人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

世界経典-82

2022年09月03日 19時46分19秒 | 学習


第20章


1.1969 年5 月11 日:韓国を含み、学生運動が全世界を襲った時、文鮮明先生が語られたみ言である。


2.エレノア・ルーズベルト:アメリカの元大統領、フランクン・デラノ・ルーズベルトの妻。


3.1959 年2 月15 日:このみ言は文鮮明先生のみ言であり、韓国動乱で韓国の地が荒廃化した数年のちに語られたものである。


4.2000 年1 月22 日:神様に「侍る」という言葉は、神様の苦痛を理解し、人間の罪と悲劇を軽減させることによって、どこででも神様を慰労してさしあげることを意味する。全人類を救うための終わりの日に、神様の摂理を理解し、そこに参与するという意味でもある。


5.ジョン、フィッツジェラルド・ケネディ:1961 年1 月20 日、アメリカ大統領就任の辞。
6.マルクス・キケロ:第2 のフィリピン演説。


7.パトリック・ヘンリー:アメリカの愛国者。1775 年、英国からの独立を主張した演説。


8.ネイサン・ヘイル:アメリカの愛国者であり、1776 年9 月22 日にスパイ容疑で絞首刑に処される際に、最後にこの話をした。


9.丹心歌:14 世紀高麗末の定型詩であり、王に対する忠誠を約束する内容である。統一教会が神様への忠誠を約束する聖歌として採択した。


10.ウィンストン・チャーチル元英国総理。1940 年6 月18 日、英国が戦争を始めると同時に、下院議院で行った演説。


11.1988 年4 月17 日:文鮮明先生は故郷である北朝鮮から避難してこられたあと40 年以上、再び北朝鮮の地を踏む機会をもつために努力された。そして、ついに1991 年、それが実現された。


12.ミシュナ、アヴォート3.2:ユダヤ人たちを支配し、過酷に抑圧したローマ帝国をどう見つめるかに対する論難の中で、常套的だが慎重に選択された用語である。ローマの支配下で迫害されたユダヤ人たちは反乱を企てたが、実際、反乱の結果は惨憺たるものだった。ユダヤ戦争(西暦68 ~ 70 年)は、神殿の破壊で終わり、そののちにあったバル・コクバの乱(西暦132 ~ 134)は、残忍に鎮圧された。しかし、ミシュナに記録されたラビの記録を見れば、ラビはローマの統治撤回を要求していた。


13.1991 年1 月1 日:「三大主体思想」とは、指導者の三つの責任を言う。すなわち、真の父母となり、真の師となり、真の主人とならなければならない責任である。この三つの公的責任を完遂することで、私達は神様の本性に似るようになるのである(第21 章3.「典型的指導力」参照)。


14.スユーティー・ハディース:『アル・デュール・アル・マンスール』523.25。.


15.2000 年8 月14 日:絶対的主体の前に、絶対的相対が必要である。


16.レビ記25.10:アメリカの自由の鐘に刻まれた、よく知られたこの語句は、もともとヨベルの年を公表したものである。ヨベルの年は古代イスラエルで50 年ごとに回ってくる年である。ヨベルの年にはすべての借金が帳消しになり、すべてのヘブライの奴隷たちが解放され、すべての借用証書も無効になり、すべての財産は本来の主人のもどに返る。詳細な内容は「経済的正義」の部分を参考にすること。


17.イザヤ書61.1 ~ 2:イエス様はガリラヤで公生涯を始められる時、この言葉を引用された。この言葉は、イエス様の使命が天宙的な自由の状態である神様の王国の建設を示唆している。


18.オーレン・ラオンス酋長:1992 年12 月10 日、原住民の年に開かれた国連での演説。


19.クラレンス・ダロウ:アメリカの弁護士であり、市民の自由擁護者。1920年、ピープルV.ロイド、法廷での彼ん0訴訟事件摘要書。


20.おふでさき13.43 ~ 45:(高い山に住む)金持ちも(渓谷に住む)貧者も、人間はみな一点、すなわち「一つの根源」から始まった。言い換えれば、人間の共通の先祖は天理、すなわち世界の中心に建てられた神殿に安置された親神によってつくられた。


21.法句経396:仏陀は、アーリヤ人やバラモンのようなヒンドゥー教の氏族的、カースト的な用語に対して、新しく霊的な定義を下した。アーリヤ人は白い皮膚をもった氏族ではなく、八正道に従う人々である。バラモンは特権をもったカーストではなく、阿羅漢の階位を得た人である。


22.ミシュナ、アヴォート9.7:預言者アモスはイスラエルが選民意識で傲慢にならないよう警告した。神様はイスラエルの最大の怨讐であるパレスチナ人たちとシリヤ人たちまで救おうとなされるお方である。
23.リグ・ヴェーダ8.51.9:上層カーストを形成するアーリヤ人たちが白い皮膚の色であるのに比較して、アウト・カーストたちは皮膚の色が黒い人たちである。


24.W.E.B.デュボイス:黒人の霊魂(シカゴ、1903)


25.プブリウス・シルス:道徳的格言を作ったローマの奴隷。


26.ムハンマド・アフマド・アル・マウラ:ウマル・イブン・ハッターブは、過去、新しい分派を弾圧していたのが、早期にイスラームに改宗した。ムハンマドの近い追従者になり、彼が死亡したあと、二代目のカリフとなった。これは、エジプト作家であり、学者である。ムハンマド・アフマド・チャド・マウラ(1883 ~ 1994)が再び語った古い伝統である。


27.エイブラハム・リンカーン:1854 年、イリノイ州ピオリアで演説したもの。
28.神聖なパイプに関するスー族の伝承:ワカン・タンカは高貴な神、あるいは偉大なる精霊を称するラコタ族の名前である。


29.維摩経7:この話の核心は、この世に男女の平等がなければならないということではなく、むしろ仏教は性的差別とは、単に一時的でむなしい現象的次元に属すると教える。事実、あらゆる現象を超えて、性は超越する。これと似た話が、[法華経]第12 品に出てくる。竜王の娘が仏性を得るために、男性に変身するが、これを通して、女性とは、法を受けても駄目な「穢れた器」と、みなしてはならないということを見せてくれている。


30.創世記3.12 ~ 16:人間の堕落の結果、エバは二人の男性の支配下に置かれるようになった。最初の男性は天使長(蛇)であり、二番目は彼女の夫、アダムである。


31.ミラノのアンブロシウス:彼は堕落の話と関連し、正反対の教訓を導き出す。エバがアダムを誘惑したその時から、女性たちは危険な誘惑の存在になってきた。それゆえ男性たちは、女性が自分たちを支配するように受け入れてはならない。


32.コリントの信徒への手紙一11.3 ~ 11:「天使たちのために」、一般的にパウロは天使を、敬拝を捧げる存在であり、聖職者を守ってくれる存在として認識した。けれども、ここで私達は、女性が天使の支配下に置かれるようになったという事実から、堕落との連関性を推論できる。


33.教皇ヨハネ・パウロ2世:司教会議に提出、ローマ、1980 年10 月25日。


34.コリントの信徒への手紙一11.11 ~ 12:女性が男性のあばら骨から創造されたという、より具体的な言及は、第19 章6.「結婚生活の倫理」を参照すること。


35.1982 年1 月1 日:文鮮明先生夫妻(真の父母)はこの教えを直接実践される。文鮮明先生の数回の世界巡回についていかれた韓鶴子女史であるため、1990 年代から文鮮明先生は、韓鶴子女史に単身、一人で世界巡回を始めるよう督励された。韓鶴子女史が巡回をされると、文鮮明先生は衛星中継を通して同じ時間を共有された。


36.クルアーン4.135:イスラームは、物事の道理、または家族や親族に対する貞節を、正道の価値ほど高く評価しない。


37.エドマンド・バーク:イギリスの政治家、彼はアメリカ植民地の独立のための努力を支援し、英国にその独立を受容するよう督励した。しかし、自由の擁護者はフランス革命の越権と全体主義的傾向を予見できたので、これに反対する文章を書いた。今は保守主義と呼ばれる18 世紀自由主義の先祖とみなされる彼は、有名な警句をたくさん残した。


38.アレクサンドル・ソルジェニーツィン:ロシアの作家、ソビエト連邦時代、自らの作品を通して、グラーク(Gulag)として知られた共産主義強制労働収容所の惨状を暴露することで、ロシアの良心を表した。
39.論語14.36:このフレーズと次のフレーズは、それが正義を支持しないなら、いつも怨讐愛は親切を施すことを意味するという点を論議している。ここで孔子は、道徳経63(第13 章5.「怨讐を愛しなさい」を参照)で引用したことわざに対して論議している。しかし、孔子はまた、語録4.3 ~ 4(第13 章4.「普遍的愛」)で普遍的慈善の理想をたたえている。人が悪人を好み、彼を助けようとしても、時として、彼に親切を施すことは助けにならないこともある。特に、その「親切」がより悪を行わせるようあおる場合にそうだといえる。より強硬な方法が適切であることもあり得る。しかし、この方法はまた、真実な愛が動機になるか、過ちを犯した人の安寧のためのものでなければならない。


40.フレデリック・ダグラス:最初のアフリカ系アメリカ人奴隷廃止論者。1830 年代から1850 年代にアメリカとヨーロッパで行われた奴隷制度の反対講演は、邪悪な制度に抵抗するのに一助となる世論を形成させた。


41.ウィリアム・ブース:ニューヨークの救世軍事務室の入り口に刻まれていて、ブースは救世軍の創立者である。


42.クルアーン5.38:大部分のイスラーム法律学校は、これ以上この処罰を適用せず、大きな窃盗罪の最も深刻な場合と制限している。


43.タルムード、デレク・エレツ・ズタ2.5:甚だしきに至っては、あなたの所有物も真正な「あなたのもの」ではない。なぜなら、あらゆるものは主に属し、私達はそれらを信仰の徴表として受けたものだからである。


44.申命記15.1 ~ 5:聖書において、安息年ごとに貧しい者たちに定期的に負債を帳消しにしながら、彼らに猶予期間を与えた。


45.レビ記25.10 ~ 43:古代イスラエルで、50 年ごとにヨベルの年が回ってきた。その年にあらゆる借金が帳消しになり、ヘブライの奴隷たちは解放され、借用書も無効化され、すべての財産は本来の主人に返った。このような慣習は、地が神様に属していて、またその地は永遠にイスラエルの家族と親族たちに与えられるものだという考え、すなわち地は売り買いする私的財産ではないという考えに基づいたものだった。これは貧しい農夫たちが富裕な債権者ゆえに貧しさにあえぐのを防いでくれた。


46.孟子Ⅲ.A.3:地を9区画に分ければ、漢字で「井戸」を意味する井の形になる。これは「井田法」として知られている。一年の固定収穫量に基づいた租税法は、農夫が農作業を終えた年に税金を出すのに困難なので、固定金額として定められる租税法より、人間的だという事実に注目する。ある凶作によって、銀行に借金をしている時、現代、農民たちは固定金額租税法により破産する結果を引き起こす。


47.フランシス・ベーコン:『随筆集』、市民と道徳41。この陳述は、労働者を利用して銀行を太らせる傾向がある高利貸しに関する対話から作られた。
48.クルアーン9.60:ムスリムの収入の一定量、義務的な喜捨(ザカート)をもらわなければならない人を列挙している。ここには債務者、収監者、「心の慰安を受けた者」をはじめとして、これを施行する人々を支援することも包含される。彼らは生計の手段を失い、経済的損失で苦痛を受けて改宗したが、以前の団体は改宗に反対した(第13 章10.「慈善」、クルアーン2.267 ~ 273を参照)。


49.2001 年1 月13 日:「株主の労働組合をつくるのです」という文章から、株主たちが会社に積極的に参与するという説明は、韓国の社会に適合したものである。韓国社会で大部分の会社は、個人や家族構成員たちが会社経営に積極的に参与し、大株主になる。これは公共の貿易会社の業務に投資者が適用されない方式、すなわち会社経営に特定の任務をもたず、一定量の株式だけ所有する方式なので、韓国では株主たちに対して「主人たち」という用語を使用してきた。


50.エイブラハム・リンカーン:1860 年3 月6 日、コネチカット州ニューヘブンでの演説。
51.教皇ピウス9世:1846 年9 月11 日宣言。


52.教皇ピウス11 世、『クワドラジェジモ・アンノ』:ここの「社会主義」は民主社会主義を言う。民主社会主義とは、共産主義の暴力性と全体主義に反対する穏健的左翼政治運動を言う。共産主義者たちは社会主義に反対するが、彼らは社会主義が労働者階級に民主的過程を通して利益を提供するという理由で反対する。なぜなら、その過程で革命的熱情が衰えるからである。


53.第20 章4:「労働」を参照すること。


54.クルアーン3.103 ~ 105:神様はお一人であり、したがって人間もそのように一つにならなければならない。この一致は、神様に対する服従を通して成される。神様の統一、個人の霊・肉統一、社会の統一、ひいてはあらゆる実在の理想的統一は、イスラームの概念であるタウヒードに包含される。


55.ベンジャミン・フランクリン:1776 年7 月4 日、独立宣言文に署名するとともに。
56.エイブラハム・リンカーン:1858 年6 月16 日、イリノイ州スプリングフィールドでの演説、「分裂した家庭」


57.マルティン・ニーメラー:この有名な詩には多様なバージョンがある。そのうちの一部は、「ヒトラーがユダヤ人を攻撃した時……カトリックは……」で始まる。このバージョンは、ナチ執権の間、牧師ニーメラーが書いた原本により近いものと見られる。ウイキペディア(韓国語版)から引用。


58.デガナウィダ:ハイアワサ(Hiawatha)でよりよく知られたデガナウィダ(c.1450)は、イロコイ族の五つの氏族を連合した伝説的な酋長だった。イロコイ連盟は、アメリカ東部のアメリカ先住民部族のうちで最も栄え、強力だった。


59.オンジャク族の格言:助けが必要な不遇な親戚と友は、相変わらず保護されるべき地域社会の一部である。


60.ソクラテス:プルタルコスの追放に関して(On banishment)による。


61.1994 年5 月8 日:これは家庭盟誓第4節に対する文鮮明先生の説明である(祈願文参照)。




第21章


1.サムエル記下23.3 ~ 4:ダビデ王の言葉であり、イスラエルに対する彼の統治理念に適合した表現である。


2.詩経、254 板:中国の統治者は天命に従い、リーダーシップを発揮している。もし、天が大災難を下し、統治者に対する不満足を表せば、彼はもちろん、彼の王朝まで権限を剥奪され、代替される場合がある。


3.トーマス・ジェファーソン:1800 年9 月23 日、ベンジャミン・ルーシー博士に書いた手紙。


4.ナフジユ・アル・バラーガ、『説教』38:告げる預言者ムハンマドの使命を履行するカリフとして、自らの使命を語っている。


5.論語12.11:この部分は正名の儒教理論を表す。公務員は自らの職務に対し、道徳的基準に従って生きるべき義務をもつ。


6.書経4.8.1 ~ 3:君臣に対する儒教的関係において、能力ある大臣は主君に善と正直な忠告、欠点の補完として仕えるが、君主は大臣の賢明な忠告に注意を傾け、これを受け入れなければならない。ウチン(WuTing)王は、紀元前1323 年ごろ統治したものとして知られている。


7.『御旨の道』、指導者1.3:「アベルの位置」、忠義な者は、いつか指導者の位置に立つだろう。


8.1978 年3 月12 日:これは天一国憲法の三つの法律と一致する(第2 章4.「十戒」参照)。「原理に背く」という言葉は、姦通やある性的堕落に対する婉曲な表現である。
9.論語2.3:孔子は意識教育の価値を信じた。特に、統治者は礼法を守ることで、天への服従と従順に対する自らの基準を証明しなければならなかった。


10.大学9.1:リーダーシップの基盤と教育の場として、家庭に関することは第19 章1.「人生の基本形態」を参照すること。


11.民主主義に対する評価:第20 章5.「自由」を参照すること。


12.ウィンストン・チャーチル:1940 年3 月13 日、下院議院での演説。


13.エマ・ラザルス:「新しい巨像」(1883)というこの詩は、ニューヨーク港にあり、アメリカに入ってくる数百万人の移民者たちを歓迎する自由の女神像の台座に刻まれている。


14.2000 年6 月24 日:このみ言は、今後、金持ちが貧困層を援助するようにさせる法案を政府次元でより大きく奨励しなければならないことを示唆している。利他主義と奉仕を名誉あることのように思う社会において、「ために生きなさい」という倫理に従って生きる人々が大勢を占める時、このような政策はスムーズに進められる。しかし、より具体的な求職補助、賃金の平等、公的補助、非営利慈善、税金控除などの行政的方法の側面までは言及なさらない。


15.ハンムラビ法典:紀元前17 世紀にバビロンを統治したハムラビは現存する最も古い法典の一つを公布した。法典の大部分が慣習法の編纂物であるにもかかわらず、この本にも引用された語句が盛り込まれた序文は、正義を神様のみ旨に起因するものとして帰する。マルドゥクはバビロンの守護神であった。


16.金光明経12:「業の成熟と果報を現わし示す」というのは、第一に、人々は自分たちが以前に犯した罪悪の結果を刈り取るものだということを知っていることを意味し、第二に、罪悪を犯す者たちは現世で自分たちの行為に対する罰を受けるので、来世で背負うべき悪業が減ることを意味する。


17.クルアーン1.178:これは殺人者の刑罰に関するクルアーンの法的原則である。クルアーンは、ある殺人行為に対する報復が無差別的殺戮を誘発させていた遠い昔のイスラームの習わしである流血闘争を軽減させた。処罰は犯罪に比例して生命を生命で償うものである。しかし犠牲者の家族は、刑罰を軽減することを希望した。自由人、奴隷、女性の範躊は、ムハンマドのころの氏族社会に適用され、当時、殺人者が発見されない場合、報復行為は正義と理解された。


18.エゼキエル書3.16 ~ 19:神様は、自らの預言者たちが民に適切な時期に警告すべき責任があることを示唆した。これは、あたかも巡視する夜間警備が、守備者たちに敵軍が接近していることを警告する責任があるのと同じである。


19.マルチン・ルター:ワームの帝国議会での演説、ドイツ、1521.4.18。
20.1991 年8 月27 日:心と体に関連するもう一つの原理である。文鮮明先生は体と心の原則は、現代社会のグッド・ガバナンスのための土台だと説明する。言い換えれば、宗教指導者たちと政治指導者たちの協力の必要性を指摘している(第22 章7.「世界平和」参照)。


21.サムエル記下12.1 ~ 10 ダビデは最初、バテシバとの姦通の事実を隠すために、バテシバの夫ウリヤに、家に帰って彼女と同衾せよと言った。
これは、赤ん坊の父親が誰なのかに対する疑いを払拭させるためだった。この試みが失敗した時、ウリヤは自信にあふれ、忠義な軍人だったので、民間人として戦時には欲求を満たさないと言いながら、その提案を拒絶した。ダデはウリヤを困難な戦場に送り、彼を残したまま軍隊が後退することで、ウリヤが敵に簡単に発見され、殺害されるように企んだ。このような背景から有名な預言者ナタンの逸話が出てきたのである。


22.アモス書7.10 ~ 17:このような自己告白の文章で、高位聖職者は預言者アモスの反逆を非難した。そしてアモスのところに行き、彼に逃げろと警告する。彼はアモスが王に雇われた預言者であることを非難し、「そこでパンを食べろ」と言う。アモスは王に雇われた専門預言者ではなく、神様に応対する平凡な人だと主張し、「私は預言者ではない」と答えた。


23.クルアーン14.9 ~ 15:預言者に関するイスラームの概念は、常に最初のメッセンジャーとして一なる神様に対する信仰を説破する者である。しかし、預言者は正義と正当性の問題を等閑視しない。なぜなら、預言者は神様のメッセージの中に含まれているからである。このように神様を拒否した人は、必然的に暴虐な悪人になる。その上、預言者は自らの人生を神様のみ手に従って治めるので、結局、彼は正当化される。


24.アーディ・グラント、テラン、M.1:グル・ナーナクは、バーブルの率いるムガルの侵略者たちが、ヴィクラム暦で1578 年インドに下り、1597 年に去るだろうと予言した。実際、その年にムガルの軍隊はシェール・シャーに大敗した(ヴィクラム年代記はインドの古典的暦法のうちの一つであり、その基準視点は紀元前58 年である)。




第22章


1.ルカによる福音書2.14:平和の王、イエス様の誕生に天使の群れが登場したことを明かす部分である。


2.ゾーハル3.10b:ヘブライ語「シャローム」は、平和、慰安、完全さを意味する。


3.1976 年1 月4 日:ここの「中心」は、神様、地上の中心人物、あるいはより力のある富裕な国を指すこともあり得る。どこに合わせて解釈するかによって、意味が若干変わる。


4.荘子5:自らの中に平和が宿る人だけが、他の人を平穏にできる。王駘が心をむなしくしているのを「動かない水」の状態に比喩したものであり、人々がこれに姿を映してみて、王駘に従い集まるという意味である。流れる水は自らの鏡になろうとはしないが、多くの人々が来て鏡にする。これを求める多くのことを静止させるという意味である。恒常的な心(常心)をもった者だけが、恒常的な心を人々に得させることができるという意味である。


5.イーシャー・ウパニシャッド、ヒース・チャント:「あの」は、シャンカラとラーマーヌジャ、皆によってブラフマンとして解釈されるが、「この」は個我として解釈される。したがって、平和は「この」と「あの」の統一、すなわち個別霊魂と神の合一から生まれる。


6.マタイによる福音書5.23 ~ 24:単に私達が人に罪を犯したときだけでなく、誰かに私達に向かう恨みが残っているときも、神様は私達の祭物をお受けにならないだろう。たとえ私達の行動が正当化できると考えたとしても、やはりそうである。したがって、私達は私達に対する他人の恨みについても責任をもたなければならない。また、自分を正当化させる誘惑も避けなければならない。


7.アタルヴァ・ヴェーダ7.52.1 ~ 2:アシヴィンたち、あるいは双子の神々は、互いに完全な一致を象徴する。


8.クルアーン42.36 ~ 43:クルアーンにおいて、人々が過ちを犯すとき、最高の対応方法は、許すことだと言う。しかし、クルアーンは人間の弱点を利用した復讐は罪ではないとする。イスラームの伝統で、ムハンマドは復讐ではない許しをたたえている。ハディースはムハンマドの許しの本性を証明している。イスラームのシーア派を創始した聖人、イマーム・アリーもまた、自らの殺人に対して、自らの追従者たちが復讐できないようにした(第21 章5.「法と罰」ナフジュ・アル・バラーガの書簡47 を参照)。


9.1997 年8 月11 日:韓国の伝統的慣習によれば、すべての忌日に様々な種類の果物と料理をお膳に精誠を込めて準備し、自らの先祖たちをお迎えし、
祭祀を行いながら祈念する。
10.マハーバーラタ、ウディヨーガ・パーバ(挙兵の巻):クリシュナは戦争を防ごうとする正直な助言者であり、仲裁者の役割をする。しかし、彼の仲裁の努力は失敗する。


11.ウィンストン・チャーチル:1948 年2 月14 日の演説。


12.出エジプト記22.23 ~ 25:判決に対する指針書にすぎず、報復を許可するものではない。現代、ユダヤ教では、処罰が罰金刑に代替された。


13.瑜伽師地論:この寓話から、涅槃は夕暮れの涼しさでもってねたみと熱情をさますことに比喩される。それは、平和が静的に生じ得る瞑想の方法に対する比喩であろう。人々を戦争に送る大義名分は、超越的観点から見るとき、重要でないように見える。


14.2005 年9 月12 日:文鮮明先生は全世界を連結するために、国際ハイウェイとベーリング海峡を通過するトンネルを建設しようと提案された。
15.クルアーン40.21 ~ 22:かつて、繁栄した都市の滅亡は、継続する罪に対する直観教育になる。


16.詩経、235 文王:商王朝の始祖は天命を受けた正統な王であった。しかし、後代の殷王がその地に腐敗と問題を引き起こした時、天命を忘却することで、再び周王朝が統治するようになった。この詩から、周の統治者と過去の殷の家臣だった臣下たちは、前王朝の運命から教訓を得よという忠告を聞いた。


17.アモス書2.6 ~ 16:これは、盲目的なバアル神崇拝信仰として寺院の娼婦たちを訪問したことを言う。


18.アモス書2.6 ~ 16:「ナジル人」は主に対する献身で絶対に酒を口にせず、飲む場合には髪の毛を切ると誓った人たちである。サムソンはナジル人だった。


19.シアトル酋長:1854 年、協定演説。


20.イザヤ書11.6 ~ 9:「狼」と「羊」は、帝国と帝国に征服された小さい国々を比喩した表現である。この地が神聖な真理で満ちる時、すべてのものは消え去るだろう。


21.2005 年9 月12 日:アベルUNの創立を前にして、天宙平和連合創設記念日に、文鮮明先生が語られたみ言である。


22.道徳経80:伝統に根ざし、家族と友の愛の絆で結ばれた素朴な田舎生活の理想である。これはあらゆる所を旅行するものの、根のない忙しい現代人の生活とかなり対照的である。


23.2005 年9 月12 日:ベーリング海峡トンネル・プロジェクトは、天宙平和連合創設記念日に宣布された文鮮明先生のみ言である。しかし、文鮮明先生が国際ハイウェイのビジョンを最初に提示されたのは、1980 年である。当時は、東京と北京を連結する高速道路の最初の段階として、韓国と日本を連結する海底トンネル建設を提案された。

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世界経典-81

2022年09月03日 19時42分57秒 | 学習

第15章

1.クルアーン2.130 ~ 136:「Islam」は服従(surrender)の用語、神様に服従する者(アラビア語)に由来する。アブラハムの信仰は、ユダヤ人やキリスト教徒にそうであるように、ムスリムにも模範となる。それゆえ、ユダヤ教、キリスト教、イスラームは、アブラハムから始まった宗教だと呼ばれる。


2.大乗起信論:四つの信仰に対するこの説法は、伝統的な仏、法、僧に対する信仰を包含しているが、これに先立って、真如に対する大乗の教えに従い、信じることを強調しているのが分かる。真如とは万有を包容し、引っ掛かりがなく、内在的であり、また超越的な究極の実有を意味する。梵語で、マハーヤーナ・スラドットパーダ・スートラと呼ばれるこの大乗起信論は、アスヴァゴ
ーシャ(馬鳴)の著作として伝えられるもので、中国の仏教でほとんどすべての学派が受容し、最も尊重される仏教経典のうちの一つである。


3.親鸞『歎異抄』3:親鸞は日本の浄土仏教で浄土真宗派の創始者である。罪人たちは義を行う人たちより浄土に生まれやすいという教えは、仏陀の無我説と関連する。自らを完全に仏陀の恩寵に投げ出し、自らの成就を何でもないものと考えることで、自我に対するいかなる執着も疑問の余地がなくなる。完全に懺悔する邪悪な人は、自らがとるに足らないものと考えるが、善なる人はほとんど自らが積んだ公徳と成就に対して誇る気持ちをもちやすく、したがって、究極的な目的地から遮断される。


4.マッコート23b ~ 24a:ユダヤ教は信仰が律法の核心だと教える。すなわち、ユダヤ教は、パウロが律法は信仰と対立すると規定した内容を受容しない。ガラテヤの信徒への手紙3 章2 ~ 11 節のパウロの言葉のように、このフレーズはまたハバクク書2 章4 節を引用している。しかし、ここでは単純にそれを告白するのではなく、「正しい者はその信仰に従って生きるもの」という内容を意味するものと見られる。


5.マーティン・ルーサー・キング・ジュニア:「私達はここからどこに向かうのか。混同か。共同体か」(ニューヨーク・ハファ&ロー出版社、1967)


6.1973 年7 月29 日:これは人間個人の単位に適用される。もちろん、神様と連結された家庭と国家と世界に向かうより大きな基台が存在する。


7.聖歌第2 部2 番、嘆きを吹きとばせ:文鮮明先生は北朝鮮の興南収容所にいらっしゃる時、苦痛を受ける祖国に明るい未来を望み、この歌をよくお歌いになった。


8.荘子23:死、監禁、または絶対的な恥辱に直面した人が、時々、善と悪の一般的な観念を克服し、深い知恵をもった人になるというのは、よく知られた現象である。


9.荘子19:このような伝統に立脚し、酒に酔った人、特にとても悠然とふらつき、いつも損害を避けていく人は、中国のドラマでよく登場するキャラクターである。


10.本居宣長『玉鉾百首』:太陽の女神、天照大神は、神道の首長の神である。豊受大神は伊勢神社の外宮に祭られる五穀の女神である。先祖の神々と倉と彼らは、私達に五穀をもたらす自然と人間の生産力を表す。


11.1977 年5 月29 日:第13 章6.「赦し」参照。


12.クルアーン3.102:「服従」を意味するアラビア語がイスラームである(第15 章の注釈1 を参照)。


l3.イザヤ書8.12 ~ 13:預言者イザヤは、腐敗した政府と聖職者たちを容赦なく非難した彼の言葉ゆえに、逆謀の罪で追われる。しかし、神様は彼に、人間がつくったものを恐れず、天を恐れる人になれとおっしゃる。


14.クルアーン2.8 ~ 12:「私達はピース・メーカーにすぎない」。これはムハンマドがイスラームの大義に完全に献身せよと要求した時、自分たちの平和的な生活と異教徒たちとの安らかな共存維持を願ったメディナの煮え切らないムスリムたちの言葉である。彼らは個人の利益のためにイスラームを信じる偽善者だった。
15.クルアーン30.32:宗派分離者は、人間の意見を高めることで、実際には他の神々を神様と関連させる。


16.ブハーリー・ハディース:これはムハンマドの夜の旅である「ミラージュ」の描写から引用したものである。


17.バヴァ・メツィア59ab:神聖な声に対してラビ・ヨシュアが非難する場面は、神が神聖な法を人間の役割として残しておかれ、神が何を明らかにしたとしても、その法は人間の解釈で始まっているということを意味する。人間の上に誰が、あえて神のみ言が本当に神から来たものかを判断できるのか。エリヤの報告は、エリヤだけ急に天に昇り(列王記下2.11)、彼が神様と共に暮らし、天の信任を受けたという伝説に基づいている。


18.ヨブ記1.6:ここで「神の使いたち」は天使たちを指している。その中にサタンがいる。


19.仏所行讃、破魔品13:仏教のサタンであるマーラが仏陀を誘惑するこの場面は、注目するに値する。悪魔は自らの邪悪な真価を表す前に、まず甘い陶酔剤を使用する誘惑者として現れる。


20.1957 年10 月13 日:第9 章11.「イエス」の部分を参照。


21.ラーマーヤナ、戦闘の巻118 ~ 120:ラーマーの妻シーターはラーヴァナによって拉致され、ラーマーがラーヴァナを撃破し、彼女を救うまで、10年の戦争期聞の間、ラーヴァナの住まいで苦しい生活をしなければならなかった。シーターは捕まっている間、純潔を守ったが、ラーマーは彼女を再び受け入れるのに躊躇した。ラーマーは神の化身である。ところが、なぜ彼は彼女の純潔と貞節を知らず、彼女を快く受け入れなかったのだろうか。本文によれば、彼は群衆たちの疑惑と道徳観念によって動揺したのであり、瞬間的にヴィシュヌとして自らの真正な正体を疑った。それでシーター自身が、火による厳しい試練を通して、自らの純潔を立証するようになる。


22.クルアーン18.65 ~ 82:モーセに対するこのような寓話は、聖書に載っていない。聖書に出てくるモーセは、よく腹を立てるが、実際、彼は忍耐力のある人であった。ここでモーセは、師を求める。伝統によれば、彼にアルヒドルという名を付与される。彼は霊的能力をもっていて、現象の背後にある実在を見ることができる。このように非凡な洞察が足らない私達すべてに、モーセに関する真実は隠されている。また、私達自身の判断にのみ頼ると、間違いを犯すようになる。私達は信仰を通してのみ、真正な実在を洞察することができる。


23.タルムード、ブラホート5a:苦痛を受ける僕に対する話、イザヤ53 章10節の内容に基づき、苦痛に対処する正しい態度を記述している。




第16章


1.クルアーン2.186:神様は人間に「親しく」あるお方である。「親しく」はアッラーの99 の美名のうち、最も美しい名前の中の一つである(第16 章の注釈24 を参照)。


2.法華経25:観世音菩薩を崇拝することで得る公徳に関するものである(第7章10.「協助と救援」参照)。


3.クルアーン11.114:これらは、すべてのムスリムたちが一日に五回行う礼拝規定のサラートである。


4.クルアーン114:これはクルアーンの最後の章である。


5.1968 年1 月1 日:「見えない敵」とはサタンである。サタンは、私達がその存在を悟れない中で、私達の思いと行動の背後に隠れている。


6.モハンダス・K・ガンディー:「ヤング・インディア」1930 年1 月23日。


7.無門関1:禅仏教は論理的展開や反省に頼らず、直感的悟りの経験を強調する。それはただ強烈な瞑想を通して実現され得る。このフレーズは、「犬も仏性をもつのか」という公案を理解するために、何をしなければならないかを説明している。


8.サマイカ・パッタ:これは平信徒の瞑想で反復される様々な朗唱のうちの一つである。普通、一日の日課が終わる夕暮れ時に、結跏趺坐で座って、一切衆生に対する寛容を祈り、自らの心を静め、瞑想に入る。このようにジャイナ教の実践修行は、凡夫たちにも苦行者の生活を味わわせる特徴がある。


9.荘子15:気は万物にあふれている精神的エネルギーである。気功と呼ぶ道教の瞑想と対局の武術は、気を修練し、気の流れに一致し、その力を利用するために肉体的な訓練をする。その結果、内的平穏さと霊的活力を得るようになる。瞑想における気の調節は、呼吸の調節から始める。


10.カタ・ウパニシャッド3.13:ヨガとは、ブラフマンに没入していく過程である。まず感覚的行為や外的な表現(言語)は停止されなければならず、あらゆる注意を心の中に引き付ける。このようにしたあと、心はブッディ(統覚作用)、すなわち個別化されたアートマン(最高我)の最高の精神作用に集中されなければならない。これ(ブッディ)はまた、偉大な自我、あるいは宇宙意識に溶かされなければならず、これによってあらゆる分離された個別意識は、消え去る。最後に、この偉大な自我は、これはまだ自分を意識する、究極的絶対者、すなわちあらゆる有形の区別や差別性を離れ、歓喜に満ちた自我の中に溶かされるようになる。


11.カタ・ウパニシャッド4,1:「内的自我」はエゴ、または人間的な自我ではなく、個我を超越する神性である。瞑想は、私達が虚しく虚妄な世界の現象から遠くに離れることによって、私達の注意をこの神聖な内的自我に集中するものである。これはウパニシャッド哲学の最も根本的な言及である。


12.大学儒教の瞑想法としての静座は、自らを知り、心を空にすることよりは、むしろ心を安定させ、知を受け入れるようにするものである。王陽明学派によれば、外部に対する考察を、自らの心に対する省察から始めなければならないという。


13.阿含経中部i.55 ~ 63、念処経:これは四念処修行と呼ばれる仏教固有の瞑想法を教えている。


14.観無量寿経9 ~ 11:沈む太陽を観察し、四方に存在する阿弥陀仏の浄土を瞑想することは、古代日本の大衆的な実践修行だった。大阪にある四天王寺の西門は浄土に向かう門と信じられ、太陽が正確にその門を通して越えていく春分・秋分には、そこに多くの人々が集ったと伝わる。観無量寿経の正宗分で説かれているこの観は、16 段階を通して続けられ、段階が順番に進むにつれ、浄土のあらゆる神妙な美しさと仏と菩薩、摩訶薩の壮麗さと、またあらゆる衆生たちの様々な属性を観るようになる。


15.1975 年2 月2 日:文脈上、ここの「心」は、より高次元的な心、すなわち人間の霊魂の核心に置かれている神聖な心を言う。この概念は、ヒンドゥー教で言うアートマン(人間内面の神聖な心)とジーヴァ(個人の霊魂)の差と似ている(第3 章3.「神様の聖殿」、6.「良心と持って生まれた善」に引用されたウパニシャッド参照)。


16.1975 年2 月2 日:これは反対側の性質に引かれる化学作用を言うのではなく、共通の目的と運命に向かって人々を一つに導く力を言う。


17.1975 年2 月2 日:これは文鮮明先生の独創的な寄与である。文鮮明先生は修道訓練と家族の生活に対する洞察力を提示される。まさしく瞑想の霊的修行がこの世の生活と連結されていなければならないという教えである。


18.アヴェスター・ヤスナ51.22:この翻訳は、現代のパーシ教徒の一神教と他のザラスシュトラの宗教に対する歴史的概念を描写している。ここで知恵の神、アフラ・マズダーが従属的な神々によって仕えられる。


19.ムスリム・ハディース:この話は「サラート」(一日に五回の義務的祈祷時間)で使われる。ムスリムたちは一日中、このフレーズを暗誦する。サラートの各反復(ラカート)は「神様は最も偉大であられる」という言葉で始まり、「最も気高い主に栄光を」という言葉で終わる。これは「世界の主であられる神様をたたえるべし」という言葉を包含するクルアーンの開端章の反復を包含する。サハダまたは信仰宣言は「神様以外に神はなく、ムハンマドはその預言者だ」と読むものである。


20.カタ・ウパニシャッド1.2.15 ~ 16:ウパニシャッドは神秘な声音「オーム」賛美する。声音「オーム」は神聖なるあらゆる説法のすべてで朗唱される(「起源」、[リグ・ヴェーダ]3.62.10)。


21.マーンドゥーキヤ・ウパニシャッド:「オーム」は「アゥーム」と発音されないとしても、梵語で母音「o」は「a」と「u」が縮約された複母音である。したがって、ウパニシャッドで「オーム」を「a-u-m」の三つのスペルに分けて、各スペルに神秘的な意味を付与できる。最後の非構成要素は、発音できず、だんだん消えていき、しまいには沈黙に溶けていく音の端である。それゆえ、声音「オーム」を発音することは、純粋自我、すなわち外的感覚器官からブラフマンと究極的一つになる方向に向かう存在の漸次的な深層段階を通じた自我の動きに相応する。


22.日蓮:日本の仏教改革家(b.l222)として五単語を題目として確立した。この言葉は「法華経に帰依します」という意味をもつ。


23.マハーバーラタ、アヌササーナ・パルヴァン:それぞれ神聖の一側面として多くの神明を朗唱することは、ヒンドゥー教崇拝の重要な形態である。


24.クルアーン59.22 ~ 24:これらはアッラーの99 の美名のうち、最も美しい名の一部として、すべてクルアーンからもってきた。


25.聖歌2番、聖苑のめぐみ:公的路程を歩み始めながら、草創期に文鮮明先生がこの聖歌を作詞・作曲した。


26.1975 年5 月1 日:「精誠」とは、他人に向かう慈善と奉仕だけでなく、祈祷と敬拝、断食、悔い改めなど、献身的行為も包含する。また、これらは天を愛し、侍る真実な心から湧き上がる行為である。


27.バサヴァンナ『ヴァチャナ』364:「チャコラ」は月光を食べて生きる神秘的な鳥である。この鳥はインドの田園風景と愛の詩の共通的特性をもつ。


28.チャンディダサ:ラーダーとクリシュナの愛は、ヴィシュヌ宗派のヒンドゥー教で、神に向かう信愛の象徴である。この献身的な歌は、クリシュナに対するラーダーの愛を表現した様々な歌のうちの一つであり、神に対する信仰と愛をもって、よく踊りとともに歌われる。この歌でラーダーは、主クリシュナに対する不滅の愛を表現しているが、クリシュナはまばたきする間にまたほ
かの女性のためにラーダーを離れる、手のほどこしようのない恋人である。ヒンドゥー教の伝統に従って、詩人は「ヴァニタ」と呼ばれる自らの書名の一行を付加する。この詩で、チャンディダサは自らを謙遜な崇拝者ラーダーと全的に同一視する。統一主義者は移り気な神に対するラーダーのつらい信愛を、エデンの園で神様に背信した人類を愛しながら接してきた神様の、悠久なる期間の苦しい努力を復帰するための蕩減条件の確立として解釈することもできるだろう。


29.シュリーマッド・バーガヴァタム10.3:クリシュナの人生から引用したこの話の最後の部分は、とても重要な真理を語っている。言い換えれば、愛は全知全能の神でさえ身動きできなくさせる力となることを語っている。


30.雅歌3.1 ~ 4:ヘブライ語で「歌の中の歌」とも呼ばれるこの本は、結婚式などで歌われたような25 曲の愛の歌を集めたものである。世俗的な起源をもっていても、ソロモンの歌は神様に向かう霊魂の愛の経験を詩的にうまく描写したものとして、その霊妙さが高く評価されている。ユダヤ教では、時としてこの歌が天に向かうイスラエルの愛を表現したものとみなされる。キリスト教徒たちも、教会がキリストの新婦だという教理に基づいて、これに呼応して解釈している。


31.ヴィディヤーパティ:ラーダーはヴィシュヌ宗派の詩でクリシュナに対する不滅の愛を表現する。詩人ヴィディヤーパティは自らこの書名の行(ヴァニタ)で、一組の女性の不可分的に一つになることを描写する最初の行、「私の手に鏡のように」を反復する。しかし、最後でラーダーの問いは、彼らの一体化を感得するにはまだまだだということを見せてくれる。彼女はクリシュナをマーダヴァと呼ぶことで、この点を浮き彫りにする。クリシュナの別称のうちの一つであるマーダヴァは、大概、優しい恋人ではなく、戦争の神として彼の力を喚起させる時に使われる。「タンブル」とは、一種の赤い口紅であり、「フール」はアイシャドーである。


32.マルコによる福音書14.3 ~ 9:この女性は、ほかの所ではマグダラのマリアと出ている(第9 章8.「聖書の女性たち」参照)。


33.ラーマーヤナ、アヨーディアーの巻30:(ラーマーヤナ)シーターが彼女のラーマーに対する抑えられない愛を表している。ラーマーは神の権化であるために、シーターの信愛は主の真なる信愛者を表す。


34.1960 年2 月14 日:韓国文化で、「侍る」文化は、子女が年老いた父母の世話をすることから始まった。父母が必要とすることをし、父母を安らかにしてさしあげ、父母の生業を受け継ぎ、父母が果たせなかった夢と目標まで成してさしあげるのが、父母に侍ることである。それゆえ、神様に侍るという言葉は、単純に仕えるという言葉を超えて、天の深い心情を分かち、堕落以後に未完だった創造理想を実現してさしあげることで、神様を慰労してさしあげることをいう。


35.詩編24.3 ~ 6:この詩は、古代イスラエルで巡礼者たちが神殿の門に到達した時に歌った歌である。神殿の門の前で彼らは、自らが神聖なる区域に入る資格があることを公表するなどした。彼らが列挙した資格は、「十戒」の事柄と一致する。


36.天満宮神社の神託:ここで真理として翻訳された単語、誠は、誠実と内的一貫性を含む。


37.八幡大菩薩、三社託宣:これは主要三神社の神託のうちの一つであり、掛け軸に書かれて、日本め全域の家庭に掛けられているのを見ることができる。


38.イスラエル・バアル・シェム・トーヴ:ハシディズムの創始者の名前であり、「善なる名の主人」を意味する別称でもある。このフレーズは彼の最後の約束から抜粋した内容である。


39.ヨハネの黙示録3.16:ラオディキアの富裕な教会に送られたこの手紙からは、なまぬるい教会は不快なだけだと非難している。これは意図の純粋さと真実さに反対する綱領である。
40.ナワウィー『40のハディース』1:ここでの「聖遷」とは、ムハンマドと彼の信実な教徒仲間たちがマッカからメディナにヒジュラ(亡命)したことを意味する。しかし、この伝統の意味は一般的生活に適用され得る。


41.シャアラーニー。長老「アブドゥル・ワッハーブ・イブン・アフマド・アル・シャアラーニー」は16 世紀エジプトのスーフィー派の作家であり、法学者兼歴史家だった。


42.ラービア:ラービア・アダウィーヤは、イスラームの最も立派な女性聖人だった。彼女は8 世紀にイラクで暮らした。


43.1999 年1 月5 日:「精誠」の意味は注釈26 を参照すること。


44.クルアーン22.36 ~ 37:動物を供え物として捧げることは、マッカ聖地巡礼であるハジ(haji)の儀式である。祭物儀式の内的目的は、異教徒たちが信じるように、肉に対する神様の飢えを満足させるものではなく、参拝者たちが神様を賛美し、栄光を捧げるためである。


45.ハガイ書1.3 ~ 8:これは清教徒精神である。彼らはアメリカに到着したあと、自分たちの家よりも教会と学校を先に建てた。


46.レビ記27.30:収入の10 分の1を捧げる十分の一献金がここから始まった。


47.論語3.13:居間は気高く、台所は卑しいが、祭祀をする時、祭祀の主席は居間ではなく、台所にあることをほのめかし、王孫賈が孔子に語った言葉。居間の神は君主を、台所の神は王孫賈自身を比喩した言葉であり、孔子が魏の国で官職につく意志があるなら、君主よりは王孫賈によく見られるようにと、祭礼の礼をほのめかして語った言葉。


48.出エジプト記31.12 ~ 17:ユダヤ人たちは安息日を土曜日に守ってきたが、その日は厳粛な日であり、休息し、研究し、礼拝を捧げる日であった。大体のキリスト教徒は主の日である日曜日を安息日として守り、休息し、礼拝を捧げる。それはイエス様が、死んだ者たちを目覚めさせた日が日曜日であることを記念するためである。この日は、キリスト教徒たちが共に集い、パンを食べながらイエスの復活を記念する日である。


49.ゾーハル1.48b:ユダヤ人の家庭では、女性が金曜日の夜に安息日を始める意味で、安息日のろうそくをともす。また、女性が安息日の日の家庭儀礼で中心的役割を果たす。


50.リグ・ヴェーダ10.9.8:ガンジス川で沐浴することは、罪悪を洗い、神の恩寵を受けるのに効果がある。


51.1991 年3 月1 日:聖水はカップルたちが祝福結婚式を挙げる時、彼らを洗礼しながら振りまく水である。


52.申命記16.16 ~ 17:古代イスラエルで最も大きな年三回の巡礼祝祭だった。この時、多くの群衆がエルサレムに上がってきて、神殿を拝した。これはまた、過越祭、七週祭、仮庵祭としても知られている。


53.エレミヤ書50.4 ~ 5:ユダヤ人たちがいつかエルサレムの「嘆きの壁」で祈祷を捧げるだろうという預言である。


54.クルアーン22.26 ~ 29:このフレーズは、マッカ巡礼のハジ(haji)を制定したあとの、巡礼の式の一部を描写している。マッカ聖地巡礼の起源、また黒石の聖体として安置されたカーバ(Kaaba)は、アブラハムまでさかのぼる。巡礼は、カーバに彼らの偶像を設置した異教徒、アラブ人によって堕落したが、ただムハンマドと一緒にすることで、彼らの唯一神、神様を賛美するための本来の目的に復帰された。一生の間で、マッカの聖地巡礼はすべてのムスリムの宗教的熱望である。


55.古事記39.2 ~ 3:神道の三つの聖なる象徴物は、日本の天皇の所有である。しかし特に鑑が重要であり、これと同じに作られた複製品が、神道の祭壇の中央に安置される。これは太陽の象徴であるだけでなく、内面の女神を表す。自我の反映は、すなわち女神の反映である。


56.シヴァ・プラーナ、ヴィディエーシヴァラ・サンヒター:「プージャ」は様々な儀礼に従って執り行われる聖像崇拝である。それは大衆的ヒンドゥー教で最も重要な崇拝様式だといえる。このフレーズは、「リンガム」と表現されたシヴァ崇拝に対する長い論議の中の一部を抜粋したものである。リンガムは男根を形状化したものであり、ヨニは女陰を表す。それにもかかわらず、これらの象徴は性的放縦に対する何らの含蓄もない。それらは女性原理と男性原理の宇宙的統一を象徴する。大部分のヒンドゥー教崇拝に使われる女神像たちや男神像たちと異なり、リンガムとヨニは抽象的であり、偶像的な性格をもつ。


57.申命記14.3 ~ 21:これらの戒めはどんな食べ物が浄潔な食べ物なのかを定めるユダヤ教の飲食規範の根幹になった。「子山羊をその母の乳で煮てはならない」という法は、乳と肉を同じ食卓に準備しないこと、同じ皿に入れないこと、あるいは同じ料理台で調理しないことなどの法の基礎になった。


58.タンフーマ、レビ記、シュミニ15b:ラビたちは、聖書に出てくる儀礼に関する戒めが、様々に非合理的だという事実を知った。これによって、知識人階層の異教徒たちに嘲弄されただけでなく、多くのユダヤ人たちもこれを不便に思った。この本文は食べ物関連の儀礼の機能的な意味を明らかにしてくれている。この戒めは、それ自体に本質的意味があるのではなく、神への精誠を証し、自らを訓練し、浄化させ、天が正当化できる条件を立てるための一つの手段として理解される。


59.クルアーン2.173:ハラル律法であるムスリムの飲食物の禁忌は、豚肉の摂取を禁止するユダヤ教の律法と似ている。しかし、クルアーンはハラル律法に対して絶対的ではなく、ムスリムの律法に従って、畜殺した肉を使用できない例外的な状況を許容している。


60.常陸風土記:常陸の国の風土記は、女帝である元明天皇(西暦715 年ごろ)の命により、地方の伝統と伝説を記録するために、最初に準備された地名辞典であった。


61.六祖壇経6:天界のある地位を求めるために祭祀や供え物を捧げるということは、利己心の発露だと言える。天の位置を得ようという欲求でした供え物は、利己心で汚される。したがって、それらは依然として業報(カルマ)をつくり、永遠の解放をもたらすことはできない。その効力は瞬間的である。解放は、ただ心を浄化する内面的な霊的修練を通してのみ可能である。


62.バガヴァッド・ギーター2.42 ~ 44:ヒンドゥー教の経典のこれらのフレーズは、前に紹介された仏教経典のフレーズととても類似した雰囲気をもつ。


63.阿含経増支部iv.41 ~ 45:これと同一の脈絡で、ゾロアスター教やジャイナ教でも、ヴェーダのアーリアンたちが遂行する動物の犠牲祭儀に対して反対の立場を見せる(第4 章の注釈12 参照)。


64.エレミヤ書7.21 ~ 24:天に向かうイスラエルの誓約の核心は、必ず犠牲が伴わなければならないというものではなかった。それは神様の戒めに従うというものだった。このように急進的な発言は、神殿祭祀が本来、モーセの律法の一部だったという事実を否定している。


65.タルムード、ムナホート110a:ユダヤ教はトーラ研究の結実を、神殿祭物の結実と同等な程度として神聖に考える。ところが、神殿祭物は70 年、神殿崩壊後、不可能になった。


66.シャタパタ・ブラーフマナ11.5.6.1 ~ 3:このフレーズはヒンドゥー教における犠牲祭儀の浄化を示している。ブラフマンは天界の神々よりも上位にいるので、ブラフマンに対する祭祀、すなわち真理を学び、実践することは、神々に火や動物を祭祀として捧げることより、宗教でより本質的なものとみなされる。このように日常生活で動物たちにえさを与えることや布施の行をすることなどもまた、神聖な祭祀とみなされている。ユダヤ教の崇拝から消えたように、動物犠牲の祭物は、ヒンドゥー教の崇拝からもずっと以前に消えた。


67.『原理講論』、モーセとイエスを中心とする復帰摂理2.1.1.2:モーセは動物献祭を通してではなく、祈祷と40 日断食を通して信仰基台を造成することで、シナイ山で神様のみ言を受け、神様の栄光を表した。旧約での祭祀の方式は、モーセの段階で立てられなかったイスラエル民族たちのために必要なものだった(エレミヤ書7.21 ~ 24 参照)。神殿が建てられた当時にも存在していた祭祀の、このような二次的性格があったので、神殿破壊ののちにも、祭祀がユダヤ教で定着するようになった。




第17章


1.クルアーン4.64 ~ 69:ムハンマドの権能にやむなく服従した多くのメディナ市民に関するものである。最初、彼らは彼の法的審判を受け入れ、結局、メディナを守護するために戦えという彼の命令に服従するようになった。神様のみ旨に対する服従は、信実な信者の基準である。


2.マタイによる福音書16.24 ~ 25:イエス様の教えの核心であるこのみ言は、キリスト教徒の聖徒の道理の根幹である。すべての聖徒たちはイエス様が人類を救うために十字架の道を行かれたように、他人のために困難と苦難を耐え、自分たちの「十字架」を負わなければならない。


3.戦争:第22 章5.「戦争の無用性」を参照すること。


4.法華経13:日本で法華経崇拝を主導した日蓮が、彼に反対する仏教学派たちから排斥され、迫害された時、彼に霊感と強さを覚醒させたという逸話がある。


5.ムスリム・ハディース:このハディースは、神様に向かう道で、闘争としてのジハードを勧めている。神様のためのこのような闘争の意味は、他の人を殺すことにあるのではなく、真の宗教を守護するために命を捧げるものである。


6.タルムード、ブラホート61b:神様の名を偉大にさせるものは、ユダヤ人の信仰告白(シェマ)で殉教を経験することである(「第1 章神様」参照)。


7.マーティン・ルーサー・キング・ジュニア:「生命の脅威を感知する時」アウグスティヌス、フロリダ、1964 年6 月5 日




第18章


1.メジリッチのドーブ・ベーア:ハシディズムのラビは、神様の流浪という概念を提示する。これはユダヤ人たちのバビロン捕囚の経験から出てきたものである。それゆえユダヤ人たちは、彼らの流浪と大変な貧しさの中で天に頼った。


2.マタイによる福音書18.1 ~ 3:キリスト教徒たちは、この本文を人間の本性の善良さとして解釈しない。それより、福音を簡単に受け入れようとすれば、子供のように純粋で、単純な態度をもたなければならないという例として「子供」に言及している。


3.道徳経28:「非区別」とは、飾り気や人工を加味しない原色的で単純な状態をいう。それはまた、本然の純粋な性稟をも意味する。


4.マタイによる福音書5.38:イエス様の時代に、ユダヤの地はローマの支配にあった。したがって、ローマの兵士たちは、彼らが道端で出会うユダヤ人たちに、マントと物資を1マイル程度代わりに運搬しろと命令できた。


5.ローマの信徒への手紙12.19 ~ 20:クルアーン5.27 ~ 32 で、アベルはカインが自分を殺そうとすることを知った時、神様に対する恐れと聖なる懲らしめのために、対抗することを拒絶した。アベルはカインが自分を殺すがゆえに、カインが結局、敗北者になるだろうということを知っていた。
6.1976 年10 月4 日:文鮮明先生は、カイン・アベル関係をある評価の基準にせず、分かれた兄弟関係を復帰する過程として教える。天の祝福を受けた宗教者たちがアベルの立場に立ち、天を知らず、宗教に対して批判する俗世の人々がカインの立場にある。しかしカイン的な人たちは、宗教者たちに不足している多くの能力をもってもいる。宗教者たちの責任は、天を中心として繁栄する社会を建設できるよう、この俗世の兄弟たちを包容し、一つにすることである。それができないとき、アベルはむしろカインの反宗教的態度の犠牲者に
なりやすい。


7.マタイによる福音書3.2:天国が近づいたという言葉は、ただメシヤが来る時が近づいたという終未論的観点だけを意味するのではない。天国はそれを自ら準備する者に近いのである。イエスの日がこの場合に該当する。天国が「近くに」来たことで、それぞれの人は天国生活のために自ら準備すべき時を言う。


8.易経、周易繋辞上伝1.3.4:「重んずる」とは、善と悪に対する自らの良心を言う。良心教育は、悔い改めの必須的前提条件である。


9.イザヤ書64.6:もともとこの段落は、イスラエル民族の一部が不平を言った内容を記録したものである。神様に忠誠を誓ったにもかかわらず、その社会から隔離されたので、彼らには不満が生じた。一方、これらの不満は、世俗的名誉のはかなさや、偉大な神様の存在に対する浅い知識としてみなされもした。


10.親鸞:親鸞(1173 ~ 1262)は自らの心をありのままに見つめ、その中に悪の勢力があることを知った。禅仏教の教えとは異なり、彼は最も決意の固い聖者でさえも、自らの心に頼って解脱を得ることはできないということを知った。むしろ救いは他者の力、すなわち一切衆生を救済しようという阿弥陀仏の本願の力を通して可能である。彼は信仰による救いを説く浄土仏教の最も熱烈な主張者になった。


11.ヨナ書3.3 ~ 10:犯した罪を悔い改める贖罪の日、ユダヤ人たちは懺悔の教えとして、ヨナの話を暗誦する。しかし、この話にはアイロニーが隠れている。なぜなら、イスラエルの最大の怨讐都市であるニネベの人々が彼のメッセージに耳を傾け、悔いたのに対して、ヨナ自身は喜ばなかったからである。ニネベの人々がヨナを否定し、神様がニネベの島を破滅させることを、ヨナは一層願っていた。それで、神様はヨナを呼ばれて、独善に対する教訓を見せてくださった。


12.ミシュナ、アヴォート2.5:ヒレルが残した格言である。


13.ヨハネによる福音書8.3 ~ 11:当時の伝統に従い、イエス様は告訴人の罪を根拠として記録なさった。


14.無門関46:これは肉身と感覚的経験に依存したまま、その限界を超えようとする恐れに震えている人間の姿を指摘している。


15.龍樹『宝行王正論』149 ~ 157:ある日の夕方、ゴータマ仏陀の父親、浄飯王が、息子が出家できないようにするために、女官を使って彼を誘惑させた時、仏陀は肉身の放縦に関する悟りを得た。この経典は、肉身に関する瞑想から抜粋したもので、女性を侮辱しようとするものではない。


16.アッカーマハーデーヴィー、ヴァチャナ33:アッカーマハーデーヴィーは、12 世紀のヴィシュヌ宗派の聖者である。ある日、ある王が彼女をもてあそぼうとすると、彼女は服をすべて脱ぎ捨て、道端にひっくり返った。高潔さを守ろうとするこのような行為に、王はとても驚き、これにより王は自らの愚かな肉欲を後悔するようになったと伝えられている。アッカーマハーデーヴィーは裸行者としてただ長い髪の毛を垂らし、世の中を遊覧し、世の中の男性たちのあらゆる誘惑を追い払い、純潔とシヴァ神に対する信愛のモデルを教えた。


17.ミシュナ、アヴォート4.1 :『プア・リチャードの暦』でベンジャミン・フランクリンが引用する。


18.ソクラテス:ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』Ⅱ.32。


19.2001 年1 月12 日:このみ言は、すべての統一教会の食口たちが聖火式をするために集まった時に下さったみ言である。聖火式は自分の所有を象徴する貴い物を焼く儀式である。


20.クルアーン66.11:イエス様の母マリア、そしてムハンマドの最初の夫人ハディージャとともに、パロの妻アーシャはイスラームの伝統から偉大な女性のうちの一人である。彼女は幼いモーセの命を救い、モーセが宮中で成長できるよう配慮したと伝えられる。彼女の勝利は、邪悪なパロ宮中の腐敗と抑圧の生活の中でも篤実に伝承されている。聖書にはモーセを救った女性がパロの娘だと説明されている。


21.道徳経52:世の中の本質は、究極的実在、道の認識に関する優越性において理解されなければならない。そうすれば、世の中の事物が道の秩序に従って自然の変化を感知できるようになる。これは動きのない無為の概念につながる。無為は道が作用し、人間の欲望に従って事が処理されないようにする。


22.1969 年10 月4 日:アダムとエバは、天使長ルー-シェルと非原理的関係を通して堕落した。それゆえ、彼らの子女もやはり、天使長の血統なのである。アダムとエバは、エデンの園から追放されたあと、家庭を設けた。これは、彼らの結婚が、天の祝福のもとで成されたのではないということを意味する(第6章1.「人間の堕落」参照)。


23.1971 年11 月7 日:宗教は、堕落した天使長の血統である堕落人間たちのためのものであり、人間たちは「天使長圏」に属している。慈善と謙遜、奉仕と禁欲の宗教的実践を通して、宗教者たちは神様と共に天国に暮らせる善の天使長の基準まで引き揚げられる。しかし、ガブリエル、ミカエルなど、善の天使長たちもまだカップルの相手がいない。


24.バガヴァッド・ギーター17.5 ~6:極端な苦行者たちは、時として残忍無道でもある。彼らは他の人々にも自らに要求される同一の厳格さが適用されなければならないと主張する。これは苦行者たちが祭司長を復帰するための路程にあるという事実から原理的に理解できる。


25.マハーバーラタ、アーディ・パルヴァン(序章の巻) 1.220:禁欲主義と子孫の繁殖は両立できないものでありながらも、二つとも必要な善であると見るのは、ヒンドゥー教の典型的思考方式である。責務の種類に関することは第15 章5.「感謝と恩恵」サンティパーバ・ブラーフマナ1.7.2.1 ~ 5 参照。


26.クルアーン57.27:ムスリムの注釈家たちは、クルアーンが、福音書が課する禁欲主義と謙遜を認定すると注釈した(クルアーン5.82 参照)。だが修道院生活の内密な形式は否定された。彼らは信者たちをこの世の外に連れて行き、他の人と共に混ざって働く間、奉仕と模範を通して真理を一層格上げしなければならないと言った。さらにはムハンマドの時代に、多くのキリスト教の修道士たちと司祭たちは、自分たちの信仰に悪く反映された辛辣な教理論争、相互不和、スキャンダルなどにとらわれていた。




第19章


1.中庸20.8:これは人間の人生を定義する儒教の五つの関係である。この類型の関係の中から適切な道義を維持することが慈悲の方法である。五段階のうち三つは、家庭の関係に対するものである。注釈3 にさらに詳細に説明されている。


2.アタルヴァ・ヴェーダ3.30:この賛歌はヒンドゥー教の家庭理想を表す。


3.1969 年11 月10 日:家庭から始まる孝の道は、自然に国家において忠臣、世界において聖人、そして天宙においで聖子に到達するところまで拡大する(祈願文「家庭盟誓2 節」参照)。


4.サムエル記下1.26:サウルとヨナタンが戦争で死んだあと、彼らをたたえる哀悼の詩で、ダビデがこの表現を使った。彼らの友情はとても厚く、ヨナタンはダビデの命の恩人以上の存在だった。


5.ヌペ族の格言:良い友は互いに感触を分かち合わなければならない。


6.アカン族の格言:相互の善行は友情の土台である。


7.論語16.4:「体裁ぶる」とは、見かけの立派さだけを身につける友を言う。


8.雅歌1.2 ~ 4:キリスト教徒とユダヤ教徒は、このフレーズを信仰者たちが配偶者に歌う真実な愛の歌としてだけでなく、神様への純粋な愛の称賛として理解する。


9.リグ・ヴェーダ10.85.35 ~ 47:伝統的ヒンドゥー儀式の結婚の誓約と祝福である。新婦であるスールヤは太陽神サヴィトリの娘である。彼女はすべての新婦の典型である。「11 番目の夫」とは、妻が夫を老いるまで子供のように世話をするという意味である。「女王」は家庭の首長としての妻の地位を表す。


10.詩経、周南1:この頌詩は、新婦を待つとともに現れる不安感に対する描写で始まり、結婚式で家族と友たちの喜びで終わる。多くの人々が、この頌詩を、新婦が謙遜と恥じらう態度を見せることで新婦の美徳を説明するものと理解する。雌雄一組のミサゴが遠くから互いに鳴き合う声は、恋人の間の距離を暗示する。贈り物として集めてくれた柔らかい水草は結合を暗示する。孔子は語録に行き過ぎない慇懃な喜びのモデルとして、この頌詩を引用した。


11.1971 年2 月18 日:結婚に関するみ言のうちの一部は、特に見合いで出会い、結婚した夫婦たちに語られたものが多い。見合い結婚は相手に対して引かれるロマンチックなところから始まらない場合が大部分である。反面、ロマン的に始まった結婚もやはり互いに良くない姿を見るとともに、のちに感情が冷める場合が多い。
12.創世記2.18 ~ 24:結婚の神聖さを付与してくれる。イエス様は、離婚が神様に受け入れられないと主張され、このみ言を引用された(マルコによる福音書10.2 ~ 12 参照)。


13.ゾーハル1.50a:「母」とは、聖霊として神様の前で暮らしている存在であり、シェヒーナーをいう。


14.ゾーハル3.104b:「かたち」とは、現実を超越した体である。妊娠する時に天から受けた神聖な霊魂を包含していて、子供の体の特徴にこの形を刻んでおく。多くのカバリストによれば、この「かたち」が神聖なのか、卑しいの
かの可否は、夫婦がユダヤ人なのかの可否にかかっているという。言い換えれば、夫婦の先祖によって変わるということである。


15.アーディ・グラント、ヴァール・スーヒー:これらの詩は、シーク教の結婚式の一部である。


16.クトゥッボート:ここの六つの祝祷は、ユダヤ教の結婚式で暗誦される。「つくる」という言葉は、家庭をつくるという言葉以外にも、アダムのあばら骨からエバを造ったという創造を意味する。神様を人類の創造主として言及することで、その結婚がエデンの園でアダムとエバに下さった祝福で始まり、人類の永続を願われた神様の設計だという意味をもつようになる。最後の祝祷は、
新しいカップルが感じる喜びと、終わりの日にエルサレムに神様の王国が立てられた時に享受する喜びを連関させて表現したものである。婚礼式の「天蓋」はすべてのユダヤの結婚式で使われる。


17.教義と聖約131.1 ~ 3、132.19:聖職者構成員たちとして純粋な信仰の末日聖徒イエス・キリスト教会は、永遠で分離できない絆を形成する聖殿結婚式に参与できる。


18.1994 年2 月1 日:言い換えれば、私達の心が完全にまっすぐに立って、神様の愛と連結されるだろうという意味である。私達の体は、偏見と差別、好感と敵対感を超えて、あらゆる人と自由に関係を結ぶようになるだろう。
19.アブー・ダーウード・ハディース:離婚に対するイスラームの律法は、クルアーン2.226 ~ 232 から見いだすことができる。ここには離婚の決定を再考できるよう、四ヵ月の熟考期間をもつよう規定されている。


20.クルアーン58.1 ~ 2:このフレーズは、アウス・イブン・サミトの妻であるカウラ・ビント・タラバが預言者に、夫が「あなたは私にとって母の背中のようだ」と言い、アラブ伝統の慣習であるズィハールに従い、自らと離婚したという不平を言ったあと、言及された。この慣習は、夫を夫婦間の義務と子女養育から自由にするが、女性が再婚のために彼を離れるのは禁じられているので、女性の地位を転落させる。最初、預言者は離婚に反対したが、彼女の権利を認めるこの啓示を受け入れる。このフレーズ自体は、離婚に反対しない。
しかし、その次のフレーズは、不公平な状況から誤りを正そうとする女性の権利を認めている。


21.マヌ法典9.95、101 :離婚は許容されるが、人格者は離婚をしない。[マヌ法典]の他のフレーズ(9.76 ~ 81)によれば、男性は姦通、放蕩と浪費、意図的堕胎、アルコール中毒、邪悪な言行、男の子を生めない場合に自分の妻と離婚できる。女性は、夫が宗教的禁欲修行者になる時、性交不能である時、自らのカーストから追放される時、また長い間、不在である時に離婚できる。ここには1 年から8 年間の待機期間が一般的に要求される。


22.詩経、45 南風:中国では常に、寡婦が再婚を拒否することを大きな徳目と考えてきた。この詩は、中国の魏国の共伯王子の未亡人である共姜が作詞したもので、彼女の母親が再婚を強要した時、これを拒否した時に作った詩である。ここでいう「前髪」は、髪の毛を眉毛の上まで垂らした長髪である。昔、中国では父母に仕える人々は、額の両側に髪の毛を垂らし、父母に仕える格好をした。


23.クルアーン4.129:クルアーンは、一人の男性が最大四人の妻を抱えることを許諾している。しかしこれは、戦争をする時だけ、特別に許諾されている。この時、多くの未亡人と孤児たちが保護を必要としたからである(クルアーン4.3)。このフレーズは一夫一婦制が唯一の平等な結合だと宣言している。


24.ヨルバ族の格言:子供たちは男性の保護対象であり、彼の繁栄の尺度である。とりわけ男性は彼の子女たちの性格によって評価を受けられる。


25.1971 年5 月7 日:ここの「私の母」は韓鶴子総裁を指している。


26.ヌペ族の格言:言い換えれば、性格が柔軟な幼年期に子供を訓育しなければならない。大人になれば、彼の性格は既に決定されている。


27.1989 年1 月1 日:アジア国家におけるふさわしい嫁の像は、義理の両親に仕え、いかなる非難も不平なしに耐える女性である。しかし、実際、多くの嫁たちがその荷物を相当し、手に余らせている。


第20章

1.1969 年5 月11 日:韓国を含み、学生運動が全世界を襲った時、文鮮明先生が語られたみ言である。


2.エレノア・ルーズベルト:アメリカの元大統領、フランクン・デラノ・ルーズベルトの妻。


3.1959 年2 月15 日:このみ言は文鮮明先生のみ言であり、韓国動乱で韓国の地が荒廃化した数年のちに語られたものである。


4.2000 年1 月22 日:神様に「侍る」という言葉は、神様の苦痛を理解し、人間の罪と悲劇を軽減させることによって、どこででも神様を慰労してさしあげることを意味する。全人類を救うための終わりの日に、神様の摂理を理解し、そこに参与するという意味でもある。


5.ジョン、フィッツジェラルド・ケネディ:1961 年1 月20 日、アメリカ大統領就任の辞。
6.マルクス・キケロ:第2 のフィリピン演説。


7.パトリック・ヘンリー:アメリカの愛国者。1775 年、英国からの独立を主張した演説。


8.ネイサン・ヘイル:アメリカの愛国者であり、1776 年9 月22 日にスパイ容疑で絞首刑に処される際に、最後にこの話をした。


9.丹心歌:14 世紀高麗末の定型詩であり、王に対する忠誠を約束する内容である。統一教会が神様への忠誠を約束する聖歌として採択した。


10.ウィンストン・チャーチル元英国総理。1940 年6 月18 日、英国が戦争を始めると同時に、下院議院で行った演説。


11.1988 年4 月17 日:文鮮明先生は故郷である北朝鮮から避難してこられたあと40 年以上、再び北朝鮮の地を踏む機会をもつために努力された。そして、ついに1991 年、それが実現された。


12.ミシュナ、アヴォート3.2:ユダヤ人たちを支配し、過酷に抑圧したローマ帝国をどう見つめるかに対する論難の中で、常套的だが慎重に選択された用語である。ローマの支配下で迫害されたユダヤ人たちは反乱を企てたが、実際、反乱の結果は惨憺たるものだった。ユダヤ戦争(西暦68 ~ 70 年)は、神殿の破壊で終わり、そののちにあったバル・コクバの乱(西暦132 ~ 134)は、残忍に鎮圧された。しかし、ミシュナに記録されたラビの記録を見れば、ラビはローマの統治撤回を要求していた。


13.1991 年1 月1 日:「三大主体思想」とは、指導者の三つの責任を言う。すなわち、真の父母となり、真の師となり、真の主人とならなければならない責任である。この三つの公的責任を完遂することで、私達は神様の本性に似るようになるのである(第21 章3.「典型的指導力」参照)。


14.スユーティー・ハディース:『アル・デュール・アル・マンスール』523.25。.


15.2000 年8 月14 日:絶対的主体の前に、絶対的相対が必要である。


16.レビ記25.10:アメリカの自由の鐘に刻まれた、よく知られたこの語句は、もともとヨベルの年を公表したものである。ヨベルの年は古代イスラエルで50 年ごとに回ってくる年である。ヨベルの年にはすべての借金が帳消しになり、すべてのヘブライの奴隷たちが解放され、すべての借用証書も無効になり、すべての財産は本来の主人のもどに返る。詳細な内容は「経済的正義」の部分を参考にすること。


17.イザヤ書61.1 ~ 2:イエス様はガリラヤで公生涯を始められる時、この言葉を引用された。この言葉は、イエス様の使命が天宙的な自由の状態である神様の王国の建設を示唆している。


18.オーレン・ラオンス酋長:1992 年12 月10 日、原住民の年に開かれた国連での演説。


19.クラレンス・ダロウ:アメリカの弁護士であり、市民の自由擁護者。1920年、ピープルV.ロイド、法廷での彼ん0訴訟事件摘要書。


20.おふでさき13.43 ~ 45:(高い山に住む)金持ちも(渓谷に住む)貧者も、人間はみな一点、すなわち「一つの根源」から始まった。言い換えれば、人間の共通の先祖は天理、すなわち世界の中心に建てられた神殿に安置された親神によってつくられた。


21.法句経396:仏陀は、アーリヤ人やバラモンのようなヒンドゥー教の氏族的、カースト的な用語に対して、新しく霊的な定義を下した。アーリヤ人は白い皮膚をもった氏族ではなく、八正道に従う人々である。バラモンは特権をもったカーストではなく、阿羅漢の階位を得た人である。


22.ミシュナ、アヴォート9.7:預言者アモスはイスラエルが選民意識で傲慢にならないよう警告した。神様はイスラエルの最大の怨讐であるパレスチナ人たちとシリヤ人たちまで救おうとなされるお方である。
23.リグ・ヴェーダ8.51.9:上層カーストを形成するアーリヤ人たちが白い皮膚の色であるのに比較して、アウト・カーストたちは皮膚の色が黒い人たちである。


24.W.E.B.デュボイス:黒人の霊魂(シカゴ、1903)


25.プブリウス・シルス:道徳的格言を作ったローマの奴隷。


26.ムハンマド・アフマド・アル・マウラ:ウマル・イブン・ハッターブは、過去、新しい分派を弾圧していたのが、早期にイスラームに改宗した。ムハンマドの近い追従者になり、彼が死亡したあと、二代目のカリフとなった。これは、エジプト作家であり、学者である。ムハンマド・アフマド・チャド・マウラ(1883 ~ 1994)が再び語った古い伝統である。


27.エイブラハム・リンカーン:1854 年、イリノイ州ピオリアで演説したもの。
28.神聖なパイプに関するスー族の伝承:ワカン・タンカは高貴な神、あるいは偉大なる精霊を称するラコタ族の名前である。


29.維摩経7:この話の核心は、この世に男女の平等がなければならないということではなく、むしろ仏教は性的差別とは、単に一時的でむなしい現象的次元に属すると教える。事実、あらゆる現象を超えて、性は超越する。これと似た話が、[法華経]第12 品に出てくる。竜王の娘が仏性を得るために、男性に変身するが、これを通して、女性とは、法を受けても駄目な「穢れた器」と、みなしてはならないということを見せてくれている。


30.創世記3.12 ~ 16:人間の堕落の結果、エバは二人の男性の支配下に置かれるようになった。最初の男性は天使長(蛇)であり、二番目は彼女の夫、アダムである。


31.ミラノのアンブロシウス:彼は堕落の話と関連し、正反対の教訓を導き出す。エバがアダムを誘惑したその時から、女性たちは危険な誘惑の存在になってきた。それゆえ男性たちは、女性が自分たちを支配するように受け入れてはならない。


32.コリントの信徒への手紙一11.3 ~ 11:「天使たちのために」、一般的にパウロは天使を、敬拝を捧げる存在であり、聖職者を守ってくれる存在として認識した。けれども、ここで私達は、女性が天使の支配下に置かれるようになったという事実から、堕落との連関性を推論できる。


33.教皇ヨハネ・パウロ2世:司教会議に提出、ローマ、1980 年10 月25日。


34.コリントの信徒への手紙一11.11 ~ 12:女性が男性のあばら骨から創造されたという、より具体的な言及は、第19 章6.「結婚生活の倫理」を参照すること。


35.1982 年1 月1 日:文鮮明先生夫妻(真の父母)はこの教えを直接実践される。文鮮明先生の数回の世界巡回についていかれた韓鶴子女史であるため、1990 年代から文鮮明先生は、韓鶴子女史に単身、一人で世界巡回を始めるよう督励された。韓鶴子女史が巡回をされると、文鮮明先生は衛星中継を通して同じ時間を共有された。


36.クルアーン4.135:イスラームは、物事の道理、または家族や親族に対する貞節を、正道の価値ほど高く評価しない。


37.エドマンド・バーク:イギリスの政治家、彼はアメリカ植民地の独立のための努力を支援し、英国にその独立を受容するよう督励した。しかし、自由の擁護者はフランス革命の越権と全体主義的傾向を予見できたので、これに反対する文章を書いた。今は保守主義と呼ばれる18 世紀自由主義の先祖とみなされる彼は、有名な警句をたくさん残した。


38.アレクサンドル・ソルジェニーツィン:ロシアの作家、ソビエト連邦時代、自らの作品を通して、グラーク(Gulag)として知られた共産主義強制労働収容所の惨状を暴露することで、ロシアの良心を表した。
39.論語14.36:このフレーズと次のフレーズは、それが正義を支持しないなら、いつも怨讐愛は親切を施すことを意味するという点を論議している。ここで孔子は、道徳経63(第13 章5.「怨讐を愛しなさい」を参照)で引用したことわざに対して論議している。しかし、孔子はまた、語録4.3 ~ 4(第13 章4.「普遍的愛」)で普遍的慈善の理想をたたえている。人が悪人を好み、彼を助けようとしても、時として、彼に親切を施すことは助けにならないこともある。特に、その「親切」がより悪を行わせるようあおる場合にそうだといえる。より強硬な方法が適切であることもあり得る。しかし、この方法はまた、真実な愛が動機になるか、過ちを犯した人の安寧のためのものでなければならない。


40.フレデリック・ダグラス:最初のアフリカ系アメリカ人奴隷廃止論者。1830 年代から1850 年代にアメリカとヨーロッパで行われた奴隷制度の反対講演は、邪悪な制度に抵抗するのに一助となる世論を形成させた。


41.ウィリアム・ブース:ニューヨークの救世軍事務室の入り口に刻まれていて、ブースは救世軍の創立者である。


42.クルアーン5.38:大部分のイスラーム法律学校は、これ以上この処罰を適用せず、大きな窃盗罪の最も深刻な場合と制限している。


43.タルムード、デレク・エレツ・ズタ2.5:甚だしきに至っては、あなたの所有物も真正な「あなたのもの」ではない。なぜなら、あらゆるものは主に属し、私達はそれらを信仰の徴表として受けたものだからである。


44.申命記15.1 ~ 5:聖書において、安息年ごとに貧しい者たちに定期的に負債を帳消しにしながら、彼らに猶予期間を与えた。


45.レビ記25.10 ~ 43:古代イスラエルで、50 年ごとにヨベルの年が回ってきた。その年にあらゆる借金が帳消しになり、ヘブライの奴隷たちは解放され、借用書も無効化され、すべての財産は本来の主人に返った。このような慣習は、地が神様に属していて、またその地は永遠にイスラエルの家族と親族たちに与えられるものだという考え、すなわち地は売り買いする私的財産ではないという考えに基づいたものだった。これは貧しい農夫たちが富裕な債権者ゆえに貧しさにあえぐのを防いでくれた。


46.孟子Ⅲ.A.3:地を9区画に分ければ、漢字で「井戸」を意味する井の形になる。これは「井田法」として知られている。一年の固定収穫量に基づいた租税法は、農夫が農作業を終えた年に税金を出すのに困難なので、固定金額として定められる租税法より、人間的だという事実に注目する。ある凶作によって、銀行に借金をしている時、現代、農民たちは固定金額租税法により破産する結果を引き起こす。


47.フランシス・ベーコン:『随筆集』、市民と道徳41。この陳述は、労働者を利用して銀行を太らせる傾向がある高利貸しに関する対話から作られた。
48.クルアーン9.60:ムスリムの収入の一定量、義務的な喜捨(ザカート)をもらわなければならない人を列挙している。ここには債務者、収監者、「心の慰安を受けた者」をはじめとして、これを施行する人々を支援することも包含される。彼らは生計の手段を失い、経済的損失で苦痛を受けて改宗したが、以前の団体は改宗に反対した(第13 章10.「慈善」、クルアーン2.267 ~ 273を参照)。


49.2001 年1 月13 日:「株主の労働組合をつくるのです」という文章から、株主たちが会社に積極的に参与するという説明は、韓国の社会に適合したものである。韓国社会で大部分の会社は、個人や家族構成員たちが会社経営に積極的に参与し、大株主になる。これは公共の貿易会社の業務に投資者が適用されない方式、すなわち会社経営に特定の任務をもたず、一定量の株式だけ所有する方式なので、韓国では株主たちに対して「主人たち」という用語を使用してきた。


50.エイブラハム・リンカーン:1860 年3 月6 日、コネチカット州ニューヘブンでの演説。
51.教皇ピウス9世:1846 年9 月11 日宣言。


52.教皇ピウス11 世、『クワドラジェジモ・アンノ』:ここの「社会主義」は民主社会主義を言う。民主社会主義とは、共産主義の暴力性と全体主義に反対する穏健的左翼政治運動を言う。共産主義者たちは社会主義に反対するが、彼らは社会主義が労働者階級に民主的過程を通して利益を提供するという理由で反対する。なぜなら、その過程で革命的熱情が衰えるからである。


53.第20 章4:「労働」を参照すること。


54.クルアーン3.103 ~ 105:神様はお一人であり、したがって人間もそのように一つにならなければならない。この一致は、神様に対する服従を通して成される。神様の統一、個人の霊・肉統一、社会の統一、ひいてはあらゆる実在の理想的統一は、イスラームの概念であるタウヒードに包含される。


55.ベンジャミン・フランクリン:1776 年7 月4 日、独立宣言文に署名するとともに。
56.エイブラハム・リンカーン:1858 年6 月16 日、イリノイ州スプリングフィールドでの演説、「分裂した家庭」


57.マルティン・ニーメラー:この有名な詩には多様なバージョンがある。そのうちの一部は、「ヒトラーがユダヤ人を攻撃した時……カトリックは……」で始まる。このバージョンは、ナチ執権の間、牧師ニーメラーが書いた原本により近いものと見られる。ウイキペディア(韓国語版)から引用。


58.デガナウィダ:ハイアワサ(Hiawatha)でよりよく知られたデガナウィダ(c.1450)は、イロコイ族の五つの氏族を連合した伝説的な酋長だった。イロコイ連盟は、アメリカ東部のアメリカ先住民部族のうちで最も栄え、強力だった。


59.オンジャク族の格言:助けが必要な不遇な親戚と友は、相変わらず保護されるべき地域社会の一部である。


60.ソクラテス:プルタルコスの追放に関して(On banishment)による。


61.1994 年5 月8 日:これは家庭盟誓第4節に対する文鮮明先生の説明である(祈願文参照)。


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世界経典-80

2022年09月03日 19時41分00秒 | 学習


第8章


1.陰隲文:中国の宗教は、儒教、道教、仏教の教え「三教」が結合している。陰隲文は道教の経典ではあるが、注釈者である袁了凡は儒学者であり、仏教経典(スートラ)に対する崇拝を要求する。


2.クルアーン5.44 ~ 48:クルアーンでは、これが信頼できる真実の基準、彼らの信仰が試練され、評価され得る他の啓示に対する「証言者」であると明示している。正統イスラームは、さらにはその道がクルアーンの中にあり、クルアーンがただ一つの道だと考える。ユダヤ教とキリスト教の経典は、クルアーンの証明と異なっている。クルアーンでは、腐敗したユダヤ教およびキリスト教の神学者たちが書き込んだ語句が誤ったものと指摘する。しかし、この挿入句は、このような宗教間の論争を禁ずるクルアーンの文字を越えている。各自、各経典において発見されるものとして、真実に対する責任を内包している。宗教界の間の競争は、善行の領域でなされなければならない。多様な学説を仲裁する問題は、神様がなさることである。


3.聖武天皇におりた天照大神のお告げ:天照大神は太陽の女神であり、神道の首長の神である。ここで彼女は太陽の仏陀である毘盧遮那仏と自らが同一だと宣言し、これは、すなわち神道崇拝と仏教が一つだということを意味する。


4.クルアーン5.82 ~ 83、盲人と象の寓話:ムハンマドの時代のキリスト教徒たちは、超宗教的な理解においてとても重要な態度を示し、良い手本となった。彼らは、開かれた態度で他の宗教の真実を認知し、喜んだ。


5.感興偈68 ~ 69、盲人と象の寓話:この寓話はインドの仏教経典から抜粋したものとしてよく知られている。しかし、ある人たちは、これがジャイナ教にその起源を置いたものであり、ジャイナ教の制限不定主義的立場をよく説明していると主張する。


6.クルアーン29.46:ムハンマドは「聖書の民」を、経典をもったユダヤ教、キリスト教、ゾロアスター教、一神教の信者たちを包含したものと考える。


7.使徒言行録5.34 ~ 39:進歩的立場を取ったラビ・ガマリエルが、ペテロとイエスの異なる弟子たちにエルサレムで福音を伝播するよう許したことが、議会に波紋を起こした。キリスト教徒たちは、伝統から外れた宗派と意見に対して寛容を施すことを主張する時に、このフレーズを引用する。人間の約束は自滅し得るが、天の約束は滅ぼし得ないというガマリエルの格言は、ユダヤ教の教えであるアボス4.14 と一脈通じる(第20 章2.「社会の道徳的基盤」と比較)。


8.1984 年7 月19 日:自由を保つためには絶え間ない注意と犠牲が必要である。文鮮明先生はダンベリー収容所に入られる正に前日、このみ言を下さった。彼の13 カ月間のダンベリーでの監獄生活は、新興宗教に対する政府の捏造された迫害の事例として広く知られた脱税容疑の事件だからである。


9.日本書紀22:神はあらゆる生命の中に生き、神性は山、川、林など、あらゆる自然の形状の中に現れ得る。自然に対する尊重と神々に対する尊重は一つであり、同一である。


10.山の神の招き:山が強さと力の象徴であるように、山の神は神の長であり、高麗の有名な崔瑩将軍として擬人化される。またそれは伝説において、洞窟に住むとらに象徴される。巫女がこの歌を歌う時、巫女は将軍の服を着て、とらの皮で作った帽子をかぶり、旗と刃物をつかむ。山の神は巫女が祭祀をする間、順番に呼ばれる十二の神のうちの一つである。


11.イボ族の法廷祈願文:アラ(Ala)は大地の女神であり、チュク(Chukwu)は創造主の神に対するイボ族の名前である。チュクゥはさつまいもの神である。オホ(Ofo)とアロ(Aro)は特別に神聖化され、霊魂がこの世の中で役事するよう、通路をつくる木や鉄で作った提議用の棒である。瞑想を通して神々は、悪事を行う者や偽証をする者を探し出し、不運を起こし、罰を与えることがで
きる。


12.シヴァ・プラーナ、ルドラサムヒター18:ガネーシャ崇拝は、現代のヒンドゥー教徒たちの間で広く行われている。ガネーシャは象の頭と人間の体でもって描写される。このフレーズはガネーシャの起源神話から来たものであり、どのようにしてガネーシャが戦闘で頭が切断され、また彼に生命を再び付与するために、どのように象の頭が彼の体につくようになったのかを説明する。ガネーシャは祝福を受け、象の象徴に適合した役割である「すべての障害を除去する者」として崇拝されるよう人類に与えられた。


13.シュリーマッド・バーガヴァタム11.20:梵語「デーヴァ」は神を意味するが、面白いことに、それは英語の「悪魔」が語源の根である。


14.法句経393、等:インドの問題のうちで、仏教が指摘したのはカースト制度である。この制度は本来、宗教的に認定された人種差別という性格が強い。最上層の力ーストの多くは、司祭の職能を遂行するバラモン階級だった。仏陀は生まれが人にある特別な地位を付与するという考えを否定したが、その代わりに彼は、人の身分は各自の精神的成就に相応すると教えた。


15.1986 年4 月24 日:「主体と対象の関係」。仏教教理の核心は、因果の法則と諸現象の間の相互連関性である。「独立の方向性」の教えは、第7章11.「逆転と復帰」のサンユッタ・ニカーヤ2.25 を、そして「インド社会改革」の教えは、カースト制度の注釈をそれぞれ参考にすること。
16.1990 年11 月21 日:「一切法」。文鮮明先生はこの仏教用語を使用されたが、これは万物、万法、存在のすべての状態が一つになることを意味する。17.1971 年11 月6 日:「法文」、ダンマパダは「法度」を意味し、ロータス・スートラ「法華経」の名は、「妙なる法の蓮華」を意味する。


18.阿含経長部2.15:誕生後、仏陀の最初の言及として知られている。


19.1957 年5 月19 日:「無我」は、いかなる自我も存在しない状態を意味する仏教用語である。文鮮明先生はこの「無我」の状態を「零点」と表現することもある。


20.1984 年7 月10 日:「自性」:ここで文鮮明先生は「自性」という仏教用語を使用している。「自性」は時には「仏陀の性稟」と翻訳されることもある。


21.金剛般若経21:この経典だけでなく、般若経系統のあらゆる経典は、空に依拠した真理を教える。ゆえに、言葉に頼り、真理を説こうとするあらゆる試みは、空に至る方便にすぎない。ある教えや教義も、それ自体で究極的な価値をもたない。


22.孝経1:第20 章1.「社会の土台としての家庭」を参照すること。


23.1998 年11 月10 日:これは『小学』の最初の文章を引用したものである。『小学』は韓国の儒教教育の基本教科書である。四季節とともに成長する自然は、人間の四主徳と類似する。芽の出る春は慈悲の徳、夏の成長は義理堅さ、秋の収穫は繁栄、冬の貯蔵は知恵にそれぞれ相応する。


24.1998 年8 月28 日:三綱五倫は、儒教の倫理徳目を要約し表現した韓国式用語である。


25.詩経、板254:中国の統治者は、天命を頂き、リーダーシップをもっている。もし天が大災難を下すことで統治者に対して不満足を表せば、それによって、彼の王朝まで権限を剥奪され代替することもある。
26.1971 年1 月8 日:一部の儒教学者たちは「天」を自然や自然法の原則と見る。反面、他の学者たちは「天」を人間の運命を主宰する至高の力と見ることもある。


27.イザヤ書53.6:苦難を受ける僕に対する解釈は、第7 章の注釈10 を参考にすること。


28.1975 年12 月28 日:「単一民族」、韓国民族もユダヤ人のように、数世紀の間、外国勢力の侵略にもかかわらず、国家の純粋性を守ってきたので、このような側面から、ユダヤ人の精神を高く評価する。


29.クルアーン17.104:ユダヤ人たちが多くの国家に散らばったことと、それ以後、最後の日にイスラエルの地へ復帰することを表す。これはモーセが申命記30 章1 ~ 5 節で預言したものと同じである。私達が今、最後の日に生きているという脈絡で見れば、これは現代のユダヤ国家の建設が、神様の計画の中にあると考えなければならないというメッセージを、ムスリムに伝えているものである。


30.1990 年11 月20 日:第2次大戦後、似たような状況でイスラエルと韓国が独立した事実は、再臨主の使命が旧約と新約で未完成だった課題を成すものだという証拠を提供してくれている。ゆえに、文鮮明先生は韓半島の紛争解決に力を注いでいらっしゃるように、中東平和のためにも力を注いでいらっしゃる。


31.使徒言行録2.42 ~ 47:「家ごとに集まってパンを裂き」:これは初代キリスト教式「家の教会」のモデルである。


32.マタイによる福音書16.18 ~ 19:ペテロはギリシャ語の「石」を意味する。この語句は、ペテロから継承されたので、ローマ・カトリック教会だけが真の教会だという主張に対する根拠である。しかし、初代教会はそれほど組織化されていなかった。実際、コンスタンティヌス皇帝がローマでキリスト教を公認したのちにこそ、西欧でローマ司教の権威が優位を占めるようになった。
33.クルアーン2.136:「イスラーム」は従順、または服従を意味する。


34.クルアーン5.13:ユダヤ教徒たちは経典を悪用したり、便宜的に経典のメッセージを忘却したり、新しい解説をして非難された(例えば、もし「背反」という単語を「詐欺」と読まなければ、最後のフレーズはムスリムの約束を破ったメディナのユダヤ人の行動を意味するようになる)。


35.クルアーン5.14:これは、今日までキリスト教を苦しめてきた宗派主義と分派主義に対する批判に近い。しかし、多くのムスリムたちは、「等閑視された部分」が聖霊の預言(ヨハネによる福音書15.26)だと信じている。この部分はアラビア語でムハンマド出現の預言と解釈できる。


36.クルアーン5.116:クルアーンは、本質的に聖母マリアを三位一体と見ず、叱責している。


37.クルアーン9.29:これはイスラームを受け入れはしないが、ムスリム国家の保護を受けているすべての人に課せられる税金、ジズヤである。




第9章


1.バガヴァッド・ギーター4.7 ~ 8:ここで神(ヴィシュヌ)は、自ら最初の人間だと語る。これは化身教義に関する古典的なフレーズである。経典によれば、各化身は世界を救い、正義を確立するための特別な目的で現れる。ヴィシュヌの伝統的化身たちには、ラーマーことクリシュナだけでなく、仏陀と末世に来るカルキも包含される。


2.荘子33:荘子のこの章は、多様な学派の賢人、周王朝の時代、中国の至る所を遊覧し、平和と調和のビジョンを説破していた道教の信者、墨子の
信者、法家の信者、儒生、に対して説明している。


3.1979 年12 月30 日:これはイエスの使者の役目を示している。ルカによる福音書14 章16 ~ 24 を参照すること。しかし、仏陀とムハンマドも似た苦難に直面したことが分かる。
4.マタイによる福音書5.17 ~ 18:イエス様は旧約の預言を成すために来られたお方である。ゆえに、イエス様の福音はユダヤ教のトーラを完成するみ言であり、イエス様はトーラにおける最高権威の解釈者になるわけである。実際、イエス様の山上の垂訓のみ言のうち、多くの部分は、位の高いラビたちの教えと一脈通じている。特に、下記ミシュナ・アヴォートの評論のそれとほとんど一致する。


5.ミシュナ・アヴォート1.1:「律法」は、五書の中にのみ記録されたみ言を意味するものではない。ここで言う律法は、「口伝律法」を意味するものであり、これはラビたちを通して伝承され続けてきたものである。口伝律法に対する実際的な解説と内面の教えは、記録された戒めのみ言に該当した生活の方式を明かしてくれる。ラビたちは、この口伝律法の成文化のためにミシュナとタルムードを記録した。


6.礼記7.1.2:孔子は古代の王と聖人の典型を自らの教えの手本にした。
7.法華経2:釈迦牟尼は既に正覚を成した過去の仏陀たちに従い、多くの過去の生を通して完全な悟りに至る自らの漸次的な進展について語っている。


8.1967 年2 月15 日:「精誠」は「自らを捧げる」という言葉で表現される。言い換えれば、神様と隣人を愛するにおいて、祈祷と断食、献金、信実な努力を通して、真実な献身を投与することを意味する。


9.1972 年2 月10 日:ここで120 年は、創世記6 章3 節の「主は言われた。『私の霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。』こうして、人の一生は百二十年となった。」に根拠を置いている。一部の聖書学者たちは、これが人間の寿命の短縮を意味すると主張する。しかし、文鮮明先生は、これがノアに洪水審判が120 年のうちになされることを教えてくださった神様の啓示の一部だと解釈する聖書解釈の伝統に従っていらっしゃる。


10.クルアーン21.51 ~ 71:このような話は聖書では発見されないが、自分の父母や偶像崇拝者たちとのある程度の対面は、ユダヤ教とキリスト教の伝統でも現れる。


11.1959 年9 月13 日:文鮮明先生は「サタン世界」という用語を広範囲に使用される。「サタン世界」は単純に悪なる人々を指す言葉ではなく、堕落した人類の子孫たちをいう。この人々は神様が選択された「選民」と対照を成す。神様は、天主管のもとの唯一なる一国として、この選民たちを特別な存在として育てられた。


12.クルアーン14.35 ~ 37:クルアーンは、アブラハムが旅した土地のうち、マッカに行き、カアバを聖別し、純粋な崇拝の対象として復帰させ、ハガルとイシュマエルをそこに定着させたという古代アラブの伝承を確認させてくれる。


13.『原理講論』復帰基台摂理時代3.2:アブラハム家庭でカインとアベルの復帰がどのように可能だったかを知るためには、第9 章5.「ヤコブ」(106、183~ 184.1979.12.30)を参照すること。


14.創世記22.1 ~ 18:イサクをきつく縛りつけたことは、アブラハムには最大の信仰的試練であった。イサクはサラが生んだアブラハムの一人息子であり、閉経期をとうに過ぎたサラが神様のみ手によって奇跡的に生んだ息子だった。また彼は、神様がアブラハムに多くの子孫をお与えになるとおっしゃった約束を成就する最初の人物だった。アブラハムが彼の息子、イサクに対してもった愛と愛着はこの上ないものだった。しかし、神様の命令に従って、アブラハムは自らの命を供え物にするよりも苦痛なイサク献祭を、快く実践に移した。イサクの自己犠牲はイエス・キリストの十字架事件に比喩されるものであり、父なる神が自らのひとり子を燔祭にしたことを示唆する。


15.創世記ラッバー56:イサクは自らが祭物として捧げられることを知り始め、彼の信仰がアブラハムの信仰と共に試練に遭うようになった。


16.クルアーン37.101 ~ 107:イスラームの伝承は、生きた祭物になったアブラハムの息子がイサクではなく、イシュマエルだと断言している。しかし、クルアーンは二つに解釈できるこのフレーズで、イシュマエルの名を直接言及してはいない。ムスリムは祭物として捧げたあとに、イサクの誕生が言及されたことが、長子であるイシュマエルを祭物として捧げたという十分な証拠になると考える。聖書と一致させるためには、誰かがイサクの誕生部分を以前のフレーズと連結された年代順ではなく、並列式で解釈しなければならない。「優しい思いやりのある一男児」という部分は、聖書に「従順な」性格として出ているイサクに似つかわしい説明である。この場合、アブラハムとイサクの祝福は、祭祀に参加したことに対する補償になるだろう。


17.創世記25.8 ~ 9:アブラハムを葬儀する時、イサクとイシュマエルの間に流れた平和の雰囲気は、中東においてユダヤ人とアラブ人たちの間にも訪れるべきであろう。彼らが互いに差異を排除したまま、父母であられる神様に一緒に栄光を捧げ、アブラハムが埋葬されたヘブロンの地でアブラハムを記憶する時、中東平和が訪れるであろう。


18.『原理講論』復帰基台摂理時代3.1.2.2:象徴献祭の失敗は、創世記15 章7~ 15 節の動物献祭をいう。当時、アブラハムははとを半分に裂かない過ちを犯した。


19.『原理講論』復帰基台摂理時代3.1.2.3:「サタンが侵犯した」と言うが、それが決定的なことではない。この言葉は、はとを裂かなかった失敗ゆえに、アブラハムがサタンの攻撃を受け、選民の先祖たる使命を失敗することもあり得たということである。しかし、神様はイサクを祭物として捧げなさいという試練を通して、アブラハムがサタンの讒訴から分立され得る機会をお与えにな
った。それゆえ、イサク献祭はイサク自身だけでなく、全体の摂理を蕩減できる生と死の問題だった。


20.1978 年12 月24 日:この事件でリベカの重要な役割については、下記「聖書の女性たち」を参照すること。
21.1978 年12 月24 日:「エサウ」は創世記25 章30 節でエドムと呼ばれるが、ユダヤの伝統でエドムはローマを言うものである。


22.創世記32.24 ~ 31:ヤコブが相撲をとったこの話は、悪魔との相撲ではなく、神様がヤコブを試練するために送った天使との相撲だというのが、一般的解釈である。文鮮明先生の解釈によれば、天使は神様が送ったが、天使はサタンを代表する立場にあったという。


23.1979 年12 月30 日:「アベルの立場」にある人は、神様側の兄弟である。したがって、カインの立場の人は太初のカインの過ちを復帰するためには、アベルの立場の人に従い、認めなければならない。


24.クルアーン12.22 ~ 32:ヨセフとポティファルの妻の話(創世記39.6~ 20)の聖書バージョンでは、ポティファルがすぐに自らの妻の主張を受け入れ、ヨセフを投獄する。クルアーンは、シャツの前や、後ろが引き裂かれた意味と、その後にポティファルの妻が自らを正当化しようとする努力について詳細に説明を付け加えている。


25.1987 年8 月20 日:サタン世界の民とは、悪名高い犯罪者のような人を称するのではなく、慣習どおりに暮らし、簡単にサタンの道具として暮らしていく普通の人々をいう。(第9 章の注釈11 参照)。


26.『原理講論』復帰基台摂理時代3.1.2.1:エジプトでアブラハムとサラはアダム、エバ、そして天使長の三角関係を復帰する路程を経た。内容は次のようである:サラはアブラハムの妹格である。(エバがアダムの妹だったのと同じである)。彼女はパロ王の妻になる(エバが最初にルーシェルと愛し合ったのと同じである)。最後にサラは本然の妻としてアブラハムに帰ってくる(エバが本然の夫、アダムに帰ってきたのと同じである)。このような過程は復帰摂理歴史で何度か反復された。例えば、ダビデ、バテシバ、ウリヤの場合が、またそれである。


27.1993 年2 月14 日:リベカはヤコブの母でありながら、同時にラバンの妹であり、レアとラケルの叔母だった。


28.1993 年2 月14 日:アダムは本来、神様の意図どおり純潔なエバと最初の愛の実を結ばなければならなかったが、結局、堕落したエバと関係を結ぶようになった。ヤコブは堕落したエバの立場にあるレアとまず関係を結び、次に本来の初愛であるラケルを得るようになることで、この過程を反対に復帰したのである。


29.1993 年2 月14 日:ビルハは本来ラケルの召し使いだったが、時間がたつとともに、最初の夫人レアが彼女を働かせるようになった。このような状況は、ラケルばかりに向かい続けるヤコブの愛情ゆえに起こったことでもある。これはヨセフと兄弟たちの間でも明らかに露顕する。ヤコブがヨセフを最も愛したので、レアと二人の召し使いから生まれた10 人の息子たちは、ヤコブを憎悪しながら、団前するようになった。


30.創世記38.6 ~ 30:レビレート法に従えば、夫が子供をもうけずに死ねば、彼の近親者が彼の妻と再び結婚しなければならない義務がある。また、彼らの間に生まれた息子は、最初の夫の血統として認定される。旧約聖書のルツ記でボアズはルツの最初の夫と姑のためにレビレート法に従う。オナンはこの法に従うことを拒否したが、これは彼が兄の子と相続権を分けもつことを拒否したからである。


31、セーフェル・ペリア:ダビデの行動における摂理的な理由に対する文鮮明先生の説明とカバラの説明は、驚くほど類似している。イエスの血統のあらゆる女性たちのように、べテシバはアダムとルーシェルの二人の男性の間で三角関係にあったエバを代表した立場であった。それゆえ、彼女が夫を換えたのは、復帰の目的を達成するためだった。注釈26 と、「タマル」(92-286 ~ 288、
1977.4.18) と「マリア」(92-289 ~ 290、1977.4.18)に関することを参照すること。カバラに出てきた輪廻(ギルグール)は一種の復活であるが、常に復帰摂理的な目的を負っている。復活に関する文鮮明先生の教えのように、ギルグールはカバラ学者たちによって生まれた概念であり、彼らはギルグールを一霊魂が自らと類似した正体性をもった地上の人間に転移する結合と見た。


32.1970 年10 月13 日:ダビデには妻がたくさんいたが、ここではバテシバが二度結婚したことを語っている。最初がウリヤ、二番目がダビデであ
る。堕落したエバは、アダムとの定められた結婚とルーシェルとの実質的結婚関係によって、二人と関係をもった「二番目の夫人」の位置にあった。これを復帰するために、二番目の夫人の立場にある女性は、バテシバのように二番目の夫の夫人であろうと、ラケルのように一人の男性の二番目の妻であろうと、それぞれ重要な役割をすることもあった。他の三角関係の例としてサラとアブラハム、そしてエジプトのパロ王との間の関係を参照すること(注釈26 参照)。


33.1978 年10 月29 日:仏陀もサタンの誘惑を克服しなければならなかった。第15 章11.「試み」を参照すること。
34.仏所行讃阿惟三菩提品14:これは十二縁起の縮約形態である。第7 章11.「逆転と復帰」を参照すること。


35.阿含経長部2.15:これが仏陀に起因した最初の言葉であり、仏陀は言葉から誕生した。


36.論語10.8:料理を食べる時に、先立って少しずつ分けて出し、最初、料理を作った人に礼を捧げる形式。


37.1998 年8 月28 日:文鮮明先生は仏教、儒教をはじめ、その他基軸時代(紀元前5、6 世紀)の霊性運動は、彼らのあとに来られるイエスと一つになり、当代にイエスが受け入れられたなら、全世界的天の王国を建設する一助とするために、意図的に準備されたものだとする。それゆえ、それらの宗教がユダヤ教の直接的基盤に連結され得る全世界的基盤を築いてきたのである。イエスが追い立てられ、十字架の道を行った時、その機会は消え、儒教は自分なりの領域で世界宗教として成長するようになった(『原理講論』「メシヤ降臨
準備時代400 年」参照)。


38.1972 年3 月10 日:「侍る」という言葉は信仰と献身の高級段階をいう重要な韓国式表現である。メシヤに侍るということは、彼に仕え、愛し、彼の救いに参与し、学び、彼からあらゆることを相続されるということである。あたかも孝子が父母を愛し、仕え、父母にあらゆるものを相続されるのと同じだと言える。


39.1972 年2 月21 日:イエスが純粋な天の血統で生まれるようになるためには、大きくマリアと彼女の女性先祖たちの役割が必要だった。


40.マルコによる福音書1.2 ~ 6:この時の「いなご」は、豆やキャロブを指すものと見られる。


41.マルコによる福音書6.30 ~ 44:イエス様が行った奇跡のうち、5000 人の群れを食べさせたという内容は、四福音書すべてに記録されている唯一の内容である。その上、クルアーンにもそれが記録されている。
42.クルアーン5.112 ~ 114 この話は使徒言行録10 章9 ~ 16 節に出てくるペテロのテーブル掛けのビジョンであり、5000 人を食べさせたことを結合したものである。


43.ヨハネによる福音書6.25 ~ 67:料理に対する討論は、ヨハネによる福音書に出てくる5000 人の群れを食べさせたという奇跡の話に対するものである。


44.ピリピの信徒への手紙2.6 ~ 11:よく知られたキリストの自己卑下、あるいは自己謙遜の称賛である。イエスは何も固執せず、全的にその自らを否定することで、神様に認定され、高められた。


45.1972 年3 月25 日:イスラエルがイエス様を迎えたなら、イエスは彼らをそのまま新約時代に導いたであろう。そうなれば、イエスの教え、すなわち新約の教えは、ユダヤ人に他の宗教(キリスト教)の経典ではなく、正統教理としててすなわちトーラの延長線上にあるものとして受け入れられたはずである。
46.1974 年9 月18 日:文鮮明先生のみ言においで「復活」とは、五旬節の日、弟子たちが聖霊を受け、霊的に再び生まれたような復活をいう。これは『原理講論』で明かす復活の定義、「死から生への霊的変化」とも同じ脈絡である。文鮮明先生は、キリスト教でいう、イエスが40 日間歩んだ前例のない現象を意味する復活を言ったのではない。


47.クルアーン33.40:記録が封印される時、その記録は完成したものであり、それ以上の添加はあり得ない。預言者の封印であるムハンマドは、あらゆる時代の神様の啓示に対する証言を完成する最後の預言者とみなされる。イスラームで神様の教えは改革者、賢人、そして聖人を通して後代に継続されるものだが、これ以上預言者を通すことはないであろう。


48.イブン・イスハーク『預言者伝』:ハディージャはムハンマドの最初の妻であり、最初に彼の聖なる使命を認めた女性だった。アラブ社会でいとことの結婚はありふれたことである。


第10章


1.法華経13:日本の法華経擁護者・日蓮は、自らの時代が末法期であると、また結局は法が再び回復するだろうと信じた。このことによって、多くの人々が新しい時代を開く救世者、弥勒仏の降臨を信じるようになった。創価学会や立正佼成会のような日蓮仏教の宗派は、日蓮自らを救世者と信じてもいる。


2.1996 年8 月1 日:み言によれば、女性の天使はいないため、天使はカップルを組んで暮らすことはない。


3.1969 年5 月25 日:成長には蘇生、長成、完成の三段階がある。ここの各段階で、再び三段階として蘇生、長成、完成に分類される。これによって、成長段階は総九段階で成される。人間の堕落は「長成期完成級」で起こった。これは九段階のうち、六段階に該当し、七~九段階を包含する完成期の前段階でもある。


4.ヨハネの黙示録9.1 ~ 10:さそりのような力をもったいなごが人を刺し、それによって苦しめられたというのは、地獄の「底なしの淵」からサタンと悪霊たちがあふれ出ることを比喩し、表現したもののように見える。ここでいういなごは、食物を平らげてしまうのではなく、むしろ人間の霊魂を食らっている。天から地上に落ちた星は、末世に地上で猛烈に活動するサタンを象徴する。


5.1972 年4 月23 日:現代のボスニアとルワンダの倫理的暴力紛争の勃発は、様々な霊的原因を内包している。同じ怨讐に向かって戦い、先に逝った霊魂たちの恨みが積み重なっているので、彼らが地上に降りてきて、人々を戦争の狂乱へと揺さぶるのである。


6.ヨハネの黙示録13.1 ~ 18:ここの獣は宇宙的権力に向かう人間の虚勢を描写し、時代ごとの皇帝の権力は、この預言を成就したものと同一視されている。元来、記録によれば、その獣は特別にローマ帝国について言及している。ローマ皇帝の欲望は、全世界から敬礼を受ける人間の神となるものだが、それはキリストの真正な王権をまねするものに見えた。七つの頭はおそらく七つの丘をもったローマを描写し、その獣の他の特徴である十本の角、豹と熊と獅子のような部分は、ダニエル書7.2 ~ 7 に出てくる四つの頭の分離された獣たちと似ている。一部の学者たちは傷をおった頭の奇跡的な治癒と、その後、西暦68年に自殺して以後、奇跡的に再登場したネロ皇帝の周囲から生じた伝説と同一視する。666 という数字は、アラブ語で、「ネロ・ケーザル」という文字の数字をすべて合わせたものである。皇帝に敬礼していた不信者と背教したキリスト教徒たちは、したがって獣の数として表示された。


7.1957 年6 月16 日:ルーシェルは彼の残党たちを所有しているが、彼らが神様のみ旨に反対する悪霊であり、悪人たちである。


8.クルアーン5.48:このフレーズの結論(第8 章2.「真理に至る多様な道」参照)は、各々アブラハムの信仰の宗教的根源を確認し、教理上の違いに対する論争をあきらめさせている。これは、このような論争的な教えに対して、最後の日に神様が啓示を下さるだろうという興味深い暗示を啓示している。


9.クルアーン16.101 ~ 102:これは削除されたフレーズなど、クルアーンの変化に対するムスリム内部の論争に言及したものではなく、福音と旧約律法の古い啓示に付け加えた新しい啓示としてのクルアーンに対するものである。「服従した者」、ムスリムなど。


10.確信の書33 ~ 41:バハイ信仰で最後の審判は、宗教の長い摂理の終息と、神様の使者バハーウッラーを中心とした新しい摂理の始まりだと解釈される。


11.ムスリム・ハディース:この伝承によれば、キリストはムスリム・イマームの肉身として現れる。しかし、大部分の人たちはこれを気に留めないだろう。


l2.タルムード、サンヘドリン98:聖書にあるメシヤを送られるという約束は、果てしなく延長されるように見え、ユダヤ戦争(68 ~ 70c.e.)とバル・コクバの乱(132c.e.)で凄絶な敗北を経験したのち、政治的野望を捨てるようになったラビ、ユダヤ教は、メシヤが来られるという歴史的約束を、信仰の個人的出会いに変えてしまった。エリヤは天の秘密を解釈してくれる天の解釈者である。


13.1957 年3 月17 日:そうでなければ、聖書「ヨブ記」で言うように、サタンが、神様に選択された者たちは真に真理を受ける価値がある者たちなのか、証明せよと讒訴し得る。


14.クルアーン43.61:この話に基づいて、多くのムスリムが最後の審判を通告する再臨主を待ち焦がれている。


15.阿含経長部iii.76:マイトレーヤ(パーリ語でメッテーヤ)は上座部(テーラワーダ)仏教と大乗(マハーヤーナ)仏教すべてで未来仏として描写される。多くの人々は、彼を祝福と完成の時代を善導する未来の指導者とみなす。
16.ムスリム・ハディース:第10 章の注釈11 参照。


17.中庸31 ~ 32:この二つの文章は、理想的な聖君の出現を表した話である。この話は、一方では孔子を祭り上げていて、また一方で、そのような聖君がこの世に現れることを待ち焦がれてもいる。


18. ヨハネの手紙一3.2:私達はイエスが再臨する時、イエス・キリストと一緒に完成した人間になるだろう。トマス・アクィナスは、これを「贖罪されたすべての人たちの究極的目標」として描写した。


19.プスィクタ・ラッバティ162b ~ 63a:将来、メシヤがイスラエルの罪を贖罪されるという概念は、メシヤが世の中を征服する王として来られるだろうという伝統的信仰と同特に浸透している。疑う余地なく、この部分はイザヤ書53 章に対するミドラーシュである。イザヤ書の預言に対する標準のキリスト教解釈と比較してみること。


20.エレミヤ書23.5 ~ 8:ここにおいて「枝」とは、イザヤ書11 章1 節に出てくる預言を根拠としていて、メシヤを意味する。これがイザヤ書には次のように記述されている。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいでその根からひとつの若枝が育ち」


21.タルムード、サンヘドリン99a:他の人々が超自然的喜びとすいかのようなぶどうなどを想像している時、ラビと討論する脈絡で出てくる話である。しかし、大部分のユダヤ人たちにとって、この一節は過去2000 年間、メシヤに対する最も重要な希望となってきた。その希望はイスラエルが長い流浪生活を終え、ユダヤの国を建設するだろうという内容である。


22.ブハーリー・ハディース3.656:ジズヤ(jizya)はムスリム指導者が自らの領内に居住するキリスト教徒とユダヤ人に賦課する税金である。この税金は品位を落とし、社会的弱者としての彼らの身分を表すことにもなる。このようにキリスト教徒は、ムスリムとの戦いで征服の表示として十字架を使用した。


23.鄭鑑録:この予言書は16 世紀の韓国で出現した。ここに引用された語句は、マッカーサー将軍の仁川上陸作戦と中国人民軍の介入に関する暗示を包含し、韓国動乱の過程に対する予言をはっきりと、詳細に見せてくれる。


24.鄭鑑録:1980 年代中盤以来、文鮮明先生は韓国と日本の間に数千組の結婚を主導してきた。


25.鄭鑑録:1992 年8 月、3 万組が参与した国際祝福式で文鮮明先生と韓鶴子女史は、メシヤ、再臨主、そして真の父母であると公式的に宣布された。


26.1995 年4 月3 日:「共生」とは経済的関係を意味し、「共栄」とは党派を超越した善なる政府の倫理を言い、「共義」とはあらゆる宗教と哲学の間に置かれている人生の共通分母を意味する。これらが王国生活の三つの核心的特徴である。


27.マタイによる福音書22.1 ~ 13:「婚礼の礼服」とは、客の義と純潔さを示す徴表である。ヨハネの黙示録22 章14 節に「命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである」と記述されているように、善の表示である婚礼の礼服を着ていない人は、婚宴に参加できない。




第11章


1.マルコによる福音書4.26 ~ 29:この比喩は公益的に解釈されるとしても、信仰者個人として解釈されるにしても、漸進的・自然的過程によって、神様の神秘と豊富な恩恵で活気を帯びる天国の成長を紹介している。それは、蘇生期である「芽」、長成期である「穂」、そして完成期である「豊かな実」の三段階の穀物の成長に比喩される。そして神様のところに帰る「収穫」の四段階が続く。


2.1998 年11 月19 日:「縦的」関係が神様との関係を意味すると見るとき、ここにおいて、「横的」というものは人間と人間との関係を意味すると言える。


3.シャタパタ・ブラーフマナ5.1.1.1 ~ 2:広く知られたこの話で、悪魔たちと神々の最も重要な違いは、悪魔たちは自己中心的であるのに比較して、神々は寛大で、他の存在たちと分かち合うという点である。


4.ジェレミ・ベンサム:「道徳および立法の諸原理序説」(1789)


5.ソクラテス:『プロタゴラス』の「若者はいかに詩に耳を傾けるべきか」から引用。


6.ピコ・デラ・ミランドラ:人間の尊厳性に対する演説(1587)。


7.エーリヒ・フロム:『人間における自由』(1947)


8.ミシュナ、アヴォート3.18:神様の形状どおりに創造されたという事実は、人間が神様の善と神性に一致するために、戒めに従って生きなければならないという内容を含んでいる。神様は、私達がこれを悟ることによって、この栄光たる天の目的を敬い従うよう、私達に責任を付与していらっしゃる。


9.高価なる真珠、モーセ書4.1 ~ 4:本書第6 章3.「悪魔とその活動」にも含まれているこのフレーズは、末日聖徒イエス・キリスト教会の中心教義、すなわち神様の特別な贈り物である人間の自由の価値を示唆する。サタンは強制でもって、人間の自由意志、すなわち責任に対する考慮なしに、「一人も失わず」人間を救おうと提案した。


10.エゼキエル書18.30:これは預言者エゼキエルが、ユダヤ人の間にわき上がっていた宿命論に立ち向かい対応するために語った部分である。ユダヤ人はバビロン捕囚を経験するとともに、それを以前の世代の罪のためだと非難した。遺伝した罪が結論的な要因であることを否定し、個人の責任を強調することで、エゼキエルは彼らの信仰と自尊心を回復した。イエス・キリスト以後、ユダヤ人たちは、キリスト教の原罪とイエスの贖罪の教理に立ち向かい対応するとき、このフレーズを引用する。


11.阿含経増支部i.173 ~ 174:釈迦牟尼仏陀は、業に対する信仰や予定説に立脚した宿命論を否定した。ある人の蓄積された業または神の予定は、ただ副次的な要素、すなわち人間の生の価値や過程を決定づけるものではなく、ただ条件を立てるための要素にすぎない。熱心に努力し、公徳を積み、究極的な目標に向かう道に進んでいける余地は、常にあるというものである。仏陀はまた、生まれ変わりを通して人々が何度も、しばしばこの世で人生を享受できるだろうという、安易な信仰も排撃する。


12.プリ・クリアーのためのハンドブック:サイエントロジーで「原因となる」というのは、自らの行為と自分にぶつかってくるあらゆる事件について責任をもつということを意味する。クリアー[清潔]状態の到達は完全に原因になるということ、すなわち事が順調に進まないとき、決して人を非難せず、常に自ら責任をもつということを意味する。


13.1987 年2 月1 日:「目の上の水平線」とは観相学的用語であるが、ある福をもった容貌として、眉毛と額の形を描写する言葉である。


14.ミシュナ、アヴォート3.19:このフレーズは相反する内容がペアになっている。神聖な予知と人間の自由、慈悲の神聖な特性と正義が平和を築いている。


15.アーディ・グラント、アーサー・ティー・ヴァールM.1:将棋盤の上の駒を動かすように、天上で人間の運命を決定する神の姿は、神の絶対的な予定を喚起させている。しかし、神を将棋の主人として描写している点に留意する必要がある。なぜなら、人間の立場から見るとき、どのような根拠で神が自らの駒を動かすのか、またはその駒を再び動かすために選択するのかについて、誰も分からないからである。
16.ボエティウス:言い換えれば、人間の自由意志は人間的観点に立脚して制限的知識で表現したものである。それにもかかわらず、これは宿命論的弁明になり得ない。私達は、私達の自由行為に責任を付加しなければならない。それは神様が私達のすべての自由行動を透視しているからである。


17.ヒポクラテス:急性疾患の処方法。


18.1959 年3 月29 日:「韓国解放」は1945 年に起こった。同じ年、文鮮明先生は公式路程をスタートした。




第12章


1.アリストテレス:ストバイオスのフローリレジウム(Florilegium)から引用。


2.ハディース:これは重要なスーフィー派の伝承である。小さい聖戦は通常の意味の聖戦であり、外部の敵に対抗する戦争であり、大きな聖戦は霊的戦争であり、戦場が霊魂の住む所である。


3.法句経80:優れた匠に木、鉄、水を扱う技術が求められるように、自己統制に内なる人が必須的に求められる。霊性を錬磨することは、世間の商いやその形態に類似すると言えるだろう。


4.1999 年4 月19 日:神様は形体がない。神様の「体」という言葉は、歴史の中で神様の創造と偉業を通じて具現された神様の目的の側面を意味する。


5.エぺソの信徒への手紙4.26 ~ 27:寝床に入る前、瞑想を通してその日にあった内外の闘争と葛藤を解決し、収拾することは大切な霊的訓練である。毎日毎日、怒りが積み重なれば、あとで解決することがさらに難しくなるからである。


6.イガラ族の格言:怒りに応答せず、争いから抜け出しなさい。


7.1959 年9 月13 日:「第3次世界大戦」は冷戦を意味する。これは共産主義の没落をあらかじめ予見したものである。


8.1968 年3 月10 日:「教育」すなわち「学閥」を意味する。この言葉は韓国社会において、卒業した大学により、同じ水準の同門たち間で形成される固い社会的地位を言う。


9.ラーマーヤナ、アヨーディアーの巻109:ラーマーは、自らの友が王権を掌握しなければならないという主張を拒否している。その友は王国から追われ、林の中で苦行者としての生を営まなければならないという自分の父親の厳命に背いている。ラーマーはその父親の志に従うことが王国よりも、もっと貴重な孝子の義務だと考える。


10.エイブラハム・リンカーン:1860 年2 月27 日、ニューヨーク市での演説。


11.1981 年5 月1 日:文鮮明先生は心情的な側面から神様との関係を説明する。「僕」の段階は、立てられた戒めと法を守るという側面から、神様と正しい関係を表現した言葉である。「養子」の段階は、神様とより近い立場にある。養子は神様の愛に助けられて神様を父と感じ、喜んで神様のみ旨を果たしてさしあげようと全力を尽くす。この二人の差は、「行為義認」と「信仰義認」の差に対するキリスト教的立場と似通っている。「信仰義認」は重生を経験し、キリストと共に歩み、献身の人生を生きようとする姿勢をもつようになる。


12.列王記上19.18:シナイ山で神様が預言者エリヤに語られたみ言を見れば、天がイスラエルを審判なさるとき、残される義人たちに言及されたことが分かる。残される者たちに対する概念は、預言者たちを通して常に現れる(イザヤ書6.13、7.3 ~ 4、10.20 ~ 23、アモス書5.15 参照)。


13.タルムード、フッリーン92a:神様は10 人の義のある者を渇望なさり、ソドムとゴモラを滅亡させられ(創世記18 章20 ~ 33 節参考)。


14.大学6.1 ~ 4:ここの儒教のフレーズと次の仏教の句文は、活気に満ちて留念する真実の類型を説明している。これは訓練と自己試練の努力の持続を必要とする。これは道教とシーク教の句文とかなり異なった概念である。


15.1975 年5 月1 日:精誠は祈祷、敬拝、断食、告解、また奉仕および慈善などを施すあらゆることを包含する。これらの共通点は、神様に仕え、愛する信実な気持ちから行うということである。


16.2000 年6 月30 日:韓国の伝統的な村には、その入り口に彫刻された男女一組の守り神が立っている。


17.論語3.20:詩経の関雎編にある詩は、詩経1 をいう(第19 章5.(夫婦愛」を参照)。孔子はごの詩を喜びや悲しみを十分に表現するものとして、中正の道に従い、行動する標本として記述し、解釈した。


18.阿含経相応部xxii.90:実践問題としての中道とは、世間に対する極端な貪着や、極端な放棄を意味する。


19.アカン族の格言:この格言、良い礼節で食事をしようとするなら、自らを自制しなければならないという意味であり、また、あらゆることにおいて誘惑によく耐えなければならず、正道を外れないように行動しなければならないという意味である。


20.クルアーン24.30 ~ 32:クルアーンに、ムスリムの女性がベールをまとうのは、姦淫の誘惑からの実質的保護だと明示されている。


21.スッタニパータ205 ~ 206:体に関する仏教の様々な瞑想法は、不潔で役に立たないものとして、主に感覚的欲望と肉体的快楽に対する執着を、ふるい落としてしまうためのものである。


22.エぺソの信徒への手紙5.3 ~ 6:淫蕩な心の「軽率さ」。


23.四十二章経:これは悟りに至る道として、性的結合という「秘密ヨガ」を伴うタントラ宗教儀礼に関する批判であろう。


24.四十二章経29:シュラマナとはインドのジャイナ教と仏教の苦行の伝統で遊行僧を指す。


25.法華経14:五つの部類の男らしくない人々は、同性愛者、両性具有者、去勢男性、宦官、様々な類型の性交不能者を包含する。僧は逃避者が教団に入ってくることを願わない。また、僧は借金を返そうとしない債務者や、父母の許しを得ない沙弥が僧職を得ることも禁じる。


26.クルアーン29.28 ~ 29:これはソドムとゴモラの話である。聖書によれば(創世記19.4 ~ 11)、二人の天使がロトの家を訪れ、都市がすぐに破壊されるだろうと警告をした時、群衆がその天使たちを自分たちに渡せと要求した。彼らは天使たちを強姦し、男色するかもしれなかった。ロトは彼らを保護し、代わりに自らの娘を差し出した。群衆がロトに手を挙げようとした時、天使たちは彼を救った。


27.1991 年9 月8 日:文鮮明先生は、真実な霊的重生とは過去に同性愛者として生きた人が、以前の生活を捨て、新しく生まれるのと同じだと語られた。霊的な力を通して、彼らは過去の感情を抑制し、理想の配偶者を愛そうと、自分たちを再訓練することができるのである。とは言え、同性愛という簡単でないテーマに対する説明が必要のようだ。フロイトから始まり、心理学者たちは、同性愛を幼い時の性的経験からもたらされる一種の障害として見つめてきた。この問題に対するフロイトの観点を紹介する。「すべての男性の同性愛者たちは、幼い時、母親の規範から見えたように、女性に対する強い性的愛着があった。これは児童期の最初の段階には明白に現れるが、のちには、完全に忘れられるようになる。このような執着は、母親の過度の愛ゆえに生じたものである。またその期間に父親不在などの理由で、これがより強化され得たこともある。このような初期過程を経て、その仕組みは把握できるが、動機は把握できない
変化が生じる。母親に対する愛は、抑圧されなければならないので、これが持続できない。少年は母親に対する愛を抑圧するが、その方法は自らを母親の位置に置き、母親と同一視するのである。だから、愛の相手を選択するとき、自らを母親と似た女性に設定する。このようにして同性愛者になるのである。実際、これは『自己色情』の段階に入るのである。なぜなら、成人になって、彼が愛する男性は、ただ幼い時の自らを代替するか、再生させた女性であり、彼は幼い時の自らを母親が愛したように、同じやり方で愛するものだからである。ナルシシズムの道の上で、愛のパートナーを求めるものだと言えよう」。(ジークムント・フロイト、『レオナルド・ダ・ビンチの幼年期のある思い出』[1909])。




第13章


1.アーディ・グラント、ヴァダハンス:これはある感情が神聖な愛なのか、でなければ、世俗的な愛なのかを判断できる優れた基準を提示している。神聖な愛はあらゆることを包容するが、世俗的な愛は一つの対象にのみ集中し、結果的にねたみと嫉妬を伴うようになる。神聖な愛は人のために尽くす反面、世俗的な愛は利己的な欲望にとらわれている。


2.スッタニパータ143 ~ 151:これは慈愛に対する仏教の古典的な教えである。


3.荘子23:完璧な行動は自然であり、心から生じ、信じることのできる本質的なものである。ここでは形式が排除される。ただ真の愛がある所にのみ存在する。


4.トマス・アクィナス『神学大全』Ⅰ-Ⅱ、q.26、25.大学8:儒教は自らの家族と親戚たちを好まなければならないと教える。しかし、ただそれは家族関係の拡大である社会倫理の出発点として、そうでなければならない。儒教の教えのまた違う面は、偏愛の傾向に堕落するのを防ぐために、世の中で普遍的、客観的行動の土台、正に個人の美徳修養を追求する。家族と他人すべてに対する愛が適切になるためには、個人は自らの中に善意の
基盤をもっていなければならない。


6.ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド2.4.4 ~ 5:「自身」は、アートマンであり、神様の内面である。それは永遠の立場であり、個人の自我と完全に異なる。これは本心の統一概念と関連がある。


7.ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド5.2.2:プラジャーパティはヒンドゥー教の創造主(ブラフマー)である。彼が自らの弟子に教えるように、この部分は創造主の性稟と生の方式について語ってくれている。


8.プラトン『饗宴』:エゥリピデスの戯曲「アルケスティス」によって不滅化した話は次のようである。アドメトス王は致命的な疾病に罹った。しかし、ある人が彼の代わりに死ぬなら、彼は回復し得る運命であった。しかし、彼の下人の中からは誰も自ら志願しなかった。彼の年老いた父母でさえ拒絶した。ただ彼の若い妻、アルケスティスが彼の代わりになることに同意した。彼女が
死のうとした時、ヘラクレスが干渉し、死の手から彼女を救い出し、彼女は夫と喜びで再び結び合うようになった。


9.イガラ族の格言:自らのぜいたくを楽しみ、他人の苦痛を忘却する人たちに対する批判。


10.金剛幢経280 ~ 281、大乗集菩薩学論:大乗仏教の核心テーマである菩薩の所願に対する言及である。それは数年にわたる霊的修練と利他行の結果として得られた自らの公徳を、他の人々の有益のために回向する、その実践を描写する。他の人々の苦痛と自らの苦痛を一つに思うことは、利己心に起因する苦痛をなくしてくれる。したがって、苦痛に耐える自慢や精神的成就に対する自慢が克服される。


11.大方広仏華厳経23:菩薩の所願に対する、もう一つの言及である。ここでの強調点は、自己の悟りを享受するのではなく、自ら苦痛の中にいる他の人々のための「担保」になることで、他の人々を救済するところにある。
12.マーティン・ルーサー・キング演説集:コレッタ・スコット・キング編纂(ニューヨーク:ニュー・マーケット・プレス、1983)


13.墨子:墨子は中国人教師であり、現代版孔子である。彼は、愛は最も近い段階の家族から外部社会に作用するという孔子の観点と著しく異なる普遍的愛の倫理を教えた。


14.ミラレパ:多くの仏教徒たちは、家族に対する愛が、私達をして他の人々より家族に一層友好的に接しさせることによって私達の愛を偏頗的なものに導くという点で、儒教の倫理を批判する。そのような人は普遍的でもなく、真でもないというのである。したがって、それは生死輪廻の果てしない循環から解放される助けにはならない。


15.だいはつねはんぎょう470 ~ 471:大乗仏教経典において、菩薩の道に比喩されるものとしての一人息子に対する母親の愛は、先に言及したメッタ・スッタ(慈経)に説かれたテーラワーダ仏教の慈悲の概念と類似する。
16.1976 年3 月3 日:聖書でいう「万軍の主」において、「万軍」は主に天の軍隊を称する。しかし、文鮮明先生は、「万軍」という表現を地上・天上のすべての存在と称される。


17.1987 年1 月18 日:神様はすべての父であられるので、父母に対する孝を天の父であられる神様にまで拡大させれば、私達は偏見を克服し、父の天宙的な愛と一つになり得る。


18.ルカによる福音書10.25 ~ 37:ここで分かる事実は、イエス様と対話していたユダヤ人たちが、サマリア人たちは混血であり、疑わしい宗教をもっているという理由で、彼らを劣った者として扱ったということである。また祭司長とレビ人が怪我をした人を助けるのを拒絶した理由である。彼らはユダヤ法に対する厳格な解釈ゆえに、典礼に反する罪を犯すのではないかと恐れたのである。このような側面からこの逸話は、人類に対する愛より宗教的な教理を優先する人たちを遠回しに批判している。


19.ポール・ティリッヒ:忘却させることと忘却すること、「永遠の今」(ニューヨーク:スクリブナーズ、1963)。


20.バイハキ・ハディース:ムハンマドはこの教えをモーセに起源するものとする。


21.春日神社の神託:神道はそのような悲歎が続いて死ぬことで汚染された住みかを、概して神々が徹底して避ける場所とみなす。


22.法華経10:「如来」は「ここまで来る」、すなわち悟りの目標に到達した者を意味する。それは仏陀から与えられた称号であり、よく究極的実在として彼の宇宙的顕現を表す時に使用する。「如来の家」は彼の寺院を意味し、「袈裟」はダルマの師として、彼の権威を表す。


23.1976 年2 月22 日:韓国語の「心情」は、神様という存在がもつ情感の核心に置かれている。心情は絶えず愛を与え、また愛を追求する。神様の形状どおりに造られた人間も、やはりこのような本性、すなわち本然の心情をもっている。


24.ヤコブの手紙2.14 ~ 26:信仰の表現としての善行に対するこの文章は、ガラテヤの信徒への手紙3 章1 ~ 11 節の内容と反対のものと見られ、アブラハムの例話に基づいたものである。法に従う行動ではなく、ただ信仰により救われるというパウロの教えは、道徳律超越論を主張する一部のキリスト教徒たちを通して間違って解釈されてきた。道徳律超越論とは、信仰の名でそれが害を及ぼさない限り、どんなことでもできるという論理である。ヤコブの手紙は、信仰とはそれが真実ならば善行に実体化されるものだという主張をすることによって、誤った概念を正してくれる。


25.ヨルバ族の格言:言い換えれば、他の人の助けを願うなら、まず他の人に寛大で親切にしなければならない。


26.詩経、64 衛風:報いを受けようという思いで人に贈り物を贈ることは、誰でもする平凡なことである。そのような意図で与え受けるのは、ある程度、同一の価値でなければならない。度を超して大きなお返しをすれば、もらう人に負担感を与えるようになる。この詩は、負担になるような計算を超越した、純粋な友情として贈り物を与え受けることを表したものである。


27.マイモニデス、ミシュネー・トーラー:ミツヴァーはそれを成就することで得られる祝福であり、神聖な戒めである。


28.1983 年5 月5 日:慈善を施す人が恵みを受ける人に侮辱感を与えてはいけないように、恵みを受ける人もまた、受けた恩恵を価値あるように思わなければならない。これを実践することで、慈善の経験が学びの経験に変わり得る。人から受ける助けを、あたかも神様が下さった恩恵のように思うなら、その人は神様に配慮され、天の祝福を受けられる。


29.ヘブライ人への手紙13.1:これはヘブロンの家で天使たちを楽しませたアブラハム(創世記18 章)と、ソドムで天使たちを自分の家に自ら受け入れたロトを象徴するものである(創世記19 章以下を参照)。


30.創世記19.1 ~ 8:聖書では、二人の男性たちを天使と明かすが、私達は、ロトがその事実を知らずに、他の客たちをもてなすように彼らをもてなしたものだと推定できる。




第14章


1.オーガスト・カーバー:『教育の疑わしい引用』(デトロイト:ウェイン州立大学、1968)、p.l38。


2.1995 年8 月22 日:「人を愛する心」は心情をいう。


3.1957 年3 月17 日:ルカによる福音書14 章11 節。


4.アンティステネス:アンティステネス(B.C.445 ~ B.C.365)はギリシャ哲学で犬儒学派の創始者である。


5.1957 年11 月1 日:「アベル的な」という言葉は、例えば、信仰基準がより良いという言葉である。


6.ミシュナ、アヴォート4.1:ベンジャミン・フランクリンは『プア・リチャードの暦』でこの聖句を引用した。


7.申命記6.5 ~ 9:トーラ(申命記6 章4 ~ 9 節)の中心本文の一部であり、「シェマ」でも知られた部分である。信心深いユダヤ教徒たちは、一日に三回ずつこの語句を暗誦し、一週間に数時間を投資してトーラを勉強し、この教訓的戒めを守ろうとする。また、これは祈祷の時に額と腕につける箱の中に包まれたトーラの聖句を儀礼に使う時、基本になるものであり、一方、各家庭の入り口の柱につけられたメズザの中にもこの聖句が入っている。


8.アーディ・グラント、ラームカーリー・シッダ・ゴーシュト:シーク教の経典であるアーディ・グラントの朗読と崇拝は、シーク信仰の中心である。シーク教は元来、グルの弟子のモデルから来ている。しかし、第10 代の最後のグルであるゴーヴィンド・シングの時から、シーク教はグルの知恵の具現として、経典に頼るようになる。これにより、アーディ・グラントはグル・グラントと呼ばれている。


9.2000 年2 月14 日:「訓読会」とは、「み言を読み、学ぶための集い」を意味する。統一家の伝統は、毎朝みな、一家族が集まって、隣人と共に文鮮明先生のみ言から抜粋した文章を読む。時々、他の経典で補うこともある。


10.クルアーン3.7:この節は、朗らかなフレーズとあいまいで比喩的なフレーズとを区別するもの、したがって主題に対する多様な解釈を指摘するものである。(ここで解釈されたもののように)この部分に時期がなければならないのか、可否をおいて、聖書の解釈学者たちの間で論争がある。けれども、ただ神様だけが隠された意味を知っていらっしゃる。そうでないとすれば、これは「完全に知識に認められてしまった者たち」が隠された意味を知るものとして現れる。もし前者が正しいとすれば、クルアーンは解釈に開かれた立場を見
せなければならない。しかし、もし後者が正しいとすれば、その学者たち(ウラマ)がクルアーンのすべての意味において最高の権威をもつようになる。


11.ヨハネによる福音書16.12 ~ 13:イエス様が弟子たちに教えた時間は、たった3年であった。それゆえ、多くの天の秘密が明らかにされない状態で残るようになった。


12.クルアーン13.38 ~ 40:「聖書の母体」は、神様に対する真理の充満さである。クルアーンと以前の他の経典に啓示された内容は、この真理の充満さの一部であろう。永遠に生きることができないムハンマドや他の預言者たちがどうして分かるだろうか。


13.ミシュナ、アヴォート3.23:祭祀と純潔の法は、聖書に記された神様の戒めの中にあるが、科学の法則とは、人間が考案して出した知識にすぎない。


14.マイモニデス、迷える者への手引き:マイモニデスにおいて理想的観察のための最も適合した領域は、哲学的質問である。その指針書にある警戒は、ユダヤ人の生活を制約するハラカの法の戒律に関するものであった。


15.無門関1:「無」は空を意味する。しかし、空は概念的で実現され得ない。真正な瞑想は、知性の完全な否定を要求する。


16.テモテヘの手紙一4.12 ~ 16:教会内の指導者の位置;司教、神父、執事は按手を通して任命される。


17.イブン・ハルドゥーン:哲学者兼歴史学者(1332 ~ 1406)であり、アラビア歴史、哲学、社会科学の始祖である。
18.1990 年6 月27 日:このフレーズは文鮮明先生の「三大主体思想」を表している。三大主体思想とは、父母、先生、主人の役割と関連したみ言である。文鮮明先生の観点に基づいたみ言である(第21 章3.「典型的指導力」参照)。


19..イガラ族の格言:経験をたくさんもち、知恵深い目で見ることのできる者だけが、他の人々を教えることができる。


20.論語9.10:顔回は孔子が愛する最も秀でた弟子であった。しかし彼は、特に師があまりにも遠くにいると感じた。


21.無門関17:禅仏教で師の地位は重要である。しかし、あるがままの模倣はそうではない。


22.ルカによる福音書5.37 ~ 38:イエス様の教えが伝統的視角に挑戦するものだったので、彼のみ言は、過去の伝統に縛られている人々にはほとんど受け入れられなかった。


23.1987 年1 月4 日:「真のお母様」は、韓鶴子総裁に対する呼称である。


24.ヤコブの手紙1.22 ~ 24:教えが実践に移行しなければ、それはすぐに忘れられる。特に霊的に敏感な人たちが啓示を受けても実践しないとき、このようなことがよく発生する。したがって啓示は、行わなければまたたく間に消えてしまう。


25.1993 年8 月1 日:心と体の統一が完成の基準である。


26.1993 年8 月1 日:縦的関係とは、父母、祖父母との世代の関係をいう。横的関係は、同年配の集団との関係である。


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世界経典-79

2022年09月03日 19時31分14秒 | 学習
第1章

1.ゲッデス・マグレガー:生動的説教6/1、p.23 に収録された「疑いの心を解かれた神様」

2.ブレーズ・パスカル:『パンセ』(1670)、ジョン・グロス、「オックスフォード格言録」(ニューヨーク:オックスフォード大学出版部、1983)、p.11.

3.詩編19.1 ~ 4:キリスト教とユダヤ教が保有する様々な聖書には、詩編の形態が少しずつ異なって現れる。ユダヤ教の聖書では、このフレーズが詩編の19.2 ~ 5 に該当する。

4.道徳経21:本質とは、精神、聡明、生気の意味もある。「道」は直観で解くことができる。

5.ヨハネによる福音書1.18:キリスト教で自然現象に関する書籍、あるいは人間自身の霊的経験は、根本的な実在に対して部分的な知識だけを提供すると見る。神様の本性は、イエス・キリストの中から、特別、啓示を通してのみ世に完全に現れる。

6.申命記6.4:シェマはユダヤ教の信仰告白である。「主」(Load)は小文字で書けば、ヘブライ聖書(旧約)でいう「ヤハウェ」、神様の聖なる名を示す。しかし、ユダヤの律法学者たちの間で「ヤハウェ」という言葉は使われない。一部のプロテスタントの信徒たちはそれを「エホバ」と呼ぶ。

7.楞伽経:本経は一切が心によって生じることを説いている。苦痛に満ちた現象世界は、無意識の中に蓄積された虚像によってつくられていて、実有はすべての虚像が消え、完全な知恵を得る時に実現されるのである。したがって、存在の「真如」は「真心」と同一である。

8.1971 年1月16 日:英語の「God」を意味する韓国語「ハナニム(神様)」は、「ハナ」(一つ)として存在するお方に「ニム(様)」の尊敬語をつけて表現したものである。

9.1982 年11 月25 日:「諸現象」、「諸法」。中国と韓国の仏教における「真如」は、すべてのダルマの背後に置かれた真なる実在(楞伽経参照)を意味するのに反して、「ダルマ」は存在の現象と構成要素を意味する。文鮮明先生は仏数的用語を当てはめてお話しされたのである。

10.ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド4.5.15:いわゆる「不定によって」に関する古典的説明であり、求道者があらゆる相対的な現象世界を一皮ずつだんだんはがしていきながら、結局、絶対者に到達する。文鮮明先生はそれを「零点」(zero point)の追求と呼ばれる(第7章、空、涅槃を参照)。

11.カタ・ウパニシャッド2.3.7 ~ 8:実有の段階的な次元がもつ具体的な意味については、若干の論難がある。心は情・知・意の根本であり、知性
(buddhi)はより浄化された思慮分別の機能である。偉大なアートマンについて、ある人はこれをブラフマンの内在だと解釈し、またある人たちは、あらゆる心の集団意識とみなす。未顕現者は、実有の無分別状態の意識、あるいは因果世界の種子としての属性をもったブラフマンであり、至高人プルシャはブラフマン、あるいは至高存在自体である。

12.大方広仏華厳経37:経における教えは次のとおりである。1.究極的真理の観点から見る時、あらゆる存在は同等に仏性をもつ。2.あらゆる現象は他の現象と相互依存によって存在するようになる。3.各経験は相互依存的関連ゆえに、その中に他のあらゆる経験を包含する。

13.詩経254:統治者が天命・天意に従わなければならないことを教えた古典的教訓である。天命・天意を失えば、統治権を失うようになる。

14.ゼファニヤ書1.14 ~ 18:「主の怒りの日」、これは、ローマ・カトリックのレクイエム・ミサ、Dies irae、dies illa / Solvet saelum in favilla / Teste David cum Sibylla を扱った有名なミュージカルに出てくる、審判の日に対する描写の序文である。

15.クルアーン2.115:ムスリムによって神様は、東洋と西洋のあらゆる文化と宗教をもった人類に現れるものと解釈されている。一元的な神様は、そのお方のあらゆる被造物を包容なさる。

16.六祖壇経:慧能が用いる術語としての「自己の本性」は、本質的に仏性と同一の仏心を意味する。しかし、「自己の本性」は一切万有の本質だと言い得る「真如」とまた、異なりはしない。事物の如実な本質が心によって正しく把握される時、
事実、これらすべては同一である。

17.列王記上19.11 ~ 12:神様は心情で交流し、み言で御自身を明瞭に現す。神様は徹しい風や地震や、また他の自然現象のうちに現れる力の中にはいらっしゃらない。これはカナン人たちが崇拝してきた自然宗教に対する冷酷な非難でもある。

18.出エジプト記3.13 ~ 14:燃える柴の木の中で神様と会ったモーセから伝えられたこのフレーズは、永遠にいらっしゃる存在として、「私はある」(I Am)という意味をもった四つの子音で構成された、ヤハウェ(YHWH)という神様の名前に対する伝統的な語源を提供してくれる。このフレーズはまた、神様の不変性と永遠性に対するキリスト教とユダヤ教がもつ神学的討議に関する基礎を提示する。

19.金剛般若経29:「如来」は、仏陀に与えられた称号であり、よくこの世界を超越し、ここでもなくあそこでもない涅槃の世界に至った者として、その宇宙的顕現を表す時に使われる。それは「ここまで来る」、すなわち悟りの目標に到達した者を意味する。

20.バガヴァッド・ギーター8.17 ~ 21:ブラフマンの時間に対する説明である。永遠に反復する宇宙的時間の周期、すなわち一つの世界の誕生と消滅までの間の無数の劫をいっている。一般的にブラフマンの時間は4ユガ(yuga)に分けられ、この中でカリ・ユガは次の宇宙的な消滅がある直前の、最後の時代に該当する。

21.金剛般若経32:現象界に対する仏教の根本的な立場であり、無執着に対する仏教倫理の土台を成し、苦悩と喪失と離別の苦痛の中にいる人々に慰めを与える。

22.感興偈80:釈迦は究極の境地を否定の方法で語る。すなわち、存在自体の本性に関し、積極的に語ることを拒否する。

23.道徳経79:「偏愛」は人間たちが常に金持ちや権力者に与えるたぐいの給付を意味する。

24.大般涅槃経259:仏教の慈悲は西欧的概念であるアガペー的愛に近い。これは何かを追求するところの欲望ではなく、あたかも父母が子供に見せるような無条件的な愛である。

25.アーデイ・グラント、ジャプジー16:創造の法則の中に内在された根本的な源泉、すなわち「法の雄牛」は、神の心、特に聖なる慈悲の心である。世の中の苦痛は実に重い荷だと言うだろう。

26.ホセア書11.9 ~ 11:預言者ホセアがイスラエル北朝王国のエフライムめ腐敗を預言するとともに、悲哀感を詠じたものだ。彼は、神様がイスラエルを我が子のように愛され、エジプトからお救いになり、赤ん坊のように彼らをお育てになったその時を回想する。アドマとツェボイムはソドムとゴモラと一緒に滅亡した都市である。

27.ルドルフ・ブルトマン:『古代宗教の枠内における原始キリスト教』(ロンドン:テムズ・アンド・ハドソン、1956)、p.l8.

28.創世記1:六日間、あるいは六段階の創造は、「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」(ペテロの手紙二3 章8 節)というみ言のように、地質学上の時代に比喩される。したがって、初日は大爆発、二日目は宇宙秩序の確立、三日目は陸地の形成、四日目は大気がきれいになって星が出現し、五日目は海に生命体が出現し、六日目は陸地に動物が誕生し、ついに人が出現するのを見ることができる。このように創造段階に対する一般的な説明が、現代科学が提案する創造過程と一致するように見えるからといって、
聖書を、科学的知識を提供してくれる資料として理解してはならない。どこまでも聖書は、地上が世界の中心に存在し、地上に屋根のような青空がかかっていて、その青空の上に天井の水が存在するという古代の宇宙観をもっている者たちに啓示されたものである。

29.クルアーン32.4 ~ 7:クルアーンも聖書のように神様があらゆる善なるものをおつくりになったと確信する。このフレーズなどは、神様が被造物を六日目に完成したあと、安息の権力の座にお上りになったと描写している。そうなったあと、そのお方は天から地上の事柄を指示なさり、近づく審判の日を予見なさったが、その日、あらゆるものは解体され、彼のもとに帰るだろう。

30.道徳経51:人々が継続して自然、または人民を支配する時、同じ方式でしなければならないと主張する。

31.創世記ラッバー9.2:一部の物理学者たちの推測によれば、宇宙が人間にぴったりと合う理由は、おそらく私達の暮らす宇宙が、多くの宇宙のうちの一つだからだろう。彼らのうちの無神論者たちは、知能をもった設計者の創造という概念を否定する。しかし、経典では聖なる設計者もやはり、成功する時まで反復される実験を通して努力したと説明する。このフレーズもやはり、創造に投入されたそのような努力について言及している。

32.アーディ・グラント、マールー・ソハレ:シーク教の経典によれば、時空を超越して存在なさる無形の神様は、彼が創造なさったとおりの属性をもたれ、「権能をもたれる」。人間を彼の居所として創造なさり、神様は感覚の「九つの居所」の向こうにある心、第十の居所である超知覚的な心に存在される。

33.リグ・ヴェーダ10.129:混沌から宇宙の創造に関するこの説明で、「かの唯一なるもの」(tad ekam)は創造に先在する可能態であり、実在である。心の出現は創造に先立ち、その動機は「愛」、すなわち対象とともに実現しようとする唯一物の意欲である。非存在から存在を分ける創造の最初の行為は、創世記1章に出てくる第一日、すなわち神が暗闇から光を分ける日と類似する。「種をはぐぐむ者たち」と「強力な力たち」は、各々女性原理と男性原理を表す。だが創造の奇跡は神秘として残される。それにもまして、ヴェーダの神々でさえも、彼らの起源を知らない。なぜなら、彼らはそれ自体から分離された存在以後に出現したからである。

34.リグ・ヴェーダ10.90.6 ~ 10、13 ~ 16):この称賛の主題は、創造方法としての供え物を意味する。世界は、最初の「プルシャ」(至高存在)自身の供え物と分解を通して現れた。これは神様が時・空間世界に現れるために、神様の絶対性が自ら供え物になったということを意味する。供え物の最初の顕現者たちがみ言の実体としての四つのヴェーダであり、ヴェーダから物質世界、人間が出現した。

35.デズモンド・ツツ:生きている説教6/1(1997 年1 月~ 3 月)7 に引用された「デズモンド・ツツの語録集」


36.法華経3:焼成としての存在相は仏陀自体、火の説法(Fire Sermon)に帰する。(第6章12.「苦痛」参照)。釈迦は自らの限りない慈悲であり、人間の父母になる。

37.熱田神宮の神託:神道で強調される自然との共同体意識と自然に対する尊重は、人々と共に神社および自然の事物を宇宙的家族の一つとして束ねる結束に土台を置いている。熱田は名古屋の神社である。

38.1959 年8 月30 日:神様は堕落した世の中にもいらっしゃるが、愛がなければ真なる存在も存在できない。今、神様は初めて御自身の存在意味を見いだされたのである。

第2章

1.ヨハネによる福音書1.1 ~ 5:ギリシャ哲学で言葉とは、神様が宇宙を創造されたロゴスや計画である。聖書では、キリストが創造のための模型であり、計画の言葉自体だと断言する。

2.箴言8.22 ~ 31:「幼な子」は時には「熟練工」と翻訳されもするが、前者が文脈に、より適合する。

3.2004 年1 月27 日:人間が神様の希望を踏みにじってしまったあと、神様も明らかにこのような気持ちになられたのである。

4.ミラノのアンブロシウス;世の中からの逃避3.15.
5.1972 年10 月29 日:子女に向かう父母の「親の子に対する愛情」は、子女の心情を育て、義務感を植えてくれる。それがやがて孝心、すなわち「父母に向かう子女の愛」を成熟させてくれる。この段落は、道徳性と関連した側面といくつかの人間関係の類型、すなわち文鮮明先生の四大心情圏(子女の愛、兄弟姉妹の愛、夫婦の愛、父母の愛)の教えを説明してくれている。

6.レビ記19.18:マタイによる福音書22 章36 ~ 40 節から引用。

7.出エジプト記20.1 ~ 17:十戒の内容の区分については、若干、見解の差がある。ユダヤの伝統では「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」という内容が第一戒とみなされる。しかし、キリスト教ではこれを一つの序論と見る。大部分のプロテスタントとギリシャ正教では、「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない」という内容を第一戒として受け取り、偶像崇拝禁止を第二戒として受け取っている。ユダヤ教では、第二戒に「あなたには、ほかに神があってはならない」というものと偶像崇拝禁止を一緒に包含させている。ルーテル教会とカトリック教会でも、ユダヤ教と同じ立場を取り、この二つは構成上、一つの戒めにならなければならないと見て、これらを第一戒と考える。しかし彼らはこの二つを、十戒をつくるために、自分たちの見解に抵触しながらも、二つの戒めとして分けている。

8.タルムード・サンヘドリン56a:ノアの子供たちが全人類の先祖なので、ラビたちは伝統的に、神様がノアに洪水審判以後に下さった法(創世記9 章3~ 7 節)をすべての国家を束ねる道徳的律法として受け入れた。この法に順応すれば、異教徒までも神様の前に義のある人として認定され得る。

9.マヌ法典10.63:すべての階級と人生のあらゆる段階で普遍的に適用され得るこれら十個の徳目は、サーマーンヤ(普遍義務)と呼ばれる。これは階級を差別する特殊な義務を規定する土台となる。またこれは、あらゆる階級と伝統を網羅したヒンドゥー教の社会が倫理的共感帯を維持する最小限の共通要素である。

10.1959 年7 月5 日:韓国の伝統儒教の教えの中における「三綱」は、孝道(息子が父親に)、貞節(妻が夫に)、忠誠(臣下が王に)をいう。「五倫」は前の段落の「中庸の道」を実践する五つの普遍的方式をいう。

11.クラールナヴァ・タントラ3:「脈」は、吸う、吐くという呼吸の中に現れる。

12.バガヴァッド・ギーター13.1 9 ~ 22、26:宇宙は精神、意識、神性だと考える「プルシャ」、そして物質、エネルギー、自然界だと考える「プラクリティ」の二つの原理によって形成される。しかし、一元論的なヴェーダーンタ学派の立場から見ると、プルシャとプラクリティの二元性は、悟りの世界と全く無関係なものであり、これはむしろ追い越すべき幻惑とみなされる。

13.トマス・アクイナス:『神学大全』Ⅰ-Ⅱ、Q26、art.2.
14.易経、周易繋辞下伝2.5.2 ~ 3:易経の哲学では、陰と陽の持続的活動の相応作用を強調する。すべての活動は相対的作用を発生させる。繁栄を願う人は、変易の原理をよく知り、それを有益に活用しなければならない。例えば、創造し発展しようとする人は、まず自らの内面を顧み、自らに集中しなければならない。

15.易経、周易繋辞上伝1.1.1 ~ 5:易の思想は、卦の解釈から具体的に現れる。64 卦はすべて二つの小成卦で成り立つ。卦を構成する六つの棒、すなわち爻は各々陽(+)であるか、陰(-)であり、また強いか柔弱である。この爻は道理に従って変化し、強い陽は柔弱な陰となり、強い陰は柔弱な陽となる。ゆえに、64 卦はダイナミックな変易の原理を現す。このフレーズは乾卦と坤卦に対する説明である。

16.道徳経11:車、器、家などの有用性は、これらがもっている空間の無にある。有用性は道の完全な循環を成すところの、行ったり来たりという反復的な過程を通して現れる。
17.1992 年11 月23 日:人間関係の原理としての授受作用は、「第13 章授受作用」の内容を参照すること。

18.楞伽経78:一切の万物は互いに依存していて、因果関係を通して互いに影響を授け受けする。これらがみな生まれて死ぬ苦痛の世界に束ねられているのは、正にこのような理由のためである。このような相依的関係の鎖は、当然、これを観察する主体も包含しなければならず、この鎖の外部に存在し得る別の白我が存在できるという考えは、妄想にすぎない。しかし仏教の洞察は、私達が不生の超越的な実有を見ることができるよう許諾すること、それは涅槃に入った心の中で確立される。

19.1993 年1月31 日:「天運」とは、天の法則に従って万物を繁栄させる、天宙を通して作用し遍在する宇宙的力と作用の結果をいう。

20.抱朴子:葛洪(253 ~ 333)が著述した抱朴子は、道教で最も重要な古典である。抱朴子には道教の不死不滅の信仰と、応報の教理と、不老長寿の養生法などが詳しく収録されている。

21.ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド4.4.5 ~ 6:業が再生の位態を規定する原理をいう。

22.感興偈1.1:縁起は人間を束縛する条件を描写する。したがって、それは「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(ローマの信徒への手紙3.20)という使徒パウロの言及に比喩できるのである。しかし、仏教徒において、この法に対する正しい知識によって因果の輪を輪廻することで、束縛が除去できる。「これがなくなることで、あれがなくなる。これが止まることであれが止まる」第7章11.「逆転と復帰」を参照すること。

第3章

1.創世記1.26:「我々」という複数人称は、よく三位大体の人格として理解されてきた。神様が彼の天使たち、または複数として神様について語られたものと理解される。

2.テーヴッジャ・スッタ(三明経):釈迦は、至高の神としてブラフマー[梵天]の存在を自ら主張したことはなかった。なぜなら、空にはどんな至高の神も見いだすことができないからだ。しかし、本文のようにブラフマーの存在が肯定されるのは、彼が空の究極的実有の形状だという点からである。これはあたかも、阿羅漢は存在自体だと見る時、彼自身が空なので、究極的実有の形状として肯定されるのと同じである。この問答は、釈迦の独特な方便である対機説法の一例として、ブラフマーを信じるヒンドゥー教徒に適合するよう仏教の真理を説いている。

3.ガラテヤの信徒への手紙2.20:キリストの降臨によって神性が人間に入り、人間は高潔になった。正統信仰を守るキリスト教徒たちの最高の目標は、キリストと一致する聖化である。聖アタナシウスが教えたように、神様はイエス・キリストの中で人間になられ、人間は神聖な一致を取り戻すようになった。
4.バサバンナ『ヴァチャナ』820:インドの寺院は伝統的に人の形状に建築される。これはまた、宇宙の原初的青写真でもある。リンガヤータ・シャイヴィズム(Lingayat Shaivism)において、人間の肉身自体がシヴァ神の寺院とみなされる。

5.イブン・マーシャのスナン:これは現代イスラーム解説者であるムハンマド・ビン・ザーイドの著書で、預言者語録に関するものの中で最も重視される書籍のうちの一つである。

6.教義と聖約93.29 ~ 35:人間は本質的に霊、あるいは英知であるが、物質と肉体もまた、肯定的役割を果たす。キリスト教の伝統が大体そうであるように、末日聖徒の経典も、人間が神様の聖殿になるために、そして人間の存在目的を実現するために、霊は肉体をまとわなければならないと教える。

7.長阿含経:大乗仏教の伝統において、仏陀の誕生ののち、彼に属するとされた最初の言葉である。
8.教皇ヨハネ・パウロ2世:アメリカの司教に向けての書信、1979。

9.1977 年2 月23 日:これは人権保護を声高に叫びながらも、実際、共産主義の広範囲な拡散を黙認したアメリカのカーター元大統領に対する文鮮明先生の批判である。

10.1992 年4 月26 日:このみ言において、強姦や姦通による堕胎については言及しなかった。人間存在の可能性と実際の人間の間を区分する基準を明らかにするほうがよいだろう。統一主義者は赤ん坊が生まれて、最初に息をする時、霊魂が肉身に入り(創世記2 章7 節)、この時が霊魂と肉身で構成された完全な人間になる時だという。これはプロテスタント的信仰と一致する。だから文鮮明先生は、堕胎が殺人と同じだという観点で批判するより、それが神様の新しい創造を挫折させ、神様の形状に似るよう胎児に相続された潜在的価値を
否定するので、罪だと考えるのである。

11.ローマの信徒への手紙2.14 ~ 16:良心は、真理と自らの罪を認識させる人間の普遍的属性である。

12.ルカによる福音書17.21:このフレーズは多様に解釈されてきた。「あなたがたの間に」という表現をそのごとくに解釈する場合、彼らの中にいるイエスと彼の共同体を本然の天国と見ることができるが、このフレーズのより奥妙な意味は、天国は信じる者の心の中にあるというものである。

13.孟子Ⅱ.A.6:孟子は儒教の四つの徳を掲げた。それは、仁(仁愛)、義(義務や正義)、礼(規範や形式の遵守)、智(知恵)の四つである。この徳目の根は、人間性、すなわち本質的善性の起源である。

14.1969 年9 月14 日:「真」という単語は、あるものの特性が真実で正しいということを描写する形容詞である。人間と連関させてみれば、「真だ」というのは、真を自分の中に具現するという言葉である。韓国語の「真理」と区別する必要がある。

15.1971 年1 月16 日:24-315、1969.9.14 のみ言参照。

第4章

1.万葉集I:「煙」と「かまめ」は、人間と自然の問の豊饒と調和を示唆する。

2.ジャータカ:太古の清浄さと美しい景観をもった山々は、常に修行者たちのための適合した環境として好まれた。そこにおいて彼らは、最も適切な方法で究極的真理を観察しようとする努力ができただろう。アジアにおいて仏教の寺院は、よく自然資源保護区域と関連する。

3.2000 年12 月10 日「10 里(韓国の里は日本の里の10 分の1)」で「里」は、一種の距離測定単位である。韓国の1里は、約429 ヤード、あるいは393メーターに該当する。

4.リグ・ヴェーダ6.28:神聖な動物として、雌牛に対してこのように特別に尊重することは、ヴェーダ時代から今日に至るまで、インド全域で続けられている。

5.フランシス・ベーコン:ケンブリッジ・トリニティ・カレッジに送った手紙。

6.礼記7.3.1:「自然の二つの力」とは、陰と陽である。「五元素」――地、空気、水、火、金属――は、すべての事物の基本構成要素である。中国の変化哲学は、陰陽と五元素(行)の理論を結合し、これらの間の均衡と変化を通して歴史と運命を決定し、人体の健康、芸術と文化、自然の活動の因子として見ている。音楽の五音階との関係も注目される。

7.アイタレーヤ・ウパニシャッド1.1 ~ 3.12:創造の最初に形成される原人プルシャは、大宇宙的人間であり、彼の各部分が小宇宙、すなわち人間に付与される。このようにヒンドゥー教の寺院は、人間の体の形状に従って造られる。

8.アイタレーヤ・ウパニシャッド1.1 ~ 3.12:頭蓋骨のてっペんにある脳天(頂門)は、王冠チャクラの位置であり、霊魂が抜けていって天界に至る門である。第5 章5.「あの世界への通路」から、297-252、1998.12.19 原文を参照。

9.1959 年10 月25 日:個々人は、時間的に空間的にみな、小宇宙的存在である。

10.1977 年2 月27 日:第20 章10.「和合と共同体」のコリントの信徒への手紙一12 章12 節~ 26 節を参照すること。

11.クルアーン33.72:「信託」とは、善を選び、悪を拒否し、神様の目的に従って生きていく責任を意味する。すべての被造物において、人間だけが自由意志と責任をもらった。しかし、私達はそれを濫用している。

12.アヴェスター・ヤスナ29.1 ~ 9:天上の対話において雄牛の霊は、自分が邪悪な者に虐待されていることに不平を言う。雄牛は彼の主に正義を求めるが、そのようなものはないというのが答えである。雄牛と雌牛の霊が神にまた、一層切望すると、神は、同時に牛と人間が互いに助け合い、調和をもって暮らすことのできる戒律を定めてくれた。満足できない雄牛は、この戒律を実行する正義感あふれる保護者を求めた。神はツァラトゥストラに行けというが、彼はその戒律を実現させるには力が足りない。雄牛は「いつ教えが広まり、救いが来るのか?」と尋ねる。実際にゾロアスター教は、ヴェーダのアーリアン族たちが行った殺牛儀式を廃止してしまった。


13.波逸提Ⅱ:僧院に関連したこの律法は、林の中の住居に暮らす修行僧たちについて述べている。修行僧たちは、絶対に住居用の敷地を造るために大きな木を切ることができない、という意味に解釈し得るだろう。彼らは、おそらく薮だけを刈ることができただろう。


14.イザヤ書11.6 ~ 9:平和な王国の形状は、本然の調和が回復した神様の王国の世の中、エデンの園で万物が和合する姿を描写している。このフレーズの意味の別の解釈で「狼」と「小羊」は、人を象徴するものだという。野蛮な抑圧者が狼、謙遜な信仰者が小羊として比喩される。


15.パラケルスス:数年間の診療と治療経験によって著述した『大自然の教訓』から、「落ち葉を踏みしめながら歩く」医師。良い結果と悪い結果はみな、教え導く材料である。


16.2000 年6 月30 日:「右側……左側」は、すなわち「東……西」を意味する。




第5章


1.ヘブライ人への手紙8.1 ~ 5:天の幕屋において、罪の赦しのために捧げられる大祭司長であられるイエスの犠牲は、ユダヤ教の律法に従って贖罪するためにエルサレム神殿で捧げられる犠牲の供え物を超越するものと考えられている。これは地上の領域が霊界の模型と影と影像として存在する間、霊界が形状の世界として実在するという新プラトン哲学に基づいている。ヘブライ人への手紙は、このような見解をバックアップするために、神様がモーセにシナイ山で見た天の幕屋の見本に従って幕屋をつくることを命じる、出エジプト記
25.40 を引用する。
25.41
2.コリントの信徒への手紙一15.40 ~ 41:天に属する体は、神聖な愛と恩寵のうちに高く舞い上がる霊である。地に属する体は、世俗的な欲望に執着し、地に縛られている霊である。しかし、地に属する霊も、天使とより高い存在への奉仕を通して高められ得る。


3.教義と聖約76.54 ~ 88:三つの霊的等級を記述した善行の語句の幻想的解釈である。神権の一員であり、福音伝播に努める末日聖徒とその家族たちは、太陽の霊になるだろう。貴く良心的なキリスト教信徒は、月の霊になり、聖霊を冒pしたり犯罪を助長しない非信者は、星の霊になるだろう。


4.教義と聖約88.36 ~ 40:人が各自の英知、徳、光明、慈悲、正義のうちにふさわしい「王国」に上がるようになることをいう。


5.1977 年2 月27 日:全体の段落を把握するためには、第4 章4、「小宇宙と大宇宙」を参照すること。


6.甘露の法雨:新興宗教である「生長の家」の経典は、日本の民間仏教のように現象界と実在界を対比している。肉身は現象界に属するが、霊的生活は実在界に従う。


7.バガヴァッド・ギーター2.19 ~ 25:アートマン[自我]は、肉身と結合して「体化」し、この体からあの体に移ることとは無関係であって、永遠に存在する。


8.キケロの国家論6.14:ストア哲学の代表的短編「スキピオの夢」から抜粋した。


9.アカン族の格言「オニャメ」は超越者に対する最も一般的なアカンの名前である。これはおおよそ、充満を与える唯一者を意味する。


10.易経54、帰妹:「帰妹」とは、正常な手続きを踏まずに嫁に行った若い女性をいう。花嫁候補が一生の結婚を準備するように、人間関係はひとえに、永遠性の観点に基盤を置く時に成功し得る。


11.1969 年6 月22 日:「天運」についての第2 章の注釈19 を参照すること。


12.マタイによる福音書18.18:イエス様は、つなぐ、解くという権威を弟子たちと教会にお与えになった(マタイによる福音書16.19 と比較すること)。それによれば、その権威はペテロにだけ与えられた。カトリックの場合、この本文は、教会によって施される訓戒と恩寵に主に関連する。その場合、地上で確定されたことは天でも認定されるものとみなされる。しかし、聖職の仲裁を否定するプロテスタントでは、キリストの祝福は信者個人の信仰と祈祷と善行を通して有効になる。したがって、究極的に個人が地上でつないだり解くことは、天でもつないだり解くことになるのである。


13.2004 年5 月1 日:「蕩減条件の清算」を意味する。


14.1975 年2 月2 日:一方、別のみ言では「黙示」は、神様が私達の心に完全にとどまる時、最後の段階を意味する。


15.1998 年12 月19 日:ひよめきは、乳児の頭の部分にあるふわふわした部分で、二歳くらいになると閉じる。これは、新しく死んだ霊体に存在するものと似た器官であり得る「第4 章4.「小宇宙と大宇宙」アイタレヤ・ウパニシャッド1.1 ~ 3.12 参照)。


16.バガヴァッド・ギーター8.5 ~ 13:臨終時の念願と姿勢が、死ぬ人の来世を決定することにおいてとても重要だという点を教えている。生きてきた人生の内容と無関係に、死ぬ瞬間にただ神の名を念ずるだけで解脱を得ることができるかもしれない。しかし、死とは、予告なしに訪れるものであり、また耐え難い苦痛と精神的な迷いを伴うものなので、神を念ずる姿勢が日常生活を通して十分に磨かれていないとすれば、臨終時に神を念ずるということは、ほとんど不可能だというべきだろう。多くのインド人たちが神の名前を息子の名につけるのは、死の瞬間に自然に神の名前を念ずるようにするためである。すなわち、誰しも臨終時には本性的に息子のことを思うようになり、彼の名を呼べば、これによって神の名を念ずることになり、解脱を得るというものである。


17.1968 年3 月29 日:子女の愛とは、幼子が父母から受ける愛だけを意味するのではない。父母が年老いた時、父母に行う子女の孝道も、やはり子女の愛という。


18.リグ・ヴェーダ10.154.5:これは死んだ者たちの世界を主管する、ヒンドゥー教の神であるヤマに対する賛歌であり、「死んだ者をより高い世界に入れるようにしてくれ」という祈願である。ヴェーダでヤマは輝く世界を主管し、死んだ者たちを有益にさせるために、懇請と献物を捧げる対象である。


19.ブハーリー・ハディース:ムハンマドの夜の旅(ミラージュ、昇天)であったエピソードのうちの一つである。そこで彼はメッカからエルサレムに送られ、当時、七階の天を旅行し、その上、神様の権座のところまで行った。


20.ガルダ・プラーナ3.49 ~ 71:最後のフレーズで見るように、ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教に現れる地獄の概念は、キリスト教の煉獄の概念と類似している。言い換えれば、東洋的思考において地獄は、取り返すことのできない永遠の呪いの場ではなく、悪い霊魂たちがより高い次元に進むための、過ぎし日の悪業を消滅させる所だということにすぎない。


21.ぺテロの手紙一3.18 ~ 19:イエス様は地獄の霊魂たちに説教し、多くの人々(地獄で苦痛を受ける人々)を救いに至らせたという意味に解釈される。


22.クルアーン11.106 ~ 108:このフレーズを中心として一部のムスリム神学者たちは、地獄での刑罰が永遠ではないと推論した。「なんじの主のおぼしめしがない以上、天と地の続くかぎり」というのは、終わりがあるということだからである。反面、次のフレーズにある天国の期間については、明白に永遠だと明示されている。


23.クルアーン55.14 ~ 15:精霊は霊的存在である。一部は下級天使であり、一部は善良で、一部は邪悪である。クルアーン72.1 ~ 15 参照。


24.華厳経:大衆的な仏教で崇拝される偉大な菩薩たちは、仏陀の多様な側面を具体化し、象徴している。普遍的善を意味するサマンタ・バドラ(普賢菩薩)は、仏陀の誓願と実践を表す。マンジュシュリー(文殊菩薩)は、仏陀の知恵を表す。アヴァローキテーシュヴァラ(観音菩薩)は、苦痛の中にいる一切衆生に対する仏陀の慈悲を表す。


25.クルアーン53.4 ~ 10:このフレーズは、ヒラー山で天使長ガブリエルがムハンマドのビジョンを説明している。最後のフレーズは、この天使が自らの言葉を語っているのではなく、神様の啓示を彼の(神様の)僕に伝えているものであることを表す。


26.陰隲文:大衆道教では、過去の偉大な官吏と皇帝たちは、昇天し祝福された霊魂になった。文昌帝君は道教の最高神のうちの一人だ。


27.1997 年3 月9 日:天使長が男性格なので、ここでは地上の男性たちを言及したものである。結婚前の男性たちは、堕落した天使長ではなく、善なる天使長の役割をもって女性たちと関係を設定しなければならない(第6 章1「. 人間の堕落)参照)。


28.タルムード、シャッバト88b ~ 89a:人間の地位に対する、すなわち人間が天使より高いか低いかに対する神様と天使たちの論争である。神様は人間を擁護なさり、モーセの行動を御自身の代弁者とお考えになる。このフレーズは詩編8 章にあるミドラーシユ(古代ユダヤ人の注釈)である。ここでは人間の優位について取り扱っている(ヘブライ原文によればそうだ)。天使たちは詩編2 編を引用し、神様の栄光が天に属していると主張する。しかし、モーセの主張以後、天使たちも結局、「神様の名はただ地上で見いだし得る」という詩編10 編の内容でもって詩編の結論が出るという事実を認定する。ここでの核心の争点は、「責任」ということのように思われる。責任は天使にはなく、人間だけがもつものだからである。


29.『原理講論』、堕落論3.2:「戒め」は創世記2.16 ~ 17 節のみ言をいう(第6章1.「人間の堕落」参照)。


30.クルアーン2.154:これは特に神様のために戦い、死んだ殉教者を指している。


31.神楽歌:「玉串」と呼ばれる「榊」の木の枝は、神道儀礼で神聖視され、崇拝者たちは祈祷と愛する人たちの幸運を込めた絵馬とおみくじをその木の枝に結ぶ。その木の枝は、地上に祝福をもたらす神の霊魂を象徴する。神道の崇拝には、宇宙的調和を成す儀礼の踊りが伴う。


32.ヤノマミ族、シャーマンの教え:これは経験豊かな巫女とその弟子の間の対話である。巫女が霊魂の出現を知らせる兆候であるかすかな音、匂い、感触に鋭敏になるための訓練方法であることに留意すること。


33.シアトル酋長:協定演説(1854)


34.教義と聖約128.18:死んだ者のためのバプテスマは、モルモン教会の重要な儀礼である。それは無知なまま死んだ人々、「福音の中で死んだ者たち」は新しい摂理を知らないキリスト教徒たち、に救いを、そして宇宙に全体的で完全な救いを実現する。これに対する聖書的言及は、マラキ書4.6、ヘブライ人への手紙11.39 ~ 40 を留意して見ること。


35.1976 年2 月5 日:闘争と和合のカイン・アベル関係に対する内容は、第6 章2.「カインとアベル」を参考にすること。




第6章


1.パンドラの箱の神話:この「箱」は女性の生殖器官に対する象徴として、ごく自然に受け入れられる。ゆえに、創世記の説話に出てくる禁断の果実に匹敵するものと考えられる。


2.フツ族の伝承:女性の口の中に飛び込むというのは、明白な性行為の象徴である。


3.古事記4 ~ 6:伊邪那岐(男神)と伊邪那美(女神)は陽と陰の結合を表すもので、この結合はあらゆる神的生命と人間的生命の源泉である。ところがこの二人の神は、大地と万物を創造すべき夫婦の婚姻儀式で最初に失敗を犯した。この失敗は女性に主導権を許したことであったが、創世記の説話で善悪の実を取って食べたエバの軽率さと対比される。彼らから奇形児(水蛭子:ひるこ)が生まれたが、遺棄され、出産の時、伊邪那美は結局、死ななければならなかった(古事記7.22)。創世記3.3 と3.16 と比較すること。日本の哲学家、西田幾多郎は、この神話を神道版原罪と説明する。西田によれば、伊邪那岐と伊邪那美が兄妹だったため、宇宙万象は近親結合に由来する
という。神聖な柱の周囲を回ったのは、近親のタブーを克服するために備えられた一種の儀式だった。しかしこの儀式の遂行の失敗は、その結果をむなしいものにしてしまった。それゆえに、すべての人間は、近親相姦の結果だということである。伊邪那美の死、彼らの娘である天照大神(あまてらすおおみかみ)の象徴的な死(古事記15)、そして彼らの息子である素戔男尊(すさのおのみ
こと)の追放(古事記17.25)などは、この原初的失敗を償うために神道の神が付加した罰であった。


4.増一阿含経34、起世経:中国の三蔵(Tripitaka)にある話である。増一阿含経は、パーリ経典であるアングッタラ・ニカーヤの漢訳である。しかし、本文の場合、アングッタラ・ニカーヤではこれに相応するパーリ原文が見当たらず、ディーガ・ニカーヤ3.27、アッカーナ・スターナからその原文を見つけることができる。


5.ゾーハル1.36:創世記のカイン・アベルに対するミドラーシュ(古代ユダヤ人の注釈)である。これは、聖書の独特な細部の内容から隠れた意味を探し出す典型的なミドラーシュの解釈法である。これによれば、カインがアベルに「一緒に狩りに行こう」と請うフレーズがヘブライ聖書(キリスト教の聖書には70 人訳聖書からこの部分を挿入した)には抜けているという。またユダヤ教の聖書学者たちはこれが抜けた理由について長い間、疑問をもってきた。このミドラーシュにおいて、明かされなかったカインの動機を教えてくれる「手
掛かり」となる表現が抜けていると推論する。サムエルはルーシェルに対するユダヤ式名前である。


6.教皇パウロ6 世、1972 年11 月7 日の演説:「ロセルバトーレ・ロマーノ」、「ニューヨーク・タイムズ」の報道内容。


7.高価なる真珠、モーセ書4.1 ~ 4:神様に対するサタンの要求は二つの失敗を包含している。それは人間の救いに対する補償として、ただ神様に帰すべき栄誉を自分のものにしようとし、人間の自由意志を無視したまま、強制によって「一人も失わず」拘束しようというものである。愛する息子・キリストは、救いに対する栄誉を神様に正しく返す。ゆえに神様は、キリストに対してサタンを地に追い払うよう命じ、地においてサタンは、人間を奴隷にしようと絶えず努める。


8.スッタニバータ1103:「マーラ」は仏教で悪魔を象徴する。


9.ヨブ記1.6 ~ 12:サタンは神様に属した人間を讒訴することで、人間に対する支配権を得る。正義であられる神様は、このような譲訴を聞き、罪を犯した者たちをサタン圏に引き渡されるしかなかった。しかし、罪のない人がどこにいるだろうか。サタンが太初から人間を堕落によって汚したため、サタンはこの方法を用いて誰でも拘束できるのである。天の慈悲がなかったならば、サタンがいつも勝利しただろう。しかし、ヨブ記では悪魔が根本的に邪悪で、神様に反する存在として現れるより、むしろヨブの真実さに対して試練をすることを、神様から許される存在として現れる。ヨブを試練することで、サタンは聖なる目的を達成することに一助したのである。


10.アヴェスター・ヤスナ30.3 ~ 5:ゾロアスター教は人間に、自我の中において、また宇宙全体において、葛藤に明け暮れる善霊や悪霊のうち片方を選択することを要求する。


11.2002 年1 月1 日:様々な資料を通して、神様は地上のすべての人間たちの体に悪霊たちが暮らしていると語る。その悪霊たちは正に、ずっと以前、地上で彼らの先祖の手で苦痛を受けて死んだ霊たちである。彼らの目的は、怨讐の子孫たちを否定的な考えと苦痛と疾病で苦しめて、復讐することである。このようにたくさんの悪霊たちが1980 年代以後から、人間の体の中に巣くって暮らすために地上に降りてきている。


12.2001 年l1 月13 日:全文は第2 章4.「十戒」に記録されている。
13.クルアーン12.53:最高の人間であるムハンマドでさえ、彼自身を潔白だと思わなかった。


14.バガヴァッド・ギーター18.40:物質の三つの自性とは、善性の清浄を表すサットヴァ、運動あるいは熱情を表すラジャス、そして暗闇あるいは無気力を表すタマスをいう。プラクリティ(純粋物質)の所産であるすべての人間は、三つの自性をもっているが、各々異なる比率でそれらをもっているため、多様な様相を現す。プラクリティは世界で作用するエネルギーであり、三つの自性は人間の存在を条件づけることで、人間から自らの永遠の自我を忘却するようにさせ、解脱に至る道を妨害する。


15.論語4.6:最後の部分で不足なものは意志であって、道ではないことを意味する。


16.詩編51.5:プロテスタントとカトリックは一般的に、出産行為をした世代から次の世代に原罪を遺伝させるものだと受け取った。そうかといって、性的結合自体がおそれ多いということではない。第2 回バチカン公会議によれば、夫婦間の愛の行為は、キリスト教徒の結婚生活において恩寵の一手段である。


17.サイエントロジー0 ~ 8:「記憶の痕跡」は、前世から起因する態度と行為の痕跡をもつ。


18.阿含経相応部56.11、転法輪経:これは初転法輪と呼ばれる仏陀の初説法で説かれた四聖諦のうちの二番目である。「非存在に対する熱望」は、霊的栄光に対する欲望から熱望に至るために尽力する苦行者たちと関連する。


19.ヴァチャナ91:シヴァ教のこのフレーズは、女性を男性の堕落に責任がある存在として軽蔑する傾向に反対する。むしろ、男性が自分の欲望で過ちを犯すものと考える。マヘーシュヴァラとは、シヴァ神の別の名前である。


20.アーディ・グラント、ソーラト、M.3:シーク教は五泥棒の教えを通して、心の中にある悪を説明した。
21.マハーバーラタ:これは、悪王ドゥルヨーダナがパーンダヴァ族の五兄弟たちとの約束を破棄する時、言及される。彼は、パーンダヴァ族の兄弟たちが林において追放生活を終えて帰ってくれば、五つの都市を返そうと約束した。その「聖なる霊」は、実は自らの悪い意図を断言する悪霊である。


22.ハディース:これは重要なスーフィー派の伝承である。ムハンマドは異教徒たちを退け、マッカ(メッカ)に意気揚々と行進したあと、彼の生涯最後にこれを語ったと伝えられる。小さな聖戦は終わり、ムスリムは弱い自らに対抗して、内的戦いに進入した。


23.ファン族の伝承:この抜粋文は創造の説話から由来したものである。神が遠くにいらっしゃることと人間の独立性に対する誤った認識から起こった、最初の人間の反乱について描写している。


24.道徳経38:このフレーズは大同の古代黄金時代に注目している。この時は、人々がおのずから互いに調和を成して生きていた時代である。社会が堕落し、一層人為的になるに伴い、人々をこれ以上自然には進まない善の道に導くために、教えと教理が生まれた。形式が真実の身代わりをしている。これの最も基本的要素は、「礼儀作法」であり、子供たちの親に対する従順、そして自らの統治者に対する服従のような態度の規律である。


25.詩編115.3 ~ 8:聖書には、人間が作った偶像、何ら能力のない存在に対する多くの風刺がある。例えば、イザヤ書44.9 ~ 20 とエレミヤ書10.1 ~ 10がそれである。このようなフレーズは、ユダヤ教やキリスト教、イスラームにおいて、神様の現存を視覚的に表すことへの軽蔑を促す。このような風刺は、真心において、形状崇拝に対する誤った理解が招いた。本来、形状は、超越した実在を描写するものと理解され、これはすなわちある形態を超えて存在する神に心を合わせるための手段であった。けれども、形状が魔術的な力をもった
ものと理解される場合、形状に対する尊敬の心は、偶像崇拝に転落するようになる。


26.阿含経相応部56.11:これは初転法輪と呼ばれる仏陀の初説法で説かれた四聖諦のうち一番目である。五蘊とは、私達が存在に対するむなしい渇望をもつ人間の構成要素である。色、受、想、行、識の五要素をいう。


27.創世記6.5 ~ 6:このフレーズは洪水審判の話で始まっている。これは、そのあとのフレーズが示すように、神様の悲しみに関して多くのことを思い起こさせる。


28.高価なる真珠、モーセ書7.28 ~ 37:これは、神様が地上に洪水を起こす前の神様とエノクの間の短い対話である。エノクは、洪水以前に生き、伝承によると彼は生きたまま昇天した。


29.おふでさき17.64 ~ 70:天理教において、罪は人間特有のものではない。それは、本来の純潔な心に積もり重なっているので、一掃されるべきほこりである。


30.ディンカ族の歌:デンはディンカ族の先祖であり、神の頭目であって、地を肥沃にさせ、雨の中に現れる全能の神として知られている。アブクは最初の女性であり、地であり、女性の原理である。この歌は、人類の起源と、地と天の分離に関する伝承に言及しているようだ。


31.優婆塞戒経:正覚者は歴史的釈迦牟尼仏陀だけでなく、万有に遍満した宇宙的仏陀(法身)をいう。


32.1972 年11 月12 日:あらゆる信仰において迫害される者たち、特にキリスト教の殉教者たちに言及している。


33.エレミヤ書8.18 ~ 9.1:前のフレーズの菩薩のような預言者エレミヤは、彼の民たちが苦痛を受けるのと、無知と不信に陥るのを見て、断腸の思いで嘆息をする。それとともにエレミヤは、神様のみ言を伝え、神聖な憐憫の情を表す。


34.イスラエル・バアル・シェム・トーヴ:バアル・シェム・トーヴは「正しい神の名の熟達者」を意味する職責であり、ハシディズムの創始者の名前でもある。




第7章


1.モルモン書、アルマ書12.25:「贖いの計画」とは、不可避な最後の審判と義人に対する終未論的救いをいうものである。神様の究極的正義は、世界の創造以前に宣布されたそのお方のみ言から発見される。


2.御旨の道:「み旨」とは、創造当時、神様が設定された唯一不変の目的をいう。


3.ルカによる福音書15.11 ~ 32:放蕩息子の比喩は、神様は恩寵と許し(父親によって表現された許し)だけでなく、義(兄によって表現された許し)、罪人たち(弟)の許し、そして同情心を伴うという倫理を述べている。


4.法華経4:仏教経典の放蕩息子の比喩において、富裕な長者は仏陀を、そしてその息子は凡夫を表す。仏陀は直接的に自らの恩寵を表されない。したがって、彼は慈悲の心から、凡庸な心の息子に届き得る一つの方便を自らお選びになる。一方、神様は堕落人間を教育する時、これと類似した方便で復帰する。堕落人間は神様から相当離れたので、最初、神様の僕の立場から始まり、最後には神様の直系の子女に復帰される。


5.エぺソの信徒への手紙1.7 ~ 8:本文は、罪の赦しのために十字架上で流されたイエスの血について言及している。


6.観無量寿経3.30:浄土宗仏教において、仏陀の慈悲は地獄のどん底まで至る。アミターユス仏陀、無量寿仏陀、あるいはアミターバ仏陀、無量光仏陀はすべて、浄土宗仏教で本尊として仕える仏陀であり、彼の慈悲は最も極悪無道の罪人をも救済するに足りる。アミータ仏陀の本願で、彼は、自らの名を10回念仏するすべての衆生を救うことを誓願したことがある。


7.リグ・ヴェーダ1.97.1 ~6:火で祭祀をする儀式のための勤請祈祷である。火で神格化されたアグニは火の祭祀を通して象徴的に罪と精神的汚染を燃やしてなくす。


8.延喜式8:神社で詠唱される浄化のための伝統的嘆願である。


9.レビ記16.6 ~ 30:贖罪の日に行う古代儀式である。聖書は大祭司長(アロン)が奉献された雄牛と山羊から血を取り、祭壇と聖所をきれいにすることを規定している。また、イスラエル会衆の罪は、荒野に追いやられる残りの山羊(贖罪の山羊)の体に載せられると聖書は説明する。現代のユダヤ教では贖罪の日に厳粛な断食と「祈祷の奉献」を挙行する。


10.イザヤ書53.4 ~ 6:キリスト教ではこのように苦痛を受ける僕に対する預言を、ただ独り、イエス・キリストとその十字架代贖に適用し、理解する。反面、ユダヤ教ではその僕をイスラエル民族、またはイスラエルの正しい人に見立てる。正しい人の流浪と迫害の苦難は、国家的罪、特に多神教に仕える罪、に対する贖罪であると考えられている。キリストの体として、教会もやはり人類の救いのために苦難を受けて犠牲になるなら、キリスト教徒たちにも、このユダヤ教式解釈が適用され得る。


11.1960 年5 月8 日:ここで言う「聖人」たちは「四大聖人」、イエス、釈迦、孔子、ムハンマドを包含している。


12.ヘブライ人への手紙9.11 ~ 14:ここでは贖罪の供え物として十字架で血を流されたキリストの犠牲をユダヤ教の贖罪嘆息日の儀式と比較している。しかし、キリストの犠牲はただ一度の事件で永遠な蕩減を払い、すべてのための犠牲だったが、旧約の贖罪儀式は一時的であり、毎年反復しなければならないことを強調している。ヘブライ人への手紙は神殿が崩れたあと(西暦70 年)に書かれ、この儀式はこれ以上行われなかったので、ここでは唯一キリストの犠牲だけが効果を発揮する贖罪の方法であると暗示している。赤毛の雌牛の儀式(民数記19.1 ~ 10)のような旧約の他の浄化儀式もまた、同じ脈絡で言及されている。


13.クルアーン24.35:アル・ガザーリ以後、イスラエルの神秘論主義者たちは、このフレーズを、人間の霊魂に対する神様の内的証明を表現したものだと解釈している。壁龕、ガラス、灯火、木、油を霊魂の五機能、すなわち1.感覚、2.想像力、3.分別力、4.理論的に理解できる能力としての理性、5.摂理的な真理を知り得る超自然的預言力と対応させている。そうして、その霊魂は、等級が区分された連続的な光、神様を象徴する「光の中の光」を意味する。


14.無門関23:六祖慧能が、彼のライバル神秀の弟子たちから離れる時に、この事件は[六祖壇経]において再び言及される。禅仏教において悟りは、時々、そのような方式で生じる。すなわち、頓悟は危機と極端な絶望の経験から生じる。そのような状況が迫る時、私達はそれ以上認識や知識、またはひそかな教訓に頼らない。その時、真我が明るく輝く。
15.法旬経93:見えない道や解脱した者は、業の痕跡を残さないことをいう。これは彼が何をしても執着なく、「自分」という考えもなく、何らの代価も願わずに行うからである。


16.ルカによる福音書4.16 ~ 21:イエスは旧約聖書イザヤ書61.1 ~ 2 を読んでいる。歴史的にイザヤは、抑圧と捕虜と負債であえぐユダヤ亡命客の共同社会に、自由の曙光を宣布し、神様がイスラエルに豊富な恩恵を再び施すという新しい時代の到来を宣布している。反面、イエスはあらゆることを網羅する自由、すなわち限りない圧政で呻吟している者たちに釈放を、罪に閉じ込められている者たちに解放を、霊的盲人たちに光明を宣言する。解放とともにすべての創造の完成である「主の恩恵の時代」が到来する。


17.イスラエル・バアル・シェム・トーヴ:「船舶の難破」に対してカバリーの教理は次のように説明する。すべてのものは、最初は神自体であり、神が御自身を流出し、万物を創造されたが、その創造が分解され、ばらばらに散らばってしまい、神様の一部である神性の破片が、物質という「殻」の中に閉じ込められるようになった。このような破片を解放し、神に戻すことは「ティッ
クーン・オーラム」、すなわち世界の修復と呼ばれる。


18.1989 年2 月5 日:ここでの「国家」は、一つの国家において、一つの民族を成した人々のことをいう。


19.阿含経増支部5.322:涅槃は至高善である。なぜなら、それは悪を生むあらゆる衝動と熱望の完全な終息だからである。


20.スッタニパータ1072 ~ 76:自我の消滅から起こるところの自由がよく説明されている。


21.荘子6:「女JP」は道教の女性賢人である。


22.僧ィt:僧ィtは中国の禅仏教の第3 代祖師である。彼は私達に禅を通じた悟りの神髄を残した。


23.ムンダカ・ウパニシャッド:自我はアートマン、すなわち神聖な真我を指す。


24.御聖言:真光は治癒行為で知られる日本系新宗教である。


25.大般涅槃経575 ~ 576:仏陀がアジャータ・シャトル王を自ら治療される場面は、彼の慈悲が甚だしきに至っては、最も許されない者にも同一に及んでいることをよく示してくれる。なぜなら、アジャータ・シャトル王は外道を歩んだダイバダッタの後援者であり、彼の父である敬虔なビンビサーラ王を殺害したことがあり、彼の母ヴァイデーヒー女王を監獄に閉じ込めたことのある者であり、仏陀に全く友好的でなかったからである。しかし、ついにアジャータ・シャトル王は懺悔し、仏陀の教えに従ったと伝えられる。


26.マタイによる福音書12.22 ~ 24:イエス様は人々に多くの奇跡を行われた。しかし、悪魔も奇跡を行えると言って、イエス様の奇跡に懐疑的だった指導者たちは、何も立証することはできなかった。


27.2002 年12 月17 日:文鮮明先生は、富と物質的なものに執着する人々を象徴的に浄化するための儀式として、聖火式を挙行された。宗教者は自らの所有物を代表する衣服など、貴重な物品を選んでそれを燃やす。また、他の形式で紙に自分の名を書いて焼いたりもする。


28.善説宝蔵論:スヴァーシタ・ラトゥーナ・ニディ


29.クルアーン33.9、25:この場面は、一万人の兵力を備えた敵軍の同盟が、二週間を超えてメディナのムスリムを攻撃した塹壕の戦い(A.H.5)を描写している。


30.出エジプト記15.1 ~ 11:この語句は、紅海でモーセとイスラエル民族が歌った勝利の賛歌である。彼らはこの歌を歌いながら、神様の権能が現れるこどを祈願し、聖書で言うイスラエルの国がその上に建てられることをたたえた。
31.法華経25:観音菩薩はアヴァローキテーシュヴァラ・ボーディ・サットヴァ、すなわち一切衆生の「泣き言を聞く者」である。慈悲を施し、苦痛の中にいる衆生たちを助ける仏陀の属性を表す。中国仏教で観音菩薩は慈悲の女神であり、このフレーズは彼女の助けを呼び起こし、彼女に崇拝を捧げるために朗唱される。梵語原本でアヴァローキテーシュヴァラは男性であるが、漢訳[法華経]では女性として描写される。


32.1969 年2 月2 日:「(韓国の)30 里」は7マイル程度である。


33.サムエル記上2.4 ~ 9:これはサムエルの母、ハンナの歌である。


34.阿含経中部ii.32:これは延喜法の懇切な説明である。完全な説明はその次のフレーズである。


35.阿含経相応部x x ii.90:十二縁起を説いている。まず順観し、人間苦の原因を無明として見いだし、再び逆観し、人間苦の原因をなくし得る趣意を明
かす。


36.道徳経41:道に外れた道に対する冗談を留意するもの。


37.コリントの信徒への手紙一15.21 ~ 22:このフレーズと次の語句において、救いとは、太初の堕落で死と罪悪に染まった世の中を反対に復帰することだと説明する。


38.タルムード、シャッバト145 ~ 146:シナイ山に立っていたイスラエルの民たちは、自分たちがいつどこで暮らそうとも、すべてのユダヤ人たちを包含するものと理解する。


39.ヨハネによる福音書3.1 ~ 7:「水と霊とによって生まれ」は、人が聖霊の恩賜を受ける洗礼に言及するものである。


40.如是語経101:ヒンドゥー教の伝統で「二来者」という言葉は、ただバラモンから教えを受ける者たちに適用される。釈迦牟尼仏陀は、慣習的な意味ではバラモンでなく、彼の階級はクシャトリヤであった。しかし、正覚者としての彼は、ブラフマン(梵)を得た者という真の意味において、バラモンであることを自ら言明したことがある。それゆえに彼は、自らの弟子たちに、仏陀の教説を広げ、彼らに二来果を与えることのできる資格を付与された。「口から生まれた」という表現は、リグ・ヴェーダの創造神話を暗示している(リグ
・ヴェーダ10.90.11 ~ 12)。この神話によれば、バラモンは至高な存在であるプルシャの口から生まれた。仏陀は彼のすべての弟子たちが、自らの教えを受け入れることによって、すべてが仏陀の口から生まれるバラモンであることを用らかにし、既存の因習的な身分制度を完全に否定している。

41.『原理講論』、復活論1.3:これは特別に復活に関する段落ではない。しかし、これは霊的成長の段階的過程の概念を提示し、他の宗教の「復活」に関する内容を包括している(下記「復活」参照)。

42.エゼキエル書37.1 ~ 14:このフレーズは伝統的に死んだ者の復活について預言したものと理解されてきた。文字的で歴史的な意味から、これはバビロン捕囚以後に存在するイスラエル国権の回復を比喩的に表現している。

43.タンダクンダ『ニヤマサラ』176 ~ 177:ジャイナ教で、善在する最高我の存在を認定せず、ただ人間が追求する美の究極として至高善の状態を述べているだけである。

44.ルカによる福音書9.60:イエスはこのみ言で、「死んでいる者たち」という言葉を二つの意味で使われる。二つ目の「死んでいる者たち」は肉体的には生きているが、霊的に死んでいる者たちである。彼らは永遠の命を追求するイエスの真の弟子たちと対照される。


45.アヴェスター・ヤスナ34.3:神様に捧げるこのような祈祷は、神様の王国でただ賢い者だけでなく、一切の万物も彼らの運命を成就できることを望んでいる。


46.アモス書9.7:預言者アモスは、イスラエル民族に選民だと傲慢にならないよう警告する。神様は罪を許すことを通してシリア人とイスラエルの最高の怨讐であるパレスチナの人たちまで救おうとされるお方である。

47.イザヤ書42.1 ~ 4:苦難を受ける僕の歌は、ユダヤ教どキリスト教とで、互いに異なって理解される。ユダヤ教では僕をイスラエルと解釈し、このフレーズをイスラエルが世の中すべてに対して灯火となる使命をもつことを宣言したものだと理解する。キリスト教では、僕の完全な意味がイエス・キリストによって成されたと理解する。どんな方法でも、それは、神様の僕が地上のあらゆる人間を解放しようとする神様の意図を示唆する。

48.無量寿経9.1 ~ 5:正統仏教で行う中心的賛歌のうちの一つである。注意すべきなのは、このフレーズを西欧的意味において、被造物に対する神の愛をいうものと理解してはいけないという点である。むしろ菩薩の理想は、究極的実有というそれ自体が万有に遍在し、すべての衆生を包含し、無限の慈悲心をもつという大乗仏教の根本原理を説明する。この原理を正しく知り、一切万有が同体であることを悟る人は、たとえ自分以外のただ一人の苦痛にも、自ら苦痛を感じるようになるだろう。なぜなら、苦痛を受ける者が、すなわち自分の自我だからである。本文は、菩薩が立てる誓願の本質である。


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世界経典-78

2022年09月03日 19時26分27秒 | 学習


6.国家の栄枯盛衰


神様は、歴史において活動し、国家の栄枯盛衰を決定する。これは、神様がイスラエルに下した啓示の第一原理であった。イスラエルの預言者たちは、その民族が神様のみ旨に忠実なのかどうかによって、神様が彼らに祝福と懲罰を分けて与えられることを知っていた。儒教は、天命が義なる統治者を助け、腐敗した王朝を滅亡に導く高次的力だと語っている。


これに似て、クルアーン(コーラン)では、強力な国家が勃興して滅亡する歴史の中に、義なる神様の審判を識別している。神様の審判は、古い偉大な国家の痕跡をアラビアとエジプトの砂漠の中に埋もれた廃虚の中に残されている。一時、強力だったローマ帝国の滅亡は、無神論と道徳的堕落が破滅に至らせたという、もう一つの証拠である。


文鮮明先生は、アメリカと西洋の様々な国々が同じ運命を通して苦痛を受けることもあると警告しながら、このような経典の伝統を受け継いでいる。しかし、先生は国民が神様へ向かいさえすれば、彼らの差し迫った滅亡は逆転できると希望を提示している。




―宗教経典―


私は陶工の家に下って行った。彼はろくろを使って仕事をしていた。陶工は粘土で一つの器を作っても、気に入らなければ自分の手で壊し、それを作り直すのであった。そのとき主の言葉が私に臨んだ。「イスラエルの家よ、この陶工がしたように、私もお前たちに対してなしえないと言うのか、と主は言われる。見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちは私の手の中にある。


あるとき、私は一つの民や王国を断罪して、抜き、壊し、滅ぼすが、もし、断罪したその民が、悪を悔いるならば、私はその民に災いをくだそうとしたことを思いとどまる。


またあるときは、一つの民や王国を建て、また植えると約束するが、私の目に悪とされることを行い、私の声に聞き従わないなら、彼らに幸いを与えようとしたことを思い直す。」


今、ユダの人々とエルサレムの住民に言うがよい。「主はこう言われる。見よ、私はお前たちに災いを備え、災いを計画している。お前たちは皆、悪の道から立ち帰り、お前たちの道と行いを正せ。」
エレミヤ書18.3 ~ 11(キリスト教)


彼らの胸に恐れをもたらす神によって、略奪品に対する不正が現れ、彼らの間に広がる死によって偶像崇拝が蔓延し、彼らの食物が減っていくことによって人々は秤を削るようになり、彼らの間に広がる流血、殺害のために人々は不公正な判決をするようになり、彼らの上に君臨する敵のために誓約を破るようになる。
マーリク・ハディース(イスラーム)


孟子がいわれた。「夏・殷・周三代の王朝が天下を得(てにいれ)たのは、その開祖兎(う)王・湯(とう)王・文王・武王がよく仁政を行なったからであり、それが天下を失ったのは、その末代の桀(けつ)王・紂(ちゅう)王・幽(ゆう)王・厲(れい)王がいずれも不仁の政治を行なったからである。……諸侯の国々の興廃・存亡する原因もまた同じである。故にもし天子が不仁で
あったら、天下を安らかにすることができず、諸侯が不仁であったら、社稷(しゃしょく)すなわち国家が安らかにすることができず、卿(けい)・大夫(たいふ)が不仁であったら、祖先代々の霊廟(おたまや)すなわちその家を安ら
かにすることはできず、……士(し)や庶民が不仁であったら、自分ひとりの身体(からだ)さえ安全にすることはできなくなる。ところが今の人々は、……死んだり亡んだりするのを忌みきらいながら、しかも不仁なことばかり楽しんで行なっているのは、ちょうど酔うことをきらいながら……無理をして酒を飲む人ようなもので、矛盾も甚だしい。」
孟子IV、A.3(儒教)


三十三天の天王たちによって、王者の分けまえを与えられ、人間界の支配者はすべての神々の息子の身分を得た。不法なことを絶滅するために、悪事の破壊者である彼は、衆生を神の住処に送るために、かれらを善事に従事させよ。
人間であれ、神であれ、ガンダルヴァであれ、人間の王であれ、ラークシャサ(羅刹)であれ、あるいは、チャンダーラであれ、彼はそれらの悪事を破壊する。


王は善事をなす人々の両親であり、所行の実行とその果報を示すために、王は神々の加護を受ける。……王がその国土にある悪事を見逃すとき、また、悪人に相応しい処罰を課さないときは、悪事を見逃したことにより、不法が劇しく増し、その国には凶悪な事件や争いが生じる。


そして、王がその国土にある悪事を見逃すとき、三十三天の天宮にいます神王たちは怒る。その国土は凶悪きわまる残忍な悪事の害われ、敵軍の襲来するとき、その国土は亡び、だれが金を貯えていようと、その楽しみも家庭も、種々の凶悪な事件により、互いにそれらを失う。いかなる方法で統治するにせよ、為すべきことを果たさないとき、あたかも象が蓮池を踏みつぶすように、かの王は自国を滅ぼす。


吹いてはならない風が吹き、降ってはならない雨が降り、曜星・星宿の星まわりは不吉で、大腸と月の運行は凶である。穀物も、花も、果実も、種子も正しく実らず咲かず、王が義務を怠るところでは、飢饉が生ずる。……そして、すべての神王たちは互いに語るであろう。


「この王は不法に味方して、不法である。この王が神々を怒らすのも、遠いことではない。神々の憤りによって、かの王の領土は滅びよう。……愛する者たちから孤立し、兄弟・息子にも見離され、また、愛する妃妾と別れ、また娘も死のう。流星が降るように堕ち、さらにはまた幻日が見られよう。


他国の軍勢の脅威と飢饉の被害は物凄く増大しよう。信頼した大臣は頓死し、まだ愛する象も瀕死し、これらのものが死んだ直後に、愛馬もまた驢馬もたおれ、……そして、諸地方には、口論・争乱・凶悪な事件が起こり、凶悪な鬼霊が国内に入りこみ、激烈な疫病が発生する。……したがっで、王は自身の愛する生命を捨てることがあっても、この世を安楽にする正義の宝を捨ててはならぬ。」
金光明経12(仏教)


かれらは地上を旅してかれら以前の者の最後が、どうであったかを観察しないか、かれらは、これら(マッカの多神教徒)よりも有力で、地上に残す遺跡においてもすぐれていた、(注15)しかし神は、かれらのもろもろの罪のために捕まえたもうた。そのとき神から、かれらを守れる者はひとりもなかった。それはかれらの使者たちが、明証をもたらしたとき、かれらはそれを拒んだので、神はこれを捕まえたもう。まことにかれは強力で、懲罰に厳重であられる。
クルアーン40.21 ~ 22(イスラーム)


なんじは神が、いかにアードの民を処分されたかを考えないか、そびえたつ柱をもつイラムの町、これに類するものは、諸都市において、造られたことはなかったではないか、また谷で岩を切り刻んだサムードの民、杭のぬし、ファラオを考えないか、これらはすべて諸都市において、法外にそむいた者たちで、その地に邪悪を増長させた、それでなんじの主は、懲罰のむちをかれらに浴びせかけたもうた。まことになんじの主は、油断なく監視したもう。
クルアーン89.6 ~ 14(イスラーム)


ああ、皇天の上帝は、その長子、大国殷の王に与えられた命令を改めて周に与えられ、ここにわが王が万民統治の大命をお受けになることになりました。限りなくおめでたいことでありますとともに、限りなく重大なことでございます。


ああ、何ともどうしてつつしまずにおられましょうか。天は、もはや大邦殷の命運を断絶されましたので、殷の多くの在天の祖先の明王と、その子孫の王と主だった人々とはその天命が絶えたことに服従しています。ただ愚かな奴とあさはかな者どもとは、その子どもを抱きかかえ妻と手をとりあって、天に悲しんでさけび訴えることを知るだけで、その亡国をのろって、不安におののいています。
ああ、天も四方の人民のことを哀れんでいます。どうか天命をかえりみてお励みなさいますように。王はどうかつとめて徳を慎みなさいますように。


古の先王、夏王国を考えてみますのに、その先王には天の霊異降って、先王は面と向かって天神に謀り従っていましたが、今になってもはやその天命を失ってしまいました。近くは、殷王国を考えてみますのに、その先王には霊異が降って、面と向かって天神に謀り従っていましたが、今となってもはや天命を失ったのです。……王は、ここにおでましになって上帝の命令をお受けになって、みずから、この天下中央の地から王業を行いなさいますように。
書経5.12.2、周書第八(儒教)


ゆかしくいます文王ああ徳すぐれ恭し、大いなるかな天命商の子孫たち、商の子孫たちその数億ならず、上帝既に命じたまひ周にこと依さしたまへり、周にこと依さしたまへり天命は定めなし、殷士のおほどかなるも都にて祝ごとす、その祝ごとするになほ殷の服つけたり。
王の忠臣たちよ先祖の名を汚したまふな。先祖の名を汚したまふな。ひたすらに徳を修めよ。永く天命にそひ多福を求めゆかむ。殷の未だ滅びざるとき、よく上帝の命にかなへり。殷のことに鑑みたまへ、天命を得るは易からず、天命を得るは易からず。


汝の身にて絶たすまじぞ。名声をかがやかせ、殷の滅びたる次第を考へよ。天意の動きには声もなく臭もなし、文王を規範とし、すべての邦よ精誠を致せ(注16)
詩経、235 文王(儒教)


誰かが仏陀の弟子たちを悩ませるならば、その人は、梵天王とインドラによって送られた外国の軍勢によってただちに攻撃されるだろう。
大集経(仏教)


楽浪の国つ御神のうらさびて荒れたる京見れば悲しも。
万葉集1(神道)


主がバーブルの侵略からコーラサンを守護され、ヒンダスタンに恐怖を預けられた。主が自ら罰を下されることはなく、ヤーマ(死に神)のように死を扱うムガールのバーブルを送られた。民たちが苦痛の中で泣き叫んでいるとき、あなたは彼らに何の哀れみも感じられなかったのか。


万有の創造主であられるあなた、もし力の強い敵が同じように力の強い者を苦しめるのなら、心はこれほど悲しくないだろう。しかし、凶暴な虎がおとなしい雌牛の群れの中に放たれたとき、あの聖なる師を恨めしく思わざるを得ない。あらゆる宝(インドの資源)を強奪し、これを蕩尽した犬のような者たちは、最後には恥ずかしい終末を迎えるだろう。あなただけが結束させ、再結合させるとは、あなたの権能はこのように偉大だ。あらゆる快楽を飽きるほど楽しみ、自ら偉大な者だと偽りを語る者は、主の目から穀物をかすめるつまらない虫にすぎないのである。
アーディ・グラント、アーサー、M.1、p.360(シーク教)


主はこう言われる。イスラエルの三つの罪、四つの罪のゆえに、私は決して赦さない。彼らが正しい者を金で、貧しい者を靴一足の値で売ったからだ。


彼らは弱い者の頭を地の塵に踏みつけ、悩む者の道を曲げている。父も子も同じ女のもとに通い、私の聖なる名を汚している。(注17)祭壇のあるところではどこでも、その傍らに質にとった衣を広げ、科料として取り立てたぶどう酒を、神殿の中で飲んでいる。


その行く手から、アモリ人を滅ぼしたのは私だ。彼らはレバノン杉の木のように高く、樫の木のように強かったが、私は、上は梢の実から、下はその根に至るまで滅ぼした。お前たちをエジプトの地から上らせ、四十年の間、導いて荒れ野を行かせ、アモリ人の地を得させたのは私だ。


私はお前たちの中から預言者を、若者の中からナジル人を起こした。(注18)イスラエルの人々よ、そうではないかと、主は言われる。しかし、お前たちはナジル人に酒を飲ませ、預言者に、預言するなと命じた。見よ、私は麦束を満載した車が、わだちで地を裂くように、お前たちの足もとの地を裂く。そのときは、素早い者も逃げ遅れ、強い者もその力を振るいえず、勇者も自分を救いえない。弓を引く者も立っていられず、足の速い者も逃げおおせず、馬に乗る者も自分を救いえない。勇者の中の雄々しい者も、その日には裸で逃げる、と主は言われる。
アモス書2.6 ~ 16(キリスト教)


幾度か月が傾き、幾度か冬が過ぎれば、あるとき、この広い大地の上に移されて歩き回ったり、幸せな家庭で暮らし、偉大な聖霊の保護を受けた力強い部族の子たちの中には、生き残り、あなた達よりもっと強く希望に満ちた部族の墓で誰も悲しまないだろう。しかしなぜ、私達の部族の運命を悲しまなければならないのか。海の波のように、部族は来ては行き、氏族も来ては行く。


それが自然の秩序なのだから、後悔は無駄なことだ。あなた達が衰え落ちるときは遠くにあるかもしれないが、必ず訪れるだろう。神と友のように、共に歩いて語る白人たちさえ、共通の運命から抜け出すことはできない。結局、私達は一つの兄弟なのである。それを私達は知るようになるだろう。
シアトル酋長(注19) (アメリカ先住民の宗教)


はるか遠い昔に下された呪いのように、私達に恐ろしい呪いが下るだろう。そのように人の創造者は言うが、人々は聞かない。


はるか違い昔に下された呪いのように、私達に恐ろしい呪いが下るだろう。しかし、私達はこの一言だけを語るだけだ。


怠惰よ! 無精よ!このような人たちは父から、何も聞くことができない。その方の声を知らないからである。その方は人を愛する存在である。
ディンカ族の祈り(アフリカ伝統宗教)




―み言選集―


歴史の方向が悪に向かっていくように思われますが、そうではありません。人間が自分の心を中心として体を抑制し、新しい覚悟と新しい決心をもって進むべき方向を選ぶように、歴史も、歴史自体で指向するのではありません。ある一時と時期、世紀を歴史の背後にいらっしゃる神様が干渉し、支配する過程を経てきている事実を知らなければなりません。
(4-191、1958.4.20)


私達は、歴史を通して、多くの文明が栄枯盛衰を繰り返してきたことを知っています。様々な文明が、一時は巨大になり栄華を極めましたが、その後、滅亡し忘れられていきました。このような文明の衰退は、気候や疾病、外敵よる侵略、自然災害、このような外的な要因によるものもありますが、大部分は内的な腐敗、特に宗教や道徳性が衰退したことによるものです。
(343-155、2001.1.27)


栄枯盛衰の曲折が現れるのは、自分を中心として統一しようとするのか、全体の平和の世界を中心として統一しようとするのかにかかっているのです。この二つの間で栄枯盛衰が展開します。
(369-178、2002.2.14)


この地上のある国で、私達の国は滅んでも、神様のみ旨と世界を救うことができれば犠牲になろうとする、そのような国がありますか。アメリカが外国のために協助しようとするときは、アメリカは全盛時代でした。しかし、「ああ、私達の国が滅び、世界が栄えてどうするのか。世界をほうり投げて、私達の国をしっかり握っておかなければならない」、今はこのようになっています。
(69-87、1973.10.20)


人種を差別する人たちは滅びます。神様がいるとすれば、必ず滅びるようにするのです。歴史時代において、数多くの文明圏がすべて滅んだ理由は何ですか。文明が発達すれば、すべて自分を中心として世界のために生きようとするのではなく、世界をすべてのみ込み、自分たちの思いどおりにしようとしたために、すべて滅んだのです。


アメリカで言えば、アメリカは世界の主導国家であり、全世界のあらゆる文明圏を動かせるので、驕慢になって差別するのですが、そのようにしていては滅びます。自然に滅びるのです。このように世界的に名をはせていますが、内部的には息子、娘をすべて打つのです。最も愛する子孫を打つというのです。
(97-322、1978.4.1)


イギリスが日の沈むことのない国として、キリスト教文化を中心として統一世界をつくりましたが、イギリスのための世界だと考えました。世界のためのイギリスだということが分からなかったのです。アメリカが世界の中心国家になったとして、これがアメリカのための世界だと思いますか。違います。世界のためのアメリカだということを知らなければなりません。そうでなければ滅びます。神様の摂理はそのようなものです。
(247-111、1993.4.25)


迫害されていた群れが迫害していた群れを支配していくのです。ひっくり返ります。歴史はそのように回っていきます。支配していたその時代の思想的な基準以上の思想的な基準さえもてば、必ず隷属されていた民族が支配していたその人たちを支配するようになるのです。迫害される群れが第二の主人になるという事実を知らなければなりません。第二の主人です! このような原則があるので、迫害される人たちが主人になれます。この堕落圏内では、不可避な原則なのです。
(95-105 ~ 106、1977.11.1)


歴史学者シュペングラーが指摘したように、文明は、1年に春夏秋冬があるのと同じように、興亡を繰り返しています。今は大西洋文明の時代が過ぎ去り、太平洋文明の時代が来る時です。
(115-171、1981.11.10)


低気圧圏に空気がなければ、高気圧圏の空気が流れていって満たしてくれますか、満たしてくれませんか。水が高い所にあれば、下の穴に流れていって満たしてくれますか、満たしてくれませんか。均衡が理想です。


それでは、今日、先進国家と発展途上国があるのですが、発展途上国は飢えて死んでいっています。1年に2000 万人が飢えて死んでいるのです。これが神様のみ旨ですか。宇宙の自然な運動圏を迫害するのが先進国家です。先進諸国が今、雷に打たれます。天が打つのです。審判するのがエイズと麻薬です。フリーセックス、ホモセクシュアル、レズビアンです。神様が最も憎み、サタンが最も好むものです。反対です。


レバレンド・ムーンが消費の多いアメリカの国、先進国家をすべて飢えさせて、飢えて死んでいく発展途上国を助けてあげようという運動をしようと思います。自然世界は、すべて均衡を取っているのです。「天宙大家族を形成し、自由と平和と統一と幸福の世界を完成することをお誓いいたします」、自由というものは個人の自由ではなく、全世界の大家庭にいる人たちの自由であり、大家庭の平和であり、大家庭の幸福です。全人類がすべて幸福だということです。(260-192、1994.5.8)
歴史時代にローマがいくら強かったとしても、その内部から滅んでいきました。何ゆえに滅んでいったのですか。このセックスのためです。セックスのために滅んでいったのです。それが事実ですか、違いますか。今から2000 年前のポンペイを見れば、すべてがひたすら飲み食いし、踊りまくって滅びました。


このようなことを見るとき、死亡と滅びることと直結されるものとして、最も効果的な道とは何ですか。愛の秩序が紊乱になるとき、滅びるというのです。これはレバレンド・ムーンの話ではなく、歴史的な事実です。それが事実だと思いますか。それは、白人もそうであり、黒人もそうであり、有色人種、黄色人もすべてそうです。


このようなものが蔓延し、このような行いが増大した国とそのような文化がある国家を見るとき、どのような文化がそうで、どのような国がそうなのかというと、強くて、権力をもっていて、お金をもっていて、知識をもっている国がこの病にかかるようになっています。
ですから、アメリカのような国があらゆる面で良いと思っていたのに、そのような面では未開の民族より劣るのです。この病にかかれば、歴史時代に滅びなかった国がなく、倒れなかった国がないというのが事実です。その文化にもちこたえられる国がありません。


これによってどのようになりますか。若い人たちに秩序がなくなります。若い人たちに秩序がないので、家庭の秩序が破綻し、教会の秩序、社会の秩序、あらゆる秩序の破綻をもたらすのです。今、アメリカがそのような実情ですか、違いますか。私は、アメリカの青年たちがいい気になって着飾り、得意になっているのを見るとき、あなた達が何年もつかを見てみようと思うのです。
(103-97 ~ 98、1979.2.11)


最近は、フリーセックスだ何だといって、若い人たちは、独身の男女が出会って思いのままにキスもし、一晩過ごすことも思いどおりにしています。滅びます。絶望だというのです。方法がありません。アメリカも方法がなく、イギリスも方法がなく、フランス、イタリア、全世界も方法がありません。


ところが、先進国がそうなので、発展途上国がすべてそのままついていきます。ですから、神様が世界を愛する立場で、アメリカでも、先進国でも、早く滅ぼさなければならないという結論が出てきます。なぜかというと、世界を助けるために、発展途上国が侵食されないようにするためです。そのような考えが、そのような話が、合っていると思いますか。神様の立場がそうかというのです。神様がいれば、そのような反対の道を取るのであり、また考える人がいれば、これを防いで反対に行ける道を模索するでしょう。
(117-201 ~ 202、1982.3.7)


神様は、なぜアメリカを祝福してくれたのですか。神様のみ旨です。人類を救うために、世界平和の基地をつくるために、人類を神様のみ旨の中で解放するためです。サタンを追放して地獄を解放するためだ、というのがその目的です。


一つの服を着ても、その服が歴史過程でどれほど多くの人たちの血痕を残し、どれほど多くの民族を泣かせ、どれほど悲惨な谷間を経てきたかを考える人がいますか。一つの服を着るにおいても、世界人類を代表して着るので、負債のある立場で着ていると考えるアメリカ人がいますか。服もそうですが、住む家、環境もすべてそうです。


自分たちが優れているから、そのようになったのではありません。ここよりも世界のために生きる神様のみ旨があり、神様の心と考えがあることを考える人がいますか。そうでなければ、ここにいる人たちから取り上げて、より世界のために生きる人たちに与えざるを得ない、という結論になるのです。


このアメリカの白人たちによって犠牲になった人たちが、霊界に行っているでしょうか、いないでしょうか。インディアンたちだけではありません。今まで白人たちが弱小国をすべて侵犯し、どれほど略奪しましたか! 今までアメリカが、あらゆる面でヨーロッパより優れていると言いました。イギリスが宣教するので、「私達もイギリスに負けない」と言いながら競争しました。「ヨーロッパの人たちよりも私達が優れている、優れている」と言いながら世界のために援助もしました。第2次大戦前後までは、全世界を援助していたのです。


アメリカが宣教師をたくさん送った所とはどこですか。ヨーロッパではアフリカや南米に送りましたが、アメリカはアジアに送りました。宣教師を送って未開な地域を占領し、アジアに対して力を及ぼし、フィリピンもすべて自分の国に入れました。


アジア版図を中心として、宣教師を送りながらこのように拡大したのです。植民地にしたこと自体は悪いことではないのです。アメリカが占領した植民地の人たちを、アメリカ人よりもっと愛すれば神様が賛成します。


アメリカ国民より、本土の人よりもっと愛すればです。かわいそうなので、愛さなければなりません。自分の家を売ってでも、愛しなさいというのです。そのようにすれば、植民地が問題になりません。世界が一つになります。そのようになれば、植民地の人たちがなぜ反対しますか。「アメリカ! おお、ありがとう、ありがとう」と言いながら、神様のようについていくようになります。それを願ったのですが、そこに行って奪ってきたのです。すべて足で踏みつけたというのです。歴史に反抗しました。そこからずれていきました。
(202-332 ~ 333、1990.5.27)


世界のすべての知性人は、今は急変する世界だと言っています。このように急変してどこに向かうのですか。一般の人々は、このように急変すれば絶望の世界に到達する危険性が大きいと考えています。希望の世界に到達すると思っている人はとても少ないということを知っています。


「近代文明を指導してきた西洋文明は、既に没落しているだけでなく、夜の世界に入り込んでいる」と言う人もいます。西洋文明を指導するにおいて精神的な支柱であったキリスト教はもちろん、キリスト教を中心とした家庭や、社会や、国家が、傾くだけ傾いたというのです。


世界の若い人々の中で未来を考える人たちは、なお一層、とても暗澹とした立場で悩まざるを得ないという時代に来ています。このような実状の中で、もし神様がいらっしゃるならば、神様はそのような絶望の終着点に向かって、そのまま走らせるのではなく、これを整備し対処させて、新しい次元の世界に、希望の場に連結させる道を考えざるを得ないという結論に到達するのです。
(103-39 ~ 40、1979.2.2)


アメリカ人、アメリカの青年たちは滅んでいきます。これはアメリカの為政者たち、アメリカの学者、アメリカを知っているという人たちが、すべて語っています。アメリカの宗教指導者たちはもちろん、すべて語っているのです。


これが共通の結論です。この病を誰が治療するのでしょうか。アメリカの軍事力でも治せません。アメリカの経済力、アメリカの政治力、アメリカのそれ以外のあらゆる科学的な力で、月世界に行くと誇っていますが、それを治すことができるのかというのです。誰もできません。レバレンド・ムーンだけがこのアメリカを救う人です。神様がレバレンド・ムーンを立ててアメリカに送らざるを得なかったと、私は思います。
(93-122、1977.5.21)




7.世界平和


新千年期に全地球的な環境汚染、不足した天然資源の競争、暴力、そして核兵器拡散問題に直面した世界で、世界平和の建設を叫んでいる。以前は預言者たちや夢想家の漠然とした夢だったことが、今は人間の生存と直結した現実となった。このような状況は、現代にだけ出現したものなので、私達は過去の世紀の主要な宗教家と夢想家の発言で補充する。


神様は文鮮明先生に、世界平和のための実際的で、数え切れない構想を提案するように霊感を与えられた。先生は、私達の時代の世俗的な平和の使徒とは、特別に変わった観点をもつ。世俗的な平和の使徒は、科学と技術の進歩を通し、人類はみな共に豊かさを享受する世界を創造するようになると主張する。


彼らによれば、世界では宗教と文化の古い偏見は、世俗的な民主主義的価値と市場の自由に席を譲るという。文先生は、平和は神様から発見されなければならず、宗教と霊性は世界人類が一家族理念を具現するのに中心の役割をしなければならないと教える。ユートピア建設の世俗的、楽観的進歩観は既に、ほぼ出尽くしており、人類は、世界平和に向けて、宗教の重要性と内的基盤の必要性を再考しつつあるとの文先生の言葉は、新たな説得力を得てきている。


文先生は、平和世界建設のための非常に特別な構想をもっている。その構想は、霊的次元を加えたUNの改革、国境線の撤廃、超文化的結婚による文化の連帯、そして世界都市を連結する国際高速道路を含む。世界平和は真の愛の実践によって建設されるという、先生の根本的信念が現実化しているのである。






①神様:世界平和の土台


―宗教経典―


終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。


「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主は私達に道を示される。私達はその道を歩もう」と。主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る。主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。
イザヤ書2.2 ~ 4(キリスト教)


狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子(注20)と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。私の聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。
イザヤ書11.6 ~ 9(キリスト教)


我の希望は、世界の各宗教の指導者達や支配者達が、現代の改革とその繁栄の復興のために、一致して立ち上がることである。世界の窮乏をとくと考えておたがいに話し合い、これを案じて充分な討議を行ない、病んで、ひどく傷めつけられている世界が必要とする治療薬を施すがよい。
バハオラ落穂集110 (バハイ教)


私は永久的な世界平和に対する希望を見ることができない。私達は努力したが、惨憺たる失敗に終わった。世界が霊的に再生しなければ、文明は滅亡するだろう。
ダグ・ハマーショルド






―み言選集―


冷戦時代が終息し、世界はしばし平和のための祝杯を挙げることができました。しかし、間もなく人類は、その冷戦の終わりが自動的に平和時代に連結されるのではないということを知るようになりました。世界のあちらこちらで、激烈な戦争が起こり続けています。今も、前ユーゴスラビアと中東で、またスーダンや南アジア等の地で殺戮戦が繰り広げられています。これらの紛争は、主要宗教間の根深い葛藤が背景になっていることは周知の事実です。宗派間の対話と和合がいかに重要であるかを悟らせてくれる事例です。


現代において宗教的な理想の実現は、しばしば世俗権力と一定の距離をおいて活動してきました。今日の一般的な認識は、これを当然なものとして受け入れています。しかし、世界平和理想に貢献する国際組織は、世界の偉大な宗教的伝統と自分たちとの関係を再検討すべき時になったと見ています。
(330-245、2000.8.18)
神様の経綸と歴史の帰趨を見れば、人類は国境と人種を超越し、神様を真の父母として侍って生きていかなければならない巨大な一つの家族です。一つの世界家族として、一つの囲いの中で調和して協力しなければならない運命共同体です。これ以上、隣人とほかの国の困難が私とは関係ないとは言えない時代が来ました。私達は、人類が戦争と犯罪、麻薬と暴力、環境汚染と生態系の破壊、不倫とエイズなどに巻き込まれて落ちていくのを傍観することはできません。


これから私達は、神様と歴史の前に答えなければなりません。大きく和合して一つにならなければならない人類が、何をもって、どのように現実を克服し、近づいてくる新千年を希望の中で迎えることができるでしょうか。また、個人と自国の利益を超えて「ため」に生き、信頼して生きていくべき平和世界を成し、またこれを支える新しい価値観をどのように定立するのでしょうか。


科学技術の燦爛たる楼閣の上で人本主義の眼鏡をかけ、物神の誘惑のもとでではなく、本心の扉を開けて謙虚に答えを探さなければなりません。地上で探せなければ、天から来る声を通して解決しなければなりません。
(279-211 ~ 212、1996.8.20)






②UNとグローバルガバナンス


―宗教経典―


慈悲深い主の命令が世に宣布されるため、人を害したり、苦痛を与える者は二度といないだろう。すべての人類が平和の中で慈悲の盾のもとで生きていくだろう。
アーディ・グラント、スリー・ラーグM.5、p.74(シーク教)


われら連合国の人民は、われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し、正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること、並びに、このために寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互に平和に生活し、国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ、共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則の受諾と方法の設定によって確保し、すべての人民の経済的及び社会的発達を促進するために国際機構を用いることを決意して、これらの目的を達成するために、われらの努力を結集することに決定した。よって、われらの各自の政府は、サン・フランシスコ市に会合し、全権委任状を示してそれが良好妥当であると認められた代表者を通じて、
この国際連合憲章に同意したので、ここに国際連合という国際機関を設ける。
国際連合憲章「前文」


過去には、各国の公職者たちだけが普遍的な公益を提供する立場にいると思われていた。彼らが外交チャンネルや頂上会談を通して法と条約を締結するなど、法的手段を活用することによってそれが可能だと考えた。


しかし、今日の普遍的な公益は、全世界的様相の問題点を私達に提示してくれている。この諸問題は、世界的次元の公権力と組織、対策がなければ解決されない。結局、道徳的秩序のためには、世界的単位のある共通の公権力が設定されなければならず、その力は、強制ではないすべての合意によって導き出されなければならない。


補完性の原則により、世界単位の公権力は、各国の公権力の行使範囲を制限しようとしない。各国の国家的地位もやはり侵害しない。その真の目的は、世界的次元で各国の政治権力と市民、団体がより安全に各自の任務を遂行し、義務を果たし、権利を享受できる環境を造成することである。


私達は、真実にUNが、UNの組織と手段が、本来の高貴で巨大なUNの使命に、より忠実になることを希望する。人々が徐々に地球村の一家族の一員であることを意識していくにつれて、このような願いがより一層強くなってきている。
教皇ヨハネ23 世地上の平和(キリスト教)




―み言選集―


アダム家庭で始まったカインとアベルの闘争歴史は、人類歴史をそのまま戦争と葛藤の歴史にしてしまいました。小さくは人間個々人の心と体の葛藤から、大きくは国家と国家が、さらには全世界が物本主義と神本主義に分かれ、対立、闘争をしてきました。


極度の利己的個人主義は、きょうも私達の生活を脅かしています。人類の希望であり、未来を約束された若者たちを、フリーセックスと麻薬の奴隷に転落させています。物質万能主義に陥った先進国は、自国の利益にばかり目がくらみ、一日に数万人ずつ飢えて死んでいくかわいそうな生命から顔を背けています。


誰が、この数千年にわたるカインとアベルの歴史的な葛藤を解いてくれるのでしょうか。世界平和を掲げて出発したUNに、それができると思われますか。UNは、過去60 年をかけて努力してきましたが、いまだに世界平和は、はるか彼方です。体と心のカイン・アベル関係も解決できない人間の努力だけでは、不可能なことです。今こそ、天命に従って出発したアベル的平和理想世界王国の創建が必要な時です。(注21)
平和神経、平和メッセージ1.20 ~ 21、2005.9.12


神様は、私達指導者、特に宗教指導者を召命していらっしゃいます。世の中の不義と罪悪に挑戦し、真の愛を施すことを願っていらっしゃいます。すべての宗教人が一つの心となり、神様の人類に対する熱望を代弁し、実行しなければなりません。


体と外的な世界を代表する政治家や外交家たちの経綸と実践だけでなく、心と内的な世界を代表する世界宗教指導者たちの知恵と努力が合わさってこそ、平和世界が完全に達成され得るのです。そのような点から、UNを再構成する問題まで深刻に考慮すべき時です。恐らく、両院制の形態をもったUNを想像することもできるでしょう。


国家代表で成された既存のUNを、各国家の利益を代弁する下院に代えて考えられます。著名な宗教指導者と文化界、教育界など、精神世界の指導者たちで、宗教議会、あるいはUNの上院を構成することも考慮できるのです。このとき、宗教議会は地域的な個々の国家の利害を越えて、地球星と人類全体の利益を代弁すべきなのです。


両院が相互に尊重し協力することによって、平和世界の実現に大きく寄与できるのです。世界指導者たちの政治的経綸は、世界の偉大な宗教指導者たちの知恵とヴィジョンにより効果的に補完できます。
(330-247 ~ 248、2000.8.18)






③平和の文化構築と人類統一


―宗教経典―


人びとよ、われはひとりの男とひとりの女から、なんじらをつくり、民族にした、これはなんじらを、互いに認識させるためである。神のみもとで最も尊い者は、なんじらのうち最も主を畏れる者である。
クルアーン49.13(イスラーム)


小さくて人口の少ない国がある。数多くの道具があったとしても、誰もそれを使わない。人々は生命を大事にし、誰も遠くに移住することを望まない。船や車は役に立つが、誰もそれらに乗らない。
すばらしい武器を所有していても、誰もそれを使わない。


人々にもう一度、縄を結んで約束のしるしとしたような時代に戻らせ、すばらしいごちそうで楽しませ、立派な服装を着させる。自分の住居でおちつかせ、週間を楽しませる。
隣の国はすぐ見えるところにあり、鶏の鳴き声や犬の吠えるのが聞こえるけれども、人々は互いに往き来することもなく、その人生を送るのである。(注22)
道徳経80(道教)


ジャンプ=ドヴィーバにおいて、八万四千の都に住む八万四千の王者たちが、それぞれの国土において楽しく暮らすだけでなく、その王国と王権に何ひとつ不自由することなく、自己の所有する財宝に満足して互いに傷つけあったりしないであろう。また、互に傷つけあうようこなことを起さないであろう。


そして、それぞれに前生の業の集積に従って、王位に即き、それぞれの王国と王権に満足するだけでなく、互いに征伐せず、他国の領土の征服のために進撃することもしないであろう。そして、ジャンプ=ドヴィーバにおいて八万四千の国土ならびに都城における八万四千人の王たちは、互いに相手の幸福を願うようになるであろうし、また憐れみの心を持ち、相手の安楽な生活を願って、互いに喧嘩や口論や反目や抗争がないように努めて、それぞれの国土で楽しく暮らすであろう。……ジャンプ=ドヴィーバは栄え、食料ゆたかになるだけでなく、美しく、多くの人々が住み、また大地はさらに一層肥沃となるであろう。
金光明経(仏教)


その日には、エジプトからアッシリアまで道が敷かれる。アッシリア人はエジプトに行き、エジプト人はアッシリアに行き、エジプト人とアッシリア人は共に礼拝する。その日には、イスラエルは、エジプトとアッシリアと共に、世界を祝福する第三のものとなるであろう。万軍の主は彼らを祝福して言われる。「祝福されよ、わが民エジプト、わが手の業なるアッシリア、わが嗣業なるイスラエル」と。
イザヤ書19.23 ~ 25(キリスト教)


多様な信仰と政治経済の体系によって、平和で友好的な地球家族をつくりあげようとすれば、私達各自はそのような調和のために全力を尽くすという責任を果たさなければならない。それ以外に他の代案はない。
テンジン・ギャツォ、第14 代ダライ・ラマ


戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。相互の風習と生活を知らないことは、人類の歴史を通じて世界の諸人民の間に疑惑と不信をおこした共通の原因であり、この疑惑と不信のために、諸人民の不一致があまりにもしばしば戦争となった。……


政府の政治的及び経済的取極のみに基づく平和は、世界の諸人民の、一致した、しかも永続する誠実な支持を確保できる平和ではない。よって平和は、失われないためには、人類の知的及び精神的連帯の上に築かなければならない。
ユネスコ憲章、前文


平和はあなた達と私、または少数の偉大な人たちが、即刻つくり出せるものではない。さらには、百万人のキリスト、またはクリシュナたちも、それをすることはできなかった。『マハーバーラタ』に出てくるように、主クリシュナは、パンダヴァ族とカウラヴァ族の間の大戦を防ぐことができなかった。すべての人類は、地上に平和をもたらすキリストのようにならなければならない。


私達各自が自分の生をキリスト、クリシュナ、ブッダの知恵と典型に従って私達の生を具体化するとき、私達は正にここから平和を謳歌することができるだろう。


神の子たちが、「私達はインド人であり、あなた達はアメリカ人、また、私達はドイツ人であり、あなた達はイギリス人」と区別する限り、彼らは迷いにとらわれ、世界は分裂するだろう。


もし私達が違いを無視し、差別と偏見なくすべての人たちに対する愛を学べば、数多くの戦争と苦痛と破壊が防止されるだろう。どこかの国籍をもっているという事実よりは、あなた達が神の形どおりにつくられているという事実を誇りに思わなければならない。


なぜなら、「アメリカ人」、または「インド人」は、時が来れば捨てられる上着にすぎないからである。しかし、あなた達は永遠に神の子である。あなたの子たちにそのような理想を教えるのがよりよいのではないだろうか。それは平和のための唯一の道だ。学校で真の平和の理想を確立し、あなた達自身の生において平和を成さなければならない。
パラマハンサ・ヨガナンダ(ヒンドゥー教)


世界の指導者たちが、国家間の相互依存のためには政治的ブロック体制を放棄し、すべての形態の経済的、軍事的帝国主義を犠牲にし、相互協力への変化が必要だという事実を悟ることができない限り、世界平和は遥遠である。個人と国家間の結束のためには、これが必ず必要だ。
教皇ヨハネ・パウロ2 世真の開発とは(キリスト教)




―み言選集―


21 世紀の人間は、宇宙を創造した神様の根本原理を離れては、これ以上地球星の主人として存在できません。人々が願わなくても、人類の未来は、より密接な人間関係を要求します。未来には、人々が地域と民族と肌の色を超越して、より密接に絡み合って生きていかざるを得ない「地球一家族時代」が近づいてきています。


様々な宗教と文化、伝統、そして互いに異なる生活意識をもちながらも、利害の次元を超えて互いに交わり、受け入れざるを得ない世の中が来ています。個人やある集団が、利己的な選択で自分だけの隔離された逃避地を所有することはできなくなります。
(219-9、1991.8.24)


私達がこの世界にあるすべての国境線を撒廃すれば、平和の世界は自動的に訪れるようになるのです。そこで私達が覚えておかなければならないことは、この世界に現存する国境線の主人が果たして誰なのかということです。


神様ではないということは明らかです。国境をつくり始めた張本人は、正にほかでもない悪魔サタンなのです。したがって、国境線がある所には、必ず悪魔と悪魔の実体が潜んでいるということを知らなければなりません。このような結果は、人間始祖の堕落によって善悪の分岐点となる血統が入れ替わってしまったからです。


東洋と西洋を比較してみても、文明圏を中心として相反する国境線ができていますが、そこには、悪魔が陣を張っているというのです。悪の文化的背景、歴史と伝統的背景、人種差別など、このようなあらゆる種類の落とし穴を掘って国境線をつくった張本人は、神様ではなく、悪魔サタンだというのです。


神様が顕われた善の世界は、統一の世界です。すなわち、全人類が一つの大家庭を成して暮らす一つの世界なのです。そのような世界に、どうして国境が存在できるでしょうか。国境がない世界なので。怨讐もあり得ません。それは、怨讐という言葉の中に国境が内在しているからです。


怨讐を愛して一つになれば、国境が崩れていくのです。ですから、神様の戦略戦術は、常に「怨讐を愛しなさい」というものです。「怨讐を愛しなさい」というみ言ほど偉大な戦略はなく、また、これほど偉大な戦術はあり得ません。このような素晴らしい内容を、今日まで人類は、歴史的に知らずに生きてきたのであり、今生きている現代の人たちも知らずにいるというのです。
(419-190 ~ 191、2003.10.3)


霊界では国境を認めません。国境を超越しています。私達統一教会の教会員は、このようなみ旨を主導する立場にいるので、国境を超越しなければなりません。私達は氏族を超越しています。摂理で見るとき、アダムの三人の息子の中で白人は3番目の息子であり、黒人は2番目の息子であり、黄色人は、1番目の息子です。その三人が一つにならなければなりません。


それで、先生を中心として、文氏の氏族をセンターとして数多くの氏族をすべて連結させるのです。次には、統一教会を中心として数多くの宗教を連絡させるのです。そのようになれば、中心氏族と中心宗教が一つになります。


一つは内的なものとしてプラスになり、もう一つは外的なものとしてマイナスになり、全世界的なプラスとマイナスが一つになるのです。ですから、国境を越えて東洋人が西洋に行くことができ、西洋人が東洋に行くことができ、東洋の霊が西洋に行くことができ、西洋の霊が東洋に行くことができ、イスラームの霊がキリスト教に行くことができ、キリスト教の霊がイスラームに行くことがで
きるのです。どこでも往来できます。今までは、それぞれ別々でした。


今、ヨーロッパ経済共同体のような運動が起きているでしょう? ヨーロッパの人たちは、思いどおりに行ったり来たりしているではないですか。これからこれを妨げる日には世界が滅びるのです。
(101-331 ~ 332、1978.11.12)
人間世界に真の愛を完成したならば、政治的に、文化的に、また環境的に何か問題が起こるでしょうか。真の愛の世界では、解決することができない問題はありません。真の愛の世界は、まさしく歓喜と理想が充満した自由と平和と幸福の世界です。真の愛の同位権、同参権、相続権によって、喜びと幸福が無限に、そして永遠に拡散していく世界になります。今日、世界人類が抱いている難問題は、真の愛の完成によってのみ、その根本的な解決が可能なのです。
(294-65、1998.6.11)


将来には戦いがありません。今までの戦いは、自分を中心とした、くだらない戦いでした。それは、互いに奪うための戦いでしたが、統一世界は、神様の王権を立てて「ために生きる」世界なので、戦争は必要ないのです。兄弟同士、互いに奪う必要はありません。あまりにも与えようとするので、逃げていかなければなりません。


ですから、自分の部落に暮らすようになれば、そのまま通過です。下宿のようなものは、部落でするのです。そのようになれば、朝、昼、そして夕御飯を食べることができるよう、精誠を込めて準備してくれるのです。そして、そこで寝ていくこともできます。そのような時代が来るのです。


将来は三権分立というものもなくなります。法律もすべてなくなります。愛の自治権が完全に成し遂げられれば、法律が自動的に完成します。「ために生きる」愛、それを成し遂げた所には何の問題もないのです。上下が一つになり、前後、左右が一つになります。
(224-173、1991.11.24)


これから私達は、神様と歴史の前に答えなければなりません。大きく和合して一つにならなければならない人類が、何をもって、どのように現実を克服し、近づいてくる新千年を希望の中で迎えることができるでしょうか。また、個人と自国の利益を超えて人のために生き、信頼して生きていくべき平和世界を成し、またこれを支える新しい価値観をどのように定立するのでしょうか。


科学技術の燦爛たる楼閣の上で人本主義の眼鏡をかけ、物神の誘惑のもとでではなく、本心の扉を開けて謙虚に答えを探さなければなりません。地上で探せなければ、天から来る声を通して解決しなければなりません。
(279-212、1996.8.20)


私は、きょうこの貴い神様の摂理歴史的完成の場をお借りして、もう一度、神様と人類の摂理的最後の目的である平和天国創建のために、そして神様の祖国と本郷の創設のために、実に摂理的で革命的なプロジェクトを宣布しようと思います。


歴史的に、サタンによって東と西、南と北に分けられ、地理的には、北アメリカ大陸とロシア大陸を分けるべーリング海峡に、橋を架け、海底トンネルを通そうというのです。そうして、アフリカの喜望峰からチリのサンティアゴまで、イギリスのロンドンからアメリカのニューヨークまで、自動車で全世界を巡回、疾走できる「世界超高速道路」を連結する「ワールド・ピース・キング
・ブリッジ・トンネル」を完成し、世界を一日生活圏にしようというのです。


これ以上の分断と分裂は容認できないというのが天の警告です。全世界を一日生活圏で結び、サタンがつくった人種、文化、宗教、国家の壁を崩し、神様が何よりも願ってこられた平和理想世界王国を、この地球星に創建しようというのです。


アメリカとロシアが一つになり、ヨーロッパ大陸、中国、インド、日本、ブラジルなど、世界のすべての国家、そしてすべての宗教が一つになり、共に力を合わせ、この歴史的なプロジェクトを成功させなければなりません。この事業の成功こそ、人類にとってこれ以上戦争と分断が必要ない平和理想世界王国を創建するのに、決定的な役割を果たすことでしょう。(注23)
平和神経、平和メッセージ1.30 ~ 31 2005.9.12




出典


第1章


1 『聖書新共同訳~旧約聖書続編つき』日本聖書協会1987 年


2 三田了一訳『日訳・注解聖クラーン』世界イスラーム連盟1973 年


3 三田了一訳『日訳・注解聖クラーン』世界イスラーム連盟1973 年


4 中村元訳『ヴェーダの思想』(中村元選集[決定版]第8巻).春秋社1989 年


5 三田了一訳『日訳・注解聖クラーン』世界イスラーム連盟1973 年


6 『教義と聖約・高価なる真珠』末日聖徒イエス・キリスト教会1981 年


7 『聖書新共同訳~旧約聖書続編つき』日本聖書協会1987 年


8 試訳(韓)


9 佐保田鶴治訳『ウパニシャッド』平河出版社1979 年


10 張鐘元著上野浩道訳『老子の思想』講談社1987 年


11 辻直四郎編『ヴェーダ・アヴェスター』(世界古典文学全集第3巻)
筑摩書房1967 年


12 試訳(英)


13 山下龍二著『全釈漢文大系3 大学・中庸』集英社1974.年


14 ~ 17 『聖書新共同訳~旧約聖書続編つき』日本聖書協会1987 年
18 三田了一訳『日訳・注解聖クラーン』世界イスラーム連盟1973 年


19 試訳(韓)


20 佐保田鶴治訳『ウパニシャッド』平河出版社1979 年


21 辻直四郎訳『リグ・ヴェーダ讃歌』岩波書店1970 年


22 三田了一訳『日訳・注解聖クラーン』世界イスラーム連盟1973 年


23 張鐘元著上野浩道訳『老子の思想』講談社1987 年


24 『聖書新共同訳~旧約聖書続編つき』日本聖書協会1987 年


25 山上曹源訳『国訳大蔵経経部第四巻国訳大乗人楞伽経』
国民文庫刊行会1927 年


26 試訳(英)


27 試訳(韓)


28 『落穂集』バハイ教


29 試訳(英)


30 三田了一訳『日訳・註解聖クルアーン』世界イスラーム連盟1973 年


31 張鐘元著上野浩道訳『老子の思想』講談社1987 年


32 佐保田鶴治訳『ウパニシャッド』平河出版社1979 年


33 試訳(韓)


34 中村元・紀野一義訳注『般若心経・金剛般若経』岩波書店1979 年
35 『聖書新共同訳~旧約聖書続編つき』日本聖書協会1987 年


36 『聖書新共同訳~旧約聖書続編つき』日本聖書協会1987 年


37 松濤誠達著『ウパニシャッドの哲人』(人類の知的遺産2)講談社1980 年


38 中村元・紀野一義訳注『般若心経・金剛般若経』岩波書店1979 年


39 『聖書新共同訳~旧約聖書続編つき』日本聖書協会1987 年


40 三田了一訳『日訳・注解聖クルアーン』世界イスラーム連盟1973 年


41 『聖書新共同訳~旧約聖書続編つき』日本聖書協会1987 年


42『聖書新共同訳~旧約聖書続編つき』日本聖書協会1987 年


43 試訳(韓)


44『聖書新共同訳~旧約聖書続編つき』日本聖書協会1987 年


45 三田了一訳『日訳・注解聖クラーン』世界イスラーム連盟1973 年


46 『聖書新共同訳~旧約聖書続編つき』日本聖書協会1987 年


47 辻直四郎訳『リグ・ヴェーダ讃歌』岩波書店1970 年


48 佐保田鶴治訳『ウパニシャッド』平河出版社1979 年


49 松濤誠達訳『ウパニシャッドの哲人』(人類の知的遺産2)講談社1980 年


50 張鐘元著上野浩道訳『老子の思想』講談社1987 年


51 吉田兼倶『神道大意抄』


52 佐保田鶴治訳『ウパニシャッド』平河出版社1979 年


53 江部・鴨村編・訳『口語全訳華厳経(下巻)』国書刊行会1996 年復刻




注釈


発刊の辞


1.御言選集172-143、1988 年1月10 日。文鮮明先生の教えは、伝統に従って500 巻以上出版された『文鮮明先生御言選集』のみ言と、そこに記録された日付を引用するものとする。


2.この本は、韓国語で出版されたみ言の本文に基づいている。しかし、韓国語の本文自体もより一層信頼性のある正確な資料を構築する課題が残っている。現在、整理された韓国語本文の中で、ある部分はオーディオの欠陥によってよく聞こえない音声資料を基礎として作られたものもある。そして大部分、口語体を文語体に変えて編集がなされている。また、文鮮明先生は時折、説教の途中、黒板に板書される場合があるが、この場合、音声の録音は黒板に板書した内容をほとんど伝達できない。日本語や英語で語った場合、その言葉を再び韓国語で翻訳し載せている。板書内容(図表を含む)とともに、より正確で具体的なみ言の原文資料が早急に顕われている。


祈願文


1.マタイによる福音書6.9 ~ 13:主の祈りには、キリスト教徒の祈願だけでなく、理想に従って生きようとする誓いが含まれている。特に、許しにおいでそうである。神様は私達が他の人々を許す時、私達を許される。


2.クルアーン1:アル・ファーテイハ(開端章)はムスリムの重要な祈祷文である。毎日、5回の礼拝に朗唱される。


3.カディッシュ:カディッシュはユダヤ人の最も重要な祈祷文である。聖なる日にいつも暗唱され、特別に故人をたたえる時に暗唱される。「主の祈り」は、ここに由来する。


4.リグ・ヴェーダ3.62.10:よく真言の初めに使われる「オーム」は、一切の万有がそこに内在する聖なる音である。声音「オーム」が詠唱される時、宇宙の究極的本源と一つとなり、共鳴する。韓国語の訳文は、原語で詠唱される時ほど呪文の効果を出すことができないだろう。原文では音声自体が霊的エネルギーとして発散される(第16 章、注釈20 参照)


5.小誦経:告解の三帰依処は、仏、ダンマ(法、教え)、僧家(僧、僧団)である。これらはまた、三宝と称される。「尊敬」「畏敬」「恩寵」で始まる祈願儀式は、東洋の宗教において共通に見られる現象である。


6.家庭盟誓:第1節から第8節までの祈願文は、神様の愛を中心とした真の家庭となるための、青写真を提示してくれる盟誓文である。これを暗誦し、毎日毎日実践することを決意することによって、家庭を霊的成長の軌道に乗せる。「天宙平和統一国」の短縮語である「天一国」は、地上の神様の王国を意味する。第1節は、善なる環境と家庭を創建しようという盟誓文である。第2節は、より大きな徳目に向かって、「ために生きる」生活の縦的軸を説明している。第3節は、家庭で子女の愛、兄弟姉妹の愛、夫婦の愛、父母の愛で構成される「四大心情圏」に関することである。第4節は、地球一家族を建設するにおいて家庭の役割を強調している。第5節は、霊界まで拡張される家庭の重要な役割が表現されている。第6節、第7節、第8節は祝福の源泉、心情文化の創造者、神的化身としての家庭を示している。

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世界経典-77

2022年09月03日 19時22分59秒 | 学習


2.内的平和


平和は、平和的な個人からわき出る。内的平和に至った人々は、人に平和を拡散する。彼らは人と平和的に相対する内的な力、明晰さ、情熱をもつ、文鮮明先生のみ言によれば、体と心の統一を育成することによって、私達は、人と豊かな愛を授け受けするのに適した器になる。


内的平和の育成は、外的平和の創造の出発点になる。いかなる政治的、経済的プログラムであっても、それを助けてくれる人々が自分たちの胸の中に憎しみと暴力を抱えているならば、公正で適切な平和を導くことはできない。






―宗教経典―


深い湖が、澄んで、清らかであるように、賢者は真理を聞いて、心清らかである。
法句経82(仏教)


人は流れる水を鏡にしようとしないで、静止した水を鏡として、自分の姿を映すものである。ただみずから静止するものだけが、静止を欲するものに静止を与えることができるのである。(注4)
荘子5(道教)


海に水が流れこむ時、海は満たされつつも不動の状態を保つ。同様に、あらゆる欲望が彼の中に入るが、彼は寂静に達する。
バガヴァッド・ギーター2.70(ヒンドゥー教)


あなた自身の欲心に対して聖戦をせよ。そうすれば、あなたの心を知恵が占めるだろう。最上の聖戦は、誰かが他の人に背こうと考えることもできない、それを守ることである。
ハディース(イスラーム)
主は万物の心の中にある。その幻力(マーヤー)により万物を、からくりに乗せられたもののように回転させつつ。全身全霊で彼にのみ庇護を求めよ。アルジュナよ。彼の恩寵により、あなたは最高の寂静、永遠の境地に達するであろう。
バガヴァッド・ギーター18.61 ~ 62(ヒンドゥー教)


このすべてのものが満ち、あのすべてのものも満ちている。満ち足りたものから満ち足りたものが出てくる。満ち足りたものが満ち足りたものから取られるとき、満ち足りたものはそのまま残っている。オーム、平和、平和、平和。(注5)
イーシャ・ウパニシャッド、ピース・チャント(ヒンドゥー教)


修行者は心のうちが平安となれ。外に静穏を求めてはならない。内的に平安となった人には取り上げられるものは存在しない。どうして捨てられるものがあろうか。海洋の奥深いところでは波が起らないで、静止しているように、静止して不動であれ。修行者は何ものについても欲念をもり上がらせてはならない。
スッタニバータ919 ~ 920 (仏教)


何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。
ヤコブの手紙4.1 ~ 3(キリスト教)


肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。
ガラテヤの信徒への手紙5.17(キリスト教)


自分の欲望と聖戦を行え。そうすればあなたの心は知恵で満たされるだろう。最高のジハードは、他の人に罪を犯すとは考えもしないことである。
ハディース(イスラーム)


人々が自分から自分を侮ってだらしない行為(こと)をするから、他人もその人を侮辱するのであり、家庭も自分から破滅するような原因をつくるから、他人もその家庭を破滅させるのであり、国家(くに)も暴政を行なって国内の怨みをかうようなことをするからこそ、他国も侵略してきてその国を亡ぼすのである。


されば、〔書経の〕太甲篇にも、『天の降した(自然におこった)災難はどうにか避けられもしようが、自分の招いた災難はとても遁(のが)れられない』とあるが、まさにこのことをいったものだ。」孟子IV.A.8 (儒教)21


戦乱や闘争、そして党争は、どうして生じるのですか。ただ肉体と肉体の欲望から生じるのですか。実に戦争は財物を得るために生じ、財物は肉体を保存し、保持するためになければなりません。
プラトンパイドン(ヘレニズム)
たしかに一人の人の内でも、「肉は霊に逆らって欲し、霊は肉に逆らって欲する」のである。それゆえ霊の欲するものは他の人の肉の欲するものに対抗し、あるいは肉の欲するものが他の人の霊の欲するものに対抗して、ちょうど善人と悪人とが互いに闘うように、闘うことがありうる。


あるいは善人ではあるが、まだ完全ではない人々の場合、彼らが癒されてその健康が最後の勝利に導かれるまでは、二人の肉の欲が、ちょうど悪人同士が闘うことがありうるのである。
アウグスティヌス神の国15.5 (キリスト教)


精神的な暴力は何の力ももつことはできず、ただ自らの考えが暴力的なその人を傷つけるだけである。それは精神的非暴力と全く異なる。精神的非暴力は、世界がまだ知らない力をもっている
モハンダス・カラムチャンド・ガンディー(ヒンドゥー教)




―み言選集―


心と体が闘うのに、そこに幸福があり得ますか。心と体が一つになっていないところに、幸福がどこにあり、平和がどこにあるのかというのです。
(242-60、1992.12.27)


世界に対する不平を言い、世界に対する平和と真の幸福を叫ぶ前に、皆さん自身を中心として、心と体が一つになって平和の基点を成しているのか、平和の中心基点が神様となっているのか、これが問題です。
(140-17 ~ 18、1986.2.1)


昔から数多くの聖人、賢哲たちが、天国を語るとき、怨讐と闘う激しい場で、自分の憤怒と、自分のすべての血気をあらわにして、怨讐と争う場で語ったのではなく、怨讐の刀の前でも自分自身を忘れ、静かに天を慕い参拝する場、安らかに天の懐に抱かれる場、怨讐の環境を超越する場で語ったということを知るものです。
(25-38 ~ 39、1969.9.28)
「人の体は神様の聖殿である」とこのように言います。聖殿とは、どのような所ですか。仕事をする所ですか。どのような所ですか。聖殿というならば安息所という言葉と通じます。それでは、休むには何の中で休みますか。愛の中で安息するのです。


聖殿とは何でしょうか。神様の愛の中で休める所です。私達人間が願う理想があるならば、そのような内心的基準が最高の理想の基準ではないですか。これを知っているのです。そうした心の愛をもった所を、心情の世界というのです。それは、わき出る泉の水と同じであって、くみ出しても、くみ出しても、終わりがありません。なぜでしょうか。神様がそこにいらっしゃるから、終わりがないというのです。
(91-78、1977.1.30)


平和とは、何ですか。心と体が一つになり、家庭が平和であってこそ、国家的平和、世界的平和ができるのです。人間が造作した思想では、平和はできません。本然的な神様の心情から心と体が一つになり、その次には夫婦が一つになり、父子が一つになった家庭的基盤が、平和の礎石になるのです。その家庭に宇宙まで載せたとしても、根の指示を受けなければなりません。
(305-203、1998.7.14)


UNは、過去60 年をかけて努力してきましたが、いまだに世界平和は、はるか彼方です。体と心のカイン・アベル関係も解決できない人間の努力だけでは、不可能なことです。
平和神経、平和メッセージ1.21、2005.9.12


自分の中で永遠に続くこの戦争を、どのように平和に裏返してしまうかという問題です。これは、何よりも重要な問題であることを知らなければなりません。これができなければ、世の中が平和世界になっても、それはすべて地獄になります。先生がこの道を出発する時、第1の標語とは何かといえば、「宇宙主管を願う前に自己土管を完成しなさい」ということだったのです。
(131-34、1984.3.11)


3.和解と平和の仲裁


イエスは、平和の仲裁者を神様の息子、娘と呼んだ。実際に、葛藤する集団を和解させることは、その方の家族の構成員が互いに平和に生きることを願われる神様の偉業に同参することである。


しかし、平和を仲裁する人の仕事は、難しくもある。たとえその人が双方に公平で、関心を見せて共感しようと努力したとしても、平和の仲裁者は、どちらか一方から攻撃されたり、非難されやすい。したがって、平和の仲裁者は、平和のために喜んで犠牲になり、危険を甘受しなければならない。さらには、自分の命さえ捨てることを覚悟しなければならない。


和解は、反目する集団に多くを要求する。それは、一時的休戦を越えて、真心からしみ出る寛容を要求する。究極的に和解は、以前の怨讐を愛の絆と結束へと導かなければならない。文鮮明先生は、私達が私達の怨讐を愛し、怨讐の国と和解し、怨讐の宗教と和解しなさい(第13 章5.「怨讐を愛しなさい」参照)という宗教経典の倫理を適用するよう、教えている。






①和解


―宗教経典―


あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。(注6)
マタイによる福音書5.23 ~ 24(キリスト教)


身内との和合われらにあれ。他所人(よそびと)との和合〔われにあれ〕。アシュヴィン双神よ、汝らはここに和合を確立せしめよ。(注7)われらをして意(こころ)と和合せしめよ、知と和合せしめよ。われらをして神意に抗して戦わしむることなかれ。激しき殺戮において、喊声の立ちのぼることなかれ。インドラの矢をして落ちしむることなかれ、決戦の日の到来したるとき。
アタルヴァ・ヴェーダ7.52.1~2(ヒンドゥー教)




信仰して、主に信頼しまつる者にとっては、神のみもとにあるものこそ、もっと善美でずっと長持ちする。また、大罪や破廉恥の行為を避ける者、及び怒ったときでも寛容する者。……悪に対する報いは、それと同様の悪である。だが寛容して和解する者に対しては、報酬は神の務めである。まことにかれは、悪い行いの者をめでたまわぬ。……だが耐え忍んで寛容する者、まことにそれ
らは、あらゆる事に果断でそれを成就する。(注8)
クルアーン42.36 ~ 43(イスラーム)


だがかれらがもし、和平にかたむいたならば、なんじもそれにかたむき、神に信頼せよ。
クルアーン8.61(イスラーム)


神の使徒が言った。「現在と未来に最も優れた教訓を教えようか。あなたを抑圧する者を赦し、あなたから背を向ける者と紐帯を結び、あなたを侮辱した者に親切にし、あなたから奪った者に与えることである」。
ハディース(イスラーム)


誰にも悪意を抱かず、すべての人に慈愛で、神が私達に見せられたその正義に対する固い確信で、私達が直面することを終えるために、この国の傷を縫い合わせるために、戦闘をしなければならなかった者と、彼の未亡人と孤児を世話するために、私達の間の、そしてすべての国々と、正しく恒久的な平和を成し遂げ、これを保持することに全力を尽くすために邁進しましょう。
エイブラハム・リンカーン2番目の大頭領就任辞




―み言選集―


一人でも、和平したところで条件を立てていかなければなりません。争うところでは駄目です。神様が離れていくのです。どこで条件が立てられることを願うのでしょうか。あらゆる悪のものが屈服し、除去された善のところで、これが立てられることを願うのです。争い、不平を言う立場では、条件を無視するのです。ですから、兄弟同士で何か問題があれば、祭祀を行うときには和解してから来なさいというのです。(注9)
(286-209 ~ 210、1997.8.11)


自分は自分のために存在するというところでは、お互いに一つになれません。食口たちが平和の動機を成すことができ、お互いが慰安の対象となるためには、「私は、あなたのためにいる」という立場に立たなければなりません。私はあなたのために、食口のためにいるというところにおいてのみ、平和は描かれるのです。
(60-21、1972.8.1)


今まで国家の形成過程は、自分に引き付けるものでした。しかし、これから世界に越えていく過程では、自分を捨てなければなりません。自分の愛する国が世界を指導する国家になるためには、その国を捨てなければなりません。そのようにできない国の主義や思想は、世界を糾合できません。
(26-294、1969.11.10)


各国が自分の国を中心として、神様が愛していると言いながら自分の国以外の国はすべて怨讐視すれば、その世界は、どのような世界ですか。争いの世界です。これを皆さんは知らなければなりません。


神様の息子、娘になろうとすれば、神様が愛するように愛さなければなりません。人類を愛せなければならないのです。先生は、神様が怨讐と怨讐の国家が互いに和解するのを願い、親和することを願い、互いに通じて一つになることを願っていらっしゃると知ったので、今日、国境を越えて世界を一つにするためのことをしているのです。
(83-312、1976.2.25)
②平和の実現


―宗教経典―


かれは、愛欲を離れ、よくないことを離れ、思慮のある、思考のある、遠ざかり離れることから生じた、喜び・快楽からなる第一段階の精神統一に到達している。
阿含経長部xiii.75、三明経(仏教)


平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
マタイによる福音書5.9 (キリスト教)


もしも信者の中の二団が争えば両者の間を調停せよ。もしかれらの一方が他方に対して、無法なことをするならば、反逆者が神の命令に服従するまで戦え。かれらが応じたならば、正義と公平を旨として、かれらの間を調停せよ、まことに神は、公正な者をほめたもう。
クルアーン49.9 (イスラーム)


劫中に武器があらわれると、そのために慈しみの心を起して、ひとびとをみちびいて、闘争のない境地に安住させる。もしも大きな戦争が起ったならば、ぼさつは敵に対して等しい力を現じて、敵を降し伏して、威勢を現じて、平和、安らかならしめる。
維摩経8(仏教)


フーザのラビ・パルカは、たまにラベットの市場に行った。ある日、預言者エリヤが彼に近づいてきた。するとパルカはエリヤに尋ねた。「この者たちの中に、これから来るその日を見る者がいますか」。


エリヤが答えた。「あの二人がそうなるだろう」。パルカがすぐにその二人の新しい者たちに尋ねた。「あなたの職業は何ですか」。彼らは答えた。「私達は道化役者です。私達は、悲しい人に会えば笑わせ、争う人たちに会えば、彼らの間に和解をもたらしてあげます」。
タルムード、タアニート22a (ユダヤ教)


全ての王達が席につき、完全なる静寂が続いた後、真白な歯と大太鼓のように深い声をもつクリシュナは話し始めた。「バーラタよ。私はクル家とパーンドゥ家の間に、勇士達を殺すこと無く平和を樹立せんがために来ました。


王よ、私にはこの事のほかに何も語るべきことはありません。……ドゥルヨーダナに率いられたあなたの卑劣な息子達は、徳も益も捨て、道徳を無視し、欲望に溺れ、今や最も近い同族に対して不義なる行いをしているのです。この(大殺りくという)重大な危機は、クル家の行いに端を発しているのです。もしあなたがそれに無関心でいるならば、それは大いなる殺りくを生み出すでしょう。おおバーラタよ、もしあなたがその気になればその危険を避ける事ができ、平和を得る事さえ難しくはないと思うのです。平和を樹立する事は、王よ、あなたと私とにかかっているのです。あなたの息子達を正道に引き戻しなさい。私はパーンドゥ家を正します。」(注10)
マハーバーラタ、ウディヨーガ・パルヴァン(挙兵の巻)95(ヒンドゥー教)
私には、世界に教える新しいものは何もない。真理と非暴力はあの神々ほども古いものだ。私ができる最も幅広い範囲で、その二つにおいて試みたこと、それが今まで私がしてきたすべてだ。
モハンダズ・カラムチャンド・ガンディー(ヒンドゥー教)


私達は、千年の反目を忘れるために、川の水のように血が流れてきた国家の間で、欧州国家連盟を追求しています。
ウィンストン・チャーチル(注11)








―み言選集―


神様の愛の中には相克はあり得ないし、ただ相和、相応のみがある。聖書に、「平和をつくり出す人たちは神の子と呼ばれるであろう」というように記録された意味もこのような点において理解しなさい。
御旨の道、信仰生活


神様がどれほど耐えたのか、ということを皆さんは知らなければなりません。皆さんは少しでもつらければ不平を言い、口をとがらせて……。そのようなとき、神様はどれほど耐えたでしょうか。そのように、私達も耐えなければなりません。千年、万年耐えなければなりません。争ってはいけないというのではありません。二人とも利益があるときは争います。争っていって滅びるときは、争ってはいけません。争うとしても、私の味方にして教育するために争わなければならないのであって、怨讐になるために争ってはいけないのです。
(104-33 ~ 34、1979.3.25)
世界的次元でも、やはり地域、人種、宗教、文化、慣習、言語、国籍など、一つの平和世界のために飛び越えなければならない挑戦の課題が山積みされています。しかし、本来宇宙万象をつくられた神様の視覚、神様の真の愛の目を通して世界を見る時、世界は、人種、言語、宗教、理念的差異を越えて一つに見えるのです。


青年たちが神様の真の愛を中心に犠牲と奉仕の努力を注ぐとき、世界の貧困と飢餓問題、そして、さらには貧富の格差と、歴史上の異質な経験からくる葛藤と憎悪の感情は、初めて治癒の糸目を見いだせるのです。


愛せないものまでも愛することこそ真の愛だという定義から、私達は観念、葛藤関係が克服され得る明確な方向性を知るようになります。自由と平等の間の理念的矛盾も、真の愛の場で初めて、一つの出会いの場を見いだせます。与えて、また与え、そして与えたことを忘れたまま、より与えることを願う神様の真の愛によって利己主義を克服し、和合と繁栄の世界に進んでいけます。
特に、家庭は国のために、国は世界のために、そして世界は神様のために犠牲になる位置に進まなければならないという真の愛の倫理展開から、民族利己主義、国家利己主義を越えて永遠の平和の世界を望めるのです。
(288-201 ~ 202、1997.11.28)


レバレンド・ムーンのような人がここに来て、黒白を調整しています。今まで黒白問題を調整してきたのです。それで、レバレンド・ムーンが教えることは、白人が黒人に奉仕できるようにすることです。
(124-275 ~ 276、1983.2.27)


黒人たちは、このアメリカで天の蕩減路程において、アベル的歴史において奴隷の道を歩んできました。この国を創建したのは皆さん黒人たちであって、白人たちではないことを知らなければなりません。白人ではなく黒人です。まず黒人を犠牲にして、その次にインディアンを犠牲にしてきたのではなかったですか。争えば黒人たちが恨みを晴らすのであり、有色人種が白人種と争えば、
白人の皆さんを残しておくと思いますか。そのようなことを知らなければなりません。


レバレンド・ムーンは、なぜここに来たのですか。事実、インディアンは私達の親戚と同じです。国で見れば、親戚関係、兄弟関係だということです。彼らをすべて葬り去ろうとするので、私が来て止めてあげなければなりません。恨みを晴らそうとして来たのではなく、救ってあげ、和解させるために来たのです。


そのようなことを誰がするのですか。白人がしますか、黒人がしますか。それはできません。できないというのです。白人の話も聞かず、黒人の話も聞きません。「ここで絶滅させられた有色人種と同じ黄色人の私達も、怨讐であるこのアメリカを赦すのだから、あなた達も赦しなさい」、そうしてこそ黒人が話を聞くのです。


「あなた達の怨讐よりも、黄色人の怨讐、インディアンの怨讐、アジア人の怨讐だが、彼らを私が赦すのだから、あなた達も赦しなさい」、このようにすれば統一できるのです。歴史的に、アベルが行く道はそうでした。
(106-241、1979.12.30)


ペルシャ湾の問題をキリスト教の責任者たちができないので、先生が全世界のキリスト教の重鎮とイスラームの重鎮に会い、これを防御するための会合を今も行っています。韓国に暮らす人が、ぺルシャ湾が滅びるなら滅び、原子爆弾が落ちるなら落ちるのであって、私と何の関係がありますか。


しかし、世界人類の行く道が暗澹としていることを知っており、暗礁に乗り上げるのは間違いないので、それを知っている私が責任をもち、お金を使いながら、侮辱されながら、外交的舞台で彼らを生かしてあげようとしているのです。


ここに、アメリカとソ連まで巻き込み、これに拍子を合わせて行動しなければなりません。私は、このようなことをしているのです。中共と台湾のナンバー2を和解させたのは、誰ですか。私です。ユダヤ教とアラブ圏とを和解させたのは、私がつ
くった「世界平和教授アカデミ-」です。そのようなことをしているのです。
(211-183、1990.12.30)


私は、もう85 歳の老齢になりました。しかし、この崇高な天命を完遂し、この地球星が神様の真の家庭で満ちあふれるその日まで、中東地域から銃声が消え、平和と歓喜の祝砲が響き渡るその日まで、そして、私の祖国韓半島から聞こえてくる統一の万歳の声が、太平洋を越えてこのアメリカにまで響き渡るその日まで、レバレンド・ムーンは誰よりも先頭に立って走ることでしょう。
(443-191、2004.3.23)




③平和実現の鑑であるイエスの犠牲的愛


―宗教経典―


「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。
ルカによる福音書23.33 ~ 34(キリスト教)


しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。実に、キリストは私達の平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
エぺソの信徒への手紙2.13 ~ 16(キリスト教)


それで、私達は、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません、だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。


古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通して私達を御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務を私達にお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私達にゆだねられたのです。
コリントの信徒への手紙二5.16 ~ 19(キリスト教)




―み言選集―


イエス様は、闘っているこの世界に新しい方向を提示してくださいました。ローマやイスラエルのような圧迫国家と非圧迫国家の間には、お互いを怨警視する高い障壁があるのですが、イエス様の哲学は、それを壊してしまうべきだというものです。


イエス様は「ローマよ、あなたは力で私を征服しようとするが、私はその反対に愛であなたを征服する」と考えられたというのです。それで、十字架にかかりながらも怨讐のために福を祈ってあげたのです。


そのような思想は、ローマの兵士たちに対して「彼らは、自ら犯した罪が分からないので、彼らを許したまえ」という驚くべき宣言として現れたことを知らなければなりません。イエス様がそのようになさることによって、世界のすべての国がお互いを怨讐視することを乗り越え得る、二つの国家間の国境を乗り越え得る、一つの原型、または模範となりました。


イエス様は、個人的な怨讐がすべてではないと知っていたというのです。家庭的な怨讐があり、氏族的な怨讐があり、民族的な怨讐があり、国家的な怨讐があり、世界的な怨讐によって四方から縛りつけられていることを知っていました。


これは、私に従い、私が行く道を行こうとする人には、数多くの怨讐が待っているということです。そして、「家庭的に行けば家庭的な怨讐が待って
おり、氏族的に行けば氏族の怨讐が待っていて、熾烈な闘いが予想されるけれども、その時にこそ怨讐を愛しなさい」というみ言です。このような精神をもっていれば、いつかは勝利できるというのです。
真の家庭と世界平和、2000.3.9


悪を自然屈服させようとする神様の戦法は、「怨讐を愛せよ」ということでした。内容は、簡単ですが、これが神様とサタンの間で勝敗として分かれる境界線となってきたことを誰も知りませんでした。キリスト教の愛の精神によって、激しく迫害を加えてきたローマ帝国が屈服しました。キリスト教は、そのようにして世界的な宗教になりました。


これまで、クリスチャンは、個人的な怨讐だけを考えてきたのですが、そうではありません。怨讐国家とか、さらには怨讐世界も愛さなければなりません。怨讐の間柄である国家を、自分の祖国以上に愛し得る基盤と伝統を成さない限り、地上に天国は顕現できません。このような歴史的な伝統の樹立は、神様の真の愛の中でのみ可能なのです。
(316-81、2000.2.10)


聖書に、怨讐の個人を愛しなさいという言葉はありますが、怨讐の国を愛しなさいという言葉はありません。私達は、怨讐の個人を越えて怨讐の国を愛そうというのです。国を愛するだけではなく、死地にある国を救ってあげようというのです。それがメシヤ思想です。
(93-160、1977.5.22)


和睦させる者は神様の息子と呼ばれる、と聖書にあります。私が神様のみ旨を知ったために、天の国を中心として、神様のみ旨を中心として人類が和睦できるようにしようとするので、そこで槍を受けるとしても、先に受けなければなりません。和解させようとすれば、そのようにしなければならないのです。血を先に流さなければなりません。それを意に介さず、争う二人を生かすためには、そのようなこともできなければなりません。
(211-182、1990.12.30)






4.償還


平和は、正義がある所で栄える。正義は、葛藤する双方の人々に同一には現れないかもしれないが、誤りを正し、負債を返し、損傷した信頼を回復するためには、何らかの措置が取られなければならない。隣人に過ちを犯したことに対して、普通に悔い改めをすることでは十分ではない。悔い改めには償還が伴わなければならない。


償還は、損害に正確に相応する値段でなくても、誤った人が損害を受けた人に自ら補償するときに、最も効果的である。ベルサイユ条約により第1次世界大戦が終わったのち、ドイツがフランスとイギリスに提供するように強要された戦争賠償金と、第2次世界大戦後、ドイツがユダヤ人とその他のナチ犠牲者に提供した償還とを比較してみよ。


ドイツに戦争賠償金が強要された前者の場合、その戦争賠償金は、ドイツ人の大きな怒りを引き起こし、ヒトラーの登場に直接連結する、復讐に対する要求に油を注ぐ結果となった。ナチの犯罪に対してドイツ人が本当に悔い改めた後者の場合、その償還は、ドイツと以前の怨讐国家の間に善の意志を広げるのに役立った。


私達が犯した誤りに対する真心に満ちた悔い改めに続いて、私達が損害を及ぼした人々に自発的に償還を提供することが平和創造の原則である。また、私達が意識しないまま犯した罪、または私達が過去から受け継いだ負債、または私達が集団的に責任を負わなければならない誤りもあり得る。私達は、これらに対しても償還しなければならない。


文鮮明先生は、この概念を「蕩減復帰」の教えとして確立した。先生は、「蕩減」とは保険の損害賠償請求額のように固定された金額ではなく、むしろ相手側の苦しい心を和らげるために必要なものは何でも与えることだと教える。もし、相手側が赦す心をもっているならば、それは小さくなる。そうではなく、数年の間背信と不信で関係が緊張した状態ならば、それは大きくなるだろう。


「歯には歯、目には目」という一節は、本来の聖書的意味で返還するための法的公式として受け入れられる。そして、ユダヤ教では、そのように理解された。人々は、先天的に自らが借りたすべてを返さなければならないことを知っている。


しかし、その一節は、たびたび復讐の正当化のために誤って引用された。それは完全に異なる問題である。苦痛に遭った集団による復讐は、一種の
乱暴な正義だが、それは平和への助けにならない。それは、ただ暴力の悪循環を助長するだけだ。世界経典は、赦すことがより良いと教えている。








―宗教経典―


ああ肉体に住む者よ、汝がなしてきた全ての事に対して償いをせよ!
ガルダ・プラーナ2.35 (ヒンドゥー教)


贖罪の日は、天に対する罪を贖罪する日だ。しかし、人間に対する罪は傷を受けた者が赦さない限り、贖罪を受けることはできない。
ミシュナ・ヨーマ8.9(ユダヤ教)


サママがイマーム・マリーに、計画的な殺人を犯した者が悔い改める方法があるか尋ねた。彼が答えた。「ない。殺害された者の親戚に慰謝料を払い、奴隷たちを解いてあげ、2ヵ月間断食し、神の赦しを求め、自発的な祈りを行う方法以外にはない。もし彼がこれを行えば、私は彼の悔い改めが受け入れられただろうと希望する」。サママが言った。「それでは、彼にお金がなければどうしますか」。彼が言った。「それは、ムスリムにお金を求め、彼の血族に賠償することができる」と言った。ハディース(シーア派イスラーム)
もし、その他の損傷があるならば、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。(注12)
出エジプト記21.23 ~ 25(キリスト教)


われはかれらのために律法の中で定めた。生命には生命、目には目、鼻には鼻、耳には耳、歯には歯、もろもろの傷害にも、同様の報復と。しかしその報復を控えて許すならば、それは己れの罪の償いとなる。およそ神が下したまえるものによって裁判しない者は、不義を行う者である。
クルアーン5.45(イスラーム)


深い怨みを和解させても、必ずいくつかの怨みがあとに残る。このように、和解は最善の方法とはいえない。賢者は借入の契約書を握っているけれど、借入に支払いを求めない。だから、「徳」のある者は契約書を握るだけであり、「徳」のない者は税金のとりたてをする。
道徳経79(道教)


以前には悪い行ないをした人でも、のちに善によってつぐなうならば、その人はこの世の中を照らす。雲を離れた月のように。
法句経173 (仏教)


もしある人が本当に悪の行為をして、その後に彼の道を変更して悔い改めれば、邪悪ないかなることも行わず、あらゆる善のことを敬虔に実行することを決心したのなら、彼は結局、間違いなく良い運命を得るようになるだろう。これを災いを福に変えると言う。
太上感応篇、感応と報い5(道教)


また、悪人に向かって、私が、「お前は必ず死ぬ」と言ったとしても、もし彼がその過ちから立ち帰って正義と恵みの業を行うなら、すなわち、その悪人が質物を返し、奪ったものを償い、命の掟に従って歩き、不正を行わないなら、彼は必ず生きる。死ぬことはない。彼の犯したすべての過ちは思い起こされず、正義と恵みの業を行った者は必ず生きる。
エゼキエル書33.14 ~ 16(キリスト教)
そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。……しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わだしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。」
ルカによる福音書19.2.8 ~ 9(キリスト教)




―み言選集―


復帰摂理は、必ず蕩減を中心として発展もし、新しい契機を用意するというのが原則です。なぜ蕩減が必要なのですか。歴史的な失敗を清算するのと同時に、歴史的な罪を中心として常に讒訴してくるサタンを分別するためです。このような立場に、個人も全体も引っ掛かっているのです。


皆さん個人を中心として見ても、現在の「私」というものが現在だけの「私」ではありません。歴史的な全体を受け継いだ子孫になっているのです。そして、現在の「私」というのは、今日の個人を中心としている現在の「私」ではなく、全世界を代表した立場にいる「私」だというのです。各自がそのような立場にいます。
(99-164 ~ 165、1978.9.18)


蕩減復帰は、失ってしまったそれと同じ、正常そのものをもって復帰するのです。蕩減復帰だというのです。病気になれば、病気になった状態から逆さまに上がっていかなければなりません。ですから、旧約時代は、目には目、歯には歯です。
(252-128、1993.11.14)


法廷で判事、検事たちが求刑するとき、それを有り難く受けようとする人には減刑してあげようとするのが判事の心情であり、検事の心情だというのです。判事や公判廷を恐ろしく思うよりも、自分に忠告する個人を恐ろしく思う人は、罪を犯して刑を受けても免れる道があるのであって、それを恐れることがなければ免れる道がないというのです。
(104-279 ~ 280、1979.6.1)


私達の同僚関係においても、一言間違って失敗すれば、それで関係が壊れることもあります。夫婦同士でもそうです。一言の言葉が動機になって気分が悪くなれば、それによって別れていくのを見ることができます。


そのような苦痛を受ける立場に落ちたときは、どのようにしなければなりませんか。まず、語ったことの根本を掘り下げ、「これは間違っているが、これはこうで、これはこうだ」として、あなたが間違ったのか私が間違ったのか、友人であれば彼が間違ったのか私が間違ったのかを判別して、これを清算してこそ、そこから解決していくのであって、そのまま覆いかぶせて「そうしよう」
としてはいけないのです。


そのような内容が残れば残るほど、それによって永遠に怨讐となり、永遠に残ることを知らなければなりません。国家間で戦争をしたときも、戦争が終わったあとには、誰が正しくて間違っているのかを判断し、損害賠償を請求したり何かをするなどして、埋め合わせて越えていかなければならないのです。
御旨の道、試験・試練


蕩減復帰は、外的世界を完全に否定するところから蕩減が始まるのです。完全復帰するためには、神様の愛を中心として完全否定する段階が残っているということを知らなければなりません。真の愛の基準の前に立つことができなければ、完全否定です。(312-334、1999.11.7)
神様は、打たれて奪ってきます。レバレンド・ムーンは、今まで打たれて反対されながら奪ってきました。全世界が反対したのです。全世界が反対するのは、全世界が屈服するという予告であることを私は知っています。反対すればするほど、世界と向き合っていた神様は、レバレンド・ムーンの側に行きますか、反対する側に行きますか。なぜ先生の側に来るのですか。反対する人までも愛そうとしたからです。違うのです。反対する怨讐に復讐しようとしないのです。血には血、歯には歯、目には目でするのではありません。愛で消化しようとするのです。
(168-204、1987.9.20)




5.戦争の無用性


戦争は平和を生むのではなく、さらに多くの戦争を生むだけである。第1次世界大戦は、すべての戦争を終息させる戦争と思われていた。しかし、30 年もたたずにヨーロッパは第2次世界大戦に巻き込まれた。このような事実を理解するにおいて、偉大な聖賢たちが非暴力主義を教えた。彼らは、報復せずに、優しい心をもって、喜んで攻撃に耐える。これが平和世界を建設するにおいての最上の教えである。これ以外に、どのような方法によっても神様の王国は具現されない。


それでも、栄枯盛衰の歴史において、人々が残酷な侵略者に遭ったとき、神様は彼らが自分を自ら防御することを許諾した。葛藤する二つの集団の間で、神様は侵略者に対抗する防御者の側に立った。そのため、歴史を通して、自分が勝利すると確信して戦争を起こした侵略者は、ことごとく敗北者になった。これは、国家政策の手段として戦争が無用だということを再度悟らせるものである。


①非暴力の道


―宗教経典―


そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」
マタイによる福音書26.51 ~ 52(キリスト教)


私は言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。
マタイによる福音書5.39 ~ 41(キリスト教)


勝利者からは怨みが起る。敗れた人は苦しんで臥す。勝敗をすてて、やすらぎに帰した人は、安らかに臥す。法句経201 (仏教)
見よ、彼らは、敵の命であっても、その命を奪うよりはむしろ自分の命を犠牲にする方を選んだ。そして彼らは、同胞を愛していたので、自分たちの武器を地中深く埋めてしまった。
モルモン経アルマ書26.32(末日聖徒イエス・キリスト教会)


罪を犯した者たちは死ななければならないと祈るのか。それよりも、彼らが悔い改め、これ以上の悪がないように祈れ。
タルムード、ブラホート10a (ユダヤ教)


武力は平和ができることをすることができない。もしあなたがさとうきびで願う目的を果たせるなら、どうして毒薬を使うだろうか。
ソーマデーヴァニーティヴァーキヤームリタ344(ジャイナ教)


「この乱れた天下は、いったいどこに落ちつくのだろう」とおたずねになる。そこで「いずれは、必ず統一され〔て落ちつき〕ましょう」とお答えすると、また「だれがいったい統一できるのだろう」と問われる。そこで、「人を殺すことのきらいな仁君であってこそ、はじめてよく統一できましょう」とお答えする。
孟子IA6(儒教)


何人かの子供たちが川辺で遊んでいた。彼らは砂の城をつくり、それぞれ自分の砂の城を守って言った。「これは私のものだ」。彼らは自分の砂の城をつくりながら、崩れないように最善を尽くした。砂の城が完戌したとき、一人の子供が他の子供の砂の城を足で蹴飛ばし、完全に崩してしまった。


崩れた砂の城の主人が怒り、崩した子供の髪の毛をつかみ、拳でたたいて叫んだ。「この子が私の砂の城を壊した! みな来て、私がこの子を懲らしめることができるように手伝ってくれ」。他の子供たちが来て彼を手伝った。彼らは、砂の城を崩
した子供を棒でたたき、その子供が地面に倒れると、踏みつけることまでした。そうしたのち彼らは、各自め砂の城で遊びを続け、「これは私のものだ、他の誰もこれをもつことはできない、近くに来るな! 私の砂の城に触るな!」。


しかし、夕方になって暗くなり始めると、彼らはみな家に帰らなければならなくなった。もう誰も自分の城を惜しいとは思わなかった。ある子供が自分のものを足で蹴飛ばすと、他の子供は両手で自分の城を押さえてつぶした。そうしたのち、彼らはそれぞれ家に帰っていった。(注13)
瑜伽師地論4(仏教)


主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。
イザヤ書2.4 (キリスト教)


暴力を使えば、殺人者を処分することはできます。しかし、殺人自体をなくすことはできません。暴力を通してうそをつく者は処分できますが、それで真理を成就することはできません。暴力を通して私を憎悪する者を処分することができますが、憎悪自体をなくすことはできません。暗闇は暗闇を終わらせることができません。ただ光だけができるのです。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア黒人の進む道(キリスト教)


憤怒と憎悪は調和をもたらすことができません。武器の減少と軍備の撤廃は、対決と非難によつて成し遂げることはできません。
テンジン・ギャツォ、第14 代ダライ・ラマ




一み言選集―


武器を使って平和の世界をつくろうとすることは、神様のみ旨ではありません。また、レバレンド・ムーンのみ旨ではありません。力を使わず、愛によってどのように消化させるかを考えていらっしゃるのです。
(103-184、1979.2.25)


過去の歴史的な偉人たち、聖人たちの中で、その時代に迫害を受けなかった人がいますか。そのように歴史過程で反対を受けるようになるとき、私が正しいと弁明した人たちは、聖人の中に入れません。


イエス様は、歴史と共にそのような非難を受けて恨を抱きましたが、黙って口を閉じて逝きました。しかし、歴史時代の勝利者として再び登場したのは、なぜでしょうか。悪と争わなかったからです。
(80-34、1975.10.4)




宗教を信じる人たちは、一発打たれれば同じように打ち、争って対抗できないのですか。権力者がいれば、権力者を激しく打ち、闘いなさいと教えてあげられないのかというのです。本来の人類が希望を求めていくときに、争いを通して希望を求めたとすれば、どのようになっていたでしょうか。しかし、エデンの園の理念がそうではないのです。神様の創造理想がそうではなかったというのです。


本来、私達が救援摂理の道を行くのは、本然の園に帰ろうとすることですが、その本然の園での理想世界実現というのは、争いをして求めていく世界ではありませんでした。互いが自分を高めようとする世界ではなく、謙遜と愛が宿る世界だったのです。このような本来の園の内容を追求していく理想の道を訪ねていく人たちが、争い、嫉妬し、妬んでいては、その本質の世界とは関係のない結果になり、そのような者たちは天に属せないので、そのような道を天は今まで、歴史を通してコーチせざるを得なかったのです。




今ではもう、本来の世界がどのようなものだということを知りました。自分を中心として驕慢な人は、いくら誇っても、天国に行けば神様と関係がないのです。その次には、争う人、妬み、嫉妬する人たちも同じです。これからの真の宗教は、「出ていって闘いなさい」というものではありません。人を利用し、人をすべて支配しなさいという宗教ではないのです。愛をモットーとして生き
ていくのです。
(98-33、1978.4.8)






②侵略戦争の不道徳性と無用性


―宗教経典―


土地の争奪(とりあい)で戦っては、原野を一ぱいに満たすほどたくさん人を殺し、城の奪合で戦っては、城を埋めつくすほど無数の人を死なせるというようなのは、なおさらのことだ。つまりは、人の肉を土地に食べさすようなもので、かかる連中はその罪死刑にしてもまだ足りぬ。されば……戦争(いくさ)の上手な連中は最高の重刑に処すべきであり……。
孟子IV.A.14(儒教)


武器は、人々によって蔑視される不吉な前兆をもった道具である。だから、「道」を有した人はそれに身をおかない。武器は不吉な前兆をもった道具である。避けることができない時だけ、それを知る。たとえ戦闘にあたっても、冷静で冷淡であるのがよい。たとえ戦争に勝ったとしても、光栄とすべきではない。


光栄とは、人を殺害するのを楽しむことを意味するからだ。人々を殺害するのを楽しむような人は、天下で成功しない。
道徳経31 (道教)


できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐は私のすること、私が報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
ローマの信徒への手紙12.18 ~ 20(キリスト教)


怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。悪事を謀る者は断たれ、主に望みをおく人は、地を継ぐ。しばらくすれば、主に逆らう者は消え去る。彼のいた所を調べてみよ、彼は消え去っている。貧しい人は地を継ぎ、豊かな平和に自らをゆだねるであろう。主に従う人に向かって、主に逆らう者はたくらみ、牙をむくが、主は彼を笑われる。彼に定めの日が来るのを見ておられるから。主に逆らう者は剣を抜き、弓を引き絞り、貧しい人、乏しい人を倒そうとし、まっすぐに歩む人を屠ろうとするが、その剣はかえって自分の胸を貫き、弓は折れるであろう。
詩編37.8 ~ 15(キリスト教)


イマーム・マリーが神の使徒のさやで手紙を発見したが、このように書かれていた。「神の目に最悪の人間は、彼と争わない者を殺す者であり、彼をたたかない者をたたく者である。ゆえに、彼は神がムハンマドに下されたクフル(不信仰)の罪を犯すようになるのである」。
ハディース(シーア派イスラーム)


彼らが先に争いを始める前に争うな。そうすれば、神の恩寵であなた達は正当化されるだろう。そして、彼らが争いを始める前まで彼らをそのままにしておくことは、また一つの正当性になるだろう。そうしてからあなた達が彼らを退けたのなら、逃亡する者を殺さず、負傷した者の命を奪わず、服を脱がさず、死体を切り刻んではならない。
アミール・アル・ムウミニーン・アリー
ダアイム・アル・イスラーム(イスラーム)




―み言選集―


アメリカが過去3年の間、イラク戦争につぎ込んだ戦費がどのくらいになるか御存じですか。約20 兆円(2000 億ドル)に迫っています。それだけ予算があれば、ベーリング海峡プロジェクト(注14)を完成しても余るお金です。なぜ私達が、互いに殺し合う戦争に、このように途方もないお金をつぎ込む愚かな蛮行を続けなければならないのでしょうか。聖書のイザヤ書第2章4節の教えのように今や、「銃や刀を溶かして、すきとくわを作
る」時です。


人類はもうこれ以上、戦争のための戦争に子女たちの命を犠牲にし、天文学的なお金を費やす悪業を繰り返してはなりません。世界のすべての国家の力を総動員し、大宇宙の主人である神様が願われる平和理想世界王国創建に、総邁進すべき時が来たのです。
平和神経、平和メッセージ1.32、2005.9.12




今まで神様が万民の平和の武器として下さった科学技術を、特定の一国が使用して世界をむさぼり、幸福になることを神様は容赦されません。万民の幸福のために人間に下さったのが科学技術です。特定の白人だけがその恵沢を享受し、平和を無視した武器として使用することはできません。そのような観点から先生は、技術平準化を語るのです。
(190-178、1989.6.19)


戦争について見てみるとき、何によって善の側と悪の側を分けられますか。何もしていないのに、先にたたく人が悪の側だというのです。二人の学生がけんかしているとき、誰が先にけんかをしかけたかが問題です。先生は攻撃されたほうに立ちます。それで、必ず先に打った者が負けるということを知らなければなりません。なぜかというと、先生が攻撃された側に立ってくれ、神様が攻撃された側に立ってくれるので、負けるようになっているのです。


それでは、なぜ先に打つのが悪ですか。本来、この宇宙で善が先に出発しなければならないのですが、悪が先に出発しました。アダムとエバが何もしていないのに、先に打ったのです。神様が何もしていないのに、先に攻撃をしたのです。それで悪だというのです。もし悪の人が善の人を侵害したときは、その侵害したものを支払ってあげなければなりません。侵害された人は、損害賠償を請求することができるのです。


そのような戦略を、作戦を知って、そのような内容を知っている神様は、じっとしているでしょうか、攻撃するでしょうか。じっとしているというのです。また、神側にいる人はどうでしょうか。神様がじっとしているので、神様に従い、神様と一つになろうとする人たちも、じっと打たれているのです。打たれてじっと最後まで耐えれば、損害賠償を請求できます。


サタンは攻撃者の先祖です。サタンが悪の先祖なので、攻撃者の先祖であることを知らなければなりません。神様は守備の王です。したがって、打たれれば打たれるほど、その基盤のもとには蕩減復帰を短縮させていける原理があります。
このような観点から、サタンは攻撃をして奪われていくのであり、神様は攻撃を受けて取り戻してくるという結論が出てきます。第1次大戦のとき、ドイツが勝ちましたか、負けましたか。負けました。なぜ負けたのですか。ドイツは絶対に負けたくなかったのです。サタンも絶対に負けたくなかったのです。


しかし、天理原則によって負けたのです。その次に、第2次世界大戦のときは、誰が先に打ちましたか。日本とドイツです。それでは、負けましたか、勝ちましたか。なぜ負けたのですか。神様が、公義の審判官が、「おい! こいつ。いくらやっても、お前が間違っている!」と言うのです。
(91-243 ~ 244、1977.2.23)


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コメント

世界経典-76

2022年09月03日 19時20分55秒 | 学習


②正義の行政


―宗教経典―


またなんじらが、人の間をさばくときは、公正にさばくことを命じたもう。神がなんじらに訓戒されることは、何と善美なことよ。まことに神は、全聴者・全視者であられる。
クルアーン4.58 (イスラーム)


私はそのとき、あなた達の裁判人に命じた。「同胞の間に立って言い分をよく聞き、同胞間の問題であれ、寄留者との間の問題であれ、正しく裁きなさい。裁判に当たって、偏り見ることがあってはならない。身分の上下を問わず、等しく事情を聞くべきである。人の顔色をうかがってはならない。裁判は神に属することだからである。事件があなた達の手に負えない場合は、私のところに持って来なさい。私が聞くであろう。」
申命記1.16 ~ 17(キリスト教)


あらあらしく事がらを処理するからとて、公正な人ではない。賢明であって、義と不義との両者を見きわめる人、粗暴になることなく、きまりにしたがって、公正なしかたで他人を導く人は、正義を守る人であり、道を実践する人であり、聡明な人であるといわれる。
法句経256 ~ 257(仏教)


泥棒は髪を解き、「私はかくかくの事をした。私を罰せよ」と窃盗の罪を告げながら、走って王のもとに行くべし。罰せられるなり、放免されるなりいずれによっても泥棒は窃盗の罪から解放される。しかし彼を罰しないときは王が泥棒の罪を得る。マヌ法典8.314,316(ヒンドゥー教)


あなたの先祖を滅ぼしたのは、彼らの中の高い身分にある者が盗みをしたとき、彼をそのままにしておいたことであり、彼らの中で弱い者が盗みをしたとき、彼に規定された処罰を加えたことである。私は、私の娘ファティマが物を盗んだとしても、誓ってその手首を切ってしまうだろう。
ブハーリーおよびムスリム・ハディース(イスラーム)
どろぼうが何かの物を盗もうとしたら、彼は自分の運命を決定する誓約を受け入れなければならない。ところが、誓約が何かの物を盗もうとすれば、それは何を受け入れなければならないだろうか。
イガラ族の格言(アフリカ伝統宗教)


隣人に関して偽証してはならない。
出エジプト記20.16 (キリスト教)


過失または罪を犯して、これを無垢の者のせいにする者は、虚偽と明白な罪を負う者である。
クルアーン4.112 (イスラーム)


いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。不法な証人が立って、相手の不正を証言するときは、係争中の両者は主の前に出、そのとき任に就いている祭司と裁判人の前に出ねばならない。裁判人は詳しく調査し、もしその証人が偽証人であり、同胞に対して偽証したということになれば、彼が同胞に対してたくらんだ事を彼自身に報い、あなたの中から悪を取り除かねばならない。ほかの者たちは聞いて恐れを抱き、
このような悪事をあなたの中で二度と繰り返すことはないであろう。
申命記19.15 ~ 20(キリスト教)




―み言選集―


国家の刑法も、罪を犯した人間たちに罰を与え、その国家の安寧と秩序とを原状どおりに維持するための蕩減条件を立てる、一つの方法であるということができるのである。
原理講論、緒論1.1


原理原則と秩序を離れた自由は、あり得ないのです。法の中で最高の法とは何ですか。愛の法であり、心情の法です。自由とは何かというのです。法もなく、何の秩序もないものは破綻です。滅亡です。国法に背けば刑務所に行かなければなりません。


「アメリカは自由の国なのに、なぜ刑務所があるのか、片付けてしまえ」として、そのようになればどれほどよいですか。裸になって走っても、何をしても自由です。ホモセクシャルがあり、ありとあらゆることがあります。女性でも男性でも、好きなように私娼窟で娼婦行脚をすればどうで
すか。
それで、天の国の法で見れば、天の国の刑務所がなければならず、地上の法で見れば、地上の刑務所がなければならず、学校の法で見れば、学校の刑務所がなければなりません。家庭の法で見れば、家庭の刑務所がなければならないというのです。
(112-73-76、1981.4.1)


もし、ある検事が個人的に人を殺すようになれば、天法によってその検事は死刑場に行くのです。死んだ人には賞を与えるのであり、殺した人には罰を与えるのです。
(93-111、1977.5.21)






③正当で慈悲深い処罰


―宗教経典―


人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる。ただし、故意にではなく、偶然、彼の手に神が渡された場合は、私はあなたのために一つの場所を定める。彼はそこに逃れることができる。しかし、人が故意に隣人を殺そうとして暴力を振るうならば、あなたは彼を私の祭壇のもとからでも連れ出して、処刑することができる。
出エジプト記21.12 ~ 14(キリスト教)


統治者は過度の罰を与えてはならず、ひどい言葉を使ったり、彼の背後にいるいかなる人の悪口も言ってはならない。
マツヤ・プラーナ220.10 (ヒンドゥー教)


君子は孚誠によって人を感応させることにつとめ、獄事をとりさばき死刑に対して寛大を心がけるなどしてすべてその孚誠をもってする。
易経61、周易下経、中孚(儒教)
信仰する者よ、殺害に対する報復が、なんじらに定められた。自由人には自由人、奴隷には奴隷、婦人には婦人と。(注17)だが加害者に、兄弟から軽減された場合は、妥当と認められる額を、丁重に弁償せよ。これはなんじらの主からの緩和であり、慈悲である。
クルアーン2.179(イスラーム)


私(イマーム・アリー)が死ななければならないか! 広範囲な報復がないことを見よ。剣を抜いて徘徊せず、私の競争者と敵たちを殺害するな。見よ!ただ一人、私の殺害者だけが殺人罪として処刑されるだろう。


そして、その誰も苦しめられたり、被害を受けたり、苦しんだりしないだろう。殺人を試みた者の処罰は、彼による傷で私が死ぬようになるときに執行されるのだから、彼に対する処罰も、一刀で彼の命を断ち切るものでなければならない。彼は死ぬ前に拷問を受けてはならず、手足を切られてもいけない。私は次のような聖なる使徒の言葉を聞いたからである。「誰の手足も、さらには噛みつく犬の足でも切ってはならない」。
ナフジュ・アル・バラーガ手紙47(シーア派イスラーム)


王よ、あなたはつねに慈愛によって、すべての人々に対して利益する心を起しなさい。たとえ恐ろしい罪を犯した人々に対してであっても。慈愛は、ことに恐ろしい罪を犯した悪人たちに向けられねばなりません。このような憐れむべき人びとこそ、心の高潔な人の慈悲にふさわしい対象でありますから。


毎日または五日ごとに、力の弱った囚人を釈放し、また残りの者も適宜釈放してください。決して拘禁しておくことがないように。もしあなたに、ある人びとを釈放する心が起きないならば、彼らに対しては自制を欠くことになります。このように自制を欠くならば、永久に罪をうけるでありましょう。


また、彼らが拘禁されているあいだは、牢獄を楽しいものとし、理髪師、浴場、飲食物、薬、衣類を備えつけておきなさい。処罰をなすときは、あたかも値打ちのない息子たちを値打ちある者にしようと願って処罰を加えるように、慈悲をもって行なわねばなりません。けっして憎しみからしてはなりませんし、また財を欲してはなりません。


事情を正しく考慮し判断して、たとえ罪深い殺人を犯した人々であっても、死刑に処することなく、また責苦を与えることなく、彼らを追放しなさい。
龍樹宝行王正論331 ~ 37(儒教)


たとえ正当な理由があっても人間の処罰は依然として許容されていない。
教皇シクストゥス(キリスト教)




―み言選集―


罪を犯した死刑囚は、国が葬ります。しかし、国は罪に問われません。なぜかというと、世界のために生きていくという公約のもとでするからです。自分の国のために生き、世界のために生きる公約のもとにあるので、そのような論理が成立することを知らなければなりません。
(88-298、1976.10.3)


聖子は、天国においての国民法と皇族の法となる宮中法を守るのです。日本の一般国民たちは、宮中と関係なく六法全書の中で自分が属する一つの方面だけ守ればよいのですが、王子はそうではありません。王宮の法と六法全書の内容をすべて適用し、一つも背くことなく、尊敬され得るセンターにならなければ、王子になることはできません。それは深刻なことです。
(306-62 ~ 63、1998.8.27)


今後、罪を犯せば、死刑宣告があるでしょうか、ないでしょうか。10 人を殺し、100 人を殺す可能性があるのに、そのような人をそのままほうっておくのですか。そのような人は死ぬ境地に置いておくのです。国境地帯や北極、南極にほうり出すのです。それで、1年、2年、3年、5年くらいして飛行機で見渡してみて、生きていれば、熊の餌になって土に帰らなければならないのですが、それでも精誠を尽くして天が赦せば、生きるのです。生きている人たちは、互いに集まり、無期刑のようになって地上で生きます。


そのようにすれば、世界を巡りながらその人たちを、いくらでもただで呼んで使えます。労働現場や国の公的な建設などをするとき、どこの誰でも呼んで使うことができるのです。その人たちに対する工賃は、70 パーセントであれ、30パーセントであれ、すべて国に捧げるのです。それで、すべて「囚人」という服を着て、何級、何級とこのように書き、そのような仕事をするために村の家
々に入っていって、「私がすることはないですか」と尋ねます。絶対従順、絶対服従するために自分の体を投入するというのです。


あの国に行けば、犯罪者たちは、そのまま入っていけません。霊界の蘇生圏、楽園など、すべて霊界の監獄を経て、そこで修錬し、再び分別された心と体を検証するのです。霊界ではすべて、水晶体のように照らして見ることができるので、きれいになったのか、なっていないのかを鑑定し、そのレベルの基準に行くのです。再び上がっていかなけれはなりません。ですから、監獄が必要ないということです。
(298-234 ~ 236、1999.1.8)


アメリカならアメリカの憲法を中心として、法廷では赦しを受けることもできますが、宇宙的なこの憲法を中心として見れば、赦す法があるでしょうか。


しかし、犠牲になり、奉仕すれば赦されます。このようなときは、同情を受けることができ、生きる道があり得るのです。「悔い改めなさい」という言葉があります。イエス様がこの地上で、「悔い改めよ、天国は近づいた」と言いました。何を悔い改めなさいというのですか。簡単です。その結論とは何かというと、犠牲になり、奉仕しなければ、ならない道理に背いたすべてのことを、悔い改めるのです。
(105-92、1979.9.30)




④法の目的


―宗教経典―


互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。
ローマの信徒への手紙13.8 ~ 10(キリスト教)


知恵のある者はいつも自由である。彼はいつも栄誉がある。いつも法の主人になる。法は正義ある者たちではなく、不正な者たちのためにつくられた。義なる人たちは、心の中に戒めを刻んだままで主の法に従い、いつも心にその法を抱きながら歩いているので、自分自らが法自体になり、あえて法を必要としない。




知恵のある者は自由である。願うとおりに行なう者は自由だからである。すべての願いが善なることではない。しかし、知恵のある者は、ただ善なることだけを願う。彼は善だけを選び、悪を憎悪する。善なることだけを選ぶため、彼は正に自己選択の主人であり、自ら自分のするべきことを選ぶがゆえに、彼は自由である。
ミラノのアンブロシウス書信54(キリスト教)




―み言選集―


一つの国を中心として見てみるとき、国法というものがあるのですが、善を支えるという目的から法を考えるのです。私達の良心世界と体を見てみれば、どのようになっているのでしょうか。良心は教育を受けなくても、すべて善のことを知っています。


例えば、五つの国があるとして、五つの国の主権者たちがそれぞれ異なる憲法をつくり、それが善のことだと結論づけ、それに従って治めようとしても、良心的な人は、その五つの国の主権者の中で、どの主権者がより善の主権者なのかを判断できる能力があるのです。どの国が一等なのかを測定することができる力をもっています。その五つの国の中で、最も良い国を選び、最も悪い国を選べます。良心は、そのようなことを判断できるので、その五つの国の最も善の側に従っていこうとするのです。
(216-303-307、1991.4.15)


法は、個人を中心として社会的生活をして、国家の仕事をして、世界的な生活をする人たちを規制するための方便です。それでは、法に引っ掛からないようにしようとすれば、どのように生きなければなりませんか。人のために生きようという人は、法に引っ掛かりません。ですから、法から解放されなければなりません。私達が世の中の法に引っ掛からない人になろうとすれば、どのようにすれば引っ掛かりませんか。私のために生きるという人は、行くところすべてで引っ掛かります。私はより大きな世界のために生きようとするとき、あらゆる法から解放されるのです。
(93-301、1977.6.12)


もし世界がこのような真の家庭で満ちるならば、そこには弁護士も、検事も、さらには判事も必要がなく、天道と天法が治める世の中になるでしょう。
平和神経、平和メッセージ3.69、2006.4.10




6.預言者とメッセンジャー


この世の王国が神様の王国の基準に至らないため、神様は天の義を代表させ、世俗的指導者たちに責任を問うために、預言者とメッセンジャーを立てられる。彼らは、社会正義を叫びながら、さらに高い社会ビジョンを宣布するために、いかなる危険もいとわなかった人たちである。彼らは、権力者の良心を刺激し、悪の沼に落ちている統治者に対して果敢に警告し、時に国の惨禍を免れるための天の特別なメッセージを伝達したりもした。


ムハンマドのような一部の預言者たちがそのように召命されたが、預言者の役割は神様の啓示を世の中に伝達するために、特別に選択された宗教創始者などに制限されない。ここでいう預言者は、すべての時代、すべての文化の聖賢と義人たちを含む。彼らは昔、初めて啓示された真理を自分の当代の統治者に想起させようと孤軍奮闘した。


彼らはたびたび、天のメッセージを現代的用語
に直して話さなければならなかった。私達は、彼らの名簿にソクラテスと孟子を含めた。私達はまた、アッシジの聖フランチェスコ、マルティン・ルター、日蓮、マハトマ・ガンジー、マーティン・ルーサー・キングなど、現代人物を追加することはできる。


しかし、私達は、現代人物の中で少数だけに言及する。そのような意味から、文鮮明先生は、既に預言者として召命されていて、したがって、先生の預言の一部がここに含まれざるを得ない。
預言者は、権力者を不安にさせる挑戦的な表現を躊躇しなかった。それゆえ、彼らは迫害に遭って嘲弄を受け、時には処刑された。


ナタンと孟子のように、ある義人は、統治者の良心を正しく立て直すための真理を比喩で表現することによって、自身を保護したりもした。しかし、彼らの大部分は、自分の統治者の好意を受け続けることはできなかった。例を挙げれば、預言者エレミヤは、何回も投獄された。彼は自身が危険な路程を経る時、それを内的闘争によって克服した。


預言の属性は、未来をあらかじめ知らせる能力である。預言者らは、単純な占い師ではない。彼らの才能は、国家的なことに対して権威をもって伝達することにより、彼らに確信を与える。神様と密接な関係を維持している預言者の手には、国家の命運がかかっていることもある。ゆえに、彼らの預言は正確である。






①預言者の使命


―宗教経典―


それぞれの民に対して、ひとりの使者がつかわされるのである。かれらの使者が来るとき、事は、かれらの間で公正に裁決されて、不当に偶せられることはない。かれらは「おまえたちの言が真実なら、この約束が果たされるのはいつか」と言う。「私は、神のおぼしめしがないかぎり、なんら自分を害しまたは益する力はないのだ。それぞれの民には定められた期限がある。かれらの期限が到来すれば、一刻も猶予することはできない、またそれに先んずることもできぬ」。
クルアーン10.47 ~ 49(イスラーム)


主の言葉が私に臨んだ。「私はあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、私はあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。私は言った。「ああ、わが主なる神よ、私は語る言葉を知りません。私は若者にすぎませんから。」
しかし、主は私に言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。私があなたを、だれのところへ遣わそうとも、行って私が命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。私があなたと共にいて、必ず救い出す」と主は言われた。


主は手を伸ばして、私の口に触れ、主は私に言われた。「見よ、私はあなたの口に、私の言葉を授ける。見よ、今日、あなたに、諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために。」
エレミヤ書1.4~ 10(キリスト教)


七日の後、主の言葉が私に臨んだ。「人の子よ、私はあなたを、イスラエルの家の見張りとする。私の口から言葉を聞くなら、あなたは私に代わって彼らに警告せねばならない。私が悪人に向かって、『お前は必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたがその悪人に警告して、悪人が悪の道から離れて命を得るように諭さないなら、悪人は自分の罪のゆえに死ぬが、彼の死の責任をあなたに問う。


しかし、あなたが悪人に警告したのに、悪人が自分の悪と悪の道から立ち帰らなかった場合には、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。


また、正しい人が自分の正しい生き方を離れて不正を行うなら、私は彼をつまずかせ、彼は死ぬ。あなたが彼に警告しなかったので、彼は自分の過ちのゆえに死ぬ。彼がなしてきた正しい生き方は覚えられない。また彼の死の責任を私はあなたに問う。


しかし、あなたが正しい人に過ちを犯さないように警告し、彼が過ちを犯さなければ、彼は警告を受け入れたのだから命を得、あなたも自分の命を救う。」(注18)
エゼキエル書3.16 ~ 21(キリスト教)


私は、終日どこへでも行き、皆さんと向き合って座り、皆さんを目覚めさせ、教え諭し、叱るために、神がこの国につけておいたウシアブのような人です。
プラトンソクラテスの弁明31(ヘレニズム)


良心に反して生きるのは、正しくも安全でもないために、私は何も否定できず、また否定しません。私はこの位置に立ちました。私がする役割はここまでです。お助けください。私の主なる神。アーメン。
マルチン・ルター(キリスト教)(注19)






―み言選集―


神様が聖子や預言者たちを地上に送られた目的とは、何でしょうか。神様が願われる人格と生活の手本を見せながら、神様の真の愛のみ旨を万民に教育するのです。特に、為政者や指導者たちに天道を教育し、実践させることによって、心の世界と体の世界が、神様の真の愛のみ旨を中心として和合を成すためです。(注20)


しかし、ちょうど良心が願うとおりに体がついていかないように、多くの為政者たちが聖賢を理解できず、その教えを受けずに警告を黙殺してきました。価値観の混乱、道徳的腐敗、麻薬中毒、テロ、人種差別など、現代社会の惨状と病弊に誰が責任をもてますか。


政治家が公権力によってこのような諸問題を完全に解決できるでしょうか。特に、いつの時よりも多元化した社会、また国際的に互いにもつれ合っているこの時代に、政治家たちの判断と選択に伴う責任がどれほど重大でしょうか。為政者たちが重要な事案を決定するときは、謙虚に天から来る声に耳を傾け、天道に従って解決の道を探し求めていかなければならないと思います。
(219-110、1991.8.27)


このように見るとき、この世界には、哲学者が必要なのではなく、預言者が必要です。これは否定できません。それでは、民主主義はどこから出できましたか。預言者たちが主張して出てきましたか、哲学者たちが主張して出できましたか。はっきりと答えなければなりません。それを分析しなければならないのです。


共産主義が預言者によって提唱されてきましたか、哲学者によって提唱されてきましたか。(哲学者です)。今日の世界人たちは、哲学者が主張する
主張に従っていきますが、私達が彼らの主張を完全に信じ、知ることによって受け入れられるのかという質問に対しては、「できない」という結論が出てきます。このような観点から見るとき、哲学者が主張する世界は飛んでいってしまい、預言者が主張する世界が訪れてくるということです。
それでは、哲学者はどこにいるのですか。大学にいるのです。その次に、預言者はどこにいるのですか。宗教にいます。それでは、預言者はどこにいるというのですか。宗教を信じる人の中にいるのであって、それ以外にはいません。


人々は宗教を好みますか、学校を好みますか。(学校です)。この者たち! では、学校に希望がありますか、宗教に希望がありますか。どこに希望があるのですか。(宗教です)。このように見るとき、世界の有名なハーバードやケンブリッジ、オクスフォードという大学よりも、かえって名もない宗教に希望があるのです。


ところで、預言者という人の中には、学士、博士が多いですか。無学な人が多いですか。(無学な人です)。それを見るとき、一般の人が見れば、勉強をたくさんした人を信じますか、勉強もしていない無学な人を信じますか。(勉強した人です)。そのように考えれば、世の中は誤った方向に行くようになるという結論が出てきます。
(79-334、1975.9.28)
教会が、家庭の行くべき道、氏族の行くべき道、国の行くべき道を正しく教育しなければなりません。このようにして、過去のすべての預言者は、その国の責任者である君主が誤れば、その君主を引っ張っていくのです。訴えて引っ張っていくのです。それで神様は、教会という母体を中心として、未来の家庭と、未来の氏族と、未来の世界の民、市民を育てようとされるのです。
(106-35、1979.11.11)




②権力者に真実を語る


―宗教経典―


最も立派な聖戦は、不正な統治者の前で真実を語ることである。
ティルミズィー・ハディース(イスラーム)


主はナタンをダビデのもとに遣わされた。ナタンは来て、次のように語った。「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに、何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い、小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて、彼の皿から食べ、彼の椀から飲み、彼のふところで眠
り、彼にとっては娘のようだった。


ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに、自分の羊や牛を惜しみ、貧しい男の小羊を取り上げて、自分の客に振る舞った。」
ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」


ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。イスラエルの神、主はこう言われる。
『あなたに油を注いでイスラエルの王としたのは私である。私があなたをサウルの手から救い出し、あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。なぜ主の言葉を侮り、私の意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って
自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたが私を侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。』(注21)
サムエル記下12.1 ~ 10(キリスト教)


孟子が斉の平陸という町へ行かれたとき、そこの大夫(長官)の孔距心に向っていわれた。「あなたの部下の警護の兵士が、一日に三度も列(隊伍)を離れて勝手なことをしたら、あなたは軍法にかけて処分しますか。」


孔距心がいった。「いや、三度といわず、一度だってすぐ処分します。」すると孟子はいわれた。「あなただってその兵士と同じこと、職務の怠慢が随分ありますよ。現に悪疫や飢饉の年には、あなたの領内で老人や病人は飢え凍えて溝や谷間に転げ落ちて死に、若者は食を求めて四方に散り散りになって逃げだすものが、何千人あるか分りません。」


孔距心がいった。「しかし、先生、それはこの距心(私)などの力では、何んともできないことです。」孟子はいわれた。「では今、ここに牛や羊をたのまれて牧(か)う人がいたとします。その人は牛や羊のために必ず牧場(まきば)と牧草(まぐさ)とを探すことでしょう。もしも牧場や牧草が見つからぬときは、もとの持主にしますか。それともまたぼんやり立って、その死ぬのを見ていますか。」距心は大いに恐縮していった。「いや、よく分りました。これは距心(私)の責任であります。」
孟子II.B.4 (儒教)


ベテルの祭司アマツヤは、イスラエルの王ヤロブアムに人を遣わして言った。「イスラエルの家の真ん中で、アモスがあなたに背きました。この国は彼のすべての言葉に耐えられません。


アモスはこう言っています。『ヤロブアムは剣で殺される。イスラエルは、必ず捕らえられて、その土地から連れ去られる。』」


アマツヤはアモスに言った。「先見者よ、行け。ユダの国へ逃れ、そこで糧を得よ。そこで預言するがよい。だが、ベテルでは二度と預言するな。ここは王の聖所、王国の神殿だから。」


アモスは答えてアマツヤに言った。「私は預言者ではない。預言者の弟子でもない。私は家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。主は家畜の群れを追っているところから、私を取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われた。


今、主の言葉を聞け。(注22)あなたは、『イスラエルに向かって預言するな、イサクの家に向かってたわごとを言うな』と言う。それゆえ、主はこう言われる。お前の妻は町の中で遊女となり、息子、娘らは剣に倒れ、土地は測り縄で分けられ、お前は汚れた土地で死ぬ。イスラエルは、必ず捕らえられて、その土地から連れ去られる。」
アモス書7.10 ~ 17(キリスト教)


なんじ以前の、ノアとアードとサムードの民。ならびにかれらの後に来た者たち。また神以外には何人も知らぬ者たちの、消息がなんじらに達しなかったか。諸使者が明証を持ってかれらに来たが、かれらは手で予言者たちの口を押さえて、言った


「わしらは、おまえたちがつかわされたことを信じない、またわしらをまねく教えについても、ほんとうに不安な疑いをいだく」。使者たちは言った「おまえたちは天と地を創造された方、神について疑いがあるのか、かれはおまえたちを招きたもうのは、おまえたちの罪を許したまい、定められた期限まで、おまえたちを猶予なさるためである」。


かれらは言った「おまえたちは、わしらと同じ人間にすぎない。おまえたちは、祖先が仕えてきたものから、わしらをそむかせようと望んでいる、それならわしらに明瞭な権威を現わせ」。


使者たちはかれらに言った「もちろん私達は、おまえたちと同じ人間にすぎない、だが神は、そのしもべのうち、み心にかなう者に、恩恵を施こしたもう。神のお許しがない以上、おまえたちに一つの権威をも、もたらさないのだ。それですべての信心ある人びとを神に信頼せしめよ」。


「どうして私達は、神に信頼しないでおられようか、かれは私達の従うべき道に導きたもう。私達は、おまえたちが加える迫害に、どこまでも耐え忍ばねばならない。信頼する者たちは、神に信頼すべきである」。


すると、信じない者は使者たちに言った、「わしらは、おまえたちをこの国土から必ず追放するであろう、それともわしらの教えに帰れ」。そこで主は、使者たちに黙示したもう「われは不義者たちを、必ず滅ぼし、われはかれらの後、必ずなんじらをこの国に住まわせるであろう。これらはわしの審判に立つのを恐れる者、ならびに処刑の約束を恐れる者である」。かれらは裁断を望んだが、すべてのがんめいな反逆者には失望であった。(注23)
クルアーン14.9 ~ 15(イスラーム)


王がたとえ真理に背くこと(非法)や非道をなすとも、王に仕える人びとは概して称賛します。それゆえに、王にとっては正当か正当でないか、を知ることがむずかしいのです。


たとえほかの人であっても、その人の気に入らないばあい、正当なことを語るのは難しいのに、まして、あなたは大王であり、その王に修行僧である私が語るときはいうまでもありません。


しかし、あなたによって下される慈愛によって、また世の人々への憐れみから、私はひとりあなたに、たとえまったくお気に召さないことであっても、道にかなったことを語るでありましょう。


教えが説かれるとき、怒りを起さず、また真実の言葉に耳を傾けるならば、その人は聞くべきことをうけいれるでしょう。沐浴をするときに良水をとるように。


私がこの言葉を述べるとき、あなたはそれがこの世にあっても、かの世にあってもふさわしいものであると知って、自らを利益するためばかりでなく、世の人びとをも利益するために、それを実行してください。
龍樹宝行王正論301 ~ 6(仏教)




―み言選集―


これからは、神様のみ旨を代弁する宗教人たちが勢力を得る時が来ることでしょう。宗教指導者は、神様のみ旨を地上に宣布し、人類に進むべき方向を提示してあげなければならない預言者です。
真の家庭と世界平和、2000.1.22


南北王朝分立時代において、イスラエル民族が、神殿理想に相反する立場に立つたびに、神は、継続して、四大預言者と十二小預言者を遣わされて、彼らを励まし、内的な刷新運動を起こされたのである。


しかし、彼らは、預言者たちの勧告に耳を傾けず、悔い改めなかったので、神は、彼らをエジプト、カルデヤ、シリヤ、アッシリヤ、バビロニアなどの異邦人たちに引き渡して、外的な粛清の摂理をされたのであった。


この時代を、実体的な同時性をもって蕩減復帰する東西王朝分立時代においても、同じく、法王庁が腐敗して、トマス・アクィナス、聖フランシスなど、修道院の人物たちが彼らに勧告して、内的な刷新運動を起こしたのである。しかし、彼らもまた悔い改めず、堕落と腐敗に陥ったため、神は彼らを異邦人たちに引き渡して、外的な粛清の摂理をなさったのであり、これがすなわち、十字軍戦争であった。
原理講論、摂理的同時性から見た復帰摂理時代と復帰摂理延長時代4


神主義は、過去にも変わらず、現在にも変わらず、未来にも変わり得ないことを知らなければなりません。神様は、旧約時代に預言者を通して、国の主権者たちが過ちを犯せば攻撃させるようにしました。預言者たちの話を聞き、忠誠を尽くしてその言葉を生命視し、その言葉によって治める主権者がいる国は栄えました。


また、新約時代にも同じです。悪の時代になれば、預言者が出てきて新しい時代を覚醒するよう、天の使者を中心としてその時代の主権者たちに忠告するのです。その忠告を聞いて従っていけば、その時代的国家は栄えます。


新約時代に中世まではそうでしたが、中世以降は政教分離だ、預言者でも何でも政治とは関係ないと言いました。これが滅びる徴候でした。神様と預言者から分かれたのです。この時から、サタンがあいくちを鋭くとがらせ始めたことを知らなければなりません。


今日、レバレンド・ムーンがアメリカならアメリカの政治問題、カーター政府ならカーター政府に対して批判をします。「これは間違っている」と言いながら攻撃します。私がアメリカのニクソンと手を握ったのは、ニクソンが私を必要としたからです。神様をアメリカ国民に紹介するためにニクソンと手を組んだのです。ニクソンが私の言うことを聞いていれば、あのようになっていません。アメリカがこのようになっていないのです。


また、ベトナムはあのようになっていなかったでしょう。私はベトナムが緊急であることが分かったので、チュー大統領に会って話したのです。このようにしていては遠からず滅びると強力に忠告したのです。1974 年に会って、今からでも強力な体制をもって、国民全体が犠牲を覚悟して総攻撃をしなければならないと言いました。アメリカを信じるなと言いました。アメリカを信じるなと言ったのです。神様の作戦、神様の歴史は、過去も現在も未来も変わりません。預言者を通して主権者を教育するのです。これが神様の法度です。今、アメリカで私が政治をしようというのではなく、政治家を正しく指導しなければならないというのです。これがレバレンド・ムーンの思想です。


私がアメリカに来てこのようなことをするのは、御飯を食べるためですか。非難されたくてこのようにしているのかというのです。レバレンド・ムーンは、そのように愚かな男ではありません。神様の名のゆえに、このようにしていることを知らなければなりません。為政者たちが話を聞かなくても、これからこの国を継承する若者たちがレバレンド・ムーンの話を聞くでしょう。ですから、
皆さんが集まってきたのです。
(93-83 ~ 84、1977.5.15)
③預言者は反対と迫害を忍耐しなければ


―宗教経典―


エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。私一人だけが残り、彼らはこの私の命をも奪おうとねらっています。」
列王記上19.14(キリスト教)


「たわごとを言うな」と言いながら、彼らは自らたわごとを言い、「こんなことについてたわごとを言うな。そんな非難は当たらない。ヤコブの家は呪われているのか。主は気短な方だろうか。これが主のなされる業だろうか」と言う。


私の言葉は正しく歩む者に、益とならないだろうか。昨日までわが民であった者が、敵となって立ち上がる。平和な者から彼らは衣服をはぎ取る。戦いを避け、安らかに過ぎ行こうとする者から。彼らはわが民の女たちを楽しい家から追い出し、幼子たちから、わが誉れを永久に奪い去る。


立て、出て行くがよい。ここは安住の地ではない。この地は汚れのゆえに滅びる。その滅びは悲惨である。だれかが歩き回って、空しい偽りを語り、「ぶどう酒と濃い酒を飲みながら、お前にとくと預言を聞かせよう」と言えば、その者は、この民
にたわごとを言う者とされる。
ミカ書2.6 ~ 11(キリスト教)


エレミヤは、主が預言させるために遣わされたトフェトから帰って来て、主の神殿の庭に立ち、民のすべてに向かって言った。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。見よ、私はこの都と、それに属するすべての町々に、私が告げたすべての災いをもたらす。彼らはうなじを固くし、私の言葉に聞き従おうとしなかったからだ。」主の神殿の最高監督者である祭司、イメルの子パシュフルは、エレミヤが預言してこれらの言葉を語るのを聞いた。


パシュフルは預言者エレミヤを打たせ、主の家の上のベニヤミン門に拘留した。主よ、あなたが私を惑わし、私は惑わされて、あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。私は一日中、笑い者にされ、人が皆、私を嘲ります。私が語ろうとすれば、それは嘆きとなり、「不法だ、暴力だ」と叫ばずにはいられません。


主の言葉のゆえに、私は一日中恥とそしりを受けねばなりません。主の名を口にすまい、もうその名によって語るまいと思っても、主の言葉は、私の心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして、私は疲れ果てました。


私の負けです。私には聞こえています、多くの人の非難が。「恐怖が四方から迫る」と彼らは言う。「共に彼を弾劾しよう」と。私の味方だった者も皆、私がつまずくのを待ち構えている。「彼は惑わされて、我々は勝つことができる。彼に復讐してやろう」と。


しかし主は、恐るべき勇士として、私と共にいます。それゆえ、私を迫害する者はつまずき、勝つことを得ず、成功することなく、甚だしく辱めを受ける。それは忘れられることのない、とこしえの恥辱である。


万軍の主よ、正義をもって人のはらわたと心を究め、見抜かれる方よ。私に見させてください、あなたが彼らに復讐されるのを。私の訴えをあなたに打ち明け、お任せします。
エレミヤ書19.14 ~ 20.2、20.7 ~ 12(キリスト教)


また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。
ヘブライ人への手紙11.36 ~ 38(キリスト教)




―み言選集―


預言者たちは、すべて非正常的な人たちです。み旨を求めていく、アベルの道を行く人は、非正常的な預言者たちです。非正常的なことをする、そのような預言者たちが現れるのです。旧約聖書を見ても、新約聖書を見ても、預言者はすべて非正常的な人です。ですから、万人から指さされ、反対され、迫害を受けるのです。
(89-129、1976.11.1)


正義の、真理体制に属することができる人になれば、完全に天運が保護します。ですから、ここに反対すれば、天運が打ってしまうのです。いくらアメリカのような国、いくらソ連のような国でも、私が本当に神様を中心として相対し、完全に一体圏内に入っていくときは、ここに反対すればソ連を打ち、アメリカを打ってしまいます。このような原理を知ったので、文総裁は堂々としているのです。
(214-194、1991.2.2)


今まで神様の摂理歴史の中で、預言者が主権の前に僕になりました。生死の境を越えて攻撃され、どれほど犠牲になってきましたか。そのような全体の犠牲の結実として、代表的にアベル的王者の立場に立ったのが再臨主です。真の父母が臆病者になってはいけません。


何千年、何世紀を経てきながら、困難のたびに預言者たちがどれほど命を絶たれ、血を流したか、考えてみることを願います。その結実を刈り取らなければならない先生が、世の中が恐ろしくて言うべきことを言えないでしょうか。監獄に6度も行ってきました。いつでも最前線に立つのです。
(343-263、2001.2.17)


お父様が怨讐の世界に対された、御心情を感じながら、私は悲しみの立場を体験してきました。日の当たる所で生きてこられなかった、お父様の悲しみを、日の当たらない所で働かれた、お父様の御事情を、私は知りました。




今日まで、そのような生活の中で、ある時はお父様に反論し、お父様を恨む息子になりはしないかと焦燥しながらきました。また、あなたも焦燥なさるお立場で、そのような私を探してこられたことを知っています。


お父様は、私が悲しい以上にもっと悲しく、私がつらい以上にもっとつらいお立場で、御自身の責任を感じながら、行くべき道を準備していらっしゃるということを知りました。


それゆえ、私は追われ、追い回される立場、手錠に両手を締められる牢屋暮らし、奴隷の身の上、
僕の身の上を経たとしても、絶望したりお父様に落胆させないと決意いたしました。


そのように決意したその時から、今日まで、死なずに、お父様のみ前に残るようにしてくださった恩賜に感謝をお捧げいたします。


このような姿を立てられるために、お父様は、どれほど御苦労されたでしょうか。私が行くべき道のために、どれほど犠牲になられたでしょうか。
お父様はそれ以上のことをしていらっしゃるという事実を知ったのちには、寝ても目覚めても、罪人のように「許してください」とお父様に請わずにはいられませんでした。


御飯を食べていても、さじを止め、涙でお父様に過去の過ちに対して許しを求めずにおられませんでしたし、疲れた体を支えることができず、床に横になる時ごとに、あなたを心配する心をもてなかった自らをしからずにはいられませんでした。


かわいそうな方はお父様です。いくら統一教会の文なにがしがかわいそうだといっても、それは何でもありません。
(30-270、1970.3.29)






④預言者の未来のビジョン提示


―宗教経典―


僕なる預言者に示さずには、何事もなされない。
アモス書3.7(キリスト教)


主は私に答えて、言われた。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように、板の上にはっきりと記せ。定められた時のために、もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。
ハバクク書2.2 ~ 3(キリスト教)


おお、主よ! あなたの権能は、すべての他の力よりも偉大です。あなたの霊も、下にいる私達は
いかなる恐れもありません。私達に預言者的力を下さりすべてのものを理解し推し量ることができるよう許諾された方は正にあなたです。
ディンカ族の祈り(アフリカ伝統宗教)


身に至誠ある者は、あらかじめ知ることができる。国・家が興隆しようとするときには、必ず吉兆がある。国・家が滅亡しようとするときには、必ず凶兆がある。占いの蓍と亀に現れ、亀の四足に動きがでる。災いや福が起ころうとするときには、よい福も必ずあらかじめ知るし、よくない災いも、必ずあらかじめ知るのである。だから、至誠は鬼神のようである。中庸24(儒教)


死体でいっぱいの都城に座り、ナナークが主をたたえてこのように教えを広げる。一切の万有を生まれさせ、至高の喜びでこれを行った彼が、一人で座りこれをかがんで見ている。


聖なる者が主であり、彼の正義は神聖である。彼が下す判決は真である。衣服がずたずたに裂かれるとき、インドは私の言葉を覚えよ。78 年に彼らが来て、97 年に彼らが離れていく。また他の英雄がふと立ち上がる。ナナークが真理の言葉を伝える。彼が真理を説く。時代が真理を呼ぶのである。(注24)アーディ・グラント、ティラング、M.1、p.722f(シーク教)
―み言選集―


先生が50 年前に夢のような話をしましたが、世界が一日生活圏に入っていくという話でした。それを「狂っている」と言っていた人たちが、すべて落ちていくようになりました。文総裁は、50 年前に世界的なあらゆる興亡盛衰を預言した預言者の代表者、教育者の代表者、愛する父母の代表者、主人の代表の位置に生涯を通して上がってきています。(397-154、2002.11.17)


レバレンド・ムーンも数万、数千の人たちと向き合ってきたので、さっと見れば分かります。人を見ることができるので、アメリカがどうで、アジアがどうで、世界がどうだということを語れるのです。今よりも未来に必要なことをしていくので、皆さんがついてくるのが大変で、信じるのが難しく、行動するのが大変なのです。1年がたち、2年がたち、歳月が過ぎれば過ぎるほど、価値が高まります。それで、レバレンド・ムーンにすべて反対していた韓国が、今になって変わりました。
(103-111、1979.2.11)
1954 年に先生は、共産主義は73 年以上もたないと教えてきました。それで今、このイスラーム世界に対して……。共産主義が問題ではないというのです。共産主義が終わったあとにムスリムを含む宗教圏が問題になります。ユダヤ教とキリスト教の争いを誰が止めるののかという問題に対して、既に50 年前に語りました。
(225-19 ~ 20、1992.1.1)






第22章 平和


1.神様の平和


神様が平和の源泉である。私達が周囲を見回して葛藤と紛争ばかりを見たとき、地上で平和を求めて絶望するとき、私達は神様、すなわち平和の王に視線を戻す。神様が私達を訪れる時、その方は私達の胸にある怒りを鎮静させてくださり、私達の怨讐を他の観点、すなわち兄弟姉妹の観点で見るようにされる。神様は愛である。神様と共にあることで私達は、私達の怨讐さえも愛し得る力をもつようになる(第13 章5.「怨讐を愛しなさい」参照)。


したがって、平和に至る糸口は、神様と一緒に暮らすことであり、神様の愛を表すことである。これに対して文鮮明先生は、特別な洞察力を提示した。神様の愛が特別に結婚と家庭の深い人間関係に臨むため、神様を中心とした平和な家庭こそ、平和な社会と国家と世界を建設する実質的な単位である。
―宗教経典―


いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。(注1)
ルカによる福音書2.14 (キリスト教)


主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。民数記6.26 (キリスト教)


神は平和であられ、その方の名もまた平和であるので、すべてのものがその平和の中にとどまるのである。(注2)
ゾハール3.10b (ユダヤ教)


私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。
ヨハネによる福音書14.27(キリスト教)


まことに神は、人を平安の家に招きたまい、またみ心にかなう者を直き道に導きたもう。
クルアーン10.25 (イスラーム)
トーラーの目的はすべてこの地に平和を成すことにある。
タルムード、ギッティーン59b (ユダヤ教)


堅固な思いを、あなたは平和に守られる。あなたに信頼するゆえに、平和に。
イザヤ書26.3 (キリスト教)


私達の先祖よ、これはあなたの世界であり、あなたのご意志です。私達を平和にされ、人々の霊魂を落ち着かせてください。あなたは私達の先祖、私達の人生の道においてあらゆる悪を除去してください。
ヌエル族の祈り(アフリカ伝統宗教)


どんなムスリムも、彼の舌や彼の手から恐れを感じなくてもよくなるとき、本当のムスリムになる。
ブハーリー・ハディース(イスラーム)


「道」は実在し、何事もしない。だが、それによって為されないということはない。もし統治者がそこにとどまるならば、あらゆるものは自然に変わるだろう。もし変わる過程で意図があらわれるならば、名前のないもともとの非区別によって抑制するべきである。名前のないもともとの非区別を経験すれば、意図のない状態があらわれる。
意図がなくなれば静かになり、天下は自然に安らかになるであろう。
道徳経37(道教)




―み言選集―


神様御自身は、愛の王であられ、あるいは平和と幸福の王であられ、理想の中心者に違いありません。ですから、人間がそのようなものを追求していきながら限界にぶつかってしまうようになれば、神様を通して打開していく道以外にはないと思うのです。
(72-11、1974.5.7)


争っていた人たちが、神様さえやって来れば、互いにために生きようとするのです。
(330-267、2000.8.20)


真の平和、真の幸福、真の自由は、人間から訪れるのではなく、真の神様から訪れるので、神意に一致し得る立場に立てず、何か間違った立場に立っている人間は、そのようなところに到達できないと考えられるのです。
(78-103、1975.5.6)




今まで、平和を追求しなかった時代はありませんでした。しかし、変化と不信に満ちたこの地が、今はそのような理想的要件を成就させ得るのではなく、袋小路にぶつかっています。私達は、変わる人間世界を越えて、絶対的で、不変であると同時に永遠であられるお方がいらっしゃるならば、そのお方を通して、このような要件を成就させられると考えるようになりました。そのようなお方がいらっしゃるとすれば、そのお方は神様に間違いありません。その神様は、理想の主体であられ、愛の主体であられ、幸福と平和の主体です。


神様を中心として、このような幸福や理想、あるいは平和や愛という言葉を考えてみるとき、これらの言葉は、神様お一人をおいて言える言葉ではなく、どこまでも相対的関係において成立する言葉です。


神様の前に相対的な存在がいるとすれば、いったいその存在は、どのような存在でしょうか。それは、私達人間以外にはあり得ません。私達人間は、神様の愛を成就させる、神様の理想と幸福と平和を完結させるところにおいて、なくてはならない存在なのです。
(74-46 ~ 47、1974.11.27)


争えば、なぜ悪なのですか。争う所に神様は、いらっしゃいません。これが問題です。神様は、平和の主人であり、統一の主人であり、最高の善の主人でいらっしゃるので、争う所にはいらっしゃらないのです。神様が離れるので、悪の世界になるというのです。
(261-292、1994.7.24)


「平和」とは、何を前提にして言う言葉ですか。平和は、一人を前提にして言う言葉ではありません。必ず相対圏を前提にして言う言葉です。そこには必ず愛がなければなりません。愛が離れた所に平和はあり得ないのです。
(175-196 ~ 197、1988.4.17)


平和になるという言葉は、主体と対象が互いに一つになることをいいます。これを東洋の漢字で言えば、「平」は「ホリゾンタル」、「和」は「ハーモニー」という意味です。それが何を意味するのかというと、相対は、中心が回ろうとするときに一緒に回ろうとするのですが、それは、中心と相対が衝突するのではなく、和解しようとするときに展開するのです。(注3)
(82-133、1976.1.4)


神様を核として東西、四方、球形形態の均一的な愛の感謝、愛の心情の統一圏をもたなければ、人類平和の起源の着地が生じないことを知らなければなりません。そのような立場では、神様の平和理想を成し遂げられる「私」、「私達」と言える基盤をもち得ないという話は理論的です。
(357-131、2001.10.29)


神様が平和の教育材料を地上の人間たちに教えてあげようとすれば、どのような材料を求められるでしょうか。愛の材料を求められるのです。愛の材料を求めようとすれば、愛という言葉自体は見えないので、愛をもった男性と女性を求められるのです。それは、必然的帰結です。平和の起源をどのように探し出していくのか、ということが問題です。それを可能にし得る力がなければならないのですが、その力が愛です。
(193-153、1989.10.3)


平和世界の基本単位は、国家ではなく、平和な家庭です。神様を迎えた人格、すなわち心と体が一つに調和を成した男性と女性が、神様の祝福のもとに夫婦となった家庭がその単位になるのです。


人類歴史始まって以来、真の父母を通して初めて取り戻される福のある家庭です。真の愛で家庭の構成員が調和、一体を成した和楽する家庭です。このような家庭が増え広がり、平和の氏族、民族、国家、世界を成し遂げていくようになるのです。
(400-98、2002.12.27)


神様は、人間を神様の形状どおりに造られ、人間はまさしく神様の聖霊がいらっしゃる家と同じ聖殿として造られたのです。人間一人一人が神様の聖殿として、神様に侍って暮らす家として完成したならば、どうして人間同士の闘争と殺戮が可能でしょうか。創造本然の世界で人間が争うのは、右腕が左腕と争うのと同じことであり、自分が自分の手で自分の目をくり抜くのと同じことなのです。


このような本然の世界では、戦争はあろうとしてもあり得ませんし、互いに愛し合い、和睦して生きる世界であり、どのように神様にもっと栄光を捧げるかという善意の競争だけがある世界です。


そこには葛藤がなく、誤解もなく、美しい協調と相互協助でもってただただ和睦、団結して、真、善、美を追求する平和の世界のみが永続するのです。その世界は、神様に似た世界であり、神様の理想と本質のために生きる世界なのです。


私達は、このような世界の基本理念を「神主義」、または「頭翼思想」と称するのです。「ため」にする愛、互いに「ため」に生きるところに平和は当然なのであり、このような世界を宗教的に表現するならば、地上天国であるというのです。
(219-116、1991.8.28)

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