第1章
1.ゲッデス・マグレガー:生動的説教6/1、p.23 に収録された「疑いの心を解かれた神様」
2.ブレーズ・パスカル:『パンセ』(1670)、ジョン・グロス、「オックスフォード格言録」(ニューヨーク:オックスフォード大学出版部、1983)、p.11.
3.詩編19.1 ~ 4:キリスト教とユダヤ教が保有する様々な聖書には、詩編の形態が少しずつ異なって現れる。ユダヤ教の聖書では、このフレーズが詩編の19.2 ~ 5 に該当する。
4.道徳経21:本質とは、精神、聡明、生気の意味もある。「道」は直観で解くことができる。
5.ヨハネによる福音書1.18:キリスト教で自然現象に関する書籍、あるいは人間自身の霊的経験は、根本的な実在に対して部分的な知識だけを提供すると見る。神様の本性は、イエス・キリストの中から、特別、啓示を通してのみ世に完全に現れる。
6.申命記6.4:シェマはユダヤ教の信仰告白である。「主」(Load)は小文字で書けば、ヘブライ聖書(旧約)でいう「ヤハウェ」、神様の聖なる名を示す。しかし、ユダヤの律法学者たちの間で「ヤハウェ」という言葉は使われない。一部のプロテスタントの信徒たちはそれを「エホバ」と呼ぶ。
7.楞伽経:本経は一切が心によって生じることを説いている。苦痛に満ちた現象世界は、無意識の中に蓄積された虚像によってつくられていて、実有はすべての虚像が消え、完全な知恵を得る時に実現されるのである。したがって、存在の「真如」は「真心」と同一である。
8.1971 年1月16 日:英語の「God」を意味する韓国語「ハナニム(神様)」は、「ハナ」(一つ)として存在するお方に「ニム(様)」の尊敬語をつけて表現したものである。
9.1982 年11 月25 日:「諸現象」、「諸法」。中国と韓国の仏教における「真如」は、すべてのダルマの背後に置かれた真なる実在(楞伽経参照)を意味するのに反して、「ダルマ」は存在の現象と構成要素を意味する。文鮮明先生は仏数的用語を当てはめてお話しされたのである。
10.ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド4.5.15:いわゆる「不定によって」に関する古典的説明であり、求道者があらゆる相対的な現象世界を一皮ずつだんだんはがしていきながら、結局、絶対者に到達する。文鮮明先生はそれを「零点」(zero point)の追求と呼ばれる(第7章、空、涅槃を参照)。
11.カタ・ウパニシャッド2.3.7 ~ 8:実有の段階的な次元がもつ具体的な意味については、若干の論難がある。心は情・知・意の根本であり、知性
(buddhi)はより浄化された思慮分別の機能である。偉大なアートマンについて、ある人はこれをブラフマンの内在だと解釈し、またある人たちは、あらゆる心の集団意識とみなす。未顕現者は、実有の無分別状態の意識、あるいは因果世界の種子としての属性をもったブラフマンであり、至高人プルシャはブラフマン、あるいは至高存在自体である。
12.大方広仏華厳経37:経における教えは次のとおりである。1.究極的真理の観点から見る時、あらゆる存在は同等に仏性をもつ。2.あらゆる現象は他の現象と相互依存によって存在するようになる。3.各経験は相互依存的関連ゆえに、その中に他のあらゆる経験を包含する。
13.詩経254:統治者が天命・天意に従わなければならないことを教えた古典的教訓である。天命・天意を失えば、統治権を失うようになる。
14.ゼファニヤ書1.14 ~ 18:「主の怒りの日」、これは、ローマ・カトリックのレクイエム・ミサ、Dies irae、dies illa / Solvet saelum in favilla / Teste David cum Sibylla を扱った有名なミュージカルに出てくる、審判の日に対する描写の序文である。
15.クルアーン2.115:ムスリムによって神様は、東洋と西洋のあらゆる文化と宗教をもった人類に現れるものと解釈されている。一元的な神様は、そのお方のあらゆる被造物を包容なさる。
16.六祖壇経:慧能が用いる術語としての「自己の本性」は、本質的に仏性と同一の仏心を意味する。しかし、「自己の本性」は一切万有の本質だと言い得る「真如」とまた、異なりはしない。事物の如実な本質が心によって正しく把握される時、
事実、これらすべては同一である。
17.列王記上19.11 ~ 12:神様は心情で交流し、み言で御自身を明瞭に現す。神様は徹しい風や地震や、また他の自然現象のうちに現れる力の中にはいらっしゃらない。これはカナン人たちが崇拝してきた自然宗教に対する冷酷な非難でもある。
18.出エジプト記3.13 ~ 14:燃える柴の木の中で神様と会ったモーセから伝えられたこのフレーズは、永遠にいらっしゃる存在として、「私はある」(I Am)という意味をもった四つの子音で構成された、ヤハウェ(YHWH)という神様の名前に対する伝統的な語源を提供してくれる。このフレーズはまた、神様の不変性と永遠性に対するキリスト教とユダヤ教がもつ神学的討議に関する基礎を提示する。
19.金剛般若経29:「如来」は、仏陀に与えられた称号であり、よくこの世界を超越し、ここでもなくあそこでもない涅槃の世界に至った者として、その宇宙的顕現を表す時に使われる。それは「ここまで来る」、すなわち悟りの目標に到達した者を意味する。
20.バガヴァッド・ギーター8.17 ~ 21:ブラフマンの時間に対する説明である。永遠に反復する宇宙的時間の周期、すなわち一つの世界の誕生と消滅までの間の無数の劫をいっている。一般的にブラフマンの時間は4ユガ(yuga)に分けられ、この中でカリ・ユガは次の宇宙的な消滅がある直前の、最後の時代に該当する。
21.金剛般若経32:現象界に対する仏教の根本的な立場であり、無執着に対する仏教倫理の土台を成し、苦悩と喪失と離別の苦痛の中にいる人々に慰めを与える。
22.感興偈80:釈迦は究極の境地を否定の方法で語る。すなわち、存在自体の本性に関し、積極的に語ることを拒否する。
23.道徳経79:「偏愛」は人間たちが常に金持ちや権力者に与えるたぐいの給付を意味する。
24.大般涅槃経259:仏教の慈悲は西欧的概念であるアガペー的愛に近い。これは何かを追求するところの欲望ではなく、あたかも父母が子供に見せるような無条件的な愛である。
25.アーデイ・グラント、ジャプジー16:創造の法則の中に内在された根本的な源泉、すなわち「法の雄牛」は、神の心、特に聖なる慈悲の心である。世の中の苦痛は実に重い荷だと言うだろう。
26.ホセア書11.9 ~ 11:預言者ホセアがイスラエル北朝王国のエフライムめ腐敗を預言するとともに、悲哀感を詠じたものだ。彼は、神様がイスラエルを我が子のように愛され、エジプトからお救いになり、赤ん坊のように彼らをお育てになったその時を回想する。アドマとツェボイムはソドムとゴモラと一緒に滅亡した都市である。
27.ルドルフ・ブルトマン:『古代宗教の枠内における原始キリスト教』(ロンドン:テムズ・アンド・ハドソン、1956)、p.l8.
28.創世記1:六日間、あるいは六段階の創造は、「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」(ペテロの手紙二3 章8 節)というみ言のように、地質学上の時代に比喩される。したがって、初日は大爆発、二日目は宇宙秩序の確立、三日目は陸地の形成、四日目は大気がきれいになって星が出現し、五日目は海に生命体が出現し、六日目は陸地に動物が誕生し、ついに人が出現するのを見ることができる。このように創造段階に対する一般的な説明が、現代科学が提案する創造過程と一致するように見えるからといって、
聖書を、科学的知識を提供してくれる資料として理解してはならない。どこまでも聖書は、地上が世界の中心に存在し、地上に屋根のような青空がかかっていて、その青空の上に天井の水が存在するという古代の宇宙観をもっている者たちに啓示されたものである。
29.クルアーン32.4 ~ 7:クルアーンも聖書のように神様があらゆる善なるものをおつくりになったと確信する。このフレーズなどは、神様が被造物を六日目に完成したあと、安息の権力の座にお上りになったと描写している。そうなったあと、そのお方は天から地上の事柄を指示なさり、近づく審判の日を予見なさったが、その日、あらゆるものは解体され、彼のもとに帰るだろう。
30.道徳経51:人々が継続して自然、または人民を支配する時、同じ方式でしなければならないと主張する。
31.創世記ラッバー9.2:一部の物理学者たちの推測によれば、宇宙が人間にぴったりと合う理由は、おそらく私達の暮らす宇宙が、多くの宇宙のうちの一つだからだろう。彼らのうちの無神論者たちは、知能をもった設計者の創造という概念を否定する。しかし、経典では聖なる設計者もやはり、成功する時まで反復される実験を通して努力したと説明する。このフレーズもやはり、創造に投入されたそのような努力について言及している。
32.アーディ・グラント、マールー・ソハレ:シーク教の経典によれば、時空を超越して存在なさる無形の神様は、彼が創造なさったとおりの属性をもたれ、「権能をもたれる」。人間を彼の居所として創造なさり、神様は感覚の「九つの居所」の向こうにある心、第十の居所である超知覚的な心に存在される。
33.リグ・ヴェーダ10.129:混沌から宇宙の創造に関するこの説明で、「かの唯一なるもの」(tad ekam)は創造に先在する可能態であり、実在である。心の出現は創造に先立ち、その動機は「愛」、すなわち対象とともに実現しようとする唯一物の意欲である。非存在から存在を分ける創造の最初の行為は、創世記1章に出てくる第一日、すなわち神が暗闇から光を分ける日と類似する。「種をはぐぐむ者たち」と「強力な力たち」は、各々女性原理と男性原理を表す。だが創造の奇跡は神秘として残される。それにもまして、ヴェーダの神々でさえも、彼らの起源を知らない。なぜなら、彼らはそれ自体から分離された存在以後に出現したからである。
34.リグ・ヴェーダ10.90.6 ~ 10、13 ~ 16):この称賛の主題は、創造方法としての供え物を意味する。世界は、最初の「プルシャ」(至高存在)自身の供え物と分解を通して現れた。これは神様が時・空間世界に現れるために、神様の絶対性が自ら供え物になったということを意味する。供え物の最初の顕現者たちがみ言の実体としての四つのヴェーダであり、ヴェーダから物質世界、人間が出現した。
35.デズモンド・ツツ:生きている説教6/1(1997 年1 月~ 3 月)7 に引用された「デズモンド・ツツの語録集」
36.法華経3:焼成としての存在相は仏陀自体、火の説法(Fire Sermon)に帰する。(第6章12.「苦痛」参照)。釈迦は自らの限りない慈悲であり、人間の父母になる。
37.熱田神宮の神託:神道で強調される自然との共同体意識と自然に対する尊重は、人々と共に神社および自然の事物を宇宙的家族の一つとして束ねる結束に土台を置いている。熱田は名古屋の神社である。
38.1959 年8 月30 日:神様は堕落した世の中にもいらっしゃるが、愛がなければ真なる存在も存在できない。今、神様は初めて御自身の存在意味を見いだされたのである。
第2章
1.ヨハネによる福音書1.1 ~ 5:ギリシャ哲学で言葉とは、神様が宇宙を創造されたロゴスや計画である。聖書では、キリストが創造のための模型であり、計画の言葉自体だと断言する。
2.箴言8.22 ~ 31:「幼な子」は時には「熟練工」と翻訳されもするが、前者が文脈に、より適合する。
3.2004 年1 月27 日:人間が神様の希望を踏みにじってしまったあと、神様も明らかにこのような気持ちになられたのである。
4.ミラノのアンブロシウス;世の中からの逃避3.15.
5.1972 年10 月29 日:子女に向かう父母の「親の子に対する愛情」は、子女の心情を育て、義務感を植えてくれる。それがやがて孝心、すなわち「父母に向かう子女の愛」を成熟させてくれる。この段落は、道徳性と関連した側面といくつかの人間関係の類型、すなわち文鮮明先生の四大心情圏(子女の愛、兄弟姉妹の愛、夫婦の愛、父母の愛)の教えを説明してくれている。
6.レビ記19.18:マタイによる福音書22 章36 ~ 40 節から引用。
7.出エジプト記20.1 ~ 17:十戒の内容の区分については、若干、見解の差がある。ユダヤの伝統では「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」という内容が第一戒とみなされる。しかし、キリスト教ではこれを一つの序論と見る。大部分のプロテスタントとギリシャ正教では、「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない」という内容を第一戒として受け取り、偶像崇拝禁止を第二戒として受け取っている。ユダヤ教では、第二戒に「あなたには、ほかに神があってはならない」というものと偶像崇拝禁止を一緒に包含させている。ルーテル教会とカトリック教会でも、ユダヤ教と同じ立場を取り、この二つは構成上、一つの戒めにならなければならないと見て、これらを第一戒と考える。しかし彼らはこの二つを、十戒をつくるために、自分たちの見解に抵触しながらも、二つの戒めとして分けている。
8.タルムード・サンヘドリン56a:ノアの子供たちが全人類の先祖なので、ラビたちは伝統的に、神様がノアに洪水審判以後に下さった法(創世記9 章3~ 7 節)をすべての国家を束ねる道徳的律法として受け入れた。この法に順応すれば、異教徒までも神様の前に義のある人として認定され得る。
9.マヌ法典10.63:すべての階級と人生のあらゆる段階で普遍的に適用され得るこれら十個の徳目は、サーマーンヤ(普遍義務)と呼ばれる。これは階級を差別する特殊な義務を規定する土台となる。またこれは、あらゆる階級と伝統を網羅したヒンドゥー教の社会が倫理的共感帯を維持する最小限の共通要素である。
10.1959 年7 月5 日:韓国の伝統儒教の教えの中における「三綱」は、孝道(息子が父親に)、貞節(妻が夫に)、忠誠(臣下が王に)をいう。「五倫」は前の段落の「中庸の道」を実践する五つの普遍的方式をいう。
11.クラールナヴァ・タントラ3:「脈」は、吸う、吐くという呼吸の中に現れる。
12.バガヴァッド・ギーター13.1 9 ~ 22、26:宇宙は精神、意識、神性だと考える「プルシャ」、そして物質、エネルギー、自然界だと考える「プラクリティ」の二つの原理によって形成される。しかし、一元論的なヴェーダーンタ学派の立場から見ると、プルシャとプラクリティの二元性は、悟りの世界と全く無関係なものであり、これはむしろ追い越すべき幻惑とみなされる。
13.トマス・アクイナス:『神学大全』Ⅰ-Ⅱ、Q26、art.2.
14.易経、周易繋辞下伝2.5.2 ~ 3:易経の哲学では、陰と陽の持続的活動の相応作用を強調する。すべての活動は相対的作用を発生させる。繁栄を願う人は、変易の原理をよく知り、それを有益に活用しなければならない。例えば、創造し発展しようとする人は、まず自らの内面を顧み、自らに集中しなければならない。
15.易経、周易繋辞上伝1.1.1 ~ 5:易の思想は、卦の解釈から具体的に現れる。64 卦はすべて二つの小成卦で成り立つ。卦を構成する六つの棒、すなわち爻は各々陽(+)であるか、陰(-)であり、また強いか柔弱である。この爻は道理に従って変化し、強い陽は柔弱な陰となり、強い陰は柔弱な陽となる。ゆえに、64 卦はダイナミックな変易の原理を現す。このフレーズは乾卦と坤卦に対する説明である。
16.道徳経11:車、器、家などの有用性は、これらがもっている空間の無にある。有用性は道の完全な循環を成すところの、行ったり来たりという反復的な過程を通して現れる。
17.1992 年11 月23 日:人間関係の原理としての授受作用は、「第13 章授受作用」の内容を参照すること。
18.楞伽経78:一切の万物は互いに依存していて、因果関係を通して互いに影響を授け受けする。これらがみな生まれて死ぬ苦痛の世界に束ねられているのは、正にこのような理由のためである。このような相依的関係の鎖は、当然、これを観察する主体も包含しなければならず、この鎖の外部に存在し得る別の白我が存在できるという考えは、妄想にすぎない。しかし仏教の洞察は、私達が不生の超越的な実有を見ることができるよう許諾すること、それは涅槃に入った心の中で確立される。
19.1993 年1月31 日:「天運」とは、天の法則に従って万物を繁栄させる、天宙を通して作用し遍在する宇宙的力と作用の結果をいう。
20.抱朴子:葛洪(253 ~ 333)が著述した抱朴子は、道教で最も重要な古典である。抱朴子には道教の不死不滅の信仰と、応報の教理と、不老長寿の養生法などが詳しく収録されている。
21.ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド4.4.5 ~ 6:業が再生の位態を規定する原理をいう。
22.感興偈1.1:縁起は人間を束縛する条件を描写する。したがって、それは「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(ローマの信徒への手紙3.20)という使徒パウロの言及に比喩できるのである。しかし、仏教徒において、この法に対する正しい知識によって因果の輪を輪廻することで、束縛が除去できる。「これがなくなることで、あれがなくなる。これが止まることであれが止まる」第7章11.「逆転と復帰」を参照すること。
第3章
1.創世記1.26:「我々」という複数人称は、よく三位大体の人格として理解されてきた。神様が彼の天使たち、または複数として神様について語られたものと理解される。
2.テーヴッジャ・スッタ(三明経):釈迦は、至高の神としてブラフマー[梵天]の存在を自ら主張したことはなかった。なぜなら、空にはどんな至高の神も見いだすことができないからだ。しかし、本文のようにブラフマーの存在が肯定されるのは、彼が空の究極的実有の形状だという点からである。これはあたかも、阿羅漢は存在自体だと見る時、彼自身が空なので、究極的実有の形状として肯定されるのと同じである。この問答は、釈迦の独特な方便である対機説法の一例として、ブラフマーを信じるヒンドゥー教徒に適合するよう仏教の真理を説いている。
3.ガラテヤの信徒への手紙2.20:キリストの降臨によって神性が人間に入り、人間は高潔になった。正統信仰を守るキリスト教徒たちの最高の目標は、キリストと一致する聖化である。聖アタナシウスが教えたように、神様はイエス・キリストの中で人間になられ、人間は神聖な一致を取り戻すようになった。
4.バサバンナ『ヴァチャナ』820:インドの寺院は伝統的に人の形状に建築される。これはまた、宇宙の原初的青写真でもある。リンガヤータ・シャイヴィズム(Lingayat Shaivism)において、人間の肉身自体がシヴァ神の寺院とみなされる。
5.イブン・マーシャのスナン:これは現代イスラーム解説者であるムハンマド・ビン・ザーイドの著書で、預言者語録に関するものの中で最も重視される書籍のうちの一つである。
6.教義と聖約93.29 ~ 35:人間は本質的に霊、あるいは英知であるが、物質と肉体もまた、肯定的役割を果たす。キリスト教の伝統が大体そうであるように、末日聖徒の経典も、人間が神様の聖殿になるために、そして人間の存在目的を実現するために、霊は肉体をまとわなければならないと教える。
7.長阿含経:大乗仏教の伝統において、仏陀の誕生ののち、彼に属するとされた最初の言葉である。
8.教皇ヨハネ・パウロ2世:アメリカの司教に向けての書信、1979。
9.1977 年2 月23 日:これは人権保護を声高に叫びながらも、実際、共産主義の広範囲な拡散を黙認したアメリカのカーター元大統領に対する文鮮明先生の批判である。
10.1992 年4 月26 日:このみ言において、強姦や姦通による堕胎については言及しなかった。人間存在の可能性と実際の人間の間を区分する基準を明らかにするほうがよいだろう。統一主義者は赤ん坊が生まれて、最初に息をする時、霊魂が肉身に入り(創世記2 章7 節)、この時が霊魂と肉身で構成された完全な人間になる時だという。これはプロテスタント的信仰と一致する。だから文鮮明先生は、堕胎が殺人と同じだという観点で批判するより、それが神様の新しい創造を挫折させ、神様の形状に似るよう胎児に相続された潜在的価値を
否定するので、罪だと考えるのである。
11.ローマの信徒への手紙2.14 ~ 16:良心は、真理と自らの罪を認識させる人間の普遍的属性である。
12.ルカによる福音書17.21:このフレーズは多様に解釈されてきた。「あなたがたの間に」という表現をそのごとくに解釈する場合、彼らの中にいるイエスと彼の共同体を本然の天国と見ることができるが、このフレーズのより奥妙な意味は、天国は信じる者の心の中にあるというものである。
13.孟子Ⅱ.A.6:孟子は儒教の四つの徳を掲げた。それは、仁(仁愛)、義(義務や正義)、礼(規範や形式の遵守)、智(知恵)の四つである。この徳目の根は、人間性、すなわち本質的善性の起源である。
14.1969 年9 月14 日:「真」という単語は、あるものの特性が真実で正しいということを描写する形容詞である。人間と連関させてみれば、「真だ」というのは、真を自分の中に具現するという言葉である。韓国語の「真理」と区別する必要がある。
15.1971 年1 月16 日:24-315、1969.9.14 のみ言参照。
第4章
1.万葉集I:「煙」と「かまめ」は、人間と自然の問の豊饒と調和を示唆する。
2.ジャータカ:太古の清浄さと美しい景観をもった山々は、常に修行者たちのための適合した環境として好まれた。そこにおいて彼らは、最も適切な方法で究極的真理を観察しようとする努力ができただろう。アジアにおいて仏教の寺院は、よく自然資源保護区域と関連する。
3.2000 年12 月10 日「10 里(韓国の里は日本の里の10 分の1)」で「里」は、一種の距離測定単位である。韓国の1里は、約429 ヤード、あるいは393メーターに該当する。
4.リグ・ヴェーダ6.28:神聖な動物として、雌牛に対してこのように特別に尊重することは、ヴェーダ時代から今日に至るまで、インド全域で続けられている。
5.フランシス・ベーコン:ケンブリッジ・トリニティ・カレッジに送った手紙。
6.礼記7.3.1:「自然の二つの力」とは、陰と陽である。「五元素」――地、空気、水、火、金属――は、すべての事物の基本構成要素である。中国の変化哲学は、陰陽と五元素(行)の理論を結合し、これらの間の均衡と変化を通して歴史と運命を決定し、人体の健康、芸術と文化、自然の活動の因子として見ている。音楽の五音階との関係も注目される。
7.アイタレーヤ・ウパニシャッド1.1 ~ 3.12:創造の最初に形成される原人プルシャは、大宇宙的人間であり、彼の各部分が小宇宙、すなわち人間に付与される。このようにヒンドゥー教の寺院は、人間の体の形状に従って造られる。
8.アイタレーヤ・ウパニシャッド1.1 ~ 3.12:頭蓋骨のてっペんにある脳天(頂門)は、王冠チャクラの位置であり、霊魂が抜けていって天界に至る門である。第5 章5.「あの世界への通路」から、297-252、1998.12.19 原文を参照。
9.1959 年10 月25 日:個々人は、時間的に空間的にみな、小宇宙的存在である。
10.1977 年2 月27 日:第20 章10.「和合と共同体」のコリントの信徒への手紙一12 章12 節~ 26 節を参照すること。
11.クルアーン33.72:「信託」とは、善を選び、悪を拒否し、神様の目的に従って生きていく責任を意味する。すべての被造物において、人間だけが自由意志と責任をもらった。しかし、私達はそれを濫用している。
12.アヴェスター・ヤスナ29.1 ~ 9:天上の対話において雄牛の霊は、自分が邪悪な者に虐待されていることに不平を言う。雄牛は彼の主に正義を求めるが、そのようなものはないというのが答えである。雄牛と雌牛の霊が神にまた、一層切望すると、神は、同時に牛と人間が互いに助け合い、調和をもって暮らすことのできる戒律を定めてくれた。満足できない雄牛は、この戒律を実行する正義感あふれる保護者を求めた。神はツァラトゥストラに行けというが、彼はその戒律を実現させるには力が足りない。雄牛は「いつ教えが広まり、救いが来るのか?」と尋ねる。実際にゾロアスター教は、ヴェーダのアーリアン族たちが行った殺牛儀式を廃止してしまった。
13.波逸提Ⅱ:僧院に関連したこの律法は、林の中の住居に暮らす修行僧たちについて述べている。修行僧たちは、絶対に住居用の敷地を造るために大きな木を切ることができない、という意味に解釈し得るだろう。彼らは、おそらく薮だけを刈ることができただろう。
14.イザヤ書11.6 ~ 9:平和な王国の形状は、本然の調和が回復した神様の王国の世の中、エデンの園で万物が和合する姿を描写している。このフレーズの意味の別の解釈で「狼」と「小羊」は、人を象徴するものだという。野蛮な抑圧者が狼、謙遜な信仰者が小羊として比喩される。
15.パラケルスス:数年間の診療と治療経験によって著述した『大自然の教訓』から、「落ち葉を踏みしめながら歩く」医師。良い結果と悪い結果はみな、教え導く材料である。
16.2000 年6 月30 日:「右側……左側」は、すなわち「東……西」を意味する。
第5章
1.ヘブライ人への手紙8.1 ~ 5:天の幕屋において、罪の赦しのために捧げられる大祭司長であられるイエスの犠牲は、ユダヤ教の律法に従って贖罪するためにエルサレム神殿で捧げられる犠牲の供え物を超越するものと考えられている。これは地上の領域が霊界の模型と影と影像として存在する間、霊界が形状の世界として実在するという新プラトン哲学に基づいている。ヘブライ人への手紙は、このような見解をバックアップするために、神様がモーセにシナイ山で見た天の幕屋の見本に従って幕屋をつくることを命じる、出エジプト記
25.40 を引用する。
25.41
2.コリントの信徒への手紙一15.40 ~ 41:天に属する体は、神聖な愛と恩寵のうちに高く舞い上がる霊である。地に属する体は、世俗的な欲望に執着し、地に縛られている霊である。しかし、地に属する霊も、天使とより高い存在への奉仕を通して高められ得る。
3.教義と聖約76.54 ~ 88:三つの霊的等級を記述した善行の語句の幻想的解釈である。神権の一員であり、福音伝播に努める末日聖徒とその家族たちは、太陽の霊になるだろう。貴く良心的なキリスト教信徒は、月の霊になり、聖霊を冒pしたり犯罪を助長しない非信者は、星の霊になるだろう。
4.教義と聖約88.36 ~ 40:人が各自の英知、徳、光明、慈悲、正義のうちにふさわしい「王国」に上がるようになることをいう。
5.1977 年2 月27 日:全体の段落を把握するためには、第4 章4、「小宇宙と大宇宙」を参照すること。
6.甘露の法雨:新興宗教である「生長の家」の経典は、日本の民間仏教のように現象界と実在界を対比している。肉身は現象界に属するが、霊的生活は実在界に従う。
7.バガヴァッド・ギーター2.19 ~ 25:アートマン[自我]は、肉身と結合して「体化」し、この体からあの体に移ることとは無関係であって、永遠に存在する。
8.キケロの国家論6.14:ストア哲学の代表的短編「スキピオの夢」から抜粋した。
9.アカン族の格言「オニャメ」は超越者に対する最も一般的なアカンの名前である。これはおおよそ、充満を与える唯一者を意味する。
10.易経54、帰妹:「帰妹」とは、正常な手続きを踏まずに嫁に行った若い女性をいう。花嫁候補が一生の結婚を準備するように、人間関係はひとえに、永遠性の観点に基盤を置く時に成功し得る。
11.1969 年6 月22 日:「天運」についての第2 章の注釈19 を参照すること。
12.マタイによる福音書18.18:イエス様は、つなぐ、解くという権威を弟子たちと教会にお与えになった(マタイによる福音書16.19 と比較すること)。それによれば、その権威はペテロにだけ与えられた。カトリックの場合、この本文は、教会によって施される訓戒と恩寵に主に関連する。その場合、地上で確定されたことは天でも認定されるものとみなされる。しかし、聖職の仲裁を否定するプロテスタントでは、キリストの祝福は信者個人の信仰と祈祷と善行を通して有効になる。したがって、究極的に個人が地上でつないだり解くことは、天でもつないだり解くことになるのである。
13.2004 年5 月1 日:「蕩減条件の清算」を意味する。
14.1975 年2 月2 日:一方、別のみ言では「黙示」は、神様が私達の心に完全にとどまる時、最後の段階を意味する。
15.1998 年12 月19 日:ひよめきは、乳児の頭の部分にあるふわふわした部分で、二歳くらいになると閉じる。これは、新しく死んだ霊体に存在するものと似た器官であり得る「第4 章4.「小宇宙と大宇宙」アイタレヤ・ウパニシャッド1.1 ~ 3.12 参照)。
16.バガヴァッド・ギーター8.5 ~ 13:臨終時の念願と姿勢が、死ぬ人の来世を決定することにおいてとても重要だという点を教えている。生きてきた人生の内容と無関係に、死ぬ瞬間にただ神の名を念ずるだけで解脱を得ることができるかもしれない。しかし、死とは、予告なしに訪れるものであり、また耐え難い苦痛と精神的な迷いを伴うものなので、神を念ずる姿勢が日常生活を通して十分に磨かれていないとすれば、臨終時に神を念ずるということは、ほとんど不可能だというべきだろう。多くのインド人たちが神の名前を息子の名につけるのは、死の瞬間に自然に神の名前を念ずるようにするためである。すなわち、誰しも臨終時には本性的に息子のことを思うようになり、彼の名を呼べば、これによって神の名を念ずることになり、解脱を得るというものである。
17.1968 年3 月29 日:子女の愛とは、幼子が父母から受ける愛だけを意味するのではない。父母が年老いた時、父母に行う子女の孝道も、やはり子女の愛という。
18.リグ・ヴェーダ10.154.5:これは死んだ者たちの世界を主管する、ヒンドゥー教の神であるヤマに対する賛歌であり、「死んだ者をより高い世界に入れるようにしてくれ」という祈願である。ヴェーダでヤマは輝く世界を主管し、死んだ者たちを有益にさせるために、懇請と献物を捧げる対象である。
19.ブハーリー・ハディース:ムハンマドの夜の旅(ミラージュ、昇天)であったエピソードのうちの一つである。そこで彼はメッカからエルサレムに送られ、当時、七階の天を旅行し、その上、神様の権座のところまで行った。
20.ガルダ・プラーナ3.49 ~ 71:最後のフレーズで見るように、ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教に現れる地獄の概念は、キリスト教の煉獄の概念と類似している。言い換えれば、東洋的思考において地獄は、取り返すことのできない永遠の呪いの場ではなく、悪い霊魂たちがより高い次元に進むための、過ぎし日の悪業を消滅させる所だということにすぎない。
21.ぺテロの手紙一3.18 ~ 19:イエス様は地獄の霊魂たちに説教し、多くの人々(地獄で苦痛を受ける人々)を救いに至らせたという意味に解釈される。
22.クルアーン11.106 ~ 108:このフレーズを中心として一部のムスリム神学者たちは、地獄での刑罰が永遠ではないと推論した。「なんじの主のおぼしめしがない以上、天と地の続くかぎり」というのは、終わりがあるということだからである。反面、次のフレーズにある天国の期間については、明白に永遠だと明示されている。
23.クルアーン55.14 ~ 15:精霊は霊的存在である。一部は下級天使であり、一部は善良で、一部は邪悪である。クルアーン72.1 ~ 15 参照。
24.華厳経:大衆的な仏教で崇拝される偉大な菩薩たちは、仏陀の多様な側面を具体化し、象徴している。普遍的善を意味するサマンタ・バドラ(普賢菩薩)は、仏陀の誓願と実践を表す。マンジュシュリー(文殊菩薩)は、仏陀の知恵を表す。アヴァローキテーシュヴァラ(観音菩薩)は、苦痛の中にいる一切衆生に対する仏陀の慈悲を表す。
25.クルアーン53.4 ~ 10:このフレーズは、ヒラー山で天使長ガブリエルがムハンマドのビジョンを説明している。最後のフレーズは、この天使が自らの言葉を語っているのではなく、神様の啓示を彼の(神様の)僕に伝えているものであることを表す。
26.陰隲文:大衆道教では、過去の偉大な官吏と皇帝たちは、昇天し祝福された霊魂になった。文昌帝君は道教の最高神のうちの一人だ。
27.1997 年3 月9 日:天使長が男性格なので、ここでは地上の男性たちを言及したものである。結婚前の男性たちは、堕落した天使長ではなく、善なる天使長の役割をもって女性たちと関係を設定しなければならない(第6 章1「. 人間の堕落)参照)。
28.タルムード、シャッバト88b ~ 89a:人間の地位に対する、すなわち人間が天使より高いか低いかに対する神様と天使たちの論争である。神様は人間を擁護なさり、モーセの行動を御自身の代弁者とお考えになる。このフレーズは詩編8 章にあるミドラーシユ(古代ユダヤ人の注釈)である。ここでは人間の優位について取り扱っている(ヘブライ原文によればそうだ)。天使たちは詩編2 編を引用し、神様の栄光が天に属していると主張する。しかし、モーセの主張以後、天使たちも結局、「神様の名はただ地上で見いだし得る」という詩編10 編の内容でもって詩編の結論が出るという事実を認定する。ここでの核心の争点は、「責任」ということのように思われる。責任は天使にはなく、人間だけがもつものだからである。
29.『原理講論』、堕落論3.2:「戒め」は創世記2.16 ~ 17 節のみ言をいう(第6章1.「人間の堕落」参照)。
30.クルアーン2.154:これは特に神様のために戦い、死んだ殉教者を指している。
31.神楽歌:「玉串」と呼ばれる「榊」の木の枝は、神道儀礼で神聖視され、崇拝者たちは祈祷と愛する人たちの幸運を込めた絵馬とおみくじをその木の枝に結ぶ。その木の枝は、地上に祝福をもたらす神の霊魂を象徴する。神道の崇拝には、宇宙的調和を成す儀礼の踊りが伴う。
32.ヤノマミ族、シャーマンの教え:これは経験豊かな巫女とその弟子の間の対話である。巫女が霊魂の出現を知らせる兆候であるかすかな音、匂い、感触に鋭敏になるための訓練方法であることに留意すること。
33.シアトル酋長:協定演説(1854)
34.教義と聖約128.18:死んだ者のためのバプテスマは、モルモン教会の重要な儀礼である。それは無知なまま死んだ人々、「福音の中で死んだ者たち」は新しい摂理を知らないキリスト教徒たち、に救いを、そして宇宙に全体的で完全な救いを実現する。これに対する聖書的言及は、マラキ書4.6、ヘブライ人への手紙11.39 ~ 40 を留意して見ること。
35.1976 年2 月5 日:闘争と和合のカイン・アベル関係に対する内容は、第6 章2.「カインとアベル」を参考にすること。
第6章
1.パンドラの箱の神話:この「箱」は女性の生殖器官に対する象徴として、ごく自然に受け入れられる。ゆえに、創世記の説話に出てくる禁断の果実に匹敵するものと考えられる。
2.フツ族の伝承:女性の口の中に飛び込むというのは、明白な性行為の象徴である。
3.古事記4 ~ 6:伊邪那岐(男神)と伊邪那美(女神)は陽と陰の結合を表すもので、この結合はあらゆる神的生命と人間的生命の源泉である。ところがこの二人の神は、大地と万物を創造すべき夫婦の婚姻儀式で最初に失敗を犯した。この失敗は女性に主導権を許したことであったが、創世記の説話で善悪の実を取って食べたエバの軽率さと対比される。彼らから奇形児(水蛭子:ひるこ)が生まれたが、遺棄され、出産の時、伊邪那美は結局、死ななければならなかった(古事記7.22)。創世記3.3 と3.16 と比較すること。日本の哲学家、西田幾多郎は、この神話を神道版原罪と説明する。西田によれば、伊邪那岐と伊邪那美が兄妹だったため、宇宙万象は近親結合に由来する
という。神聖な柱の周囲を回ったのは、近親のタブーを克服するために備えられた一種の儀式だった。しかしこの儀式の遂行の失敗は、その結果をむなしいものにしてしまった。それゆえに、すべての人間は、近親相姦の結果だということである。伊邪那美の死、彼らの娘である天照大神(あまてらすおおみかみ)の象徴的な死(古事記15)、そして彼らの息子である素戔男尊(すさのおのみ
こと)の追放(古事記17.25)などは、この原初的失敗を償うために神道の神が付加した罰であった。
4.増一阿含経34、起世経:中国の三蔵(Tripitaka)にある話である。増一阿含経は、パーリ経典であるアングッタラ・ニカーヤの漢訳である。しかし、本文の場合、アングッタラ・ニカーヤではこれに相応するパーリ原文が見当たらず、ディーガ・ニカーヤ3.27、アッカーナ・スターナからその原文を見つけることができる。
5.ゾーハル1.36:創世記のカイン・アベルに対するミドラーシュ(古代ユダヤ人の注釈)である。これは、聖書の独特な細部の内容から隠れた意味を探し出す典型的なミドラーシュの解釈法である。これによれば、カインがアベルに「一緒に狩りに行こう」と請うフレーズがヘブライ聖書(キリスト教の聖書には70 人訳聖書からこの部分を挿入した)には抜けているという。またユダヤ教の聖書学者たちはこれが抜けた理由について長い間、疑問をもってきた。このミドラーシュにおいて、明かされなかったカインの動機を教えてくれる「手
掛かり」となる表現が抜けていると推論する。サムエルはルーシェルに対するユダヤ式名前である。
6.教皇パウロ6 世、1972 年11 月7 日の演説:「ロセルバトーレ・ロマーノ」、「ニューヨーク・タイムズ」の報道内容。
7.高価なる真珠、モーセ書4.1 ~ 4:神様に対するサタンの要求は二つの失敗を包含している。それは人間の救いに対する補償として、ただ神様に帰すべき栄誉を自分のものにしようとし、人間の自由意志を無視したまま、強制によって「一人も失わず」拘束しようというものである。愛する息子・キリストは、救いに対する栄誉を神様に正しく返す。ゆえに神様は、キリストに対してサタンを地に追い払うよう命じ、地においてサタンは、人間を奴隷にしようと絶えず努める。
8.スッタニバータ1103:「マーラ」は仏教で悪魔を象徴する。
9.ヨブ記1.6 ~ 12:サタンは神様に属した人間を讒訴することで、人間に対する支配権を得る。正義であられる神様は、このような譲訴を聞き、罪を犯した者たちをサタン圏に引き渡されるしかなかった。しかし、罪のない人がどこにいるだろうか。サタンが太初から人間を堕落によって汚したため、サタンはこの方法を用いて誰でも拘束できるのである。天の慈悲がなかったならば、サタンがいつも勝利しただろう。しかし、ヨブ記では悪魔が根本的に邪悪で、神様に反する存在として現れるより、むしろヨブの真実さに対して試練をすることを、神様から許される存在として現れる。ヨブを試練することで、サタンは聖なる目的を達成することに一助したのである。
10.アヴェスター・ヤスナ30.3 ~ 5:ゾロアスター教は人間に、自我の中において、また宇宙全体において、葛藤に明け暮れる善霊や悪霊のうち片方を選択することを要求する。
11.2002 年1 月1 日:様々な資料を通して、神様は地上のすべての人間たちの体に悪霊たちが暮らしていると語る。その悪霊たちは正に、ずっと以前、地上で彼らの先祖の手で苦痛を受けて死んだ霊たちである。彼らの目的は、怨讐の子孫たちを否定的な考えと苦痛と疾病で苦しめて、復讐することである。このようにたくさんの悪霊たちが1980 年代以後から、人間の体の中に巣くって暮らすために地上に降りてきている。
12.2001 年l1 月13 日:全文は第2 章4.「十戒」に記録されている。
13.クルアーン12.53:最高の人間であるムハンマドでさえ、彼自身を潔白だと思わなかった。
14.バガヴァッド・ギーター18.40:物質の三つの自性とは、善性の清浄を表すサットヴァ、運動あるいは熱情を表すラジャス、そして暗闇あるいは無気力を表すタマスをいう。プラクリティ(純粋物質)の所産であるすべての人間は、三つの自性をもっているが、各々異なる比率でそれらをもっているため、多様な様相を現す。プラクリティは世界で作用するエネルギーであり、三つの自性は人間の存在を条件づけることで、人間から自らの永遠の自我を忘却するようにさせ、解脱に至る道を妨害する。
15.論語4.6:最後の部分で不足なものは意志であって、道ではないことを意味する。
16.詩編51.5:プロテスタントとカトリックは一般的に、出産行為をした世代から次の世代に原罪を遺伝させるものだと受け取った。そうかといって、性的結合自体がおそれ多いということではない。第2 回バチカン公会議によれば、夫婦間の愛の行為は、キリスト教徒の結婚生活において恩寵の一手段である。
17.サイエントロジー0 ~ 8:「記憶の痕跡」は、前世から起因する態度と行為の痕跡をもつ。
18.阿含経相応部56.11、転法輪経:これは初転法輪と呼ばれる仏陀の初説法で説かれた四聖諦のうちの二番目である。「非存在に対する熱望」は、霊的栄光に対する欲望から熱望に至るために尽力する苦行者たちと関連する。
19.ヴァチャナ91:シヴァ教のこのフレーズは、女性を男性の堕落に責任がある存在として軽蔑する傾向に反対する。むしろ、男性が自分の欲望で過ちを犯すものと考える。マヘーシュヴァラとは、シヴァ神の別の名前である。
20.アーディ・グラント、ソーラト、M.3:シーク教は五泥棒の教えを通して、心の中にある悪を説明した。
21.マハーバーラタ:これは、悪王ドゥルヨーダナがパーンダヴァ族の五兄弟たちとの約束を破棄する時、言及される。彼は、パーンダヴァ族の兄弟たちが林において追放生活を終えて帰ってくれば、五つの都市を返そうと約束した。その「聖なる霊」は、実は自らの悪い意図を断言する悪霊である。
22.ハディース:これは重要なスーフィー派の伝承である。ムハンマドは異教徒たちを退け、マッカ(メッカ)に意気揚々と行進したあと、彼の生涯最後にこれを語ったと伝えられる。小さな聖戦は終わり、ムスリムは弱い自らに対抗して、内的戦いに進入した。
23.ファン族の伝承:この抜粋文は創造の説話から由来したものである。神が遠くにいらっしゃることと人間の独立性に対する誤った認識から起こった、最初の人間の反乱について描写している。
24.道徳経38:このフレーズは大同の古代黄金時代に注目している。この時は、人々がおのずから互いに調和を成して生きていた時代である。社会が堕落し、一層人為的になるに伴い、人々をこれ以上自然には進まない善の道に導くために、教えと教理が生まれた。形式が真実の身代わりをしている。これの最も基本的要素は、「礼儀作法」であり、子供たちの親に対する従順、そして自らの統治者に対する服従のような態度の規律である。
25.詩編115.3 ~ 8:聖書には、人間が作った偶像、何ら能力のない存在に対する多くの風刺がある。例えば、イザヤ書44.9 ~ 20 とエレミヤ書10.1 ~ 10がそれである。このようなフレーズは、ユダヤ教やキリスト教、イスラームにおいて、神様の現存を視覚的に表すことへの軽蔑を促す。このような風刺は、真心において、形状崇拝に対する誤った理解が招いた。本来、形状は、超越した実在を描写するものと理解され、これはすなわちある形態を超えて存在する神に心を合わせるための手段であった。けれども、形状が魔術的な力をもった
ものと理解される場合、形状に対する尊敬の心は、偶像崇拝に転落するようになる。
26.阿含経相応部56.11:これは初転法輪と呼ばれる仏陀の初説法で説かれた四聖諦のうち一番目である。五蘊とは、私達が存在に対するむなしい渇望をもつ人間の構成要素である。色、受、想、行、識の五要素をいう。
27.創世記6.5 ~ 6:このフレーズは洪水審判の話で始まっている。これは、そのあとのフレーズが示すように、神様の悲しみに関して多くのことを思い起こさせる。
28.高価なる真珠、モーセ書7.28 ~ 37:これは、神様が地上に洪水を起こす前の神様とエノクの間の短い対話である。エノクは、洪水以前に生き、伝承によると彼は生きたまま昇天した。
29.おふでさき17.64 ~ 70:天理教において、罪は人間特有のものではない。それは、本来の純潔な心に積もり重なっているので、一掃されるべきほこりである。
30.ディンカ族の歌:デンはディンカ族の先祖であり、神の頭目であって、地を肥沃にさせ、雨の中に現れる全能の神として知られている。アブクは最初の女性であり、地であり、女性の原理である。この歌は、人類の起源と、地と天の分離に関する伝承に言及しているようだ。
31.優婆塞戒経:正覚者は歴史的釈迦牟尼仏陀だけでなく、万有に遍満した宇宙的仏陀(法身)をいう。
32.1972 年11 月12 日:あらゆる信仰において迫害される者たち、特にキリスト教の殉教者たちに言及している。
33.エレミヤ書8.18 ~ 9.1:前のフレーズの菩薩のような預言者エレミヤは、彼の民たちが苦痛を受けるのと、無知と不信に陥るのを見て、断腸の思いで嘆息をする。それとともにエレミヤは、神様のみ言を伝え、神聖な憐憫の情を表す。
34.イスラエル・バアル・シェム・トーヴ:バアル・シェム・トーヴは「正しい神の名の熟達者」を意味する職責であり、ハシディズムの創始者の名前でもある。
第7章
1.モルモン書、アルマ書12.25:「贖いの計画」とは、不可避な最後の審判と義人に対する終未論的救いをいうものである。神様の究極的正義は、世界の創造以前に宣布されたそのお方のみ言から発見される。
2.御旨の道:「み旨」とは、創造当時、神様が設定された唯一不変の目的をいう。
3.ルカによる福音書15.11 ~ 32:放蕩息子の比喩は、神様は恩寵と許し(父親によって表現された許し)だけでなく、義(兄によって表現された許し)、罪人たち(弟)の許し、そして同情心を伴うという倫理を述べている。
4.法華経4:仏教経典の放蕩息子の比喩において、富裕な長者は仏陀を、そしてその息子は凡夫を表す。仏陀は直接的に自らの恩寵を表されない。したがって、彼は慈悲の心から、凡庸な心の息子に届き得る一つの方便を自らお選びになる。一方、神様は堕落人間を教育する時、これと類似した方便で復帰する。堕落人間は神様から相当離れたので、最初、神様の僕の立場から始まり、最後には神様の直系の子女に復帰される。
5.エぺソの信徒への手紙1.7 ~ 8:本文は、罪の赦しのために十字架上で流されたイエスの血について言及している。
6.観無量寿経3.30:浄土宗仏教において、仏陀の慈悲は地獄のどん底まで至る。アミターユス仏陀、無量寿仏陀、あるいはアミターバ仏陀、無量光仏陀はすべて、浄土宗仏教で本尊として仕える仏陀であり、彼の慈悲は最も極悪無道の罪人をも救済するに足りる。アミータ仏陀の本願で、彼は、自らの名を10回念仏するすべての衆生を救うことを誓願したことがある。
7.リグ・ヴェーダ1.97.1 ~6:火で祭祀をする儀式のための勤請祈祷である。火で神格化されたアグニは火の祭祀を通して象徴的に罪と精神的汚染を燃やしてなくす。
8.延喜式8:神社で詠唱される浄化のための伝統的嘆願である。
9.レビ記16.6 ~ 30:贖罪の日に行う古代儀式である。聖書は大祭司長(アロン)が奉献された雄牛と山羊から血を取り、祭壇と聖所をきれいにすることを規定している。また、イスラエル会衆の罪は、荒野に追いやられる残りの山羊(贖罪の山羊)の体に載せられると聖書は説明する。現代のユダヤ教では贖罪の日に厳粛な断食と「祈祷の奉献」を挙行する。
10.イザヤ書53.4 ~ 6:キリスト教ではこのように苦痛を受ける僕に対する預言を、ただ独り、イエス・キリストとその十字架代贖に適用し、理解する。反面、ユダヤ教ではその僕をイスラエル民族、またはイスラエルの正しい人に見立てる。正しい人の流浪と迫害の苦難は、国家的罪、特に多神教に仕える罪、に対する贖罪であると考えられている。キリストの体として、教会もやはり人類の救いのために苦難を受けて犠牲になるなら、キリスト教徒たちにも、このユダヤ教式解釈が適用され得る。
11.1960 年5 月8 日:ここで言う「聖人」たちは「四大聖人」、イエス、釈迦、孔子、ムハンマドを包含している。
12.ヘブライ人への手紙9.11 ~ 14:ここでは贖罪の供え物として十字架で血を流されたキリストの犠牲をユダヤ教の贖罪嘆息日の儀式と比較している。しかし、キリストの犠牲はただ一度の事件で永遠な蕩減を払い、すべてのための犠牲だったが、旧約の贖罪儀式は一時的であり、毎年反復しなければならないことを強調している。ヘブライ人への手紙は神殿が崩れたあと(西暦70 年)に書かれ、この儀式はこれ以上行われなかったので、ここでは唯一キリストの犠牲だけが効果を発揮する贖罪の方法であると暗示している。赤毛の雌牛の儀式(民数記19.1 ~ 10)のような旧約の他の浄化儀式もまた、同じ脈絡で言及されている。
13.クルアーン24.35:アル・ガザーリ以後、イスラエルの神秘論主義者たちは、このフレーズを、人間の霊魂に対する神様の内的証明を表現したものだと解釈している。壁龕、ガラス、灯火、木、油を霊魂の五機能、すなわち1.感覚、2.想像力、3.分別力、4.理論的に理解できる能力としての理性、5.摂理的な真理を知り得る超自然的預言力と対応させている。そうして、その霊魂は、等級が区分された連続的な光、神様を象徴する「光の中の光」を意味する。
14.無門関23:六祖慧能が、彼のライバル神秀の弟子たちから離れる時に、この事件は[六祖壇経]において再び言及される。禅仏教において悟りは、時々、そのような方式で生じる。すなわち、頓悟は危機と極端な絶望の経験から生じる。そのような状況が迫る時、私達はそれ以上認識や知識、またはひそかな教訓に頼らない。その時、真我が明るく輝く。
15.法旬経93:見えない道や解脱した者は、業の痕跡を残さないことをいう。これは彼が何をしても執着なく、「自分」という考えもなく、何らの代価も願わずに行うからである。
16.ルカによる福音書4.16 ~ 21:イエスは旧約聖書イザヤ書61.1 ~ 2 を読んでいる。歴史的にイザヤは、抑圧と捕虜と負債であえぐユダヤ亡命客の共同社会に、自由の曙光を宣布し、神様がイスラエルに豊富な恩恵を再び施すという新しい時代の到来を宣布している。反面、イエスはあらゆることを網羅する自由、すなわち限りない圧政で呻吟している者たちに釈放を、罪に閉じ込められている者たちに解放を、霊的盲人たちに光明を宣言する。解放とともにすべての創造の完成である「主の恩恵の時代」が到来する。
17.イスラエル・バアル・シェム・トーヴ:「船舶の難破」に対してカバリーの教理は次のように説明する。すべてのものは、最初は神自体であり、神が御自身を流出し、万物を創造されたが、その創造が分解され、ばらばらに散らばってしまい、神様の一部である神性の破片が、物質という「殻」の中に閉じ込められるようになった。このような破片を解放し、神に戻すことは「ティッ
クーン・オーラム」、すなわち世界の修復と呼ばれる。
18.1989 年2 月5 日:ここでの「国家」は、一つの国家において、一つの民族を成した人々のことをいう。
19.阿含経増支部5.322:涅槃は至高善である。なぜなら、それは悪を生むあらゆる衝動と熱望の完全な終息だからである。
20.スッタニパータ1072 ~ 76:自我の消滅から起こるところの自由がよく説明されている。
21.荘子6:「女JP」は道教の女性賢人である。
22.僧ィt:僧ィtは中国の禅仏教の第3 代祖師である。彼は私達に禅を通じた悟りの神髄を残した。
23.ムンダカ・ウパニシャッド:自我はアートマン、すなわち神聖な真我を指す。
24.御聖言:真光は治癒行為で知られる日本系新宗教である。
25.大般涅槃経575 ~ 576:仏陀がアジャータ・シャトル王を自ら治療される場面は、彼の慈悲が甚だしきに至っては、最も許されない者にも同一に及んでいることをよく示してくれる。なぜなら、アジャータ・シャトル王は外道を歩んだダイバダッタの後援者であり、彼の父である敬虔なビンビサーラ王を殺害したことがあり、彼の母ヴァイデーヒー女王を監獄に閉じ込めたことのある者であり、仏陀に全く友好的でなかったからである。しかし、ついにアジャータ・シャトル王は懺悔し、仏陀の教えに従ったと伝えられる。
26.マタイによる福音書12.22 ~ 24:イエス様は人々に多くの奇跡を行われた。しかし、悪魔も奇跡を行えると言って、イエス様の奇跡に懐疑的だった指導者たちは、何も立証することはできなかった。
27.2002 年12 月17 日:文鮮明先生は、富と物質的なものに執着する人々を象徴的に浄化するための儀式として、聖火式を挙行された。宗教者は自らの所有物を代表する衣服など、貴重な物品を選んでそれを燃やす。また、他の形式で紙に自分の名を書いて焼いたりもする。
28.善説宝蔵論:スヴァーシタ・ラトゥーナ・ニディ
29.クルアーン33.9、25:この場面は、一万人の兵力を備えた敵軍の同盟が、二週間を超えてメディナのムスリムを攻撃した塹壕の戦い(A.H.5)を描写している。
30.出エジプト記15.1 ~ 11:この語句は、紅海でモーセとイスラエル民族が歌った勝利の賛歌である。彼らはこの歌を歌いながら、神様の権能が現れるこどを祈願し、聖書で言うイスラエルの国がその上に建てられることをたたえた。
31.法華経25:観音菩薩はアヴァローキテーシュヴァラ・ボーディ・サットヴァ、すなわち一切衆生の「泣き言を聞く者」である。慈悲を施し、苦痛の中にいる衆生たちを助ける仏陀の属性を表す。中国仏教で観音菩薩は慈悲の女神であり、このフレーズは彼女の助けを呼び起こし、彼女に崇拝を捧げるために朗唱される。梵語原本でアヴァローキテーシュヴァラは男性であるが、漢訳[法華経]では女性として描写される。
32.1969 年2 月2 日:「(韓国の)30 里」は7マイル程度である。
33.サムエル記上2.4 ~ 9:これはサムエルの母、ハンナの歌である。
34.阿含経中部ii.32:これは延喜法の懇切な説明である。完全な説明はその次のフレーズである。
35.阿含経相応部x x ii.90:十二縁起を説いている。まず順観し、人間苦の原因を無明として見いだし、再び逆観し、人間苦の原因をなくし得る趣意を明
かす。
36.道徳経41:道に外れた道に対する冗談を留意するもの。
37.コリントの信徒への手紙一15.21 ~ 22:このフレーズと次の語句において、救いとは、太初の堕落で死と罪悪に染まった世の中を反対に復帰することだと説明する。
38.タルムード、シャッバト145 ~ 146:シナイ山に立っていたイスラエルの民たちは、自分たちがいつどこで暮らそうとも、すべてのユダヤ人たちを包含するものと理解する。
39.ヨハネによる福音書3.1 ~ 7:「水と霊とによって生まれ」は、人が聖霊の恩賜を受ける洗礼に言及するものである。
40.如是語経101:ヒンドゥー教の伝統で「二来者」という言葉は、ただバラモンから教えを受ける者たちに適用される。釈迦牟尼仏陀は、慣習的な意味ではバラモンでなく、彼の階級はクシャトリヤであった。しかし、正覚者としての彼は、ブラフマン(梵)を得た者という真の意味において、バラモンであることを自ら言明したことがある。それゆえに彼は、自らの弟子たちに、仏陀の教説を広げ、彼らに二来果を与えることのできる資格を付与された。「口から生まれた」という表現は、リグ・ヴェーダの創造神話を暗示している(リグ
・ヴェーダ10.90.11 ~ 12)。この神話によれば、バラモンは至高な存在であるプルシャの口から生まれた。仏陀は彼のすべての弟子たちが、自らの教えを受け入れることによって、すべてが仏陀の口から生まれるバラモンであることを用らかにし、既存の因習的な身分制度を完全に否定している。
41.『原理講論』、復活論1.3:これは特別に復活に関する段落ではない。しかし、これは霊的成長の段階的過程の概念を提示し、他の宗教の「復活」に関する内容を包括している(下記「復活」参照)。
42.エゼキエル書37.1 ~ 14:このフレーズは伝統的に死んだ者の復活について預言したものと理解されてきた。文字的で歴史的な意味から、これはバビロン捕囚以後に存在するイスラエル国権の回復を比喩的に表現している。
43.タンダクンダ『ニヤマサラ』176 ~ 177:ジャイナ教で、善在する最高我の存在を認定せず、ただ人間が追求する美の究極として至高善の状態を述べているだけである。
44.ルカによる福音書9.60:イエスはこのみ言で、「死んでいる者たち」という言葉を二つの意味で使われる。二つ目の「死んでいる者たち」は肉体的には生きているが、霊的に死んでいる者たちである。彼らは永遠の命を追求するイエスの真の弟子たちと対照される。
45.アヴェスター・ヤスナ34.3:神様に捧げるこのような祈祷は、神様の王国でただ賢い者だけでなく、一切の万物も彼らの運命を成就できることを望んでいる。
46.アモス書9.7:預言者アモスは、イスラエル民族に選民だと傲慢にならないよう警告する。神様は罪を許すことを通してシリア人とイスラエルの最高の怨讐であるパレスチナの人たちまで救おうとされるお方である。
47.イザヤ書42.1 ~ 4:苦難を受ける僕の歌は、ユダヤ教どキリスト教とで、互いに異なって理解される。ユダヤ教では僕をイスラエルと解釈し、このフレーズをイスラエルが世の中すべてに対して灯火となる使命をもつことを宣言したものだと理解する。キリスト教では、僕の完全な意味がイエス・キリストによって成されたと理解する。どんな方法でも、それは、神様の僕が地上のあらゆる人間を解放しようとする神様の意図を示唆する。
48.無量寿経9.1 ~ 5:正統仏教で行う中心的賛歌のうちの一つである。注意すべきなのは、このフレーズを西欧的意味において、被造物に対する神の愛をいうものと理解してはいけないという点である。むしろ菩薩の理想は、究極的実有というそれ自体が万有に遍在し、すべての衆生を包含し、無限の慈悲心をもつという大乗仏教の根本原理を説明する。この原理を正しく知り、一切万有が同体であることを悟る人は、たとえ自分以外のただ一人の苦痛にも、自ら苦痛を感じるようになるだろう。なぜなら、苦痛を受ける者が、すなわち自分の自我だからである。本文は、菩薩が立てる誓願の本質である。
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