神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.55  阿仁鉱山行 3.阿仁へ

2024-01-20 22:54:37 | 勝記日記
 神足たち一行はさらに進みます。
 院内から雄物川に沿い歩いて落合に行き、そこから秋田まで舟航します。
 秋田で県庁に寄った後、能代まで人力あるいは歩いて、能代から能代川を舟航して遡り、五味堀から歩いて阿仁鉱山に到着します。

 日記から拾うと次のようになります。
 12年
 4月27日 院内発ー横堀ー湯沢泊。
 4月28日 湯沢発ー8時半落合から雄物川を下る―1時角間川着。
       4時角間川発。夜通し走行。
 4月29日 5時秋田着。県庁で県令に面会。県博物館観覧。市内散策。
 4月30日 秋田滞在。3時人力で出発。土崎―大久保泊。
 5月 1日 大久保発ー虻川ー大川ー一日市(ひといち)ー鹿渡(かど)ー
       豊岡ー能代泊。
 5月 2日 能代発(舟)ー切石ー加護山精鉱所ー八幡台〔岱〕泊。
 5月 3日 八幡岱(舟)発ー五味村堀より陸路ー水無ー真木沢鉱山着。


 『道が支えた阿仁鉱山』(秋田大学秋田鉱業史研究所 H27.3)P.3の一部。 

 こうして神足は阿仁鉱山に到着しました。これでメッゲルを阿仁鉱山に通訳として案内する役割を果たしたことになります。

 そして、5月4日から23日までの20日間阿仁鉱山に滞在します。
 この間に、神足はメッゲルに同行して、4日に真木沢鉱山(写真中央下)、5日・16日に萱草山(写真右)、19日に一ノ又鉱山、二ノ又鉱山(写真中央)などに入ります。そのあたりは、着任間もないからか、神足が鉱山についての知識を持ち合わせていなかったのか、さほど詳しいことは書いてありません。
 
 その中で、私がやや異様に思ったのは、院内に着いたあたりから、次第に、望郷の念というか、母・姉のいる留守宅のことを次第に追想する記述が増えることです。
 たとえば、雄物川から鳥海山が見えると、それが墨田川側から富士山を遠望した様に見え帰情を催すとか、能代で花が満開な様を見ると、東叡山で見た桜を想起して帰情甚しくといい、「南方を臨んて家親の安否を顧思するのみ」などということが出てきます。
 また、5日・7日・9日・15日と「宿許へ書を認め」、風邪気味になると「独り臥床して郷地を追思するのみ」といい、下痢をすると、イオウが鉱山に充満していてそれを呼吸したためだろう心配します。

 ブログなので、あまりたくさんは書けないために、誤解される心配がありますが、品川の推挙でメッゲルの通訳として工部省に入ったものの、また鉱業修練ということがあったにせよ、やはり神足にとっては、気が進まなかったのではないかと思われます。
 その理由は、やはり自分の希望する全国踏破や測量事業でなかったこと、不本意に家を明けなければならないこと、があったのだろうと思われます。
 ですから、23日に「慈母御病気」との電報が入ると、矢も楯もたまらずに東京に帰るべく決断した・・・というより、「帰りたい」と言う理由が欲しかったところへ電報が来たのだと思います。(そういうふうに創作した証拠はありません。)

 『御料局測量課長 神足勝記日記 ―林野地籍の礎を築く―』日本林業調査会(J-FIC)で勝記がどう書いているかも確認してみてください。
 神足は「看護帰省」のためといって阿仁鉱山を24日に出発しますが、それはもう帰りたくて仕方なかったからだというのが私の見方です。
 また明日続けます。  
 
 
  

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