散歩者goo 

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昨日記20241228 土 近況(孤独孤立問題 進まない筋力体力の回復)

2024年12月28日 15時27分13秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
TV番組は、年末特集になりつまらなくなった。
年末恒例のニュースや話題の振り返り番組も多い。

私も振り返れば、今年80歳になり、いつものように一人で、普段の生活と変わらない誕生日を迎えた。
そもそも、両親や兄が亡くなって以降、誰にも誕生日を告げていないので、お祝いをいう人もなく、無論自分自身で自分の誕生日を祝うつもりもないので、100%普段と変わらぬ生活を送った。
世間では誕生日を祝い、お盆や正月や祭りやクリスマスといった年中行事で、家族や友人で祝い事をするが、独居老人の場合、社会参加もせず近隣付き合いもほとんどない人が多いと思うので、私のように孤独に祝い事に関係なく過ごしている老人が多いのではないかと想像される。
たとえ、お金があっても、紀州のドンファン事件を見れば、彼が孤独であったことは明らかだろう。
私の推測だが。彼はお金で疑似愛情を買っていて、精神的には孤独であったろうと勝手に推測している。

私は、以前から哲学や思想にも関心を持っていて、今も現代思想のダイジェスト版を読み、ノートを取っているが、近代から現代をどうとらえるかということが重要な哲学的社会学的テーマであることを知った。
その中で注目すべきことは多くの哲学者・思想家や社会学者が、近代の孤独や孤立の問題に触れているのだ。(例えば、マックス・ウェーバーの「鉄の檻」やニーチェの「末人たち」も構造的原因をたどれば、効率化を求める官僚化<ほとんどの民間の会社組織もウエーバーの言う官僚組織の構造で活動している>の中にあり、マックス・ホルクハイマーの言う道具的合理主義がそうしたことに関連するのかもしれない。)
例えば、エーリヒ・フロムは、近代人が中世の封建的身分制度から解放され、伝統的絆から自由になったが、その結果孤独と孤立の感情に悩まされるようになったという。(彼はそうした心情にファシズムが入り込んだと分析している。)
この問題は、現代でも地方と大都市の問題にも通じる社会的現象であるように思う。
多くの都市住民は、田舎の伝統的人間関係や絆から解放され、誰にもお節介されることがなくなったが、人間関係は表面的で希薄になり、家族内ですらお互い干渉しなくなって家族の絆も薄れ、外見上は問題なく平和な家族であり社会人であっても、実は各人が精神的に孤独・孤立の問題を抱えていることが多いのではないかと想像する。(そうした実例も多く見聞きする。)

私も孤独な独居老人であるが、幸い多少ともジムで運動しながら、ジムでの知人たわいもない話をすることもよくあり、最近は行かなくなったが、画廊回り)をして馴染みの作家と話すことも多いので、そうした範囲で多少世間とも接点を持っているし、それ以外読書やクラシック音楽といった趣味もあり、普段は私自身の孤独孤立感はあまりない。
しかし9月10月と11月の2度の入院の際は、私が社会制度上や人間関係でも孤独孤立している独居老人であることを思い知らされた。

11月13日入院し、15日に3.5センチの右腸骨動脈瘤の手術を終え、11月24日に無事退院した。
12月10日に病院に行き、各種検査を受けた後に外来受診した結果、順調に回復しているということで、先生から激しい運動をしてよいと告げられた。
しかし、激しい運動をしようにも、今やそれだけの、筋力や体力はない。
2度目の退院直後は、トレッドミル(ランニングマシン)で時速4kmで10分間ハンドルを持ちながら歩いて右の腰あたりの筋肉が痛み出しリタイアした。
この時は、今後杖が必要になるのかもしれないと落ち込んだ。
12月10日の外来に行くまでに、病院のリハビリメニューに準拠した運動プログラムを考えて実行し、トレッドミルで時速5km程度でも、計測バーを握りながらなら歩けるようになった。
しかし、10日に病院から図書館によってから本を借りて帰宅したが、病院への行きかえり(図書館含む)の全行程を見ると、道を歩いていてもあらゆる人に追い越されたし、歩行中も帰宅後も強い疲れも感じた。
実際歩いていて、杖が欲しいとも感じた。
それだけ、筋力体力が低下しているのだ。
無理もない、2度目の入院は、一回目の退院から約1か月後だった。
そのときも、2回目の入院直前の筋力体力は、あまり回復していなかった。
その後の2週間の入院生活で、さらに筋力体力は低下したのだ。

12月19日に、日本の現代美術画廊の代表的存在の一つであった、大阪市北区西天満にあるギャラリー白が今年で閉店するというので、久しぶりに西天満の画廊を回った。
しかしその行き帰りは、大変だった。
道を歩いていてもほとんどの人に追い抜かれ、地下鉄の階段は、手すりにつかまりながら上った。
外来の先生から、激しい運動をしてもいいと言われたが、筋力や体力が大きく失われ、激しい運動をしたくても出来ないことを改めて実感した。
せめてもの救いは、歩く速度が12月10日の病院往復時より多少早くなったと感じたことだ。

今は、足の筋力持久力と体力の回復に、集中している。
しかし、年末年始でジムは休業なので、体力筋力の低下が心配だ。
自主トレをやる気はあるが、残念ながら強い寒波の中で、外歩きをする気合は失せている。
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昨日記20241213 金 近況(退院後初めての外来)追

2024年12月13日 13時43分05秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
退院以来、自分なりの方法でリハビリを行った。
退院直後は想像以上の、筋力や体力の低下に愕然とした。
例えば、退院直後は、腕や足の皮膚はたるみ、老人らしい大きなしわが出来、皮膚をつまんでも放して戻るまで1-2秒かかった。
明らかに栄養不足と考えた。
とにかく、今まで通りの自分で考えた食事やに戻しサプリを摂取し、筋トレやリハビリをすれば元に戻ると考えた。
退院後4-5日は家事をしていても強い疲労を感じた。
そこには、2週間家を空けたため、その間の食材の廃棄や処理や食材の買い出しと、副菜や冷凍ご飯の製作、たまったメールや事務的処理、急に進んだ季節の変化(急激に寒くなった)に対する衣料や寝具の入替等様々な処理に追われたので健康な状態であっても疲労したであろう局面だった。
貧困の独居老人である私には、だれも頼れる人はいない。
(そのため普段からフレイルにならぬようジムに行き体を鍛え、図書館に行き本を借りて読み、知的能力の低下を防止した。入院時に病院に持ち込んだ荷物は現代哲学のダイジェスト版や川柳入門書で、病院のイートインスペースでコーヒーを飲みながらノートをとっていて、入院生活の楽しみの一つだった。)
大変な退院後の1週間を乗り越えたころには、疲労感もかなり減少した。
体の表面的状態も大きく変化した、
老人らしい大きな皴もなくなり、皮膚をつまんで放しても、放した瞬間に元に戻るようになり、皮膚の張り艶も回復した。
 しかし、筋力体力の回復は、時間がかかっている。
12月9日に、西長堀の大阪市立中央図書館に行き、本を返却し新しく本を借りた。
その往復には、自転車でメトロの駅まで行った後は、地下鉄の階段を上り下りをしなければならず、疲れてエスカレーターやエレベーターも使ったが、それでも家に着いた時には強い疲労感を覚えた。

その翌日の10日午後に病院の外来に行った。
病院に行くまでの歩行距離は、乗り換えがあり地下鉄のホームの端から端まで歩き
更に改札口はその先になり、改札を出てもその先にまだ長い地下道がありうんざりする。(大阪城やNHK方面への地下道)
病院に着いてからも、外来受診前に採血や心電図やX線検査を受けたが、各診療科を受けるのに長距離歩き疲れた。
待合の広いロビーで体を休めた。
かなりの時間待って、外来で受診した。
心臓血管外科のNS先生の診察を受けた。
診察前の検査データや手術後の傷の状況から、術後の回復は順調で激しい運動をしてもよいと言われた。
その時、CTの画像も見せてもらったが、手術で挿入したステントとその横に、腸骨動脈瘤の大きな球が見えた。
主治医のNK先生は、手術前に左に4.5センチ右に3.5センチ程度の腸骨動脈瘤があると言っていた。
診察を終え、次の外来(CT検査)を予約し、次の診察はNK先生が担当すると告げられた。

その後、帰りに中央図書館に寄りで本を読んでから帰宅した。
帰宅後、ステントで封鎖された4.5センチの動脈瘤の大きさを考ええたが、ステントで動脈瘤を封鎖せずに破裂した時の状況を想像すると、本当に命を落とす可能性もあることを認識し、恐ろしくなった。
(親指と人差し指で輪を作ったときの内径程度の大きさの血で満たされた風船のような瘤が、骨盤の裏に左右<右足と左足に血液供給する動脈>に一つづつ動脈の途中に動脈自身がが膨れて存在している。動脈が破損すると血圧で、血が噴き出し、止血が困難。検査をせずに突然動脈瘤が破裂すると、出血原因や出血場所がわからず、処置に手間取り、失血死や周辺組織に血液があふれかえり、内出血の処理で大変なことになることが想像される。)

現在もジムに通いリハビリに励んでいるが、体力筋力は徐々に向上していることを実感している。
だが、現在の筋力体力の回復速度を見ると、入院前の状態まで回復することは、年齢の問題もありかなり難しいように感じている。
それでも、せめて時速7から8キロ程度で、10分程度でも走れるようになりたいと思う。(現在時速5km以下、多分4.5kmで30分間程度で歩くのが限界だ。)

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