神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.96 米山行

2024-03-01 23:54:06 | 御料地
 今日は、涌谷の続きとして、その北に位置する米山をとりあげます。(なお、これは東日本大震災の前後頃に何回か調べに行ったことを含みます。現在と違うところがあるかもしれません。)
 米山はつぎの地図のような位置にあります。〔【地図の説明】はパスしてOK〕


 
 【地図の説明】
 〔交通手段〕
 左上に東北新幹線:最寄り駅は「くりこまこうげん」。
    東北本線:北から「にったーうめがさわーせみねーたじりーこごた」。
 左下に石巻線:西から「かみわくやーわくや」。
 右下に気仙沼線:北から「やないづーみたけどうーりくぜんとよさとーののだけ」。
 なお、「ののだけ」は「篦岳」ないしは「のの岳」と書きますが、珍しい地名であるとともに、駅〔停車場〕西側に「御料地」という小字が残っている旧御料地の一帯です。また、そのすぐ西には篦岳山という山があります。
 〔地勢〕
 左上に伊豆沼(周辺は旧御料地)の一部・内沼・長沼
 左の東北本線近く・長沼の南に蕪栗沼〔かぶくりぬま〕。
 左上から見下にかけて迫川〔はざまがわ〕。
  迫川は河川改修事業を重ねてきたため、新旧無数にあります。
 東に北上川が流れ、南は石巻市になります。
 北に南方町〔中心は佐沼〕、右上に中田町、ここを東に行くと南三陸町〔志津:しづがわ〕に至ります。

 【本論」
 米山は、地図のほぼ中央にあります。そして、「米山町」とあるすぐ南の十字路の東に「米山高」とあるのがわかります。 
 そして、米山町と涌谷町の間に、昨日も名前が出てきた加護坊山〔かごぼうやま:標高224m〕と、地図には明記されていませんが、篦岳山〔ののだけやま:222m〕があります。
   
   
   左「加護坊山」・右「篦岳山」:東北新幹線古川駅南付近車中から

 米山と加護坊山・篦岳山に挟まれる一帯は、しばしば迫川の氾濫に悩まされる湖沼地・湿地帯・荒蕪地で、ここに御料地がありました。
 次の地図の下の方〔南方〕に、涌谷をはさんで「相〔野〕沼」のほかに「下地沼」・「名鰭沼」・「広渕沼」が見えます。今日では、これらの3沼の残っている地図は珍しいものとなっています。そして、北側に、西の加護坊山〔又兵衛壇とある〕と東の篦岳山があり、さらに北の一帯の、左上から右下にかけて朱色に色付けした箇所、ここが旧御料地だったところです。
 左上に蕪栗沼があり、そこから出た川〔迫川の一つ〕が、蛇行をつづけて右の北上川に流下していきます。おおむね、この川の北側が「登米御料地」、南側が「遠田御料地」です。
 ここでは、秣や下草の刈り取り、湖沼・河川での漁業、農地貸付などが行われていましたが、大正期頃から処分・払い下げがすすみ、また、地図に見える湖沼もほとんど埋め立てられ、次第に治水も耕地化も進み、現在は水田耕地化されています。


 私は、この一帯を見るためにJR田尻駅から加護坊山に上りました。(その写真は後日の機会に、とします。)そして、さらに篦岳山との境目の、涌谷から来る道に沿って米山まで歩き、米山高校の脇にある「開拓記念碑」を見に行きました。(碑文は『米山町史』に)。

 開拓記念碑:後ろは米山高校の校舎

 また、この頃、蕪栗沼の東にある「千貫〔せんがん〕」に、次の「圃場整備記念碑」があることを知り、見に行きました。これはつぎの写真で読むことができると思いますのでどうぞ。
 

 この千貫へ行った頃はミニサイクルを持ってましたから、これで旧御料地一帯をくまなく回りました。
 しかし、米山の碑を読みに行ったときはまだミニサイクルを持っていませんでした。
 真夏の炎天下の水田地帯を歩きましたから、暑くて暑くて。なにしろ、水路でタオルをビショビショに浸してかぶってもすぐに乾燥してしまうというひどい状態でした。それでも、見たい一心で、帰りのアシのことを考えずにひたすら歩きました。
 そして、endlich〔エントリッヒ:とうとう〕開拓記念碑を見ることができました。すると安心して、ようやく帰りのことを考え出しました。すると「またあの暑いところを戻るのか」と思案に暮れました。
 そう考えながらあたりを見ると、米山高校の近くに店があるのがわかりました。そこで、水分補給をしながらバスの便を聞くことにしました。すると、
 「〔涌谷と反対の〕佐沼の方へ行くバスはあるけど、涌谷の方は・・・。ハイヤーもここまでは余ほど時間がかかる・・。」
 と、ムリそうなので、「また歩くか」とあきらめて外に出ると、なんとそこへハイヤーが来ました。
 「地獄に仏とはこのこと」と喜こんでいるとビックリ、先客が乗っていました。
 しかし、ここが「私の本領」。
 「ほかに手立てがないから、止めるしかない」とばかりに、道路に出て手を大きく振りました。すると、止まってくれました。
 「そこの碑のところに居ますから、戻ってきてくれますか?」
 というと、
 「10分ちょっと待ってくれれば・・・」と。
 
 これが「私の旅」。では。


  にわにはにわの・・・さん

 付録:
 「瀬峰の人」というのをご存じですか?

 
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No.95 涌谷

2024-03-01 00:00:47 | 御料地
 酒田を出て陸羽線で宮城県の涌谷に行きました。
 酒田から羽越西線で7時40分発ー新庄8時50分着。1時間10分停車。羽越東線として10時発ー12時8分小牛田〔こごた〕着。石巻線に乗り換えて12時29分発ー同40分ころ涌谷着。
 涌谷の辺りにはもう何度も通っていますが、この時は、周辺のようすを見直してみたいというのが理由でした。(涌谷がかつて金の産地であったとか、東日本の震災の関係など、その他はいずれとして略します。)

 まず、このあたりの変化のようすを次の地図で示しましょう。
 次の(1)(2)を相野沼を目安に比較してみてください。

(1)かつての沼があった地域 

(2)現在のようす

 それから、(3)は涌谷南東の名鰭沼〔なびれぬま〕があった一帯です。ここは出来川を目安に注目してください。完全に耕地化されています。

(3)出来川周辺
 

 この一帯の眺望には、北にある加護坊山〔かごぼうやま〕からがよいので、だいぶ前に上りましたが、それだと麓がよく見えません。そこで今回は麓の涌谷城から見てみようと思ったわけです。
 つぎに(4)(5)を見てください。城からの眺望です。転落防止の柵が写っていて煩わしいですが、ご容赦を。
 下に流れる川は、近世の舟運で涌谷が盛った動脈の江合川〔えあいがわ〕です。
 前方の街が涌谷です。駅は右岸方向、遠方は石巻方向です。
 左にわずかに見えているのが、前に取り上げた「北京建都」に伴って建言された「離宮候補地」の旭山の山すそです。

(4)南東方向の眺望

(5)南方向の眺望
 
 上の一帯は、昭和の頃までかなりが湿地帯〔兼遊水地〕でした。このい付近にあった名鰭沼などは、明治の頃に御猟場・御漁場にもなっていたこともある地域です。ここは、漁業・利水などの入会や治水をめぐってしばしば争議が生じるので、その解決のために御料地化が提言された経緯があるところでもありました。それが現在では整備されて耕地化されています。歩くとあちこちに記念碑が建てられているのに気付くと思います。
 その一つとして、涌谷城の東の上り口に次の碑があります。
 これは遠田郡長を務めた鈴木純之進を顕彰しての碑です。碑文は全文が漢字文です。碑文はかなり風化していて、読み取りにはかなり努力が必要です。しかし、なんとか読み取って読み下し文を作りました。今日はもうスペースも時間もありませんから割愛して、後日、機会をみて紹介する予定です。

(6)鈴木純之進頌徳婢

  *写真を差し替え(訂正し)ました

 それから、このあたりは、全体が湿地帯だったというだけでなく、そもそもこの付近を流れる鳴瀬川〔なるせがわ〕などの河川が上流から土砂を運んでくるために河床が上がり、それが堆積して氾濫を起こす所でもありました。
 少し話が広がってしまいますが、鳴瀬川の河口付近には野蒜があります。野蒜には、明治9年頃に大久保利通ら港湾建設を企図しています。それが失敗した原因の一つが、鳴瀬川の運んでくる土砂の多さだったのです。
 次の写真を見てください。涌谷から少し下ったところに架かる木間塚橋〔きまづかばし〕から撮ったものです。完全に河床が上がってきていて、遠くに見える集落の方が低く見えるのではないでしょうか。

(7)天井川

 成瀬川:土砂が堆積して天井川になっています

 長くなったついでに、木間塚の近くの赤井から撮った旭山の写真をお見せしましょう。

 今日はここまです。明日は加護坊山の北に広がる米山の辺りについて取り上げます。
 あ、そうそう、もちろん神足はこのあたりを歩いてます。
 『御料局測量課長 神足勝記日記 ―林野地籍の礎を築く―』日本林業調査会(J-FIC)の68ページ下、「明治21年7月9日」の巡回です。





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