神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.110 退職理由

2024-03-15 22:43:50 | 勝記日記
  

 神足勝記は、大正6年に御料地測量事業の完成を見て退職を決意し、辞表を提出しました。
 辞表全文は『神足勝記日記』483ページ下の5月30日の注に挙げておきましたが、その主要部分は「過般来病気に付き加療罷在候処、今に全治不仕、何分執務に堪へ兼ね候間、・・・」です。
 これについて、同時に提出された「診断書」に、病名が「慢性気管支加答児〔カタル〕」とあり、それを説明した部分には「明治42年以来、寒冷の時期に感冒に罹り易く・・・本年2月以来・・・再発、・・・容易に全治の見込無之・・・」と書かれています。
 神足が蒲柳の体質の持ち主であることは、日記を編纂したものとして知っていましたから、とくには違和感はありませんでしたが、しかし、「こういう医学判断になるのか」、とは思ったものです。 

  

 ところが、『進退録』(御料局などの職員の採用・退職・異動・昇叙などの記録を綴じた簿冊:宮内公文書館蔵)を見ていて、不思議に思ったことがあります。それをいくつか紹介することにします。

(1)H・K氏は、大正6年に20歳の頃に職員講習試験を受けて雇員に採用されました。当時の高等小学校卒ほどの学歴で、職歴ほとんどなかったと見られます。その後、名古屋支局で働き、大正10年依願退職します。
 細かいことを措いて、「退職願」と同時に提出された「診断書」を見ると「脳神経衰弱症」とありました。
 最初、私は、本当に脳神経を患っているのかと思いましたが、見ていると、ほかの人でも、類似名の「神経衰弱症」とか「脳神経衰弱」というのが結構あるのです。
 この意味するところをまだ突き止められてはいませんから、推測ですが、病気でもないのに、「生涯一職業に専念できない」で「中途退職するのは頭がおかしい」という判断に見えます。
 これは、この当時はそういう判断が一般的だったのかどうかわかりませんが、今でも、変わったことや犯罪を犯すと、頭がおかしいとか、狂人扱いの判断をすることがありますから、興味深いところです。
 実際、「家業の都合」とか、「老親の孝養のため」などという場合は、「慰留した」が「事情やむなく」という判断が書かれているようです。

  

 (2)M・K氏は、昭和15年に東京帝大農学部林学科を卒業して、技手〔ぎて〕として採用され、木曽支局に配属されました。その後、2年従事して、17年に依願退職します。25歳です。
 この人の「診断書」を見ると、「神経衰弱症」でしたが、そこには付箋があり、「三菱系東山農事会社に入り南方へ赴く予定」と記されていました。
 そうすると、この場合の「神経衰弱症」の意味はどういうことでしょうか。
「安全な御料地で働くことを止めて、危険な南方へ行くなど正気の沙汰でない。神経が衰弱している」
といっているようにも解釈できますが・・・。ひょっとして反戦?

  

 (3)T・I氏は、愛知県の安城農林学校林科を卒業し、技術雇員として採用され、木曽支局に配属されます。その後、13~15年は徴兵され、16年~18年の間、最初は技術雇員として、のちに昇進して技手補〔ぎてほ〕として従事します。そして、18年8月に依願退職します。26歳です。
 そこで、その辞表をみると「胸部疾病、脚部不具」とあります。これは自分で書いたものでしょうけど、その実際のようすがよくわかりません。そこで「診断書」にどうあるかを見たところ、つぎのようにありました。
「右背部育管(肺胆損傷)、両大腿軟部育管、右下腿腓骨骨折兼右腓骨神経損傷、手榴弾破片創」
 徴兵でケガをしたようですけど、詳しいことはわかりません。でも、おもしろいですねえ。どんな様子なのか、見てみたいです。
 
  

 (4)S・T氏は、明治39年愛知県立農林学校を卒業して、1年間小学校の先生をやり、のち樺太庁で働いて、43年に技手として名古屋支局に採用されます。その後、61歳で技師に昇給して同時に依願退職します。50代くらいで退職が多い時代に、61歳まで在職したのは長期です。
 この人の「退職願」をみると、
「61歳と相成候処、近年健康を害し、専ら摂養を要し候条・・・」
とあります。いまのように定年ではないのですね。でも、ほとんど年齢的に限界です。
 こういう人の場合はどうかというと、「診断書」に
「心臓冠状動脈硬化症」
 とあります。この説明も読んでみますか?
「体格中等度、栄養稍々衰ふ、呼吸器尋常、心音稍々不純〔ママ〕にして規則的ならす、時々衝心様発作ありて、胸内苦悶甚しく、次第に高進して就寝時も発作を見るに至る」

 どうですか。おもしろいですね。
 まだ、これから検討する所ですが・・・。こういうことも含めて、人までよく見ないと、御料局や後の帝室林野局の動向はつかめません。

  
 前途程遠し 思いを北桔橋門の夕べの雲に馳す


 
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No.109 「林野地籍の礎を築く」について

2024-03-14 23:17:45 | 勝記日記
  
   
  
   朴
 
 このブログは『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築くー』日本林業調査会(J-FIC)の刊行を知っていただくことを目的として始めたものです。
 今日は「御料局測量課長」と「ー林野地籍の礎を築くー」について簡単に説明します。

  
   釈迦堂遺跡博物館

 神足勝記は、明治24年に御料局に入局し、明治40年に内地(本州)の御料地測量事業を終え、大正6年に北海道までの御料地測量事業をやり遂げ、そして引退しました。
 今回刊行された『神足勝記日記』は、その神足の日記と回顧録から、第1章御料局入局前、第2章御料局入局後、第3章退局後、としてまとめたものです。
 このことからすると、「御料局測量課長」は「神足勝記を紹介した肩書き」ですが、これに該当する日記箇所は第2章になります。
 さらに、副題になる「林野地籍の礎を築く」は、強いていえばこれも第2章ですが、むしろ戦後になって神足の業績を振り返ってみたところそうなっていた、ということになります。 
 どういうことかというと、戦前の「いわゆる皇室財産」には、御料地・御料林などの「実物資産」と、国債・社債・公社債などの「金融資産」がありました。
 「いわゆる皇室財産」といいましたが、皇室といっても、天皇や皇族が何かをやるわけではなく、実際は宮内省の中の帝室林野局が土地・山林などの実物資産を管轄(所有)して資本主義的経営をおこなっていたわけです。 
 また、宮内省にはよく金庫番といわれる内蔵頭〔くらのかみ〕がいて、金融資産を管理(所有)して、これを投資(運用)することで、国債の利子や、民間企業などが生み出した利益の一部を配当として受け取っていました。
 つまり、皇室=宮内省は一方で事業家、一方で投資家であったわけです。この様子は、明治から昭和へと移る間に変化(発展)していきますが、ともかく、この経済的基盤を持つことで戦前の天皇制は存在できたわけです。

 神足たち御料局の人たちが行った測量事業は、「皇室財産」のうちの土地・山林の測量事業をおこなったもので、その意味で「皇室財産を確定した」ということになります。これをもっと具体的にいうと「御料地を確定した」ということになります。
 この場合、神足たちの測量は土地・地籍を確定したということですが、しかし、この土地経営の利益は、宮内省の運営費として使われることもあれば、余れば内蔵頭に渡されて金融資産として運用されましたから、その意味では、測量事業の完遂は皇室財産の確定ともいえるわけです。
そういう意味では、副題の「林野地籍の礎を築く」は、「御料地の礎を築く」とか、「皇室財産の礎を築く」という方がこの本の中身には近かったかもしれません。

  

 ところが、御料地は戦後に解体されて今の国有林になります。
 戦前の日本の山林は(旧植民地を除いて)、民有林・公有林・国有林などがありました。このうち国有林は、宮内省所管の国有林(御料地)、内務省所管の北海道の国有林、農商務省所管の内地の国有林の3からなっていましたが、戦後の占領政策の中で統合されていきました。これを「林政統一」と表現していますが、これをまとめたものの代表的な1冊が上に掲げたものです。
 神足の事業と戦後の林政統一がどう結びつくのかといいますと、神足たちの測量事業の成果が測量簿としてまとめられてました。(これについて、たとえば『神足勝記日記』345ページ~348ページをご覧ください。本州分だけで500冊ほどが記載されています。)これが、林政統一に伴って国有林の台帳となり、それが現在でも基本台帳として使用されているのです。
 その意味で、結果としてですが、現在の国有林野の地籍の礎を築いたわけですから、しかも、現在もまだ民有地・民有林との境界が確定されていない係争地もあるわけですから、ふさわしいと思われるわけです。

  
   高尾の林業試験場で














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No.107 神足勝記日記

2024-03-13 01:39:50 | 勝記日記
 

 このブログは『御料局測量課長 神足勝記日記』日本林業調査会(J-FIC)の刊行を知っていただくことを目的として始めたものです。
 発行は「23年12月15日付」ですから、この3月15日で、刊行から3ヶ月になります。定価+消費税で2万2千円です。2千円分は政府を怒ってください。しかし、それでも、自分でも「高価」と思います。とはいえ、この本に記録されている歴史的事実をもし知ることができなかったなら、どれだけ日本の近代史にとって損失となるか、逆に、この本に記録されていることがどれだけ重要なことか、ぜひ見極めていただきたいと思います。
 今日、ネット検索したところ、すでに図書館で公開しているところも出てきています。個人でも各種図書館でも、知る機会を逸したということがないようにと思って、毎日このへたくそのブログを続けています。ぜひ、知ったうえで、備えるべきか否かを判断していただきたいとおもいます。
 今日の主題はここまでです。

  
   この中に入らないで下さい。

 昨日、大菩薩嶺の落穂拾いをしましたが、一つ残ってました(地図は昨日のものをご覧ください)。
 大菩薩嶺のバス乗り場の「富士見平」から西へ行くと裂石〔さけいし〕があります。私はここを2回通過しました。
 最初は、息子を連れて大菩薩嶺に上ったとき、ここに降りてバスで塩山駅経由で帰りました。
 もう一回は、丹波山から柳沢峠を越えた時にここを通過しました。
 実は、裂石には次の「介山記念館」があります。

 
       中里介山記念館:裂石〔さけいし〕

 もう、若い人の間では『大菩薩峠』という作品をご存じの方は少なくなっているかもしれませんが、私等の頃は市川雷蔵の演じる机竜之介の「円月殺法〔えんげつさっぽう〕」に魅了されたものです。
 それはいま措いて、私が柳沢峠を越えてここを通過したとき、ちょうど開館するところでした。これは、裂石の旅館に泊まりに来た客が、管理人をやっているアルジに交渉して、ようやく臨時開館するところでした。
 というよりも、開館日は不定期で、希望者が一定数いると開けるのだとか・・・。
 ですから、私のような通りすがり一人ではまずムリ。折よく来て便乗して閲覧となりました。
 見ごたえありました。
 映画やテレビでそれなりに雷蔵の龍之介を見てますから、展示品を拝観していろいろ思い出すことがあり、「ヒマが出来たら本を読んでみようか」と思うくらいの見ごたえがありました。皆さんもチャンスがありましたらぜひどうぞ。
 大事なことは、「泊まって? 見せてくれと粘る」です。
 では今日はここまで。

  
    朴葉

 
 
 
 
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No.105 甲斐大和駅から

2024-03-10 23:46:18 | 勝記日記
 今日は、No.71で次の写真を紹介しましたが、この付近を下りましょう。
 
 

 中央本線の下りに乗って笹子トンネルを抜けると甲斐大和(旧初鹿野:はじかの)駅に到着します。この次の駅が勝沼です。
 上の写真は、甲斐大和と勝沼の間にある大日影トンネルの切れ目から撮ったものです。下の道が甲州街道、左上の方に中央自動車道(高速道)が見えます。
 前にも書きましたが、神足勝記は、笹子雁ヶ腹摺山に上がった後、笹子峠を越えてきてこのあたりの甲州街道を下って行きました。

 われわれは、中央本線下りの各駅停車で来て甲斐大和駅で下車します。
 東京の方から来た人でリュックを背負っている人ならば、かなりは大菩薩峠方面へ行く人でしょう。その人は、駅を出てすぐの次の時刻表のところでバスに乗ります。
 私も一度利用しました。バスは日川に沿って上がって行きます。そして、終点の一つ手前の上日川峠で下車して上がりました。
 なお、4~5人なら、タクシーでもバス料金と変わらないくらいで上がれますから、利用する人もいます。歩く人は?、いるかもしれませんが、一日の行程(5~6時間以上)を覚悟する方がよいと思います。
 ちなみに、私は小菅から2回上がり、下りに一回このバスを利用し、もう1回は裂石〔さけいし〕から塩山に下りました。

 

 このほか、途中の天目迄なら、上の便のほかに下のものがあります。天目には栖雲寺があります。ここに、大菩薩の方から下ってきた神足が宿泊して、翌日大月の方へ山越えして巡業していきました。
 それから、塩山駅南口行があります。これに乗ると、今日のこの後のコースをバスでたどることができそうです。

 

 さて、甲斐大和駅からすぐのところに諏訪神社がありました。ちょうど昼時になりましたから、境内で弁当を食べてから物色していると碑がありました。

 

 碑が出てきたので、「えっ!また碑文を読まされるのか」と思った方もあるかもしれませんが、今日は省略です。というのは、私が読んでみたところ、そばにある次の説明板と同じ内容でした。
 要するに、神社の境内に大きな杉があったが、鉄道の煙の影響で枯れてしまった、ということのようです。
 


 諏訪神社を出て下り始めます。かなり急坂で、日川が道路の右にあります。ここは鶴瀬です。 

 

 鶴瀬にはかつて関所がありました。といって知ったふりをしていますが、ここを通って初めて知りました。前に取り上げた小仏で一度チェックされ、またまたここでチェックされたわけですね。 

  

 次の写真の正確な記憶がありません。
 右側に小さな川が見えます。これは、右側の山から流れてきて日川に合流する川です。おそらく鶴瀬から少し下った共和の辺りでしょう。 

  

 ミニサイクルを持っていきますから、ずっと座って景色を堪能するだけです。ラクでいいです。
 でもね、このとき、前方に注意するあまり、うっかりかの有名な大善寺の入り口の標識を見落としてしまったようで、通過してしまいました。こういう時、戻るにはかなりの「勇気」が要ります。ザンネン!
 
 この時は甲斐大和スタートでしたが、勝沼スタートの時は、日川に架かる「旧祝橋」の上が整備されていて、そこのベンチでよく弁当を食べました。日川やブドウ畑を眺めながらのんびりと食べる弁当もいいものです。機会がありましたら、ぜひどうぞ。

 では、この辺で。 







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No.104 安東清人 

2024-03-09 19:05:00 | 勝記日記

 今日は、「安東清人君紀念碑」を紹介します。
 安東清人は、神足勝記・木下小吉郎と一緒に熊本県から貢進生として上京した人です。優秀で、友人の間では知られた人でしたが、肺結核のために33歳という若さで亡くなりました。

 『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築くー』日本林業調査会(J-FIC)にも、安東がドイツから神足に送った手紙が出てきたことが出てきます。(なお、昭和6年9月13日の項に、この手紙のことを書いていますが、まだ見つかっていません。)

 碑の原文は全文が漢字です。この碑文について、すでに『広報 ながす』(第43号、昭和42年9月25日)に読み下しがあります。しかし、「大要」とありますので、この際ですから、自分の読み下しを試してみることにしました。 

 
  安東清人君紀念碑:長洲市四王子神社

 上記の広報には
 「四王子神社の東北の隅に弓道場がある。その西側に高さ三メートル位の石碑が建っている」
とありますが、位置も大きさも記憶と違うように思いました。私が行った10年前頃は、境内に入って正面右に舞台、左手に碑があり、大きさは私の身長より小さかったように思います。
 なお、安東清人については、上村直己「熊本藩貢進生安東清人日記『心ノ影』(1)(2)」熊本学園大学『総合科学』第17巻第1・2号、平成22年(2010年)12月、平成23年(2011年)4月)があります。 
 では、お読みください。

**********
 安東清人君紀念碑
 君〔くん〕の名は清人。安東氏は細川家に仕え、父俊文は藩の物頭であった。母は内田氏の出である。
 君は、安政元〔1854〕年4月6日、肥後国玉名郡長洲に生まれた。10歳にして春秋を読みこなし、長じて藩校の時習館に入り、竹添〔進一郎:井井(せいせい)〕・木下〔韡村(いそん)か〕諸氏に就いて経学を修めた。
 明治元年、撰ばれて居寮生に揚〔ひきあげ〕られた。3年、貢進生に推挙され、東京大学南校に入りドイツ語を修めた。のち開成学校の給費生となる。8年、官命によりドイツに留学し、フライベルク大学に入り、鉱山学を専攻した。
 不幸にして肺〔結核〕を患い、10年9月に帰朝した。13年、病が稍〔やや〕間〔かん:よくなり〕して文部省に出仕した。すぐに権少書記官に任ぜられ、正七位に叙せられた。官立の学務局副長の職を兼務した。18年、少書記官に昇進し、従六位に叙せられた。此歳、病が再発し、帰郷して養生することを願い出た。しかし、天はこれに年を与えず、明治19年9月17日、遂に没した。享年33。
 是より先、君は大島氏〔佐喜〕を娶るも、先に没し、子がなかった。弟の真人が遺骸を収め、長洲の先祖のそばに葬った。
 君の人となりは質直寡文〔質朴、正直、うわべを飾らない〕。没するに臨んで遺言を残した。
  吾れ死すとも碑を樹〔た〕つることなかれ。蓋し、諛墓の毀〔ゆぼのそしり:墓誌を作って
  死者をほめすぎること〕を深く悪〔にく〕めばなり
 しかし、友人の中に勤学を紀念して募金する者があった。同窓の友は痛悼し、相談して石碑を建てて次のように刻んだ。
  学成り、名著しい同人の賢明を称賛する。造花はその才を妬み、年を与えなかった。
  哀悼の余り碑を建てて伝える。遺言は耳にあるも、顧みるいとまがなかった。
 二品大勲位能久親王篆学額
 正三位勲二等子爵品川弥二郎撰      高橋健三書

 以上です。碑の裏面など、略しました。

 この時の熊本行で、私は神足の生家の「熊本内坪井折栴檀{うちつぼいおれせんだん)」の位置確定も出来ましたから、じつに思い出深い旅行でした。
 次の写真は、帰りの機内から見た「熊本県ー宮崎県」の山地です。どのあたりかお分かりになる方がおられましたらお教えください。



 まだ書きたいこともありますが、ここまでにします。

    
 
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