された仕事を成し遂げなければなりません。
 さて、終末に直面している聖徒たちはどうすればよいでしょうか? 6千年の歴史の中で結ばれた神の怨みと、イエス様の怨みを解消する存在にならなければならず、十字架の道であり、茨の道であるとしても、その道を乗り越えて死ぬ覚悟をし、命を捧げてこの地上に神の国、天国を築くために進んでいく天国の英雄にならなければなりません。
 神様は4千年の歴史の中でイスラエル民族を立て、彼らにメシアを送ってくださるという約束どおりに、イエス様をこの地に送ってくださった。しかし、イスラエル民族と使徒たちが不信仰により、イエス様はイスラエル民族に対して話すことができなかったし、弟子たちにも話すことができませんでした。私たちはイエス様にはそのような内面の悲しみがあったことを知るべきです。
また、皆さんはそのような悲しみの怨みが今もなおこの地上に残っていることを知り、この時間も皆さんの胸に響いていることを感じるべきです。
 そして、皆さんはイエス様が失った言葉、失った生活の思想、失った天倫の思想を再び見つけ出さなければならず、今まで逆境の中で苦労してきたこの国の事情を知る人にならなければなりません。
 さらに皆さんは、神と対峙するサタンをイエス様が引き受けたことと同様に、イエス様と戦い、今日の地上の多くの命を担当し、立ち上がることのできる人にならなければなりません。
 したがって、現代の信仰の課題はどこにあるのでしょうか?イエス様が現れることができなかった内なる悲しみと、当時の人々のために努力した場所を引き継ぐための、ひとつの条件をどのように設定できるか、それが問題です。
こういったことを考えると、終末に立つ皆さんが失ったイエス様の言葉を再び見つけるには、どんな試練や迫害にもくじけず、イエス様の代わりに必ず神の御心を果たす決然とした覚悟と決意がなければなりません。
 そして、昔のイエス様を殺そうとし、イエス様の生活を捨てさせようとしたサタンたちがいたように、今日の皆さんがイエス様の御心を代わりに生かそうとするときにも、同じような状況が訪れることを知らなければなりません。つまり、当時イエス様の仕事を家庭が捨て、教団が捨て、国家が捨てた状況が皆さんにも訪れるということです。
 そのような状況にあったイエス様を敵に売り、十字架に渡して自分たちは快適な場所にいようとした者は誰でしょうか。それはイエス様の弟子であり、イエス様が神に選ばれて立てたメシアであることを知らずに不信仰で迫害したイスラエル民族でした。また、その不信仰のために神に対する怨みを引き起こした後、今もなおサタンの歴史が終わらないため、今日の皆さんの信仰の課題においても、イエス様の生涯を捨て、イエス様の言葉を捨て、イエス様の仕事を捨てさせたことと同じく、同じような出来事が現れることを知らなければなりません。
 したがって、今日のサタンは皆さんが個人的な限界を超えられないようにします。イエス様の御心は皆さん個人を通じ、家庭を通じ、社会・国家・世界まで通るものであり、サタンは生活環境で皆さんが個人的な限界を越えられないように妨害しているということです。ですから、皆さんはイエス様当時と同じ生活環境に直面したとき、自らの命をかけ、その環境を乗り越えるために戦わなければなりません。
 イエス様の言葉を代わりにし、サタンに立ち向かおうとするとき、誰もが予測できない厳しい状況に直面することが避けられない立場になることを皆さんは理解すべきです。そして、それに直面しても、イエス様の生涯を代わりにするための直接的な条件を設定し、それを越えて進む覚悟を持つ必要があります。
 ですので、これまで新婦の理念を見据え、信仰生活を進んできた皆さんは、どのようにすればよいでしょうか?イエス様が一生を通じて語った前生涯の理念、つまり宇宙全体の希望の理念をイエス様の代わりに成し遂げることができるようにならなければなりません。その時にイエス様の花嫁の位置に進むことができるということを確実に知らなければなりません。
 今日の皆さんはどこに滞在していますか? 皆さんは自分の個体に固執してため息をつく環境に滞在してはなりません。皆さんはそのような環境を超える人物になるべきです。愛する両親、愛する兄弟はもちろん、愛する人々が反対しても、その反対を無視して歩まれたイエス様の後を追いかけることができる皆さんでなければなりません。そうでなければ、元の人間に戻ることはできず、今日の統一教会は存在価値を失います。
 皆さんがこのような原理原則に基づく神託歴史が展開されている事実を理解するならば、皆さんはそのような道に入るべきであり、またそういった道に入っても個人の欲望を満たすために努力するのではなく、全体のために努力しなければなりません。
 そして、皆さんは失われたイエス様の言葉を代わりにできる言葉を見つけなければなりませんし、イエス様一代の生活を代わりにできる生活をしなければなりません。イエス様は神様が自分に約束された天地の全ての権勢を自分の一信者に許可していただけたその意志が実現しなかったでしょうが、皆さんはそのようなイエス様の人格を学ばなければなりません。
 したがって、今日の皆さんは前進してきたイエス様の足跡を常に追い、常に花嫁となられたイエス様を迎え入れることのできる人物であるか、今の自分はどのような環境に住んでいて、どの山を越えているかについてよく反省しなければなりません。そして、皆さんはいずれも聖徒が進むべき血を流す道を越えて、再び訪れる主様を迎え入れるべきだということです。
 それでは、再び来る主様が神の栄光の中に現れるとき、皆さんはどのようにすればよいでしょうか?再び来る主様を皆さんが迎え入れるならば、その喜びが個人で終わってはならないはずです。永遠を代表し、または無限の天国の理念を代表する喜びとして表現できる人にならなければなりません。
 ですので、一時的な喜びを感じたとしても、そこに満足せず、むしろサタンと戦い、永遠の喜び、神の永遠の愛に満ちたこのような喜びを感じなければなりません。また、恵みを感じる際にも、想像できないほどの驚異的な恵みをイエス様が感じたように、皆さんもそのような恵みを感じなければなりません。
それでは、イエス様がどのような過程を通じてそのような恵みを感じることができたのでしょうか? それはイエス様が自分の生涯で万事を断ち切り、唯一神の御心だけを考えたからです。また、イエス様が復活の栄光を見ることができたのは何故でしょうか? イエス様は天地の栄光と、天地の誠実、地上のどの人間も持たなかった理念すらもすべてが断たれても、自分は変わらず神のために尽くすことができたからです。そして、イエス様は神の直接的な栄光の中に入り、この地上の人間と関係を結ぶ立場になったのです。
 では、今日の皆さんが感じているその喜びは何でしょうか? その喜びは決して皆さん個人のためのものではありません。その喜びはこの地上のサタンの支配と戦う力を吹き込む恵みなのです。ですから、皆さんは自分に喜びを与えてくださった父に感謝しながら、サタンとの戦いで勝利し、これまで地上に結ばれてきた6000年の恨みを解消した歓喜の盃をあげ、父と永遠に一体となり、喜びをもって臨む覚悟を持たなければなりません。
したがって、皆さんが一時的な喜びを感じたとしても、そこに満足せず、むしろサタンとの闘いで勝ち取った永遠の喜び、神の永遠の愛を感じるべきです。また、神の恵みを感じる際には、まるでイエス様が感じたような想像もできないほどの非凡な恵みを感じるべきです。
それでは、イエス様がどのようなプロセスを経てそのような恵みを感じることができたのでしょうか?それはイエス様が自分の生涯で全てを断ち切り、ただ神のみ旨だけを心に留めたからです。また、イエス様が復活の栄光を見据えることができたのは何故でしょうか?それはイエス様が天の栄光や誠実さ、そして他の者が持たない理念まで全てを捨てても変わらずに神のために尽くせたからです。その結果、イエス様は神の栄光の領域に入り、この地上の人間との関係を築く立場に就くことができました。
それでは、今日の皆さんが感じているその喜びは何でしょうか?その喜びは決して個人のためだけのものではありません。その喜びはこの地上でサタンの支配と闘う力を与えてくれる恵みそのものなのです。そのため、皆さんは自分に喜びをもたらしてくださった父に感謝しつつ、サタンとの戦いで勝利し、これまで地上で繋がっていた6000年の怨みを取り除いた歓喜の歌を上げ、永遠に父と一体となり喜ぶ覚悟を持つべきです。
したがって、受けた神の恵みは自分だけのためではなく、むしろサタンとの戦いに挑み、サタンを屈服させるためのものです。
それゆえ、皆さんは与えられた神の恵みを自分の都合だけに利用せず、この地上のあらゆる悪とサタンの影響を取り除く方向に進むべきです。そして、皆さんがこの地上で神の創造目的を成し遂げた勝利の子、または帰還に必要な全ての条件を備えた者として現れるとき、サタンがどんなに妨げても無駄であることを理解するべきです。
さらに、そのような人物が現れる場合、彼はどこに行っても自由であり、彼の足跡には常に勝利の証が残ることを理解するべきです。
したがって、今日、皆さんがこの言葉を聞いて感じること、新たに悟ったこと、探し求めたこと、または統一教会に入り、原理を通じて学んだことがありますか?それが真理の言葉であるならば、皆さんはその言葉を頭で知るだけではいけません。
皆さんはその言葉を頭で知りながら同時に心で知り、心で知りながら身体で知り、また身体で知りながら心で知らなければならないのです。このように皆さんが言葉を頭で知り、心で知り、身体で知り、心で知ることで、皆さんはその言葉の目的を達成するために動かないわけにはいかず、サタンと戦わないわけにはいかなくなります。また、自分の口を開いて父を侮辱し、自分の考えを変えて天を背叛する場に出ようとしても出られないのです。
また、皆さんが言葉を頭で知り、心で知り、身体で知り、心で知る立場になると、周りから無数のサタンの矢が襲ってくることを感じるでしょう。それを感じるほど、皆さんは同じ立場の人々と結束しないわけにはいかなくなります。
したがって相手の事情を自分の事情とし、彼の怨みを自分の怨みとし、彼の怒りを自分の怒りとして相互に頼り合い、協力できる相互一体的な生活環境を整えて新天地を築き上げなければなりません。これが新天地の創設者であるところの人物です。
このように皆さんが受けた神の恩寵を日々の生活を通して実践的な面で示し、どんなサタンの矢もどんなサタンの中傷も防ぎ越える覚悟を持たなければなりません。また、皆さんがそのような心を持つと、どこに行こうと、どのような人に接しても、どのような孤独な場に置かれても、千軍千将が常に皆さんの命を取り巻き、支えるようになります。
イエス様も同様の心を持たれていたために、天にいる無数の聖徒たちが彼を取り巻き、支え、います。もしイエス様がそのような心を持たなければ、地上で歴史を刻むこともできず、千軍千将や父の意志の前に立つこともできないでしょう。
したがって、今日まで皆さんはそのような心を持って、天の栄光の恩寵に浸かって生きる環境をこの地上に作り上げられていないのです。そのために今まで神と天使が地上の人間たちがその栄光の恩寵に向かって進むように裏で協力していることを理解し、またまだ神は悲しい中におられるということを知らなければなりません。
イエス様はこうした神の悲しい心情を持たれていたために、新しい天倫の教えを持ち、それを条件にして地上の人間と永遠の理念の関係を結ぼうとされましたが、当時の人間たちの不信心からその意志を果たすことができず、悲しみ、不当に十字架にかけられたのでした。
では今日、同じように悲しまれたイエス様を探しに出た皆さんは、どのような状況に置かれていますか?今日も昔のようにイエス様の言葉を信じず、イエス様の働きを拒絶している状況が起きています。つまり今日の皆さんもこの地で迫害を受け、すべての人に捨てられて「他の人とは違う」という道を歩んでいるのです。
 したがって皆さんはそのような捨てられる悲しみを打ち破り、必ず天の栄光が喜ぶことができる勝利的な条件を築く努力をしなければなりません。また、私たちの集まりがそのような意志を達成していく集まりであるならば、すべて一心同体となってイエス様が歩まれた足跡を追いかけることができなければなりません。
 今日の皆さんが拒絶され、捨てられる悲しみ、または教会によって捨てられる悲しみを多く受けていますが、皆さんは堂々と帰還原則に従い、その悲しみを踏み越えて立ち上がらなければなりません。つまり統一教会のすべての家族は神の心情と意志を感じ、悲しむ者ではなく、追いかける者、好む者になり、前進し、足跡を追い越すべきであるということです。
 皆さんがイエス様がこの地上に成し遂げようとされていたその意志を代わりにし、歴史と宇宙を代わりにして責任を果たせば、人間の祖先アダムヘとを堕落させたサタンはこの地上から自然に消え去ることでしょう。そのため皆さんは人間がこの地上でサタンとの戦いの一局面を越えるとき、いつも天が共にしてくれると知らなければなりません。
 そしてイエス様が新郎新婦の理念権内にとどまり、世界を代表する中心的な立場にいらっしゃることを知らなければなりません。また、それに対してサタンが中傷できないことを知らなければなりません。
 ですから、今日の皆さんがイエス様の内面の心情を代わりにし、イエス様の国家思想・世界思想を経て、天の栄光に帰還する全体的な価値を自分から見出す主人公として現れるとき、イエス様が失ったすべてを回復し、経験したすべての悲しみを理解する者として、または勝利の価値を持つ者として立つことができることを心に留めなければなりません。


<祈祷>
 お父様!孤独な者を案じるお父様の心情を知らず、むしろ今まで私たちの悲しみをお父様の前に訴える不忠不孝の立場にいた私たちを許してください。
天の心情がこうして悲しいこと、これほど切ないことだと気づき、お父様の前で私たちの事情を嘆くことができないことを知らせてください。
 お父様、それだけでは足りませんので、お父様の悩み、お父様の心配を今日の私たちの一心によって解消できるように許可してください。そして、お父様の前にこの一時間、私たちのすべてを捧げることのできる子供たちになることを許してください。愛するお父様、熱心にお願いし、望みます。
 今日の私たちが天を向かって価値ある条件を実際の生活領域内で築くために努力しているので、お父様、共にしてください。
 私たちは天の全体的な価値の条件を築く上で、私たちの犠牲が喜ばれない不足していた姿でしたが、これからはお父様の前で無限に利用されながらも喜ぶことのできる心を持つ子供たちになりますので、お父様、許してください。
そのような私たちの足跡をサタンも妨げることはできないということを知っているので、今日も明日も私たちの心が変わらないように助けてください。愛するお父様、熱心にお願いし、望みます。
 お父様、私たちが新郎であるイエス様の花嫁になろうとする場合は、新郎が悩むなら私たちも悩み、新郎が戦うなら私たちも一緒に戦い、死ぬか生きるか新郎と共に動かなければならない立場に置かれている私たちであることを知らせてください。そして戦いの過程を経て解放の恩寵の中でお父様の栄光を歌う新郎の喜びを理解する花嫁の立場に立ててください。
 こうして失っていたすべてを見つけ、お父様の栄光を喜びとして奉納できる日が早くここに集まった一人ひとりの生涯の場に、それぞれの生活に、それぞれの心に現れることを許してください。私たちのすべての言葉をお祈りし、主の御名によってお祈り致しました。アーメン。





文鮮明先生の御言葉集 3 - 6. 私たちは栄光の新しい国を占有しよう(1957年10月6日)

1957年10月6日(日曜日)、前本部教会。

聖書拝読:テサロニケの信徒への手紙5:1-11

もし人間が堕落していなかったなら、「栄光の新しい国」と呼ばれるこの希望の園は今日、私たちの生活領域で楽しむべき世界でした。しかし、人間の堕落により、今日私たちはこの希望の園との結びつきを持てていないことを皆さんはよくご存知でしょう。
 すべての力を尽くし、すべての心を傾け、私たちが持っているすべてを犠牲にしても、この栄光の新しい国を築かなければならない責任と義務が私たちにはあることを、皆さんは今一度考えなければなりません。
 神を中心において人間が完成していれば、人間の喜びは神の喜びであり、人間が享受する栄光は神の栄光となっていたはずです。しかし、人間が自らの喜びと栄光を神が望む基準から享受できなかった結果、人々には悲しみが始まったのです。
 そして罪を犯した人間として、その理念の園とはあまりにも遠くまで離れてきました。こうして離れた人々を再び見つけるための努力の歴史が「復帰摂理歴史」と呼ばれていることを皆さんはよく知っているでしょう。
 それでは、その摂理の園はどのような場所でしょうか? 創造主によって願われて建てられたすべての被造物が、その創造主の理念の中で統一的な栄光を楽しみながら生きている場所です。そのような目的を持った園でしたが、人間の堕落のために、私たち人間は統一された場所で統一の理念を持って神の栄光を歌うことができない場所に置かれてしまいました。
 そのため神は苦労の歴史を繰り返しながら、一つの統一された理念を確立するために長い歴史の過程を経て戦っていると私たちは理解すべきです。
 私たち人間自体を見ると、心と体が一つになり、一つの統一された自己を中心にして全人類が一つになるべきであり、同時に、人類が一つになった立場から自然の運行法則も統一し、さらには天運の法則も統一しなければならない責任があります。そして、私たちには天輪の運行法則と、天輪が動く運行率を一つにする重要な責任があるということです。
 私たちが栄光の新しいイデオロギーを達成し、栄光の新しい国を築くためには、自分の心と体を統一させなければなりません。そして、私を中心にして全体の人類が統一されるべきであり、さらにはこのすべての天地の運行法則と統一され、そして創造主が意志を経験する天輪とも一つにならなければなりません。
 そうでなければ、神の栄光はこの地、すなわち物質世界に現れることはありません。神の栄光が現れないならば、私たち人間は栄光の新しい国と呼ばれるものについてさえ考えることができないことを皆さんは知るべきです。
 このような栄光の新しい国を築くために、人類はどのような歴史の過程を経てきたかを考えると、長い間無限の闘争の歴史を経てきたことがわかります。
私たちは一つの立場で自然の運行法則と一体にならなければならず、同時には天の法則に合わせなければならない立場に置かれています。ですから、堕落した私たちには、闘争の歴史の中で自然の運行法則に合わせる必要があり、同時に天輪の法則に合わせる二つの分かれた責任が課せられています。そして、私たちの先祖がこの責任を果たすために努力したことを忘れてはなりません。
 歴史的なすべての進展過程、すなわち部族社会が部族から国家社会へ進展する段階では、必ずしも闇が支配していたことを皆さんは理解する必要があります。
 私たちが生きる上で直面するすべての死の権力に打ち勝ち、勝利した基盤の上でのみ生命を維持できるように、同様に歴史の進展過程、つまり部族から国家へ、国家から民族へと進展する段階では、必ずしも闇の力、すなわち反対の力が立ちはだかっていたことを理解する必要があります。
 それでは神は何を表現し、主宰されているのでしょうか? 堕落とは何かと言えば、統一性を失ったことです。心と体が分かれ、すべての自然の運行法則と天輪的な運行法則とイデオロギー全体が分かれ、千万の人々がすべて分かれたということです。これを統合するために、時代を通じて部族なら部族、または民族なら民族を中心にして、統一されたものを築き上げる歴史を、天はこれまでにしてきたことを理解しなければなりません。
 それゆえに、部族社会が部族から国家社会に変化し、いくつかの部族社会が集まって民族と国家を形成し、その後には連邦が形成されます。連邦とは、ある原則やイデオロギーを一つに結びつけ、統一的なイデオロギー領域を形成することです。こうして宇宙の運行秩序が維持されていました。
 皆さんは、この動く全宇宙の運行法則を自分の心で調和させると同時に、創造主が望むイデオロギーと法則との関係を築かなければなりません。そうでなければ、皆さんは最大の勝者にはなれず、最も人間らしい姿を持ち、全ての被造物の栄光の価値を代わりに担う資格を得ることができないことを理解する必要があります。
 神は多くの部族をまとめて部族を作り、部族をまとめて民族を作り、国家を連邦して一つの世界に統一していくが、このような摂理は創造の時に神が立てた男と女に結びついています。言い換えれば、始まりに神が人間に授けようとされた栄光の新しい国を築くために、神は帰還の摂理を行っているということを皆さんは知るべきです。
 それでは私たちの嘆きは何か?それは自分自身を中心にして全てが集中できる環境を持っていないことであり、自分が周囲の環境を集中させることができる自己として立てなかったことです。何がこれを作り出したのか?それは暗黒の力がこれを作り出したということです。隅々に線を引く心はあったとしても、この心を互いに通じ合わせることができなかったため、一つの部族または民族になり得る高い光、つまり朝の光や夕方の光といった存在を立て、これらの存在が夜の期間を通じての闘争の歴史の過程を経て現れるようになっています。
 今日、多くの使徒たちは現在の時期を終わりと言っています。今日、民主主義と共産主義の二つの陣営があり、そのうちのどちらか一方は朝を代替することができ、もう一方は夕方を代替することができるものです。これらの二つの陣営のどちらかが妨げられているものが何であるか、それを破る使命を皆さんが担わなければならないということです。
 世界のすべてが混沌として中心を掴むことができず、方向を定めることができない終末的な混沌の世界になりましたが、これを解消する責任が誰にあるかと言えば、それは神にあるわけではなく、自然にもあるわけでもなく、まさに私たち人間にあることを理解しなければなりません。
 神は人間に包括的な統一思想を達成する責任を与えた結果、人間たちは自然を研究する自然科学を一つの統一された形態に発展させており、宗教を通じて心の世界を統合しています。
 16世紀末には宗教と科学が分かれましたが、現代においては再び一つの目的を達成できる統一の段階に移行しています。ここで科学が最初に統一の形を取っているのは、アダムが完全な人間として創造されるまでに最初に体が作られ、後に生命が吹き込まれたように、創造の原則がそうであるからです。
 現代の科学の発展、つまり科学を中心とした現代文明は、統一的な外部のイデオロギーを達成しようとしています。それが世界的な統一のイデオロギー領域に至り、その次には内面的な側面で語り明かされる科学文明ではなく、心で明らかにされる宗教、つまり人間の本性と性格を明らかにする宗教と、全人類が一つになる内面の世界を築く使命を達成しなければなりません。
 今日、宗教と科学はお互いに対立している立場にあります。しかし、原則的にはそうではないということです。終わりには必ず体を持った後に生命を吹き込んで神に代わることができるアダムを創造されたことと同じく、この歴史の終末的な現象もそうして統一されなければならないということです。
 今日の外的な文明、20世紀の文明は、言葉と文字を通じて表現されてきました。神の希望である統一された理想の世界は、言葉で神のイデオロギーを実現するこの形態を備えた後に、心を代わりにする文明と相対的な中心を確立しておかなければなりません。そうでなければ、絶対に一つの世界に統一できないでしょう。
 それでは、どのようにして統一するのでしょうか?外的な文明と内的な文明を統一することができる統一的なイデオロギーがあるとしても、これは論理的には統一されず、ここでもこれを妨げる暗黒の力が存在することです。
 したがって、これを破壊する闘争の労力を先に経なければならないということです。だからこそ今日の世紀末的な二つの儀式がどちらか一つを担当しているのです。すなわち、一方は神の内面を担当しており、もう一方は神の外面を象徴的に担当しています。
 心の中心を代わりにする方が民主主義陣営であるならば、この民主陣営は外部の部分を代わりに担当する共産陣営が自動的に一つの意志を立て、一つの目標に向かって動くことを可能にする必要があります。それができるときが来ていない場合は、天運はどうしても動くことができないのです。
 このように見ると、今日の自然科学だけでなく、宗教的な分野でもこれ以上進むことができない段階に入っているということです。互いに手を触れ合うことができないこのような時に、命令を出しても従わない場合は壊してでも責任を取り、飛躍させる新しい何かが現れなければならない時が来たということです。これを皆さんは理解する必要があります。
 では、新しい国の栄光を持つ者はどのような人物でしょうか?どんなに新しい時代が訪れようとも、自分自身が心を中心にし、そして心と体を中心にして自分の生活環境を一つにするための指導的で主観的な役割を果たせなければならないということです。
 つまり、人倫全体を代表できる勝利的な実績を皆さん自身が見つけて立てれば、その発見は人倫だけでなく、天倫を代表して理路に通じる中心として立ち、人倫的な社会のすべてを代表して立ち上がり、自然のすべての運行法則を代わりに動かすことになります。そうでなければなりません。
 天はこれらの二つの陣営が互いにぶつかる戦いを展開しようとしています。そのため、皆さんはやはり暗黒を打破するための戦いの時期を避けて通ることはできません。このような世界的で宇宙的な戦いの時期が近づくこの時に、皆さんは個体個体もまた天倫の法則を外れることができない連合として、何も知らずにそのような恐怖に巻き込まれることを理解しなければなりません。
 そのような時にも、すべての暗黒の力が自分を巻き込むことを阻止し越える中心を立てなければなりません。今日の20世紀の科学文明が急激に飛躍しているように、皆さん自身もそれに支援を合わせて内面の人格を築かなければならないこの立場にある連合として、内面からも新しい革新的な基準を立て、すべてが巻き込まれようとも中心を押さえ、しっかりと進むことができなければなりません。
 このような中心を持たなければ、皆さんは人類の歴史の中で最後の勝者になりえず、結局は敗者となる怖い時がやってくることを理解しなければなりません。
 神の意志も進化的で革新的な過程を経て現れています。神は旧約時代以前には犠牲を通じて天倫との関係を築く歴史を創り出し、旧約時代には律法として秩序の歴史を展開してきました。
 もし律法が一つの統一的なイデオロギーとして現れ、それをまた天の意志として切望する存在が現れていれば、帰還の法則は言うまでもなく短縮されていたでしょう。しかし、そうならなかったため、律法で外的な条件を設けた後、イエスを送り、彼の肉体を外的な条件として、その霊的な存在を内的な条件として築いて現れたことを理解しなければなりません。
 今日までイエスは信仰の対象として現れていますが、それで止まれば神の法則は完成を見ることができません。この地上で統一のイデオロギーを築き上げ、その仕事を完成させるためには、イエスがその使命を完了できるようになるでしょう。
 外的な科学の発展とともに、内的な条件も一つの統一のイデオロギーとして現れる存在がいれば、既に神を中心とする統一国家が樹立されていたでしょう。
 皆さんがイエスを信仰の目標として持つことも良いでしょう。しかし、ますます皆さん自身がその信仰と信念の実体となり、生活の面でイエスのようにならなければならないことです。こうして自分自身が動く時、全ての自然が動き、全世界が喜べる存在とならなければなりません。そうでなければ新たな栄光の国とは無縁でしょう。新しい国にも指導者がいて、その民がいます。したがって、最初にはその民となり、その指導者を迎え、新しい国を築かなければなりません。
 そして、新しい国を築くことを妨げている闇の力を打ち倒すことができなければなりません。では、私たちの前にどのような戦いがあるでしょうか?イエスの前には血を流す戦いの試練がありました。つまり、イエスが壮大な使命を果たすためにはそのような困難な戦いの試練があったということです。今度は完成的な使命を果たすべく皆さんにも、それ以上の大きな戦いの試練が訪れることになるでしょう。
 皆さんはこれを再考しなければなりません。そうすれば、宇宙的な戦いで勝利し、外的な自然を自分の体とし、神の意志を統一の内的な心として採り入れなければなりません。こうして天倫を自分の心とし、その基盤の上に自分の体となった自然を統一しなければならないということです。
 皆さん一人ひとりにはそれぞれの運命があります。また国にも国としての運命があり、天にも天としての運命があるのです。したがって、個人の信念を国家の信念に、国家の信念を天上的な信念に統一していく必要があります。
堕落した人間には戦いの歴史が避けられません。今日の神様とイエス様は私に対して愛だけを与えておられるのではありません。愛の神、愛のイエス様は、私に対して試練と苦しみをもたらすさばきの神、さばきのイエス様でもあるということです。
 そのため、ここに集まる皆さんは、天に対して己を持って示せる何かを持っていますか?ない場合は、私自身が天に対して立てる条件を見つけなければなりません。
 終末の時代である今日、自己のイデオロギーを持ち、自分を持って立てることのできる人はいません。それが可能なのは唯一、天徳のイデオロギーを持つ人々だけです。それゆえに、人間には恐怖と不安と嘆きと心配があるのです。
こうしたときに人徳を保ち、天徳を保ち、自己を持って立つことのできる天敵的なイデオロギーを持つ人がいれば、その人は誰よりも最上の位置に立つでしょう。そうした人の前には、すべてが論理的に、自動的に歴史として現れるでしょう。
 人間が堕落したため、人間に大きなものを与えるためには、最初に大きな苦しみと試練を与えざるを得ない矛盾した歴史があるとされています。皆さんの中で己に迫るすべての試練を見て失望する人がいますか?そうした人は、天の悲しみを知らない人であり、地上で悲しみが消え去るとき、一緒に消え去ることでしょう。
 このような戦いの中で、神の代わりにサタンとの戦いを引き受け、天徳の前に自分を示した方がいました。それは天の使徒であるイエス様でした。
そのため、終末の時代に直面した今日の歴史も同様の形で現れるでしょう。皆さんは時代的なすべての戦いを制し、超えた立場から天徳との関係を結ぶべきです。
 いずれ闇の死の権力が世界的な罠として現れるでしょうから、我々はこれを破り、踏み越えなければなりません。これはどの良心やどの倫理でもできることではなく、ただ天徳のイデオロギーを見つけ、築かなければならないことです。
 それゆえ、終末には宗教であろうと科学であろうと哲学であろうと、どんなものであれ、このような天倫の理念との関係を結ぶことができないと言う者であれば、天はこれを天倫に従って粉砕するでしょう。イエスの前に現れたバプティスト・ヨハネは、知的な意味でイエスよりも高い位置にあったにもかかわらず、イエスは彼を見て従いなさいと言いました。それはヨハネが自己を中心に置いたが、イエスは永遠を持って自分に従える天倫の理念を持っていたからです。このような天倫の理念だけが終末に新しい楽園の新しい栄光との関係を築いてくれることを心に留めておくべきです。



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御言葉選集3(4)

2024年01月27日 16時19分54秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 3-4 道とその目的と価値 (1957年 9月 29日)

道とその目的と価値

1957年9月29日(日曜日)、前本部教会。


<祈祷>
 愛のお父様! 今日はすべての万民があなたの前に出て、自分のすべてを清算しなければならない日であることを知っています。
私たちは、過去の1週間を過ごす中で、お父様の前に正しくなかったことが多かったでしょう。愛のお父様よ、その間に私たちが不足していたすべてをこの一時間で許してください。おおんぼけへりょうひして ください。そして、柔和で謙虚にあなたの前に伏せ、懺悔できる心情を持つことを許してください。切に願い求めます。
そして、1週間の間に誤ったすべてを清算すると同時に、生涯の間に些細だった私たちのすべても、あなたの前に隠すことなく出せるこの時間に導いてください。切に願い求めます。
お父様、この時間に私たちが先にあなたを見つけた喜びと歓びを感じさせてください。次に、私たちが失ってしまった自分の姿を見つけることができるよう、感謝し、また、あなたを見つけたその喜びと栄光を差し上げることができるよう、許してください。
お父様が探し求めていた本来の姿を見つけるよう、導いてくださったお父様の御恩に、私たちは心から喜び、楽しむことができるこの時間に導いてください。愛するお父様、切に願い求めます。
私たちの心の中でお父様を見つけ、お迎えする前には、私たちの生の目標を見つけることはできませんし、サタンと戦う力の要素を持つこともできません。私たちの中心がお父様と一致しない限り、通じないことは避けられません。私たちの中心が移動しない中で意志を為す力を持つ子供になるようにお許し願いたい。お父様、切に願い求めます。
お父様、この国を憐れみ見てください。そして、この民族を代わりに集まる数多くの祭壇を祝福してください。特に孤独な祭壇でお父様の前に行く気持ちで訴えている子供も多いので、お父様よ、彼らの友となり、彼らの慰めとなりますように。
彼らのすべての生命の指導者となり、彼らに永遠の生涯の理念を共有できるようにし、愛の理念を議論できるこの時間が与えられるようにしてください。愛するお父様、切に願い求めます。
お父様、ここに集まった子供たちが、お父様の前に自分のすべてを出し、真剣に告白しています。愛の気持ちで私たちを探してください、親の気持ちで私たちを見つけてください。私たちに永遠に変わらない人格の中心を持たせてください。そして、お父様の気持ちを理解し、お父様の代わりに意志を負うことができるように、また、この時間にお父様からの命令を受ける子供たちになれるようにお許し願いたい。愛するお父様、切に願い求めます。
この一時間、唯一お父様の前に委ねました。最初から最後まで主宰してください。栄光の勝利だけが全体の頭上に臨むようにお許し願います。愛するお父様、切にお願いし、望んで、すべての言葉を主の御名においてお祈り致しました。アーメン。



<御言葉>
 今日、皆さんと共有したいお話のタイトルは『道とその目的と価値』です。『道とその目的と価値』というタイトルで、少しだけお話しいたします。人間だけでなく、この地上に存在するすべての生物は、一つの道を見つけ出しています。目の前に見えるすべてのものも、それぞれの個体目的を達成するために絶え間なく活動しています。そして、人間は長い歴史の中で、自分たちも知らないどんな中心的な道を見つけ出してきました。そのため、現在歩んでいる皆さんの道がその中心的な道と異なるなら、皆さんはその中心的な道を選びながら進む必要があります。
人間には個別に歩むべき道がある一方で、集団・社会・国家・世界を通して進むべき道もあります。さらに進んで天倫を通して進むべき一つの道があることを、皆さんは確実に理解しておかなければなりません。
皆さんは今日の自分がこのような現実の中で生きていること、たとえ一つの個でもこの国の存在が本来天倫の意志に向かって進むべき存在であることを感じるでしょう。しかし、その道を進むにあたり、自分の責任を自ら負うことが難しいことに気づくでしょう。
しかし、もし人間がそのような状態から抜け出し、自分を永遠に責任を負えるし、永遠に誇れる道を歩む人間になれば、今までの歴史の過程でまた地上で感じなかった新しいイデオロギーや事実を多く感じることでしょう。しかし、今日の皆さんは自分が進むべき道の目的地を知らずにただもがいている自分を感じるでしょう。これと同様に、人間は堕落した後、今まで自分も知らない道、目的もない道を彷徨っているのです。
しかし、こうして古代から先祖たちが一つの道を見つけ出してきたことは個人で終わりませんでした。個人が合わさり家庭を成し、家庭が合わさり社会を成し、社会が合わさり国家を成し、国家が合わさり世界を成し、その世界がまた合わさって進むべき何らかの道を見つけて彷徨ってきたのです。今日の皆さんは生活圏内でこれをよく感じていることでしょう。
個人がどのような生のイデオロギーを見つけ出そうとするとき、必ずどのような道を進むべきかを考えなければなりません。そして、その道は自分の一つの個人と全体が関係を結べる一つの結末点を向かう道だということです。このように過去の多くの人々は複雑な戦いの道を彷徨いつつ、その戦いの結末点である統一のイデオロギーを向かって動いてきたことを今日の皆さんは否定できないでしょう。
その戦いの目的が達成されるその日において、その目的自体と私たちが永遠に断つことができず、変わることができない立場から、一つから全体まで関連づけられる一つの大きな価値を見つけると、今日の人間が進んでいる道の目的地が見つかるのです。
しかし、今日の私たちが個々の宇宙的な全体の価値を見つけようとしても、私たちの心と体がそれと合う環境でないため、多くの方向で戦いが起きています。したがって、私の心と体が天倫を向かう道と永遠に一体化できる関係を築かなければ、その目的を見つめ、私が現在の生活から楽しむことができ、その価値を生のイデオロギーの中で楽しむことができるのです。
したがって、今日の世紀末的な環境に直面している皆さんは、自分が進むべき道がどのような目的を中心にし、その道と皆さんが残している距離が何かを、皆さん自身が自己反省しなければなりません。しかし、その道はさまざまなものであるでしょう。
宗教を通して進む道もあるでしょうし、科学を通して進む道もあるでしょう。または政治・経済・哲学など、各分野でそれぞれが進むべき道もあるでしょう。たとえそれらの道が永遠の全体的な道と異なっていても、その結末の目的地が全体が歓迎できる統一に向かって集まる時に、求めていた新しい道が現れることになります。
今日の各個個体が新しい道に出発できる永遠の価値を見つけたかどうかを考えると、誰もがそのような価値や目的を見つけていないことが分かります。つまり、私たちの新しい生のイデオロギーを築くことができ、新しい生の力を形成できる天的な価値、天的な目的自体として動くことができるその基準を、今日の私たちは宗教においても、科学においても、または文化的な面など、どの面でも見つけていないということです。
それではなぜ人間は今でもそのような目的や方向、または目的自体さえも知らない立場にあるのでしょうか?それは今日の私たちの心と体が天倫と合わさるその一基準を見つけて築けなかったからです。つまり、人間は私たちの心と体、天倫が合う一基準を見つけて築く前には、決して宇宙的な目的と結びつく新しいイデオロギーや関係を築くことはできないということです。また、たとえ私の心と体が一つになったとしても、心と体だけが一つになったその場所では、私たちが永遠に安息し、統一のイデオロギーを感じるその場所を自己の一所が取れないということです。
ですから皆さんは、どのような立体的な一つの目的の価値を皆さんの個体と関わるその自体として、全体の生活のイデオロギーと生活の力として表現できる一つの中心を皆さんの心と体を中心に、または魂を中心に動くようになると、そこにやっと神の全体の価値を触れて検討できるということをはっきりと知らなければなりません。
今日の私たちが心と体を通して歩むこの路程は、どのようなイデオロギーの終着点として現れるだけでなく、心と体を超えて永遠で全体的な天的な価値を支配し、一つの主体と関わりを持つようになると、そこにやっと私の心も留まることができ、私の体も留まることができるということです。
ですので今日の人間は心と体が分かれていて、また心と体が天倫と分かれていることを結ぶために、宗教を通してこのような道を見つけてきたし、また神は堕落した人類を救うために、このような道を通して私たちを見つけてきているのです。
では、これまでに人間に紹介された科学的な真理や宗教的な真理が本来、人々が歩んでいくべき究極の道を示してくれたでしょうか?まだそれを示していないということです。まだ人間は心と体が一つになり、永遠の天的な法則、あるいは何らかの絶対的な神、創造主と一体となる一つの基準を私たちの生活を通した生涯のイデオロギーの中で見つけ立てていないということです。
したがって、皆さんはまだ自分がどのような方向に進んでおり、どのような位置にいるかを確実に知ることができないでしょう。皆さんは創造主にはどんなイデオロギーがあり、創造された存在にはどんなイデオロギーがあるだろうとしても、それらが皆さん自体から離れては何の関係もないことを知らなければなりません。ですから創造主と被造物の最高のイデオロギーの中で、私を通じて示されることができ、そのイデオロギーの目的が達成された場所で全てを忘れて楽しむことができる一つの基準を持つべきだということです。もしも皆さんがそのような基準を持たないのであれば、現実の生活で世俗的な環境を乗り越えることはできないでしょう。
したがって皆さんは、そんな絶対的な価値を紹介できる一つの目的体を自分の生涯の状況で見つけ出さなければなりません。しかし今日の多くの人々は、現在を終末だと予告しており、私たちもそれをよく知っています。歴史の最後の終結時代に達したということです。また様々な社会の慣習や環境、自然現象、つまり気候や季節などもこの一つの目的を達成させるために動員されていることを皆さんは知らなければなりません。
そしてこうした状況に直面している今日の皆さんは、皆さん自身が人倫と合うことのできるそのようなイデオロギーだけでは、決してその目的を達成できないと感じるでしょう。またこれまで多くの人々が歩んできたし、また今も多くの聖賢が見つけてきたその過程では、全体の価値や目的を決して達成できないと感じるでしょう。
それではこのような環境と立場に置かれた私の一体自体を見つけ立てなければならない私たちに要求されるものは、何でしょうか?これまでの人倫を離れて天倫と永遠の縁を結ぶことのできるその一つの道を、現代の人類史の終末に示さなければならず、また人間が住んでいるこの世界にその意志を達成させておかなければならないということです。もしもそのような皆さんがなれないならば、皆さんの生涯の状況は絶望から始まり、絶望で終わることでしょう。
このような出来事が実現するための歴史であるため、この巨大な宇宙は個々から出発して全体の目的、つまり統一的な合一点に向かって動いています。そのような統一点は、必ず歴史的な終末時代に現れるでしょう。そして、その統一点もまた一つの中心から離れては永遠の関係を結ぶことができないため、人間が考える人間的な標準を超えた天倫や、または全体の目的と結びつけることができる一つの中心を通じたすべての力の目的体として現れるでしょう。これがまさに歴史的な終末時代に現れる新しい革命であるということです。
今日、私たちが置かれている20世紀の文明圏内、または各自が直面している分野で、新しい革命的な条件を見出し、それを自分の生涯の中で目的の中心に据えるならば、それらの条件は人間の理念を通じても同時に天倫の理念を通じても価値を持つようになります。したがって、もしもあなたがこのような革命的な条件を自分の生涯の中で中心的な生命の目的に据えることができないならば、あなたは人間の全体的な目的と関係を結ぶことはできません。
ですから、今日はすべてが終わった時です。政治であれ、哲学であれ、宗教であれ、すべてが最後に達したのです。これまで宗教は宗教としての使命を果たしながらも、最終的に確立しなければならなかった一つの基準はまだ紹介されていないということです。政治もそうであり、哲学もそうであり、どの文化的歴史の状況もまたそうでした。
しかし、今これが時です。いずれにせよ全宇宙が一つの目的を通じた統一の理念を中心に動いていかなければならない時です。宇宙を創造された造物主がいる以上、それは必然的な使命であり、造物主の理念を通じて表れるそのときには、これまで信じてきたあの程度、これまで崇拝してきたあの文化的な条件がもはや問題を解決するのには到底ならないことです。
つまり、これまで長い歴史の過程を通じて人間の良心を中心にし、または身体を中心にしてそのような問題を解決しようとしましたが、完全に解決できなかったということです。つまり、そのような人間の究極的な問題を解決するには、これまでの宗教、これまでの哲学、これまでの科学では到底無理だということです。
ですから、どれほど20世紀の科学文明を誇る現代人であっても、科学を通して新しい宗教の理念を見出すことができる新しい科学、哲学を通しても哲学そのものに留まらない何らかの新しい理念の哲学、また宗教を通しても今までのあらゆる宗教が持たなかった新しい理念を持つ宗教を見つけなければなりません。そのような時代が必ず訪れることです。
それゆえ、皆さんはどの分野で生活しようとも、どんな瞬間も心からの平安を持つことはできないでしょう。また、皆さんの生活環境において、全体の目的を代わりに果たし、神の前で誇り高く立ち上がれる条件が欠けていることです。ですから、神は今までこのような生活を送ってきた人々を見つめ、ため息をつかれるしかなかったし、歴史の過程は哀れな争いの過程を経てきたのです。
今日、皆さんも自分が置かれている現実の中で究極的な目的地に到達できていないので、皆さんが住んでいる環境、滞在する場所の至るところで戦わざるを得なくなっています。しかし、皆さんはそのような戦いの環境で勝利して、父の前で、他の人の前で、またはすべての創造物の前で、誇りを持って立ち上がり、自慢できる姿として現れていません。
もし、皆さんが嘆きと悲しみ、憤りの中で生きている自分を否定できないならば、まだ進むべき道が残っていることをはっきりと認識しなければなりません。
もしも神が存在し、天運を定められているとすれば、神の目的であると同時に人類の目的にもなり得る一つの目的地と、今日地上に住む私たちの心と体が一体となれるような統一の中心が必ず存在しなければなりません。それを皆さんは見つけなければなりません。
皆さんにもどんな欲望があるでしょうが、その欲望は単なる個人にとどまるものではありません。その欲望は個人を超え、世界を超え、私たちが想像することのできない場所に到達したいというものです。
では、今日の私たちの心に現れるその欲望がどのようなイデオロギーと関連していないかと問われれば、そうではないということです。現在私たちが生活している生活環境は宇宙のイデオロギーと繋がっているのです。
皆さんは自ら一個人を中心にし、これまでの習慣や自らが知っている範囲で自己満足できないと感じているでしょう。それは人間が選択した本来でないものであり、人類の道徳法則や天運の法則を超えて、全てのものを統一的なイデオロギーで支配できる一つの主人公を求めてきたからです。
今日においても私たちの心がそうであり、生活もそうであり、見つめているすべてがそうであるということです。皆さんの個人の生活が個人にとどまるならば、皆さんは一神の価値を全体の前に示すことができないでしょう。なぜなら、人間は現実で生きているけれども自分だけが生きることを望んでいるのではなく、全体が生きることを望んでいるからです。また、人間が欲望を抱えているとしても、それは自分だけのためではなく、全体のための欲望でなければならないということです。
では、今日の皆さんはどこに向かって歩んでいますか。皆さんは自分のために歩んでいますか、社会と交わるために歩んでいますか、それとも国家と交わるために歩んでいますか、あるいは世界と交わるために歩んでいますか?皆さんは世界と交わることのできる歩みを歩まなければなりません。
そのために歴史的な終末時代を迎える今、すべてが世界的なイデオロギーを通じて方向を示さなければならないということです。私たちが計画する事業もそうであり、私たちの生活もそうであり、私たちのイデオロギーも全てがそうであるということです。
しかし、これまでの私の生活はそのようなイデオロギーに基づいておらず、それを紹介する生活とはなりませんでした。また、私たちが生活している現実もそのような環境にはなりませんでした。そして、滞在している環境で自分が最も価値あるものを持っているにもかかわらず、自分の永遠の理想を満たすことができる何かを見つけられない立場にあるということです。そのために今日の私たちにはこれから進むべき未来がまだ残っていることを知らなければなりません。
この時代を歴史的な視点から観察した多くの人々は、今が終末であると言っています。この終末に人間的な要求が絶たれるならば、人間は絶望の中に陥るでしょう。したがって、その時においては人間的な要求が人間の歴史と関係を結びつけ、一つの目的を紹介できる中心が現れなければなりません。そしてその中心が皆さん一人一人を通して、新しい天運や新しい宇宙の歴史と関係を結びつけて現れる時、そこからやっと新しい道に進むイデオロギーが見つかるということを皆さんは確実に悟らなければなりません。
さて、皆さんは自分が立っている環境を再び見直さなければなりません。今、自分がどのような環境に滞在しているか、自己反省する必要があります。皆さんの中に学問を研究する人がいますか?ただし、その学問だけで終わるものではありません。また、宗教を研究する人がいますか?その宗教だけで終わるものではありません。それらを超えて絶え間なくより大きく、新しい次元のものを求めなければなりません。
それはどの方向からもすべてを結びつけ、どの方向からも公共の価値として現れ、どの方向からも生活的、またはイデオロギー的な中心として動かれることができなければなりません。そして、それが皆さんが生活している実生活圏内で直接的な力を示すことができなければならないということです。もしそのような力を示さないならば、人間が希望し、求めている全体的な生の目的地まで導く存在があることを認めることができません。
自然現象によって雨が降ると、その雨水は流れて川に入ります。川を経て海に入ります。海に入った水はここで一つになり、新しい調和を生み出します。海水は再び蒸発して水蒸気になり、再び雨となり、すべての草木を育てるものです。
同様に、何かがどのような経路を辿って全体に統合されるためには、静止した状態で滞在するのではなく、それ自体を超えて新しい価値を見つけることが天運の法則であるのです。
人類の歴史を振り返ると、個々の個人が集まり全体を成すようになりました。彼らはそれぞれ一つの主義を中心に集まりましたが、今では二つの流れが現れる事実がわかります。
しかし、これらの2つの流れが一つに結集するとき、単にその集まり自体に満足するだけではなく、統一された目的地に向かって進むべきであり、また、過去の古くなった形態とは異なる変化に富んだ新しい価値の環境を形成して全体に影響を及ぼすべきだということです。
ですから、今日の皆さんがどの分野で最も優れた能力を持っていたとしても、その能力だけで終わってはいけません。皆さんは全体の目的を見つけ出す過程にあるため、それを踏み越えて一歩進んでいくべき立場にあるのです。
したがって、皆さんはどこまで行っても、今までの科学を通じては天運の法則と関連を持つ調和を生み出すことができず、今までのどんな哲学を持っても新しい調和を生み出し、想像もできない楽しみと感謝を覚えつつ生きる世界を築くことができません。
しかし、人間はどうしても宇宙的な目的の中心を見つけ出さなければならない立場にあるため、私たちが最も優れていると言える何かを持ち、世界を統合し、宇宙と関係を築いていく新しい宗教的なイデオロギーを見つけ出さなければなりません。
哲学を研究する人でも、哲学だけで全てが終わるわけではないことを認識しなければなりません。これまで哲学として人類は立ち上がってきましたが、それだけでは足りなかったので、天運と結びつけることができる宗教を見つける必要があります。科学者も同様です。現代の科学が全体の価値を代わりにして人類の平和と幸福をもたらすことができない立場にあるため、科学者もまた全体的な一つの目的と関係を築いていかなければなりません。
もしそのような関係を築いていけないならば、この世界は一つの統一された世界になることはできません。つまり、だれもが一つの中心を見つけて結びつけられない場合、今日の宇宙が進む全体的な目的地も、そしてその目的を通して現れる全体的な価値もそうした関係とは何の関係もなくなるということです。
そしてまた、そうした立場からすべてが終わるならば、私たちはここから神が存在するという事実を証明することができなくなります。神が存在すれば、そのような全体的な価値の目的を各分野で世界的なイデオロギーとして対峙させ、各個人が追求する目的を証明できるからです。したがって、どんな偉大な科学者、哲学者、または宗教家でも、そうした一つの中心を持つことで初めて、そこから一つにまとまり始めるということです。
しかし、現在までの宗教や哲学ではこの問題は解決されないということです。人は誰でも全体の目的を代わりにでき、全体の価値を代わりにできる一つの中心をいずれかの時点で迎え入れなければならないということです。そうしなければ、各自の身体と心を通じて天運と結びつけるその基準が、世界的などの目的体として現れ相対的な価値を認められるようになるのです。こうして人々が歩んでいる道が目的や価値の面で新しい調和の法則が生じることによって、神の栄光が始まるということを皆さんは知っておかなければなりません。
もともと神がアダムとイブを創造された際、そのようなイデオロギーを持って創造されたのです。無限で絶対なる神が、自らが創造したアダムとイブがその無限性と絶対性を生活のあらゆる面で具現化し楽しむことができるように創造されたということです。
ですから、今日の私たち人間も帰還の誓いを通じて、その無限で絶対なる神を感じることができなければなりませんし、心の世界で感じるその無限で絶対なる価値を実際の有限権限内で理想的な力の要素として立てなければなりません。そうした時に初めて、そこから天地の調和が生じるのです。
信仰の道を歩む私の身体と心が無限で絶対な神の前にとどまり、彼と同居することになると、創造主の目的が私の目的であることを感じることになり、また、その場所で喜びを感じるときに現れるその価値が相対的でなく、立体的に現れるのです。そこから初めて神の栄光が始まるということを私たちは知っておかなければなりません。
しかし、今日の人々はこのような問題を越えられず、すべてがため息と絶望、恐れに包まれています。哲学や宗教、科学もそれ自体がその限界を越えると、すべてが暗黒の中に没してしまっているということです。ですから、そうした立場では必ず無限であり、かつ絶対的な何らかの力と関係を結ばなければならないのです。これは哲学や宗教、科学も同様です。
したがって、皆さんはこうした動きが歴史だけでなく、この世界に存在するあらゆるものを含むことを知らなければなりません。
私たちの心を通じて進んでいくその道が、天運の法則を通じることができる道で終わらず、天運の法則と結ぶことのできるそのような因縁の一つの基点を見つけ出さなければなりません。皆さんには世界の目的を向かって歩んでいると思っていても、その進む過程で自分の心ではなく絶対的な何らかの心と結びつけることを要求され、人間的な因縁を超えた最高の宇宙的な存在を感じてほしいと思うでしょう。
今日の宗教が価値を持つと言われるのは、このような経緯があるためです。宗教は人間が自分の心を通じる特定の感情に留まるためだけでなく、これを超越するある神の存在を認め、その神に内在する無限で絶対的な価値を追求しているのです。ですから私たちの心がその無限な天運の感情と結びついていくと、驚くべき価値が現れるのです。
それでは、多くの人々が今日を終末と予告しているこの時に、皆さんはどのようにすれば良いのでしょうか? 皆さんはこれまで歩んできて、世界的なイデオロギーを代わりにできる道を開拓し、築いたその場で過去のすべてを善の価値として吸収し、すべての生物の前に提示できなければなりません。また、皆さんが動いている環境を全体的な価値を代わりにして表す環境に整えなければなりません。
では、このようなことを何を持って成し遂げることができるでしょうか? これまでのどの学問、どの宗教、どの哲学でもなく、それはただ私たちの心を通じて決まるものです。お互いの感情、神の感情を通じてその心の結節点が統一的な目的体として現れなければならず、またそれが現れる中で生活の価値を見出して築かなければなりません。そうした時に初めて神の栄光が現れるのです。
それでは、これまで人間が何を求めて苦労してきたのでしょうか? 人間の心を代わりにできる天運の感情を見つけ、その感情と私たちの心が一つになるように今まで努力してきました。一つになったその心は絶対的な心と結びついているため、その心は誰が削り取ろうと削り取ることができないということです。ですから、これと同様にどのイデオロギーや主張でも侵犯できないそのような心を私たちは今まで探し続けているのです。
ですからもし皆さんがこれを見つけられなければ、皆さんは必ず悲しみと嘆きから逃れることはできないでしょう。このような分かれ道が今日の私たちの前にあることを皆さんは知っておかなければならず、またそれを見つけるべき摂理の意志どおりに皆さんの心はより高い感情を追求していかなければならないでしょう。
そうしてそのものを私たちの生活領域内において、永遠の目的体として、すべての生物の永遠の目的体として、または永遠の価値の実体として皆さんが証明できなければならず、また皆さんがそのような価値を持つ存在、すなわち皆さん自身がそのような歴史的な目的体として証明され、歴史的な価値の実体として証明されなければなりません。そうした分離された状態でなく一体化して行く場所から初めて神の栄光が現れるのです。
したがって、神を中心に据えたすべての生物が二者ではなく一つの目的体として動いているのと同様に、皆さんの心も何か良いことがあるときには自分だけが楽しむことで終わるのではなく、全体が楽しんで喜ぶことができる全体の価値として結びつけなければなりません。
このように、皆さんの心を中心にして、すべての人の心を一つにするこの道が、皆さんが進むべき道であることを知らなければなりません。つまり、心と心を通じてお互いが調和でき、お互いが楽しむことができるこの一つの道を見つけて進むことが正しい道であるということです。
これまで人間は歴史を超えて変わらない心の法則を持っています。つまり、昔も今も、人間本質の心は時代を超えて変わりません。しかし、人間はその変わらない心を持つ人々が進む価値の道をまだ見つけていないということです。
しかし、今日、私の心と皆さんの心が合わさり、宇宙的な全体の価値と結びついているため、皆さんは必ず天運の感情と通じる一つの秘輪を見つけなければなりません。もし見つからなければ、この地上にどんな理想主義があるとしても、それは地上で崩れ去ることを知らなければなりません。
ですから、これまで人間はそれを見つけるために宗教を探し始めましたが、その仕事を代表して現れたのがキリスト教です。それではキリスト教の中心であるイエス様がこの地上に現れる際、何を持って現れることになったでしょうか? イエス様は愛を中心に現れたのです。
イエス様は人間の心を統一し、人類を統合し、天運さえも統合できる愛としての秘輪を立てて現れたこの事実が、今日私たちにどれだけ驚くべき恩寵であり、驚くべき福音であるかを皆さんは確かに認識しなければなりません。
ですから、皆さんの心が楽しむことができ、皆さんの心が動かせるその愛が、今日の終わりにおいても、生活を通じて、世界を通じて、さらには天運の感情と一体化した愛の関係として現れる基準まで進むべきだということです。また、各分野でそのような目的を示し、そのようにして進める力を備えてきた宗教であれば、必ずそのような愛が必要とされるでしょう。
では、そのような愛を見つけるためには何が必要でしょうか? これまでの私たちの生活や私たちの概念、これまでに私たちが持っていた心やどのイデオロギーでもないということです。皆さんはこれらすべてを清算し、皆さん自身の心に天運の感情があるかどうかを自己反省しなければなりません。
そして皆さんは自分の心を無限に動かし、解放しなければならず、そのような生活の環境を持たなければなりません。もしもそのような皆さんができなければ、皆さんは絶対的な感情と通じる心を持つことはできないでしょう。
そのような境地に住んでいる人がいれば、彼は一つの個体でありながら、全宇宙を貫通する価値を持つ存在として、いつでもすべてを吸収できる中心的存在となるでしょう。そして、彼はそのような使命を十分に処理できるでしょう。したがって、今日、私たちはこの目標に向かって信仰生活を送っています。
しかし、もし今日私たちがこの一日の最後の目的地を見つけられないなら、皆さんはこの地上で永遠に戦いの歴史から逃れることはできず、永遠に嘆きの歴史から逃れることはできず、永遠に悲しみの歴史から逃れることはできないことを意味します。これを皆さんが心に留めておくことを望みます。

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御言葉選集3(3)

2024年01月21日 16時05分28秒 | 学習
文鮮明先生の御言葉集 3 - 3. 本郷の縁を求めて進もう(1957年9月22日)

1957年9月22日(日曜日)、前本部教会

聖書拝読:ヨハネによる福音書 14:1-7


<祈祷>
 戦いの一週間を制して出ましたので、父なる神の深い愛の聖なる姿が私たちの心と体に臨まれますように。私たちは父のふところに包まれ、愛のお父様、満ち足りたあなたの命に沈む愛の喜びを、この子どもたちに授けてください。

お父様の心情、お父様の尊いものをこの時に理解できないとすれば、私たちの誤ったすべての罪の縁を消し去ることはできないことを知っています。慈悲深いお父様、これからはただあなたの愛の中に身を委ねさせてください。そして、私たちがあなたの御旨の前に誠実に心を尽くせるように、お父様の計画の前に心を傾けさせてください。

お父様の導きに従って、私たちが本来の目的を理解し、本来の心情を心に感じられるようにしてください。それによって、地上に立てられた私たちの全般的な責任を担い、他者のためになる愛する子どもたちとなるように許してください、私のお父様、熱望しています。

今日まで困難な道を歩んできたとき、悲しい状況があるときには、私たちよりも先に悲しんでおられたお父様でした。私たちが絶望の中で自己嘆息するときも、お父様が私たちのすべての罪を代わりに悔い改め、敵が中傷する場で代わりに戦ってくださったお父様であることを思い起こします。

この一瞬でも、身も心も捧げて差し上げようとも、今までご苦労されたお父様の御恩の前に報いる方法はないことを心と体で感じさせてください、愛するお父様、熱望しています。

お父様! 多くの人々の中で取るに足らない者たちを呼び立て、数多くの民族の中でこの民族を呼び立てられたお父様の前に、何も自慢できるものを持っていません。今私たちが望むことは、お父様が苦しまれるとき、一緒に悲しむことができる私たちであり、お父様が喜ばれるときにも一緒に喜べること、お父様が望まれるとき、私たちの心と体がその意志のために燃えることです。

今日ここに集まった子どもたちよ、お父様に守られてください。お父様だけが中心となり、お父様だけが私たちの主となり、私たちが地上で自慢するものが何もなくても、私たちが立っている場所が孤独な場所であり、私たちの歩みが険しい道であることを覚えています。お父様、お任せしてご主導ください。

最後の戦いで倒れるかもしれませんが、「父」と呼ぶその一言の声を通して慰めを受け、私たちは父様の愛の勧告を受け、再び戦っていかなければならないことを誓い、覚悟しているあなたの子どもたちですので、お父様、どうか私たちの身心をサタンに渡さないでください。

どうかお父様の愛の権威の中に抱擁してください。そして、お望みの楽園を築き、すべての人々が喜べるその日を、これらを通して現わすことができるように、お父様、最後まで引き止めて導いてください。切に望んでいます。

今日のこの一時、お父様が許可された御心がこの聖堂に満ち溢れて、この時を過ごすこの場所が6000年の労苦の結晶であることを知らせてください。また、6000年の苦労が若い血の祭壇であることを知らせてください。そして、全人類を代表して捧げるこの一礼が、父の心と意向を開き、父を慰める礼となるように許してください、お父様、切に望んでいます。

今、私たちのすべてを差し出すとき、お父様の御心の前で光となり、お父様の意向の前で誇りに思える中心として残るように許してください、愛するお父様、切に望んでいます。

この日も孤独な家族が地方に散らばり、困難な戦いを繰り広げているかもしれませんので、お守りいただき、保護いただきたいと願っています、お父様、切に望んでいます。この一時間の礼拝の上に、父の慈悲の恩寵が同行し、お願い申し上げます。すべての言葉を主の御名によってお祈り致します。アーメン。



<御言葉>

 皆さんと一緒に考える内容は「本郷の縁を求めて進もう」です。この題目を持って少しだけ説明させていただきます。
今日、私たちは堕落していなかった本来の楽園に向かって再び回復していかなければならないことは、皆さんは既に原理を通して学んでいるでしょう。
堕落した人間としてではなく、堕落していない本来の状態、神を失った人間としてではなく、神を失っていないその場所、真の親を失った経緯としてではなく、真の親を失っていないその場所を見つけなければならないのです。神と理想の真の親を中心に据えた平和の楽園で、子どもたちとして生活できるその場所を見つけていかなければなりません。そのためにも今日、私たちには新しい救いの御心が残されているのです。
もし人類の祖先が善の楽園にいたとき、神と永遠の縁を結んでいたならば、今日私たちにとって救いという言葉は必要ないでしょう。救い主を通して行く条件は必要ないでしょう。信仰という言葉を立てて神を求める必要もないでしょう。これらが不要だとすれば新しい時代という言葉も必要ないでしょうし、悔い改める必要もないということです。
それでは今日の自己を立て直して分析してみると、私たちには新しい希望が要求され、新しい指導者が要求され、新しい生活、新しい実践が必要であり、これらすべてが何によって起こったのかと言えば堕落のためです。
堕落以降、今日まで長い歴史が経過しましたが、まだ人類が望む故郷である本来の理想が実現していません。人々は心からその故郷を懐かしみつつも、その故郷を見つけて楽しむことはできず、その故郷の中で永遠の幸福を味わっていないのが現状です。
歴史上、本来の理想の楽園で楽しんだ者は一人も現れませんでした。どのような新しい使命を負った道の主人公でも、地上でその理念を実現していった者はまだ一人もいません。この日まで、創造主はもちろん、私たちが信じているイエスも、本来の理想の理念を地上で完成させられなかったことを意味します。
人が本来の理想の楽園を懐かしみながら生きるならば、それはどうしてもその責任が神にあるということです。この神の責任と、本来の理想を実現する人間の責任を結びつけるのが宗教です。そのために宗教的な儀式や祈りといった条件を提示し、神は歴史を進めておられることを皆さんも理解しておくべきです。
今日、私たちが住んでいるこの地を見渡すと、どうしても善意の結びつきに従って生きていかなければならない人々であることを否定できないならば、私たちが善良な人とならないことはありません。善意の生活ができる土地、理想の故郷を達成するその日まで、私たちの人生は平坦なものではなく、戦いの歴史が続き、絶え間なくお互いを中傷し合っているのです。だから人々は自分への中傷と嘆きの条件が永遠にこの地で解決されることを望んでいたのです。
これが人の悲しみであり、地上の悲しみです。悲しみと嘆きを経験すべきでない人々が堕落によって悲しみと嘆きの環境に直面しているために、子供たちが受ける悲しみと嘆きを心配している立場から逃れられない創造主として、人が悲しむと神も悲しまなければならず、人が悲しむと神も悲しまなければならない立場にあるのです。
私たちは自分の存在を立て直し、宇宙的な生を持たせる結びつきがあることを理解する必要があります。私たちが生きる環境の背後にも何らかの結びつきがあることです。
ですから、私たちが生命の理念を追求していく中で、最も貴重なものは何でしょうか?それは、自分の生命の背後から、自分が持つ理念と関係を結ぶ生命の結びつきを持つことです。そのような生活の結びつき、環境の結びつき、そして理念の結びつきを見つけるまで、皆さんの心は休むことなく、どんな結びつきでも見つけようとするでしょう。
そして、このような結びつきを見つけて、人間関係だけを解決するのでしょうか?いいえ、人間関係だけを解決するのではなく、これを人間関係を超えて天人に結びつける必要があります。そうした生涯の結びつきであり、生活的な結びつきであり、環境とまたは世界的なあるいは宇宙的な結びつきとしてのその場は、自己を中心にし、証明できる生活を感じることができるとき、人間はついに勝利の日を迎えるでしょう。
人が地上に住む限り、この環境で人間的な法則を超えた生涯の基盤を持つ者はいません。これを考えると、今日私が生まれるためには、地上に存在するためには、どんな縁を通していけばよいのかと言えば、親の縁を通していかなければならないということです。親の縁を通さないと存在できないことを皆さんは心に留めておかなければなりません。
地上に生まれた皆さんは、どのような縁と目的権内にあるかと言えば、富裕な縁を持っているということです。そして富裕な縁を通した後には、どのような縁を持つべきか?生活の理念を追求する際、夫婦の理念を超えることはできないということです。生命の縁と生活の縁を持った後には、何があるべきか?生活の縁と関係を結べる国家と国民の縁を結ばなければならないということです。これが今日私たちが生きている縁権であるということです。
それでは現在私たちが生きている縁権内で、私たちは満足できるでしょうか?いいえ、ということです。これらすべてが備わっていても、心から要求される絶対的な縁があるということです。その縁を私たちは懐かしみ、探していることを皆さんは自分たちの生活で感じるでしょう。
その縁は何でしょうか?それは相対的な立場から人間に対して主体として存在する神の縁です。この世にはそれを感じない人が多いでしょう。
それでは人間がこの地に生まれるとき、どのような永続的な縁を持って生まれたのでしょうか?生を得るための親との縁があり、生活の理念を見つけるための夫婦との縁を通さなければならず、実践的な活動のための国家的な縁を通さなければならず、人間関係を超えて永遠に安息できるその一日を見つける必要があるということです。
しかし、この地は腐敗した世界です。したがって、この腐敗権内で帰還権内に上がろうとする私たちの道を妨げ、これを踏みつけて上がっていくための一筋の縁として、この地に立てられたのが救済の使命を担当する宗教ということです。
地上に私たちが住むとき、天人の法則と人倫の法則に私たちは従わなければならないことです。そして生を任せられる親と通し、夫婦と通し、国家と通し、それが全世界に縁を結ぶことができる自分になり、万物と交わることができるその一日を見つけるためには、命が尽きる日まで皆さんは闘わなければならないということです。激しい戦いを展開しなければならないということです。
歴史の始まりが戦いで始まったため、歴史の終結も戦いで成り立っているということです。もちろん過程もそうです。どれだけ自分を愛してくれる親を持っていても、自分が抱きしめられる国家を持っていても、心の安息の基を失ってしまったこの地の人間であるからこそ、このような戦いを避けることはできないということです。
では、神が優しく思っていることは何でしょうか? この地上には両親のいない人々が悲しんでいるのを見て優しく思っている神ではなく、地上で夫婦がいなくて悲しんでいる神でもありません。国や民族がいなくて悲しんでいる神でもありません。
神が悲しんでいるのは何でしょうか。天倫の理念を通じて成就されていない縁が地上に存在することが神の悲しみであることを皆さんは知るべきです。今日、堕落の子孫である人々が気づくべきことは、自分が抱えている両親や住んでいる国やこの世界が神の理念をただそのまま紹介できていないということです。このような堕落の領域に住んでいる人々は、どうせ一歩進んで果たさなければならない責任や使命があるにもかかわらず、それを知らない人々に対して只々お叱りになるだけが、天の難しさなのです。
それでは、人間が今、永遠の理念の規範を見つけ出すためには、どのような手段を通じて、どのような歩みを踏むべきでしょうか? 現在のものではない飛躍的な条件が必要です。それが何かを知らない条件です。その条件を担うためにこの地に遣わされた方が、あなたが信じているイエスであることを、皆さんは知るべきです。
堕落の子孫である世界の人類は今日、どのような立場にあるのでしょうか? 神を永遠の親として崇める立場から離れていることです。神を通じて生涯の出発を見た人間が堕落によって神を中心にして永遠の喜びの条件を提供できる花嫁と花婿の縁も断たれてしまいました。
この本質的な関係が破壊されたため、個人的には失敗であり、家庭的にも失敗であり、その次には全人類の主である神の栄光を継承できる資格を失い、また神と人間の最大の喜びを約束してくれる環境も失ってしまったのです。
それでは、人間がイエスを信じ、信仰の道を歩むべき本来の目的は何でしょうか? それは堕落の血統を受け継ぎ、現在の環境で楽しむことではありません。それを越え、いつの日か罪悪によって絡まれているすべての原因を清算し、本質の中心を見つけることです。
本質の中心は何でしょうか? そこには両親がいなければならないし、夫婦もいなければならず、自分の家庭を守ることができる環境と国もあるはずです。これらすべてを見つけて成し遂げることが、私たちが信仰する目的なのです。そして神は悪い人間であるが、善意を吹き込むとともに、良心を動かして、このような理念の基準まで引き上げるために尽力されていることを、皆さんは知るべきです。
これを知った上で、皆さんは自分のすべての誠実を尽くし、本質の法則に反している人々や、世界的なものに関して戦うための変わらぬ信念を持たなければなりません。
親から養育され、親の生活を通して、国家的な縁権または世界的な縁権の中で生を営んでいる人々の生活を見ると、人倫を中心とした生活でもなければ、永遠を中心とした生活でもないことがわかります。
堕落した結果として生じたこの地上のあらゆる生活の形態と思想は、やはり審判の日を控えて清算されなければならない運命に置かれています。永遠の理念が実現されていない土地においても、親の縁がなければ悲しむし、夫婦の縁がなければ悲しむし、自分や自分の家族を保護してくれる国がなければ悲しむことを知っているのは、人間がお互いに理解しているからです。
このように変わる可能性がある縁でも、環境を整えなければ悲しむ。永遠の理念を中心にした縁を整えなければ悲しまないでしょうか?このように、人々は地上で人間的な条件をすべて与えられても、そこに加えて天倫の永遠の縁をまた望むことになるということです。
では、今日、私たちの信者はどのように生きるべきでしょうか?変わる可能性のあるイデオロギー的な条件を持って生きるのではありません。変わらない不変の縁を回復し、その縁は別々に存在するのではなく、自分が住んでいる生活領域で全体が一つの縁として結びついていることを知り、自ら神と関係を結びながら生きるべきです。
神との関係を結び、それが実証的な価値を回復し、その時間領域と環境領域で神を心に留め、すなわち神と一体となった縁の中で生きる神の子女にならなければなりません。
そのような生活を可能にする神の実体を感じるならば、その価値は一部のものではなく、全体的な価値が実現されるとき、個々と全体の価値は自分を中心に動き始めるということです。
神は人間に良心を起こさせるように歴史を進めています。この罪の歴史は、いずれ変化を経なければなりません。そして一旦変化し、善の世界になると、その後も変わらない理念の扉を人間に紹介するために、神は計らって出てきています。神ではなく、この仕事をなさるためにこの地においでになった方がイエス・キリストです。そのため、イエスは神とあなたが一体であると言われました。さらに、彼は自分が神の子であり、しかも独り子であると言われました。さらに、彼は人類の花婿だと言いました。これらのことを知るべきです。
信仰の理念で生きてきたユダヤ民族の精神は何でしたか?それは神を信じる信仰でした。だから彼らは神を頼りとする信仰で、神の国が確立されることを望みました。そのような希望を実現させるものがまさにイエスがこの地に来た目的でした。
したがって、イエス様は、「私は諸王の王である」とおっしゃいました。そして、生活の観点からは、どのようなお話をされましたかというと、「私は花婿であり、あなたたちは花嫁である」と仰いました。これは夫婦の一体性の理念を生活領域に確立するためのお話でした。そのため、イエス様は帰られる際にもあなたと聖霊を通して親の歴史を約束されました。
ある面では、イエス・キリストがこの地に来た目的は、地を創造された神は見えないため、見えない神を証明するための人間の代表者として、または神の代理者として来られたと言えるでしょう。
では、このような使命を持ってこの地に来られたイエス・キリストの視野はどのようなものでしたか。まず最初に、皆さんはイエスが天と地を創造された神を「父」と呼べる立場にあったことを知らなければなりません。
今日、多くの人々が堕落の領域、つまりこの地に住んでいますが、イエス様の視点と堕落した人々の視点は異なります。イエス様は神を「私の父」と呼ぶこの一問題に全心を傾けました。さらに進んで、「私の父だけが最上だ」という縁を実現するために悩まれました。
そして、人間に対して「私は花婿」という名詞を立てようとしました。しかし、イエス様は神の前で人類の花婿の資格を備える前に、天の前で花嫁の立場を完成させる段階を経られました。
そのような立場を経て、真の親の理念を持ってこの地に来られたイエス・キリストでしたが、地に住む人々はイエス様を崇めませんでした。彼らは自分たちが崇めている親、自分と共に生活する夫婦、自分が活動する国を持っていたし、自分たちが望む世界もありましたが、それだけでは完全できないことを知りませんでした。
彼らが持っている希望を広め、その理念を生かし、その全体的な生活、歴史的な生涯の条件を生かす神的な価値を持つ理念の中心存在であるイエス・キリストを崇める必要がありましたが、彼らはそうしなかったのです。
神と人類のすべての希望を完成させるために来られたイエス・キリストは、どのような生活をされていたのでしょうか? イエス様は地上のヨセフの家庭で生まれましたが、ヨセフの子ではありませんでした。また、マリアの子でもありませんでした。そして、イエス様が望まれた縁は地上の人々の希望と同じものではありませんでした。
変化する環境で悲しむ親の縁や夫婦の縁、人々が活動している環境的な縁、さらには審判権内にある世界的な縁を超えて、イエス様は善の中心である変わらない天倫の親の心情を感じられたのです。これが神の喜びでした。これが人間が堕落した後4000年の歴史が経過する中で現れる神の子になることができた内容でした。
地上において神を「私の父」と呼べる存在がいなかったこの地に、ようやく神を「私の父」と呼べる存在が現れたのです。こうして変わりうる親の血統を持って生まれた人々が、変わらない永遠の親の縁を見つけ入ることができるようになったのです。
キリスト教の中心は何かというと、聖書です。聖書の中心は何かというと、イエス様です。イエスの中心は何かというと、愛です。そして、愛の中心は花婿と花嫁です。そして花婿と花嫁の中心は何かというと、真の親であることです。皆さんはこの道を歩み出しています。
しかし、皆さんはどれほど知恵があり、自分を立てて神の前に自慢できるとしても、堕落した親の血統を受けて生まれた人々です。変わらない真の親の血統を受けない死んだ人間なのです。死んだ人間は変わらない真の親との縁を結ばなければ、天倫の永遠の縁を取り戻すことができません。このようなものを取り戻すために霊界が動員されて戦っているのであり、この永遠の縁をキリスト教徒たちは願っているのです。天に親の縁が決定され、天に夫婦の縁が決定され、天に国家的な縁が決定されれば、神の栄光がこの地上に移されることができるのです。
創造主の理念を実現するには、人間を生まれさせる親の縁、生活のための夫婦の縁、活動のための国家の縁、宇宙的な縁が結ばれなければなりません。このような宇宙的な創造の理念が人々の生活環境に築かれなければ、神が降臨できないのです。
イエス様が来られてから2000年の間になされたことは何かというと、開拓の仕事でした。それでは今日、開拓の先駆者として来られたイエス様を信じて進む私たちはどうすれば良いのでしょうか? イエス様は「私こそが道であり、真理であり、命である。私によらなければ、だれも父のもとに行くことはできない。」(ヨハネ14:6)と仰いました。
イエス様が行かれた道とはどのような道かというと、親の縁、夫婦の縁、国家の縁を結ぶ道でした。そしてイエス様は天倫の心情を通しておられる方であり、天国の心情を通しておられる方であり、創造者の心情を通しておられる善の中心でした。イエス様は「私は道である。」と言われましたが、この道は何の道を指しているのでしょうか? 「愛の道」を指しているのです。そして真理は「十字架の真理」であり、命は「全体的な命」を指しています。したがって、イエス様を信じなければならないのです。
今日、地上に住んでいる皆さんは生活していく中で心に傷を負ったり、お互いに自分の心情を吐露できる生活領域に住んでいます。しかし、今日の皆さんは希望の主体である神とは連絡を取ることができないと感じるでしょう。これが悲しみです。これを誰が解決してくれるべきなのか、これを解決できる内面的な基準を持つ者がいないということです。
これが天国の嘆きであることを皆さんは理解する必要があります。人は人同士で相互に見たり聞いたりし、自分の感情を表現できますが、創造主である神の感情は6000年の歴史の中で苦しんできました。しかし、どの国にも伝えられていないというのが現実です。天国の感情と連携できる国家的な基準を確立するために、天国はこれまで努力してきました。
このような歴史が6000年を経ても、まだ天国と人間との永遠に忘れられないつながりが確立されていないというのが現実です。このような基準を確立するために、神は多くの預言者を遣わし、イエス・キリストさえも遣わし、導いてこられたことを理解する必要があります。これが神が真の息女を見つけ出そうとした努力であったことを理解する必要があります。
神は理想の中心として、理想的な生活観を達成する立場にいながら、堕落の領域にいる人間と直接的な関係を築くことができないため、先知たちを遣わし、進化を進めるべく動いてこられたのです。これもまた天国の苦労であると言えます。
真に全人類が神を父として迎えるために、神の代理者である救世主を受け入れられる唯一の基準がこの地上に確立されることを神も切望し、期待されているのです。ですから私たちは、人々が本来の人間性の基準と天国が要求する天人の基準に立って、神の父の前で礼拝できるその日を見つけ出し実現させなければなりません。
それでは、イエスが心に秘めたもの、イエスが悲しんだものは何でしょうか?今日、この地上の人々は親がいなかったり、または夫婦や国がないために悲しんでいる人が多いです。しかし、イエスが悲しんだのは神の悲しみを癒すことができなかったことであり、また真の親を中心に真の天国を築くべきであったがそれができなかったことでした。
そして、イエスは絶えず変化する状況で生きる人々に永遠に変わらない天人のつながりを結ぶために努力されました。したがって、皆さんはイエスが示された真理、命、そして愛の道を歩む必要があります。
イエスはこの地上にいながら不変の原則の中心を確立する使命を持って来られましたが、地上で生活できる基盤を失ってしまったため、帰られてこの使命を達成しに出ているのです。
肉と霊が合わさった世界の中心に来られたイエスでしたが、十字架に架けられたために霊的に人々に接するしかなかったのです。これがイエスの悲しみです。しかし、これはまだ神の計画の完成ではないため、再びこの地上に臨まれなければならない条件が残されているということです。
イエスがこの地上に来られて感じたもう一つの悲しみは何だったのでしょうか?もし人々が堕落していなかったなら、自ら良き親を迎え入れて生活できたでしょうが、堕落のために4000年という長い年月の間、真の親を迎え入れられなかったことに対して悔やまれたのです。これが当時の人々が見逃してしまった、イエスが真の親の心を持ち、父の立場に立たれたことなのです。
イエス・キリストの到来を知らないことが神の悲しみであり、神の子供である人類が親とのつながりや豊かさを持てないことが天国の愛と悲しみであります。
現代の腐敗の報いは何でしょうか?永遠の創造主である神を父と呼べないことが腐敗の報いであり、仇です。イエスはこれをよく理解しており、人々に自ら現れて愛の手で導こうとしましたが、人々はその気持ちを理解せず、愛の言葉を述べたとしても人々は無視し、悲しい涙を流しても人々はイエスの情熱を知らなかったのです。
今日、地上に住む皆さんは親に孝行し、国に忠誠を誓い、つまり人間関係の道を歩むべきです。イエスは人間が歩むべき人間の道と天国の道を統合するために来られた方でした。このようなイエスの気持ちを理解したのは誰でしょうか?今日、イエスを裏切る人々が多く、その気持ちを忘れてしまう中、2000年以上前の人々はますますイエスを知らなかったのです。皆さんは、私が本当のクリスチャンなのかと自問する必要があります。
さて、皆さんが達成し、回復しなければならないことは何でしょうか?イエスの気持ちを理解すること、そして6000年にわたって悲しまれた神の気持ちを慰める仕事です。皆さんはイエスを受け入れず、神を悲しませた2000年以上前の人々の代わりに悔い改めなければならず、また現実的な無知を悔い改めなければなりません。
イエスを最後まで見捨てずに従ったのは誰でしょうか?イエスの十二弟子でしょうか?いいえ、イエスの十二弟子の中でさえ三弟子もイエスを最後まで信じて従いませんでした。
神の愛を人々に紹介し、その愛を実践しようとされたイエスでしたが、人々と愛のつながりを持たずに去られました。天人の愛の言葉を伝え、熱い心を持たれたイエスでしたが、捉えて「わが子よ、わが父よ」と豊かな心を交換できる相手を見つけられずに去られたことを理解する必要があります。弟子たちは眠っていましたが、ゲツセマネの庭で夜を徹して悲しみの涙を流しながら祈られたイエスの気持ちと状況を理解する必要があります。イエスの愛の言葉が良いと言う人は多かったが、2000年以上前にイエスは愛する対象がなかった。
このようなイエスの気持ちを通さない限り、イエスと豊かなつながりを結ぶことはできません。
また、イエスを通して夫婦の結びつきを築くこともできず、忠臣、賢女の立場に立つこともできません。
それでは、今日のクリスチャンが探し出さなければならないもの、これから戦って克服しなければならない唯一の中心は何でしょうか?
神を「アバ」と呼び、6000年の歴史的な悲しみに共感し、和解することが求められています。悲しむ父の心を理解し、父を呼び寄せる一言で天と地が再び結びつくでしょう。これらの基準を再び確立できない場合、神の悲しみはあなたから離れることはなく、神の審判の条件から逃れることはできません。
それでは、これを達成するためにはどうすればよいでしょうか?何をすべきでしょうか?イエスの意志を理解するためにはどうすればよいでしょうか?真剣に、教えられた通りに、イエスが歩まれた通りに歩むことが求められています。
イエスはこの地上において肉体を持ち、親に対する孝行の情を示すこともできましたが、それを実現できませんでした。夫婦のつながりも持たず、神の怨みが和解されていないことを知って、快適な環境を捨て去りました。すべての社会的な関係を断ち切ったのです。これが今日、道義のない世界を求める人々が抱える不可避の状況です。
そのためには、避けて通れない天人的な条件があったため、イエスは家庭での拒絶を黙って受け入れ、社会からの排除を黙って受け入れ、サタンの中傷にも黙って言葉を返さなかったのです。
6000年にわたり地上の人間に対して望んでいた神の花嫁を見つけられず、一つの息子娘を見つけられなかったイエスが誰を恨むことができたでしょうか?それでは、イエスの望みは何でしょうか?それは、あなたがイエスと一体化できる中心存在として、イエスの総合的なイデオロギー、つまり生活のイデオロギー、夫婦のイデオロギー、親のイデオロギーを受け継ぐことができる真の姿として現れることです。
そして、イエスはあなたが望む愛のイデオロギーを実現できる人物を望んでいます。そのような姿が現れると、神の計画を打ち明けて協議できる時が来るということです。
これらの人物が現れなかったため、これまでに神の計画はすべて隠され、言うべき言葉のない状態でした。また、イエスも教えるべき状況に教えることができなかったのです。なぜなら、本来の理想を代わりに地上に善のイデオロギーを実現していく真の人物が出てこなかったからです。
したがって、神の計画は象徴的な計画でした。ですから、私たちはこの象徴的な神の計画を具体的に解く運命に置かれています。
創世以後、現在まで、地上において神が心を打ち明け、協議できる一人の人間も現れませんでした。また、イエス様が来られた後、今日に至るまで、自らのすべての信念を打ち明け、語ることのできる一人の人もいませんでした。
そして、イエス様の全体的な信念を形成できる具体的な環境が整っていなかったことも、皆さんがご存知の通りです。では、だれが歴史を代わって神とイエス様の対話相手になるべきなのでしょうか? それは全人類がイエス・キリストの対話相手となり、神の愛の対話相手となるべきです。この段階に達する前には、永遠の縁を歌うことのできる愛を通して親の縁を築くこともできず、夫婦の縁、国家的な縁も築くことができません。
今日の皆さんが本来の道を見つけ出そうとする際、この地上のすべての条件が皆さんに立ちはだかる時が来ます。終わりの時が近づくにつれて、皆さんが良いと思うだけでは十分ではありません。それはどうせ変わらなければなりません。そうでなければ審判の門を越えることはできません。また、永遠の親の縁、夫婦の縁、実践的な国家の縁を築くことができるのです。
終末の天の信念を求めて歩む人がいれば、その人の親が反対することが起こるでしょう。皆さんがその信念を見つけ出すと、皆さんの親が切り捨てる遊びが始まるでしょう。夫婦が切り捨てる遊びが起こり、国家と世界が切り捨てる遊びが起こるのです。
ですから皆さんは、イエス様が歩まれた道を歩んでいく必要があります。イエス様は親から、兄弟から、教会や国家・世界からも捨てられました。しかし、イエス様は牧者の心情で天眞の変わらない法と信念を抱き、帰られたため、その信念は生き残ったのです。そして、イエス様を中心にした勝利の環境が形成されてきたのです。
イエス様を追い出した人類ゆえに、掌握降臨復帰の原則に従い、イエス様を求める人々は親が反対する環境を経て行かなければならず、夫婦が反対する環境を経て行かなければならず、国家が反対する環境を経て行かなければなりません。その決意を持った皆さんがなるべく良い結果が期待されるでしょう。
また、変わらない天眞の親との縁と、本来の夫婦の縁を通して、イエス様のお話にある花嫁の縁によって、一体的な生活信念を築くと同時に、神を拝み、地に対して愛し、国に忠誠できる貢献者になるべきです。その後になって、イエス様の願いがかない、神の愛がようやく人間との関係を築くことができます。
回復の過程で生じる難局を乗り越えるために、過去には天使を通じて摂理を行い、その後、唯一の子を通じて摂理を行いました。今後は父を通じて支配される時がやってきます。ですからパウロは、キリストにある神の愛について語ったことがあります。イエス様の愛だけではだめで、また聖霊の愛だけでもだめです。イエス様と聖霊の愛を通して神の愛と縁を結ぶ基準まで進む必要があります。
それを達成するためには、地上のどんな愛の条件にも縛られてはいけません。また、地上のどんな栄光の座にとどまってもいけません。希望の一日が迫るこの時、私たちは父が審判する恐怖の一日が訪れることを感じなければなりません。
本来のその道を歩むために出発した私たちは、すべてを捨て去らなければなりません。最初に物質を捨て去り、次には親と子供、すなわち家庭を失わなければならず、そして国家と世界まで失う道を歩まなければなりません。
なぜなら、十字架の勝利の頂点を超えられるとき、イエス様は親も失い、親戚も失い、教会も失い、神が約束された宇宙支配の信念すらも失ってしまいましたが、ただ一つの中心だけが変わらないままであったからです。イエス様の中心とは、永遠に変わらない親と夫婦、家族、国、そして世界を構築するものでした。
同様に、皆さんも変わらない永遠の縁のために、一時的な地上の価値と縁を捨て去る覚悟を持つべきです。終末には、自分が良いと思うことによって審判される時がやってきます。皆さんは何を望まれますか? 学者になりたいですか? 間違えれば学位が首を絞めることもあるということです。また、権力を望まれますか? その権力が首を絞めることもあるということです。そして、恵まれた人々はその恵みによってつまずくことがあるということです。これが終末審判と呼ばれるものです。自分が良いと思っていた条件、自分が命じていたその唯一の条件が、皆さんを審判台に差し出すかもしれないということです。
皆さんは困難な状況、厳しい状況でも裏切らず最後まで残り、復活して第二の自分を生み出すことができるべきです。そうした人々だけが天国に行くことができると確信してください。ですから、イエス様は「だれでもわたしに従いたいなら、自分を捨て、自分の十字架を負ってわたしに従って来るべきである。」(マルコ8:34)とおっしゃったのです。
そして、イエス様は「わたしが世に平和をもたらしに来たと思うな。平和ではなく、剣をもたらしに来たのだ。」(マタイ10:34)ともおっしゃいました。今日、この時は終わりです。イエス様の言葉どおり、自分の家族が敵です。さらには自分の肉体、国家、社会など、回復されていないすべては敵です。
これほど厳しい状況に対して「父よ、こんな状況を誰が理解できるでしょうか?」と訴える心、天眞の心を持った人だけが真生命を得、勝利の復活を果たすことができるでしょう。イエス様はゲツセマネの庭での最後の審判の祈りで「父よ、もしこの杯をわたしから過ぎ去らせることができるならば、お願いいたします。しかしこれがわたしの願いでなく、あなたの望みであるならば、どうぞ。」(マタイ26:29)とお祈りになりました。
このような信仰が復活の条件となったことを理解し、天の原点に立って戦ったイエス様の心情を理解し、神とイスラエルの民族に結びついたその縁が、あなたを通して結びつけられ、その悲しみを解放できる人にならなければなりません。
このような状態になった後、天が誇りに思える個人になり、その後は天が誇りに思える夫婦、親、孝子となり、国や世界を構築できるようになったとき、その時には宗教は不要になります。信仰という名詞も必要ありませんし、救い主という名詞も必要ありません。ふたりではなく、一つの一体的な縁の中で、神はようやく人間に対して自らの栄光を示す新しい出発をすることになります。
そのような環境に入るためには、あなたはイエス様の後にただ従うべきです。つまり、イエス様の生活理念をそのまま継承し、変わらぬ復活の基準を確立しなければなりません。その基準は人間中心ではなく、天の原点を中心にしています。
だからこそ、天の原点となる親の立場、天の原点となる夫婦の立場、天の原点となる孝子の立場を経て、あなたは天の原点の法則を確立し、聖女の法則を確立し、忠臣の法則を確立しなければなりません。
歴史の中でどれだけの孝子、忠臣、聖女がいたでしょうか? しかし、神からの愛を受けることができる人だけが、サタンの世界に縛られたすべての条件を解き、本来の楽園に入ることができるのです。
そのようなあなたになるためには、どうすればよいでしょうか? 神の心情と一体にならなければなりません。神の意志と一体にならなければなりません。そしてその後、この地上のすべての人間と一体にならなければなりません。イエス様はこの地において一体になるために、一つの天の法を見つけて具体的に実践するために来られた方でした。それは神の意志を中心にし、すべての人間が一体となる使命を持って来られたイエス様でした。
今日、あなたたちはもはや一体とならなければなりません。天に認められる孝子・聖女となり、親を拝むためにはまず兄弟が一体とならなければなりません。そして家庭、国家、世界が一体になるようにしてサタンを見極めることができるあなたにならなければなりません。
そのような使命を果たすためには、あなたはこれから戦わなければなりません。サタンはあなたが復活の栄光の権限に入っても、あなたの後をついてきます。この追いかけるサタンをあなたは追い払わなければなりません。それにはどうすればよいでしょうか? 神を中心にして地上で主人公を見つけ、親を見つけ、夫婦を見つけ、子供を見つけ、天の理念を実践できる天国を築き、天の世界を築かなければなりません。
それまではサタンは常にあなたたちの後をついて回るでしょう。現在、あなたたちの信仰状態はどうですか? あなたたちは神とイエス・キリストの心情に通じる不変の理念の中にいます。しかし、これだけではすべてではありません。あなたたちは責任を持って実践しなければなりません。あなたたちは統一教会に入って、ある程度真理の基準を知っているでしょう。しかし、真理を知り、真理の解放権の中にいて、真理に従ったからといって、あなたが真理の実体になったでしょうか? すべてそうではありません。
イエス・キリストは復活の後、2000年以上にわたり霊的な領域で天の意志のために戦ってきました。同様に、あなたたちも天のために戦える環境を持ち、2000年間の歴史が苦しい歴史であったように、あなたたちも苦しみに打ち勝ち、新しい真理と一致した信仰を持たなければなりません。
神と私たちが結びついていること、父の変わらない心情を私たちは知っています。したがって、私たちは神に慰めを与え、見えないサタンに備えて立ち上がることができる天の兵士にならなければなりません。
6000年の人類の歴史は神の悲しい歴史です。したがって、あなたは死んでも変わらずに父の意志に従う覚悟を持たなければなりません。このような覚悟がなければ、あなたが統一教会に入ってもすぐにやめてしまうでしょう。2000年前にも多くの人々がイエス・キリストに従ってよいだろうと思ったが、イエス・キリストが十字架の道を進まれるのを見てすぐに逃げ出したことです。
神の創造の理念を持ち、変わらない心で生死の境地を行き来し、サタンの前でも変わらない心を中心に持っていたイエス・キリストと同様に、責任を持ち、失った愛と命の回復のために神と一体となり、サタンの前に立つ人がいれば、それは真の信仰を持った人です。
今、神の理念を実現するためには、ますます人間が一体にならなければなりません。悲しみや苦しみに直面しても失望せずに真の結びつきを回復し、原罪とサタンの歴史を払拭し、変わる環境を変わらない環境に開拓しながら、すべてが一体にならなければなりません。一体の中でサタンと対峙しなければなりません。
あなたたちは天の新しい理念を広めることができる天の家族になりましたか? 家族の一員であれば、まず親を拝む必要があり、親の認めを受けなければなりません。親を受けた後、兄弟たちが楽しむことができるのです。そして、その家族が楽しむことができる環境も整っています。
そして、私の一身の喜びが親と隣人の喜びであり、国や世界、神の喜びであるようにしなければなりません。そして、すべての人類を親兄弟と同様に扱い、生活することで天の意志が実現されたと言えるでしょう。
それには、イエス・キリストの教えに従う必要があります。「私は道であり、真理であり、命である」と説いてくださった、命と真理と愛の道をみんなで歩むべきです。究極的には、イエスが十字架を背負いながらも変わらない心でいたように、変わらない心を持ち、すべての困難や苦難を乗り越えて、父の前に立たなければなりません。
その先に、父があなたたちをサタンの前で誇示できるようになり、本来の世界に戻ることができます。そうすることで、神に対して本来の親子の結びつきを感じ、人間同士やすべてのものに対する本来の結びつきと愛を理解できるでしょう。




<祈祷>
 家庭でも国家でも、そのイデオロギー的な努力から自らが楽しむことのできる結びつきを見つけようとしている自分たちに気づかせてください。ここに集まった息子娘たちに対して、この時間に気づかせてください。
自分の体の結びつきを解消しなければならない使命が残されているし、心の結びつきを解消しなければならない使命が残されています。そして、今まで自分たちは地上の結びつきによって体と心が動いてきたことを知るとき、父よ、今、私たち自身が再創造の源となって爆発していけるように、天の力と愛と生命を許可してください。
こうしてすべての敵の讒言と死の条件を克服し、父の愛と一体となり、永遠の真理の実体となり、宇宙の前で誇示できる位置に立てるよう、切にお願いいたします。
父よ!ここに集まった息子娘たち、どうぞ変わらない心で永遠の栄光の中で、父と共に住むことができる息子娘・孝子・孝女・良女・忠臣たちになれるよう導いてください。
このすべての祈りを主の御名によってお祈り致しました。アーメン。

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御言葉選集3(2)

2024年01月20日 17時21分09秒 | 学習
文鮮明先生の語録選集 3 - 2. 耐え忍ぶ者となろう (1957年9月15日)

1957年9月15日(日)、前本部教会。

聖書拝読:ローマ書 8:12-30

<祈り>
 お父様! 一週間にわたり、御許しいただいた恵みを抱え、悪の中で戦い抜いて、この日再びお父様の前に集まりました。もし私たちに不足があるとしても、お許しください。
私たちはお父様に差し上げるものを持ってきませんでした。お父様の心配事の対象として臨んできましたが、慈悲深いお父様、力強いお父様、愛に満ちたお父様、私たちを今の私たちとして残さないでください。
私たちをお預かりいただかなければなりません。何百万ものサタンたちが私たちを包囲し、私たちの命をねらっていますので、お父様、私たちを守ってください。
今日、私たちの個々がお父様の深い愛の中で浸り、お父様の栄光を心から歌うことができるように許してください。そして、ここにひれ伏して礼拝できるこの一時間をお許しいただきたいと願っています、お父様、切に望んでおります。
一週間を過ごす中で、お許しいただけなかった行動が生活の中に残っていることを知っています。お父様の意向にそぐわない要素が多くあるでしょう。慈悲深いお父様、力強いお父様、勝利の権威を持って現れ、再創造の手を再び許してください。切に望んでおります。

 お父様! この日は聖なる日ですので、三千万の国民を代表して集まる多くの教団の上に祝福を注いでください。また、お父様の意志を成し遂げるために、秘められた祭壇を築いている孤独な息子娘たちが、この時もお父様の前にひれ伏していることを知っています。彼らの上にも均一な恵みをもって歴史してください。最後の約束された最後の恵みを彼らの前に許してください。
そして、最後の勝利の祭壇を築くことができ、あなたの栄光を三千里の半島に立てることができるように、お父様、切に望んでおります。
今、この場に集まったあなたたち、お父様の前に全てを委ねます。聖なる供え物として受け取ってください。一つの命でもお父様の御心から外れないように導いてください。たとえサタンの攻撃に遭っても、堂々とお父様を「私のお父様」と呼べる真の子女となることを許してください。切に願っています。
この日も地方に散らばって困難な戦いを繰り広げている孤独な子女たちがいます。集まる場所ごとにお父様の再創造の力を発揮し、お父様の子女であることを証明できるように許してください。愛するお父様、切に願い求めます。
今、お父様の前に捧げるこの一時間の内容を、全てお預かりいただき、ご主観してください。切にお願いし、いつでも、すべての言葉を主の御名において祈りました。アーメン。


<御言葉>
 皆さんにお伝えしたいメッセージのタイトルは『耐え忍び父の子女となろう』です。このタイトルで少しの間お話し致します。
万物を創造された神様は、腐敗したこの世界を捨てられず、今もなおサタンとの激しい戦いを繰り広げ、一人でその責任を果たしてこられたことを皆さんはよくご存じでしょう。
この神様が望まれる究極の目的は何でしょうか?何を求められているのでしょうか?数々の悲劇的な歴史を経ながらも人類を捨てずに引き上げてくださる内容は何でしょうか?それは神様が人間に対して「あなたは私の親しい子供である」と言えるようになることです。この理想を実現するために、神様は今まで戦い抜いてこられました。
神様の楽園で、神様の栄光の中で神様の愛を中心にし、すべてが調和する中で、万物の主として神様の前で「私の父よ、栄光がありますように」と言えたアダムが、堕落によってその価値を失いました。ですから皆さんは、今呼んでいるその父様が悪の立場から呼ばれるそのような父様ではないことを知る必要があります。ですから私たちは悪の世界から離れ、善の理想の楽園に入らなければなりません。その理想の楽園は、人間が神様の栄光を示せると同時に、喜びに満たされて生きることができる世界です。
言い換えれば、人が善であれば万物も善であり、人が正しいことをすれば万物も正しいことをするようになり、人と万物が善であり正しいことを決定する中で、創造主である神様もまたその中で善であり正しいことを決定できる世界です。それだけでなく、相対的な神様と人との関係を超え、一体となることのできる理想の楽園なのです。
神は人間たちがこのように神と一体となることを望まれ、一体となり驚くべき愛を中心にして喜びに満たされるその光景を描きながら、そのような世界を創造されました。しかし、人間たちは堕落によってこれが彼ら自身の仇となり、同時に天巡の仇ともなり、堕落以降今日までその仇に仇を重ねている悲しい歴史を繰り広げてきたことを、今日私たちはよく知っています。
では、神様が今日この地に向かって統治し最大の希望は何でしょうか?それは堕落の親を持つ人類を再び神の側に立て、私はあなたたちの永遠の父であり、あなたたちは私の永遠の子女と呼ぶことです。その日を迎えることが、堕落した人類の歴史的な望みであり、天巡に立ち向かう敵対的な望みであることを、皆さんは認識する必要があるでしょう。
今日、自分自身を反省し、天巡の前に立ち振り返ってみると、これまで神の愛を中心にして動かれた出来事がなかったことを感じるでしょう。また、父の前で真の子女として「父よ!」と言えなければならず、天の支配を受ける信仰生活を送るべきであったにもかかわらず、自分はそうできなかったことを感じるでしょう。今、私たちはいつか、一瞬、神を中心にして「私の父よ!」と呼ぶことで自分を変え、父の心を喚起し、愛を中心にして神と新たな親子の関係を築く立場に進まなければなりません。
これを人間にとって感じさせ、人間と神との親子の関係を築くために尽力されている父であることを、皆さんは心から感じるべきです。残っている私たちの最後の希望、すなわち神の恩寵の中で私たちが立てられる基準は何であるかについて、私たちがどれだけ実践してきたかにかかっています。私たちの生活圏でどれだけ実践したかによって、自分たちの価値を見出すことができるのです。
そして、神がこの地に対して嘆かれているのは何故でしょうか?神がこの地に対して嘆かれるのは何故でしょうか?神はサタンのために嘆かれるのではありません。悪が嫌いだから嘆かれ、罪人が多いから嘆かれるだけではありません。真の神の嘆きとため息は、神がまだ人間たちに「私の愛する子供たちよ」と言えないこと、その子供たちから「私の父よ!」と呼ばれる言葉を聞けないことにあるのです。歓迎される環境を持てないことが神の真の嘆きであることを、皆さんは理解する必要があります。
今日、私たちは神を「お父様」と呼んでいます。しかし、私たちが呼ぶ「お父様」には様々なものがあります。真のお父様もあり、偽りのお父様もあるのです。その理由は、人間が堕落したからです。
人間が呼ぶべき本来の真のお父様は、永遠の命の主であり、理念の中心であり、人間のすべての幸福の中心です。したがって、私たちは心に侵入する悪を断ち切り、心置きなくお父様と呼び、お父様の御心を行うことができれば、別に天国が必要ないことが分かります。
しかし、人間が堕落した結果、これを失ってしまったのです。ですから堕落した人間は、結局は本来の真のお父様を求めて歩む宿命の道に置かれているのです。
では、今あなたがどのような価値ある内容で「お父様」と呼んでいるかを考える必要があります。そして、私が呼んでいるお父様はどのような方かも知る必要があります。
私たちが真のお父様と呼ぶその方は、6000年間休まずに戦い抜き、史上の苦難に耐えながら今日の私の一人一人を見つけるために努力されてきたお父様です。そして、地上に住むどの人間も感じることのできない最大の悲しみと悲しみを感じているお父様であることを、皆さんは認識する必要があります。あなたがこれをどれだけ実感するかが何よりも重要であることを知る必要があります。
心から湧き上がる「お父様」と呼ぶ人がいるなら、彼は神の悲しみと苦しみを感じるでしょう。また、神の無力さがその人に伝わるでしょう。ですから神と人間の間で感情が交流し、天巡の大理念を達成するために、自らの一歩を越えなければならないときに、初めて神と私たちは生命を中心にし、永遠の結びつきを築くことができるのです。あなたはこのような段階を経験しなければなりません。
現在のあなたは神と完全な関係を築いていないことを感じるでしょう。しかし、神とあなたとは感情的に、そして事実的に永遠の結びつきが築かれています。そして、その結びつきから逃れることは不可能です。ですからあなたはこれを感じながら、真の子女の立場から「お父様よ!」と言える一時間を希望して進んでいかなければなりません。
繰り返しになりますが、人間が真の子女の立場から「お父様」と呼ぶことが人類の希望であり、すべての創造物の願いであり、神の願いであることを、私たちは肝に銘じ、この地上で神の真の子女として帰還の運命を修正していかなければなりません。ここで私たちがただ一つ願うことがあるとすれば、真の愛を中心にして神との結びつきを回復することです。
皆さんは、神の心を痛め、悲しみがこの地上に広がり、神の悲しみが溢れ出していることを感じ、父の立場から帰還の祭壇を築かなければなりません。そして、神の子供として立ち返る皆さんにとって、どのようにして帰還の道を歩むべきか? 父を愛し、父の悲しい状況を父自身の代わりに気にかけ、真心で感情が交わる中で、「私の父」と呼べるよう努力するべきです。
人々が呼ぶ「父」には「他人の父」もいれば、「義理の父」もいて、「真の父」もいます。しかし、今日の信者の中には神を「父」と呼びながらも、その父が「真の父」でなく、むしろ「他人の父」や「義理の父」の立場にいることがよくあります。
これは神の望みではありません。神にとっての人間への望みは、すべての回帰の条件を超えて神を「真の父」と呼べる日を実現することです。神はこれを6000年もの間望んでいます。ですから皆さんは、神がこの地上に対して苦労されていることを理解し、その苦労を乗り越えて戦ってこられたことを知るべきです。今、私たちはそのような父を尊重し、永遠の父の前で自己中心的な生活をしていないかを振り返るべきです。
今日、他とは異なる苦難の道を選んだ皆さん! 6000年の天の苦労の末に見つかった皆さん! 皆さんは真の父の遺産を受け継ぎ、いつでもサタンに対抗できる天の代理者となりたいという心を持たなければなりません。そしてそのためには、自分を真の父の前に全うに差し出し、新しい使命を引き継ぐと宣言できなければなりません。そして皆さんはいつでも父の歩みが心に浮かび上がり、父の苦悩と憂慮を全うに負担できるようにならなければなりません。それによって神の怨みは何でしょうか? 今日のキリスト教では神が栄光の中にいると考えられていますが、それは真実ではありません。
人間が信じず、受け入れなければ神の意志は実現しません。ですから神は今もなお、人間たちが全うすることを切に願っており、それゆえに皆さんは地上で天の法を立て、栄光の天国を築き、神の永遠の善の理念をこの宇宙に実現させなければなりません。
神はお一人ではどんなに意志を遂行しようともできないということです。また、サタンも善の立場に立つことはできません。人間が救済してくれない限り、永遠に悪の立場にとどまらざるを得ません。しかし、人間にはそうでない可能性があります。神の前で栄光ある姿で立つこともできれば、サタンの側に立って天を敵対することもできるのです。
したがって、神やサタンよりも人間の方がもっとも怖ろしい存在であると言えます。人間でなければ神の意志は実現しませんし、また人間でなければサタンの策略も空しくなります。意志の達成や罪の成立は神やサタンに依存しているのではなく、人間にかかっていることを皆さんは理解するべきです。
神はこのような人間を見て、天の法と善の理想の世界に対する神の理念を信じ、それを実現しなければならない人間がどのように振る舞うかを見守り、悲しまれていたのです。ここに神の悲しみと苦悩が備わっていることを皆さんは知るべきです。
私たちが望むことは、ただ真の子として神を父と呼ぶことです。実際、そうした人が三千万人の国に一人いれば、この国には未来が拓けるでしょう。その人を中心に宇宙的な歴史が展開されます。なぜなら、哀れな国を代表し、宇宙を代表して真の父と呼べる存在がいるならば、神の意志を引き出すことができるからです。今日、私たちはこれを知る必要があります。知ると同時に信じなければなりません。
私たちはこれまで異なる道を歩み、多くの困難に直面してきました。 十字架の道も歩みました。 天使たちが皆さんの進む道を心配していたこともあったでしょう。 しかし、それが問題ではありません。 問題は私たちの困難や状況を心配してくれた父の前でどのように立つかです。
私の悲しみが問題ではありません。悲しみや苦痛、十字架が問題でないことです。最大の勝利の場が整備された場所、人間の理念と天の理念が結びついた場所に立つとき、これまでの難しい状況を慰めることができる真の自分になれたかどうかが問題です。
それでは今日、私たちはどのような立場にいて神を真の父と呼べるのでしょうか?真の父と真の子は血縁的な関係を持っていなければなりません。引き裂いても引き裂けない、自然に結びつく、血と肉によるつながりがあります。このような立場から見れば、神と私たちとは血縁的なつながりがあることがわかります。ですので私たちは神を真の父と呼ぶことができるのです。
人間は堕落しました。人間が責任を果たし、永遠の善、天の愛を中心にし、神の直系の子供になることができたら、どんな誰が侵入して堕落させることができたでしょうか? 人間はこのような希望を抱いた実体だったということを皆さんは理解するべきです。
それでは、今日、皆さんはどのような場所に滞在していますか? 皆さんは神との直系の関係を持ちつつ、サタンの支配圏に滞在しているのです。神が許可された直系の子供の縁を持ちながら、またサタンとも堕落の縁を持っているのです。
このような人間を救済するためにこの地に来られる方はどのような方でしょうか? その方は人間を代表する立場におられるだけでなく、神と永遠に断ち切れない縁を結びつけて現れる主人公なのです。このような縁と使命を持ってこの地に臨まれた方が、それがイエス・キリストであるというわけです。ですから、イエス様は福音を宣べ伝えながら、「私は神の子である」と言われたのです。
また、神と一体を成すと述べられました。これは驚くべき言葉です。普通の人々からは見出せない言葉です。したがって、神とイエス様は血縁的な縁を結びつけ、愛を中心にした関係であったため、新たな変革の歴史を起こすためには避けられない存在でした。この点でイエス様の血と肉は父のものであり、すべては父のものであったと言えるのです。このように神とイエス様とは切り離せない縁が結ばれていたのです。
では、なぜイエス様はこのような方である必要があったのでしょうか? 堕落した人間たちは罪悪の縁を受け継ぎ、生まれながらにして父の血肉を代わりに塗りつけることができる方が必要だったからです。この必然的な計画により、イエス様はこの地に来られるべきだったのです。
しかし、派遣を受けたイエス様がこの地に来られても、誰もイエス様を信じてくれませんでした。こうしてイエス様は結局、十字架を背負うことになりました。その前日に弟子たちと最後の晩餐を共にされながら、「あなたたちは私の血と肉を食べなければならない」と言われたのです。
これは何を意味しているのでしょうか。人間の心と体、血と肉は神が決定するように共に生き、共に定めなければなりません。すなわち、神との一体化を成し遂げ、血縁的な縁を結ばなければならないが、その仲介者としてイエス様を通じてその使命を果たすことが語られています。このようなことが皆さんの生活圏内で実現されない場合、サタンは確実に皆さんを訴えるでしょう。人間は神と一体化し、イエスが来られたことを信じ、友人の立場からイエスを迎えることができなければなりませんが、問題は皆さんにかかっています。
イエス様が持たれていた血と肉、骨、体と心は、皆さんも同じように持っています。これはイエス様と人間が一体化する根拠となるものです。したがって、イエス様が神と一体化したように、皆さんも体と心が神と一つになり、共に生き、共に定めなければならないのです。実際にそうなるなら、これは誰が奪い去ることができるものではないでしょう。
次に、私たちは神を真の父と呼ぶことができる真の息女とならなければなりません。そして、神が私たちに真の息女と呼べる言葉と、私たちと共に生きる言葉を持っていなければなりません。つまり、神と私たちは真の親子のつながりを持たなければならないということです。血統的に神の子どもとなると同時に、神の言葉を保持しなければならないということです。
イエス様がこの邪悪な世界に来て叫ばれた言葉は地上の言葉ではありませんでした。イエス様の言葉はこれまでになかった真実の言葉であり、地上にあったものとはまったく異なる新しいイデオロギーであり、革新的な事実を提示する言葉でした。
それでは今、私たちは神を真の父と呼ぶ存在として、神が持っている言葉を私たちも話せるようにならなければなりません。神の言葉は行われる場所ごとに善の業績が起こり、復活の歴史・再創造の歴史が生まれるような言葉です。したがって、私たちは悪を清算し、復活の歴史を起こし、再創造の力を行使できる言葉を持つ人々にならなければなりません。このような言葉を持つ人々が集まって生活する場所が天国です。
今日、あなたが書いている言葉はあなた自身から出た言葉か、あなたが信仰する主が書いている言葉かを考えるべきです。また、あなたは主の言葉を誇れる環境を持っているかも考えるべきです。
イエス様の言葉は天にも通じ、地にも通じ、すべての創造物に通じない言葉はありません。同様に、私たちも父と呼ばれるようになったとき、父が聞くことができる言葉、父の意志を代わりにできる言葉を持つ人にならなければなりません。
今日この地にはさまざまな種類の言葉があります。言葉らしい言葉もありますし、言葉らしくない言葉もあり、言葉もあります。今度は人間が求めるべき最後の言葉、天倫の言葉と縁を結んだ私たちも、すべての被造物と一体になれる言葉を持たなければなりません。そうでなければ、すべてを支配しようとしても支配できないことです。
腐敗は私たちが知るべき言葉を失くしたこととも言えます。だから私たちは持っているべき言葉がどこにあるかを見つけなければなりません。歴史の進行を通じて、多くの人類はこの言葉を回復するために苦労してきました。人類を通じて可能であると同時に天倫を代弁できるその言葉を私たちは持たなければなりません。こうした事実を生活領域で感じるあなたがならなければならないです。
次に、父の生活を代わりにできる真の息女にならなければなりません。あなたの命は現段階の環境で始まり、終わらなければならない命ではありません。これまでの生命体は歴史的な腐敗の因縁を脱することができず、社会的な環境と縁を切り離すことができていませんが、実際には宇宙の奇恩を代わりにでき、過去のイデオロギーを代わりにでき、未来のイデオロギーを証明できる立場にあるということをあなたは知らなければなりません。
皆さんは神を代わりにする生活をしなければなりません。神を代わりにして栄光と幸福と喜びを享受し、神様と共に生きる日々とならなければなりません。最愛のイエス・キリストが死なれるまでに探し求められたすべての人々を代表する先祖の遺産を継承し、お父様が悲しまれながらも訪れてくださった心情を感じる皆さんであるべきです。これによって、地球とサタンの前で神の子女として証明されるでしょう。
神の真の子女として生きようとしても、この邪悪な世界は皆さんを全力で誘惑しようとします。これは複雑な6000年の回帰の歴史を見ればわかります。しかし、人間の心を通じて終末時代に動いてきた回帰史料史であっても、皆さんは最終的に神と共に生きる生活理念を確立しなければなりません。
その過程に参加した人、つまり今までに神が現れた事実を知っている人がいるとすれば、彼は神が成し遂げようとする意志を知ることができるということです。そして、過去に創造の時に世話をされた神の心情、もっと深く掘り下げれば一つの草一本を作られた心情すら感じることができます。そのような心情にぶつかると、神が万物に対して抱かれる心情を知ることができます。そして、人間に対して抱かれる心情まで感じることができるのです。
その心情を感じた後、またどのような人にならなければならないでしょうか?神を代わりにして地上の人々を心配し、彼らのために泣いてあげることができる、悲しみを共有できる人になり、また人間が数々の歴史の過程で苦しんできたことに同情できる人にならなければなりません。
そして、神の意志、神の回帰史を負ってきた多くの先達の生涯の表面を皆さんが地上で一瞬でも感じて同情できる人にならなければなりません。また、昔のアダムとエバが堕落したときに感じた神の悲しみを感じなければなりません。アダムとエバを失って悲しまれたことと、天と地を失って悲しまれた神様の心情を感じる人にならなければなりません。
歴史の過程で回帰の意志を受け入れ、イエス様の贖罪を成就しようとした人がいれば、神はその人を中心にして意志を更に活発に実現させ、彼の悲しみを共有し感じた多くの人が彼と共に努力してきました。
アダム以降、ノアは120年間この地で神の意志を受け入れていきました。120年間、神の思想を地上に表現した生活は、今日、神様のお父様の心情に私たちを結びつけ、お父様の子であることを実証し、私たちを中心にした生活環境と結びつけてくれる基盤を築いた生活であり、同時に神と通じる思想を表現した生活でした。
この段階に入ると、皆さんはアダムの立場について理解でき、神に対して優れた心情を抱くことになります。また、ノアおじいさんが120年間、信じない世界の人々に対して心情を抱きながら出てきた心、自分だけが知っている心情を無知な民の前に表現するために心情を傾けていた心情を感じることができるでしょう。
皆さんはノアの心情からアブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、イエス様、そして今日まで努力してきた回帰の主要人物たちの心情を理解し、彼らのために泣きながら涙を流すことができなければなりません。自分が歴史的な内容を持った思想を否定せず、天倫の歴史を裏切らないなら、生活を通してこのような歴史的な悲しみを感じることになるでしょう。
今日ここに集まった皆さんは、歴史的な道を歩んできた数多くの先達たちが神の生活の理念を実践するために出てきながら持っていた同情心を引き継ぐべきです。そして、皆さんは死んでもすべての困難に立ち向かい、全ての人々の心情に共感しながら結束し、歴史の意義を代わりにし、お父様の前に進むべき道を一致させなければなりません。
回帰の宿命が歴史的な悲しみの宿命であると知っている以上、皆さんは悲しみに満ちた生活を送らなければなりません。皆さんが神と結びつくために神の一つの意志に向けて涙したことが、天と地が通じる道であることを理解しなければなりません。それでは、今、皆さんは自分自身を立てて、「ああ、神よ、私はどの立場にいますか?」と問いかけ、自分自身を反省しなければなりません。
昔の先祖たちが歴史的な神の摂理を実現する生活を共感しながら通り抜けたとき、ノアの心情を理解できるようになり、またアブラハム、イサク、ヤコブ、そしてモーセなど、数多くの先達たちの心情を理解できるようになります。皆さんはこのように、天に向かって、全ての人々を代表して流した涙の伝統を残さなければなりません。そうしたものを持っている人は、地獄に行くとしても行くことができなくなります。
したがって、今日のキリスト教徒の中には、過去の歴史の過程に来て、天倫の意志を完全に実現できずに行った人類を代わって涙を流せる子供たちがいなければなりません。そのような子供たちに天倫の意志を託すことができるのです。また、現代の人類を代わって悲しい気持ちを持ち、未来を心配して全ての人々を代わって涙を流せる子供たちがいなければなりません。
神はそのような状況を通して、現在そのような立場にあり、将来もそのような状況に陥るであろう子供たちを探しておられるということです。神とは正反対の生活をしている群衆に対して涙を流し、歴史に対して涙を流せる人が今日の終わりに新しい再創造の歴史を示す主人公となるべきだということです。
神の計画を抱きしめ、涙を流し、新しい思想に繋がり、涙を流す夫婦がいれば、その家庭は最高の家庭となります。また、神を抱きしめ、涙を流す国民がいれば、その国民は新しい思想の中心民族となります。その民族を通じて宇宙的な神の全体的な愛と真理が紹介されることでしょう。
過去と現在と未来を代わりに父を抱きしめ、「私の父よ、悲しみを託してください」と訴えることができる集まりや団体、またはどんな社会や国家があれば、周りにどれだけ強力な文化があっても、その文化領域はこのような国が団体を踏み越えて進むことができないということです。
私たちが目指して戦っていかなければならないのは、より良い歴史と現実、未来を築くことです。そして、神の生活の理念に閉じ込められる日を回帰して、天国が喜べる生活環境を提供しなければなりません。こうなったとき、人間とすべてのものを創造された父、歴史的な父、現在と未来を統制される父が皆さんを責任持ってくださるでしょう。
次に私たちは何を持っているべきでしょうか?どのようなイデオロギーを持つべきでしょうか?神のイデオロギーを持つべきです。私たちは個人であるが、世界と宇宙的な視点から見れば、宇宙とも通じ、神の全体的な天倫のイデオロギーとも通じる位置に立たなければなりません。そのようなイデオロギーに浸り、そのイデオロギーに導かれて戦っていくとき、何百万もの敵に立ち向かって戦っていける位置に堂々と立てるようになります。
今日の終わりにおいて知っておくべきことは、私たちがこれまで生きてきたこの地が天倫のイデオロギーを代わりにできる土地ではないということです。しかし、私たちは悪から始まったこの歴史を悪で終わらせることはできません。そして、悪の歴史を経ている現在、私たちは天倫を抱きしめ、そのまま座り続けることはできません。私たちは必ず後代の人々のために新しいイデオロギーを提示しなければなりません。
では、イエス・キリストの味方である善の歴史は何でしょうか?それは歴史的に経過した神の歴史であり、天倫の意志のために歩んできた歴史です。このような現実の出来事には全体の歴史が詰まっているため、私たちはそれを通じて過去の歴史を学び、現実を超越して未来の希望的なものを感じながらイデオロギーを備えていかなければなりません。
今日私たちがそのイデオロギーの中に立つと、そのイデオロギーによってすべてと通じるようになります。したがって、私たちはそのイデオロギーを使って現実生活を十分に分析し、その価値を現実の生活のイデオロギーと結びつけて、全体のイデオロギーと関係を築く基準を持たなければなりません。そのような基準がない限り、神の真の子や娘にはなれません。
イエス・キリストが来てから今日まで、神の摂理は完全に結びつけられていないままです。聖書を通じて提示されたイデオロギーは人々が実践していないことを意味します。だからこそ神はすべてを整えるために黙って6000年もの間準備してきたのです。哀れな世界と哀れな人々を見ながら泣かれるかもしれませんが、その日には広く顔を覆い、去っていく人々を非難されないで耐え忍ばれたのです。神はなぜ今日まで耐え忍ばれてきたのでしょうか?神は一度全体的な勝利の基準を立て、そのために戦ってきたからです。しかし、長い間忍ばれてきた神の怒りは、天倫的なイデオロギー、宇宙的なイデオロギー、人間的なイデオロギーが一つとなる日が来たときに現れます。これが裁判の日です。過程では愛を示されますが、最後には審判されます。神はこのような関係を残し、これまでの歴史を進んできたのです。
ノアの審判の時と同様に、終末の私たちにとって知っておくべきことは、そのイデオロギーを代表できる自分になる必要があるということです。そして、天敵的なイデオロギー、人道的なもの、言葉を伝えること、天国の宗教を広めること、天国の生活を広めること、そして一つの信念とイデオロギーを広めることができる預言者の使命を自分で果たさなければなりません。これが宇宙的なイデオロギーを通じて神の子女が持つべきイデオロギーであるということです。そのイデオロギーを持ってすべてを反省すると、視野が広がるでしょう。
この使命を担うようになると感じる悲しみは、宇宙的な悲しみであり、歴史的な悲しみであり、希望的な悲しみであることを知らなければなりません。自分だけのために悲しむことはなく、父を呼ぶべきではありません。神を代わりにして地上で多くの責任を一人で担い、戦っていく決意を持ち、神の苦悩を感じながら、必ずしも神の種族としての尊厳を確立し、また天敵的なイデオロギーを感じながら、天にふさわしい生活をしなければなりません。
したがって、神の子女であることを血統を通して示し、真理を通して神の子女であることを示し、生活を通して神の子女であることを示し、仕事を通して神の子女であることを示すこの一つの基準を見つけて確立しなければなりません。その基準を見つけて確立できない場合、教会に出て信仰生活をすることはただの使者であるということです。
まだ神に対して「父」と呼ぶことができる立場にない人は、神の愛の手が差し伸べられるようにする必要があります。その救済のプロセスを経ないで神を代わりにして全人類を代表できる真の子女として「父」と呼ぶことはできません。
宗教的な出来事や血統的な出来事など、地上の人道的な生活はすべて天倫によって達成されてきたので、あなたはこれらのイデオロギーを通してすべてを批判できる中核的な価値を自分の中で確立し、全人類の前でその価値を誇示できる日をもたなければなりません。これが起こるのを見た後に、神がこれまで戦ってきた歴史を終わらせることができるのです。
これまでの戦いは神とサタンとの戦いでしたが、これからは天を代わりにして地を中心にし、人々同士の戦いに引きずり込んで、その戦いを負担できる主人公が現れなければなりません。
そのような戦いの時に、我々は勝利の条件として何を確立できるでしょうか?我々が本来天に属しているか、地に属しているか、あるいは罪に属しているか、善に属しているかを知り、実際に敵対的な真理の生活をする必要があります。これが重要な勝利の条件となるのです。敵対的な生活、真理の生活を通じた人格を持っていれば、自分の仕事を宣告でき、敵対的な人格を持つ人々と和解できることです。
サタンも神が信じ、託すことのできる存在を立てた場合、それを拒否することはできません。神を礼拝する者は誰ですか?それは今日終末に立っている聖徒たちです。また、神を安息させる者は誰ですか?それは取るに足らない私たちです。
このように神の意志が私たちの両肩に、体と心にかかっていることを私たちは知っておかなければなりません。人類史上の中核的な条件を前に掲げ、私たちは驚異的な天と地の使命を受けているのです。あなたが地上の問題に苦しむ立場にあってもいけないのは、まだ自分のための緩い生活観を確立できる過程にあるということです。
私たちが地上で天国の法則を提示して勝利した後は、安息することができるでしょう。今日のあなたはこのプロセスに直面しているということです。これがどこで起こるか?それは先進国と呼ばれる先進国が持っている優越性よりも誰が神に近いかということです。
今日、私たちが知るべきことは、「私は神の民である」、「私は天の民である」、「私は天の子供である」という自覚を持つことで、これを持って生きると、必ずしも戦いの時節を経なければならないということです。この世界は邪悪な世界であり、悪の歴史を持つ社会であることの結果として、このような人々を歓迎しないということです。
ですから、ここでは水と火のように一体になることが難しいものを一体にするためには、憐れみ深い法則、すなわち敵対的な内容を持ち、真理を持ち、次に生活環境と人格を持ち、そしてイデオロギーを通して愛を持つことが必要です。これらの条件が宇宙の終わりにおいて、宇宙の審判を代わりにする条件です。
それでは今日、我々は責任を果たし、直接的な使命を達成した私たちになっていますか?神の審判を代わりにできる真理、生活観を通じた人格、神の意志を通じた愛を備え、宇宙に生命力を主張できる私たちですか?
エデンの園で万物の前に人を造り、「万物を統治せよ」という祝福の言葉は、まだ達成の一日を見ていません。私たちはその言葉の達成のために働かなければなりません。そうすればすべてが父に栄光をもたらすことになります。
ここから新しいイデオロギーによる新しい愛、新しい生活による新しい人格、そして新しい言葉と真理を持ち、また新しい血統による子供として出発することになります。
あなたが動くのを見ると、現在はあなた一人を歩かせ、希望のイデオロギーがあなたに入り込み、歴史的なイデオロギーがあなたに入り込み、現実のイデオロギーがあなたに入り込んでいるだけでなく、あなた一人を立て、天と地の上で直系の子供たちの栄光を証明できる日を前に置いていますが、あなたはこれを忘れてしまい、自分が置かれるべき立場を知らず、自分が滞在すべき環境、自分が戦っていくべき希望的な環境を見逃してしまうこともあります。
私たちが進むべき道は、どうやってもこの地上に神の全体的なイデオロギーを実現し、神が安息できる直系の栄光の基地を造りつつ、地上のすべての戦いを終わらせることです。そのためにはあなたは愛を持って戦わなければならないということです。
このようなイデオロギーを持つために動くあなたたちは宇宙を代わって愛を持たなければなりません。また実践的な生活観と実力を持たなければなりません。こうして愛と実力を備えた時、これまで天と対立してきたサタンが自然に屈服してくることになります。
今日、あなたたちは神の願いを持つ子どもが現れることを願っている神の意志を知る必要があります。そして神の力強い悲しみ、不当さ、怒りを先に感じ、これを解決していく力を尽くさなければなりません。こうして希望の一意志に向かって前進できる人になり、カナンの豊かさに向けて進むイスラエルの60万人の代わりに責任を持つ者にならなければなりません。
今日の人は平凡な生活環境、自由な生活環境が整っていないため戦っていますが、彼らは荒野に出て疑念を抱くカナンの7つの部族と戦わなければなりませんでした。あなたたちもこのような戦いの時節を経なければなりません。
さて、天は今日、あなた一人を見て、あなたが歴史的な犯罪者であるか、信仰的な変節者であるか、機会主義者であるか、あるいは歴史と現実と未来を責任を持っている実体となっているかを考えています。これらの条件をかけられ、あなたに対処しているということをあなたは知らなければなりません。
それでは今、どうするか?今日、あなたは天の前に捧げられる供物にならなければなりません。供物とは何か?割らなければならないものです。歴史的に見ても割ったものもあれば割らなかったものもありましたが、割らなかったものは供物にはなりませんでした。今後は国家的な供物もあれば世界的な供物もあるでしょう。
このような供物のイデオロギーを持ち出す人々は、自分の個人のために生きてはならず、社会のため、国のため、世界のために生きなければなりません。あなたは供物の場で敗北する人になってはなりません。そんな分裂する場所、戦いの場でも、「喜べ、ハレルヤ!主の栄光、6000年の神の怨みを解消できる栄光の一日が今日だ。アーメン。」と言えるべきです。
昔のヨシュアとカレブの立場を代わりに堂々と立たなければならず、選ばれた第一のイスラエルのように荒野に出て信仰の基準を失わずに、勝利する天の選民とならなければなりません。そしてこの意志の中で耐えてカナンの福を得て、天に立ち向かい再び責任を果たしたヨシュアとカレブの立場に立ち、勝利しなければなりません。そして勝利の立場から永遠に父を讃える真の子女とならなければなりません。


【祈祷】
 愛するお父様、あなたが呼ばれる時、「お父様、私は信じています。」「主よ、私はここにいます。見せてください。」と言える姿勢が、この地上に多く現れるように許してください。
この日を待ち望んでいるすべてのものがために嘆息しています。聖霊も嘆息しています。無数の聖徒たちも嘆息しています。そして今この時に、あなたの悲しみに心から泣いて、これに気づかせて、今日の私の哀れな姿を泣いてはいけない自分であり、世俗的なすべてを捨てなければならない自分であることを悟らせてください。
この思考力を通じて実現できる信念を受け取りましたので、これを実現できるように許してください。
天に通じ、宇宙に通じ、その価値に対抗できる天敵の子供の姿を備えて、天の摂理歴史的な喜びの日を私たちの前に実現してください。父よ、願い、望みます。
今日ここに参加した子供たち、これからあなた自身を父と呼べる真の子女になるように導してください。そして私のために戦わず、父のために戦ったと言えるように導してください。全体の価値を代わりにし、天敵の人格を持った天敵の人間の生活となり、天敵の愛に到達できる勝者の姿を備えて許してください。サタンに強く抵抗する子女になるように導してください。熱心にお願いいたします。
私たちの不足した状態で今、真の父を崇めることを望むので、今私たちがサタンの餌にならないように許してください。父に切望してお願いいたします。すべての言葉を主の御名によってお祈り致します。アーメン。

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御言葉選集3(1)

2024年01月13日 16時00分20秒 | 学習
文鮮明先生の御言葉集 3 - 1. 私達は何時お父様の前に立つべきか (1957年9月8日)

私達は何時お父様の前に立つべきか

1957年9月8日(日曜日)、前本教会(青坡洞1街)

聖書拝読:ヨハネによる福音書3:1-21



<祈り>
 慈悲深きお父様! 死のこの庭に命の光をもたらしてください。愛のお父様! この荒野のような場所に愛をもたらしてください。栄光のお父様! 乾いた魂に栄光の恩寵として現れてください。全能のお父様、亡くなった命を集めて、あなたの聖なる座にひざまずけるこの時を許してくださいと、切に願い求めます。


私達に眠っているこの民族を目覚めさせることを許してください。混沌の中で眠っているこの人類を目覚めさせる、息子娘たちが早く立ち上がれるようにしてください。そして、集まる息子娘たちが生命の旗を高く掲げ、民族を父の前に導く同時に、地上の人類を父の前に導く幸福の日が早く訪れるようにしてくださいと、お願いいたします、お父様、切に望みます。


今日、お父様のひざの前に立っている私達が、自分を省みて、性別を持ちながらもお父様の聖なる前に伏せる姿勢を自己観察できるように許してください。もし私達がお父様の御心にそぐわない罪があれば、お父様、生命の光で私達の心を照らし、自己咎めができるようにしてください。そして、聖霊の力によって私達の体を固め、罪から解放されるために復活の歴史を起こしてください。


各自がお父様の前に責任を持ち、お父様との繋がりを築き、お父様の永遠の遺産を受け継げるこの時間を許してください、お父様、切に望みます。


そして、お父様の心情に悩まれている全ての事情を、この時間に私達自身が体験できるように許してください。ここに集まった各自に内面的な使命を託してください、切にお願いいたします。


一週間を過ごす中で犯した不適切なことをすべて許してください。まだお父様が望まれていない心と体を持ち、お父様の前に伏せている場合は、お父様、炎のような目で私達を観察してください。尊厳あるお父様の前ですべてを告白できるこの時間を許してください。自己咎めてお父様の前で懺悔できるこの時間を許してください、切にお願いいたします。


この日も地方に散らばって孤独に、御言葉の旗を掲げて戦っている息子娘たちのために、統一的に働きかけ、多くの愛を持つ父の手が彼らの頭上に、彼らの身心に満ち満ちて現れ、暗い環境を切り開くための不足がないように導いてください。


これまで父様の導きによって宣言されたすべての生命の言葉が地上に落ちないように許してください。今、暗闇の中にいた息子娘たちが現れ、父の言葉によって復活の恩寵を受けることができるように許してください。これらの息子娘たちをこの国の生命の主として立て、喜びの恩寵の中で模範的な生活ができるように許してください、切に願い求めます。


地方に散らばり、孤独な祭壇を築いている息子娘たちや父の名のもとに集まるすべての祭壇に一律の恩寵として働きかけてください、切にお願いいたします。そして、天の理念の中で一致して、一つの世界、一つの意志、一つの目的に向かって動く喜びの日が早く訪れるように許してください、切にお願いいたし、望みます。


今、初めから終わりまで全うに主宰してください、切にお願いいたします。主の名で祈ります。アーメン。




<御言葉>
 皆さんと共に考えようとする言葉の題は『いつ、私達は父の前に立つべきか』です。このようなタイトルで少しご説明いたします。


地上に住む人間たちは、いくら優れていたり、優れているように見えたりしても、それ自体が堕落の系譜を持ち、生まれながらにして原罪を抱えている存在です。つまり、罪を抱えているということです。


ですから、人間たちはこれまで罪の歴史を経てきましたし、この世界や宇宙で悪と対決し、知ることもあれば知らないこともある、というような戦いの喧嘩帳を経てきました。そして、私達が希望の一日を見据えようとすると、そこには無数の荒野の条件がその進路を妨げていることを皆さんは生活の中で、あるいは生涯の中で経験してきたことでしょう。


では、このような環境からどのようにして解放されることができるのかということが、これまでの歴史の過程を経て、良心的で善良な人々が望んできた指針であり、標準であったことを皆さんはよくご存じかと思います。


しかし、『今日の私』よりも『明日の私』がより善でありたいとするならば、絶対的に実在する神を私達の生活領域に引き入れなければなりません。つまり、その神を論理的な神や概念的な神としてだけでなく、生活の中で経験的な神として認識しなければならないということです。これは私達の信仰者にとって非常に重要な問題です。


人間は堕落したため、結局は堕落の運命を脱して進むべき道が残されています。これまで多くの預言者や賢者たちが、誠実さと忍耐と知恵をもって、この人間が進むべき道について努力してきましたが、その道は未だに進めずに宇宙的な運命の道として残っています。


また、人間が犯した罪によって生まれた壁は一つや二つではなく、どこまでも果てしなく道を遮っています。私達はこれを打ち破り、超えなければならない立場にあります。


こうした立場にいる人々が信仰の対象、つまり絶対的な神、絶対的な実在体の神を崇拝し、進んでいったものの、彼らはそれに関していくつか知らない事実があることに気づくようになりました。ですから皆さんは、曖昧に概念的に神の実在を認識してはなりません。しかし、論理的な面だけで神の実在を理解しようとすると難しいでしょう。なぜなら論理領域内にとどまる神ではないからです。論理的に神を理解しようとする信仰が私達の生涯を永遠の生命の実体に完成させることができるでしょうか、と問われたとき、ここには多くの問題があるということです。


それでは、このような環境で生きる今日の私達は、真にされた主様と父様の前に進むにはどうすればよいのでしょうか?私達が進みたいものは人間の歴史的な希望であり、同時に神の摂理の目標となっています。


そうした環境にいる私達が神に近づき、信仰の道を歩んでいくとき、私達が進む道を何が妨げるのでしょうか?まず第一に、自分でも知らぬうちに生じる疑念が前進を妨げるでしょう。また罪の試練が妨げ、予期せぬ死の力が道を妨げることでしょう。私達はこれらの疑念の山を乗り越えねばなりませんし、罪の山を乗り越えねばなりませんし、死の山を超えねばなりません。


そして各自が永遠の理想と関係を結び、その結ばれた関係が自分の生活を支配し、自分の生涯の目的を支配してくれることを望む欲望が人間たちは芽生えてきました。また、このような永遠の関係を結ぶ一つの基準を人間たちは知らず知らずに追い求めてきたのです。人間はこのようなプロセスを必ず経なければなりません。


そして皆さんは生活圏内で神の実在を理解できることを望み、神の実体と出会うことを崇めています。しかし、その神の実体を信仰の対象として立て、進んでいくとき、さまざまな疑念の出来事が多いでしょう。しかし、その疑念の条件にとらわれて進んではなりませんし、それを通過しなければなりません。そして皆さんは大きな死の影の下にいることを感じなければなりません。


それでは、これらを感じた後、どうすれば良いでしょうか?これらを心に抱えたままでは真の信仰の道を歩むことはできません。これらの問題を解決する手段がないということです。もし神が存在すると認めるならば、神に対して持っているすべての疑念を正直に打ち明ける信仰の対象者として立ち止まることができなければなりません。また、自分の犯したすべての罪による苦しみ、すなわち自分が自ら犯した遺伝的な罪まで含め、全てを神に正直に告白できなければなりません。


さらに、前進を妨げる運命と戦わねばならない状況にあっても、永遠の希望の世界に向けて一歩ずつ進まねばならず、永遠の命の理想を感じる約束の天国に入らねばならないにもかかわらず、まだ力のない死の支配の下にとどまっていることを克服しなければなりません。


では、もし皆さんが神様の父を求める心があるならば、皆さんは今まで抱えてきた疑念や罪、死についての内容をすべて放り出さなければなりません。皆さんがこれまで留まっていた場所、罪の歴史や堕落の環境には神様や善との関係を築くことはできません。皆さんが良くなる環境は、そうした環境でない新しい環境でなければなりません。


では、皆さんがこのような環境から抜け出すためにはどうすればよいでしょうか?皆さんは「私はこうした不足な姿ですので、お父様、お受けください」という切なる心情を持たなければなりません。そのような心情が皆さんの心に座れば、皆さんは永遠の命の世界に入ることができるようになります。


そして、皆さんが直面している周囲の環境から得た疑念を捨て去り、「お父様、わたしたちの体と心からこれを取り除いてください」と言えるようになり、罪に縛られている自分をお父様やどんな信仰の対象者にもそのまま託せる勇気を持たなければなりません。そうでなければ、そのような心情だけでも心の中心に据え、考えなければなりません。そうしないと、皆さんは信仰の道を歩むことができません。


神様が人間に対して訪れる時、どのような条件を提示されるかと言えば、信仰を提示されることです。ですから人間は信仰によって自分の全てを忘れ、疑念を抱かせる環境を打破し、信じられる環境を整えなければならず、罪の環境を整理し、善の環境を作り上げ、死の環境を打破し、命の環境を整えなければならないのです。


これらのことを終えた後、はじめて永遠なる神様の愛を中心にし、神様の無限の栄光を神様代わりに歌うことができ、神様の権威を自ら表現できるようになります。その瞬間を見据え、人間の心が動かされてきたことです。この事実を否定できる者は誰もいないでしょう。


今日、私達は滞在している罪の環境を無慈悲に清算しなければなりません。また、自分の全てを父の前に差し出すことができ、今まで築いてきた父との関係における疑念を全て明らかにし、今まで持っていたすべての罪の要素を排除し、今まで属していた死の支配から解放される信仰の基準を持たなければなりません。


それにはどうすればよいでしょうか?持っている疑念を解明できる方法を見つけなければなりません。生命に進むことができる方法を見つけなければなりません。もしもこのような道が人間の世界に存在しないならば、神様は訪れることができません。自分の過ちに気付き悔い改めることができるように、良心を刺激する存在が神様であるならば、その神様が望む最大の望み、命、そして人間性の基準を確立しなければなりません。そのような瞬間が訪れたら、歴史的な終末時代はいずれやってくるでしょう。


では、この宇宙的な運命の道を前に掲げ、皆さんはどれほど考えてきたでしょうか?実際、今日、皆さんは宇宙やこの社会、世界、さらには自分自身に対してすら疑念を抱く環境にあります。


これらの問題を解明できる中心的存在は誰でしょうか?それは神様です。また、人間が興味を持っているすべてを知る唯一の存在もまた、神様であり、それを解決してくださるのも神様だけです。


従って、皆さんは自分と関連するこのような宇宙的な疑念を一掃し、「神様よ、私は今宇宙に関するすべての疑念を持ち出しました。あなたと私の間に天巡的な縁があるとされるならば、私を捨てないでくれるあなたとして知っています。これらのすべての疑念を受け入れて解明してください。」と言って、神様に託してしまえる度胸も必要です。


このように疑念される問題を解決できない立場にいるとき、これを解決することは信仰の道理として知り、それを解決しようとして難しい戦いを繰り広げ、生きる人がいるならば、彼は一人で歩んでいるが結局は普通に歩いている信仰者以上の立場に出ることができるということです。


私達が善の道を妨げながら悪の道を開いてしまうこのようなサタンの戯れを打ち破り、個人的に勝利の目標に向けて開拓していこうとするとき、自分の疑念を全て信仰の主体者の前に正直に告白する必要があります。告白そのものも神聖な行為と言えるでしょうが、真実に自分がぶつかった宇宙的な意識の限界に対して挑戦できる誠実性を持ち、天に向かって「父よ!神よ!」と叫ぶとき、父もそれに応えるべき責任があるのです。


真実は神によって捨てられることはなく、真実は天地が崩れることがありません。ですから、あなたがたは自分たちの心に疑念の残るすべての事柄について、真実の心で、誠実で献身的な心を持ち、神に訴える覚悟をもって取り組むべきです。


この疑問が解消されない限り、私達は罪の道を立て直す手段を持っていません。どれだけ大きな恩寵を受けていても、疑問が完全に解消されていない限り、再び失敗する可能性があります。


堕落の起源を振り返ると、アダムとイブが堕落したのは疑念を抱いたからです。ですから、私達が回帰の過程にあるとき、何か疑問があればそれを解明しなければなりません。疑問が大きければ大きいほど、その心は大きく拘束されるものです。ですから、疑問を解明するために神に果敢に立ち向かう勇気と決意を持った人になるべきです。


長い歴史の中で、人々は人生観や宇宙観に関して多くの疑問を解決しようと努力してきました。しかし、まだその疑問は完全に解消されていません。今、その疑問を解消するために、その問題に正面から立ち向かって、天に誠実な姿勢で、存在する情熱を振り絞る人がこの地に現れる時が来るでしょう。そして、神はその人を立ててくださり、また彼の疑問を解決してくださるでしょう。


長い歴史を経て、このような 慘\ケ(天倫)の秘密を明らかにするために多くの賢者たちが出入りしました。しかし、人類が疑問に思ってきた全体的な内容は完全に解明されていませんでした。ですから、このような宇宙的な疑問を解消するためには、イエス様が来られる必要があり、解決されない人間の罪を解決するためにも、イエス様が来られる必要があり、死の問題を解決するためにもイエス様が来られる必要がありました。


人類のこのような疑問や死、罪を解決できる方はイエス様以外にいませんでした。そして、イエス様は4000年の歴史の中で、神のために真実な生活を過ごした方でした。彼は宇宙的な疑念を解明するために自己超越し、彼の個人的な栄光を超越して宇宙の栄光のために努力し、彼のすべてを無視して神のみ旨を達成するために無限に犠牲をしてくださったのです。


そのような一貫性のある心と生活のおかげで、イエス・キリストは歴史を代表して天の前に最高の先駆者として立てられました。そのため、イエス・キリストは歴史的な疑念の壁を打破して前進し、自分を信じなさいと堂々と叫ばれました。


「私を信じなさい」とイエス様が言われたこの一言がなぜ信仰の基準となりえたのか、また「私を信じなさい」という信仰の基準をイエス様がどのように設けたのか。これを完全に解明するには時間がかかることをご存知のイエス様が、それを簡略化して、いずれ自然に理解できる方法を紹介しようと言われたのです。


イエス様は地上の人間社会だけでなく、天の世界についてもご存知でした。ですから、イエス様は「私が地のことを語っても、あなたがたは信じないなら、ましてや天のことを語るとどうして信じるだろうか?」(ヨハネ3:12)と言われていました。人間の言葉では疑問の頂点を越えることはできません。必ず天の言葉を通して全ての疑問が解明されるべきです。


では、いつ天の言葉を聞くことができるのでしょうか?それは人類が訪れる最後の時、キリスト教が言う最後の審判の日です。神はその時を基準にして、すべての回帰の機会をもたらされました。しかし、すべての疑問や死、罪の条件や要素を取り除く新しい言葉がこの地に現れるとき、その言葉を受けることができる自分がいるかどうかが問題になります。


もしこのような言葉を受け入れたいと思うなら、あなたは天のためにイエス様が忠誠を尽くされたように、イエス様のためにも忠誠を尽くす者でなければなりません。また、尊い贈り物を受け取ろうとする時には、それを受け取ることのできる器として整っている必要があります。そして、将来的な全体的な疑問の解明の価値がある言葉が現れるとき、あなたはそれを受けることのできる自分たちがいなければならないことを理解する必要があります。


それでは、何によってその言葉を受け取ることができるでしょうか?それはまさにあなたの真心と忠誠です。イエス様が4000年の歴史を代表して天に対して忠誠していたように、あなたも6000年の歴史を代わって天とイエスの前に忠誠しなければなりません。これらのことができなければ、全体的な解明のある時代に断じて立ち向かうことができないでしょう。


では、このような解明の言葉はどのようなものでしょうか?これはあなたがまだ聞いたことのない新しい言葉として現れるでしょう。また、この言葉はどのようなものでしょうか?この言葉は個人の疑問を解明できるだけでなく、世界全体や宇宙に関する疑問を解明できる言葉として現れるでしょう。この言葉はまたどのような体系を備えたものでしょうか?これは一言で表現するのが難しいですが、おおよそ言ってしまえば、6000年間続いた疑問の歴史を解明できる具体的な内容を備えた言葉でしょう。実際には、今後の時代にはそのような具体的な内容を備えた言葉が現れるでしょう。


そして、将来現れるその言葉を私達個人に適用してみると、その言葉は私達の生活環境を支配できる言葉として現れ、またその言葉を通して永遠の世界を目指す絶対者の支配権と私達の生活は密接な関係を築くことができるようになります。その言葉はこれらの具体的な内容を備えていなければならないということです。ですから、私達が神と一体化したその言葉と一体になると、その一体になった場所にはどんな疑問や死、悪の侵入も許されないということです。


そして、その言葉は私達の信仰を完成させる絶対的な言葉でなければなりません。また、私達に絶対的な善を追求させる言葉であり、永遠の命を感じさせる言葉でなければなりません。


これまで人類が追求してきた真理の探求の歴史を振り返ると、最初に人類が追求した対象は宇宙でした。つまり、『この宇宙は何か』という問題を通じて人々は悩みました。その後、人間を中心に探求してきました。つまり、『人間とは何か』という問題に悩んできたのです。こうして人間は理性を中心にこれまで真理を探求してきましたが、人間のその理性は完全なものでしょうか?そうではありません。理性自体だけでは完全になり得ません。そしてその理性は人々を絶対的な価値を向上させることはできず、永遠の人間の生活理念にはなりえないものです。


そこで人間は絶対者、言い換えれば宗教的に言えば神を認めざるを得なくなりました。しかし、その神は人々が犯した罪の許しを求める人間的な神でした。超越的な神として個々の人間との関係を築く神にはなりませんでした。あくまで人間の思考に基づく神でした。しかし、このような神は完全な神信仰ではありませんでした。


この立場から一歩踏み出して正しい信仰の人々は絶対的な神を認めつつも、その神とどのような関わりを持っていないかということです。


論理的な立場に留まっているだけで、どうすれば飛躍的な神の存在を感じることができ、その神の存在が自分と実際に関わりを持つことができるのか、という問題を解決していないのです。


私達はこれを解決できる思想を持たなければなりません。そしてその思想は宇宙論を代わりにし、人間の理性の価値を代わりにし、人間の生命の価値を代わりにし、絶対者の思想、つまり神の思想にまで通じるものでなければなりません。そのような思想が私達と関わりを持たない限り、だめなのです。それはどんな人間の表現をもってしてもだめで、どんな人間の人格修養としてもだめなのです。


では、今日の私達が天巡の新しい思想権内に生まれた以上、私達は自分の生涯中に天主的な思想を見つけなければなりません。神の思想に通過されたイエス様であることを知らなければならず、最高の良心の基準と最高の善の基準に立つイエス様は神の全体的な性質を代わりにした方であるということを私達は自動的に信じ、理解できる段階まで進まなければならないのです。


なぜ私達はイエス様のようになっていないのでしょうか? それは私達が今何をしていても、私達の留まっている環境が何かを望む私達の心を抑圧する力として強く迫っているからです。人々はこの事実を忘れています。また、私の良心が最高の善、つまり絶対者の実在に向かっているとしても、そのような心は円滑に行動に移されていないのです。なぜなら、堕落の報いによってこの世界が罪悪の世界になったからです。


私達の本心、本性の力を抑え込んでいる私の心の力よりも強い闇の力が私達を抑え込んでいます。この闇の力をキリスト教ではサタンと呼んでいます。私達はこの闇の力を打破していく方法を考えずにはいられません。


闇の力と私達の体にある悪の要因は、私達に疑念を抱かせ、罪悪の行動を引き起こして私達を死の世界に引きずっています。私達はこれを阻止して押し戻す環境を持つべきです。こうした環境を築こうとする宗教がキリスト教なのです。


だからこそ、イエス様は自らが神を信じて進んだことと同じように私達に「私を信じなさい」と語られたのです。その「私」とはイエス様だけが達成した「私」でしたが、そのような個人を作り、人間の世界に拡張する運動を誰が行うのでしょうか?これは人間の力ではなりえないことで、神がなすべきことです。しかし、ここで人間の信仰が必要とされるのです。言い換えれば、イエス様が神を信じることによって、周囲の環境に広がる闇の力を生活の中で打破されたように、私達も神を信じて進む時、瞬時にサタンが私達の行動や動く場所に現れるかもしれませんが、最終的には天が現れてサタンを打ち破ってくださるのです。これが一つの基準を築くためにイエス様が信仰の条件を築いた理由です。


それでは、私達が信仰の条件を築くためにはどの基準まで信じなければならないのでしょうか?あなたが想像して信じることができる程度だけでなく、あなたの考えが及ぶ限りではなく、それ以上を信じてはいけないのです。


その基準は今日のこの世界で信じている基準ではないということです。大きくて高い神の存在を信じるのであれば、その大きくて高い神の価値に比べてみると、信仰の基準を築かなければなりません。


では、現在の人々はどの程度信じていると言えるでしょうか?その信仰の程度はイエス様が「私が地上のことを語っても、あなたがたは信じないので、まして天のことを語ればどうして信じるでしょうか」と言われたように非常に低いです。イエス様はこのように人々の信仰の程度について悲観的な言葉を述べています。では今日の信仰を持つ人々が絶対的な信仰の基準を築くことができるでしょうか、これが問題なのです。


今日までキリスト教は聖書の神を信じてきましたが、神自体も信仰があるというのが実情です。神自体も無限の創造のイデオロギーを持ち、そのイデオロギーを実現する信念があるのです。従って、私達は無限の信仰を追求し続けなければなりません。もし私達がそのような信仰を持てば、聖書にあるすべての言葉を信じることができるでしょう。


また、聖書にあるすべての言葉を信じることができるなら、イエス様がここに来て行われなかったであろう言葉まで考えることができます。従って、イエス様が言葉にできなかった部分を私達が見つけ出すことで、宇宙的な疑問の頭を越え、宇宙的な死や苦難、そして宇宙的な罪の歴史を経てきた先祖たちに慰めをもたらすことができます。


今は主を信じていますが、イエス様だけを信じているだけではだめです。私達はイエス様を信仰の条件を通じて永遠の命を賭け、イエス様との関係や縁を結ばなければなりません。そして、私達はイエス様と信仰の関係を結んだその土台の上で、神の実在を感じなければなりません。本当にイエス様を信じれば、これらのことを成し遂げることができるでしょう。


無限の信仰の冒険を追求する者には、無限の発展が可能です。今日の一般のキリスト教徒はこの事実を知らずにいます。無限の信仰のイデオロギーにとらわれて、天国が実現することを願う真の信者を天国は待っていることを知るべきです。


今、あなたは信仰のジャンルで生命の条件を通過することができなければならず、天の秘密を通してそれを達成することができなければならないため、そのような道を見つけて築かなければなりません。


それらを通過した後は、疑念の頭を越え、罪の頭を越え、死の頭を越え、悪を中心としたすべての欲望の頭も越えなければなりません。そして、それらの頭をすべて越えた後には、何をすべきでしょうか?その後には、私達は神を崇めなければなりません。信仰の主体であり、善の主体であり、命の主体である主を、私達の心に崇めることができなければなりません。これがイエス様が「私が父の中にあり、あなたがたが私の中にあり、それを知るであろう。」(ヨハネ14:20)と言われた言葉と同じ一体の境地です。


無限の希望を持った創造主である神を信じ、その神を自分の心に崇めており、安易に対処できるその姿がどれほど素晴らしいか。神は私達がそうなることを望んでいるという事実を知るべきです。霊的な真実は、何万冊もの本でさえも十分に記録できないほど多くの内容があるのです。


聖書に記録された言葉が人間が進むべき信仰のジャンル全体を含んでいるか、または全体の価値を回復できる内容を持っているかというと、私はそうではないと言いたいと思います。これを言うと非難されるかもしれませんが…


従って、信仰の条件としてイエス様を信じるように言ったのは、神が人々にイエス様を最大の価値を持つ方と信じさせるためであり、私達がイエス様を信じ、イエス様と関係を築いていくと、ますます直接的に神が私達の生活を導くことができ、神の導きを受けることで私達は神の価値と結びつくことができ、神と感情的な関係を築くことができます。このようにして神の真理も私達の生活の中で現れることができ、神の真理と対立する要素を私達は持っているのです。


結局は、すべての信念体系を統合し、すべての民族を統合できる生活環境を構築する必要があります。そのような生活環境の中に入ることで、善の希望を抱くことができ、善の命を持つことができ、善の絶対的な価値を示すことができます。人類がその立場に立てば、神は特定の民族の神ではなく、全てのものの神として現れることができます。あなたが生前にそうならない限り、あなたは神の直系の子供になることはありません。


今日、あなたは既に他の人ではないという道を歩んでいます。他の人ではないという道を既に歩んでいます。そして、あなたは信仰の標準を宇宙の創造主の性格に置き、信仰しています。あなたの信仰の標準を達成する日には、悪の要素があなたから消えるでしょう。そうなると、あなたはこの世界のすべてを消化することができるでしょう。


真の信者であれば、悪と同じように存在しているとしても、その悪に影響を受けず変わりません。従って、環境がどんなに悪くても、神の真の子娘になればその環境に支配されないでしょう。このような真の信者にならない限り、天意に立ち向かうこともできませんし、神の前に立つこともできないでしょう。


それでは、なぜイエス様は自分を神の独生子と言ったのでしょうか?イエス様が人々にとって信じがたい条件を提示したのは、それらが信じることで瞬時に飛躍的な利益が得られるようにするためでした。従って、人々が無限の信仰でイエス様を信じ、真剣に天に向かって叫ぶと、信仰が急速に成長することになります。


天国の中心に向かうあなたの信仰の度合いが高ければ高いほど、それだけ多くの霊的なものがあなたを通じて進化でき、あなたが無限の信仰心を持っていれば、あなたの人格を通して想像できないほどの超感覚的な世界の事実や宇宙の事実を瞬時に感じることができます。しかし、人間はこれらの驚くべきものを失ってしまったというのが現実です。


行って、行って、そして更に行かねばならないのは、無限の世界を追求している信仰者の態度である。一定の境界内に留まるような信仰を叫んでいる群れに打ち勝つためには、最終的には宇宙的な大きな戦いを戦わなければならないだろう。


これまでの歴史を振り返ると、新しい時代を導くためにやって来た多くの先知先哲たちはほとんどが排斥されました。彼らを追い払ったのは私達の先祖たちでした。イエス様がおいでになった時も、ユダヤ人たちはイエス様を嫌い、反対しました。彼らは知りませんでした。彼らが信じていることが最善だと思い、宇宙を代弁し、自分たちの解釈で天主を代弁していたのです。


こうして私達の先祖たちは天運の道に抵抗し、天運の歴史を破壊する誤りを数えきれないほど犯してきました。それでは今、この終わりの日に、誰が100%の信仰を持つことができるでしょうか?悪に打ち勝つための戦いに挑んだあなたがその立場に立たなければなりません。そして、その信仰の基盤の上に熱心な責任感を持って絶え間ない努力で実践していかなければなりません。あなたがこの立場に立たない限り、無限の愛のイデオロギーを持ち、花婿の名前で来られる方の前に対象の資格で立つことはできませんし、また無限に生殖し繁栄しろとおっしゃる神との関係を築くこともできません。


このように見ると、罪とは何かと言えば、信じないことです。神が送られた人物を信じないことが罪であり、そのかたの言葉を信じないことが罪になるのです。従って、あなたは宇宙的な神のイデオロギーを受け入れなければなりません。そして、堅固な信仰を持ち、実践していかなければなりません。しかし、あなたがこのような信仰を持ち進めようとすると、あなたの心の中には逆にそれに反する疑念が生じるでしょう。


それはあなたの心に悪の勢力が作用しているためです。その悪の勢力はあなたの心に恐怖と不安を感じさせます。ですから、あなたはその悪の勢力に飲み込まれる信仰をしてはいけません。これらのことを消化しながら乗り越えられる度量を持って進んでいかなければなりません。このような立場にいらっしゃったイエス様であったからこそ、彼は十字架を背負う場所を避けずにおられたのです。こんなイエス様を誰が非難できるでしょうか?真に神を信じる者ならば、イエス様を決して非難することはできないでしょう。


イエス様と同じ立場から、私達は新しい信仰の態度を見つけて歩んでいかねばなりません。私達が真実に新しい信仰の態度を歩んでいくならば、そこには実証的な事実、神と結びついた事実、神と関連した事実を見出すことができるでしょう。そうなれば、ここで望む統一を志向する創造主の理想を実現する道を見出すことができるでしょう。


今日、死を覚悟して新しい信仰の道を歩む皆さん。絶対的な信仰で神の希望に向かって進むなら、その信仰の姿勢を通じて皆さんは神聖な価値を見つけることができます。だから皆さんはこの信仰をもって責任感を感じ、その信仰をもって実践する真の弟子たちとならなければ、絶対にお父様の前に立つことはできません。絶対的なお父様の前に真の子女として立つことも、忠臣の姿勢で立つこともできないのです。


今、私達は絶対的なお父様の前に真の子女として立つために、新しい信仰でこのすべての疑念の世界、このすべての死の世界、このすべての罪の世界、このすべての恐怖の世界を越えなければなりません。私達が天が要求する信仰の内容を理解していれば、それを証明できる基準を立てて天の前に立たなければなりません。そうでなければ、まったく神の真の子女になることはできません。


このような信仰で進むとき、皆さんは神と永遠の関係を築くことができ、永遠の善と永遠の命を楽しむことができ、苦しみから永遠の解放を得ることができ、永遠の天国の領域で生きることを心に留めておかなければなりません。


<祈り>
 かつては神だけを頼りにしてこの世界を任せてみましたが、それが崩れ去りました。その後、人間の理性を通じてこの地を見つけるべきだと主張してみましたが、今見ても、それを通じても意志は達成されていないことが事実として現れています。


ですので私達は天も頼るべきであり、人間も頼るべきであり、天と人が協力して達成すべき部分が残されていることを感じないわけにはいきません。父なる神よ、私達を私達だけに任せ置かないでください。


人類が歴史的な試練を乗り越えてきたとき、信仰だけではだめであり、自分だけではだめだと理解しています。自分を超越し、宇宙的なイデオロギーと真理を見つけるための力を私達に与えてください。


私達もまた立場を持つと同時に、天が私達に対して立つことができる基準を設けなければならないことを理解しており、絶対的な信仰を通じて完全に知る立場からお父様をお父様と呼ぶことのできる立場まで、私達を導いてください。


イエス様は私達に言われました。「花嫁と花婿の関係として私を求めなさい」と。内面的な側面で交わることができるのが心情であり、内面的な側面で交わることができるようにしてくださるのがお言葉なのであれば、お言葉を通してそれが可能になるようにしてください。そして、そのお言葉を通して真理と心情を知り、心情的なイデオロギーを通して神の心情を知る立場まで、お父様、私達に結びつけてください。熱望しています。


天のお父様、今日、私達が非常に狭い状況にとどまらないように許してください。小さなことに執着し、自分の全体的な価値を失う愚かな態度にならないように許してください。

大いなるお父様の恩寵を敬意をもって迎え入れながら、大いなるお父様の神聖なる性格を見つめることを許してください。その性格はまだこの地にどのような姿で現れるかわからず、また天が私達を通してその性格が現れることを望んでおられると言えば、もっと大きな信仰の基準を持ち、その信念に見合った真心と誠実をもって、お父様の前で進んでいけるように許してください。そして、その責任を果たすことができるように導いてください、お父様、切に願っています。


お父様、この時に許しを得る最後の恩寵を与えてください。栄光のお父様の子女として、今日の生活の信念として、永遠のお父様の全体的な信仰の理念を受け入れ、実践して、すべての人々に対して誇りに思える勝利の姿になるように導いてください、お父様、切に願っています。


すべてのみ言葉をこれらの心の中に命の泉として植え付け、そのみ言葉がこれらの心の中で歴史を作り出せるようにお助けください。切にお願い申し上げながら、御名において祈ります。アーメン。

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御言葉選集2(23,24)

2024年01月08日 15時50分15秒 | 学習
文鮮明先生の言葉集 2 - 23. 堕落の頂点を越えて本来の楽園に入ろう (1957年7月28日)

1957年7月28日(日) 前本部教会

聖書拝読:創世記1:28、3:6-24



 創世記1章28節および3章6節から最後の節までを見ると、ますます最初に神が人間に祝福を授けた事実と、その後人間の堕落により神が裁きの神として立たれた事実がわかります。これらの節はアダムとイヴが堕落する直前から、堕落してエデンの園から追い出されるまでの記録です。

この出来事はアダムとエバから起こったものであり、彼らが人類の祖先であり、すべてのものの支配者であったため、彼らだけが裁きの呪いを受けただけでなく、生命の世界のすべての存在にもその影響が及んだのです。

人間の堕落によって神の歓びは悲しみに変わり、人間の希望は失望に変わり、天地は悲嘆と敵意を抱くようになりました。当時のアダムとエバの心情が私たちにまで続いていることを忘れてはなりません。

すべてのものの前でアダムが神の祝福を受けた時の喜びと、堕落後に全てを失い、創造主である神の前で追放された時の心情とは、極端に異なっていました。

アダムとエバは全てのものの前で立つことができず、上下左右を見渡しても中心を見つけることができなかったのです。最終的に私たちが直面しているのは、この歴史的な惨めな因縁から解放されなければならない運命であることを覚えておかなければなりません。

アダムが犯した罪悪は歴代の先祖を通じて時代や国家、または民族を超えて法的な形を取り、私たちにまで続いてきたのです。ですから皆さんは、自らが再び全宇宙的な価値を持ち、天性の意志を表現してその価値が天性の価値と同じになるべきだと認識しなければなりません。

これらの価値は、どんな歴史的な困難を経ても、私自身が宇宙の中で立ち上げなければならないものです。それでない限り、人間の理想と神が創造した創造の本来の楽園は、私を通じて現れないのは当然のことです。エデンの園の悲しみは単なるエデンの園の悲しみにとどまらず、堕落したアダムとエバに対する神の悲しみと失望は今日の人間の苦悩にまで続いていることに気付かなければなりません。

したがって、何よりも重要な問題は自分自身であり、私は単なる特定の家族や民族に限定された存在だと思われるかもしれませんが、そこに限定された私自身ではありません。私は希望の理想をかけて天秤にかけ、その立場にあるかのようにいます。このような私を見つめる神の希望は宇宙的であり、歴史的なものです。

そのような神の希望が実現すると、すべての人類は私と関係を築こうとするでしょう。この驚くべき事実を考えると、私は彼らの希望を実現し、また彼らと共に私の本性の美を神の前に示すことができなければなりません。

しかし、そのような価値をどこで見つけるかは、人間が解決しなければならない重大な問題です。これを見つけるためには、私たちはどうすればよいのでしょうか?アダムとエバの堕落直前の立場と堕落直後の立場をよく考える必要があります。そして、神はアダムとエバを直接「私の息子、娘よ!」と呼ばれることが希望であることを知らなければなりません。

では、堕落とは何でしょうか?堕落とは神と人間が切り離せない親子の関係を断ち切ったことです。神が造られたアダムとイヴは最初に神を「父」と呼ぶべきでしたが、サタンを「父」と呼ぶようになった事実が歴史的な悲しみの源となりました。アダムとエバが神を信じずに裏切ったことが宇宙的な恨みの種としてまかれたのです。

それでは最後に何が起こるでしょうか?最後には親子の関係が乱れる出来事が起こるでしょう。祖先が神を追放した不信の因縁があるため、その血統を受け継いだ人々にも最後には子供が親に対抗する出来事が起こるのです。

皆さんはこのような時代が来ると、裏切りが不可能な真の親をこの地で見つけなければなりません。皆さんは現在の環境が信仰の縁で結ばれたものではないために不信の現象が起こっていることを理解しなければなりません。

親子の関係がこうであり、夫婦の関係がこうであり、また親戚の関係が不信の傾向となり、人々が追求している意志まで根本的に崩壊させる拒絶現象があらゆる所で現れたら、それが最後の時であることを理解しなければなりません。

私たちが生きている現実で、こうした現象が起こることを傍観しても、私たちは決してそのような立場に立ってはいけません。アダムとエバは神の言葉を守らず、サタンの言葉を聞いて堕落したので、神の言葉がある一方で思いもよらないサタンの言葉も生まれたのです。それによって今日、この地にもこの2つの異なる言葉が生まれ、一方は真実に属し、もう一方は偽りに属して、いつでも皆さんの生活に直接影響を与えています。

では、この状況で私たちはどうすればよいのでしょうか?私が求める真の父、私が信じている神、その神から出た言葉を守り、その言葉を生命の基準、イデオロギーの基準、戦いの基準として確立しなければなりません。そうでなければ、地上で万物を支配できる祝福を受けることはできなくなります。

今日、この地には中心を失った人がたくさんいます。特定の宗教や教派による個人のイデオロギーに中心を置いた言葉はあるが、神の言葉を自身の永遠の基準として変わることなく生命をかけて闘う群れはますます少なくなっています。サタンのように自分を中心とする言葉を述べる者がますます増えている現象が起こっているのです。

エデンの園でアダムとエバを蛇と呼ぶ際、それは舌が2つあるもので、1つの舌で2つの言葉を話す者を象徴しています。したがって、天倫を代替する言葉を抱えた者はそれを中心にして、その言葉を守る責任があるのです。

これもあれもない立場に立ってはいけません。これもあれもない立場は、こちらに行って混乱を引き起こし、あちらに行って混乱を引き起こす立場よりもさらに悪くなる場合が多いです。

アダムとエバは堕落して自らの身体を失い、信仰を失い、言葉を失い、同時に実質を失いました。しかし私たちは信仰と言葉を再び見つけ、残されたのは唯一、実質を回復するだけであり、この実質を回復する時が私たちが望む '再臨の日' であることです。

したがって、回復された実質的な基準に達するために私たちが越えなければならない頭があります。問題は、皆さんが神が再臨して運行できる実体になっているかどうかです。

神はアダムに対して相対的な立場から命じ、相対的な立場から信仰の条件を見て彼を扱いましたが、これからは実体を見つけさせることになります。したがって、相対的な立場ではなく、私の心と体が一体となり、私の一つの実体を見つけなければなりません。このような実体を見つけるためには、創造の法則を通して行わなければなりません。

もともと人間は神と心が一つであり、心と体が一つであり、体と対立するすべてが関係を結ぶべきです。これが真の絶対的な基準です。

人として生まれた以上、真の絶対的な基準を通じて完成させなければならないため、私たちは心が指向するイデオロギーを見つけ、心が命じると体が従う心と体の一致点を見つけ、また体と心が共に指向する目的を地上に残しておかなければなりません。

回復の過程にある皆さんはこれまで矛盾していた心と体が一つにならなければなりません。そして神の言葉と一体になり、神を信じることができ、また天の中心に立てた転落前のアダムとイヴの立場にあるなら、私の心は体と一つになり、体は心と一つになることができます。この立場に立つと、万物とも一体になる生活環境を開拓していくことができるのです。

それでは終わりの日の皆さんにはどのような使命があるのでしょうか?宇宙的な価値を代替できる実体復帰のために準備し、歴史的な天的な価値を引き継いで実践しなければならない責任があるのです。

この責任の実践の程度によって、皆さんには相対的なこの地上での指導的な権限が与えられるかどうかが決まり、その与えられる権限の程度によって天的な人格が形成されるかどうかが決まります。皆さんはこれを知らなければなりません。それゆえに復帰祭礼は聖幕から始まり、聖殿を経て実体に至るものです。

イエス・キリストはこのような人格者として来られたため、彼を中心にして神は絶対の歴史をなし遂げ、今日私たちはキリストに従って信仰の道を歩んでいます。そして人間がキリストに似るようになると罪悪の歴史は逆転するのです。私たちは今、審判の決戦場に移りつつあります。

皆さんが今、復帰祭礼を責任を持っている自分であることを考え、自分を全宇宙の前に立てて見てください。千の物があれば千の主人として、万の物があれば万の主人としての資格が自分にあるかが問題です。

万物の希望は何でしょうか。それは他の何物でもなく、ただ人を通して神の前に進む栄光の日を迎えることです。

神が復活できる実体対象となるには、どこに行こうとどんな環境にとどまろうと、私がそれをしなければならないという責任を感じなければなりません。皆さんはこのような責任感を感じながら生きていますか?「これも私の仕事で、あれも私の仕事だな!どれも私に関係のないことはないな!父よ、私が生きてこの仕事を成し遂げなければ、死んででも達成させてください!」というように訴えつつ、何事でも責任を持って生きなければなりません。

万物は私と関係を結び、私と共に生きて楽しもうとしていることを皆さんは知らなければなりません。また、これまで悲しみをもたらしたサタンが神に対して人々を中傷するのに対して敵意を抱き、戦わなければならない責任が皆さんに残っています。

「父よ!愛される父よ、私が父の代わりに戦います。父の敵を私が返します。父の失われたものを私が見つけます。父のイデオロギーを見つけるために私たち自身を父の意志に従って使いなさい。」と言える存在にならなければ、神の実体聖殿の復帰の意志を達成することはできません。

したがって、皆さん自身は常に天国を成し遂げるために、今いる生活環境の中で天倫に相応しい自分でなければなりません。善悪を分離する聖なる生活を通じて、自分に革新をもたらし、永遠に変わらぬ戦士として天の軍勢の勝利の姿を持ち、神の父の子娘としての誇りを知らなければなりません。

そうでなければ、終末の審判の頂を超えて復帰されたエデンの理想的な園に入り、真実の体として完成できるということを皆さんは気づかなければなりません。



文鮮明先生説教集 2 - 24. 神のためのイエス・キリストの指定(1957年8月4日)

1957年8月4日(日)、総本部教会

聖書拝読:マタイによる福音書7:1-27


<祈り>
 一週間、許された御旨に従い、父の望みを見据えながら闘ってきた子供たちが、この時、父の祭壇の前にひざまずいて伏せられました。慈悲に満ちた父よ、愛に満ちた父よ、慈悲深い父よ、あなたが統括してください。私たちの心は言い表せないほどの初めての立場に置かれています。

私たちの心に親和の恩寵と天国の慰めがなければ、私たちと同じくらい哀れな存在がいないと知っています。そうした私たちを数え、慈悲の恩寵を授けてください。
 弱い者の友になるために努力しているのも、あなたであることを私たちは知っています。弱い者たちの心を強くしてください。孤独な者たちの心を慰め、してください。

 天倫の驚異的な意志を心の奥深くに刻み込み、天の恩寵に没頭して感謝礼拝を捧げられるように許してください。あなたが望まれる栄光を示し、喜びの歌を捧げられるこの時間を許してください、愛する父よ、熱望します。

父よ、私たちが苦しい状況にあるとしても、眠っているこの国を代わって立ったであろう、それが父の楽しみの栄光となるべきであることを知っています。私たちの悲しみ、絶望、嘆きが私を中心にしないで、すべてのものと天のためにあるとすれば、それ以上栄光なるものはないことを知っています。天のために懸念し、地のために懸念できる心だけが、この時私たちに満ち満ちて起こるように許してください。自ら天から委ねられた使命を感じなければならない時間を、熱望します、願います。

 これで私たち自体が天国の意志に立ち向かっていることを確かに自覚させてください。私たちが動くことも天を代わって動くという自覚的な心情を持たせ、民族を代わってサタンと対抗して戦い、あなたが委ねてくださった責任を果たすことを許してください。あなたが許可された祝福を民族を代わって受け、処理できるような子供たちに導いてください、愛する父よ、熱望します、願います。

 そして眠っているこの国民を目覚めさせるようお許しいただき、暗闇に飲み込まれつつある世界中の人々を救うために、父の前で訴えることのできる子供たちとなるよう導いてください。

 私たちが責任を果たす際に、個々の生命だけを責任を持つ立場に立たないように助けてください。私たちの命を父の前に差し出し、国を代表し、人類を代表する責任者として立つことができるように導いてください。お願いします、父よ、切に望みます。

 今この一時、私たちの身体と心の誠実さを父の前に捧げられるようお許しいただき、その誠実が父の心に深く触れ、父が私たちを慰め、祝福できるように導いてください、愛する父よ、切に望みます。

 この日、地方に散らばって孤独で父の前に戦いの旗を掲げている場所ごとに、父よ、一緒にしてください、統括してください、守ってください。生きている父の子供たちであることを明らかにして逆境の中でも誇りに思えるよう導いてください、愛する父よ、切に望みます。

 今、孤独な状況にある子供たちもいるだろうと知っていますので、彼らの環境とすべての事情を統括し、慰めていただき、普遍的な恩寵として彼らの前に現れていただくようお願いいたします、父よ、切に望みます。

すべてをお任せしていただきましたので、お許しいただいた御旨と栄光だけが私たちの身体と心に満ち満ちて現れてくださるよう、切にお願いいたします。すべての御言葉を主の名によって祈ります。アーメン。


<御言葉>
 この時、皆さんに「神のためのイエス・キリストの指定」という題で少しご説教させていただきます。

 現代において多くの人々は、人生の根本的な目的をはっきりと知らずに、各自のやり方で生きています。つまり、人間がなぜこの地に生まれ、どのように生き、死んだ後にどこに行くのかという人生の根本的な問題を正確に知らずに生きているということです。

しかし、それは簡単なことです。人間は神のために存在しています。つまり、神のために生まれ、神のために生き、神のために死ぬことが人間の本来の道であるということです。

しかし、人間の祖先であるアダムとハワはこの人間の本来の道を歩むべきだった。つまり、互いに神のために生きる相対的な道を歩むべきだったが、そうした道を歩むことができなかったということです。これが堕落の原因であり、それ以来、人間たちは堕落の原因を克服しようとしてきました。

しかし、堕落の血統から抜け出せなかった人々は、栄える生活をしようとしましたが、最終的には自分を中心に据えた生活でした。言い換えれば、自分のために生まれ、自分のために生きて、自分のために死んだ生活でした。

しかし、神は歴史の過程を通じて、人間が知らなくても創造理念を実現するために、宇宙的な生の価値、宇宙的な生命の価値を見つけ出して立てることができました。皆さんはこれをもう一度考え直す必要があります。

従って、皆さんは天倫に対して人間の悔い改めを守り、天上の因縁を代わりにでき、人倫の因縁を代わりにでき、宇宙の因縁を代わりにできる価値を見つけ出して立てる必要があります。さらに、神の意志に向けて永遠に変わらない皆さんの立場を回復し、永遠に生きるその一人の価値を歌うことができる存在になり、自分が全体と因縁を結び、その因縁の実践が神の創造の美を完全に示すことができるようにしなければなりません。これが、神が人間に対して調整される最高の目標です。

従って、皆さんはそうした宇宙的な人間本来の悔い改めの心を見つけ出し、神の前で誇りに思い、全人類の前で誇りに思い、被造物の前で誇りに思える日を見つけ出さなければなりません。皆さんは、死んでもその一日を回復しなければならない宇宙的な運命の道に置かれています。これを心に留めておかなければなりません。

この不変の悔い改めの基準を立てて天を向かえようが、人類を向かえようが、または被造物を向かえようが、その価値と栄光をただ一人で示すことができる人、変わりようがなくて変わりようがなく、破れようが破れようが戻せない忠誠を備えた真の個性者はこれまでにいませんでした。歴史の中で天が送り、証明してくれた多くの先進的な人々はいましたが、そのような真の個性者はいませんでした。それゆえ、人間たちは長い歴史を通じて、この一人の個性者を見つけ出しています。

今日、人間たちはこれまでに来たすべての先進的な人々の使命と信仰を引き継ぎ、天倫と人倫の前に不変の姿勢で立つと誓い、その一人と出会わなければなりません。そうでなければ神が望む責任を果たすことができず、人類の歴史は天倫が望むその一つの目的に近づくことができません。

従って、その一つの中心存在がこの地に必ず現れなければなりません。そうでなければ、歴史の終結の時代に現れるであろうと言われた方がこの地に鮮明に現れないし、神を中心とした理想的な世界が築かれることはできないのです。
その中心存在は、全ての被造物の価値と栄光を代わりにし、自らの生活領域内で敵対的なイデオロギーの価値を示し、全体と調和できる一つの核となる力の作用体として存在しなければなりません。

人類を救済するために調整してこられた神様は、調整歴史の時代ごとにそのような中心の人物をこの地に遣われました。人類の歴史がこのような連関的な歴史で、つまり中心の人物たちを通じて引き継がれていなければ、神の調整の意志を今日私たちが継承することはできなかったでしょう。

歴史の最後の目的は、一つの世界観を通じて帰一の理念を見つけることです。今日この地に住む人々は、必ずしもこの事実を認めています。

それでは、そのような調整歴史の帰一点とは何でしょうか? それは、人間が天倫の前に永遠に立っていることができ、天倫、人倫、宇宙を代わりにする一つの人格を備え、不変の忠誠の態度で神と永遠に共同生活できる標準を確立することです。従って、人類の歴史の目的がその一つの帰一点に向かっているため、私たちは人類の歴史がどのようなイデオロギー、どのような信念、どのような建設的な活動に中心になって推進されているかを考えることができます。
そして、その一つの標準は歴史的な標準であり、人間の本質的な標準であり、これまでの人間が歴史的に望んでいた一つの標準です。そして、人々はまた、これまでその一つの標準を完成させた中心の人物が自分たちの目前に現れることを願っていました。

つまり、過去または未来にその中心の人物が現れず、自分たちの時代に現れて自分たちと関係を結び、自分たちも天倫の標準を完成させた存在、永遠不変の先祖の栄光を享受する存在になって万物の前で誇れることを願っていたのです。

実際にその一つの存在が皆さんの目の前に現れるとき、皆さんはその方を中心存在として迎え入れ、その方の悔いを見習うことができなければなりません。その時には、そのような皆さんが存在しているかどうかが問題になるでしょう。

神様は今日まで何千年もの歴史を経て、その時代を代表し、その時代に適した一つの中心の人物としてその時代を責任持っており、その時代の人々が守るべき天倫を引き継ぐことのできる忠誠と礼儀正しい人格者を遣われましたが、その当時の人々はそれを知らなかったのです。

一方で、人類の歴史は多くの信念が一つの理念に統合されつつ、帰一の目標に向かって進んでいます。それでは、なぜこれほど多くの信念が一つに統合されて出てくるのか、そして天倫の調整が出発から経過を経て目的地に至るまで一つに帰一されて出てくる理由は何でしょうか? それは時代ごとに調整の目標が変わると、調整の帰一の目的を達成することができないためです。こうして神の調整が永遠の軸を中心に一貫して一つの標準に向かって前進していることを、皆さんは知っておかなければなりません。

これはあるイデオロギーを通して現れる信念ではなく、イデオロギーを通して現れる法もなく、イデオロギーを通して現れる人倫の道徳でもありません。これは人倫を超越した天倫の法度を中心に、歴史的なすべてのものと対峙して戦い抜いてきた神の調整の約束です。

従って、私たちは天倫の意志を代わりにし、不変の秩序を築くことができる天倫の人格者とならなければなりません。そして、皆さんが神の調整の出発点から目的地まで不変の経路を経て、一つの帰一の価値を見つけ、全体の価値を代わりにできるようになるべきです。それだけでなく、見つかったその帰一の価値が全体の回帰の条件として立てられるべきです。そうでなければ、神の意志を代表する人格者として調整されるべきである神の意図が完了しないことになります。

歴史の進行を見れば、民族や地域を中心に、そこに適した宗教が形成されてきたことがわかります。その中で、長い歴史的背景を持ち、不変の人格を主張し、天的な愛と価値のつながりをもたらす宗教が存在する必要があります。
その宗教は時代や環境が変わっても、これを達成するために絶対的な基準を設け、最後まで出て行くべきだということです。また、その宗教は人間が生まれた目的、生きるべき目的などを示し、また歴史や文化などの面で貢献できる歴史的背景を持っていなければなりません。

そのような宗教を見つけるには、その宗教が信仰的なイデオロギーを実践するために地上で無限に戦ってきた宗教であるかを考慮する必要があります。歴史的背景を持ち、一貫した神のイデオロギーや愛を人間の前に示すために時代や信念が変わっても不変の姿で、逆境の中でそれを補完することに貢献している宗教であるかを考慮する必要があります。

そのような宗教であれば、その宗教を中心にして動く根本的な目的は、天倫を代わることであり、人倫を代わることであり、全地上のイデオロギーを代わることです。また、不変の忠誠を備え、一つの実践的な存在と関係を結ぶことができる宗教であるということです。それがキリスト教なのです。

キリスト教が今日まで発展してきた過程には、イエス・キリストを中心とした理念があり、その理念を実現するための生活があり、またその理念を達成することへの切望があったことです。ですから、今日のキリスト教で叫ばれている理念は、イエス・キリストが旅立っていった理念と一致していなければならず、キリスト教徒の実践的な生活もイエス・キリストが行った実践的な生活と一致していなければなりませんし、キリスト教徒の欲望もイエス・キリストの欲望と同じでなければなりません。

従って、すべてのキリスト教徒はイエス・キリストの不変の秩序を代わりにし、彼の許可を得た天倫の事業を受け継ぐことができなければなりません。そのような聖者たちにならなければ、キリスト教の理念であるイエス・キリストの意図を達成し、人類を一つに帰一させなければならない理念を不変の忠誠を持つ一つの理念、一つの信念、一つの実践的な対象体として天倫の前に示すことはできません。

それでは、イエス・キリストの30年以上にわたる人格を見ていくと、イエス・キリストは当時に限られた個人の人格者ではありませんでした。彼の人格は自分の一個の存在だけでなく、4千年の歴史を代表する天的な価値の人格であったということです。これを理解する必要があります。

イエス・キリストが主張した理念は、多くの先知たちが歴史的に期待していた理念であり、同時に調整の目的を達成するための造物主の理念でもありました。その使命を遂行するために涙を流しながら苦しい道を歩んだのがイエス・キリストの生涯でした。

従って、皆さんは不変の心でイエス・キリストの理念と生涯を通して、彼の指導と人格を手本にすべきです。そして、イエス・キリストが残した使命を引き継いで、2千年を越えた6千年の歴史を代わって不変の忠誠を持つ人格者として天国の前に現れなければなりません。もしもそのような皆さんがならなければ、天倫を代わる理念、イエス・キリストが望んだ理念、今日私たちが探している理念とは永遠の関係を築くことはできません。これを皆さんは心に留めておく必要があります。

それではイエス・キリストはどのように生きたのでしょうか? イエス・キリストはただ神の御心を彼の生涯の目的とし、その御心が成就されるまで全てを引き受け、天倫の前に誓って自らの快適を考えずに守る生活をしました。

それでは、なぜ神はイエス・キリストを全人類の救い主として立てることができたのでしょうか? 4千年の歴史的過程を通して、イエス・キリストだけが神の意志のために全生涯をささげ、創世以来初めて神の意志のために忠誠と守りを実践したからです。従って、イエス・キリストは永遠のメシアとして立てることができ、モーセを中心に引き継がれてきた調整の歴史がイエス・キリストの理念を通じて新しい段階に入ったのです。

最後の審判が迫る中、絶え間ない恐怖のゴルゴダの丘を越えなければならない今日のあなたたちにとって、あなたたちの訴えをどうやって終わらせることができるでしょうか?これまでのこの土地のイデオロギーでは不可能です。

ですから私たちには、私たちの進むべき道を導くための中心的存在が必要です。歴史的に見ても、神様は当時のイデオロギーでは不可能だと知っていたため、神の計画に従う多くの宗教を通じて、中心的な人物を私たちに送り届けると約束しておられます。これがいわゆる再臨の出来事です。これを理解する必要があります。

今、私たちは神に対して、または万物に対して相対的な価値基準に立ってはなりません。絶対的な神の人格と絶対的な神の不変の理念、そして天的な生活の理念を代わりに持つ中心を持つ者として、神の御心に従って始まりから終わりまで永遠に関係を築くことができる立場に立ち、万物の前で自らの価値を示すことができるようにならなければなりません。そして、あなたたちはそのような人間になるための導く真理を見つけなければなりません。そのような真理を見つけるために歩み出たあなたたちなら、何よりもイエス・キリストの希望、イエス・キリストが望んだ理念、イエス・キリストの生活の基準を引き継ぎ、そこに新しい理念を加えることができなければなりません。さらに、自らそのような活動の舞台を見つけなければなりません。

そして、理念的な基準と実践的な基準を備えて、すべての面において統制できる絶対的な立場を自分たちで見つけ、最後の日に天が探している人格者、天上の全体の目的を代わりにできる真の人にならなければなりません。そうでなければ、自分で悔い改める心情がある人にならなければなりません。

今日、私たちは個人であるが、個人として終わってはなりません。私たちが信じているキリスト教も単に民族や国家のための宗教として留まってはならず、世界と人類のための宗教にならなければなりません。また、人類の歴史を代われるし、人類の歴史的な希望を担当できると同時に人倫と天倫の理念を代われるようにならなければなりません。

そのような歴史と歴史的な希望と人倫と天倫の理念が、あなたがたの生活する環境と結びついていることを、あなたたちはしっかりと感じなければなりません。不変の人格者として希望の実体として2000年前においでになったイエス・キリストの前に恥じないで現れ、「主よ、これがあなたの望みでしょうか?私が成し遂げましょうか。」と言えるようにならなければなりません。

そして私たちは天倫の原則を代わりにして変わらない悔い改めを持ち、最後に「天よ、受け取ってください。」と祈ったイエス・キリストを振り返らなければなりません。

それでは、神の御心を達成する歴史的な使命を持ってきたイエス・キリストは、どのような心構えで難しい環境を乗り越えて開拓してきたのでしょうか?イエス・キリストは人々に人間性を回復し、天的な関係を築き、人類の歴史的な希望を実現する責任を感じ、誰もが感じ得ない強烈な感情を抱え、難しい状況を乗り越えました。

それでは、イエス・キリストはどのような難しい状況に直面していたのでしょうか?イエス・キリストは自分自身だけでなく、当時の人々にとっては見えない数々のサタンと戦わなければならない難しい立場にありました。また、イエス・キリストは当時の人々が妨げ、歴史的な習慣や時代の概念が妨げる中、一人で開拓していく難しい立場にありました。

こうして難しく孤独な立場にいたイエス・キリストを代わって戦ったり、イエス・キリストを代わって勇気を持ってその難しい道を切り開いてきたのは誰でしょうか!今日の皆さんは、イエスの立場にあった状況を代わって理解し、いつか世界を救うために戦うことのできる人、地上で人間の責任を果たす人にならなければなりません。そのような人が現れなければ、イエスが望んだ以上のことはこの地上で成し遂げられません。

そして、歴史的な人格を代わって救済する存在としてやってきたイエス・キリストに対して、当時の人々は無視しました。だからイエス・キリストは非常に孤独で孤立した道を歩みました。しかし、イエス・キリストは個人的な希望を持っていませんでした。彼の持っていた希望はただ堕落した人間を救うことだけでした。

それにも関わらず、今まで人々はイエス・キリストのそのような孤独な立場や、孤独の中で自己のことを考えずに人類を救い出すために全体的な希望を掛けたイエス・キリストを知らなかったのです。また、イエス・キリストを追随する弟子たちさえも、このようなイエス・キリストの立場を理解していませんでした。このようにして、イエス・キリストは悲しい孤独な王であったことを理解するべきです。

また、イエス・キリストは自分だけのために祈ることはありませんでした。イエスが言った言葉、イエスが見聞きし感じ行ったすべては、自己のためではありませんでした。それらは歴史を代わり、人類を代わり、天的で永遠不変の神の実在的な価値を示そうとしたものでした。

こうして知られざる中で涙を流し、悲しい生活をしていたけれども、偉大な意志を持ったイエス・キリストであったことを理解するべきです。皆さんはイエス・キリストがそのような難しい環境を全て忘れ、創造主の理念と信念を失わずにサタンと戦い続けなければならなかった残念な状況にあったことを謙虚に受け入れなければなりません。そして、自ら嘆くべきであり、感慨深さを持つべきです。

イエス・キリストは、この地に来て自分自身のためのイデオロギーを確立するのではなく、天的な原則のためのイデオロギーを確立しました。そのイデオロギーは神の内面的な感情を代表する不変のイデオロギーであり、歴史上の多くの信仰や思想などの基本的なイデオロギーでした。では、そのようなイデオロギーを持って立ち上がったイエス・キリストはどのように生活されたのでしょうか?

イエス・キリストはどのような心持ちで環境を克服し、天とのつながりを築いたのでしょうか?イエス・キリスト自身は神の善を中心にし、神の栄光を歌うことのできる本来の人間、腐敗する前のアダムと同様に喜びを感じる存在であり、無限の価値を持つ存在でしたが、腐敗したこの地に生まれ、神を代表してその難しい環境を制圧してからでした。

人間は腐敗したため、悲しみの生活を避けることができませんでした。また、人間が腐敗したため、苦しみを経験し、死の世界に住まわなければなりませんでした。そんな悲しみや苦しみ、死の呪いに包まれたこの地に来たイエス・キリストは、その呪いを踏みつけて立ち上がり、その心に天的な原則を確立し、それを掴んで戦った主役でした。

イエス・キリストは神の悲しみを自分の悲しみとして感じるために悲しい道を歩んでいきました。彼が気にかけていたのは、自分のために悲しむことではなく、自分のために悲しむのではなく、歴史を通じて、人々を代表して、神の掲げた使命を果たすべきだったためです。

イエス・キリストはどんなに血を流す場所や、悲しみや苦しみに耐える場所、恐怖に捉われる場所に置かれても、その中心だけは変わらずでした。

もし天のイデオロギーを受け継いで地上に不変の道を切り開く全体的な使命を担当するイエス・キリストがそのような環境で中心が変わっていたら、勝利的な天的な歴史は始まることはありませんでした。イエス・キリストは難しい環境、望みが絶たれた立場、サタンの中傷を受ける場でさえ、それらすべてを打ち勝って勝利的な天的な原則の道を切り開いていったのです。

イエス・キリストはこの道を切り開くために、歴史上になかった愛を強調しました。そして、どんなに難しい環境に直面してもそれを乗り越えるためには忍耐を持つべきだと説き、罪人たちが悪に対して誠実である限り、神の意志のために忠実であるべきだと語られました。

これがキリスト教で語られる聖霊の九つの実りの基本です。愛の生活をすることで喜びと平和が生まれ、忍耐を通して慈悲と良善が現れ、忠実な生活をすると柔和さと謙遜が生まれます。

イエス・キリストは、堕落の中にある人間たちのすべての悪の要素を取り除くために、天的な愛と天的な忍耐、天的な忠誠を強調しました。これらは天国のイデオロギーを達成できる実践的なイデオロギーであり、今日のあなたの心には、こうしたキリストの愛がありますか?また、忍耐と忠誠の心を持っていますか?イエス・キリストは神の心を代わりに表現した愛の具現体であり、苦しいゴルゴダの道でさえ、あらゆる人の苦しみを憂慮する忍耐の主役であり、歴史の誰よりも天に忠実な代表者でした。

それでは、このようなイエス・キリストの愛、忍耐、忠誠はどこから派生したものでしょうか?これらはイエス・キリスト自身から派生したものではありません。単にイエス・キリストはその神の愛を人間たちにつなぐ媒体の役割を果たしていたのです。

無知な人間を救うために来られたイエス・キリストは、神の愛の具現体であり、神的な価値の実体でした。それではイエス・キリストはどのようにして歴史になかった神の愛を表現できたのでしょうか?それは神との意志のためにすべての困難を克服でき、自分の命さえも犠牲にできたからです。従って、そのようなイエス・キリストには神の愛が訪れ、歴史上初めて神の愛を直接再現できたのです。

イエス・キリストはこの地に来て神の愛を求めるとき、論理的な側面を前面に押し出したのではありません。イエス・キリストは愛に対する定義や論理について話しませんでしたが、歴史を具現化する実践的な面で愛を代表したのです。

彼は自分が感じなかったし、行動しなかったことは語りませんでした。イエス・キリストは行動を通してしか神と永遠の関係を築けないことを知っていたからです。従って、このようなイエス・キリストの実践的な愛はどこから来たのでしょうか?イエス自身からではありません。神の内面的な心情を感じ取れたからこそ、イエス・キリストはその内的な基準を立てることができたのです。これを人間たちはよく知らなかったのです。

それでは神の愛はどのようなものでしょうか?今日の地上の人々は何度でも裏切り、変わることができるかもしれませんが、神はそうできないということです。神の愛は永遠不変のものです。人々はお互いを裏切り、疑ってきたのは、このような神の愛の心情を知らなかったからです。

それでは神の忍耐はどこから来たのでしょうか?神が戦いの歴史を進めたのは愛を成就するためであり、悪に対して無限に辛抱強く耐えたのは善の生活理念を確立するためでした。つまり、人間一人を立てるための変わらぬ天理法度の基準を立て、6千年間耐え忍んだのです。

神はこのように真意を成就するために、あなたのような人、全体の価値を代わりにできる人を見つけるために、人間が神に忠実になる前に、神が最初に人間に忠実であり、無限に忍耐強く耐えてきたのです。

ですので、皆さんは天倫を中心にし、運行される神とその意志を達成するために、無限に人間に対して忠実であったその事情を思いやるべきであり、この意志を立てるために無限に犠牲を払っておられた神の心情、また未来のイデオロギーを確立するために無限に越えていく神の心情、無限に授けようとする神の愛の心情を思いやるべきです。

また、皆さんは自分のどんな主張、自分のどんな概念でも神の前に立てないことを知らなければなりません。無限の愛を与えるために4千年間も辛抱強く耐えておられた神の愛を受ける者は誰だったのでしょうか?そのような者はイエス・キリストしかいませんでした。これを知っていたイエス・キリストは、一人であってもその愛を感じ、神の前で感謝することができました。

そして4千年間悲しまれ、4千年間戦い、辛抱強く耐えてこられた神であることを知り、その忍耐の価値の結果を示すことで、サタンの前で誇ることのできる一つの人格者はどこにいたのでしょうか?やはり、イエス・キリストしかいませんでした。そして彼自身を通して人間の導くべき道を希望する神の希望を背負い、神の忍耐を代わりにして一人で天倫の道を歩まなければならなかったイエス・キリストは、落胆に満ちていました。これを皆さんは知るべきです。

ですので、イエスが神のあらゆる信仰心の心情を感じたように、皆さんも神の信仰心の心情を感じるべきです。こうして皆さんは堂子の立場に留まるのではなく、始めから創造のイデオロギーとして確立されていた神の天倫の全体的な価値を代わりにできなければならず、天主的な価値と歴史的な価値が自分の価値と比較されることができると気づかなければなりません。

そしてイエス・キリストが神の愛を代表し、天の忠誠を代表した歴史的な存在としてこの地においでになったため、すなわち天倫の人としてこの地においでになったために、天国の全ての戦いが地上に移ったことを知らなければなりません。

ですので、イエス・キリストがこの地においでになって意志を完全に達成できずにお帰りになったその残された使命を引き継ぐことができなければ、イエスはこの地に再び来ることができず、地との関係を結ぶことができないということです。

しかし、一人も信じてくれなかった立場にあったイエス・キリストを見つめる神の悲しみは言い表せないものでした。また、イエス・キリスト自身も死の道を越えなければならない立場で、自らを見つけるために4千年間苦労し、出会いたいと思っていた神の悲しみは言い表せないものでした。

従って、皆さんは天徳を中心にして活動される神とその御心を成就するために、無限に人間に忠実だったその事情を思いやるべきであり、この御心を立てるために無限に犠牲を重ねてこられた神の心情、また未来の理念を築くために無限にあなたを超越した神の心情、無限に授けようとする神の愛の心情を思いやるべきです。

また、皆さんは自分のどんな主張や信念を持っていても神の前に立てないことを知らなければなりません。無限の愛を与えるために4千年間耐えてこられた神の愛を受ける者は誰だったのでしょうか?そのような方はイエス・キリストしかいませんでした。このことを知るイエス・キリストは、孤独な時でもその愛を感じ、神の前で感謝できました。

そして4千年間悲しまれ、4千年間戦い、我慢強く耐えてこられた神であることを知り、その忍耐の価値の結果を示すことで、サタンの前で誇れる一つの人格者はどこにいたでしょうか?もちろん、イエス・キリストしかいませんでした。それゆえ、自分を通して人間の進むべき道を導いてくれる神の希望を背負い、神の忍耐を代わりにして一人で天道の道を行かなければならなかったイエス・キリストは、苦難に満ちたものでした。これを皆さんは知らなければなりません。

従って、イエス様が神のあらゆる忠節の心情を感じたように、皆さんも神の忠節の心情を感じなければなりません。そして皆さんは王子の立場に留まるのではなく、始まりから創造の理念を立てる神の天道の総合的な価値を代わりにできなければなりません。そして天上的な価値と歴史的な価値が、自分自身の価値と比較できることを理解しなければなりません。

そして、神の愛と神の忍耐と神の忠誠を感じたイエス・キリストは、神が4千年間苦労し、忍耐して見つかった希望の自己であることを感じたイエス・キリストを見習って、彼の愛と忠誠と忍耐を引き継がなければなりません。皆さんは、そのような一人の人を求めていたイエス・キリストの心情を理解しなければなりません。

そして、皆さんはイエス・キリストが天の愛を代表し、天の忠誠を代表する歴史的な存在としてこの地においでになったため、つまり天徳の人としてこの地においでになったために、天上のすべての闘いが地上に移されたことを知るべきです。

従って、イエス・キリストがこの地においでになって御心を完遂できないまま去られたその残された使命を引き継ぐことができなければなりません。そのような人が現れなければ、イエス・キリストはこの地に再び来ることができないだけでなく、地上と関わることができないということです。

しかし、イエス・キリストを信じてくれる者が一人もいなかった状況を見つめる神の切なる思いは言い表せませんでした。そして、イエス・キリスト自身も死の道を越えて自分自身を見つけるために4千年間苦労してきた神を思いながら言い表せないほどの悲しみを感じたのです。

ここに神の重い悲しみが残っていることを知ったイエス様は、「アバ、父よ、できればこの杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の意志ではなく、父の御心が成りますように。」(マタイ26:39)と祈っていました。

それでは、十字架で亡くなったイエス様がどのようにして復活できたのでしょうか? イエス様は神の子としての尊厳を失わずに、自らの死を嘲笑するサタンや敵対者たちに対して eerることができ、死を超越することでサタンができない宇宙的な支配者の道を開拓したため、復活できたのです。

また、サタンの世界にはない忍耐と愛と忠誠心を受け継ぎ、サタンの世界では考えられない出来事、すなわち自らを殺した敵に祝福を与えることを達成したため、イエス様は復活できたのです。このような復活の主を信じることで、キリスト教徒は永遠の命を得ることができます。

今日、皆さんは神が立てた天徳の原則を知る以上、何度死んでも何度滅んでも変わらない決意を持って出かけたイエス様のこのような心情を見習わなければなりません。また、イエス様が私たちのために立てた忠誠心と忍耐を見習い、彼の後継者となり、この地に残された彼の遺産を受け継いで実践する復活の子にならなければなりません。

そして、皆さんは神と喜びのときも悲しみのときも変わらぬ心の関係を築き、神の愛を共に増やし、サタンとの戦いでイエス様を代わりに戦える人にならなければなりません。

そうした人こそがイエスの兄弟であり、4千年間神が優雅に求めた人であることを理解してください。また終わりの日に立った皆さんは、イエス様の愛と忍耐と忠誠心を見習い、イエス様の代わりに、イエス様の思想を平面的にだけでなく、立体的にも完成させなければならず、歴史的なすべてのサタンとの戦いで勝利し、サタンを屈服させることができなければなりません。これが終わりの日に立った聖徒たちの使命ですので、覚えておいてください。



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御言葉選集2(20,21,22)

2023年12月23日 16時10分04秒 | 学習

文鮮明先生の言葉集 2 - 20. 神のための勝者となろう (1957年6月30日)

日付: 1957年6月30日(日曜日)、前本部教会。

聖書箇所: ルカによる福音書 19:8-44, 22:39-46, 23:44-49


<祈祷>
アダムの後、お父様が労苦してくださった約4千年にわたり、お送りくださったイエス・キリストは、涙と汗と血の実りとして、お父様の実体として、お父様の涙を代わりにし、汗を代わりにし、血を代わりにする使命と、お父様の怨みを解く使命を帯びてこられたことを私たちは知っています。

そのようなキリストは、天を代わりにして涙の道を歩み、すべての人々を代わりにして休むことのない労苦の道を歩み、汗を流す共生の厳しい状況を歩まれたことを考えると、お父様、私たちがそのようなキリストに対応できるかどうか、心から反省するこの時を許してください。

そして、4千年にわたり苦労してきた多くの先知先列たちの血の祭壇を通じて、その実態を探しに来られ、血を流し、いばらで覆われていたその姿を手探りで感じられる私たちになれるように導いてください。

イエス様が十字架を背負ってゴルゴダ山に向かって登っていくとき、遠くから彼女を見つめて悲しむ弱い女性たちを見て、「エルサレムの娘たちよ、私のために泣かないで、あなたとあなたの子供たちのために泣け。」とおっしゃったキリストの切ない心情を今、この時間に私たちが感じることができるように許してください。

十字架の苦悩を知らない者は、十字架の救いを受けることはできません。また、イエス様が十字架に進むときの心情を感じることを知らない者は、真理の場に立つことはできません。それを知っているので、お父様、この時に集まった息子娘たちをあわれんで見てください。

私たちが持っていなくても、お父様に捧げるものがなくても、ゲツセマネの庭で孤独なキリストの姿を心に刻んで、忍び寄る敵に立ち向かい、善の番人になることができるように許してください、お父様、熱望しております。

イエス様がゲツセマネの庭で叫んだ最後の訴えを私たちが今日、この荒涼とした世界に向かって叫びながら、世界的なゴルゴダ山を越えなければならない時が来たことをおおきに、キリストを遠ざけず、自分のために生きる子供たちにならないように導いてください、お父様、熱望しております。

今、ここに集まったこれら多くの生命をお父様が責任を持たれ、彼らが純粋な心で進みたい回帰の道を歩むことができるように導いてください。この場に燃えるような恩寵を注いでください。

お父様! ここに集まった子供たちの中に神の意志を知らない者がいますか、または死に埋もれてお父様の心情を感じない者がいますか?お父様、聖霊の炎として現れ、イエス・キリストの復活の歴史を示してください。イエス様が十字架の死から復活されたように、その復活の歴史が私たちにこの時間に現れるようにおおきに、お父様、熱望しております。

お父様! たくさんの人々の中で私たちを呼んでくださり、ありがとうございます。ただ私たちが任された使命を受け入れ、あなたの御心を遂行できないのではないかと心配しております。

お父様! ここにひれ伏した子供たち、イエス・キリストの心情を代わりにして困難があるときには自らがまずその困難を引き受け、悲しいことがあるときも自らがまずその悲しみを引き受け、自らが苦しみを受けて倒れる際があっても、天が望まれる御心であればこれを喜んで受け入れながら戦っていける姿になるように許してください。

今日ここに参加した子供たちの中で、たとえ一つの命でもサタンに引き寄せられないようにしてください。久しぶりに生きる道を見つけてここまで来たのですから、捨てないでください、Dナ┥リイ, 心からお願いいたします。

この時、伝える者の心と受ける者の心が一つになり、Dナ┥リイの心に私たちの心と体が動くようにしてください。そうして私たちはDナ┥リイと一体となり、Dナ┥リイに受け入れられる供物として再創造されることができるように願っています。この時に孤独な祭壇が点在し、祈り続けている子供たちにも均等な恩寵を注いでください。サタンが乗り越えないようにしてください、・リイの名において祈ります。アーメン。


<御言葉>
今日、皆さんと共有したいメッセージは、「神のための勝者になろう」というものです。このタイトルでお話しいたします。

人間の堕落によって創造主である神様が今日までに長い歴史を経ても、造られたすべてのものと共に喜びと栄光を享受した日はありませんでした。再び言えば、神様が喜ぶことができる勝利の日を迎えていないということです。しかし、そのような勝利の日を迎えられなかった原因は神様にあるのではなく、すべてのものの主人である人間にあります。ですから、勝利の日は神様だけの努力で見つけることができるものではなく、人間の努力が結びついて初めて見つかるものです。そうでなければ、神様と万物が勝利する栄光の日を迎えることはできません。

それでは、創造主である神様が万物を造られた目的は何でしょうか? それは善の目的を達成した人間を中心に、すべてのものが神様の愛を歌い、神様に栄光を返す姿を見て神様が喜ばれることを願っているからです。しかし、人間の堕落によって神様の創造目的は達成されなかったため、神様はそれを回復するために6000年もの間、長い戦いの歴史を経て来られたのです。

このように、創世以降、現在まで宇宙的な勝利の日を迎えられなかった神様は、地上の人間を通して望まれるその勝利の日を迎えようとされています。したがって、地上の人間がその日を見つけられない場合、この地上で人間を虐げているサタンを打ち倒すだけでなく、天で神の前で人間を咎めるサタンの権力も打ち破ることができないでしょう。

それゆえに神様はどんな苦労も惜しまず、どんな犠牲も惜しまず、どんな戦いも惜しまず、今この時まで皆さん一人一人を立てるために盾となって現れられたのです。

これを見れば、私たちは神様の望みが何かを知ることができます。神様は皆さん一人一人を立て、人間を堕落させた敵サタンを見分け、サタンが主導する悪の歴史を終結させようとされています。

私たちはそうした神様の望みを達成し、天の前やすべてのものの前で堂々と立ち、天の前で勝利の栄光を返す人にならなければなりません。そうでなければ神様が苦労しておいでになった目的が達成されることはありません。人間たちは長い歴史の中でこのような勝利の日を見つけようとしましたが、これまで見つけることができませんでした。

しかし、神様はそのような勝利の一日を見つけることができる方を送ってくださったのです。その方こそがイエス・キリストです。その方は神様が人間を救いたいと思っておられた内面の心情や、すべての民族の不当な状況を共感し、この地上でサタンとの戦いで勝利できる代表者として来られた方でした。

したがって、皆さんは今や神様が望まれる御心と、人類が望む御心を達成するために、道を阻むサタンに対して、創造主の心情を持ち、すべての生き物を代表した歴史的な責任者として、また先駆者として立ち上がり、勇敢に戦わなければなりません。

また、彼が望んでいた御心を皆さんの生活の中で実践しない限り、キリストの悲しみはもちろん、神様の悲しみや全人類の悲しみが再びこの地上で芽生えることを皆さんはますます感じるべきです。

では、神様の御心を達成させるために来られたイエス・キリストの生涯を引き継ぎ、神様と人間が喜ぶことのできる一日を迎えるために戦わなければならない責任を負った私たちは、これからどのような生涯の道を歩んでいくべきでしょうか? 今日、これが何よりも重要な問題です。

イエス様の生涯は自らのために生きたものではありませんでした。上は天、下は地、つまりすべての創造物をひとりで責任を持って、神様の御心が達成されるその一日を基準に黙々と戦っていく生涯でした。

イエス様は宿る場所や昼夜を問わず、見える世界のあらゆる苦しみに耐え、さらには見えない場所で道を遮るサタンと戦い、全体的な責任を担いながら勇敢に戦った勇者でした。

したがって、今日私たちは誰もがキリストを先駆者と仰ぎ、彼の御心を受け入れ、彼が行けば一緒に行き、戦えば一緒に戦い、つまり共に同行しながら神の御心と人間の願いを達成するために戦いを展開していかなければなりません。

また、イエス様は4,000年の歴史を担いで民族や世界のために来られ、さらには霊的な領域の多くの生命まで負担されました。だからこそ、彼は自らのために戦ったのではありませんでした。言い換えれば、民族だけを思って戦ったわけでも、世界だけを思って戦ったわけでもありませんでした。歴史や宇宙を超越した神聖な使命を一身に抱え、神の御心を成し遂げるために戦われたのです。

このような戦いはイエス様の30年以上にわたる生涯を通じて続き、帰られた後も2,000年という長い歳月を経て今日まで続いています。人間は休むことがありますが、彼は休む間もなく神が望む希望の御心、人間が望む希望の一日を見つけ立てるために聖霊と共に戦いを進めていることを皆さんは痛感するべきです。

人間を救うためにこの地に来て人間の過ちで十字架に戻られたことも一因ですが、彼は帰られた後も人間の罪を代わりに負い、今日まで2,000年という長い時をかけて霊的なゴルゴダの十字架の道を進まれたのです。私たちはこのようなイエス様をこれまでどのように信じてきたのか、私たちの過去を振り返り、反省しなければなりません。

では、イエス様はどのような方でしょうか? 彼は天の唯一の御子であり、天の王子であり、すべての人の救世主であり、栄光のメシアとして、苦しみとは何の関係もない方です。 そのようなメシアを見ることはもちろん神が喜ばれることであり、またすべての人々もイエス様を歓迎し、賛美し、喜んでいるべきでした。 しかし、イスラエルの民が彼を信じず、のろったため、その喜びが悲しみに変わったのです。 この責任を誰が負わなければならないでしょうか? それは皆さんご自身が責任を負わなければならないことです。

今日の世界的なキリスト教の形成は、イエス様が30年以上にわたり人類のために知られざる苦労の涙を流した基準があったからであり、十字架に戻られた後、今日まで人類を救うために歴史の進展とともに涙の道を歩まれた2,000年の悲しみと結びついた歴史の過程があったからです。

さて、私たちはイエス様が涙を流しながら歩かれたその道をたどり、彼を悲しませたイスラエルの民族の過ちまで責任を負い、サタンに対して復讐するための戦いを進めなければなりません。

そして、皆さんは彼が共生的な時を準備する間、ただ黙想に没頭して生活していたと考えてはいけません。ヨセフの家庭で30年間、大工としての生活をしながら、イエス様は計り知れないほどの知られざる涙を流されました。イエス様の悲しい事情を兄弟たちも知らなかったし、ヨセフとマリアでさえも知らなかったのです。イエス様は何も誰かに話すことのできない寂しい気持ちの中で孤独な道を歩まれました。

イエス様は4,000年の罪の歴史を終わらせ、神の涙と人類の涙を清算する責任を負って、確固たる信念と不変の姿勢でサタンと戦われました。それゆえに、私たちがそのようなイエス様の実践的な生涯を手本にすると、勝利的な生活の基準を確立できるのです。

イエス様はなぜ、そのような血の涙を流す生涯の道を歩まれたのでしょうか? それは4,000年という長い歴史的な過程が涙の道であったことをイエス様が知っていたからです。

イエス様は神が涙の歴史を経て出てこられ、また神の御心を受けて多くの先知たちもこのような涙の道を経て出てきた事実を知っていました。そのため、神の御心を成し遂げるには、彼自身もそのような涙の道を歩まなければならないと考え、自分の生活が将来に大きな影響を与えることを知っていました。

したがって、イエス様は神と先知たちが流した歴史的な涙を全て浄化しなければならない責任を感じながら、全人類に希望をもたらすために血の涙の苦難の道を自ら選んで歩まれたのです。

今日、宇宙的な希望の一日、勝利の一日を築くためには、サタンとの戦いの道は避けられません。したがって、私たちの使命が大きければ大きいほど、それに比例して私たちの責任も大きいものです。ですから、この戦いの道で勝利を収めるためには、より大きな涙の谷を通過する必要があります。

イエス様は罪もなく、欠点もなく、また神の子以上の望みも持たずにおられましたが、弟子たちも連れずに一人でゲツセマネの園に登り、神の前で涙の嘆願をすることになりました。これはどういったことでしょうか? 皆さんはイエス様が歩まれたこの血の涙の道の心情を感じなければなりません。

そして今日の皆さんは天の勝利を促進しようとするならば、本当にイエス様が歩まれた宇宙的な涙の頂を越える準備が整っているかを反省してみるべきです。人間が堕落のために神の庇護を離れて以来、人類の歴史は涙で続いているので、これを乗り越えるためには涙の道を歩まなければなりません。これは単なる神の計らいからだけでなく、ある民族や国家が進む道においても同様です。

国家のために涙を流し、その民族を背負いながら涙を流す者を私たちは預言者(先知者)と呼びます。一つの国もただ成り立つだけでなく、こうした先知たちが築いた涙の歴史を経て成り立つものです。同様に皆さんもこの歴史的な涙の頂を超えない限り、決して勝利の日を迎えることはできません。

イエス様は30年以上にわたり涙の頂を超えゴルゴダの道、拓くべき道を歩まれ、血の涙を流されました。今日の皆さんが神の御心を成し遂げ、イエス・キリストの怨念を解決して差し上げなければならない責任を負う者であれば、皆さんの心の中でも知られざる血の涙が湧き上がっているべきです。

兄弟のために涙を流し、世界のために涙を流し、天を傷つけずには流れ止まない涙を流す天の使徒がいると言えるならば、ここに勝利するための一つの条件が成り立つのです。イエス様はエルサレムを見つめ、悲しみに包まれた中で泣かれたことがありました。しかし、そのようなイエス様の心情を知る者は一人もいなかったため、イエス様は十字架に戻られざるを得ませんでした。

今日、私たちは堕落したアダムの子孫として、堕落したアダムの悲しみを解消しなければならない責任が私たちにあります。また、堕落による罪を清算するための第二のアダムとして来られたイエス・キリストの悲しみまで解消しなければならないのです。

過去の歴史は再生の歴史であり、成長の歴史であるため、部分的な責任を果たすことによって意味の前に立つことができましたが、完成時期を迎えた今日、私たちにとってはそのような部分的な使命を果たすだけではなりません。

皆さんが完成時期の使命を果たすためには、過去に来たり去ったりした人々が頑張ったことよりも、千倍以上の努力が必要です。そして、皆さんは神がこの地を離れることなく、悲しまれた悲しい心情を背負って寒さや暑さ、昼も夜も関係なく、どんな状況に置かれてもこの地を離れず、誰よりも多くの涙を流す人にならなければなりません。

今日、この国が統一の法を見つけて築くためには、上の人が下に、下の人が上に、このようにして涙が交換され、神の前まで届けられなければなりません。こうなれば、この国は滅びることはありません。同様に、私たちが神の悲しい事情や地を愛される父の心情を知り、父の心と共感できるようになれば、私たちは決して滅びません。

ですから私たちは涙を流す人にならなければなりません。最後には悲しみの涙でも喜びの涙でも、人は涙を流さなければなりません。そして約2,000年前、イエス様が苦難の十字架を前にゲツセマネの園を通り抜けなければならなかったように、私たちも同じように十字架の壁が張り巡らされた世紀末の終わりの時を迎えなければなりません。

また、イエス様が知られざる者の中で神を代わって涙を流されたように、イエス様を失った使徒たちやその民族、世界中のすべての人々も同様に涙の道を避けることはできません。

こうして終わりの時の人々にはどうしても越えなければならない涙の頭が置かれることになり、その時に私たちは天のために泣くのか、それとも自分のために泣くのか、という分かれ道に立つことになります。

この時にサタンがどのような人を狙っているかと言うと、天の計らいを妨げ、個人の欲望を満たそうとする人を狙っているということです。ですからもし皆さんが歴史的な涙を流すべき場所で、自分のために涙を流すことになれば、サタンの支配下になることになります。逆に天の計らいを持ち、涙を流すことになれば、天の側の人になります。

イエス様が天を明るくすることができ、また、すべてのものがイエス様を崇めることができたのは、イエス様が流された涙が、自分や自分の国だけでなく、世界だけでなく、神の永遠の希望の意志を抱えて流された涙だったからです。このようにイエス様の涙は、神の希望と調和し、万民の希望と調和し、すべての創造物の希望と調和できる場で、全ての生き物のために流された涙でした。

イエス様がこのように涙を流して生きるうちに帰られたので、イエス様を礼拝すべき私たちも、彼が涙を流された宇宙的な悲しみを共感して涙を流すことが避けられませんし、すべての生物まで共に悲しむことができません。

イエス様はこうして民族のために、世界のために、天のために涙を流されましたが、今日の皆さんはどうでしょうか?皆さんもイエス様と同じように、個人を中心にした涙の道を歩み、家庭と民族、そして世界を中心にした涙の道を歩んだ後、天国の子孫たちの怨念まで背負って涙を流す責任を果たさなければなりません。

今、皆さんが天が望む希望の園に立ちたいと思いますか?その場合、自分を中心にして苦しみから逃れるために天に訴える心を持つべきではありません。そうなるとサタンの罠にかかってしまいます。本当に皆さんが天国の家庭の権限に入りたいなら、個人を超えて家庭を担当し、イエス様の代わりに涙の祭壇を築かなければなりません。

また、天国の種族の権限に入りたいなら、イエス様の代わりにして種族のために涙を流し、民族の権限に入りたいなら、イエス様を代わりにして民族のために涙を流さなければなりません。

そして、皆さんは地と天まで責任を果たし、進んで行ったイエス様の尊厳を立て、常に神の意志に対して心配することができる人にならなければなりません。

イエス様が帰られた後、2,000年以上にわたる歴史の進行で神が人をどのように導いてきたかと言うと、神が人に涙を流させました。ですからキリスト教徒が歩む道は涙の道であり、涙なしに運命が成し遂げられることはありませんでした。

イエス様が帰られた後、使徒時代を経てローマで70の悲劇が長い間続き、個人から家族へ、家族から次第に広がり、今日の世界的なキリスト教の構図を形成しました。しかし、そうしたキリスト教徒たちの中で、今まで本当にイエス様の代わりに世界のために涙を流した人は多くありませんでした。

今は終末の時であり、世界的な涙のゴルゴダを超えなければなりません。したがって、個人のために泣くときも、家族のために泣くときも、国家のために泣くときも過ぎ去りました。神様は何千年もの歴史を通じて、私たちが神の意志のために世界のために涙を流す聖徒になることを望んでいます。

この土地には神のために涙を流す聖徒がいなかったため、私たちはこの任務を担当し、天のために涙を流さなければなりません。そうでなければ、イエス様は再び涙を流され、神も再び涙を流されることになります。

今、私たちは神の前に、イエス様が勝者として立たれるために人間の歴史を担当し、サタンと戦いながら涙を流されたように、「私たちも涙の先駆者として神との縁を結びたい」と祈る時が来ました。

世界の動向を見れば、今までキリスト教を支持できるように、国家主義を廃し、来られるその悲しみの主人公を迎えることができる世界的な構図を広げていることがわかります。そして今は人類が世界的にイエス様を迎えるべき時であることもわかります。したがって、今日の人類は世界的なゴルゴダの丘を越えなければならない時です。

このような時を迎えた皆さんにとって、泣いても「天のために泣くか、地のために泣くか、それとも自分のために泣くか」という問題が提起されますが、ここでどれのために泣くかによって、皆さんが進む道が変わることになります。この苦しい世界で生きる人々にとって、皆さんが神の意志を広げたいと願うなら、皆さんは全体の意志を忘れて自分の意志を中心にして悲しみ、泣く者になってはいけません。そうした人は自然に意志に向かう道で追放され、結局何も成し遂げられません。

意志に従って進む私たちは、自らの事情で涙を流してはいけません。そして、意志を持つ国家や世界があれば、それらも自己都合のためだけに涙を流してはいけません。私たちは唯一、全世界の人類のために涙を流さなければなりません。

人間と中断された天倫の意志が、皆さんによって再び結びつけられなければならないときがきています。皆さん自身がサタンと戦い、勝利の涙を流し、サタンが中傷できないその日を見つけられなければ、神が望む世界的な勝利の日を見つけることはできません。

イエス様がこの地に来られて意志を果たすために血と汗と涙の道を歩まれたように、皆さんも宇宙的な勝利の日を迎えるためには、血と汗と涙の道を歩まなければなりません。宇宙の歴史も涙の道、苦悩の十字架の道を歩むことなしにはありえず、どの一個人が成功するためにも、血の汗を流す道を通さなければならないのです。つまり、私たちはみな、苦難を耐え忍び、痛みを乗り越えてサタンと戦っていかなければなりません。皆さんは真に天のためにどれだけ努力して戦いましたか?皆さんは個人のために、または家族のために涙を流し、汗を流したことがあったでしょう。

しかし、イエス様はご自身の家族だけでなく、民族や世界を越えて責任を持って涙を流し、汗を流されました。今、皆さんもイエス様のように、皆さん個人を越えて家族や国家を越え、世界のために涙を流し、汗を流す道を進まなければなりません。

涙と汗を流す戦いの農場を経ることが、勝利できる最初の要素となります。したがって、皆さんが勝利するためには、涙の道を経り、汗を流す道を経て、苦闘していく息子娘にならなければなりません。また、イエス様はゲツセマネの園で涙を流し、汗を流し、祈りを捧げられましたが、皆さんもそのようなイエス様の気持ちを持たなければなりません。

このように涙を流し、汗を流しながら一つの目標に向かって進む団結した民族は、今までに滅びた歴史がありませんでした。霊界で天国権に入った栄光の霊たちはどのような集団でしょうか?彼らはイエス様が行かれた道を見習い、この地で休まずに涙を流し、汗を流しながら戦いの農場を切り開いてきた人々です。

私たちにはこのような宇宙的な神の意志を成し遂げる勝利の条件を設ける責任があると理解すれば、私たちはこの地に来たり行ったりした歴史上のどの人よりも、より多くの涙と汗を流さなければなりません。

皆さんは家族を愛していますか?そうであれば、家族のために汗を流さなければなりません。また、皆さんが民族を愛するなら、民族のために汗を流さなければなりませんし、世界を愛するなら、世界のために汗を流さなければなりません。私たちも他の誰も行かない隠れた祭壇を築き、世界人類を代表してゲツセマネの園で祈り続けたイエス様を見習い、世界人類のために汗を流し、涙を流すことのできる第二のイエス様の姿を示さなければなりません。

実際に、神の御心のために生涯をささげ、涙を流して祈ったことはありますか? 汗をかきながら祈った時間はありますか? 私たちが涙の過程を経て汗をかく道を歩んだとしても、私たちの前には最後には血を流す死の道が残っていることを忘れてはいけません。イエス様も3年間の公生涯農場を経て、すべての人類を代表して十字架に釘付けになる死の道を歩まれました。

神の唯一の御子であるイエス様ですら、このように霊的な勝利の日を迎えるために、自らの命を父に捧げ、血を流す苦労を経ていかれました。そして今日、私たちはイエス様を代わりにして宇宙的な使命を担おうと立ち上がったわけですから、イエス様が行かれたその道を見習わなければなりません。

皆さんにはまだ命がありますか? 皆さんには希望がありますか? 皆さんには進もうとする意志がありますか? そうであれば、それらは自分だけのものではないことを理解しなければなりません。

もしイエス様がご自身の命が自分のためのものだと思われたなら、十字架の死を越えて復活を成し遂げることはできませんでした。自分の命が父なる神様のものであることを知っていたからこそ、イエス様は十字架に掛けられる苦しみと試練を忍んで進まれたのです。したがって、その十字架の道は決してイエス様個人のためではありませんでした。

皆さんにとっても、皆さんの命は自分自身のものではなく、この世界も人間のものではなく、宇宙も人間のものではありません。これらはすべて神様なる父のものです。

皆さんはどのような思想やイデオロギーを中心に据えていますか? 父を求めるあなた方自身の心と信念を見つめ直さなければなりません。死に至る運命の道を越えなければならない私たちは、なぜこのような道を歩まなければならないかをそれぞれが考えてみるべきです。 イエス様は涙の道、汗の道を歩まれた後、最後にはお自身の一身を天に捧げられました。

私たちに生命があるとすれば、その命は自分自身のものではなく、希望を持っているとすれば、それもまた自分だけのものではないことを知らなければなりません。

イエス様に従ってサタンの世界に対抗し、勝利するべきあなたたちであれば、自分の命に対する未練を抱き、天に捧げようとしないかを考えなければなりません。

私たちが永遠に父の意志を達成するためには、極めて神聖な生け贄にならなければなりません。自分を中心に据えた要素がある場合、そこにサタンが中傷できる生け贄となるでしょう。

あなたたちは「父よ、わが子よ」と神様に呼ばれる者になりたいと願いますか? そうであれば、天の真理、天の命、天の愛を確立し、すべてのものとあなた自身を天のものとして確立しなければなりません。

イエス様は「父よ、もしできることであれば、この杯をわたしから取り去ってください。しかしこれよりも、わたしの望むとおりでなく、御心のままになさってください」とお祈りになりました。しかし逆に「しかし、わたしの望むとおりでなく、あなたの望むとおりになさってください」ともお祈りになりました。

同様に、あなたたちも自分の意志を父の意志と一致させ、天の祭壇を築かなければなりません。そうでないと、神の望みを達成することはできず、サタンとの戦いで勝利することもできないでしょう。

人間は堕落したため、数千年にわたり労働と涙の道を経て、血と涙の価値ある犠牲となり、神の前に生け贄となりたくて戦ってきました。同様に、今日の私たちも国のために生け贄となる道を進むべきです。そうすれば、あなたたちを追随する者たちも同じ道を進むことになり、敵であるサタンすらも降伏させて友達に変えることができるでしょう。

神の望みのために6000年間労し、キリストの宇宙的な責任を引き受けて神の栄光を歌うべき時が来ました。今日まで神に反抗してきたサタンですら、あなたたちに対しても反対するでしょう。しかし、このようなサタンの反抗が転じて、サタンがあなたたちと共に神の前に生け贄を捧げる日が、終末、大審判の日なのです。

私たちがサタンに従順できる条件、つまり天意を中心に据え、出発できる条件を整え、サタンに命令できるようになるとき、サタンもその命令に従うようになります。したがって、あなたたちは宇宙の中でサタンとの戦いで勝利する者となり、天においてサタンとの闘いで勝利する者とならなければなりません。

私たちがこのように勝者となり、天の前に現れる時、私たちはようやく永遠の神の意志を超えた楽園で、サタンと無縁の中で、神中心で永遠に変わらない真の姿となり、生きていくことができます。

サタンもこの最後の戦いが始まることを知っているため、全力を傾けて侵略してくるでしょう。したがって、その戦いで勝利するためには、神も知恵を絞る必要があり、神の子であるあなたたちも全力を挙げなければなりません。

この戦いでは、サタンは盲目的にあなたたちに屈せず、むしろサタンの支配を受けている人間たちと共に、全力で対抗することを知っておかなければなりません。私たちが天のために涙を流すように、サタンもサタンの意志のために涙を流し、私たちが天のために汗をかくように、サタンも自分のために汗をかき、私たちが死を覚悟して戦うように、サタンも自分のために死を覚悟して戦うのです。これを理解する必要があります。

こうして、両勢力が対決する中で私たちが勝利するためには、自分のために生きてはいけません。徹底的に父のために生き、自分の意志を無にして父の前にすべてを捧げ、父の価値を確立するために努力する必要があります。これがサタンとの戦いで勝利し、永遠に神と子の関係を結ぶための道です。

あなたたちはすでにサタンを打ち破り、神との関係を築く道を見つけたことでしょう。したがって、これからはもっと父のために自己を犠牲にする生活を送る必要があります。

<祈祷>
お父様! 私たちが今、神のための勝者になるための道を進むべきだと知っています。この道は涙の道であり、血と汗の道であり、またこの道は自分の血と肉をすべての要素に分離して、すべての人々の前で分け与える犠牲の道であることを知っています。

この道を外れるとき、私たちは父が望む宇宙的な勝利の楽園で生きることができないことも知っています。父よ!私たちの生命は私たちのものではなく、私たちの愛も私たちのものではなく、私たちの子どもたちも私たちのものではなく、私たちのすべての物質も私たちのものではないことを知ります。

私たちが私たちの欲望で自分のためにすべてを所有しようとすれば、私たちに所有されるものは何もないことを知っています。ですから私たちのすべてを父に差し出すことができる犠牲の立場に立って、許可してください。

人間であれば誰でも6000年の因縁を浄化し、勝者になるべきだと知っていることを知っています。ですので、お父様、今日ここに集まった子供たち、この道を進むために涙の道でも、血と汗の道でも、死の道でも全うせず、ただあなたを代わって世界的で天的な使命を全うして帰還した立場から、永遠に父の栄光を歌うことができるように許可してください。

ですから、そして敵であるサタンを支配し、喜びの涙で、全てを天の前に返すことができる子どもたちの姿で、私たちを立ててくださいと熱望し、希望しています。これらすべてをあなたの前に委ねたので、私たちに勝利のための涙の道、汗の道、血の道を歩ませてください。

この勝利の道を切り拓かなければならない使命が、今日私たちに授けられましたので、私たちがこの歴史的な勝利の使命を果たして、十字架の犠牲に捧げられるように許可してください。そして私たちが「私は父の犠牲です」と誇りに思える場で、サタンのためにも涙を流すことがあれば、サタンも「正しい。あなたは確かに神の子です」と認めざるを得ないことを理解しています。

ですので、私たちがそのような団結となるように許可してくださいと、熱望し、望んでいます。
すべての御言葉を主の御名において祈ります。アーメン。




文鮮明先生말씀選集 2 - 21. 神の御心の前に残る者  1957年 7月 7日

1957年 7月 7日(日), 前本部教会.

聖書拝読:マタイによる福音書 15:7-18


 神様は今まで労苦して従ってこられたのはただご自身の御心を遂行するためでした。しかし、その御心の根本はどこにおかれているかと言えば、人間と神様が共に楽しい交わりをもつことができる場所におかれています。

私たち人間が神様の望まれる御心を遂行し、神様と永遠に共に楽しい交わりを持つようになると、神様は人間の真のお父様となり、人間は神様の真の子どもとなるのです。こうなると神様の御心はまさしく人間の御心となり、人間は全ての被造物とも調和しながら神様に栄光を帰し、永遠に神様の知恵、慈愛、そして恵みを賛美し続けることになります。そのような日が来ることを神様と人間、そして万物が待ち望んでいるのです。

 御心は神様の創造理想であり、堕落した人間にとっても永遠の理想です。そのため、その御心が達成されると、神様と人間が一つとなり、神様が喜ばれれば人間も喜び、人間が喜べば神様も喜ぶのです。つまり、神様の御心が人間の御心となり、二つではなく一つとなって共に動くことで、人間は神様に永遠の理想の喜びを返し、またそれによって自らも永遠の喜びを感じることになるのです。

 神様はこのような御心を立てるために、徹底的に通じ合い、一体化できるような一人の人間を探し出されるでしょう。そしてその人を通じて御心を実現されるでしょう。ですから神様の御心と完全に一致し、また神様の御心を実現できる人ならば、その人は神様の知恵と慈悲深い性格を持ち、そのまま全ての創造物にも現れることができるでしょう。

 このように永遠で絶対的な神様に似て、神様の知恵を示し、神様の愛を注ぎ、神様の性格を表現できる者がいれば、神様の御心はその人を通して達成され、神様はその人を見て永遠に喜ばれることでしょう。

 この理念から、天は帰還の御心をもたらし、帰還の歴史は進んできたのです。もし人々がこのような神様の理念と計画を理解しなければ、人々は神様とは低次元の関係を結ぶことはできません。

 人間は堕落したため、神とは無関係で自己中心的なイデオロギーを持っています。神のイデオロギーが神から出てきたように、人間のイデオロギーは人間の知恵から生じたものです。

 そのため、人間の歴史を支配してきた人間のイデオロギーが神のイデオロギーといつか出会わなければ、人間は永遠の理想的な世界に到達できません。これらの二つのイデオロギーを調和させようとする試みが宗教です。もしこのような事実に気付かないなら、人間は人間の倫理の中でしか出られないでしょう。

 これまでに歩んできた人間の倫理的で思想的な主張は、敵対的なイデオロギーに帰属しないようにすべきです。これらの二つのイデオロギーを結びつける責任が宗教にあり、特にそれが大きな使命となるのはキリスト教です。だからこそ、キリスト教が人間の倫理を神聖なものに結びつけられなければ、キリスト教を中心として永遠の創造の理想を実現することはできません。

 もしもあなたが神と永遠に楽しむ不変の創造の理念を持たないなら、いつか天国の反逆者になるでしょう。ですから、あなたがこの神聖な理念を実践し、具現化するためには、この人間的な理念を生活に取り入れなければなりません。

 神様はこの目的のために6000年もの間働いてこられました。ですから、あなたがこの目的を達成できなければ、神様の労苦は水泡に帰し、神様の意志は単なるイデオロギーで終わるでしょう。

 この永遠で変わり得ない理念を達成するために来られたのが、イエス・キリストです。イエス・キリストは神の知恵を代わりにした真実として、神の愛を代わりにした宇宙的な慈悲として、神の寛容を代わりにした寛容を持って、ここに来て神の意志の道を切り開いてくださいました。

 イエス様は敵対的なイデオロギーを確立するためにこの世に来られたのです。そのため、イエス様は神のイデオロギーを人間の生活に具現化するために純潔と高潔を持って現れました。しかし、このようにして神の姿を代わりにし、純潔と高潔を持って現れたイエス様の人格を理解し認識する者は一人もいませんでした。

 さらに、イエス様は敵対的な性格を示すために感情を持って来られました。その感情は良い人々だけでなく、悪い人々まで感情を動かすことができましたが、人々の不信心によりこの地での感情は実現されませんでした。そして、イエス様は神の意志に対する変わらぬ悔いを持って現れましたが、当時の人々はそのようなイエス様の心情を知らずに従わなかったのです。

 したがって、私たちの後代は、イエス様がこの地で実現しようとされた敵対的なイデオロギーを具現化するために、イエス様が持っていた敵対的な純潔と高潔、そして神への感情と悔いを持ち、イエス様に代わってこの地で実践する生活をしない限り、イエス様に結びついている罪を解放することはできません。
 人間が人間的なすべてから抜け出して敵対的なイデオロギーを生活規範として立てない限り、神とイエス様のイデオロギーを持っていないということです。また、神が望まれ、イエス様が希望する創造の本質的な理想的な世界は、この地で実現されません。

 では、皆さんはどうすればいいでしょうか? 人間的なすべてのイデオロギーを神聖なものに完全に溶かし込んでしまうことができる自分になり、人間的なものを神聖なものに一致させなければなりません。そうでなければ、皆さんは地上天国の生活を送ることはできません。

 イエス様と聖霊は2千年以上もの間、霊的に人間の意志を神聖なものに結びつけるために努力されてきました。そのようなイエス様を信じる皆さんならば、その意志を引き継ぎ、人間を神聖なものに一致させる使命を果たさなければなりません。

 この使命を引き継ぐためには、まず生活の中であらゆる悪の条件に打ち勝つことができなければなりません。そのためには、イエス様の生活のイデオロギーを持つことが必要です。 十字架を信じることは、悪魔との精神的な結びつきを断つことでしたが、今度は皆さんはイエス様の生活のイデオロギーを持ち、それを基にして精神的に肉体的にも悪魔との結びつきを断つことができなければなりません。

 そして、審判の日が近づいています。では、審判はどのように行われるのでしょうか? 人間が地上でどれだけ神聖なイデオロギーを確立したかにかかっているのです。このような審判を回避するためには、神の審判を恐れる前に、神が望んでいる意志を責任を持って達成できる自分にならなければなりません。そうでなければ、神の審判を受ける前にサタンが先に摂取することになります。

 この地に神の性格を持つ者はいますか? この世界にイエス様の純粋な性格を持つ者はいますか? その人を見つけて友達にしてください。誰が高潔ですか? その人に従ってください。また、誰が神の性格を持ち、感情を動かす者がいますか? その人に従って崇拝してください。それから必ず生命の道を見つけることでしょう。 そして、その人に従って崇拝し、模倣することで審判を回避することになります。

 皆さんはイエス様の純潔、高潔、感情を経験したことがありますか? 経験したことがなければ、自分と戦ってください。サタンは遠くにあるものではなく、皆さん自身の中にあるものです。だからこそ、皆さん自身の中にある敵対的な性格とサタン的な性格の違いを見つけ、分別する生活をしなければなりません。

次に、皆さんは変わらぬ姿で現れなければなりません。イエス様が変わることはなかったということは、敵対的なイデオロギーを捨てて不変であったという言葉です。サタンに支配される堕落した人間は巧妙な存在です。エデンの園のサタンは自らの邪悪な本性を明らかにしましたが、最後の審判の際にはサタンが自らの邪悪な本性を明かしません。
 皆さんは不変の心情として、自分の環境、自分の生命に対するどんな執着も捨て去り、イエス様の不変の心情と一体になることができる人にならなければなりません。

 自分を含むすべての環境は、皆さんが戦わなければならない相手であることを知ってください。不変の姿で現れたイエスの前には、すべてが闘争の対象であり、すべてが敵でした。それだけでなく、霊的な領域さえもがイエス様に攻撃を仕掛けてきました。天と地全体がイエス様の前に戦いの相手であったので、イエス様はどれほど哀れな方でしょうか。そんな中でも、彼は不変の姿で立つことができたということを私たちは知らなければなりません。

 今、皆さんは神の前で不変の姿で立ち、サタンに対して不変の姿を誇示できる人でなければなりません。そのような人が集まり、地上に神の知恵を示す足場を築くべきです。そうなれば、人間はこれまでの不幸で苦しい経験とは対照的に、サタンに立ち向かっていたことから離れ、喜びと栄光を歌い、神の栄光を歌うことができるようになります。




文鮮明先生の言葉集 2 - 22.  善の本質を見つけ、罪の報いを超えて行こう (1957年7月21日)

1957年7月21日(日曜日)、総本部教会

すべての被造物はもともと善く造られましたが、アダムとイブの堕落によりその善の価値を表現できなくなり、罪の報いから逃れられないまま、善を追求して降りてきていることを皆さんはよく知っています。
神様が創造された本来の楽園では、善だけが存在すべきでしたが、この善が今でもこの地に現れていないため、神様と全ての被造物が今までため息をついているのです。
 したがって、堕落した人間はどのような苦難の歴史的過程を経てでも、この善のイデオロギーを実現しなければなりません。人間はこの目的を個体で達成すると同時に、国家、世界、全ての天地に広げなければなりません。そして天地に善の意志を明らかにできるその一瞬を回復しなければなりません。しかし、まさに皆さんが絶対的な善の意志を実現し、宇宙全体の目的を達成するべき人々であり、また皆さんはそのような運命に置かれているのです。
 本来の善を尊重する私たちは、ますますまず、善くして被造物を創造なさった神の実体を知らなければなりません。そして神の善き価値を知り、その言葉を伝えなければなりません。そうして、善き言葉を通じて創造されたすべての被造物の善き価値を自ら見つけ出し、表現しなければなりません。そうでなければ、もともと神が創造された善の目的は達成されないことを皆さんは知らなければなりません。
人間は堕落する前は神の絶対的な善を持っており、神様は人間に善く創造された全てのものとも関係を結べるようにされました。
 神は絶対であり、善の言葉を通じて宇宙を造りましたが、その中でも人間は全価値的な存在として造られました。したがって、人間は神の善を歌う一つの中心体として現れなければならなかったのは、創造本来の目的でした。しかし、人間は堕落によりこの価値を失ってしまいました。
 堕落した私たち人間はどのようにして再び善良な神に近づくことができるのでしょうか?ますます良心を通じて本体の良を似せていく必要があります。次に、神の言葉に従って行動し、神の本体の善と言葉の価値を示さなければなりません。そうなったとき、神は創造されたすべてのものの中で、その一瞬に喜びを見いだすでしょう。そして、善の目的を追い求めてきた人々も神の善の価値を感じる、善の実体となるのです。しかし、これが人間の堕落によって完全に破綻してしまったのです。
 今、皆さん自身が堕落したアダムとハワの子孫であることを自覚し、善の目的を達成した善の祖先にならなければなりません。皆さんが善の目的を果たさなければ、アダムとハワから受け継いだ罪状は皆さん個人にとどまるだけでなく、皆さん個々の通じて全世界と天国まで広がってしまいます。
 皆さんは自分自身を正しく立て、神が古代から望まれていた本来の善を代わりになすことで、神の言葉で造られた宇宙の善の価値を感じ、万物を善だと讃えることができなければなりません。また、神の絶対的な善の価値を、皆さんの良心を通して相対的に示すことができなければなりません。そうでなければ、神が望む全体的な目的を達成することはできず、皆さんが求める善も見出す道がありません。
 この本来の善は、神の永遠で絶対で不変な性質を中心に実体を通して現れるべきものであり、その永遠で不変で唯一の神の善の性質を相対的に示さなければならない人間が堕落によって神と人間の永遠で不変で唯一の価値である善が実現されなかったことです。
 したがって、人間は善の自律性、尊厳、価値性を失ってしまったのです。堕落した人間が求める最大の目的は、神の自律性、尊厳、価値性です。これが実現しない限り、永遠、不変、唯一の神の善との繋がりを持つことはできません。
 人間の祖先アダムとハワがこれら三つを立てるために死んだり、生きるために生きたりしたなら、これが今日の私たちの希望にまで残らなかったでしょう。それが実現すれば、人間は自ら善の自律性、尊厳性、価値性を楽しみながら、神の無限なる善を中心にして永遠の楽園で喜びながら生きることができたでしょう。
 しかし、アダムとハワの誤りによって、これが今日まで人々が探さなければならない希望となってしまいました。つまり、人類の祖先であるアダムとハワが絶対的な善の本体である神を代わりにし、相対的に善の自律性、尊厳性、価値性を持っていたなら、今日の地上の人類は恐怖と悲しみと絶望の中に生きていなかったでしょう。
 アダムとハワは創造主的な立場で神を代わりにし、全体を責任を持っていました。この立場を考えると、彼らが犯した罪が彼ら個人にだけ影響するものではなく、善良に創造された全ての生態系にまで影響を与える恐ろしい事実を知ることができ、アダムとハワがこの地上で相対的に善を見つけて立てるべきだったことを私たちは知ることができます。
 しかし、彼らは自分たちの犯罪が彼ら自身だけでなく、将来の子孫にも影響を与え、さらには神にまで悲しませることを感じなかったのです。アダムとハワが死を覚悟して神の永遠で不変で唯一の言葉に従って進んでいた場合、このような歴史的な罪状、時代的な罪状、未来的な罪状は存在しなかったでしょう。
 しかし、彼らは神の絶対的な言葉に従わなかったため、その堕落の瞬間から歴史的、時代的、未来的な罪状が彼ら一人に現れることになりました。アダムとハワがサタンの誘惑に屈する際に、彼らには神の言葉に従おうとする心がある一方で、サタンの誘惑に引き込まれる肉体がありました。肉体の力が強かったため、彼らは神の意志に逆らうことになりました。その時、アダムとハワは絶対的な善を追求する良心の力が強いほど、それに比例して恐怖も大きかったのです。
 この恐怖の心が予告したことは、彼らの堕落行為が歴史的に、時代的に永遠に悪の起源となることであったことです。しかし、彼らはそれを知りませんでした。アダムとハワが堕落する際に恐怖を感じたとき、彼らはその恐怖に刺激されて絶対的な善を守り、その悪の心を抑える義の不変の中心を立てるべきでしたが、逆に悪の本体と手を結んでしまったのです。
 この悲しい事実は、彼らにだけでなく、堕落の血統を引き継いだ皆さんにも及んでしまったことです。したがって、皆さんは自分たちの生活の中で良心を通じて悪の本体と戦わざるを得ないことを忘れてはなりません。
 一つの罪がこのように歴史を通じて未来にまで人間の良心と対決して出てくることを心に留めて、私たちは堕落の領域から脱出しなければなりません。人間はたとえ堕落したアダムとハワの子孫であっても、絶対的な善の主体に従って、恐怖の心と戦う良心があるため、どの時代でも悪と戦わない人はいません。
 アダムとハワは恐怖の道を選んだことで、彼らの行為は悲劇を招き、悲しみを引き起こし、絶望の底に堕ちる結果となりました。このように恐怖の立場に立つと、今まで彼らと共にいた命と愛の源である永遠なる神は彼らから離れることになり、彼らは語り尽くせない悲劇の心を感じることになったのです。
 このように考えると、理想の楽園であり、善の楽園であり、快楽の楽園として創造されたエデンの園は、アダムとハワとは何の関係もない楽園となり、彼らは絶望の立場で暗黒の世界に堕ちることになりました。
 罪悪の歴史をたどってきた私たち人間は、生涯を通じて生の目的を見つけ、絶対的な善の基準にまで昇り詰めなければなりません。この使命を切り開いた方がイエス・キリストであることを皆さんは知らなければなりません。
 皆さんは神が立てた言葉に依存し、神が立てた指導者に依存して絶対的な善を追求し続けなければなりません。皆さんは心が頼りとなる良心と、良心が頼りとなる神の言葉を立て、身体が頼りとなる神の意志を代わりにする実体を立て、その神の言葉と実体に自分自身を繋げて絶対的な善の目的を回復しなければなりません。
 そうでなければ、神の永遠で不変で唯一の善である善の中で、本質の自律性、尊厳性、価値性を示すことができず、6000年にわたり臨在してくださった神の希望を達成できるようにはなりません。
 人間はこのように絶対的な善を回復しなければならない運命に直面しているため、人間が築いた倫理道徳も善を追求していないものはありません。また、神が人々に与えた言葉を実践させたのも、人が生活の過程で歴史的な善の絶対的な基準を見つけ、善の目的を達成させるためです。
 したがって、皆さんは歴史的な善の言葉を実践することで、アダム以降6000年にわたり神の言葉を守り、戦ってきた歴史を代表する者とならなければなりません。これが私たちに与えられた最後の課題なのです。
 皆さんはアダムとハワがエデンの園で宇宙的な善の言葉を個別の言葉として扱い、堕落の怨念を残した場所に立たないようにし、かわりに神の永遠なる善の言葉を掴み、永遠に変わらない姿で現れなければなりません。そうでなければ、言葉を裏切り、歴史的な罪の縁を切り離すことはできません。
アダムとハワが堕落によって恐怖の心を抱くようになり、悲劇を感じ、絶望を感じるようになったことは、歴史的に続いてきて終わりのない人類も同じ道を歩むことになるのです。
 世の中には善を追求する人もいれば、悪を追求する人もいます。悪を追求する者には言うまでもなく、善を追求している人たちでさえ、いつも満足と平和を享受している人はおらず、彼らもある時期にはわからない恐怖にぶつかり、うめき声を上げることになります。
 善を追求する人であっても、自らを通じて永遠の善と理念を表現することはできません。なぜなら、人間は復帰の途上にあるからです。堕落によって世界的な恐怖、悲劇、絶望が私たちにまで訪れる終末において、私たちが最も重要なことは、死を厭わずに無限の恐怖、悲劇、絶望と戦って勝利し、独り勝利の復活権を築いたイエス・キリストの人格と生涯を手本にすべきです。彼はこの地上で恐怖、悲劇、絶望と戦って勝利する瞬間まで、自己を忘れて戦い続けたのです。
 人は誰もが自己を立て、自分の価値を全体に示そうとする性質を持っています。このような自己を通じた価値性を発揮しようとするこの性質は良いものです。もともと人間はこの性質の価値を100%発揮していたが、堕落のためにその価値性を喪失しました。
 イエス・キリストは自己を主張し、自己の価値を全体の尊厳に代わって示す価値を持っていましたが、苦境の中で自分が蹂躙され、無視されることでも変わらぬ信念で悪と戦いました。
 彼はまた、自分のための希望をすべて捨てて、自分が残す全体の希望が1000年後、2000年後には必ず成就されるという確信をもって、善の本質を築くために不変の姿勢ですべての悲劇、絶望、恐怖と闘いました。
今、皆さんはこのようなイエスの人格に似せ、その心情を手本にして、自分の存在が現実で言えないほど無視され、軽んじられる場面があるとしても忍耐し、それを乗り越えていくことができなければ、堕落から抜け出すことはできません。
 今度は皆さんが世界のすべてを忘れ、すべての苦しみを乗り越えるためには、絶望の中でも希望を、悲劇の中でも喜びを、恐怖の中でも権威を築いていく必要があります。そして、これが皆さんが果たさなければならない使命です。
 皆さんはイエス・キリストが受けたサタンの侵害を絶対に受けてはいけません。ただし、サタンの侵害を取り除くことができるだけの天国の喜び、希望、権威を持ち、天国の善を示すことができなければなりません。そして、絶対的な善の価値をこの地上に相対的に示し、失われた万物の主人公となる資格を持たなければなりません。それになる日が来れば、神も皆さんを思うままにできなくなります。
 私たちの堕落が本質へ還るとき、私たちは神と共に住むことができ、神を代わって立ち上がる資格を持つことになります。その後、皆さんが万物の前に現れるとき、すべてが栄光の勝利の日を待ち望んで神の前で黙って頭を垂れていたように、皆さんの尊厳の前でも無言で従えるようになります。
 また、皆さんは善の価値を発揮しなければなりません。自分が善であると主張したり証明しようとせずとも、他の人々が皆さんの善の価値を賞賛し、皆さんと永遠の縁を結ぶために追随できるようになるべきです。
 このような価値を持ち、永遠の希望、永遠の喜び、永遠の権威と善を代わりに示す実体とならなければ、神が安息なさることはありません。そのような人でなければ、歴史的な運命の中でこの罪の報いから抜け出すことはできません。
 そうでなければ、皆さんはこの罪の報いを受け、千秋万代の怨みを残すことになります。その事実を認識し、新たな決意と覚悟を持って動かなければなりません。
 皆さんが新しい独立性、尊厳、価値を示す言葉を持っていますか?善の本体を見、感じましたか?それならば、皆さんはそれを守らなければなりません。神が保護してくださった天的な独立性を失わないようにしてください。
 皆さんは統一教会が持つ言葉が永遠の善を紹介できる真理の言葉であると信じていますか?この言葉を通して神を迎え入れることができると信じていますか?それならば、これからはどんな状況にあってもこの権威と尊厳と価値を失わずに前進するとき、永遠の善の本体である神が皆さんにサタンの世界を審判する権限を与えられるという事実を理解する必要があります。
 どのような状況にあっても、この権威と尊厳を失わずに前進するとき、永遠の善の本体である神が皆さんにサタンの世界を審判する権限を授けられることを理解する必要があります。


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御言葉選集2(19)

2023年12月17日 15時37分04秒 | 学習

文鮮明先生の御言葉集 2 - 19. 
強く大胆に、失われた福祉を回復しよう(1957年6月23日)

1957年6月23日(日曜日)、前本部教会
ヨシュア記1:1-9


<祈祷>
 イスラエルの民を選んで立てられたお父様よ、彼らを立てられて御心を成就させてくださいと命じていたお父様の切望の心を思い出しながら、今日私たちはイスラエルの民に代わってお父様の御心を遂行しなければならないキリスト教徒の責任を果たさなければならないことを感じるようになりました。


長い歴史を経てお疲れになったお父様を私たちが受け入れさせてください。長い年月、私たちを心配し、サタンに対抗して戦ってこられたお父様の状況を知らせてください。未来の希望を抱いて選ばれた息子娘たちを抱え、栄光の座に導くために心配されているお父様の心情を私たちが理解できるようにしてください。


今日の私たちが存在するのは私たち自身の意志ではなく、私たちが楽しんでいる生の栄光も私たちによってもたらされたものではありません。今日の喜びはすべて何千年もの歴史を経てお疲れになったお父様の恵みに由来していることを私たちが理解できるようにしてください。


今日、私たちに自慢できる何かがあるでしょうか?私たちの中に宇宙に対して命じることができる真理を持っていると感じる者がいますか?そうしたことは今日私たちに委ねられた責任ではないことを知らせてください。


私たちがお父様の恵みの力を代わりにし、世界の人類に代わって天倫の総合的な御心を表現できる息子娘になるように許してください、お父様、切に願い求めます。


栄光を受けるために人間を立てられるお父様のお心を知り、その御心を達成しようとしている一団がこの地に存在しますか?そのような一団はあなたが万民を祝福できる足場となり、全宇宙を祝福できる栄光の基地になることを私たちが皆悟るように導いてください、お父様、切に願い求めます。


今日の私を自分単独の中で見つけさせないように許してください。歴史を代わりにし、全宇宙を代わりにし、未来の世界を代わりにして天倫の御心の前に恥じることのないお父様の息子娘となるように許してください。そして、そのような息子娘になったことを自慢できる喜びの栄光を私たちに許してください、お父様、切に願い求めます。


お父様、今日ここに集まったあなたの息子娘たちは、自分を正直にお父様の前に現したでしょうか?自分でお父様の許可された祭壇の前に伏せられましたでしょうか?また、自分たちを犠牲にして歴史的な罪を贖うことのできる生け贄の供物となっていますでしょうか?現実の罪を負う新しい供物となり、十字架を背負ってゴルゴダを越えたキリストの人格を見習う子どもたちとなっていますでしょうか?未来の栄光のためにお父様の代わりにサタンと戦い、栄光の功績を持っているでしょうか?


お父様!このような息子娘たちとなり、あなたの栄光を讃え歌うことができるように許してください。そして、この一つの御心に従うことができる忠実な子供たちとなるように許してください。切に願い求めます。


今、この日を許していただいた以上、私たちを憐れんで見てください。私たちが集まる前に許してくださった御心を捨てないでください。お父様、かわいそうなこの国を代わって無数の教派を祝福してください。迷子になっている国と祭壇にお父様の祝福を与えてください。


生命の炎がどこで燃え盛っているのか分からないかわいそうな国と教派に、お父様の慈悲の賜物を許してください。そして、この人類に祝福を授けてください。新しい祝福が早くこの土地と国に現れ、新しい炎が教派を通じて現れるように許してください、お父様、切に願い求めます。


お父様、人間の理性だけを重視する傾向を除去してください。人本主義だけを強調するあらゆる思想を正してください。私たちは天倫を立てる神本主義を受け入れる人格者となり、天の御心を敬虔に受け入れ、お父様の愛を受けることができ、祭司の職務を果たす息子娘となって、この国を代わって立ち上がることを許してください。また、私たちが無数の教会を代わって現れることができるように許してください、愛するお父様、切に願い求めます。


過ごした一週間で犯したすべての過ちを清算できるように許してください。そして、おっしゃる新しいことばと許される新しい恵みに浸り、お父様の御心と降り注ぐ深い愛に浸り、宇宙の前でお父様を誇りに思うことができ、お父様に栄光の崇拝を捧げることができるこの時を許してください、心よりお願い申し上げます。


最初から最後まで全体を統べてください、あなたの御名で祈ります。アーメン。






<御言葉>


みなさんと同じく思いを共有しようとする言葉の題目は「強く大胆に、失われた福祉を回復しよう」です。


本来の人間には福地を懐かしむ必要はなかったでしょう。神が創造された楽園自体が福地であり、人間が永遠に楽しむことができる美の楽園であり、同時に永遠に享楽を楽しむことができる楽園でした。しかし、人間が神が築かれた天倫の法を犯したため、人間たちには恨みが残り、彼らが本来享けるべき福地は望みの福地にならなかったことを皆さんもよくご存じのことでしょう。


もし神が非劣世界を創造されたならば、創造の理想があったはずであり、その理想が現実的に実現されていたならば、創造主はもちろん、すべての被造物も喜びの楽園で楽しむことができたでしょうし、また人間は自分たちの喜びに感謝できたでしょう。しかし、人間が堕落したため、これらすべてのことが人間とは無縁になったのです。さらに、神と人間の前に美の象徴である万物も今日までにわたりにわたり仇になり、感謝と栄光を神に返さずにいます。


神には万物を創造された目的があり、その目的を達成しなければならない責任がある以上、神はその御心を必ず達成されなければならないのです。そうでなければ神の創造の理想や帰還史の目的も喜びの世界を紹介できる御心として現れることはありません。また、この地に住む万民も生の価値を感じることができず、全宇宙も存在の価値を感じることができないのです。


それゆえに神は創造目的を必ず達成するために長い歴史を経て、人間にその目的が達成されるようにするために行動されたのです。これが6千年にわたる長い神聖の歴史であることを皆さんはよくご存じのことでしょう。


アダムとイブが堕落すると、神はアダムとイブを造られたことを後悔し、嘆息されました。このように神の嘆息は皆さんの祖先によってもたらされたものであるという事実を皆さんは痛感しなければなりません。


神が嘆息されているため、神によって造られた全ての被造物も神によって嘆息されているわけです。中心の創造主が悲しんでおられるため、すべての被造物も悲しむことなくはいられないのです。


では御心を設定し、万民を通じてその御心が達成されることを望まれる神様が主理される目的は何でしょうか。その御心を達成させるための目的がないかぎり、創造主が悲しんでおられ、祝福されていないことがありません。それではその御心を設定し、祈りによってその御心が成就されるようになることが求められているのが帰還主理の目的です。


神の嘆息を解消できる一人、言い換えれば6千年にわたる歴史を通じて神を嘆息させた人間の祖先から生じた人類の罪の歴史を阻止し、この罪の歴史を清算して神の嘆息を解消できる一人、すなわち歴史を代表する本来の一人を探しているのが帰還主理の目的であることを皆さんは確実に知っておかなければなりません。


みなさんが神の前に立つとき、贖罪の恩寵を求める心も大切です。また、家族、国家、そして世界のために贖罪の恩寵を懇願することも必要でしょう。しかし、私たちは自分の悲しみと嘆きを解消するためだけでなく、神の心の奥深くにある、創造以降に人間が誤って抱えてしまった憎しみを解消するための訴えが必要だと理解する必要があります。


今、私たちが希望の楽園、福地の楽園を称賛し、その楽園に入ってすべての被造物を代わりに父に栄光を帰し、神に感謝をささげることができる人は誰でしょうか? 彼は人間が神に対して犯したすべての罪を贖うべく懺悔の供えとなりうる人でしょう。


さらに、そのような人はこれまでに人間が犯してきたすべての歴史的な罪を清算し、神が6千年にわたり苦労されてきた歴史的な先祖たちの罪まで負担し、「父よ、あなたの望みと嘆きをすべて私に任せてください。私はあなたの望みを実現し、あなたの嘆きを解消いたします」と言える人でしょう。


神が本来あなたの喜び、理想、栄光の実在であった人類の先祖アダムを代わりにできる存在が地上に現れることを期待していることを理解しなければなりません。私たちは罪の歴史から解放される運命にあります。


したがって、すべての罪と嘆きの要素を清算し、神に向かって「これによってあなたが抱えていたすべての憎しみを解消してください。今日以降、お喜びください!」と言える、歴史上になかった生け贄の供えとなるような息子や娘が現れることを期待しながら、神が今までに行ってきた帰還主理の歴史を理解する必要があります。


さて、神の帰還主理の歴史を振り返ると、神はアダムが堕落した後、長い1,600年の歳月を経てノアという一人を立てられました。


神はノアを立てることでノアとその家族を救おうとされ、さらにはノアを通じて人類を代表する祭司の立場に置こうとされたのでした。これが神の御心でした。


しかし、それよりもノアが1,600年間にわたって自分を立てるために苦労された神の苦労を知り、神の悲しみを感じていたとしたら、そしてノアの家族の8人がこのような神の心を感じていたとしたら、彼らには隠れた誤りによる憎しみはなかったでしょう。


個人の嘆きと苦しみから解放されるだけで救いが完了すると考える人々もいますが、そうではありません。私たちは個人の罪を懺悔すると同時に宇宙的な罪悪史を清算しなければならず、サタンによって神の胸に深く刺さった嘆きの釘を抜いた後に、「お父様、安心してください。今日までに帰還主理をしてこられた神様、憎しみを解いてください。ハレルヤ!アーメン!」と言えるようになるべきです。神はこのような勝利者が地上に現れることを、モーセ以降から今日までずっと願っておられます。


ノアの家族は審判から救済されたので、感謝の生活を送るべきでしたが、習慣的な生活を繰り返してしまいました。主導者たちが前進し、チェオンルンに立ち向かった私たちも同じく、このような失敗に陥りやすいです。したがって、習慣的な生活を繰り返す人になってはいけません。


神によって自分と家族を救っていただいたノアのように常に新しく立つ者となり、全人類がその心を持つ日を望みつつ、父の心に直面し、ノアのように立ち上がった者たち、また神の前に絶対の信仰を築いたノアの家族たちは第二の堕落を成立させる失敗を犯さなかったでしょう。


神はノアの家族の失敗の後、400年後にアブラハムを選ばれましたが、アブラハムもまた失敗しました。その後、イサクを通じた犠牲の条件を経て、ヤコブの21年の奴隷生活を経てようやく祝福が成就しました。


皆さん!21年間にわたる知られざる苦悶を抱え、ハランの地で羊を飼いながら使用人として生活したヤコブの状況を考えてみてください。神はヤコブを呼ばれた目的は、ヤコブを通じてアブラハムに祝福をもたらす御心を達成することだけでなく、さらにはアブラハムが犯した条件によってヤコブの子孫たちが400年間辛酸を舐めることになったという事実でした。


私たちは神が御心を立て、2000年間にわたり多くの苦労をなさった結果、見つかった一人がヤコブであることを理解しなければなりません。ヤコブの後400年の歴史的な奴隷生活を経て、神はヤコブが立てた一代復帰の基準で、ミョーセを立てました。こうして、長い歳月にわたる神の全体的な奴隷の結果として、モーセが見つかったのです。ですから、モーセが責任を果たすと、人間だけでなく、神と結びついた憎しみまで解消されるのです。モーセはこの条件的な立場から国家を代表して立てられたのでした。


モーセは神が全歴史を組織されて得た成果体として、国を支配し変えることのできない存在でした。このように選ばれたモーセは、歴史的な悔いを取り除く責任が自分にあることを感じ、神の全ての悲しみを解消し、また、民族的な悲しみも負う立場にありました。


そのため、彼は40年間の宮廷生活、40年間のミディアンの荒野で、合わせて80年間、先祖たちから引き継いだイスラエルの選民権を失わずに立ち上がりました。


モーセは、時のファラオと対峙しているときにも、天が望む意志だけを追い求める気概を持っていました。また、モーセは国を支配し変えることのできない資格を持ち、サタンと対決する資格も持っていましたが、彼を代わりにできるイスラエル民族が存在しなかったため、神はファラオを多く強制するようになったことを、あなたがたはよく知っているでしょう。


では、イスラエル民族はモーセに対してどのような心構えを持つべきでしょうか? 彼らはモーセが神が何千年もの間苦労して、そして先祖たちが何千年もの間努力して、すべてを与え、すべてを犠牲にして築かれた唯一の中心人物であることを理解すべきでした。イスラエル民族はモーセの個人的な価値だけでなく、国家全体の価値として、または人類全体と同等の価値として感じ、彼と一体化していれば、イスラエルの多くの人々は荒野で倒れることはなかったでしょう。


モーセ以降、何千年もの歴史を経て預言者たちがこの地に来る目的、また国を代表してイエス・キリストがこの地に来る目的は何だったのでしょうか。神の労苦と嘆きを代わりにするためであり、人間と万物のために嘆きを代わりにするためでした。しかし、だれがイエスが国を代表して現れる条件的な存在であることを知っていましたか? イエスが4,000年間にわたって嘆いていた神を代わりにしてサタンに打ち勝つ条件を築く人物であることを、だれが知っていましたか? 誰も知りませんでした。


それでは、今日のあなたが見つけるべきは何でしょうか? 神の嘆きと人間の嘆き、そして万物の嘆きを代わりに取り除いてくれるその一人を見つけなければなりません。そして、あなたがその人と一体となるべきです。もしもそのようなあなたになれないならば、あなたは希望も神の栄光も見つけることができません。


この使命を持って来られたのがイエスであり、神が4,000年間苦労して選ばれたイスラエル民族、ユダヤ教会はどうでしたか? 彼らはメシアが来て、天地に結びついた嘆きを代わりにしてくれる一つの中心を疑い、彼の前に罪の旗を掲げたことを、あなたは知っておく必要があります。


この使命を帯びておられた方がイエス・キリストでしたが、神は4,000年にわたり苦労して選ばれたイスラエルの民やユダヤの宗派はどうでしたか? 彼らは神の名を呼びながら、神のために来られたメシア、天地に結びついているため息を解決する中心的存在を信じず、イエス・キリストの前で罪悪の波に立っていた事実を皆さんは知っておかなければなりません。


イエスが来るまでの悲しい歴史とこの悲しい歴史を解消するための天運の内容を知っていた人々がいれば、イエスを十字架に磔にしなかったでしょう。また、イエスが十字架にかかった時、右側の強盗がイエスを神の子と証言するのではなく、見守っていた聖徒がイエスを証言して生かさなければなりませんでした。しかし、当時そのような責任を担った弟子がいなかったため、今日私たちがそのような責任を担わなければならないのです。


今日まで神は人間のためにため息を解消できる存在をこの地に送り続け、人間はそのような方が現れることを願ってきました。これが神の摂理の歴史であり、同時に人類の歴史です。


今日私たちがこのような使命的な摂理観で見ると、モーセはアエギプトからイスラエルの民を導き、カナンの地に入ってカナンの7つの民を滅ぼす運命にあった一方で、イエス・キリストはモーセが築いた民族の帰還の期待の上に、世界の回帰の目的を達成するためにこられたと言えます。


今日、砂漠や荒野などのこの地、バロの宮殿などのこのサタンの世界でも、そのようなイエス・キリストの意志が現れています。しかし、イスラエルの民がモーセを指導者として立てなかったため、モーセと一緒に神の権能を持ってヨルダン川を渡り、カナンの7つの民を滅ぼして天国を建設するべきだったが、それを成し遂げられずに荒野にとどまることになったように、今日でも天国を建設できる直接的な使命を担えない人はカナンの地に入れずに荒野にとどまることになるという事実を、キリスト教徒たちは知らないままです。


では、荒野の定められたイスラエル60万人がモーセと離れたときの仇敵の条件は何だったのでしょうか? 今日の皆さんがこれを知らないといけないのは、イスラエルの中で敵意を抱いていた者たちがアエギプトでの生活を懐かしみ、モーセの道を妨げ、摂理の道を妨げる一団が現れたことです。


最初、モーセを先導してイスラエル60万人がアマレクと戦うときには、モーセが手を上げればイスラエルの民が勝ち、モーセが手を下げればイスラエルの民が負けるという一体の関係が築かれていましたが、後に変わってしまったのです。


歴史的に見て、神の御心を受けて進む人は、まず見えないサタンとの戦いがあり、次に目に見えるサタンとの戦いが生じます。その後、物質的な苦境を通した戦いが続くことになります。


したがって、イエス様にも個人的な試練がありました。聖殿を中心とした環境的な試練があり、また山の頂上で立って世界を歩んだ象徴的な試練もありました。これらの出来事は、戦いが必要な原則のもとに現れました。


それでは、神の御心を受けて進んでいたモーセはどのような心を抱いていたのでしょうか? 彼もまた神の御心を受けるために敵と戦える心を持っていました。そして、荒野に出てアマレク族と戦える心、飢えと戦える心、死を覚悟して堂々と立ち向かえる勇気がありました。


モーセはエジプトの宮殿で40年間、ミディアンの荒野で40年間、合計80年間、サタンと戦い、自分自身と戦い、飢えと戦いました。そのような戦いで勝利すると、神はモーセを呼ばれました。このような道を歩んだのはモーセだけではありませんでした。イエス様も同様でした。


したがって、イエス様自身にとっても、サタンとの対決を象徴するサタンの試練がありました。最初には自分を克服するために、自分を一つの生贄として飢えと戦った40日の断食期間がありました。その後、物質の条件を超えるために「石をパンに変えてみよ。」という試練がありました。


なぜイエス様がこのようなプロセスを経なければならなかったのでしょうか? それは人間が堕落によって神を失い、子女の尊厳を失い、万物を失ったために、これらを再び見つけるための条件が必要だったからです。


したがって、今日の聖徒たちが進む荒野にも、個人でも国家でも世界でも関係なく、悪の世界を代表するサタンの試練があります。そして、神の子女の栄光の代わりに、十字架の試練が残っています。その次には万物を失ったため、受ける飢えの苦しみを経なければならないということです。


宮殿にいたイスラエルの民はモーセと同じ心を持っていたため、団結してサタン的な試練を撃退しましたが、イスラエルの民を代表する立場として、荒野に出てアマレク族と戦う場に飢えが一緒にぶつかってくると、モーセを責めるようになりました。


では、彼らがモーセを責める原因はどこにあったのでしょうか? 何が原因で責めるようになったのでしょうか? 彼らが荒野で生まれ、そこにとどまりながら神の御心に立ちはだかっていれば、モーセを責めることはありませんでした。しかし、400年間にわたるアエギプトでの生活が彼らの習慣、彼らの生活環境が荒野で問題となったことです。今日の皆さんはこれを心に留めておかなければなりません。


もう一度言いますと、モーセを信じて出発したイスラエルの民でしたが、彼らは出発前の生活環境に対する思いを捨てきれず、結局は滅びることとなりました。また、それがモーセの進むべき道を壊し、モーセとイスラエルの民を分離させる原因となりました。


では、今日の世界的なイスラエルを代表し、世界中のクリスチャンたちが受け入れなければならないのは、第一のイスラエル民族が経験した苦難の時代と同じ時代に置かれながらも、神の選民らしい姿勢を持つことです。同時に、単独で国を代表し現れた指導者の立場を把握せず、40年間の荒野時代で飢えに苦しむとすぐに皆が不信と不満を抱き、滅びたイスラエルの民の歴史を踏まないようにすべきです。


イエス様の前途を破壊したのは誰でしょうか? 神の御心を代わりにし、歴史性を代わりにし、全体の価値を代わりにし、選ばれた民族であった彼らでした。彼らは神の御心を達成するための生活をし、そこに信仰の基準を立てる必要がありました。つまり、モーセの御心を受け入れなければならなかったイスラエルの民が、モーセを信じず十字架に磔にされるように、イエス様の御心を受け入れなかったイスラエルの民が彼を信じず十字架に磔にする原因となりました。


したがって、モーセの御心をヨシュアとカレブが引き継いで2世代を連れてカナンに入ったように、今度は第2のヨシュアとカレブがイエス様の御心を引き継いで、第2の使徒たちを連れて世界的なカナンの福音に入り、地上天国を建設しなければなりません。これがイエス様の望みであり、再臨以上のものです。


したがって、今日の意志に呼ばれ、選ばれた私たちは、このような歴史的な事実に対する神聖な意志を理解し、民族的な罪を再び犯さないよう心がけなければなりません。イスラエルの民が歩んでいた罪の道を再び歩むあなたがたにはなってはならないということです。


では、私たちはどうすればよいのでしょうか? 終わりに来る主は、6千年にわたり神を嘆かせてきた条件を取り除き、多くの聖徒たちの信仰の目的を達成するために来られることを知っている私たちになる必要があります。そして、イスラエルの民が初めてモーセに会ったとき、自分たちの所有をすべて捨てなければモーセに従えると知り、彼らが荒野に出ても自分たちのすべてを捨て、モーセだけを信じて従ったように、彼らとモーセとは分かたれなかったことも理解する必要があります。


今日の理想の園を眺めながら再臨の日を迎える準備を進めている私たちにとって最初に備えなければならないものは何でしょうか? それは再び来られる主は6千年間、神が労働し、先祖たちが労働した成果で見つかる方であるということを心に留めることです。


もし彼がこの地に来られるなら、私たちはどうすべきでしょうか?私たちは喜びの心をもって、世界のすべてを彼にささげ、彼だけを歴史の代理者として、罪悪の歴史を終結させる存在として、彼だけを神の代理者として、そして彼だけを人類を代表する存在として迎え入れる心を持つべきです。


もし世界のキリスト教徒たちがそうした心を持たないなら、神が何千年も苦労して築かれたモーセが荒野で倒れ、その結果、怨みが残ることと同様の結果になるでしょう。ですから、私たちは再び来られる主のために労力を惜しまない者にならなければなりません。


今日の私たちは、カナンの福音を見据えていたモーセが亡くなった後、その後継者であるヨシュアとカレブの使命を歴史的な観点から引き継いでいることを、それぞれが意識していなければなりません。


つまり、イスラエル60万人を導いてカナンの地に入ることで、何千年もの間に結びついた神の怨みを解消できる献身的な条件を備え、ヨシュアのような人々にならなければなりません。


今日の私たちがヨシュアやカレブと同じ決意や覚悟を持たないなら、荒野で有利な状況にあるこの国を再建し、カナンの福音に入ることはできず、聖殿理想を完成させることもできません。


皆さんは今や神の愛と怒りを理解しているので、祈りの目的が変わらなければなりません。また、神がモーセと不信仰なイスラエル60万人を荒野で払いのけて、ヨシュアとカレブを立てて2世代を連れて再びカナンに向かわせたその心情を知る者とならなければなりません。


皆さんは現在どの段階に到達していますか? 先祖たちが苦難に耐えながら歩んできた6000年の歴史を基に、審判の旗を高く掲げる立場に到達し、イスラエルの民に向けてヨルダン川を渡ろうと呼びかけていたヨシュアとカレブの使命を引き受けるべき位置にいます。


それでは、私たちがそのような責任と使命を引き受けるとき、神は何を強調されるでしょうか? 神が荒野でモーセの使命を引き継いだヨシュアに「強く勇んでください」と言われたように、私たちにも「強く勇んでください」と強調されることでしょう。


今、私たちは世界的なカナンの福音を見据え、そこに進むことを望みながら、自分たちが荒野にいるという事実を知り、ヨシュアとカレブのような皆さんの心とならなければなりません。


そして今日、世界中のクリスチャンはどのように生きるべきですか? ヨシュアとカレブのような存在が現れ、この地上のキリスト教を導いていくように天に呼びかけなければなりません。中心を失い混乱と混乱を引き起こしているこの荒野時代において、それを立て直し、前進する方向を示すことができるヨシュアとカレブのような存在が現れるべき時が来ていると、今日のクリスチャンたちは確実に気づかなければなりません。ここで問題になっているのは教派ではないのです。私たちはこれを理解する必要があります。


ヨハネの黙示録11章では、2本のオリーブの木について預言されています。これは何を示しているのでしょうか? それは世界的なカナン復帰の計画の出発の前に、ヨシュアとカレブのような存在が現れることを予告しています。


モーセの代わりに現れたヨシュアとカレブがユダヤ人を導いてカナンの地に入ったように、今日もイエス・キリストの福音を持ってヨシュアとカレブのような人々が現れ、神の民を導き、世界的なカナンの福音、新しい希望のカナンの福音に向かうことになるでしょう。


ヨシュアとカレブに従ってカナンに入った一団が、カナンの7つの部族を滅ぼしたように、皆さんにもサタンを滅ぼさなければならない責任があります。天の戦士となり、そのような使命を果たす責任があることを心に留めなければなりません。


そして、新しい言葉を語るヨシュアやカレブがこの地のどこかに現れても、人々が心の扉を開き、その言葉を聞いて天に向かえるようにするのは私たちです。


ヨシュアとカレブが歩んだ道は冒険の道でした。彼らが歩んだのは難しい開拓の道であり、戦いの道でした。行く先々で開拓者の使命を果たさなければならない困難な道でした。時には個人的に、または環境的に突き当たる試練と戦わなければならなかった戦いの使命が彼らにはありました。


モーセがイスラエル民族を導いてカナンの福音に向かって旅立とうとしたとき、ファラオはモーセを殺そうとし、イスラエル民族の中にもモーセを信じず反対する者が多かったように、ヨシュアとカレブにも同様の出来事がありました。これを知っている神はヨシュアとカレブに対して「強く勇んでください」と言われました。しかし、「強く勇んでください」とはどういう意味でしょうか? それは人間的なすべての条件を超えるという意味です。


従って、イエスも3度の試練を通して人間的なすべての条件を超える勝利を収めました。ですから、2000年が経過した今日の皆さんも人間的なすべての条件を超える道で強く、勇敢でなければなりません。


ヨシュアは個人的な戦いの使命から最後の瞬間まで勝利の使命を歩むために、モーセの代わりに立たされた立場であったため、神は彼に対して「強く勇んでください」という言葉と共に、「相手の個人を敵とし、相手の民を敵とし、相手の土地を敵の土地と見よ」という忠告の言葉を述べました。今日の私たちはこれを確実に知らなければなりません。


今日、ヨシュアと同じ立場に立っている私たちならば、行く先々で個人的な敵がいるでしょう。環境も私たちに打撃を与えるでしょう。国と国家も私たちを打つでしょう。しかし、選ばれた私たちが結束し、死を覚悟し、最後まで戦う第二のヨシュアたちになれば、死を覚悟し、イエス・キリストに従い、世界のキリスト教を担当できる聖徒たちになれば、私たちは目の前に広がるどんな戦いの道も乗り越えることができます。だからこそ神は私たちが強く、勇敢であることを望んでいます。


それでは私たちは自分をどう見つめるべきでしょうか?まず第一に、強く、勇敢でなければならない立場にいる私たちは、自分を正しく見ることができなければなりません。自分を見つめて、間違いがあれば自己批判できるようにならなければなりません。また、30年または40年の人生を経た自分だとだけ思わないでください。生きている現在の自分としてだけ知るべきです。


それでは、私たちはどのような存在でしょうか? 私たちは今日の私が存在するまで、神が6,000年間にわたり世界的な戦いを通して苦労されたことを知らなければなりません。これは神の苦労によって見出された存在です。ですから、皆さんは自分を育ててくださった神の恵みを忘れてはいけません。また、神の苦労を代わりにした犠牲であることを自覚することも大切です。


そして、皆さんが存在するまでには、皆さんを見つけ立てるために苦難の道、険しく困難な戦いの道を歩んで出てきたこと、そして語られなかった神の怒りと嘆きがあったこと、何千万もの先祖の血の犠牲があったことを知らなければなりません。そして私たちを救うために苦労してくださった神の愛の気持ちを感じることができる息子娘にならなければなりません。


今こそ神に私たちが祈るとき、「6,000年前の父の心と、6,000年後の今日の父の心を知ることのできる私たちになりたまえ。そして父の姿を代わりにできる私たちになりたまえ」と祈るべきです。また、死んでも生きていても犠牲になる決意があり、「すでに犠牲としてささげた私たちですから、父よ、み旨を行なってください」と祈ることができるべきです。


何千年もの歴史を経て、私たちの先祖たちは血の祭壇を積み上げてきました。イエスも十字架の犠牲として帰っていきましたし、イエスの後、2,000年の間、キリスト教の聖徒たちも血の祭壇を築いてきました。したがって、今私たちはそのような祭壇の上に立てられた存在であることに気づかなければなりません。


そんな立場から父を呼び、父の声を聞くことができ、神を代わりにして人類を救うために父の前に訴えることができなければなりません。また、6,000年の歴史を篭絡してこられた神の悲しい心と怨みを知り、神を慰める子供たちにならなければなりません。これらのすべては皆さん自身が判断し、実践すべき問題であると言えます。


このような立場にいる私たちは、今後どのようにすればよいでしょうか? 神の救済範疇の歴史を終結させるために多くの先祖たちが立ててきた伝統を受け入れ、神が運行されるであろう条件を破滅させようとする敵サタンがいることを感じ、彼を撃退するために埃のような細胞の一分子でも動員する責任感を感じる息子娘にならなければなりません。


このような立場から私たちは神を呼ぶならば、神は昔のモーセだけを相手にされた神ではなく、イスラエルだけを相手にされた神でもなく、今日の私たちとも共にいる神であることを悟ることになります。その神は天地万物を創造された神であり、歴史の中で先祖たちに対応された神であり、今日の私に対応してくださる神であるということです。


特に神は、イエス・キリストがゲツセマネの園で最後の試練を受け、一つの犠牲として差し出そうとしたとき、共におられなかったことはありませんでした。そして、すべての民を愛されたイエス様の犠牲の精神が後代の人々に一つの伝統として引き継がれ、キリスト教の復興が起こったのです。


では、今日、4,000年の歴史を代わったイエス様が残された真理の言葉を信じている聖徒たちは、将来どのように行動すべきでしょうか? サタンの網に囚われた人類を救える天の戦士の姿を持つ息子娘になるべきです。また、神の意志を正しく理解し、昔のイスラエル民族が神の意志を理解できなかったために荒野でサタンの餌食となった経緯を踏まえて、同じ過ちを繰り返さないようにする必要があります。


そして、皆さんはモーセが再び神の前に立つまでに荒野で40年間尽力したその構築を信仰の根本として採用し、イスラエルを代表して80日間にわたり神を引き留め、堅固で強靭なモーセの性格を手本にする必要があります。また、皆さんは第2のイスラエルの選民権を代表して、世界的なカナンの回復の理想を達成する再臨の種族であることを認識する必要があります。


したがって、皆さんはこれらのことを考え、「父よ! 6,000年の過程で現れた全体の戦いが私の使命に現れるであろうとしても、私は乗り越えるであろう」と宣誓し、さらには6,000年にわたる天の意志を確立するために死の危機を乗り越え、この地球を支配しているサタンの家族に向かって、「私は爆弾だ。あなたたちの胸を爆発させるであろう!」と叫ぶことができるような人々にならなければなりません。


この視点から、私たちは神がヨシュアに「強く、勇んで行動せよ」と言われた言葉を私たちの教訓として採用する必要があります。イスラエル民族がその言葉の意味を理解できなかったため、カナンの地に入っても12人の使徒を中心に再洗礼の歴史を経験したことを、皆さんは原理を通してよく知っています。ですから、今日、私たちがそのようなヨシュア的な責任を果たせないならば、天国理念を築くためにこの地を訪れる主も皆さんとともに苦難の道を行かれざるを得ないのです。


皆さんが強くて勇敢な心で6,000年の歴史を代わって死を覚悟し、敵との一大決戦を戦って勝利すれば、それによってどうなるでしょうか? その時になって初めて天地が揺れる日が訪れ、何千年もの先祖たちが天に向かって血の訴えをしたあの怨みが解かれることになります。


また、創造主の喜びが現れ、永遠に変わらない神の愛の下で、何千万もの聖徒が楽しみ、地上のすべての人々が楽しむようになります。そして神はあなたたちをサタンの前に立たせ、あなたたちの先祖たちもあなたたちを立て、あなたたちも兄弟として互いに誇り合えるようになります。


ですから、神に対して「彼はあなたの子です、彼を愛してください」と言える存在があなたたちの中で現れなければなりません。真実の中によって、そのような一つの存在がこの地球上に現れなければ、人間の喜びも、霊的な喜びも、神の喜びも、天と地の喜びも成り立つことはありません。これをあなたたちは心に留めておかなければなりません。


では、今日、私たちがその日のために6,000年の恨みの罪悪史を清算し、「天よ、私を見て喜んでください。私を見て怨みを解いてください。私を見て6,000年の嘆きを忘れて、創世以来初めて笑える日を迎えさせてください。」、また「霊界にいる先祖たちよ、天が喜ぶので私たちと一緒に答えてください。」と言えるそのような存在にならなければなりません。それによって堕落による6,000年の恨みをサタンの支配下に投げ越え、人類に神の愛を紹介できる私たちにならなければなりません。


必ずそうなる者がなければ、世界的なカナンの復興でイエス・キリストを代わりに立て、70文の代わりになり、神が求めるような子供たちになり、神が喜ぶであろう家族になり、神が信頼できる国民になり、永遠の幸福の楽園、理想の福音が築かれることになります。これをあなたたちは確実に知っておかなければなりません。


今日、この時代は6,000年の歴史を終結させるべき時であり、最後の審判を下して意志に向けて前進しなければなりません。後ろを振り返る人になってはいけません。ソドムとゴモラが滅びるとき、ロトの妻は昔の故郷での家庭生活が恋しく、そこで暮らしていた友人たちが恋しく、その場所の環境と習慣が懐かしく、後ろを振り返ってしまい、塩の柱になってしまいました。


悔悟によらずにモーセに従っていたイスラエル民族も、荒野に出て苦労がかさんできたとき、昔の悔悟を恋しがってカナンの復興に入らず、途中で倒れてしまいました。彼らが荒野に出て滞在する場所も、食べるものもなくなると、「昔はここでパンも食べ、時折肉も食べたはずだ……」とモーセを恨み、彼に不満と愚痴を訴えたのです。その時、イスラエル民族の中でそうした過去を回顧しながら不平を言った者たちは誰でしょうか。それは悔悟にあったときに豊かだった者であり、他人を支配していた人々でした。


したがって、今日、あなたたちはそのようなイスラエル民族の前例を踏むべきではありません。これを教訓とし、あなたたちはこの瞬間に何を見つめるべきか? あなたがたが住んでいる家ですか、あなたがたが友達付き合いしている友人たちですか? あなたたちの家と友人はあなたがたが見つめるべきものではありません。あなたたちがとどまるべき家があるなら、それは荒野のような荒野であり、あなたたちの友人がいるなら、それは荒野で有利に立っている兄弟たちです。


ですから、あなたたちが天の道を行くために、個人から家庭、社会、民族、国家まですべてを捨て、天のものとすべきです。つまり、世界の私を捨て、天の私を見つけなければならず、世界の家庭を捨て、天の家庭を見つけなければならず、世界の種族を捨て、天の種族を見つけなければなりません。世界の民族を捨て、天の民族を見つけ、世界の国家を捨て、天の国家を見つけて立てるべきです。それらを見つけて立てるためには、あなたたちは強く、勇敢な心をもって、全力を尽くして前進しなければなりません。


そのような者であれば、個人を見る場合に個人が倒れても感謝し、国々と国々が倒れても感謝できる態度を持つ天の子供になるでしょう。


今日、私たちはこのような覚悟で個人に対して戦うことができ、家族、国家、世界に対しても戦うことができ、この地上のサタンに「去れ」と言える勇気を持って進んでいかなければなりません。


天に向かっての態度を持って、生涯の終わりまで進む者がいれば、彼は死んでも復活してその恵みに現れ、もし死ななければ、第2のイスラエルとして許された恵みの園で生きることができるでしょう。これを今日、あなたたちは心に留めておいてください。




<祈祷>
 愛するお父様! 今日集まったこの姿、アベルが呼びかけた懇願の叫びを聞く心情的な子供たちになるように許してください。またアベルの血を代わりにし、キリストがゴルゴタの丘で血の供物としてささげられたとき、全人類に言いたかった言葉を、私たちの血を通して、私たちの心を通して、私たちの認識を通して、話すことができるように許してください。


歴史の過程で行ったり来たりした数多くの先進的な足跡が彼らだけの足跡だと思っていましたが、今やその足跡は今日私たちも歩むべき足跡であることを悟りました。地上には多くの人がいますが、見劣りする私たちに6,000年の恨みを解放してくれるあなたの事情を知るあなたの悲しい事情を理解できる子供になるように導いてください。


この地上には優れた人も多く、立派な人も多く、能力のある人も多くいますが、不足している私たちを見つけに来て、天の事情を知ってほしいと言っている父の悲しい事情を共感できる子供に導いてください、おお父様、切に願います。


今日、私たちはヨシュアが強くて勇ましいだったことと同じように、国を代表して強く、勇ましくなければならない。世界を代表して強く、勇ましくなければならない。そして地を代表して強く、勇ましくなければならない。お父様、私たちの不足を共にしてください。


歴史的なすべての試練を私たちの信仰で克服し、超越できるように導いてください。お父様、熱心に願っています。


ヨシュアやカレブのように、たとえ死んでもカナンの福を見つけて入ると言っていた強くて勇ましい群れが、キリスト教徒の中で早くも多く現れるように許してください。ここに参加した息子たち、娘たちが、復活の命のエネルギー、神の命のエネルギーを感じ、父と共に栄光の一日を早くも迎えることができるように導いてください。


お父様の許可を得た言葉を私たちの生命の種とし、私たちの生命の中心として感じることができるようにしてください。父の祭壇と聖所の前に進み、大祭司としての責任を果たすことができるように導いてください。愛するお父様、心から願っています。このすべての言葉を主の御名によって祈ります。アーメン。


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御言葉選集2(18)

2023年12月16日 12時10分37秒 | 学習
「文鮮明先生の言葉集 2 - 18. 
主の栄光に参与する者となろう (1957年6月16日)」
1957年6月16日(日曜日)前本部教会
マタイによる福音書25:31-46



<祈 祷>
愛するお父様

この村で糾弾され、他の村へ逃れていたキリストの3年間の苦難の時期を、私たちがこの瞬間に振り返り、理解できるように許してください。


愛を持ち、現れたイエス・キリストは、切実な思いで無限に悲しい涙を流されましたが、イスラエルの民は逆らう矢で彼を否定し、さまざまな陰謀を巡らせました。これを今一度感じるべきでしょう。


今日、私たちは昔のユダヤ人やファリサイ派、昔のユダヤの民を軽率に批判し、彼らが当時に誤ったことを咎めることがよくあります。しかし、私たちは2000年前にイエス・キリストが来られた当時に生まれていたとしても、イエス様に反対して彼をピラトに引き渡すことさえするかもしれません。それどころか、それらの人々よりも劣った存在であると感じさせてください。


歴史の車輪は回り、宇宙は変わり、運命の時は巡っていますが、帰還の新たな歴史はまだこの地にため息と不満と怨みが残っていることを、知らせてください。


人が不信の立場に立つと、天倫が破壊され、天の業が台無しになることを知らせてください。ここにいる子供たちの一生に一度の機会があれば、自分のすべてを捨てて神の意志を達成できるように導いてください。


お父様、私たちが天のものを天のものとして立てないと、お父様は悲しむことを知り、今、私たちが天のものを天のものとして奉納し、私たち自身のものまで天のものとして捧げられるように許してください。切に願い求めます。


ここにいる子供たちの心をお父様が一つに結びつけ、受ける者と与える者の心に差異がなくなるようにしてください。私たちの心がお父様の心と一体となり、お父様の望まれる意志の前に達し、和解の主体となるように許してください。お父様の恵みの前に調和できる存在となるように許してください。


私たちの本質と本性が永遠にお父様を尊敬すべきことをお願いします。私たちが持っているこの理知的な心と、お父様を尊敬しようとする心を妨げないでください。私たち自身が非常に小さな存在であることを感じさせてください。


厳粛なるお父様の前で、自らの不足を告白し、謙虚な心で貴方の愛の手を崇拝できるように、お許しいただけますよう、お父様、切に願い求め、望んでおります。


この一時間をただお父様に託しているので、導いてください。そして、各地で苦労している家族にも同じように恩寵を現していただけますよう、お父様、切に願いながら、すべての言葉を主の名において祈りました。アーメン。




<御言葉>


今日お話しするテーマは「私たちは主の栄光に参加する者となろう」です。


堕落した人類は、自分たちの希望であり、理想的な栄光の日が現れるのを切望しています。神様もこの一日を見つけるために6千年もの長い歳月を苦労して来られましたし、イエスと聖霊も2千年という長い歳月の中で戦いを繰り返しながら苦労して来られました。また、天を崇拝する多くの聖徒たちもこの一日を見つけるために無限の犠牲を乗り越えて来たことを知っておくべきです。


この犠牲は百度死ねど千度死ぬ一日がないと超えてはならない犠牲です。この一日を越えるためには、これまで人間だけが動員されたわけではなく、多くの宗派はもちろん、霊界の多くの導主たち、さらには三位一体まで動員されてきたことを、私たちは深く感じなければなりません。その一日を現すために神様は6千年も我慢され、人間たちは多くの苦痛と逆境を経て、新しい希望、新しい指針思想を求めて出てきているのです。


神様は目的をもってこの世界を創造されたため、創造された被造万物は神様の意志に従いたければならないものです。それゆえに神様の意志を成し遂げなければならない人間が天と地が喜べるその一日を立てないならば、これまでの神様の苦労と人間の苦労は無意味なものになってしまいます。


神様と人間に希望の一日を新たに紹介するためにこの地に来られた方がイエス・キリストです。私たち人間には神様が成し遂げようとしている意志を達成していただける力も素材もありません。それゆえに私たちはそのような力と素材を備えるために、仲介者として来られたイエス・キリストに従っているのです。


そのようなイエス様がこの地においでになり、望まれたことは何でしょうか?それは、彼の生涯を通じて人類が望む希望の一日を築き上げ、天倫と人倫をこの地に築き上げ、人類に神の福音を伝えることでした。しかし、イエス様はユダヤ民族の不信仰によって、この地で神の前に、また人間や万物の前にその意志を達成できる勝利的な基盤を築くことができないまま去られたことを皆さんは理解すべきです。


言い換えれば、イスラエル民族はイエス様を最高の栄光の支配者、全人類を代表する栄光の主役として崇め、誇示できる瞬間と状況にありながらも、そのような祝福を受け入れることができなかったため、神様が築こうとされた新しい勝利の土台はこの地上に築かれないこととなりました。


だからこそ、イエス様は十字架の苦しみを経て今日まで2千年の長い歳月をかけて歴史を切り開いて来られる中で、再びこの地に来て30年以上の生涯をささげて達成し得なかった意志を達成し、神の栄光、あなたと聖霊の栄光、全人類の栄光になる一日を築くことでした。


では、どのようにして歴史の終局を経て、この地に現れる宇宙的な栄光の日、神が望まれ、イエス様と聖霊が望まれ、人類が望む新しい栄光の日をどのように迎えるべきかが問題になります。


かつてイスラエル民族が神様から授かった使命を達成できなかったため、イエス様は悲しみの足跡を経て再び人類を訪れるとき、再び過去のイスラエル民族が歩んだ足跡を踏む者がいれば、それは天の栄光が訪れることを阻む者であり、イエス様が望む一日を阻む者であり、人類が望む一日を阻む者であるということを皆さんは理解すべきです。


では、なぜイエス様を迎えたイスラエル民族やユダヤ教徒たちは、4千年間も望んでいた栄光の一日を喜びとして迎えられなかったのでしょうか。なぜイエス様を国家の指導者として崇め、万民の前に栄光の一日を築くことができなかったのでしょうか。これはイスラエル民族が神様の前に犯した罪であることを皆さんは理解すべきです。


もしイエス様が生きていた時、ユダヤ民族がこの地に神を中心にした国土を求め、神を中心にした民を求めて天国以上を実現できる王国を築いていたならば、今日私たちは主様を待ち望んでいたイスラエル民族の希望を私たちの希望として受け継いでいなかったでしょう。


イスラエル民族がイエス・キリストを希望の実体として迎えず、また歴史的な主役として迎えなかったため、神の計画はすべて中断されてしまいました。イスラエル民族とユダヤ教が国家的にも宗教的にも天倫の意志に抵抗し、イエス様を十字架に戻らせたのです。


国家と宗教はもちろんのこと、個々の人々、つまりこの地のどんな誰もがイエス様を歓迎する者がなかったため、イエス様を送り出された神様は悲しみを感じられたのです。そのため、その悲しみが国家の悲しみ、教派の悲しみ、そして各個人の悲しみにとどまり、今もなお受け継がれていることを心に留めておかねばなりません。


では、今日、イエス様を信じる私たちの信仰はどのようにすればよいでしょうか?私たちはイスラエル民族やユダヤ教徒が犯した罪を個人的に、宗派的に、国家的に、そして世界的に償わなければなりません。私たちはこの運命に置かれているのです。私たちの先祖たちも歴史の過程を経てこの罪の清算をし、出てきたのです。


喜びの歴史となるべき人類の歴史は、イスラエル民族の不信仰によって悲しみの歴史となってしまったのです。イスラエル民族がそのような不信仰の道を歩んだために、今日、神を信じ、イエス様に従って進んできたクリスチャンたちもその道を歩んできたことを理解しなければなりません。


そして、世界人類を代表する霊的なイスラエルの責任がある皆さんも、この清算の道を歩むべきであり、また皆さんは孤独な道、十字架の道、死の道を避けて通ることはできないのです。だからこそ、キリスト教が他の宗教を信じる民族にその教義を伝え、キリスト教の信仰を築こうとする時、必ず血の祭壇を積む必要があったのです。要するに、キリスト教の歴史は苦難と迫害の中で進んできた殉教の歴史でした。そのような殉教の道が個人を通り、家庭、民族、そして世界にまで拡大し続けています。


キリスト教を中心に闘争の道を進みながらも、こうして倒れたりころがったりしながらも、歪んで乱れながらも希望を抱き、神の意志を捨てずに追い、神の意志と一致する道を歩んできた聖なる者たちが皆さんの先祖の中に多くいたことを忘れてはなりません。


元々、イスラエル民族がイエス・キリストを迎えるようになったのは、その民族が優れていたからでも、ユダヤ教団の努力の結果でもありません。それは4千年間の歴史の過程で、国を代表して天を畏れ、天の意志を受け入れてきた数多くの聖なる先達がいたからでした。しかし、イスラエル民族とユダヤ教はこの事実を忘れ、天の意志を立てることができなかったのです。そのためイエス・キリストの怨みがこの地に表れることとなりました。


したがって、主を信じている私たちが、逆境の道を経て世界的にこの怨みを清算し、栄光の日を迎えるためには、どのような立場に立っているのでしょうか?私たちは2,000年前に主を迎えるために選ばれたイスラエル民族とユダヤ教団、そして世界的な霊的なイスラエルを代表する立場にいます。これを皆さんは覚えておく必要があります。


今、私たちはイスラエル民族とユダヤ教団が責任を果たさなかった怨みを清算するために、対抗する民族と戦い、反対する教団と戦うイエス様の兵法となるべきです。


もしもイスラエル民族が神の意志を立てようとするイエス・キリストを知り、彼を十字架の死の道に送り出そうとするカイザール派と対抗し、国家的な闘争を経てこれを阻止できたなら、どうだったでしょうか?その時神の意志は実現していたでしょう。神はこのような国家的な勝利の期待をもたらし、今まで戦ってきた困難を我慢しながらいる世界を代表するどのような民族かを望まれています。


しかし、なぜ神とイエスと聖霊は戦わなければならなかったのでしょうか?平和のイエス様であり、平和の聖霊であり、平和の父でなかったのでしょうか!それは6,000年にわたりこの地で悪の支配を拡大してきた数え切れない悪魔たちから人間を守り、悪の歴史を終結させるためでした。皆さんは神とイエスと聖霊のこの苦悩を知らなければなりません。


それでは慈悲深い神、愛の神とは誰に該当する言葉でしょうか?それは悪魔たちではなく、天上の息子や娘に該当する言葉です。神は人を愛し、罪を愛するものではありません。これを皆さんは確実に知っておかねばなりません。また、悪魔が存在する場所では神の理想を崇拝することができず、そこには天国が存在することはないと知らなければなりません。


イスラエル民族の前に現れたイエス・キリスト様は、十字架に戻られる際も誰も責めませんでした。なぜならば、自分が死んでも世界を救える道が開かれることを知っていたからです。


イエス様は言い知れぬ苦痛を受けたため、その分だけイスラエル民族に対して恨むことができました。しかし、自分に逆らっている群衆からは、彼は何を感じたでしょうか?それは4,000年間にわたり天命を果たして来られた神の苦労を感じ、神の意志が実現するあの一日を迎えるために多くの聖なる先達が血の祭壇を掃除してきたことを感じたからであり、彼らを恨むことはありませんでした。


イエス様が十字架に戻られる際、ご自身を十字架に差し出したイスラエル民族に対して、天に裁きを訴えることもできましたが、神様はご自身が苦労なさった霊的な歴史を振り返り、つまり、人々が神が立てられた者に対抗しようとしても、サタンと分かれた場所にいる時は天がそれらを許し、ご自身もそれらを許す余地があったからです。


歴史的に見れば、神に対抗する者が裁きを免れて喜ぶ場面があったかもしれませんが、天が裁きをしなかったのは、彼らを許し、預言者が代わりに歴史を担い、神の計画を担い、天を代わりにして悲しむ心を持って彼らを許す人々がいたからです。


それでは、私たちが主の栄光を受けるためにはどのような立場に立っていなければならないでしょうか?イエス様の事情と通じることができ、イエス様を立てて6,000年間神が苦労なさった足跡をたどり、天の前に立てる余地を持っていなければなりません。そして、「この地が罪の地であるとしても、あなたが6,000年間苦労なさった血の足跡があることを見て、天よ、裁きの鞭を堪えてください」と言える立場にならなければなりません。そういった立場になるときに、民族的な思想、世界的な思想を継承できるでしょう。


皆さんは一人で存在できないことを知らなければなりません。どんな形や内容であれ、他の人々との関係を持ちながら生きています。したがって、どの社会や国であっても、その社会、国に属する各個人の行動が全体に影響を与えることになります。良い行動は良い影響を与え、悪い行動は悪い影響を与えるものです。ですから今日皆さんは自分を中心に考えることから脱却し、神の理想的な世界、霊的なイスラエルの理想を実現し、それを実際に生きることを考えなければなりません。


皆さんはこれまで希望の日を追い求めながら努力し、戦ってきた神様の伝統を忘れてはなりません。また、霊的な伝統、歴史的な伝統、種族的な伝統を築いていくことができるようになるべきです。


イスラエル民族がこれを達成していれば、その時「イエス」という名前一つで、一つの「メシア」という名前でイスラエル全体に変革が起こったでしょう。


イエス様がベツレヘムの小屋で生まれるとき、東方の三博士たちはユダヤ教を信じる人々ではなく、その時代の占い師たちでしたが、彼らがエルサレムに来て「新しく生まれたユダヤの王はどこにいるか」と尋ねると、エルサレムの人々は騒然となったことがありました。この事実を考えると、イスラエル民族は口ではメシアを期待していたが、どの時どこでメシアに出会えるのかという問題についてはあまり考えていなかったことが分かります。


今日、私たちもこのような過ちを簡単に犯してしまいます。天が送り出す者や天命がどんな時でどこに現れても、それを不信せずに受け入れることは簡単ではありません。


イスラエル民族は現実に起こる全ての事実や歴史的な出来事を外面的に見て批判することは知っていましたが、内容は知りませんでした。つまり、見ることは知っていたが、味は知らなかったということです。今日、皆さんも同じような信仰生活をしてはいけません。イエス様を信じることだけ知っていて、彼の心を知らないでいてはいけません。皆さんがイエス様を高く評価することは知っていても、イエス様が卑しい場所で神の意志を持ち続けた方であったことをよく知りません。


今度は私たちは過去にイスラエル民族が犯した歴史的な過ちを繰り返してはいけません。イエス様を失ったイスラエル民族を代わりにして再び栄光の日を迎えるとき、皆さんはイスラエル民族とどのような違いを持ってその日を迎えるべきか考えなければなりません。


神の意志を中心にしたイエス様の歩みを見ると、使徒に挙げられて多くの人々がイエス様に従いました。喜ぶ時に従っていた群衆もいれば、悲しい時に従っていた人もいれば、再出発する時にイエス様に従っていた人もいました。中でも特に喜ぶ時にイエス様を歓迎した人が多かったです。


五餠二魚で5千人を食べさせ、歴史的な新しい事実を提示して国民の心を動かす時、多くの群衆が彼に取り囲まれ、彼に従いました。しかし、長い間困難に耐えながらイエス様に従っていた群衆がどうして前進する歴史の過程で周囲の環境を乗り越えられずに途中で倒れるようになったのか?これはイスラエル民族がカナンの地に向けて進む際、モーセを不信仰だと感じたその歴史的な瞬間を繰り返した結果だということを皆さんは知るべきです。


モーセがイスラエル民族をカナンの地に導く際、彼が望んでいた目的地と、彼が立てた標準が国民の望みや国民の標準と異なっていたことでした。神の意志を確立しようとしたモーセは、彼が追求する目的地が明確で、方向が明確で、1年後または10年後のことを見越して生きる道を考え、その目的を達成するために実践していましたが、それに対抗してイスラエル民族はそうではありませんでした。その結果、モーセから離れてしまったのです。


イスラエル民族はもともとアブラハムから400年の歴史を経て栄光の一日を迎える許可を得た国民であったにも関わらず、栄光のその一日を迎えずに荒野で倒れたのです。同様にイエス様が来たときも、イエス様は進むべき目標と方向をはっきりさせ、10年または20年先を見据えて神の意志を人間の生活範囲内で実現するための環境を整えようと努力しましたが、イスラエル民族はそうではありませんでした。


彼らが指向し、目指していた方向や目的がイエス様と異なり、彼らの生活が永遠を目指す神聖な意志とも異なっていたため、彼らは良い時はイエス様を歓迎しましたが、自分たちにとって不利な状況になるとためらわずにイエス様を避けたのです。つまり、彼らは条件付きの目標を設定し、条件付きの方向を定めて生きていたということです。イエス様の前で反感を抱き、十字架に掛かるイエス様を嘲笑し、またイエス様の死を急がせたイスラエル民族は、モーセを裏切り、金の子牛を作ってそれを崇拝した不信心の行動を繰り返したのです。だからこそ、モーセがカナンの地で幸福を楽しむことができる目の前でさえ、荒野で40年間さまよわなければならなかったように、イエス様もまた2000年間、世界的なカナンの福祉の理想を見据えながらさまよわなければならなかったのです。これと同じような悔恨を抱いているイエス様であることを皆さんは知らなければなりません。


それではなぜイスラエル民族がイエス様を不信仰とみなしたのでしょうか?それは彼らがイエス様が神を代わっているということを知らなかったからです。また、神の計画を達成するために来られた方であること、天に至る道をまっすぐに導いてくれるイエス様であることを知らなかったし、個人だけでなく世界を代表し、国を代表し、そして自分たちの永遠の命まで責任を持つ方であることを彼らは知りませんでした。


もしイスラエル民族がイエス様が彼らの命を救ってくださるために来られたことを知っていたなら、自分の命を捨てる覚悟があったとしても彼に従わなければならず、国のために来られた方だと知っていたなら、国を捨ててでも彼に従わなければならず、教会や世界のために来られた方だと知っていたなら、教会や世界を捨ててでも彼に従わなければなりませんでした。しかし、イスラエル民族はこのようなイエス様の価値を知らずに不信仰となり、その後、長い間断絶の道をたどってきたのです。


蒔いたまま刈り取られるのが天理の原則です。そのため、キリスト教の歴史が始まった時から蒔かれたものもそのまま収穫の日が必ず来るでしょう。このようにキリスト教の歴史上に蒔かれたすべてがそのまま収穫される日が終わりであり、栄光の一日を迎える日が終わりであることを皆さんは覚えておかなければなりません。


これで皆さんはイスラエル民族がイエス様を裏切ったような立場に立ってはいけません。皆さんが望んでいる信仰の方向や目標、そして皆さんの生活環境は、6000年間神が計画された神聖な意志にふさわしくなければなりません。そして、イエスと聖霊が促しているその方向に合致しなければなりません。


皆さん自身がここで一致できるかどうか、そうでないかが問題です。イエス様が来られるか否かは問題ではありません。彼を迎える準備をしている皆さん自体が問題です。皆さんは信仰生活をして幸福になりたいですか?


しかし、皆さんは行くべき道を終え、戦わなければ幸福は訪れないことを知らなければなりません。ですから、イエス様が十字架の死の道を経て復活されたように、皆さんも困難で辛い道を経て初めて希望の日、復活の日、喜びの日を迎えることができることを知らなければなりません。イエス様も「自分の命を保全しようとする者はそれを失い、失う者はそれを保って生かされる。」(ルカ 17:33)と言われていました。


昔、イスラエルの民が神との約束を破り、バアルに仕えるようになったとき、エリヤが主の前に出て自分を殺してくれるよう懇願したところ、「ただ一人残らず私を拝まない7,000人の者が残っている」と主がおっしゃった出来事があります。


同様に今の教会も信仰の中心が揺れ動いており、混沌として進む方向が見いだせない中で、このような状況に置かれている皆さんは、エリヤが国を担ぎ、主に訴えた心情と通じなければなりません。また、荒野に出たイスラエル民が食べ物がなく、進む方向を見つけられずに40年間さまよった時、シナイ山に登って40日40夜を断食し、主に訴えたモーセの心情とも通じなければなりません。


モーセの祈りは彼自身の栄光のためではありませんでした。モーセは神が自分をこの地に送られたのが自分のためではなく、国と世界のために送られたことを誰よりもよく知っていたからです。今、世界的なカナンの福祉を見据えて進む私たちも、このようなモーセの心情を受け継がなければならない特異なイスラエルの民としての役割を自覚しながら前進する時が来ました。


今日、この言葉を聞いた皆さん、今度は第三者の立場から皆さんの信仰生活を一度批判してみてください。皆さんはいつかイエス様のように国のために悲しんだことがありますか?一度でもイエス様のように祈ったことがありますか?また、ユダミン族が思う存分寝て遊んでいる時でさえも、国のために40日40夜祈りながら知らぬ間に涙で膝を打ったモーセのように国のために涙の祭壇を築いたことがありますか?


今日のキリスト教を中心にし、様々な形の文化を持つようになったのも、現在の人々が上手くやっているからではありません。多くの聖徒たちは死を覚悟して孤独で険しい坂道を歩んできたからです。そして、小屋や穴のような寂しい場所でも孤独を克服し、罪と戦ってきたからです。そして、絶え間なく神に涙で祈り続けたからです。


今、人類は新しい目標に向かって前進しなければならない時期にあります。ですから人々は新しい目標を見つける必要があります。昔のイスラエルの民や彼らの指導者であった祭司たちのように、安楽な場所で自分たちの利益だけを追求したり、信仰を利用しようとしてはいけません。


今がイエス様がゴルゴダの十字架を前にしてゲツセマネの園に独りで神と交渉の祈りをされていた難しい時期と同じ時期です。また、モーセがイスラエルの60万の大衆を代わりにシナイ山に登り、命を賭けて40日40夜熱心に祈った時と同じように、国と世界のために熱心に祈るべき時です。そして終わりには、このような使命を担う神の子女がたくさん現れなければなりません。もし本当にそうした人がいるなら、モーセの時の12部族や70長老、イエス様の時の12使徒が問題ではないということです。


実際には、自分たちの状況を全て捨て去り、シナイ山で40日40夜の断食祈りをしていたモーセを取り巻き、彼と共に神に嘆願したイスラエルの民がいたなら、彼らには40年の怨みに苦しむ荒野の時期はなかったでしょう。また、祈られるイエス様を見つめてイエス様と同じ気持ちで共に涙を流せる使徒がいたなら、苦難の2000年もなかったでしょう。


しかし、私たちの先祖たちはこれを成し遂げませんでした。しかし、先祖たちの歴史的な誤りを許せる私たちであり、神が望まれる幸福の楽園に戻らなければなりません。そのためには、皆さんは故郷の目的地に辿り着ける正しい道を見つけなければなりません。モーセがシナイ山に祈りに行く時、彼を追うイスラエルの民に「私があなたがたのために祈りに行く。」と教えませんでした。また、イエス・キリストが孤独な場所で深い祈りをする時、誰にも教えず、ペテロ、ヨハネ、ヤコブなどの弟子たちにも教えませんでした。今でもそのような時期なのです。


なぜなら人間の祖先が神を裏切り、神を裏切った条件があるからです。したがって、私たち後継者には神が認められない時、神が認められる唯一の条件を設けなければならないという神聖な宿命にあります。これは歴史的な進展を経てよくあることであり、終わりの時代にあたる幾度となくこれが起きることを皆さんは知っておかなければなりません。


イエス様は自らを超越した場所で民族や世界、神のために語ったにもかかわらず、使徒以下イエス様を追ったすべての聖徒たちはイエス様の言葉が彼らだけのための言葉だと思い、イエス様が良いことをしても自分だけのためにすると思い、イエス様が卑しい場所に入っても自分のためにそうすると思いました。そのような信仰を持つ群れだったため、神は彼らを根本的に許容できなかったのです。ここで彼らが神と分かれることを皆さんは知っておかなければなりません。


それでは、終わりの時代に直面する今、栄光の日を求めて前進しなければならない皆さんは、今後どのような立場に立つべきでしょうか? 皆さんは何よりもイエス様の心情と共感できる自分であるべきです。皆さん一人ひとりがこのような個人的な生活環境を築かなければならず、さらにはこれが世界と宇宙全体を代表できる基盤的な環境になるようにしなければなりません。皆さん一人ひとりがそのような環境を築くと、それがまとまり、世界的なイスラエルの生活環境が形成されていくでしょう。


今日ここに参加している皆さん!現在、皆さんは神を信じ、従っている目的をどこに置いていますか?今、この時間、これについて一度自分に問いかけてみてください。皆さんはもしかして神を利用して、自分だけを立て、自分だけの幸福を求める心を持っていませんか?それではいけません。皆さんは自分を超えて神に信仰の目的を持たなければなりません。


イエス様は喜ばれる時でさえも神のために心配の心を持たれましたが、彼を追う群衆はそのような喜びが拡大されるにつれて、この地上で彼らが望んだものを達成し、彼らの地上の命令が成就されることを望む心でイエス様を歓迎しました。真に神を心配した人はイエス様しかいなかったというのが事実です。今日のキリスト教徒もそのような立場に立つと、未来が閉ざされてしまいます。また、そのような方法で信仰生活をする宗教があれば、彼らも同様です。


それではイエス様が進んだ道はどのような道でしょうか? 先ほど述べたように、イエス様は自分を捨て、喜びの時でさえ自分の喜びと考えないで、全てを神のものに返す道を進まれました。


したがって、これから皆さんはイエス様が喜ばれる時でさえ、喜べる自分たちでなければなりません。自分を中心にし、喜ぶことではなく、神とイエス様を中心にし、喜ぶべきです。また、自分に都合の良い目的を立てるのではなく、ただ神に都合の良い目的を立てることを知る皆さんでなければなりません。そうでなければ、イエス様と私たちは別れることになります。モーセとイスラエルの民が別れ、ヨシュアとカレブからイスラエルの民が別れたのと同じく、また今日の聖書の言葉の通り、羊と山羊に分かれることになります。


しかし、最初にカインとアベルが分かれた場所は2人ではなく1つでした。それは世界から分かれたのではなく、一人の個人から分かれたものでした。最後の審判の時も天から審判の行為があるのではなく、地上から人間を中心にして善悪が分かれることです。皆さん自身も心が二分されることを感じるでしょう。つまり、天運を立てようとする心と、自分を中心にした人間的な目的を達成しようとする二つの心で分かれることを感じるでしょう。これを見ると私たちの心が善悪の分岐点であることがわかります。


それでは、今日この場に参加している皆さん!私たちはすでに一つの希望に向かってどんな逆境も貫き通す覚悟を持って立ち上がりました。ですから、これからは私たちは喜びが心に生まれたらその喜びを国家と神に結びつけ、また望ましい出来事が生まれたら私たちの個体だけで終わる希望にならず、その希望を国家と世界に結びつけなければなりません。


イエス様が喜ばれる時に私たちも一緒に喜び、イエス様が苦しまれる時にはイエス様を慰めて差し上げれば、イエス様も私たちと一緒におられるようになります。そしてその時、私たちは神と向き合えるようになるのです。そのような人でなければ、父と子と聖霊が慈悲深く見守ることができず、また父と子と聖霊が慈悲深く見守ることができなければ、復活の歴史は起こり得ないことを皆さんは知らなければなりません。


帰られたイエス様を神様が復活させることができたのは、イエス様が神の御心を立てるために自分の命すら捨てることができたからであり、天運のために自分の生を捨てたその事実が神の復活の手を受けるための基準に達したからです。皆さんも復活の栄光を望むならば、自ら復活の基準を立てなければなりません。


皆さんはこれまでどのような基準を立てて生きてきましたか?復活の基準を立ててきましたか?おそらくほとんどの人がそうでないかもしれません。ですから、これからは自分が進むべき目標と方向を明確に設定し、生きていかなければなりません。


もし歴史上のどんな人間が立てた基準よりも強く、皆さんを刺激する一つの基準を立てられないなら、最初から意志に従って進んだとしても、やがては振り落とされていくでしょう。それでは振り落とされたらどうなるでしょうか?イエス様の前で旗を掲げて彼を殺すのに先導した者たちと同じ人にならないと誰が断言できるでしょうか?


この場に集まった皆さん、今皆さん自身が進むべき目標が天運を立てることであり、天と地を愛することであり、人運を立てることだという事実を知ったなら、皆さんはこの地のどの不利な条件が妨げるだろうと言われようとも、どなたが「いいえ」と言おうともこれを撃退できる信念を持たなければなりません。最初からこの方向に進むことができなければ、統一教徒はイエス様の友達になることはできません。しかし、当時イエス様と同じ心情で、イエス様を代わってイエス様を追う群衆を導かなければならなかった使徒たちはどうでしたか?


彼らもイエス様と同じ心情を持っていませんでした。イエス様を追う群衆が多くなるほど、彼らは自分たちの栄光の範囲が広がるものと考え、彼らにはその分だけ自分たちが気に入られる範囲が広がるものと思い込み、ますます日が経つにつれて、彼らには話す相手がいなくなっていったのです。


彼らのそのような行動はイエス様にとっては計り知れないほどの悲しみとなりましたが、逆にサタンの側にとっては歓びの条件となりました。言い換えれば、彼らは根本的には善悪の判別の歴史、審判の歴史を起こすことができなかったということです。皆さんも同様にしてはいけません。信じる者の数が多いか少ないかが問題ではありません。


世界的な最後の審判を前にしている今、多くの人々と国々を代表して、どんなに困難な状況であっても、孤独な場面であっても、天の御心を持ち、「ハレルヤ、アーメン」と言える真の人が立つべきです。これが問題です。このような信仰を持つ人でなければ、神の栄光を示し、復活の実体となることはできません。


天の御心に進む道は、一人で天の栄光や生命の価値を楽しもうとしてはいけません。自分を中心にし、他人を非難し、他人に害を与えるような行動が堕落をもたらしたのです。


それでは、これからの栄光を望むこの時に、皆さんはどのような位置にいますか?神様は今言うことができないほど悲しい気持ちでため息と嘆きに包まれておられます。しかし、皆さんはもしかしたらそのような神様とは違い、快適な場所から自分だけを楽しもうとしていませんか?もし今日でもそのような人がいれば、彼らはモーセを失ったイスラエルの民やイエス様を裏切った群衆と同じように哀れな立場になるでしょう。この事実を確実に理解しなければなりません。


天の御心を達成するために進む人であっても、彼が自分の喜びのための行動をすると、山羊と羊に分かれる最後の分岐点で山羊の側に立つことになります。


それでは栄光の場に参加できる人はどのような人でしょうか?イエス様と心情一致を成し遂げた人でしょう。もしも2000年前にイエス様が悲しまれる時、同じように悲しんでイエス様が喜ばれる時、同じように喜べる聖徒たちがいたなら、イエス様はそれによってますます喜ばれ、天運のすべての御心を彼らの前に示され、永遠の勝利が彼らに授けられたでしょう。


しかし、イエス様を追う群衆が増えても、信じてあなたのすべてを預けられる人がいなくて言い表せないほど孤独で悲しい気持ちだったにもかかわらず、イエス様を追っていた群衆はそのようなイエス様の気持ちを知らなかったのです。終わりの日にもこのような信仰生活をする人々がいるでしょう。


神を信じ、従う人であっても、神の悩みを無視して自分の安楽だけを追求する人は、神が必要とする人ではありません。そのような6, 7千の群れよりも、真に神が必要とする一人がもっと必要です。


イエス様がゲツセマネの庭で悪と戦いながら、神の御心を達成するために神の優しい心情で訴えられる時、人々はイエス様よりも3倍以上優しい心情を持って訴えなければなりませんでした。しかし、ペテロ、ヨハネ、ヤコブはその3分の1も感じようとしませんでした。ここにいる皆さんは、そのような人になってはいけません。


イエス様が一つの苦労をすれば、皆さんはその3倍以上の苦労をしなければならず、天を代表する者が一つの苦労をすれば、皆さんはその3倍以上の苦労をしなければなりません。また、天を代わる者が一つを憂い、一つだけの苦しみを受ければ、皆さんはその3倍以上の憂いをし、3倍以上の苦しみを受けなければなりません。しかし当時のイエスを追いかけた群れはイエスの3分の1も苦労しないようにしました。


今日、ここに集まった皆さん、本当に統一教会を追いかけたいですか? それなら、皆さんは統一教会を指導している文という人がどんな苦労を感じている時、皆さんも3倍以上の苦労を感じながら天の御心を立てるための防波堤にならなければなりません。


しかし、そのような人になるどころか、自分だけが快適な場所にいたいとするこのような集団が沸き立つ時は、モーセに従っていたイスラエル民族が荒野で死体の山を残したことと同様に、死に導くサタンが侵入することでしょう。


歴史の終わりに迎えるこの時、皆さんは6千年の怨みを抱えたサタンに向かって、「どうしてお前の権威を誇示させようか!」と叫びながら、血みどろのサタンと戦い、勝利の実績を神に示して、宇宙全体に希望が湧く栄光の息子娘にならなければなりません。そうでなく、「ちょうど適当に乗り切ればいいだろう」と考えるべきではありません。


皆さん自身はよく分からないかもしれませんが、今日私たちは深刻な場に立っています。私たちが進む道が真実だとするなら、私たちは深刻な覚悟をしなければなりません。それは私たちの覚悟の差によって結果が変わるためです。


アダムとヘバが堕落した時には、神様が創造主として責任を取り、救い出してくださらなければなりませんでしたので、何とか希望をかけることができましたが、栄光の主が再び来られる終わりの日には、人々が責任を果たせなければ再び救いの働きができないのです。ですから、もし私たちが救いの働きを完結させなければ、昔のアダムとヘバが堕落した以上の怨みが残ることになります。


これらの恐れ多い瞬間に直面する私たちは、もし私たちが神の心情と天の計画を理解し、神によって認められる立場にあるなら、神の心情を代弁できるかもしれませんが、できない場合は自分で謙虚な立場に立たなければなりません。イエス様は神の御心をご存じでありながら謙虚でした。神の御心を知らない者が謙虚でなければなりません。もしもそのような人がいれば、彼は死の淵に堕ちるでしょう。


2千年前、イエス様に従っていたペテロや12使徒、そして多くの群衆は、彼らが喜んでいる時にもイエス様の悲しい心情を理解していませんでした。ですから今日、皆さんはそのような立場に立たないことを誓わなければなりません。皆さん、そのような心情を持って父なる神を呼び求めてください。父なる神は生きておられるので、応答してくださるでしょう。また、皆さんがそのような心情で地球のために真心を尽くせば、皆さんは神の側に移動するでしょう。


今、皆さんはイエス様がこの地に残されたすべての怨みを解決し、イエス様を死んだ犠牲ではなく、栄光の贖いの犠牲として地上楽園を築く二重、三重の責任を負っていることを理解する必要があります。


しかし、なぜイエス様が帰られたのでしょうか? イエス様はこの世に対する執着心がなかったから帰られたのではありません。イエス様はどなたよりもこの地を愛され、認められていた方でした。しかし、あなたにしかできない天の計画があることを知っていたため、人とは異なる方向に進み、結局は十字架の道を歩まれたのです。イエス様は彼らが喜ぶ時に一緒に喜ぶことができず、彼らと同じ道を歩むことができず、自分の悲しみを表現できませんでした。これがイエス様が行かれた道と人が歩む道が異なっていた理由です。


今、私たちが最後の栄光の日を見据えて天の前に立ち、「私をすべてのものの上に立ててください!」と要求できるようになるには、どのような道を進まなければならないでしょうか? 要するに、死の道を通らなければなりません。これが天に通じる唯一の正統な道であるためです。イエス様が歩かれたこのような道を皆さんも歩む必要があります。


イエス様はゴルゴダの十字架の道をたった一日だけ歩いたのではありませんでした。イエス様は神の御心を見据えて30年以上にわたり、一貫して十字架の基準を立て、戦ってきた方でした。そして数日だけで十字架の死を覚悟したわけではありません。30年以上の生涯を通じて4千年の救済歴史を担当した立場から、「良ければこうなり、悪ければこうなります」と予測しながら、一日たりともゴルゴダの悲しい心情を超えて生きたことがなかったということを皆さんは理解すべきです。


このような準備の土台があったから、イエス様は愛する弟子、国民、教会を全て後に置き、自らを犠牲にして十字架の道を歩むことができました。


今、皆さんはイエス様が生涯を通じて築かれたゴルゴダの勝利の条件を、皆さんの生活で感じ取らなければなりません。そうでなければ、皆さんはイエス様の後を追いながら、イエス様が多くの人々に拒絶と非難を受けながら十字架を背負って死の道を歩まれる時、顔を背けた弟子たちと同じ境遇になるでしょう。また、数多くの群衆がイエス様に従っていたにもかかわらず、死を覚悟して従う者がいなかったことを皆さんは思い起こさなければなりません。


イエス様はあなたの代わりに十字架を負い、あなたの代わりに鞭で打たれ、あなたの代わりに苦しみを受けながら、ゴルゴダの死の道で「父よ!」と叫ぶ切ない声が聞こえることを願っていました。 3年、または30年にわたり、このような声が聞こえることを願ったが、その願いが消え去る時、イエス様の心情はどうだったでしょうか。


このようなイエス様の心情を皆さんは知らなければなりません。イエス様の苦しみを理解し、その苦しみに同情しなければなりません。また、自分自身も全世界のすべての人のために、このような死の道、何度も死ぬ道を進むことがふさわしいと思う心を持たなければなりません。


さらに、皆さんが知っておくべきことは、イエス様が十字架を背負ってゴルゴダに向かう途中、非常に疲れ果てた時、その十字架を代わりに負って行ったシモンのような人がイエス様の弟子たちの中には一人もいなかったということです。選ばれたイスラエルの民の中にもそのような人はいませんでした。こうして異邦人であるシモンだけがイエス様の苦悩に共感したため、キリスト教はイスラエルの宗教にならず、異邦の宗教となったのです。


今日、イエス様を信じて神を求めて進むと宣言する皆さん、皆さんは夢でもシモンのような行動をしようとする決意が立っていなければなりません。シモンは弁明することもでき、反論することもできましたが、黙々と従順してイエス様の代わりに十字架を背負って行きました。今日、皆さんも同じような人物にならなければなりません。


イエス様がそれを見守る中での心情はどうだったでしょうか?3年間喜びと共に歩んできた使徒たちはどこにもいなく、思いも寄らなかった異邦のシモンがあなたを代わって惨めな立場に立つ時、イエス様の心は恥ずかしさが大きかったでしょうし、悲しみに悲しみを加えたでしょう。 もしこれらの使徒たちの中にでもイエス様の十字架を代わりに背負う人がいたなら、イエス様はその人を見つめて死の苦しみを忘れ、逆に共感しながらあなたの苦しみに打ち勝つことができたでしょう。しかし、そうではなく、イエス様は悲しみに悲しみを加えることになりました。これらの事情を皆さんは理解しなければなりません。


今日のキリスト教界においても、グレネタシモンのような教団が現れなければなりません。どの教団がこの責任を引き受けるでしょうか?彼らが追随していた使徒たちのイエスはならず、異邦人のグレネタシモンのイエスになったことを今日のクリスチャンたちは自覚しなければなりません。だからこそ、グレネタシモンのような教会を創り上げなければならないのです。


皆さんは、イエス様が受けた十字架の苦しみの状況と、苦悩の感情的な同伴者となり、彼の生涯と同じように永遠の意志と神聖な目的を達成するために、たとえ独りでも神の前で「父」と呼ぶことのできる子供にならなければなりません。こうして苦しみの主と共にする者となり、再出発の復活の主と共にする者とならなければなりません。


十字架に戻られた後、3日間でよみがえられたイエス様は、かわいそうな方でした。3年間歓喜と共に過ごし、熱心な気持ちで戻ること3日で復活することを教えたにもかかわらず、弟子たちはその言葉を忘れてどこかへ消えていったのです。イエス様が復活される際、墓を守っていた弟子たちは一人もおらず、かえって敵対的なローマの兵士が守っていたので、何があったのだろうということです。今日のキリスト教も、イエス様の墓を守りきれず、ローマの兵士のような敵がイエス様の墓を守る場合が多いことを指しています。


ローマの兵士が囲んでイエス様の墓を望む群衆がこの地にはいないのか!当時はそんな群衆はいなかったかもしれませんが、今日では私たちの信者たちの中にも多くのこのような群衆が出なければなりません。


では、最後にイエス様に会えた人物は誰でしたか?イエス様を放置し、彼を失い、好き勝手に散り散りになってしまった人はイエス様に会うことはありませんでした。イエス様が最初に会った人は誰でしたか?イエス様を放置し、彼を失い、山里で迷子になっていた人が最初に会ったのは誰でしたか?それはイエス様を見つけるために3日間食事を取らず、自分の体の置き場所さえわからずさまよっていた人たちでした。マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメなどが該当します。


国の反逆者、国の反逆者として帰られたイエス様を懐かしく思い、3日間涙を流し、我慢できずに訪れた彼らは、最初によみがえられたイエス様に会ったのです。これは終わりの聖徒たちがどのように行動すべきかを示しているものです。


今日、皆さんはイエスの墓を求めて苦しむべき終末の時代であることを理解すべきです。復活の主に会うべきイスラエルの民を代わりにして墓を求めて苦しんでいた女性たちが、最初に復活の主に会ったように、今日、世界的な復活の主が現れる時、眠りたくても寝ず、休みたくても休まず、言葉にできない切ない気持ちで山や野をさまよい、天に向かって悲しい涙を流す人が再び来られる主を最初に迎えることができるのです。


イエス様が十字架に戻られたことに対して、弟子たちも悲しむことはなかったが、思いがけず使徒たちではなく無名の三人の女性がイエス様の帰りを悲しんで同情の涙を流し、イエス様の墓を探し回ったのです。このような行動が復活の主に最初に会わせたが、同様に終末にもこのような現象が起こるでしょう。


皆さんがもし自分の生命を超えて、自分の民族と世界中の人々の生命のために夜も寝ず、心を痛める生活をしているならば、この世に再び訪れる栄光の主は必ず皆さんを訪れ、皆さんは思いも寄らぬ状況で主を迎える栄光を味わうことでしょう。これがいずれ起こるでしょうことを皆さんは知るべきです。


それから、次にイエス様が現れたのは誰でしょうか?エマオへ向かう二人の人々に現れました。彼らは使徒ではありませんでした。彼らはイエルサレムで三人の女性がイエス様の復活を証言する時一緒にいた人々で、イエス様が戻られたことを心から残念に思い話すことができたのは、イエス様の事情を他の誰よりも理解し、イエス様の悲しい心情と通じる心を持っていたからです。そのため、イエス様は彼らに現れたのです。そしてイエス様が彼らに現れたのは、彼らが使徒たちにイエス様の復活を証明するためでした。


皆さんがもし異次元の喜び、終末の世界的な新しい栄光の日を迎えたいのであれば、皆さんは悲しむイエス様の心情、涙するイエス様の生涯を心配し、悲しい心で天に向かって身をもがいて進むことができなければなりません。


しかし、これらの行動や考えがなく、ただ座っていて主の栄光を期待する人がいますか?もしそうであれば、その人は直ちに偽キリストであり、偽預言者です。弟子たちがイエスの前に偽キリストの立場に立つことが誰が知っていたでしょうか?


また、選ばれたイスラエルの民とユダヤ教徒が反キリストになるだろうと誰が知っていたでしょうか?終末にもこれを心配しなければなりません。皆さん自身を置いて、もしかしたら反キリストの立場に立っていないかを心配しなければなりません。今は他人を非難し、他人のことに干渉するときではありません。問題は他人ではなく、自分自身です。教団が問題ではありません。終末に自分がサタンになるかもしれないと心配しなければなりません。今まで他人を問題視してきた人は、結局は自分を失ってしまう歴史の流れを経てきました。


皆さんは新しいエデンの理想的な園から、宇宙全体が望む栄光の復活を喜びと共に迎えたいですか?そのならば、イエス様の気持ちを感じながら共に涙を流し、共に責任を持たなければなりません。そのような人だからこそ、栄光の復活を受けることができます。今は終末が近づいている時です。


そのため、一定の霊的な基準に到達した人々は、熱望を感じています。恵みを受けても喜ばず、不義の経験にも満足しません。そのため人々は教会を飛び出そうとしているのです。どれだけ柵を建てても教会の外に出ないように言っても止めることはできません。この中で自分を見つけ出す難しい時です。


したがって、教会を代表でき、民族と世界、そして天の意志を代表できる真の子女が現れなければ、サタンの陰謀を打破することはできません。そのような姿勢を備え、歴史的な闘争で勝者となり、敵の罪まで引き受け、ゲツセマネの園で一人で祈っていたイエス様を代わる皆さんにならなければなりません。そのような皆さんならば、たとえ死の道であってもその道を進めば復活できるのです。


しかし、逆に自分の利益のために苦難を避けて快適な道を選ぶ人々は、それが復活の道であると知りながらも最終的には死に至ることでしょう。これを心に留めておかなければなりません。


皆さんは今や神の御心を達成するために、イエス様を死んだ犠牲ではなく、山の産物として神に献げる勝利の条件を立てなければなりません。そして6千年の労苦の後、神の前で皆さんが山の産物として献げられるとき、皆さんは霊肉が復活することです。こうなると、6千年間サタンに対して恨みを抱いてきた神の苦しみと悲しみを終結させる美しい仕事をすることができ、全宇宙の前、またはサタンの前、または数々の聖徒の前、天使軍の前で誇り高く立てるようになり、永遠の理想的な園に入り、永遠にその園で栄光を持って生きていけるようになるのです。これを心に留める皆さんがなりたいものです。


そして、6千年間、一生懸命労働されてきた神の前で、皆さんが生ける犠牲としてささげられる時、皆さんは霊的なものと肉体が復活します。このようになれば、6千年間にわたりサタンに対する神の悔しさと悲しみを終わりにし、宇宙全体やサタン、または無数の聖徒や天使軍の前で誇り高く立て、永遠の理想郷に入り、そこで永遠に栄光を備えて生きることができます。これを心に留め、覚えていただきたいと思います。




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御言葉選集2(16,17)

2023年12月02日 16時47分08秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 2 - 16. 
天国を占める民となろう (1957年 6月 2日)
1957年 6月 2日(日), 前本部教会
聖書拝読:マタイによる福音書  21:33-46


<祈祷>
 親愛なるお父様!
一週間にわたり、様々な面で私達を導いてくださったお父様の前に、自分のすべての事情を持ってきた次第でございますので、お許しいただけますようお願い申し上げます。
 尊厳あるお父様、お辞儀するたびに自分が不足している様子を感じざるを得ないため、慈悲深いお父様、この時を通して全体を統括していただき、私達それぞれの心に常にお父様が臨んでくださり、お父様の意向に従って生きていけるように許して下さい。
 私達は、あらゆる欲望を捨て、本来の心に従い、本性の根源となる犠牲となるようお許しいただきたいと切に願っております。
 一週間にわたり、闇の罪と戦って疲れておりますので、慈悲深いお父様、お現れいただき、私達を抱えていただき、私達を戒めていただき、私達が死の領域を越えて、はっきりした目標に向かって進む事ができるようにして下さい。この仕事が喜ばれ、お父様が私達と一緒におられる事を心より願っております。
 愛するお父様! ここに集まったすべての子供達を、この時間一つ一つをお父様が統括してくださるようお願いいたします。この時間ごとにお父様が見極めてくださり、お父様が望まれない条件を除去していただき、あなたが喜ばれる様な身と心となり、あなたを拝む事ができる全体の群れとなれるように許して下さい。
 お父様!私達を呼び寄せてくださったお父様の労苦の意向の前に、私達が謙遜している事を感じておりますので、お父様、この時を慈悲深く見て下さい。あなただけが私達の友となり、あなただけが私達を信じてくださり、永遠の意向に忠誠を尽くす事ができる美しい息子娘達となるように許して下さい。
お父様! 私達を集めるためにお労しいただいたお父様の尽力の前に謙遜しておりますので、お父様、お望みのままにはっきり示して下さい。
従順な意向を実現するために努力されているお父様、私達があなたの孤独を慰める愛らしい息子娘達となるように許して下さい。すべてを一掃して、ただあなたの意向のためだけに戦い、駆け巡る事ができる息子娘達となるように許して下さい。お父様、切にお願いいたします。
今日も、この国を代表して集まっている多くの祭壇に祝福を与えて下さい。そして、この国があなたの定めた計画の前に唯一無二の心で対処できるように、喜びに満ちた祝福の御恩を急いでこの国全体と代表する多くの祭壇に現して下さい。
 そして、あなたが選ばれた国として、選ばれた宗派として、終わりの見えないこの地球の24億人の人々に委ねられた責任を果たし、それでもなお残る使命があるように許して下さい、愛するお父様、切に願っております。
私達には様々な事情がありますが、それらすべてをお父様に告げ、従順で従う事ができる犠牲の形となるように許して下さい、お父様、切に願っております。
 この一時、お父様に敬意を表したいと思いますので、三位一体が全体に働きかけ、それぞれの身体と心を統括して下さい。私達がお父様の意向に逆らわず、聖霊の感動を通してこの一時間がお父様の全体の意向の前に動く事ができるように許して下さい、お父様、切に願っております。
お父様よ!この時間、地方に広がり拝んでいる家族達にも同様に働きかけ、勝利の意向、お父様が立てた意向が喜びに満ちた祝福として実現できるように許して下さい、お父様、切に願っております。

 この一時、すべてをあなたに委ねました。三位一体が支配し、主の御名によってお祈りを捧げました。アーメン。

<御言葉>
皆さんと一緒に考える言葉の題目は「天国を占める民となろう」です。『天国を占める民となろう』というタイトルを持って、しばらくの間お話しいたします。
 腐敗した私達にとって、誰もが望む世界が天国である事を、皆さんはよくご存じです。この天国は腐敗した人間だけが望むものではありません。神様も創造以前に存在していた本来の愛を中心に、全人間と永遠の富豪の関係を結び、永遠に楽しむ事ができる、その天国の実現の時を望んでいます。これまで三位一体を通して、神様もまたこの歴史的な道のりを通じてその時を待ち望んでいる事も、皆さんもよくご存じでしょう。

 今日、私達が真に望んでいる天国、この天国は人間の願望だけでなく、神様の願望でもあります。そのため、この天国を実現できる概念は、個人を経て世界的かつ宇宙的で、天倫に適合するものでなければなりません。それによって、この天国をこの地上に築かない限り、神様の救済計画は完結できず、私達の信仰目標も完結しないものです。

したがって、この天国は人間を創造された創造主としての責任がある神様が責任を持ち、腐敗した人間達もすべてを犠牲にしてでも責任を持って求めて実現しなければならないものです。

こうした事を考えると、神様はこの天国の概念を実現し、人類を代表して誇りに思える一人がこの地上に現れる事を、長い歴史の過程を経て望まれていますが、今までこの地にその一人は現れていない事がわかります。

 そのため、創世以降今日まで神様が人間を通して探し求める天国概念は一つの個体の概念で終わるものではなく、個体の概念となると同時に世界的で宇宙的な概念として、万物が追い求める永遠の概念であるべきです。その様な概念が築かれる時を望む神様は、6千年にわたる忍耐の道、労苦の道、苦難の道を通ってこられた事を、皆さんは再び心に留めておかなければなりません。

では、神様と人間はどのように縁を結べるのでしょうか?それは天国概念を中心に縁を結べる事です。天国が築かれるその基準で人間の概念が達成され、神様の創造概念が達成されるという事です。
 したがって、アダム以降4千年の長い歴史を経て、神様が一時的に人物を立てて、全体的な神様の内面的な感情を伝え、外部の概念を通してきた一時期があったのです。

その様な中心的存在として築かれた方は、イエス・キリストでした。ですから、神様はイエス・キリストをこの地に送る前に選んで立てた洗礼ヨハネを通じて、イスラエルの人々に対して「悔い改めよ、天国は近づいた」と予告されました。しかし、その天国がどのようにして成就されるかというと、洗礼ヨハネを通してではなく、イエス・キリストを通して成就されるのです。

そのため、洗礼ヨハネには全イスラエルの民を結びつけてイエス様の前に導く責任がありました。しかし、洗礼ヨハネはその責任を果たせなかったため、彼が叫んでいた天国の概念はイエス様とは何の関係もなくなりました。そのため、洗礼ヨハネが「悔い改めよ、天国は近づいた」と叫んでいたその叫びは、当時だけの適用される天国概念で終わるものではなく、洗礼ヨハネ以降の歴史の中で、いつの時代でも洗礼ヨハネ的な使命を持つ人を通じて予告される天国の概念として残り、そのために神様の労苦の手が継続的に沸騰していなかったのです。

また、イエス・キリスト以降の2千年間、多くの預言者が神様を紹介するために尽力してきた事を忘れてはなりません。洗礼ヨハネは「悔い改めよ、天国は近づいた」と叫びましたが、その天国を実際に紹介し、具現化するために来られたイエス・キリストは十字架にかかってしまいました。その後も今日まで、神様と人間の永遠の希望である天国概念は、人間を通して地上と天上に築かれなかったのです。

イスラエルの人々がイエス様を失った事は、結局、洗礼ヨハネが予告していた天国概念を失った事と同時に、イスラエルの人々が直面する平凡な試練に打ち勝つための天国の主人公すらも失った結果である事を理解する必要があります。ですから、イエス様が再び来て、失われたその天国概念を取り戻し完成させなければなりません。

神様が望む天国は霊的な領域だけで成就される天国ではありません。神様が望む天国はまず地上で成就された後に、霊的な領域でも成就される天国です。人間が死んだ後に形成される霊的な体達による霊的な領域と、この地上の世界は互いに分離できないため、皆さんは勝利的な実体を備えて天国の概念を実現するためには、天倫の前に立つ事ができると同時に、人倫の前にも立つ事ができなければなりません。そして、天倫と人倫を通じて天国の概念を皆さんの生活領域を通じて示さなければなりません。

そして、その天国の概念は個人的なものだけでなく、家庭、社会、国家、世界、そして神聖な概念としても存在する必要があります。この様な天国の概念は、あなた達自身を通じて現れるべきです。そうでなければ、ヨハネが荒野で「悔い改めよ、天国は近づいた」と叫んでいたにもかかわらず、その言葉を理解しなかっただけでなく、聞こえないままになって、イスラエルの民が天国の概念を実現できなかったように、今日のこの時代においても天国の概念を予告する人が現れても、その言葉を聞く事ができなくなるでしょう。
それだけでなく、天国の実体的な概念を築くための3年間の共生の試練の中で、山を下り山を登る中で民衆の前で叫ばれたイエス・キリストの新しい福音の言葉を受け入れなかったイスラエルの民と同じ立場に立たなければなりません。

したがって、何度も言いますが、あなた達が天国の概念を本質を通じて全ての人々に紹介し、多くの教派を通じてヨハネの様な新しい概念を予告できるように、天の歴史的な事情を感じ、そして一緒にその天国の概念をあなた達の生活領域に引き込んで、その言葉に動いて生きる事ができない場合、あなた達が望む希望の天国、神が探し求める希望の天国の概念は絶対に実現できないという事です。

今日まで人々が知っている天国は、もともと神が求めていた創造の理想の天国ではありません。イエス・キリスト以降、今日まで霊的な天国の構築のために努力してきた2千年の歴史を振り返ってみると、イエス・キリストが構築できたものは天国ではなく楽園でした。

したがって、イエスを信じてきた人々が望む天国の理想も楽園であり、今日の人々が持つ天国の理想は、神と人間が同時に受け入れる事のできる理想的な本来の天国ではなく、神の天国建設への進行中の条件的な天国である事を理解する必要があります。そのために楽園という名詞が使われるようになったのです。

したがって、あなたが真にイエス・キリストの天国の理想を実現する天国の中核として任命されたと言うなら、イエス・キリストを楽園の主人公としてだけ見なさず、霊的な領域の全ての霊的な存在と地上に住むすべての人々が協力して楽園の扉を開き、イエス・キリストが天国の主人公としても存在できるようにしなければなりません。

そして、イエス・キリストを天国の主人公として立てる責任は神にはなく、イエス自身や聖霊にもなく、この地上の全人類にあるという事です。しかし、残念ながら、人々がこれを知らないという事実があります。これを考えると、復帰の旅を進む人々にとっての進むべき道は遥かで難しいものです。

そして、人々が歩む他のどんな悲しい道があろうとも、これ以上悲しいものではありません。なぜなら、この道は先駆者達の悲しみを私達の悲しみに共感し、彼らの戦いの歴史を私達が再び歩まなければならない帰還の道だからです。多くの先駆者達がこの地に来て乗り越えた険しい山々やゴルゴダの十字架の道であっても、私達は彼らが歩んだすべての困難な歴史を超える生活をしなければ、絶対にイエス様が歩まれた道を追いかける事はできません。

今日のあなた達が歩む道、あなた達の信仰生活は簡単なものではありません。あなた達の人生はあなた達自身のためだけのものにはできません。あなたがたが生きているのは楽園にいる霊的な存在のためであり、さらにはあなた達には地上で天国を達成する使命があります。あなた達があなた達個人の生命のために悲しみをたくさん経験し、誓いをたくさん立てたでしょうが、個人の生活のためだけでは絶対にあなた達個人の意志すら達成する事はできません。

この地はあなたがたが歩む道をただ放っておきません。なぜならこの地は人間が堕落によってサタンに支配された地になったからです。だから六千年間、神と敵対してきたサタンはあなたがたが歩む道を妨げているのです。

こうした困難の中で私達が進むべき道はどの様な道でしょうか? ゴルゴダの険しい坂を越え、サタンに支配されたこの地を解放し、天国を築く道です。しかし、この道を進むためにはこの道を一貫して望んできた人類が実質的な歴史的過程で無数の探悟の歴史を歩んできたように、あなた達も探悟の道を歩まなければならないため、選ばれた私達人々ならば大きな覚悟をしなければなりません。

神が望まれる天国もあなた達も望み、また一生を捧げてその天国を築く仕事に責任を持ち努力しているとしても、セヨハンのように思うのであれば、あなた達もセヨハンのように30年以上惜しむ事なく天国の概念を叫び続けたけれども結局は破れてしまったであろうと思います。

洗礼ヨハネが望んで彼が進んできたその道では、彼が個人を中心に据えていたために破れてしまったのです。あなた達が同じ轍を踏まないようにするには、あなた達の行動があなた達個人を対象にするだけではなく、あなた達が生きる目的は他ではない事を心がける必要があります。

あなた達には天が望んでいる理想的な道を歩む事を阻むために、あなた達自身の事情だけを考慮して生きていく様な日常や一生を支配して、天の道に反対するサタン的な性格がある事です。あなた達がこの事実を骨の髄まで感じない限り、いけない事です。

天国の実現の道は、私達が進まなければならない、宇宙的な運命の道であり、創造の理念に残された天倫(天の道)の運命とも言えるでしょう。しかし、私達はこの道を自分のものだけとして考えてはなりません。神は歴史的な運命を負っており、永遠の天倫の運命を準備してきました。

 これは神の内面から、イエスと聖霊の心情を通して多くの先知達が歩んできた歴史的な努力と、あなた方とのつながりを作ろうとするものです。そして、過去に数えきれないほどの預言者達が、あなた方の一声に応え、イエスと聖霊も歓迎し、6,000年にわたって労苦してきた神が、あなた方がサタンとの闘いで勝利するための場を整えて助けてくださる事が、神のあなた方に対する意志です。だから、こうした神の意志に先立って呼び出されたあなた方は、自分達の責任と使命が重大である事を自覚し、責任を果たさなければなりません。

 終末に迎えるこの時に、もしこうした事をあなた方が責任を取らないならば、これまでの神とイエスと聖霊の歴史的な悲しみを誰が引き受けるでしょうか? これらの神の悲しい事情は、人間達が引き受けなければなりません。

このために神は世界の多くの民族の中で哀れなこの一民族を選ばれました。しかし、私達はここで、イエスの時代においてもイスラエルの民がイエスの意志を受け入れず不信仰により異邦でキリスト教を中心に新たな出発をする事を思い起こさなければなりません。

 そして今、私達の前には世界的な苦難の時代が迫っています。迫害と反対の時代が私達に迫っています。そして、この世界のすべての宗教が終焉を迎えるべき時期に臨んでいるのです。こうした時こそ、私達はこの民族が与えられた世界的な歴史的な使命を果たすため、全力を傾けなければなりません。

 将来、宗教を持つ人々はイデオロギー的な対立によって恐怖に直面する事になるでしょう。そして、6千年にわたり神に対抗してきたサタンが最後の挑戦で皆さんを攻撃する事になります。皆さんは常に、皆さんの命を狙っているサタンと悪霊達が皆さんのそばにいる事を知るべきです。これらの侵略は皆さん自身の力だけでは防ぎようがありません。

 皆さんがこれらとの戦いで勝利し、過去の歴史と現実、未来を代表する勝者になるためには、歴史を支配してきたサタンの本質、現実を支配しているサタンの本質、未来に対するサタンの意図を理解する必要があります。そのためには、イエスがイスラエルの民を代表してゲツセマネの山に登り祈り、生涯を捧げて天の意志に立ちはだかるサタンと対決し、歴史と現実、未来を代表する苦難の基準を築かれた様な道を皆さんも歩まなければなりません。皆さん一人一人の進む道にこれらの試練が残されています。

 私達がキリストの代理となり、自身の怨みを解き放ち、さらに神の怨みも解き放たなければならない責任があります。イエス・キリストがこの地に来られた目的を達成し、数多くの先知達の願いをかなえなければなりません。私達がこの責任を果たす事で、彼らが喜ぶ事ができ、その様な業績が天上の造物主である神の前、この地のすべての生きとし生けるものの前、そしてサタンの前にも明らかにされるとき、私達は長い間サタンの支配から解放され、天倫の中で応える事ができる環境となるでしょう。

そして、私達が永遠に安息できる勝利の土地である天国を見つけなければ、これまで私達が信じてきた神やイエス、従っている牧者や天使達もすべて、サタンによる苦しみから逃れる事はできません。

 天と結びついた皆さんは、父の前でどの様な存在として立つべきか、そして自分にどの様な時代的な使命があるかを知る必要があります。私達は神の前で立つ事ができる無限の天的な価値を持っています。

 したがって、皆さんは人間とすべてのものを代表して、一つの勝利的な天国観を備え、6千年にわたる神の多くの内的な苦悩、イエスと聖霊の苦悩も引き継ぎ、歴史的なすべての苦悩を克服できる勝者にならなければなりません。神は6千年間、この様な勝者を求めていました。したがって、皆さんがその様な勝者にならない限り、神が次々と見つけようとしている天国観を見つける事はできません。

 今日、怨みの地上でどんな一存在が天と地を代わり、人間を代わりにして天国観をこの地上に築く事ができれば、その価値は神の苦労やイエスと聖霊、そして多くの先知や聖者達の総合的な苦労の目的を結実させ、代わりにできる価値ある存在となるでしょう。その価値ある存在こそが、これまで神を裏切ってきた多くの先祖を救い出し、現在罪悪の世界で生きる多くの人類を罪悪から救い出すと同時に、永遠の神の天国を築くでしょう。

 歴史を超越して人間が探し出した天国、神がイエスをこの地に送り、実現する事を望まれていた天国、また未来の人々もその天国を完全にこの地上に実現できる価値ある一存在が現れる事を望み、神とイエスと聖霊、そして多くの先知や聖者達がその価値ある存在の出現のためにこれまで努力してきたのです。

 その様な存在がこの地に現れれば、神はその存在を永遠に守ってくれる責任を与えられます。これが原則です。その様な個人を中心にして永遠の国家、世界がこの地に実現されなければなりません。可哀想な私達の一民族、振り返れば私達の民族には何もありません。誇るべきものは何もありません。世界に披露できる様などんな価値も持っていません。

しかし、私達が国家と民族を超えて数多くの人類のために心を尽くす事ができるなら、アメリカやイギリス、あるいはどの国からも天国が先に成し遂げられるのではなく、私達は哀れな民族として神の前に進み、だれよりも先に天国を私達のものにする事ができます。そうなれば、天国を求める多くの民族はこの民族を経由しなければ神の前に進む事ができません。

 では、私達がこの天国を築くためには、どの様な使命と役割を果たさなければならないでしょうか? 長い歴史が進む中でこれまで戦いの道、死の道を踏みつけてきた中で、「天国よ、早くおいで下さい!」と訴えてきたその天国がまさに私達を通じて実現されるよう努力しなければなりません。

 もしも個人的にその様な天国を築いたならば、言い換えれば父が承認できる個人的な天国が実現されたならば、次には家庭的にも天国を築かなければならず、さらには社会・国家・世界・宇宙的な天国に拡大させていかなければなりません。皆さんはまず、この様な天国を築くという責任感を感じる人々にな らなければなりません。

 今日までの歴史の過程では数多くの聖者や先知が来ては去りましたが、神は今まで彼らを通じて適切にあなたの内的な事情を人間に教えてくださらなかったです。

 しかし、神の内的な事情を完全に明らかにし、天国の中でも最も中心に位置する宮殿にある宝箱まで開ける事のできる天国の鍵を所有している人物がこの地に現れるならば、それによって神はこの地上に再び留まらない理由がなくなるでしょう。

 それでは、今日ここに集まった皆さん、苦難の道、十字架の道を覚悟し、生死を顧みずに天の御旨のために立ち上がった皆さん、6,000年にわたり人間に告げられなかった神の事情を求めて立ち上がった皆さん! 皆さんは本当に神の忠実な息子娘になるために立ち上がりましたか? 忠実な女中になるために立ち上がりましたか? 皆さんが真にその様な人となるためにこの意志の道を歩んできたならば、今まで何を見つけ、何を感じ、そして神に何を示しましたかという事が問題になります。すべてはここに収束されるのです。

 この立場から見ると、皆さんは皆、イエス・キリストの後継者にならなければならないのです。この地に中心があったとしてもイエス・キリスト以上の中心がなかったし、困難な環境を乗り越える中でイエス・キリスト以上に難しい環境を乗り越えた人物はいませんでした。

 イエス・キリストは人間のために乗り越える難しい死の頂を超えながらも、「父よ、彼らの罪を彼らに返さないで下さい!」と祈った方でした。この道は今まで誰もが行かなかったイエス・キリストだけの独自の道です。

また、イエス様は当時の聖書の見解に基づいて神の御心に対処しようとはせず、イスラエルの民族を中心に神の御心に対処しようともしませんでした。イエス様は常に新しい主張を持ち、新しい神の御心に対処するために備えてきたのです。

 それによって人々に個人的な真理の道を教え、新しい生死観を悟らせてくださったのです。イエス様が歩まれた道は個人的には悲しい道でしたが、地上の人々が体験できなかった神の愛を体験しながら歩まれた道でした。
また、イエス様は習慣的な信仰態度を持って生きていたユダヤ民族によって、宇宙を創造された神様が宇宙の主として栄光を楽しんでいない事を嘆かれました。

 ご自身が人間と万物を造り、万宇宙の主であるにもかかわらず、神様は人間と万物に対して御心通りに命じる事ができず、支配する事ができない立場にいらっしゃいます。今日、多くの信者が神様は全能であるために自由に人間と万物を支配されると考えていますが、それはできない立場であるという事です。では、誰がこの様な神様を創造原初の理想の神様として、全人類から栄光を受ける事ができるようにしてくださるのでしょうか?

 人類の祖先であるアダムとエバが堕落した事により、神様は造物を完全に支配できない立場になったため、これを回復していかなければならない責任が人間にあるのです。そのためにイエス様は人間を代表して歴史的なあらゆる支配と思想を代表する立場で、人間を堕落させたサタンの侵入条件を取り除かなければならない岐路に立たれたのですが、人間の不信心のためにその御心は実現されませんでした。そのために神様は完全に造物を支配できる立場を回復できないまま、悲しんでおられるのです。

 終末に臨む皆さんが神様の願いと異なる天国、すなわち神の御心を実現するためにイエス・キリストが30年以上にわたり戦いの道を歩かれた事実を理解すれば、皆さん自身もイエス様の勝利を受け継ぎ、神の前に立つ事ができるように、神の威厳と名誉を懸念できる真のクリスチャンにならなければなりません。今日この地には多くの人々と民族がいますが、真に神の名誉と威厳を懸念する人々はいません。

 こうした時、神様の内的な心情を感じ、神の威厳と名誉を回復し、懸念し、懇願できる民族があれば、神様はその視線をその民族に向けて回されるでしょう。そして、神様は今日でもイエス・キリストの内的な心情を持った皆さんご自身を立てて、サタンの支配を打ち破りたいとお考えになるでしょう。

 イエスは神の義として、民族が裏切り、世界が裏切っても、善は滅びない事を知り、変わらぬ信念で悪魔と戦い、神の栄光を確立する責任を果たすために、この地で悪魔と戦ったのでした。

 それ故に、神の誇りを失った悪魔の罪を暴き、彼を攻撃する使命をイエスが引き受け、聖霊が担っていたのです。そしてそれだけでなく、人間が神の栄光と誇りを確立できる天国を築こうとしていたのでした。

 もともと神と人間との関係は、死んでも共に死に、生きても共に生きる永遠に変わらない父子の関係でしたが、人間達は堕落のために4,000年間、神との父子関係を結べずに生きてきました。

 この事実を誰よりも悲しんだのがイエスでした。彼は神と完全な父子関係を結び、この地に来て神の旨を成し遂げ、人間を救おうとしました。したがって、イエスは私達人間の父であり、祖先でもあります。あなた方はこれらのイエスの誇りと品位すらも守らなければなりません。

 すべての人間が神と父子の関係を完全に結ぶべきである事は天倫の因縁です。しかし、この地上で誰かがこれを最初に達成しなければ、人間は神と父子の関係を結ぶ事ができなくなります。今私達はその様な方に出会い、神を親とし、神の悲しみを私達の悲しみとし、お父様の苦しみを私達の苦しみとし、お父様の冤屈を私達の冤屈として感じなければなりません。そうすれば私達は神と父子の因縁を結ぶ事ができます。

言葉で結ばれる親子の関係、予約だけで結ばれる親子の関係は必要ありません。心を尽くし、力を尽くして父の意志に従い、骨身に染みる苦しみの中でも忍耐強く勝利する時、私達は神と親子の関係を回復する事ができます。
そして、父の栄光のために父の尊厳と面目を立て、父の栄光のためにイエスが十字架を背負い、ゴルゴダの頂を越えた事と同様に、世界的なゴルゴダの道も越える事ができるようになるべきです。そうでなければ、皆さんは6千年間、神の天国の理念を裏切ってきた天使長と同じ立場に立たされる事になります。
神は皆さんと近くにおられ、誰よりも一人一人を心配しておられる方である事を知っていただく必要があります。世の中では肉親の愛が最も大きいと思われていますが、神の愛はそれよりも大きく深く、世のあらゆる人間的な愛よりも深く大きい事を皆さんは知っておくべきです。
この様な神の愛の中で「父」と呼ぶ事のできる皆さんになり、「父の悲しみを私が理解します」と言える立場から、神の内面の気持ちを思いやる真の息子娘になるべきです。
その様な息子娘になり、神を模倣した天国を所有すれば、その天国は誰にも奪われる事がありません。次には神の苦しみを皆さんが引き受け、解決できる立場であるべきです。そして、神が苦しむ中での憤りを持つ事ができるべきです。
イエスが4千年間、神を悩ませてきたサタンに対して憤りを抱き、4千年の苦しみ以上の苦しみも乗り越える覚悟を持っていた事を知っていただく必要があります。 イエスは神の意志に逆らい、意志に逆らわない人々まで引き連れて歩き、歴史と現実を新たにし、「父よ、私が貴方の苦しみを引き受けていますので、心配せずに摂理の苦しみを解いて下さい!」と言える立場でした。 そして、イエスは神が天上と天下を通して感じている苦しみまでも共感しようとする心を持っていました。
ですので、4千年間希望を抱き、神の意志を担ってきたイスラエル民族の子孫達がイエスをゴルゴダの死の道に追い込むとき、イエスは死にゆく息子を見つめながら不当で悲しい心情を抱きながらも、自らの苦しみを忘れ、父を抱きしめて慰める事ができたのです。

それ故に、4千年間希望を抱き、神の意志を担ってきたイスラエル民族の子孫達がイエスをゴルゴダの死の道に追い込むとき、イエスは死にゆく息子を見つめながら不当で悲しい心情を抱きながらも、自らの苦しみを忘れ、父を抱きしめて慰める事ができたのです。

したがって、皆さんの中にもイエス様と同じように困難な状況でもむしろ父を慰めるために父を呼び求める人がいれば、その様な人は天国を築き進め、その様な人達が進む道は誰も阻止できないでしょう。

歴史的な神の労苦と苦悩に対して責任を持つと心に決めたイエス様だったからこそ、神様が復活の力を発揮してイエス様を蘇らせても、サタンは嘲笑する事ができませんでした。これに続く責任を負うためには、皆さんもイエス様と同じように6千年にわたる神の労苦と怨み、人間の不信仰に対する神の怒りの鞭を人間を代表して受け入れる覚悟を持つ事が求められます。今がその様な聖徒達に必要な時であると言えます。

もし皆さんの中でこの国の苦しみはもちろん、人類の苦しみや6千年間の神の苦しみと悲しみまでをも引き受け、人類に対する神の裁きの鞭をひとりで背負う覚悟がある聖徒が現れるならば、神はその方を通して第二のキリストの復活を許されるでしょう。それが実現すれば、この地には自然に天国の理念が結びつくでしょう。

今や私達は、イエス様が4千年の帰還歴史を代行し、神を休ませた事と同じく、2千年間サタンと戦い抜いたイエス様に対して、「主よ、これからは休ませて下さい。あなたの仕事を私達が責任を持って行います」と言える聖徒達とならなければなりません。これによって私達は今まで頑張ってこられたイエス様の仕事を代わりに引き受ける段階に入ったのです。

言い換えれば、地上のすべての聖徒が神の苦しみと悲しみ、そしてイエス様や聖霊の苦しみと悲しみを代わりに引き受けなければならない時が来たという事です。

また、私達は6千年間神に対抗してきたサタンの侵略に立ち向かい、帰還の任務を引き受けなければならず、人類のすべての罪を贖罪し、神聖な環境を創り出さなければなりません。その様な環境を整える事によって、イエスと聖霊がその場所に戻り、神がそこに戻ってこられるようになり、初めて創世以来神と人間が望んできた天国がこの地に建設される事ができるという事を皆さんは理解すべきです。

しかし、今日の皆さんは自分達がこうした重要な存在である事に気づいていないようです。過去と現在と未来がつながり、皆さんは祝福の機関となると同時に災いの機関ともなり得る事を理解しなければなりません。

したがって、皆さんが祝福の機関となるためには、神と聖霊が人類を救うために苦労されてきたその仕事を代わりに引き受け、サタンを制圧できる勝者とならなければなりません。皆さんは現在、天国の構築過程にとどまっているので、あらゆる分野で神が信頼できる存在であるとなり、個人の天国を経て地上の天国まで構築するのに適していなければなりません。

皆さんがこの内容を理解していれば、皆さんは誠実に理論的な使命を果たす事ができなければなりません。また、皆さんはゲツセマネの園で国民を代表してサタンと戦っていたイエス様と同じように、世界が反対し、世界的な苦難が訪れてもそれを乗り越えられる、歴史において優れた忠臣、孝子の中の孝子、女性の中の女性にならなければなりません。

皆さんがこの様な価値を持つ存在となり、サタンを統制できる神の真の子供となって、神がサタンの前で皆さんを誇りに思え、サタンも天の前で皆さんを認める様な姿にならないかぎり、天国の基準はこの地に立てられる事はありません。

父様がこの様な姿が現れる事を望まれると言うならば、イエスと聖霊が神の名誉と威厳を立て直すために苦しみながら父を呼ばれたように、皆さんも神と断てない祝福の関係から抜け出し、神の名誉と威厳を立て直すために苦しみながら神の代理を果たす事ができなければなりません。

もしその様な人物が世界中で他のどの民族よりも多く現れるなら、不信心なユダヤ民族を捨て、イエスの12弟子を中心に第2のイスラエルを形成したように、神は韓国民族を中心にして第3のイスラエルを創り上げ、地上天国の実現に成功するでしょう。

さらに、この民族がキリストの心情を受け継ぎ、神の心情を受け継いで神の意志を世界の人々に伝えるために誠心を尽くし、神の意志を達成する責任を果たすと、この民族は天国の祝福を受ける事になります。

今日まで人類は見える物質だけを追求してきたため、20世紀には物質文明が形成されました。しかし、見える物質の世界だけを研究し、その価値だけを追求する事は、人間の本来の欲望ではありませんでした。

物質の世界を超越した見えない世界と無形の神が存在するという事実を教えてくれるのが宗教です。したがって、この様な宗教のイデオロギーによって、見えない神の前に立ち去り、神の意志を求めていく一団があり、その様な民族、国家、人類があれば、彼らを中心にして20世紀の物質文明を超越した新しい神の世界、見えない世界が価値の中心となる新しい世界が築かれるでしょう。

物質の世界を追求していくと、物質の根本原因である力の世界を経て見えない世界に到達する事ができず、究極に至っては見える世界を支配する神の世界に到達する事になります。このようにして見える世界は見えない世界と相応する関係を結びながら存在しています。そのため、私達の民族が世界中のどの民族よりも熱心に祈り、誠心を尽くして見えない世界を代わりにして神の胸中に隠れている深刻な内面の心情を察し、イエスと聖霊の心情を感じるようになれば、どの民族よりも早く天上のすべての秘密を知り得るでしょう。

将来の人類の歴史は宗教的な立場を経る事なくはすまなくなっています。物質を追求している科学においても、単に平面的な問題、陸地と海などの物質の世界を研究する段階を離れ、今や立体性を持ち、物質の世界よりも前の根源的な本質の世界を研究する段階に入っています。

これから残されているのは何かと言えば、実質的な宗教の分離と闘争を経た後に迫る霊的な世界での戦いです。現代の物質世界で核融合によって最大の力が発見されたように、今後は霊的な世界でもその様な力が発見されるでしょう。

それは現在の自然科学の水準では知りえない力です。この力は超越的であり、超自然的な世界から発せられるものですが、その力がこの宇宙の秩序に影響を与える事ができるのは、必ずしも人間を中心において可能であるという事です。この様な作用がなければ、人間の希望も成就できず、理想的な天国も実現できません。

したがって、皆さんは皆さんを通して霊的な世界の包括的な思想を物質世界に表現しなければならず、宇宙のどの存在よりも価値のある自己である事を誇りに思い、さらには天的な力の実体とならなければなりません。皆さんがそうした人物になり、造物主を賛美できる環境を作り出すと、より大きな力が小さな力を引き寄せるように、皆さんのその天的な力の前にはサタンが従ってくるでしょう。

これまで私達の民族は、どの民族よりも熱心に宗教を信仰してきました。私達の民族がこのように世界的な最大の門を抜けていく過程には、さまざまな宗教の形態が生まれてきた事です。今後も多くの奇妙な形態の宗教が生まれるでしょう。これを私達が補完し、この地に主が来られる基準を築き、天敵の力とつなげる事ができなければなりません。

したがって、皆さんの心情を中心にした生活領域から始まり、天国を形成し、天的な天国まで形成しなければ、皆さんと神が望む造りの理想的な天国は皆さんを通じて成就されないばかりか、皆さんとこの民族を通じて世界人類の前にその様な天国思想を植え付ける事はできないという事を皆さんは心に留めておかなければなりません。

<祈祷>
お父様を通して心から動く無限の世界が恋しいです。この世界はすべて不信仰に沈んでおり、仇恨が結ばれた世界です。父よ、今日この時間まで私達を導いてくださった父の愛の前で自らの無面目さを感じていますので、許して下さい。貴方が託してくれた使命が大きい事を知っていますし、父の使命が大きい事を感じるほどに自分が低く、弱い事を知ります。父よ、大いなる力で導いて下さいと切に願います。

貴方がお託けくださった使命が大きい事を知っており、父のご分担も大きい事を感じるほどに、私達自身が卑しい事、弱い事を知るようになりました。父よ、大いなる権能で導いてくださる事を切に願い、望みます。

今、私達がサタンの権限を取り除く事ができる民、天国で求められる天の子供として許しを請いたい。父の心情を通して、イエス様の心情を感じ、サタンの侵略を打ち破ったイエス様の天敵に対する勝利の光景を私達も追い求めるために、父の恩寵を許して下さい。

それによって、貴方が望まれる創造本来の理想に向かって、一つの勝利に導かれ、同時に宇宙の前で立派に立つ事ができ、父の前でも尊く立つ事ができる貴方の子供達になれるように許して下さい。

父様は私達の父であるからこそ、今や全人類が貴方を父として迎え入れる事ができるように、サタンと戦い勝利する事で、天倫の意志を全宇宙の前に示せるように、父様の力を私達の心と魂に注いで下さい。父よ、切に願い、望みます。

今日ここに集まった私達全員を、貴方が真にお預かりいただき、お導きいただく事を心からお願い致しまして、全ての言葉、主のお名前によって祈りました。アーメン。






文鮮明先生の言葉集 2 - 17. 
故郷エデンを求めて私たちが歩む道 (1957年6月9日)
1957年6月9日(日)、前本部教会
聖書拝読:ペテロの手紙Ⅰ 4:7-19


<祈祷>
愛するお父様!
エデンの楽園を失ったアダムの悲しみが、私達の悲しみであり、天の怒りであることを知っております。また、エデンの楽園の理想を楽しむべき人間の先祖がその理想を楽しむことができなかったことが、天の怒りであることも知っております。


お父様!
堕落の逆境に立つ私達の責任は重いため、私たちを再び明確な立場に置いて、再創造の手を広げてくださらない限り、私たちと同じく哀れな者はいないと知っております。愛のお父様!慈悲の手を伸ばしてください!


私たちの心と体をこの時、あなたに捧げたいと願っておりますので、受けてください。そして、父の性相に従って形作り、あなたの御心を受け入れられるように私達を許可してください。


お父様! 孤独な息子娘たちが四方からあなたの名を呼んでいることを、私たちは知っており、彼らに共にしてください。人間の力だけでは何も成し遂げられないことを私達は知っており、お父様、この日に集まった私達の心と体を導いてください。

彼らが躓かないようにするべく、進むべき道で迷子にならないように許可してください。戦いの場で敗北する者にならないように許可してください。永遠にあなたの栄光を歌い、あなたの愛を誇りに思える息子娘達になるように許可してください。

環境が厳しいとしても、その環境を克服できるように許可してください。戦いの場で倒れることがあっても、私達を呼ぶ父の声を聞いて立ち上がることができる息子娘になるように許可してください。愛する私の父よ、切望しており、願っております。

お父様、この日、民族を代表して集まった多くの祭壇に祝福を与えてください。アベルの祭壇をこの地に備え、私たちが集まることができるように許可してください。そして、聖所に入り、父の前で不和だった先祖たちの罪を負い、贖うアベルの祭壇の子どもたちに導いてください、愛するお父様、切望しております。

お父様、この時間、地方に散らばっている孤独な祭壇の子どもたちが礼拝の時間を持っていることを知っております。この一時間でも、あなたが共にしてくださり、孤独な祭壇に属していても勝利の盾を持ってしっかりと戦い勝てる天の戦士へと導いてください。


一元的な恩寵と一元的な歴史を示してください。そして、終わりに呼ばれた者たちが忠誠を果たせるように導いてください。普段から真実な生活を送る息子娘になるように許可してください、お父様。切望し、望みます。


この場に集まった家族を一つに結びつけ、あなたが授ける言葉に従って従順でき、あなたに礼拝できる息子娘になるように許可してください。悔い改めて、神聖な生けるいけにえとして父にささげることができるこの時を許可してください、愛する父よ。切望し、望みます。


一週間を過ごす中でサタンから傷ついた息子娘がいるでしょうか? お父様、この時、彼らの心と体を導いてください。新しい天の喜びと栄光を許可してください。また、自分達が父の前で喜びの祭壇を築いて栄光をたたえることができるこの時を許可してください、愛するお父様、切望し、望みます。

今、集まりましたので、私達が持っていた性格や意識、概念をすべてあなたの前に差し出し、サタンの中傷的な条件から解放されるこの時を許可してください。お父様! 何百万ものサタンが中傷しているので、一つの命でも彼らの中傷的な条件にかからないように保護してください。

ただし、誠実な心と体をもって、生けるいけにえとして差し出します。お父様、お導きいただき、すべての家族に行き渡り、栄光を示してください。切望しつつ、すべての言葉で主の名によって祈ります。アーメン。




<御言葉>


本文の中で、「ただし、あなたがたがキリストの苦難に共感することによって喜びなさい。これは、彼の栄光が現れる時に、あなたがたが喜び、喜んで喜ばしむためである。」ペテロの手紙Ⅰ 4:13)という言葉を中心に、「本来のエデンを求めていく私たち」というタイトルで語ります。


皆さんは、創造の原初の楽園であるエデンの園について、聖書を通じて多くのことを知っていることでしょう。また、堕落する前にアダムとイブがエデンの園で神と交わり、協議しながら生活していたことも理解されているでしょう。しかし、アダムとイブの堕落により、神がアダムを通じて実現させたエデンの園の希望も完全に実現されなかったことも理解されているでしょう。

そのため、私たちが今探し求めるべき本来のエデンの園は、堕落とは無縁の世界であり、同時に神が創造以来求めている希望の世界です。

人を通じてエデンの園で理想的な栄光を見ることを望んでいた神が、人を失うことでその希望のエデンの園も失ってしまいました。そのため、神にとってもその園は今日まで希望の園として残っているのです。

また、堕落の血統を受けた私たち人間も、生涯を通じて、歴史を通じて、永遠の希望としてこの園を求め出ています。しかし、もし私たち人間がこの園を見つけられなければ、人間が享受すべき真実な幸福、人間が求める真実な生命、人間が持つべき真実な愛、人間が持つべき真実な理念とは何の関係も持てないことを皆さんは良く理解されています。

では、神が私たちの存在を立て、苦労と労働の目的は何でしょうか? それは皆さんを中心にエデンの園を再び形成することです。皆さんはこれを感じなければなりません。神はあなただけが楽しむエデンの園だけでなく、皆さんを通じて楽しむことのできるエデンの園を望まれ、長い間、約6千年にわたってサタンと戦ってこられたことを理解されるべきです。

私達は堕落によってこのような希望の土地を失ってしまったため、私達はその希望の土地を描きながら再び探しに行く運命の道に立たされています。そして、その運命の道は進むべきでも進むべきでない、天倫的な道であり、人倫的な道でもあるのです。


皆さんは、自分が生活する中で表れる全てが自分の個体だけを通じて関係することを望んでいますが、それが現れる全てが自分自身だけに留まるのではなく、全体と繋がらなければなりません。そして、これが再び人倫的な法則や天倫的な法則とも繋がり、創造主の思想とも繋がることができるよう努力しなければなりません。


今日、私達は歴史と宇宙を代わりにし、父に無限の幸福と栄光を返す責任を負っていると同時に、無限の命と愛を持ち、父に栄光を返す責任もあります。もしこのような責任を知らないでいれば、皆さんは望む本来のエデンの土地とは何の関係もなくなり、また神とも何の関係も持つことができなくなることを理解するべきです。


それでは、その本来の土地、創造の理想として人を通じて表れるべきその本来の土地はどのような土地だったでしょうか?  その土地は神が楽しむことができ、同時に人間が楽しむことができ、すべての被造物が一緒に楽しむことができる土地でした。したがって、その土地は幸福の土地でした。

今日の人々が求めているものは何でしょうか? それは幸福です。では、その幸福は私達人間に何を保証できるでしょうか?  その幸福は永遠の喜びを保証できると同時に、永遠の感謝を保証できなければなりません。

また、本来のエデンの土地はどのような土地でしたか?  その土地は生命の土地でした。そして、ある特定の時間枠内に滞在するだけの生命の土地でなく、永遠を中心に表れる生命の土地でした。

こうしてその生命の楽園がこの地に実現されていたなら、人々は生命を持つ存在として神の生命の賜物に対する感謝と永遠の喜びを持っていたことでしょう。その次に、本来のエデンの楽園は人間がすべての生命の主として生命の光を示せる世界でした。つまり、その世界では各々の生命が神の前で永遠の希望の実体として現れつつ、無限の価値ある存在として光を放つことができたのです。

そして、本来のその楽園は愛の楽園であり、同時に平和の世界であり、神の愛を中心に互いに和合し、すべてが一つになる統一の世界でした。

したがって、私達はこのような本来の楽園を築き、私達の幸福、生命、そして愛を通して神に栄光を返さなければなりません。その栄光は私たちの誠実さと努力を通じて、6千年にわたる歴史と運命の中で、どの個人よりも優れた美の実体として現れたときにのみ、神によって歓喜の中で迎え入れられる栄光なのです。したがって、私達すべての人間が神にそのような栄光を返すためには、このような美の実体として現れなければならないということです。では、その美はどのような美でしょうか?

それは笑顔と歌と踊りで示せる美であり、神に栄光を返すことのできる永遠の価値としての美なのです。本来のエデンの楽園はまさにこのような美の世界でした。

こうして私達が求める本来の楽園は幸福の楽園であり、神に讃美と感謝を返さなければならない世界なのです。そして、その世界は生命を中心にした希望の世界であり、生命と愛を中心にした平和の価値と統一の価値が具現化された世界なのです。

そして、それらの人間のすべての価値が結びついて美として表れる世界であり、すべての存在が歌と笑顔と踊りによって神の生命と永遠の愛を讃える世界です。さらに進んで、人間が動くままに全ての創造物が共に動き、静まり、調和する世界です。神はこのような創造の本来の世界を人を通して実現しようとされたのです。

これは神の理想的な世界が、人間の先祖の堕落によって阻まれ、砕け散ってしまったことです。それでは堕落の枷を振り払えずにいる私達は今日どんな世界に置かれているのでしょうか?  幸福な世界ではなく、不幸な世界に置かれ、喜びの世界ではなく悲しみの世界に置かれ、感謝して生きる世界ではなく、恨みを抱いて生きる世界に置かれています。これに気づくべきです。そして、あなたがそのような不幸な世界を乗り越えなければ、幸福は二度と訪れないでしょう。

では、どのようにしてあなたが不幸な自分であることを知ることができるでしょうか?  それはあなたの心を通して知ることができます。あなたの心の中に取り除けない悲痛な心がありませんか? これがまさにサタンが私達の先祖であるという証拠です。また、あなたは他人を嫌い、恨む気持ちがありませんか? これは本来のエデンの楽園に向かって進むことを妨げ、サタンが私たちの心に鉄格子をかけたものと同じです。

そして今日の人々が生きている世界はどんな世界でしょうか? 生命のない死の世界であり、絶望と暗黒の世界です。本来、人間は生命の価値を讃えながら生きるべき立場にあり、生命を中心にして永遠の神の理想と調和できるはずでしたが、今日の人々は神の理想の前に立つ希望が断たれたまま、絶望の中で生きています。

人間が絶望の中に置かれると神も絶望の中にいることになり、地上で人間がサタンに捕らわれると天上にもサタンが支配する暗黒の世界が残ることになります。ですから、主に従い、天性の理念を求めるあなた方なら、悪の世界に現れる要素、つまり神の理想の本質と配置される要素をあなた方の存在から戦って識別しなければなりません。これを識別しないでおくと、あなた方は本来の楽園とは何の関係もないことになります。

そしてこの地は堕落した地であり、不幸な地であり、サタンの地であり、希望のない地であり、アバの永遠の理想を歌うことのできない地であり、生命の光のない地であるということです。

あなた方の中で計り知れない絶望のどん底に囚われた者がいますか? あなた方の中でそのような人がいるなら、彼は理想の世界とは何の関係もない人です。また、暗黒の中で前後左右上下を識別せず、無秩序な混迷の中で中心を忘れ、天倫の法度を蹂躙する位置に立っている人がいますか?  このような人もまた、天性の理念の土地とは何の関係も結べないものです。

そして、神の愛に満ちた理想の土地とは対照的な存在であるこの世界は、実際には分裂と紛争が絶えず続く世界です。言い換えれば、平和の理念が実現された真理の世界ではなく、サタンが優越し、天倫を破壊する世界であり、嫉妬と妬みによって争いと分裂が絶え間なく起こっているということです。天性、すなわち本来の理想の土地を求めるあなた達の心に嫉妬と妬みがありますか? また、争いと分裂の心がありますか? もしそれらが残っているなら、本来の理想の土地を見つけることはできません。

その後、この地はどのような世界でしょうか? 神の栄光が現れていない世界であり、絶望と嘆きのため息、苦しみと悲しみの涙で満ちた世界です。もともと人々は神の永遠の理想の土地で神の栄光を称賛し、共に喜びながら生活するべきでしたが、そのできない状態となっています。

今日のサタンの世界が理想の土地とは対照的な形で形成されていることを念頭に置いて、あなた達は本来の理想の土地に向かって天敵的な幸福と結びつき、さらには天敵的な生命と愛と栄光、結びつきを築かなければなりません。そうでなければ、本来の土地が現れたとしても、それはあなたたちとは何の関係もないことを覚えておかなければなりません。これらの両方の世界、つまりサタンの世界と創造本来の世界との架け橋となるために、この地に来られた方は誰でしょうか? それはまさにイエス・キリストでした。

それでは、イエス様はこの地に来て何のために戦われたのでしょうか? イエス様は天国的な幸福、理念、愛、生命、栄光を実現するために戦ったというよりも、これを妨げている悪の要素と戦われ、またその戦いにおいて先駆者として責任を持ち苦労されたことをあなたたちは知るべきです。

さらに、あなた達はイエス様が自らの幸福を願う前に、サタンの支配を攻撃し、そしてその世界に縛られている不幸な人々を神の支配の世界に導くために一人で立ち向かい、天敵的な責任を持って戦われたことを知るべきです。

したがって、イエス様は不幸や悲しみ、恨みに苦しむ人々に対して訪れ、より高い神の幸福の心を持たせ、その幸福の心を持っていれば、より大きな不幸にも耐えられる条件を整えてくださったのです。このような条件が天国の幸福の要素として残ることができたので、あなたたちはイエス様を通じて、不幸を克服して幸福の条件を整え、さらに永遠の神の支配の中で生命、愛、栄光の条件も整えることができるのです。

したがって、今日この地上に住む多くの人々は不幸や悲劇、恨みに苦しんでいるのは、何故でしょうか? それは自分の個人的な利益のためだけに生き、その結果が生まれたものです。国や国家、または世界のために生きるのではなく、自分自身だけのために生きようとすることがサタンの世界の本質です。つまり、サタンの世界の本質は自分を中心に置き、すべてを自己中心的に結びつけることです。そのため、堕落した人間たちは不幸な立場に陥るたびに、自分を中心に据えて悲しみ、他人を責め、生きているのです。

しかし、イエス様は不幸な状況に直面した際に、自分が不幸だとは考えず、神の心を代わりにし、この世界を憂いながらその不幸な立場を克服されました。もしイエス様が恨みを持っていたとすれば、それはこの邪悪な世界に対する恨みであったということです。したがって、人間の恨みとイエス様の恨みは本質的に異なる方向を持っていたことを理解する必要があります。

したがって、悲しみと恨みの世界を経て、不幸の扉を開き、本来の幸福の理想郷を探し求める私達が最初に行うべきことは、イエス様と神聖なものを求めることです。つまり、イエス様は自分が悲しんだり、神の意志を代わりにしたり、さらにはサタンの世界を恨むことなく不幸な立場にあったため、あなたがたが本当にイエス様の状況を理解しているなら、すべての神の意志を代わりにし、イエス様のすべての望みを代わりに受け入れられるようにならなければなりません。それができるとき、あなた達は永遠の本来の幸福の天国に入ることができるでしょう。

イエス様は死に直面した世界を救い、神の希望をこの地上に実現するために、「もしできるなら、この杯をわたしかから取り去ってください。しかし、わたしの思い通りでなく、御心どおりになさってください」と熱心に祈りました(マタイ26:39)。また、「わたしの神、わたしの神、なぜわたしを見捨てられましたか?」(マタイ27:46)と嘆かれました。

彼が人間の世界で誰よりも神の大きな祝福を受けると思っていたにもかかわらず、彼は拒絶され、30年以上の生涯の最後には絶望的な状況で十字架を背負わなければなりませんでした。しかし、イエス様はそのような絶望的な状況の中でも、それが彼個人の一身の結果ではなく、全世界の人類を代表する立場から受ける試練と苦しみと考え、それらを克服しました。

さらに、イエス様は神が自分自身で絶望するのではないかと心配しました。そして、イエス様は嫉妬や嫉妬などの悪の要素を抑制し、つまり、天の本質である愛に対抗するサタンのすべての要素を抑制するために、無限の犠牲の贄となり、敵のために祈りました。

もう一度言いますと、イエス様は自身の心の奥深くに、人々が計り知れないほどのサタンへの憎しみと、地上の敵を裁く願望があったかもしれませんが、それらを赦し、憎しみや裁きの心を踏み越えて昇りましたということです。

イエス様は十字架の死を覚悟しながら、罪深い状態にあえぐ人々の苦しみと悲しみを解放するため、十字架の苦しみや人々のあざけりを乗り越えることができ、全人類に対するサタンの中傷の条件を防ぐことができました。

また、イエス様はサタンの世界のどの誰よりも憐れみの心で全てに打ち勝ち、天国への心と宇宙への心が極めて高かったため、神はあなたの悲しみを代わりに負ってくれたイエス様をよみがえらせたことを理解すべきです。

これからも私達はイエス様の後を追い、十字架の苦悩を超えて神の本質的なエデンの園に向かって進むために、自らの不幸な状況はもちろん、世界的な不幸にも責任を持ちながら進まなければならないということです。

ですから、皆さんは自分を犠牲にして難しい道や不幸な状況に直面しても、その場で悲しみやサタンの誘惑に囚われた者になってはいけません。

皆さんがたとえ不幸な立場にいたとしても、喜びと楽しさ、感謝の心を持っているべきです。そして、その感謝と喜びの心が一時的で個別的であってはならず、永続的で全体的なものでなければなりません。言い換えれば、永遠に世界的に感謝し、喜ぶことのできる環境を築くために、犠牲的な態度を持たなければなりません。皆さんが神の幸福の園を全体的なものとして築くためには、この事実を心に留めておく必要があります。

もしもこの地上に父の気持ちを慰め、父に笑顔と楽しみと喜びを返す存在が現れたなら、父は喜ばれるでしょう。ですから、皆さんは絶望とため息の中でも、天敵に打ち勝つことや天敵に対する希望や全人類の光の価値を示すことができなければなりません。嫉妬や争い、分裂が激しいこの地上で、神の愛を中心に平和と統一の使者とならなければなりません。

そして、怨みと嘆きとため息と誹謗と涙に苦しんでいるこの地上で、万物を代わりにして神の栄光を賛美するために笑顔と喜びで歌詠(頌詠)できる皆さんがなければなりません。このような人になれない場合、皆さんはサタンの世界から抜け出せなくなることを知らなければなりません。

ここに出席している皆さんの心の中に、まだ新しいエデンのイデオロギーとは対照的な邪悪なサタンの性格を持っている人はいませんか?私たちが父の前に現れるときは喜びの姿で現れなければなりません。歴史上誰もが喜ぶことのなかった最高の喜びを持ち、感謝の姿で現れることを神は望んでおられるのです。

今、皆さんが希望を持つために、また生命と愛と栄光を成し遂げ、その価値を示すために、サタン側の人々が決して追いつけない歴史的に最高の位置に立つときがきました。ですから、皆さんは十字架を背負っても最高の十字架を背負わなければなりません。

そして最悪の不幸な状況でも、天国の栄光を歌うことができる能力を持つ覚悟を経なければ、サタンもそれを嘲笑うことができなくなります。むしろサタンの前に立ち、サタンの権威と地上のすべての邪悪な要素を嘲笑えるようにならなければ、神の愛に触れている人だと言えるでしょう。パウロが「キリスト・イエスの内にある神の愛から、だれがわたしを引き裂こうか。」と言ったように、地上のすべての邪悪な要素を嘲笑うことができなければなりません。

また、苦難の過去、現在、未来を代わりにし、全宇宙を代わりにして、本来の人間の姿として本来の幸福、愛、栄光を歌うことができ、"神よ、私のためにあなたの6千年の悲しみを忘れてください。"と言うことのできる存在がこの地上に現れなければなりません。そのような存在が現れない限り、キリストの十字架の怨みはこの地上で永遠に解決されないでしょうし、キリストがこの地において悲しまれたその全ての気持ちを解消できません。

それでは、これからは本来のエデンを探して進む皆さんは、どのように生きるべきでしょうか? イエス様を手本にすべきです。イエス様を手本にして、宇宙的で天的な幸福の要素を見つけ、神の前に栄光を実質的に示すと同時に、皆さんが滞在する場所ごとに神の幸福、愛、生命、栄光を紹介できる真の人間にならなければなりません。多くの人々に感謝を返すよう教育できる皆さんにならなければなりません。

これらすべては何によって現れるのでしょうか?それは言葉によって現れます。堕落も言葉を信じない結果として現れ、生命の復活も言葉を通して現れます。したがって、天性(天城)、つまり本来のエデンの園を求めていく皆さんは、初めに神から授かった言葉を守り、その言葉で天的な幸福を紹介でき、天的な愛と生命と栄光を紹介できる人にならなければなりません。

今日、皆さんが地上で生きている中で、言葉一つ誤ることで不幸な人をより不幸にし、悲しみに直面している人をより悲しませ、憎しみに沈んでいる人をより憎ませたことが多かったでしょう。また、絶望に沈んでいる人をより絶望に追い込み、混乱に陥っている人をより混乱に陥れたことが多かったでしょう。この世界のどの誰もがこれらのカイン的な遊びをすることが多いですが、これらはすべてサタンが行っている証拠です。

したがって、皆さんはこのような世界を刺激し、その反対方向に進むことができなければなりません。さらに、このような世界を正すためには真の生活を送る必要があります。どの人を扱ってもその人が良くなることを望み、その人が天的な幸福を持ち楽しむとき、自分も一緒に楽しむことができる心を持たなければなりません。そして、父の前で感謝しながら新しい希望を持つことができる心を持つだけでなく、光の栄光を見つめることができる心と平和の心を起こすことができる心を持たなければなりません。そしてさらに進んで、すべてが一つになるように、そのような心を生活を通して示さなければなりません。

もし皆さんがこれらすべてを生活を通じて、生涯を通じて示さなければ、あの国に行って神の栄光を歌うことはできません。したがって、皆さんが天国に行って神の栄光を歌うためには、最初に地上にいるとき、神の御心を伝え、実践しなければなりません。

そして皆さんは神に代わって地上にいる人々を愛さなければならず、死の権威の中で引き寄せられている人々を神の生命権威で引き上げなければなりませんし、キリストを代わって真理を宣言しなければなりません。そして神の希望の御心を達成するために協力する者たちとならなければなりません。そうでなければあの国に行って神の栄光を歌うこともできず、天性の遺産を永遠の遺産として継承することもできません。

したがって、皆さんは神の本来の園を紹介する生活、天的な生命と愛と栄光を歌う生活をしなければならず、さらにはすべての人々にそのように生きさせなければなりません。つまり、創造主である神を代わって皆さんが再創造の歴史を行わなければなりません。

また、皆さんは地上で生涯を捧げ、神に忠誠を尽くし、平和な世界だけでなく邪悪な世界でも愛することができる人になり、本来の理想を歌うことができなければなりません。その時、皆さんは神の創造理想を具現化する真の子女となり、永遠の神の愛と栄光の中で神と共に永遠に共にすることができるでしょう。これを皆さんは確実に知っておかなければなりません。


<祈祷>

愛のお父様!
私たちの心の畑にあなたの幸福が蒔かれるように許してください! あなたの生命が蒔かれるように許してください、そして、あなたの愛が蒔かれるように許してください、そして、あなたの栄光が蒔かれるように許してください!

お父様の幸福と生命と愛と栄光が私たちの永遠の心の基盤となって地上の不幸なすべてを踏み越えて上昇するように許し、暗闇の世界を踏み越えて上昇するように許し、分裂と闘争が激しいこの世界を踏み越えて上昇するように許してください。


ためいきや陰口や涙を踏み越えて昇ることのできる息子娘になり、幸福を多くの人々に移せる人々にならなければなりません。不足している私たちを導いてください。

お父様、今日私の一日がお父様の前で真の子女として立たなければならないことを知り、悪の立場から幸福を楽しむか、私を中心にして幸福を楽しむことはしてはならないことを知ります。また、キリストがこの地に来て生活したのも自分を中心とした生活ではなかったことを知ります。

ですから、お父様、自分が幸福になる前に兄弟姉妹が先に幸福になれるようにしてください。自分が喜ぶ前に兄弟姉妹が先に喜べるようにしてください。

自分を超えて天宙的な生涯の道を歩むことができる心を持たせ、キリストの生涯の道を見習って真の兄弟姉妹同士が善でだけに対処し、お互いに愛することができるように許してください。そして、神の幸福と生命と愛と栄光を得られるように許してください。真の兄弟姉妹の結びつきを中心にして引き裂かれない唯一の中心を築いてください。愛する父よ、切に願います。

実際に他の人を愛する人がいれば、本来の園はその人を通じて永遠の価値を示すでしょう。今日ここに出席した子供たちよ、どうかどうか、お父様の愛の権威の中でお父様が望まれた天国の子女になり、恥じることなくお父様の栄光を歌うことができるように導いてください。

お父様の前で、私たちは個別の価値を示し、感謝と栄光で礼拝できるように許してください。そして、どうか永遠の勝利の子供たちになることを許してください。私たちはこれを熱望し、私たちの全てをお任せします。この時間を主導してくださり、感謝いたします。
あなたの御名によって祈ります。アーメン。



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御言葉選集2(15)

2023年11月25日 18時33分52秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 2 - 15. 主イエス・キリストがなぜ去り、そして再び来られるべきなのか  (1957年 5月 26日)
1957年5月26日 前本部教会
聖書拝読:マタイによる福音書12:38-50とマルコによる福音書14:32-42です。


「御心」に先立って、あなたが許された意志の前に、私達がこの時代を代わって見つめなければならないときが来ました。


慈悲深いお父様、愛のお父様、慈悲深いお父様、全能のお父様! イエス様を送る為に4000年の歴史は長い時でしたが、イエス様が帰られてからの2000年の歴史もまた長い時でした。これらの歴史を思い起こすと、今日の私達は天の前で恥をかくべきである事を、お父様、理解できる様に助けてください。


些細なものを呼び寄せ、些細なものを握りしめ、些細なものを支配し、些細なものを求める為に、6000年という長い時間をお過ごしになり、希望の意志をお持ちになり、今日の人間を見守っておられるお父様の心情を、この時間に私達が考える事を許してください。そして、イエス・キリストの素晴らしい姿を代わりになって理解し、お父様の慈愛に対する気遣いを共有できる様に、私達一人一人がお父様になる事を、お許しいただけます様に、お父様、切にお願いいたします。


信じる者も多く、選ばれし者も多いが、あなたが直接愛する事のできる子供達は非常に少ない事を知っております。慈悲深いお父様、ここに集まったあなたの子供達、今こそお父様を心から畏れる心で自己を発見させ、その身を通じて自己の恥をさらけ出し、お父様の望む意志の前にすべてを捨て、従える様に、お許しいただけます様に、愛するお父様、切にお願いいたします。今、集まった子供達を中心にして許された恩寵を示してください。


新しい使命を予告しなければならない新しい使命を背負った私達、最終的な宇宙的な使命を任されるべき時が来た事を踏まえ、私達自身が不足しているからと言って、天倫の大企業を延長する冗談をしないでください。自己の為に前に怨みを残す行動をしない様に導いてください、お父様、切にお願いいたします。


この時間においてただ聖三位一体が私達を支配してください、個々の性格まで支配してください、そして全体的な性格を代わりになるお父様の本質の動きだけが、各自の心を通して現れる事ができる様にしてください、お父様、切にお願いいたします。


今、お伝えしたい言葉を持って進んで参りました。主よ、与える者の心と受ける者の心に間隔をなくし、人間的な知識で分別する尺度を持たない様にしてください。私達は全てを父の前に預け、父の前で一つの献身として調和する言葉に従い、この時間が一つの献身として捧げられる様に許してください。ただ主に委ねてご支配ください。主の名によって祈ります。アーメン。


<説教>


皆さん、少し考える時間になるであろう説教の題目は、「主はどうして去られ、そして再び来られるべきなのか?」というものです。この様な題目でお話しいたします。


イエス様はこの地上に来られ、十字架にかかり帰られ、そして復活された後に昇天されたため、再び来られなければならない運命に置かれています。


長い間神の計画の意志を受け入れてきたイスラエル民族の中でも、選ばれたユダヤ教は神の意志を成就し勝利の拠点を築く使命がありました。これが彼らを選んだ神の望みであり、また彼ら自身の希望でもありました。


この意志が成就される時を望んで神は、信じる事のできるし、創造の理想を実現する全体の使命を果たす事ができる忌むべき子、すなわちイエス様を送りました。従って神はイエス様を人間の前に主として現れさせ、イスラエルを通じて達成しようとしていた祝福を成し遂げ、歴史的な神の救済の計画を終結させねばならない存在だったのです。


しかし、その様なイエス様がなぜこの地で神の意志を成就し、神の栄光を歌う事のできる理想の地を築けずに去られたのでしょうか? これが今日の私達にとって悲しみを引き起こす内容である事は否応なくありません。


イエス様がこの地に来られて帰られるまでの過程は、今日の地上に生きる人々が通る生涯の過程ではありませんでした。誰よりも困難な立場、誰よりも孤独な生涯を経ておられました。また、イエス様は神の意志と人間の理想を一身に受け、一つの時代、一つの時間帯で現れた存在でした。


しかし、この様なイエス様の価値を、天が見る様な価値として理解する人がこの地には一人もいませんでした。さらに、人々はイエス様を全ての人類に神の愛を結びつける愛の中心存在として崇め奉じる事ができませんでした。


従って、イエス様は言葉にできないほどの悲惨な生活をされたのです。友達として一人を立てて、自らの悲しみを打ち明ける事のできなかったイエス様でした。この様にしてイエス様はどなたよりも哀れな生活を過ごされた事を、今日の皆さんは知らなければなりません。


神の意志を達成し、神の栄光の為にイエス様がおいでになった事は、イスラエルの民族の喜びとなり、ユダヤ教徒と世界の人類の喜びとなるべきでした。そして、神の独り子であるイエス様は全人類の主役として現れなければなりませんでした。しかし、なぜその様なイエス様は飢えと悲しみに苦しむ哀れな生活をされたのでしょうか?


時代は変わり、歴史は経過しましたが、皆さんはイエス様が生存時に感じられた悲しみと孤独を思いやり、その哀れさを感じる事ができる人にならなければなりません。しかし、もし皆さんが天地を代わってサタンと戦い勝利する事で神に栄光を還元できる子供でなければ、悲しみと孤独に結びついているイエス様の憤りを解く手段がないという事です。


イエス様の希望は自らの欲望を満たす事ではなく、自らを犠牲にしてでも神の創造理念を実現する事でした。墜落した人間世界の中心存在であるにもかかわらず、神は創造理念を実現する為に4000年の間帰還の計画を進め、イエス様は堕落した人間の祖先の過ちを引き受け、その様な神の意志を自身の理念、目標とし現れた方でした。


しかし、イスラエルの民族はその様なイエス様を知りませんでした。それだけでなく、ユダヤ民族はイエス様の一神が歴史的な希望を代わる同時に当時の神の全体的な意志を代わる存在であった事さえ知りませんでした。


イエス様は孤高な一個人でありながら、その自体は歴史を代わる事ができ、現実を代わる事ができると同時に、天倫の意志を代わる事ができる永遠の神の理念を持っていた方でした。しかし、神の意志を受け入れてきたイスラエルの民族とユダヤ教徒は、イエス様がその様な方である事を知りませんでした。だからこそ、彼らはイエス様が辿るべき道を協力するどころか、公然と妨害し迫害していたのです。


では、その様なイスラエル民族と人類を見つめるイエス様の悲しみはどの様なものだったのでしょうか? それは当時の状況だけを見て悲しんでいたものではありませんでした。イエス様の悲しみはアダムの堕落以後、4千年にわたる帰還の計画を進めてきた神の悲しい心情を代わりに感じる悲しみであり、神の意志を受け入れて4千年もの歴史的な過程を経て疲れ果てた多くの先知聖者達の悲しみを代わりに感じる悲しみでした。その様なイエス様であった事を今日の私達は感じなければなりません。


では、イエス様の悲しみはどの程度だったのでしょうか? 4千年にわたる神の悲しみや天にいる無数の聖者達の悲しみを代わりに抱えておいでになったイエス様であったため、イエス様の悲しみを神や無数の聖徒、天使達は知っていたという事です。

イエス様の悲しみはあなたのためのものではなく、あなたを殺すイスラエル民族のための悲しみであり、ユダヤ教徒を心配する悲しみであり、世界的な計画を心配する悲しみでした。そんなイエス様の心情を理解した後、悔い改めて、イエス様の悲しみを理解できなかったイスラエル民族とユダヤ教の指導者達が深く反省すべきでしたが、彼らの中にはイエス様の悲しみを理解する人は誰もいませんでした。

こうして歴史的な神の憤りと地上の人間を望む心情を抱えておいでになったイエス様をユダヤ教はメシアとして迎え入れず、イエス様の悲しみは一層深まったのです。それだけでなく、イエス様を中心に神の意志を達成させなければならないイスラエル民族とユダヤ教は立てられた神の希望の意志を忘れ、イエス様を裏切る立場に立たされ、イエス様は30年以上にわたり神の涙を代わりにして無限の悲しみの涙を流し続ける生活を送る事なくはなかった事を知るべきです。

イエス様は熱望に満ちた希望を抱き、父の事情と心情を紹介する自らの使命を果たす為に努力された3年の共生の期間中、悲しみを抱えながらゲツセマネの庭を経てゴルゴダの丘まで追い込まれ、追われざるを得ない哀れで悲惨な悲しみを経験された事実を皆さんは知らなければなりません。

では、イエス様がゲツセマネの庭で「父よ、もしできる事ならこの杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の望むとおりでなく、御心のままになさってください。」(マタイ26:39)と熱心な祈りを捧げる理由はどこにあったのでしょうか? それは神の悲しみと無数の聖者達の悲しみ、そして全人類の悲しみを誰が負担するかを心配されたからであり、あなたが十字架にかかるとき、あなたを追う多くの聖者達も死の道を歩まなければならない事をご存じだったからです。そのため、イエス様は悲しい心情が北風に吹かれて天の前にその様な嘆願をする事となりました。

神の悲しみと人間の悲しみ、そして未来の子孫の悲しみを代わりに引き受け、慈愛に満ちた十字架に戻られたイエス・キリスト。皆さんは、歴史的なイエス・キリストだけでなく、今日の現実で再び同じ状況に直面する可能性があるイエス・キリストの姿を見つけ、この世界に現れさせるイエス・キリストの後継者になる必要があります。そうでなければ、歴史の中に閉じ込められたイエス・キリストの悲しみと運命は解消されません。

これまで天を信じる聖徒達は、その様なイエス・キリストの後継者になる為に努力してきました。さらに、私達はイエス・キリストの悲しみだけでなく、後世に続く悲しみまで解消してしまわなければなりません。

現在の時代は誰もが語っており、また多くの預言者が予告していた「終わりの時」であり、イエス・キリストが民族と宗教から拒絶されて戻る後再び来られる「再臨の時」です。では、この様な時を迎えて、皆さんはどの様にすべきでしょうか? 皆さんは再び訪れるであろうイエス・キリストを慰める事ができなければならず、イエス・キリスト当時のユダヤ教とユダヤ民族よりも、より熱心に天の意志を憂慮する人々にならなければなりません。

再び訪れるであろうイエス・キリストを慰める為には、イエス・キリストが引き受けられた4千年の歴史的な悲しみだけでなく、イエス・キリストが戻られてからの聖霊の降臨までにおいて、愛に満ちた2千年の期間を含む6千年の歴史的な悲しみを代わりに引き受け、イエス・キリストが戻られた事によって断絶された天の大業を引き継ぐ必要があります。

天に向かっている私達としては、歴史的な縁を超えて独自の生活を送る事はできません。私達は宇宙を責任を持って、未来を責任を持って、6千年の神の悲しみや天使達の悲しみを代わりに引き受け、この地球の万民の悲しみを代わりにして、人間が神の審判の日を見据えて腐敗の中にとどまっている事を悲しむ心を持ち、心配できる人々にならなければなりません。

また、私達はイエス・キリストに向かって「あなたの悲しみと、あなたが戻られる経緯を知っています」と語りかける事ができ、イエス・キリストがこの地に来て、誠実な心情で全人類を贖い取る使命を果たす為に悔やんでいたその事情と心情に同情する者とならなければなりません。

その様な者にならない限り、歴史の主人公、宇宙の主人公、未来の理想の主人公であるイエス・キリストをあなたが望んでも迎える事はできず、その様なイエス・キリストの悲しみを解消する事はできません。

今日、皆さんが知っておかなければならないのは、イエス・キリストが4千年の悲しみに閉じ込められ、30年以上にわたり万民と子孫を代わりにして死の道を歩まれたという事実です。従って、皆さんはこの様な歴史的な事情を背負って天に呼びかけ、それを越えて創造理想圏に到達する為に新しい信仰の基準を確立し、自分の生命さえ捧げられる実証的な生活をしなければなりません。そうでなければ、皆さんは永遠の価値を持たない存在となってしまいます。

それでは、私達は信仰者としてどの様な心構えを持つべきでしょうか? 選ばれしイスラエルの中で中心的な使命を担当したユダヤ教団があった様に、今日、キリストを中心とした世界的なイスラエルの使命を引き受けるには、代表的な教団が存在する事になるでしょう。

つまり、歴史は同時性を持って展開されており、神は終末の使命を担当するための宗教を設立し、計画を完了させざるを得ません。私達がその様な宗教を見つけようとするならば、歴史的な教訓として、イエス・キリストの時代にユダヤ教が犯した歴史的な過ちを探りなければなりません。

彼らは過度の権威主義にとらわれて人間的な思考を前面に押し出し、意識と規定に過度に縛られ、天の法則に反する生活を送りました。今日も終末に立つ私達にとっても、その様な事が起こるでしょう。

そして、私達が知っておくべき世界的な終末時代は、再び来られる主がイエス・キリストが歩まれた道をそのままたどって来られるため、世界的な悲しみの頂点を超えて再びこの地に来られるという事実です。

イエス・キリストがイスラエルの民族とユダヤ教団の反対によって苦難の道を歩まれ、最終的にゲツセマネの園を経てゴルゴダの道まで追いやられた様に、再び来られる主も世界的なイスラエルとユダヤ教的な教団の反対を経て、世界的なゴルゴダの道を超えて行かれるでしょう。

今日、皆さんは様々な面から神の悲しみを理解しなければなりません。イスラエルの民族とユダヤ教団を見つめ、感じていた神の悲しみを理解し、歴史を見つめ、感じていた神の悲しみを理解し、未来を心配していた神の悲しみを皆さんは理解しなければなりません。そうする事で、悲しみに包まれたキリストが再び皆さんのもとに訪れる事ができる様になります。さらには、皆さんはイエス・キリストの後の2千年の歴史を含む6千年の歴史的な全体の悲しみを解消する事ができなければなりません。そうでなければ、皆さんは再び来られる主と共にゴルゴダの道を越える事ができなくなるでしょう。

イエス・キリストがゲツセマネの園で天に向かって叫ぶ時、その声を聞かずに居眠りしていた三人の弟子の様子、またマグダラのマリアがイエス・キリストの天敵である価値を知り、彼の足に香油を注ぎ頭髪で拭き取り、復活の主の栄光を確認する時、彼女の行動を嘲笑い、阻んでいた弟子達の様子は、イエス・キリストの怨みが今日までに知られていない事です。

では、終末に直面した私達はどの様な心構えを持って進むべきでしょうか?キリストの様に悲しい苦難の道を懐かしみ、自らの立場や名誉を忘れ、イエス・キリストの遺体を求めて墓を訪れたマグダラのマリアが、ついには復活したイエス・キリストに出会い、その栄光を見る事ができた様に、私達はマグダラのマリア以上に熱心で思いやりのある心を持たなければなりません。もし私達がそうならなければ、主を見つけたとしても永遠に主を迎える事ができなくなります。

従って、あなたは主に会って主の豊かな愛の腕に抱かれ、愛の園で神の栄光を歌う為には、神の6千年の悲しみとイエス・キリストの悲しみの心情を慰め、また天国にいる多くの聖者達の心を慰める心情を持たなければなりません。そんなあなたがなると、神と天の聖者達はあなたを歓迎し、イエス・キリストと万民もあなたを歓迎し、あなたはマグダラのマリアの立場を超えて神の栄光の中で理想的な生活の舞台を築く事ができるでしょう。

そして今日、あなたが知るべき事は、悲しみの6千年の歴史を回復してあなたの肉体が外部と切り離されていないという事実です。神は歴史を超越して摂理しておられる方です。従って、あなたも過去と現実と未来に結びついています。また、あなた一人一人が前後左右上下の関係を持っています。あなたはこれらの事実を自覚して、何もかもをあれこれ判断して無分別に行動してはいけないのです。

あなたは歴史を超越した永遠の価値を確立しようとする神の意志を、あなた自身の存在から成就させる必要があります。それには、イエス・キリストがどの様な理由で苦難の道を歩まれたのかを知る必要があります。それはイスラエルの民族やユダヤ教団、選ばれし洗礼者ヨハネやイエス・キリストの家族までが、イエス・キリストを拒絶したからでした。その様なイエス・キリストの事情をあなたが悲しむ事は避けてはなりません。

従って、今日私達がこれらのイエス・キリストの苦しみを代わりにし、イエス・キリストの怨みを解消する為には、当時イエス・キリストを拒絶していた中心的な教団であるユダヤ教を代わりにして、イエス・キリストを崇める責任を果たさなければなりません。

そしてあなたは主の為に孤独で世界と戦う事ができ、主が裏切られた為に苦しんだとき、どんな裏切りでも一人で立ちはだかる事ができなければなりません。この様な道が回帰の道である事を知らなければなりません。

また、勝利の日を予告しながらイエス・キリストの誕生を準備していたヨセフの家族やヨセフの一族までがイエス・キリストを裏切った不信の条件全体を、あなたの地域で一人で克服して勝利の条件を確立できる様にならなければなりません。もしもその様なあなたがならなければ、再び来られる主様が理想的な民族、教団、家族を持つ事はできない事を知らなければなりません。

また、私達はイエスがその悲しい道だけを歩まれたわけではない事を知らなければなりません。イエスは無限に孤独な道も歩まれました。全ての意志をこの地の人々に知らせたかったけれども受け入れられる人がいなかったので、言葉にできない孤独を感じざるを得ない立場でした。

この町で反対されればあの町へ、この村で反対されればあの村へと、自分の孤独を解けなくて悲しまれたイエス・キリスト、自分の悲しい状況を理解してくれる人を探し求めてゲツセマネの丘の麓を彷徨われたイエス・キリストであった事を知らなければなりません。天の愛と神の計画を持ってこの地においでになったイエス・キリストでしたが、歴史的な制約において無類無比の悲しみと孤独の心情をお持ちになられた事を、今日のあなただけでも理解し慰めて上げるべきです。

もしもその様なイエスの心情を感じ、その様なイエスの事情と一体となった立場で生活をした人がいるなら、その人は「おお、主よ!」、「アバ、父よ!」と一言でイエス・キリストと心情で通じる事ができるでしょう。しかし、今までその様な人はいないという事です。ですから、あなたがその様な人にならなければなりません。その為には、歴史を超越し、環境を超越して、イエス・キリストの孤独な心情を理解できなければなりません。

イエス・キリストは孤独な方であり、悲しむ者の主であり、悲しみの王子でした。彼は言葉にできないほど哀れな方でした。この地上にどんな哀れな人、どんな孤独な人がいるかと言えば、イエス・キリストよりもっと哀れで孤独な人はいないという事をあなたは知らなければなりません。

神様は、イエス・キリストを代わりに悲しむ事ができ、イエス・キリストに代わって愛だけできる一人の人がいなくて悲しんでおられ、心からイエス・キリストを信じてくれる人がいなくてより一層悲しんでおられたのです。ですから心を通わせ、本質的な結びつきを築いて、天の前で勝利の栄光を返さなければならない人間を探し求める為に、初めての姿勢でおいでになり、その計画が達成されなかったイエス・キリストの悲しい心情を理解し、心を代わりにしなければならない使命が私達に残されている事をあなたは心に留めておかなければなりません。

そして、あなた方は神の御心を達成する為に労苦されたイエス・キリストの姿を考え、哀れなるイエス・キリストに同情できる心を持つべきです。今まで私達はイエスが昇天された後、神の右に栄光の主としてただいると考えていましたが、実際にはイエス・キリストは地上において成し遂げるべき目的を果たせなかったため、霊的な贖罪者として罪を負担する為に天に行き、今もなお私達の為に祈っておられる哀れな方なのです。

その様なイエス・キリストを私達は実生活の中で信じ、従い、崇めるべきです。従って、あなた方は世界的な悲しみ、天的な悲しみ、世界的な孤独、天的な孤独を経験した哀れなイエス・キリストを代わりにできる生活をしなければならず、イエス・キリストと共に生きる事のできるあなた方にならなければなりません。

今がその様なあなたになったかを自問自答し、分別しなければならない時である事を理解しなければなりません。そして、イエス・キリストがこの地上に成し遂げられたいと望まれた永遠の御心を受け継いで、神の造りたてし理想を達成する私達はこれからどうすべきか?ここに不可欠な要求される条件は何か?

不信と罪悪で染まった6,000年の歴史を終結させる為においでになる主様を迎え入れる教団と、使徒、そして家族が現れなければなりません。ですから今日の私達が神の御心を成そうとするならば、今までの教団的なつながりを超えて、今日の現実の中で歴史的な信仰を代わりにできる新しい教団の基準を整えなければならず、未来の福音的使命を担える使徒と家族の基準を養い、永遠の勝利の足場を築く事で、神の理想の土地を成し遂げなければなりません。

人類と世界の為においでになったイエス・キリストは当時は世界と国、教団と家族までが裏切ったし、使徒達ですら不信仰であったが、今日のあなたほどにはイエス・キリストの友になり、その事情を慰める事ができなければなりません。

裏切られる世界と教団、種族を見つめて悲しまれたイエス・キリストには、その心情と通じるできる親が必要であったはずでしたが、そうではありませんでした。前に引用した聖書の言葉によれば、イエスに「先生の母と兄弟達がいらっしゃいます」と言われると、イエスは「私の母はだれで、私の兄弟はだれか?」と答え、「天におられるわたしの父の御心を行う者こそが、わたしの兄弟、姉妹、母なのです」と言われました。この言葉から見て、イエスには本当にあなたを慰める事のできる親や兄弟がいなかった事が分かります。イエスは真実な親や真の兄弟がなかった為にこの様な悲しい、孤独で哀れな状況にあったのであり、さらには種族からも拒絶される事になりました。

さらに、主の道をまっすぐにされなければならない洗礼者ヨハネにまで裏切りを受け、イエスは言葉にできないくらいの悔しみを抱えられる事になりました。あなた方はこの様なイエス・キリストの心情を理解し、イエス・キリストの事情を通し、さらにはイエス・キリストのあらゆる教えを受け継ぐ事ができなければなりません。

イエス・キリストの家族と種族は、イエス・キリストの誕生から始まった奇跡と奇蹟を見て驚きましたが、神の摂理に無知であり、イエス・キリストをメシアとして受け入れる事ができませんでした。本来ならば、彼らはイエス・キリストの敵としての使命を悟り、イエス・キリストの前途を準備し、環境を整え、神の摂理の意志を遂行するイエス・キリストの足場となるべきでした。もしもそうであれば、その後イエス・キリストが別に使徒を求める必要はなかったでしょう。

アダムからヨセフまで60代を経て現れる中で、血縁的なつながりを通じて建てられたイエス・キリストであったため、彼の家族と種族が彼を取り巻き、信じない教団、国民、世界に対抗して戦う事ができる一つの種族権を形成していれば、イエス・キリストは決して悲しい立場に立たなかったでしょう。

それでは、イエス・キリストがこの地に再び来るとき、彼は何を求められるのでしょうか?サタンの世界に対抗して戦う事ができる家庭的な環境を失ったため、再び来る際には、まずあなたの悲しみと苦しみを和らげる事ができる家庭的な拠点を求められる事でしょう。

ですから、あなた方はイエス・キリストと心を一つにして、その様な家庭的な垣根の役割を果たす事ができなければなりません。なぜなら、その様な家庭的な垣根がなかった為に、イエス・キリストの恨みとなったからです。もし当時にイエス・キリストの家庭的な垣根があり、「イエス・キリストは私の真の主である」と言える様なイエス・キリストの心情を代わりにできる神の真の子らが現れていれば、イエス・キリストの恨みは生まれなかったでしょう。ですから、あなた方は再び来る主の家庭的な垣根になってくれる様な人々にならなければなりません。

イエス・キリストの悲しみを慰める事のできる兄弟がいれば、その様な兄弟達を中心にしてイエス・キリストの恨みが解かれたでしょう。また、イエス・キリストの種族を中心にしてユダヤ民族がイエス・キリストの弟子となり、協力者となったならば、イエス・キリストの福音は当時のユダヤ教を超えて世界に広まっていたでしょう。そうであれば、イエス・キリストの福音は異邦から広まっていなかったでしょう。しかし、イエス・キリストにはその様な種族や民族がなかったのです。

この様に悲しまれながらも帰られた主様が再び来るとき、私達はどの様にすればよいのでしょうか?主様が再臨され、神の御心を遂行する中で私達がどんな困難に直面しようとも、命をかけてその家庭的な足場と種族的な足場にならなければなりません。これが終わりに置かれた聖徒達の使命です。しかし、残念な事に今日の聖徒達はこれを知らないのです。

今、あなた方は「天よ、6,000年の恨みを私に託してください。イエス・キリストの悲しみを私に託してください。天にある悲しみを私に託してください」と祈る事ができなければなりません。

この様に、歴史的な神の悲しみとイエスの孤独な心情と事情を共感できる人物を、天はこの時も探し続けており、昨日でも一昨日でも一年前でも千年前でも二千年前でも期待されていた事を、皆さんは知らなければなりません。

従って、皆さんはイエス様がゲツセマネの園を通り、国を代わる贄の道、ゴルゴダの死の道を進まれながらも、その様な道を進む様にさせた不信の国に対して怒られなかった事と同様に、親の心情を持ち、親の立場に立つ事ができなければなりません。また、皆さんは新郎新婦の立場も感じてみなければなりませんし、天の家族と天の種族の立場も感じてみなければなりません。

そうすれば、イエス様はこの地に再びおいでになって、皆さんを中心に理想的な家庭と種族を築かれるでしょう。その時がまさに終末なのです。創世以来神が望んでいた希望の家庭、創造理想を望まれていた家庭は、まだ地上に現れていません。これからは、神とイエス様の愛情を100%理解し、この地上に現れなければ、神とイエス様の恨みが解かれる事はありません。

それでは特に集まった皆さん!皆さんが果たさなければならない使命は何ですか?二千年前に主様がおいでになった時、イスラエルの法学者、祭司、洗礼者ヨハネの家庭が不信して十字架に帰られる様な立場から抜け出し、信じて拝む使命を皆さんが担当しなければなりません。十字架に帰られた時のイエス様は可哀そうな方であり、悲しんでおられた方でした。六千年の歴史の終わりに立つ私達は、イエス様のその様な心情を理解し、通じる事ができるだけで、おいでになる主様を正しく迎え入れる事ができるのです。

神の御心を成就する為においでになったイエス様は、どの様な生涯の標準を立てられたのでしょうか?イエス様は意志以外のすべてを捨てられる生涯の標準を立てられた方でした。ですから、皆さんも意志に相応しくない自分の理想や欲望、または世界のどの条件も捨てられる信仰の基準を立てなければなりません。

今日、皆さんが最も良いと考える何かを持っていますか?しかし、それが天で永遠に良いものとして証明されない限り、本当に良いものにはなり得ません。ですから、皆さんは天で永遠に価値あるものを持つ為に、地上で意志以外のすべてを捨てる事を知っていなければなりません。

そして皆さんは天倫に合致しないどの様な習慣も捨てる事ができなければなりません。そして、たとえすべての人が悪者だとののしり、捨てるとしても、ゴルゴダの道をひとりで歩かれた様に、皆さんも命をかけて神の御心の道を歩む子女とならなければなりません。御心の道を歩む皆さんも、どこかで捨てられる時が来るでしょう。皆さんはそれを覚悟していなければなりません。なぜなら、この世界は罪深い世界であり、この罪深い世界に適合する場所では絶対に天倫の縁が発生する事はないからです。それが今この時に皆さんが世界から捨てられる時である事です。

この様に、天国に到達するための近道は歴史的な涙の道、歴史的なゴルゴダの道、そして世界的なゴルゴダの道があるのです。この道を進む私達は、世界や教会、家庭から拒絶され、見捨てられても、むしろそれを6000年の歴史を代表する迫害や嘲笑と考え、希望の心を抱く事ができなければなりません。

特にお集まりの皆さん、迫害があるからといって悲しむ事はありません。あなたは泣いても、あなた自身だけを考えて泣いてはいけません。むしろ、天の前で「イエス様の怨みを解放し、世界的な悲しみを解放する為に、どんな苦しみの場でも抵抗なく進むでしょう!」と祈る事ができなければなりません。また、「世界的にかわいそうな場所、死も気にしないでしょう!この仕事の為に私のすべての欲望を捨てるでしょう!」と祈る事ができなければなりません。

もしもあなたがこの様に人倫の頭を超えて天倫の道を通る新しい自己を見つけられないなら、つまり復活の栄光を代わりにできる神の心情をそのまま体と心に現して行動するあなた自身にならなければ、あなたは神の創造理想を完成した人間、本性を備えた本来の人間として帰る事はできません。

あなたは天から受けた使命が大きければ大きいほど、邪悪な世界との大きな戦いを担当しなければなりません。今日、この場に集まった皆さん、これまでの信仰観念で永遠の天倫を求める為にはいけません。永遠の天倫を代わりに現れるメシアを、その様に切望していたユダヤ人やイスラエル教の中心的な信仰とモーセの聖書中心のユダヤ教の教理的な視点を持ち、永遠の理想の基準を立てて固定化するならば、あなたはユダヤ人と同じく、自分自身も知らずに死の淵に陥ってしまいます。

ですから、あなたはイエス様が「父母を私よりも愛する者は私にとって値しなく、子供を私よりも愛する者も私にとって値しない。」(マタイ10:37)と言われた言葉を心に刻まなければなりません。イエス様は30年以上の生涯の中でゴルゴダの道を行かずに自分だけを見る生活をされなかったならば、神の救いの計略を果たす事はできませんでした。

それでは終末の審判の時である今日はどの様な時でしょうか?今日の時代はロトが住んでいたソドムとゴモラの時代と同じです。ですから、あなたは歴史の終わりにあたる今日のすべてを天の前に預け、天の命令に従って生きる人にならなければなりません。もしもそれができないなら、あなたはソドムとゴモラの審判に巻き込まれるロトの妻の様な立場に置かれる事になります。

また、皆さんはユダヤ教の信者やユダヤ人と同じ様な立場を取ってはいけません。そして、今この瞬間も生死の分かれ目の戦いが展開されているという事実を忘れてはいけません。

では、この様なサタンとの戦いで上下左右にサタンが攻撃してくるすきを与えない為にはどうすればよいでしょうか?皆さんはイエス様の悲しい心情を計る事ができる親兄弟の立場に立って共に涙を流し、お互いに慰め合う事ができなければなりません。そして、骨肉の溶ける様な天の恵みに共感できる仲間にならなければなりません。

困難があれば自分のものとせず、喜びがあれば親のもの、兄弟のもの、友達のものに戻さなければならず、神が人間の事情を知っているからこそ人間を許し与える事ができるのです。

ですから皆さんは兄弟の事情だけでなく、イエス様の事情もよく知り、お互いに愛し合い、支え合う天の家庭を築き、種族を形成して、イエス様が帰られるべき善の世界をこの地に成就させなければなりません。

今日召された地上の聖徒達が団結して天の家庭から天の種族、天の民族を形成し、イエス様が民族と4000年の歴史を代表した様に、民族の次元を超えて世界と6千年の歴史を代表して現れるならば、神の審判の行為は収まるでしょう。

これが起こり、皆さんの家庭や種族、全体が一つになったとき、おいでになるイエス様は栄光の中で顕現できるでしょう。今日、この様な基準を達成する為に私達は統一教会という看板を掲げる事になりました。

そして私達はお互いを家族と呼んでいます。この言葉と同じ様に私達は家族です。私達は兄弟でない兄弟として、民族でない民族として、一つの兄弟と民族となり、天倫の意志を担当するイスラエルを形成しているのです。

私達はイエスの悲しみを体現しながら拓く道を行かなければならず、サタンとの戦いの労苦を経て神の意志を完成する場所まで行かなければならない立場にあります。それによって悲しんで行かれたイエス様を喜びで迎える事ができる様になるでしょう。皆さんはこれを心に留めておく必要があります。

<祈祷>
お父様! 御言葉によって、私達が最後に見つけなければならない根本は兄弟姉妹と親である事を悟りました。天を中心に据えた家族と種族がこの地上に現れる事が、神の父の願いである事を理解しました。今日、私達が孤独な道を歩み出した者達は、イエス様の苦しみを代わりにし、親の立場を代わりにし、友達、兄弟姉妹、種族の立場を代わりにし、神の意志に対抗するサタンの力を打破する戦いの中で、天の子女になり、この頭を乗り越える事ができる様に導いてください。

切実に願います。今ここに参加している子供達を通して、御心の望みを成就させ、理想的な御心の家族、種族が私達を通して実現される様に許可してください!

そして、イエス様が直接訪れ、楽しんだり歌ったり休んだりできる私達の身心になり、天を中心に据えた兄弟姉妹になり、家族になれる様に導いてください。心よりお願いし、いつでもすべての言葉を主の名によって祈ります。
アーメン。



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御言葉選集2(13,14)

2023年11月11日 16時26分09秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 2 - 13 『復活の日を迎えて』(1957年4月17日)
1957年4月17日(水)復活祭、ソウル近郊の野外。

聖書拝読 ルカによる福音書 23:50-56


 復活の日は、人間が堕落した日からイエス様がおいでになる日まで、神が希望されていた日です。ユダヤ民族はもちろん、全人類とすべての被造物は共通して、堕落の状態を脱し復活できる日、すなわち復活の日を待ち望んでいました。つまり神は4,000年の間、この地に実質的な復活の日が現れることを望んで臨み、またイエス様も実質的な復活の日を迎えようとされました。

しかし、イスラエル民族の無知のためにイエス様は十字架に釘付けになり、イエス様は実質的な復活の使命を果たすことなく去られました。そのためにその後の2,000年間、この実質的な復活の日は全人類とすべての被造物の前に望みとして残りました。

神が帰還の時期を迎えて来られた4,000年の帰還史の全責任と宇宙的な使命がイエス様にかかっていた歴史的な事実を知っている者が果たして何人いたでしょうか?自分を中心にした希望ではなく、歴史的で宇宙的な神の希望を達成することが自分の希望であり、天上天下が神の前で復活の歌を歌う日を望み、30年以上もその希望を一瞬も忘れずに切ない生活を送って来られたイエス様の心情を理解する者がいたでしょうか。イエス様はイスラエル民族が無知で自分を信じてくれなかったがために、彼らに歴史的で宇宙的な希望である復活の栄光を与えるために自分の前世を犠牲にして歩み出されました。しかし、このような事実を誰も知る者がいませんでした。

イエス様はおいでになる最初から十字架で運命づけられるまで、この一つの希望である復活のためにどれほど努力し、苦しまれたことか、それを知らない限り、イエス様のその復活の価値はあなた方とは何の関係もなくなり、またあなた方はその復活に対する恩寵に感謝することもできないでしょう。

イエス様は知識のない人類を見ると、彼らが不信仰によってこれから先険しい道を歩まなければならないことを知りました。ですので、イエス様は自分の苦しみを全て忘れ、全人類が歩むべき苦難の道、死の道が後代に決して及ばないように彼らの前に復活の一時を立てるために、知られざる苦難の道を切望の心情で懸命に歩まれましたが、このような事情を全人類はまったく理解しなかったのです。

自らの生涯全体を自分に結びつけるのではなく、自分が望むその意志が宇宙的な次元で結実されることを望んでいたのがイエス・キリストの望みでした。このようなイエス様の心情は人間達は知りませんでしたが、天使達や霊的存在達、そして神は知っていました。当時、イエス様の心情を理解した唯一の存在は神だけでした。

しかし、イエス様が望んでいた友は天国の友ではなく、地上の人間達でした。しかし、なぜ地上の人間ではなく天が彼の友になったのでしょうか? イスラエルの民がイエス様の心情を理解する友の立場に立たねばならなかったのに、当然ながらそうなるべきイスラエルの民がそうしてくれなかったので、天が代わりに友の立場をとらざるを得なかったのです。

皆さんはこの事情を理解し、天でなく地上でイエス様の心情を代表する真の友となり、地上で真実の友を望んでいたイエス様の望みを実現できるよう努めなければなりません。

イエス様の復活によって、万物は新たな主人を迎える喜びを持つようになり、人間は再出発の道を迎えるようになりました。イエス様は霊的な戦いで勝利の喜びを迎え、4,000年間サタンの中傷を受けていた神もイエス様の復活によって外面的には中傷から解放される喜びを味わうことができるようになりました。

イエス様の復活によって、このように天上でも地上でも喜びがあったことを皆さんは知っておく必要があります。しかし、イエス様のサタンに対する勝利の喜びは死んでからではなく、生きている間に味わうべき喜びであり、イエス様の復活による神の喜びもサタンに対する外面的なものだけでなく、内面的で外面的な勝利の総合的な喜びであるべきでした。それ故に十字架の死によって神はもちろん全人類が適切に受けるべきよりも大きな喜びが今日まで希望の対象として残っているのです。

したがって、皆さんにはこれ以上の宇宙的な喜びを天の前に差し出す使命があるだけでなく、皆さん自身もそのような喜びを感じることができるべきです。

イエス・キリストの霊的な復活の喜びは、万物、人間、イエス、神が永遠に持っていなければならない喜びにはなりませんでした。その喜びは一方で悲しみを含む喜びであり、局部的な喜びに過ぎませんでした。今、皆さんはこの局部的な喜びを宇宙的な喜びに、悲しみを伴った喜びを伴わない永遠の喜びに変えて、イエス・キリストの復活によって神が喜ばれた以上に、皆さんの復活によって神が喜ぶことができるようにする必要があります。

そうして初めて、皆さんは真にイエス・キリストの復活の喜びを通して神の喜びを味わうことができます。これが皆さん各個人の望みと責務であるならば、皆さんはイエス・キリストが世界に対して抱いていた望みを皆さん自身の望みとし、イエス・キリストの義務を皆さん自身の義務とすべきです。

それを達成するためには、皆さんは復活の日を喜ぶ前に、イエス・キリストが復活するまで苦労された努力と、神が4,000年間苦労された努力を考えなければならず、その苦労の努力を皆さん自身が歩みで直接神の前に残されたその望みを達成して差し上げることができる、神の前に永遠の喜びを差し上げることができる皆さんの信仰生活となるべきです。







文鮮明先生御言葉選集 2-14  眠っている世界よ、目覚めよう (1957年5月19日)

1957年5月19日(日曜日)前本部教会で。

聖書拝読:詩篇98篇


<祈り> 愛するお父様! 私達があなたが望まれる創造の理想郷を成し遂げなければならないと感じています。

善と愛を中心にして永遠に楽しむために、人間とすべてのものを創られた父よ、今日私達の心はあなたの善意に満たされ、あなたの善意に似せようとしていますので、あなたの善をすべてのものの上に現してください。また、全ての被造物と共に活動することを私達は望んでおり、慈悲深いお父様、現れてください。

そうできる心の中心を許してください。聖なる体の本質を授け、あなたの手が届くところで振動でき、喜びできるようにしてください。そして、すべてを聖なるものにして、父の前に清く差し出せる息子娘になることを許してください。

天が望む永遠の理想は、人間を超えて達成されないことを、言葉を通して知っています。あなたであるお父様、宇宙のすべての福音を示す栄光を許された創造の基準があるので、それを今日ここに集まったあなたの息子娘の心を通して示し、体を通して生き生きとさせてください。

そして、私の本質を中心にして心から歌うことができ、自分を謙遜させて父に手を差し伸べ、栄光を返すことができるこの一時間を許してください。お父様、切にお願いいたします。

あなたが運行されるとき、全ての被造物の中で変わらず存在しない存在が一つもないことを知っています。お父様!ここに運行して、あなたの無限の愛を示し、父の善の歴史を起こしてください。

お父様の能力の歴史を代行できない悪の要素が私達に存在していますでしょうか?父よ!もし悪の要素が私達にあるなら、それを打ち破ってください。私達が勝利に満ちた聖なる性別を持ち、たとえ一時間でも父の深い愛の心、お父様の善の心、そしてお父様の6000年の辛い感情に共感できるようにし、お父様を心から心配し、お父様を迎え入れることができるように許してください、父よ、切に願います。

今、私達はすべてを父の前に委ねました。どうかお預かりいただき、お預かりください。私達が知っている知識では父の知識に対処できないことを知っていますし、私達が持っている権威は父の全体的な権威を超えることはできないことを知っています。また、人間が知っていることにも限界があり、人間が持つ理想にも限界があり、人間が誇れることにも限界があることを知っています。

私達はこの限られた領域の中で生きています。ですから、時間と空間を超えて、無限の関係を基盤にしている父の性格と性質の前に、不足している私達自身を明らかにし、地上で最初に目を覚まし、分け与えられた言葉を完全に受け入れ、その言葉通りに行動できる勝利の子供として許してください、父よ、切に願います。

許可していただいた言葉を通じて、私達の人生の段階でお父様が喜んでいただける勝利に満ちた光の基盤が作用するように許してください。そして、力の動力源を生み出せるように許してください! それによってすべてに立ち向かい、すべてを克服できるようにしていただき、それが私達の生活の基準になるように許してください、父よ、切に願います。

伝える者の心と受ける者の心に隙間がないように許してください。分け与えるお父様の心を自ら感じ、分け与えるお父様の声を自ら似せて、お父様が動けば私達も動き、お父様が静かであれば私達も静かになるような、動静の調和の賜物を許してください。お父様の心とお父様の姿を継承し、創造主であるお父様の善の中心を結実させて、お父様に栄光と美を差し上げることができるように許してください。切にお願いし、すべての言葉を主の名において述べました。アーメン。


<説教> 今日は「眠っている世界よ、目覚めよう」という題で少しご説教させていただきます。

神様が摂理され、いつかこの地は必ず光り輝く新しい朝を迎えることになります。そこで私達人間は全ての世界と共に栄光を讃え歌うべきです。神様と人間の望みは、人間がこの地で全ての被造物と共に父の前で栄光と喜びを捧げることです。

だからこそ、今日までの長い歴史を経て、人間達は全世界の人類が共に楽しむことができ、共に愛に満ちるその一時を迎えることを望み、その日がいつかはっきりと分からなくても、その日を待ち望んできたのです。

ではなぜ私達人間がこの死の領域に陥ってしまったのでしょうか?それは人間が堕落したからです。

そして堕落した人間達の中には、神と人間が共に楽しむことができる創造理想を地上に実現し、全てのものを代表して神に喜びと歓びの賛美を捧げる真の人が一人もいないということを、皆さんは原理を通じてよく理解しています。これは何を意味するかと言うと、まだ全人類の前に神を中心にした光り輝く新しい朝が訪れていないことを示しています。

これはまた、人間が新しいイデオロギーや原則を迎え入れる時がきたことを示しています。したがって、神と人間は今日まで新しい朝の明るい陽射しを浴びていないまま眠っているこの世界を再び目覚めさせなければならない宇宙的な責任を負っており、これを感じる皆さんがならなければならないでしょう。

たとえこのように眠っている世界に住んでいる私達でも、私達には新しい時の新しい知らせを聞く耳や見る目、感じる感覚があります。もし皆さんにこれらの耳や目、感覚がなければ、眠っているこの世界を目覚めさせることはできません。いや、眠っている世界を目覚めさせるどころか、皆さん自身ですら目覚めることはできません。

今、私達は哲学や宗教、歴史観を通じて新しい知らせを聞き、新しい事実を悟り、一歩進んで神が6千年にわたり摂理をなされながら人間達に呼びかけられているその声を聞き、聖霊を通して現れる神の姿を見なければなりません。

そうでなければ、私達は新しい時代の新しい知らせと何の関係も結ぶことができません。今日、多くの人々は終わりの時が近づいていると予告しており、多くの宗教、特にキリスト教は審判の日が近いと述べています。


では、こうした時に私達は何を探すべきでしょうか?まず、私達は眠りから目覚めなければならないと感じなければなりませんし、それをするためにはどんな刺激を受けるべきかを考えなければなりません。では、その刺激はどこから来るのでしょうか?それはあなたの生活領域内で聞こえ、見え、感じることができる新しい知らせから来ます。もしもあなたがこれを見つけて立てなければ、6千年の長い労苦に結びついているすべての悪感情を振り払い出ることはできません。

今日、皆さんがこの事実を理解するならば、新しい耳と新しい目、新しい心を持ち、宇宙的な摂理がどのような形で現れるかを知ることができるでしょう。今がこのように新しい目と耳と知覚を備えなければならない時です。

終わりの時が近づいている今、審判の日が迫っている今、もし神が存在するのであれば、神はこの地を死の世界または永遠に眠り続ける世界としてただ放置することは望まれないでしょう。必ずこの世界を目覚めさせ、創造本来の世界に回復させることでしょう。

少し前に終わりの時と言いましたが、今が終わりであることをどのように知ることができるでしょうか?新しいものの外観を持つ偽りのものが多く現れていることから、現在が終わりであることがわかります。歴史的に見ても、終末には天国を中心に真実が現れる前に常に偽りが最初に現れていたことです。

私達は混沌の時代に生きています。そして、私達自身の力では見聞きし得るすべての中から、何が真実であり、何が偽りかを判別することはできません。

では、何を基準に真実と偽りを判別できるでしょうか?それは知識や学識ではありません。それは各自の本心です。そして、終わりの時が近い今の時代は、誰がいつ私に侵入して私の生命と永遠の希望を侵害してくるかわからない時代です。私達が持っている知識や世俗的な条件を通して侵入してくるかもしれません。したがって、私達はこれまで私達が知っている知識や世俗的な条件を過度に重要視してはいけません。

これらのすべては善悪を判別する最高の基準とはなり得ないだけでなく、最高の善を断定することもできません。もしもこれらが最高の善を断定できるものであれば、すでに私達に神の声を聞かせ、新しい希望に向かって進む恩寵を与えていたでしょう。また、それは新しいものを感じ、実証的に体験できる刺激的なものでもあったでしょう。しかし、これらのことは私達にまだ神の永遠の理想を紹介していないのです。これを見るとき、知識や学識は善を断定する理想的なものではないことがわかります。

では、終末を迎える今日、私達がすべて目を覚ますためには何を探すべきでしょうか?私達は自分の心の奥底を見つめ、その心を通して本質世界と現象世界を統一的に説明する新しい真理を見つける必要があります。

このような心の奥底と真理を探求するために、多くの先祖達や歴史の中で祭り上げられてきた中心的な人物達が、今日まで長い歴史のプロセスを経て努力してきましたが、まだまだ天を代表する心の真理を見つけることができていません。

さらに、その心と対話し、動かし、永遠の理想として楽しむことができる基準が相対的に確立されていません。したがって、この地上にはまだ暗黒の壁が立ちはだかっているのです。これを理解する必要があります。

したがって、皆さんはこれらすべてを見つけ、一つの心、変わらぬ心の中心を確立し、立ちはだかっているすべての暗黒の壁を乗り越えなければなりません。しかし、現在の宗教生活の中で最も深刻な問題は何かと言うと、観念的な黙想と信仰です。例えば、人々は通常、イエスが十字架にかかっている時に感じた苦しみやその悲惨さを想像し、感じる刺激を通じて祈りを捧げようとします。しかし、皆さんはそうしてはいけません。皆さんは祈りを捧げるけれども、まず自分の本質を呼び起こして、祈りのできる心の態度を整えなければなりません。

そうすると、聖父、聖子、聖霊の神聖がその心の土台を通じて私達と関係を築くことができます。そのような関係が私達と築かれれば、私達の身体は自然にそこに恵まれた応答ができるようになっています。したがって、今日、最初に目を覚ました私達が、暗闇に閉ざされた世界のために何をすべきか?最初に目を覚ました私達自身の心を呼び覚まさなければなりません。

現在、あなたが生きている人生の中で素晴らしい師匠はいますか?あなたが素晴らしいと思う師匠がいたとしても、その人は一時的な師匠である可能性がありますが、あなたの永遠の生命を代わりにして永遠の天意の前に立ち、神聖な神を紹介できる師匠にはなり得ません。また、彼は一つの個人のある時期の過程で良い師匠になる可能性があるかもしれませんが、それ自体が持っている性格と天性を通じて真の命を持つ人間になるように導く永遠の命の指導者にはなり得ません。

したがって、現在の師匠や彼が教える基準があなたに神と永遠の関係を築いてくれないことに気づく必要があります。ですから、あなたは本音を見つけて心の耳を通じて天意の呼びかけを聞き、心の目を通じて神聖を見、心の感覚を通じて天の気持ちを感じる必要があります。そうでなければ、あなたは過去6000年の歴史的なプロセスをそのまま繰り返すことになります。

今まで私達は真に貴重なものは天だけだと思っていましたが、知ってみると私達の心も同様に貴重だということです。これに気づいて神を相手にできる高い価値基準を確立するあなたになり、心の核を見つけるあなたにならなければなりません。そのようなあなたがならない場合、あなたは天意の前に立つことはできません。

ここに集まった皆さんは今日まで皆さん独自の誠実な信仰生活をしてきたでしょうが、「皆さんは果たして自慢できる何かを持っていますか?」と問われた場合、「私は自慢できるものを持っています」と自信を持って答える人は多くないでしょう。たとえあなたの中で天前に自慢できるものを持っている人がいたとしても、神はそれを本音を通じて自慢することを望んでいます。

このように、あなたが天意を代わりにして永遠の理想を証明できる慈悲深い心で考え、生活すれば、あなたは絶対に道を踏み外すことはありません。

今日の信仰生活を送る人々は一般的に、概念的な世界とそのような対象から慰めを求めています。しかし、たとえ堕落していたとしても、人間は本来、永遠の本性と共鳴できる性格を持っており、それぞれの心の中には創造理想の要素があります。したがって、人間は罪を離れ完成し、神と一体となり、無限に幸せな生活を送ることができるのです。しかし、今日の信仰者達はこの事実を知らないでいるようです。

私達が祈る目的、または仏教徒が禅を通じて無我の境地に入る目的は何でしょうか?それは心の核になり得る要素に気づこうとすることです。あなたがそのような基準を設け、見聞きし、感じる心の中心を天意の前に置くならば、あなたは神の前で崇拝し、ハレルヤの栄光を捧げることができるようになります。

しかし、今日の人々の中にはこのような心の境地を望みながらも、この境地に達するために深く探求し、自分の本性を見つけ出して立てるために奮闘する人はいません。また、このような心を立ち上げるためにすべてを捨てる人もいません。今日の人々は、ある主義や信条のためには自分のすべてを捨てて立ち去ることを知っている一方で、それよりも重要な自分の心を立ち上げる真理のためには、そう簡単にはすべてを捨てようとしません。

ある主義のために自分のすべてを捨てる人、またはある信条のために自分の主張を捨てる人がいたとしても、それは自分の心を立ち上げる真理を見つけるためではなく、それよりも重要なものを見出すためではありません。では、このような心の核に入り、6000年にわたり祖先達から受け継いだ罪悪の血統を通じて継承された汚れた心を洗い流すには、どうすればよいでしょうか?イエス様が「心を尽くし、思いを尽くし、性格を尽くして、主、あなたの神を愛せよ。これが第一の戒めである」とおっしゃったように、あなたは心を尽くすことができる場に立たなければなりません。

また、どんな事柄にも、どんな問題にも生命をかけて立ち向かえる人でなければなりません。それは、あなた自身が滞在する場所でそうでなければならず、あなたが望む希望を中心に置き、進行中のすべての出来事でもそうでなければならず、生死の岐路でもあなたの心と体を尽くさなければならないのです。これらの人とならないと、すべてを目的として動いて出てくる天性の心の核を立ち上げることはできないことを知らなければなりません。

では、今日の私達はこのような心を立ち上げるためにどれだけの努力をしなければならないでしょうか? 6000年の人類の歴史が流れる中で、多くの預言者、多くの忠臣、賢婦、孝子、孝女が行ったり来たりしました。しかし、それらがいくら忠誠を尽くし、熱を尽くし、孝性を尽くしたとしても、まだまだ創造理想世界の完全な実現に向けて出発させる心の中心を立ち上げていないことから、それらの忠孝熱で戻りが終わらないことがわかります。

したがって、あなたもこれまで人類を救うために努力してきた忠臣や孝子、賢婦が尊重したそれ以上の基準を設けるために、天に向かって誠心を尽くし、力を尽くし、忠誠を尽くすことができる人でなければなりません。

そして、この国、私達の韓国の人々が今後、世界の人類を目覚めさせ新しい朝を迎える使命を持っているならば、韓国の人々は今後、他のどの国よりも神の意志のためにより誠心を尽くすべきです。

また、ここにいる皆さんが新しい信仰生活を開拓するための世界的な使命感と責任感を感じているならば、皆さんはそのような使命を受け持つために世界のどの人よりも最善を尽くす誠実な生活をしなければなりません。このように天に忠誠し、誠心を尽くした先祖達よりも、皆さんがどれだけ忠誠し、誠心を尽くせるか、これが問題です。

もしも今日まで歴史になかった忠臣や孝子となり、心を尽くし、意を尽くし、忠誠を尽くすそんな信仰者になるならば、またそのような人々が世界のどの民族よりも韓国民族の中に多くいると言われるならば、疑いなくこの一民族は天倫を代わって天に最も近い立場に立つと私は断言できます。

それゆえに、皆さんが今日、新しい集団として新しい信仰の旗を掲げ、全体的な使命と責任を持ち、万民の前に立ち上がると言うのであれば、誰よりも心の中でや誠心を尽くす面で先行しなければならず、歴史に来たる義人達よりも高い信仰の立場に立ち、彼らよりももっと真実な自己にならなければなりません。

もしもそのような信仰者がいるならば、神は帰還の歴史が延長されようとも、その人を中心にして巡り、摂理しようとするでしょう。今日、悪がはびこり、この世界が混沌することがあろうとも、このような新しい信仰の旗を掲げる民族がいるならば、その民族は眠っているこの世界を目覚めさせようとする神の召しを受けることができる民族になるでしょう。

それでは、今日の皆さんはこの社会に対して訴えかける声を持っていますか? また、刺激を与えることができる力を持っていますか? もしも皆さんにこの社会の基盤となるツールが備わっていて、この社会を刺激させる力があると言われるならば、皆さんは歴史にいた誰よりも一層努力してこの社会を目覚めさせるために尽力しなければなりません。このように誠実で忠誠心ある心で、この社会に新しい何かを示し、訴えかけることができなければ、皆さんはこの暗黒の世界から目を覚まし、永遠の神の愛の領域に入ることができません。

それでは、今日この場に集まった皆さん、新しい言葉を聞きましたか? 聞いたとして、どのような言葉でしょうか? 私の見解では、皆さんが聞いたことは、耳で聞いたものに過ぎません。また、新しい事実を見ましたか? それもまた、目で見たものに過ぎません。それでも皆さんが少しでも見たり聞いたりできたのは、それらがすでに約束されていたからです。

皆さんがここで目で見て耳で聞いた事実が少しでもあるならば、これからは新たにすべてを見て聞いて感じることができる心の中心を確実に据えなければなりません。もしもそうなれないならば、終末に天が「世界と万民のために立ち上がれ。」と言う時、皆さんは立ち上がれなくなることでしょう。

今まで人々は優れた師を尊敬し、また良い本を読もうとしました。優れた師や良い本も人間には必要でしょう。しかし、それだけでは永遠の理想の地を築くことはできず、また人類を解放することもできません。そのために皆さんは祈るとき、天倫を中心とした心を通さなければなりません。

そのような心の祈りを通して見て感じ、聞いた事実があるならば、皆さんはそれを示さなければならない責任があります。すなわち、見て聞いて感じて語る時間帯の中で、新たに目覚めた皆さんならば新しい生活の理念を立てていくべきだということです。

この過程にある皆さんは、これからはより厳しい試練を通して、より大きく目を覚まし、より多く耳で聞き、心でより多くのことを感じていく必要があります。また皆さんは新しい生活の舞台を眺めるべきであり、新しい生活の世界と天倫を見つめるべきでしょう。そのような立場から見ると、今日の人類が受ける苦しみは新しい事実を感じさせ、神の悲しみに共感させるものです。

しかし私達は神の悲しみを感じつつ、その悲しみを解消して差し上げる心を感じながらも、そのような心が長続きしないのは、現実の生活に直面する時、現実の生活の困難を超える力を持っていないからです。また私達はこれまでこの世界を否定的な生活環境としてしか見てこなかったためです。そのため私達は自分でも気づかぬうちに繰り返し苦しむ場から抜け出せていないのです。

今、新しい目を開き、新たに耳を傾け、新たに見聞きし、新たに悟り、新たに前進できると言われるならば、皆さんはどのような立場に立たねばならないでしょうか?

皆さんが果たさなければならない最も重要なことは、歴史の代わりに善を立て、現実の代わりに天倫を立て、未来の代わりに神の意志を成就させることです。

その使命を遂行して死の場を通過した後、皆さんはイエスの勝利の心情を感じ、悪に対する憤りの心情を感じ、責任を果たすことができるようになるでしょう。このような憤りの心情に突き動かされるイエスの力が皆さんを導いてくれないならば、皆さんは自分でも気づかないうちに逸れてしまうことでしょう。

それでは歴史の終末には、私達が審判の門を突破して進むことができるようにする歴史的な結実体が現れますが、その時私達はどのような心構えを持つべきでしょうか?

皆さんがこれまでに見聞きし知っている真実としては、または現実の生活環境に縛られる時は悪を打ち勝つことができないため、皆さんは歴史と現実を超えて悪に対する憤りを持つべきであり、永遠の歴史を責任持って天倫を代わりにして天に進むべきです。「父よ、敵を打ち破るために進んで出たので、どのような責任でも私に任せてください。」と言えるべきでしょう。このように現実を揺るがせる憤りに駆られない限り、わからない間に皆さんは自分の中心を失ってしまいかねません。

したがって、皆さんは今後、日々の生活において本心と良心に基づいて善悪を見分けねばなりません。そして神の摂理を畏れる立場から憤りの心情を持たねばなりません。そのような憤りの心情を持てなければ、サタンに対して戦いを挑むことはできないでしょう。

2,000年前において、イエス・キリストがサタンとの戦いで勝利できた理由は何だったでしょうか?それは、6,000年にわたり神に逆らってきた敵、サタンの本質を正確に知り、神の代理者として審判の杖を振りかざして彼らを打つことができたからです。

今日、皆さんが憤りに駆られて現実のあらゆる条件を制圧できる基準を立てたとしても、皆さんと共感できる相手に巡り会えなければ、天に訴えることができます。ですからイエス様はゲツセマネの園であらゆる苦難を忘れ、祈りながら宇宙的な憤りを感じ、訴えたのです。

したがって、皆さんは神の正義を確立し、神の敵であり私達の敵であるサタンを打ち破らなければならず、皆さんが住んでいる場所で憤りの心を持ち、国を代表して天に訴えるだけでなく、さらには世界を代表して神の意志を担当しなければなりません。

そのような皆さんがならなければ、神が望まれる理想郷が築かれる時、皆さんはその理想郷を自分のものとして所有できることを知らなければなりません。それでは、憤りを持った後にはどのようにすればよいでしょうか?

私達は結束して天国を叫ぶ者にならなければなりません。そして天国を叫びながら進む過程で、天倫により近い人や、善のためにより深い正義の心を持つ人が現れた場合、私達は適切にその人と調和しなければなりません。

このような観点から見ると、悪と対立しているキリスト教徒達は、それでも神を呼ぶ権能があるため、他の人よりも憤りをより多く感じているでしょう。

今、皆さんが義人と調和できる憤りと公正の気持ちを持っているならば、世界的なサタンとの対決に備えて、そのような憤りと公正の心を結びつけ、真心を傾けて責任を果たさなければなりません。

皆さんがそのような世界的な使命を果たす必要があるとき、神はようやく審判の歴史を成し遂げることができます。神が長い歴史の中で見守り、我慢していらした希望は何かと言えば、憤りを持ち、ますます自分の欠点を知り、次いですべての面で世界を代表してサタンと対決できる人が現れることです。

そして、そのような人達が結集して教会を導き、社会と世界を導き、神の前に現れることができると、神はようやく審判の決定を下すのです。

皆さんが神の子になりたいと願うならば、6千年間神の心に打ち勝った憤りを持たなければなりません。また、怨みが結ばれている神の心を代わりにできなければなりません。そして、敵であるサタンに対する憤りを持たなければなりません。

このように神の心を代わりにし、敵に対する憤りを持つ皆さんであれば、皆さんは結集して世界的に動き、敵との戦いで勝利するべきです。多くの人々は今日、このような使命を持っていることを知りません。

今日、キリスト教を信じている信者達は「敵を愛せ」というイエス様の言葉を強調しています。しかし、それは敵の中にある罪と悪までを愛せという意味ではなく、罪に縛られた人を哀れに思えということです。これを確実に理解する必要があります。無条件の愛は存在しません。他の人を愛するとは、その人の罪を愛することではなく、その人自体を愛することです。

終末の審判の際、神は罪人を罪悪の支配から救い出すためには、罪人を支配しているサタンを撃退しなければなりません。真実な人間を通してのみ、そのサタンを打つことができるのです。

今、皆さんは自分の栄光のために天国を求め、神に従ってはなりません。神に何かを成し遂げてもらいたいと願っても、そのためにはその要求に見合う資格がなければなりません。ですから、神の理念と心の支配で許される時と立場で、自分が神に訴えかけているかを常に見直さなければなりません。

しかし、今日の私達はどうでしょうか?神の心を理解せず、天命を裏切った立場を脱していないまま、自分の祈りだけを聞いてもらいたいと天に訴えています。私達はこの立場から抜け出し、すべてを忘れて天命を中心に怒りの気持ちを持ち、自分の一切を忘れ、民族や世界が死にゆくのを引き留め、天が悲しむことを引き留め、心を砕いて努力する人にならなければなりません。

このような生き方の基準を立て、「天よ、私を責任を持たせてください」と祈りを捧げた後で、皆さんは神の心に近づくことができるのです。しかし、そのような生き方の基準を立てずにただ天に従っている人が多いのです。

ですから皆さんは天地の主人意識を持たなければなりません。果たさなければならない責任、神が望む責任を果たした立場に立ち、サタンと戦うことができる人にならなければ、またイエス様を代わってサタンと戦う資格者にならなければ、皆さんの希望は実現できません。

ですから今日の皆さんは、自分の生活領域で怒りの気持ちを持ち、神の側に立ち、サタンに対する審判の行為を代行できる人々にならなければなりません。そのような責任を各自が果たすことができるという中心が皆さんの心に立っていなければ、サタンを審判するための日を迎えることはできないということです。

天の支配は世俗性を備えているため、皆さんも相対的に世俗性を備えた理念を追求しないといけません。ですから、何よりも皆さんが求めている要求が誰のためであり、皆さんが望んでいる希望が誰のための希望であるかを先に反省する必要があります。

しかし、今日のほとんどの人々は神を中心に据えた意志を要求するのではなく、自分を中心に据えた意志を要求しており、神の恵みを中心に楽しもうとせず、自分を中心に楽しもうとしています。

皆さんに許された恵みがあっても、その恵みは皆さんの個体だけのためのものではなく、皆さんを踏み台にして世界中に広がっていかなければならない恵みであり、あらゆる権威を握っているサタンにまで屈服させなければならない恵みであり、再び天の前に差し出さなければならない恵みなのです。

このように天から授かった恵みは、皆さん一個体だけのためのものではありません。社会のため、民族のため、世界のため、意志のため、天のための恵みです。それにもかかわらず、ほとんどの人々はこの恵みを自分の生活領域に閉じこめて楽しみ、自分だけのものとして楽しもうとします。しかし、その恵みはその場にもはや留まることができず、去ってしまうものなのです。

ですから天からどんな恵みを受けたとしても、皆さんは怒りの気持ちを持ち、天を代わってサタンと戦うことができなければなりません。自分を中心にして判断する行動をしてはいけません。このように許された恵みを受けた者が、自分を中心に楽しもうとしたり、自分を中心にして他人を裁くことをしようとしたりすれば、それは正しい信仰ではないので、許された意志の道を歩むことができません。

このためには、自らのすべてを犠牲にする必要があります。天倫と公義を中心に据え、この土地が神の前で栄光を称えることができる道があるなら、皆さんは自らが信仰する宗教でさえ犠牲にしなければならないばかりか、持っているすべてを捨て去らなければなりません。

それゆえ、私達は怒りの気持ちを持ち、結束してサタンと戦わなければなりません。サタンは私達の現在の敵であり、過去の敵であり、未来の敵です。このようなサタンと戦って勝利するためには、皆が一つに結束して宇宙的な公義の法を制定し、それを基準に前進しなければなりません。

では、サタンと戦って勝利するためには、何が生活の基準となるべきでしょうか?まず、十字架を負うことのできる神の真の子女となることです。

そして、悲しいし難しい状況に侵入してくるサタンを打ち破る神の真の子女となることです。これを達成するためには、私達はその困難を克服し、むしろサタンよりも一層一生懸命に私達の責任を果たさなければなりません。

私達は神の真の子女として、これまでに存在したあらゆる悪を打ち砕かなければなりません。悪に押し流されてはなりません。むしろ、善が悪を打ち勝って残るように、私達は勇敢でなければなりません。そうすれば、神の御心が達成されることを皆さんは知っておかなければなりません。

そうして勝利した個人が、勝利した兄弟になり、勝利した兄弟が勝利した家庭になり、勝利した家庭が勝利した社会、国家、世界に拡大されていくべきです。ですから、皆さんは神が望む正義の法を中心において、神の意向を解放しようとする熱心な気持ちを持ち、何としても千万のサタンと対決して一人でも戦い、勝利する決意を持たなければなりません。そうしなければ、理想的な世界が築かれる際に、神が許可されるその範囲内で永遠に生きることができる神の子女にはなれませんので、そのことを肝に銘じなければなりません。

愛おしいお父様!私達の前に残されているものは、ただ天倫の御心だけであると私達は知っています。そして、その御心の中心がお父様と真の親であることを認識しており、また地上に住む人々が真の親の真の子女になるべきだということも理解しています。

さらに、お父様が私達に望まれていることは、全人類が一つの兄弟になり、全人類がお父様の真の子女になることであると私達は知っています。

お父様! 私達はまた、お父様がお望みの真の子女の立場に立ち、真になりたいと望む人々を妨げ、彼らを虐待する罪がこの地上のどんな罪よりも大きいことを知っています。人間の真の誠実さを傷つけることも許されない罪ですが、真の兄弟愛を失くすことが天倫の前でより大きな罪となることを忘れないように、私達を導いてください。

お父様、ここに集まった子女達、深い眠りの中から目覚めさせようとする天倫の前で、どんな兄弟のために立ち上がらないと言えるでしょうか。牧者の導きに従って動く自分と認識できるように、私達がそのような立場に立たないように助けてください。そして、その兄弟すらも自分が責任を持ち、天倫を代わって隠れた祭壇を築くことのできる子女となるように、お許しください。

また、あなたが望まれる永遠の子の理想を立てさせ、いつも見守っておられるあなたの眼差しを感じさせ、あなたの愛の手を感じさせ、あなたの訴える声を聞かせ、教訓の言葉を述べ、慈愛に満ちたあなたの心情に感応して、父の心情を共有し、父の姿に倣い、その意向の前に何度でも死んでも礼拝し、感謝できるイエス・キリストの弟子達になるように、お願いいたします。

この時間、私達は天倫の意向を妨げる多くの敵に対して新たに感じることができる言葉を聞きました。新たに感じたこの事実を心に刻んで、今日の言葉が私個人の感情で終わるものではなく、この言葉が歴史を代表し、宇宙を代表する天倫の前で全体を結びつけなければならないこと、私達にはそのような使命があることを知らせてください。

お父様よ!この道を妨げる多くの敵に対して天倫を代わって公正な心情と憤りの心情を持って戦うことができるようにし、父の前で勝利の日を差し出すために、耐え、また耐えて前進することを可能にし、勝利のその日に、これまで我慢してきた私達の憎しみを父に訴えることができ、父の尊い手を握って慰めを受ける位置まで進むことができるように、導いてください。

眠っているこの地のすべての人類を目覚めさせてください。創造されたすべての世界がため息の中にあるので、私達を動員してこれを回復させ、24億の人々が各自の責任を果たしてみんなが天国の人になれるように、天の知恵を許可してください。

この場に集まった幼い子供達よ、どんな戦いの困難にも耐えぬいて立ち向かうことのできる子女となり、自分のすべてを捨ててでも意志だけを追求できる天の戦士となるように、お許しください。この道を妨げる多くの敵に対して天倫を代わって正義の心情と憤りの心情を持って戦うことができるようにし、父の前で勝利の日を差し出すために、耐え、また耐えて前進することを可能にし、勝利のその日に、これまで我慢してきた私達の憎しみを父に訴えることができ、父の尊い手を握って慰めを受ける位置まで進むことができるように、導いてください。アーメン。


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