神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.117 思い出すこと 2 

2024-03-22 04:12:12 | 辞書

      
        朴:夕日に映える

 きのう、岩波『ロシヤ語辞典』のことを書きました。
 これは正確には『岩波ロシヤ語辞典 増訂版』(八杉利貞著 1970年 第8刷 1600円)です。ちなみに、1970年の私のアルバイト代は、時給250円で、1日1500円でした。
 この辞書は、語彙数が多く持ち運びも便利なので、長く使いました。
 その記念事項を3点メモします。
 1.内表紙の「娘のじじ」の脇に「1978年夏」とメモが残っています。これは昨日書きました。
 2.79年3月の博士過程の入学試験の準備で使いました。
 実は、このころ先輩のKさんが『ソビエト大百科』のコピーを持ってきて、「意味が取れる程度でいいから、訳してくれ」というので、試験の準備として引き受けました。
 この作業の一部は、のちに「ブハーリン『帝国主義と金融資本主義』」(法政大学大学院『経済学年誌』第22号 1985年)として発表しました。読む人を期待しない、アリバイ作りの発表でしたが、ある先生から「読みました」と電話で慰労されるなど、往時を回顧させる大事な1点となっています。
 3.1980~81年のドイツ留学にも携帯しました。これについてはまたいずれとしましょう。

  

 さて、この辞書のほかに『博友社ロシア語辞典』(昭和50(1975)年 木村彰一・佐藤純一ほか 3500円)が発行されてました。学生向きで説明がていねい、例文が多く、文字もやや大きく見やすい。持ち運びの限界くらいの大きさで、良い辞書です。しかし、できれば語彙がもうちょっとほしい。
 ということで、いざというときには語彙が多い方が助かるので、持ち運び用には岩波版を使っていましたが、だんだんと視力が低下してきたのもあり、家では博友社版を使用し、それで見つからないときは、八杉さんの『岩波ロシヤ語辞典』を引きます。
 このほかに、めったに使いませんが、『岩波 ロシア語辞典』(和久井誓一・飯田規和・新田実編 1992年 7800円)があります。それから、オジェゴフの露露辞典・・・。
 最近はロシア語を使うことがほとんどなく、使ったのはロシア大使館への抗議くらい。もうさびついています。
 
 コロナ蔓延前の2020年ころ、神田の古書店を歩いていたところ、八杉さんの岩波版が、ほとんど未使用なのに、500円で店先に出ていました。それからまたしばらくして、高円寺の古書店で、こんどは300円で出ていました。アア!。

 懐かしさと愛おしさから、どちらも買ってきてしまい、棚に積んであります。ほしい人があれば差し上げます。・・・送料の方が高いかも・・・。 

 いや、ずいぶん自慢をしてしまいました。
 では、本論に入ることにしましょうか・・・。
 う~ん、いや、明日にしましょう。

 〽 あし~たがある~さ あすがある~

 来客がありました。
  

 

 
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No.116 思い出すこと 1 

2024-03-22 01:29:37 | 追憶
 いくつか思い出したことを書こうと思います。

  

(1)立教の大学院で修士論文を書き始めた1978年ころは、1戸建ての2階の半分を借りてのアパート暮らしだった。もともと狭い造りのところへ、そのころにはもう本箱6~7個分は蔵書があったので、けっこう手狭だった。
 それでも、居場所が必要なので、部屋の一角を本箱とふすまで仕切って自分の居場所をなんとか確保した。すると、歩き始めた娘が遊んでほしくて時々やってくる。しかし、そうそう遊んでいるわけにもいかないから、炬燵の台を立てて通せんぼをしたら、おもしろがって、どこで覚えたのか不思議だが「大丈夫、通れる」と言ってすり抜けてきてしまう。そこで、バリケードよろしく頑丈に閉鎖すると、こんどはふすまを開けて、みつけたとばかりに「にか~ッ」とよだれを垂らしながら笑う。そして机の下をくぐって入ってくる。そうすると、やはりいくらかは遊んでやらざるを得ないので抱っこしてやると、こんどは机の上に興味を持って「じじ〔字字〕」といって落きたがる。おかげで、当時使っていた『岩波ロシヤ語辞典』の内表紙にはその「じじ」がくちゃくちゃと書かれていて、いまでは「私の宝物」になっています。
 娘は今、高校生の娘と中学生の息子のお母さんです。


(2)そのころは情報公開法制定のずっと前で、からきし資料がなく、先行研究を探すことも難儀するような時代でした。
 記憶違いがあるかもしれませんが、先日、「目白御殿」といわれた田中角栄元首相宅が全焼したことが報じられましたが、あの建物に木曽のヒノキが使われていたのではないかと思われます。そのころと思いますが、私も木曽に行きました。
 この時のこととして覚えていることが3つあります。
 1.原寿男さんが「木曽の林政と施業の沿革」(『昭和43年度木曾分場年報』)を書かれていて、それを読んで、お話を伺いに農林省林業試験場木曽分場に伺ったことです。もう記憶が薄れるばかりですが、原さんは、まだ何も伺うすべを持たない私に、端正にして控えめな姿勢で、ニコニコしながらお話しくださり、上記の論文のコピーを持っていった自分に、記念にと抜き刷りを下さいました。
 2.原さんにお礼を言って辞去しようとすると、さりげなく引き留めました。そして、ちょっと出てから戻ってきて、「分場長に挨拶していってください」といい、案内してくれました。
 分場長は鶴園さんとおっしゃいました。原さんが私のことを説明されたようで、私が「なかなか手掛かりがないので、ともかく御料地だったところを見たいと思ってきました」と挨拶すると、にわかに運転手に来てもらい、財布から5000円札を出して渡して「予定外で申し訳ないけど、これで希望のところへ行けるところまで案内してあげてください」といい、私には「今日は会議があって時間がありませんから、また来てください」といって部屋を出ました。
 運転手さんにお世話になり、木曽福島から、王滝の方の奥まで上がりました。そこは、運転手さんが心配して、「雪解けで崩落のキケンがあるから、ここで勘弁してください」というようなとことで、巨木が林立していました。
 のちに、神足も越えた真弓峠の名前を知っていたので、その方角を聞くと「あの奥の方です」と。
 3.木曽には何回か行きました。いちど王滝の民宿に泊まった時のことです。
 民宿の主人から「王滝へ来た目的」を聞かれたので、「皇室財産の研究」をするつもりであること、その中心地の旧御料林を見に来たことを話したところ、突然怒り出して「もう御料林なんかいいよ」と言いだしました。
 私が「でも、何にもわかってないですよ。」「ちゃんとわからないと、墓標が立てられない」というと、もう客であることを忘れた対応でした。
 この件もあって、これが「私の課題」です。 
   

 もっと簡単に書くつもりでしたが、今日はここまでです。
 つづきは明日。




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