今年1月、立川市の国文学資料館へ鮎に関する特別展を見に行きました。写真はそのとき撮影したものです。右上にタテに「多摩川の鮎漁」とあります。後ろに富士山と滝山丘陵が見え、中央奥では3人の漁師が網漁をしています。そして、その手前で若い女性たちがアユのつかみ取りを楽しんでいます。服装がみな豪華な和服ですから江戸期の武家の娘や御女中のようですが、中央右後ろにいる女性が差している日傘が洋傘に見えますから、明治のものでしょうか。いずれにしても、ずいぶん華やかな、人気のあるものだったことがわかります。
私はこの展示を朝刊の広告で知って出かけたのだったと思いますが、その狙いは『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築くー』(日本林業調査会 J-FIC)の中の次の記述に思い至ったからです。
「(明治40年)7月7日(日)雨 課僚中今般他へ転職するものゝ為、及、全員懇親として多摩川に鮎漁を催ふし、午前10時16分新宿発汽車にて立川鮎漁丸芝に至り、鵜を用ひて鮎を漁し、之を調理して午食す。会するもの27名。生憎降雨せるも格別ならす。快を尽して、午後3時40分立川発汽車にて新宿に下車。新橋6時汽車にて帰る。」
そして、この数日前には次のことが書かれていたからです。
7月2日 晴 御料地境界測定事業中、其本州にあるもの、本年を以て完了するを以て、部下の職員半数を減員因すへきにより、鉱山監督署、東京大林区署、地質調査所等へ転職せしむる約整ひたる者7人、民間に下るもの一人、各陞等級を上申す。
これより前、私は『日野の渡し』(昭和61年)などで立川の鮎漁について読み知っていましたが、改めてこの絵でその人気ぶりを知りました。
御料地の測量事業は、神足勝記が明治24年に御料局測量課長となり、「御料地測量規程」を作って方針を決め、26・7年に七宗御料地や天城御料地から着手して40年までに内地(本州)の分を終えます。この成果を、神足は同年12月に「自明治26年度至40年度測量業務報告」としてまとめますが、これが宮内公文書館で見つかりましたから注記しました。ぜひご覧いただきたいと思います。
神足は、自らの体調不安もあり、「報告」を提出した後に、一区切り付いたことをもって勇退を申し出ますが、佐々木陽太郎主事に遺留されて北海道の測量事業にも従事し、大正6年に事業が完成したの見て退官します。
つまり、明治40年は御料局の測量事業の転換期であると同時に、御料地経営に確信が持てるようになった時期、見直しの時期にもなっています。その意味で、この送別会・慰労会は歴史的・象徴的なものと思います。
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