神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.109 「林野地籍の礎を築く」について

2024-03-14 23:17:45 | 勝記日記
  
   
  
   朴
 
 このブログは『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築くー』日本林業調査会(J-FIC)の刊行を知っていただくことを目的として始めたものです。
 今日は「御料局測量課長」と「ー林野地籍の礎を築くー」について簡単に説明します。

  
   釈迦堂遺跡博物館

 神足勝記は、明治24年に御料局に入局し、明治40年に内地(本州)の御料地測量事業を終え、大正6年に北海道までの御料地測量事業をやり遂げ、そして引退しました。
 今回刊行された『神足勝記日記』は、その神足の日記と回顧録から、第1章御料局入局前、第2章御料局入局後、第3章退局後、としてまとめたものです。
 このことからすると、「御料局測量課長」は「神足勝記を紹介した肩書き」ですが、これに該当する日記箇所は第2章になります。
 さらに、副題になる「林野地籍の礎を築く」は、強いていえばこれも第2章ですが、むしろ戦後になって神足の業績を振り返ってみたところそうなっていた、ということになります。 
 どういうことかというと、戦前の「いわゆる皇室財産」には、御料地・御料林などの「実物資産」と、国債・社債・公社債などの「金融資産」がありました。
 「いわゆる皇室財産」といいましたが、皇室といっても、天皇や皇族が何かをやるわけではなく、実際は宮内省の中の帝室林野局が土地・山林などの実物資産を管轄(所有)して資本主義的経営をおこなっていたわけです。 
 また、宮内省にはよく金庫番といわれる内蔵頭〔くらのかみ〕がいて、金融資産を管理(所有)して、これを投資(運用)することで、国債の利子や、民間企業などが生み出した利益の一部を配当として受け取っていました。
 つまり、皇室=宮内省は一方で事業家、一方で投資家であったわけです。この様子は、明治から昭和へと移る間に変化(発展)していきますが、ともかく、この経済的基盤を持つことで戦前の天皇制は存在できたわけです。

 神足たち御料局の人たちが行った測量事業は、「皇室財産」のうちの土地・山林の測量事業をおこなったもので、その意味で「皇室財産を確定した」ということになります。これをもっと具体的にいうと「御料地を確定した」ということになります。
 この場合、神足たちの測量は土地・地籍を確定したということですが、しかし、この土地経営の利益は、宮内省の運営費として使われることもあれば、余れば内蔵頭に渡されて金融資産として運用されましたから、その意味では、測量事業の完遂は皇室財産の確定ともいえるわけです。
そういう意味では、副題の「林野地籍の礎を築く」は、「御料地の礎を築く」とか、「皇室財産の礎を築く」という方がこの本の中身には近かったかもしれません。

  

 ところが、御料地は戦後に解体されて今の国有林になります。
 戦前の日本の山林は(旧植民地を除いて)、民有林・公有林・国有林などがありました。このうち国有林は、宮内省所管の国有林(御料地)、内務省所管の北海道の国有林、農商務省所管の内地の国有林の3からなっていましたが、戦後の占領政策の中で統合されていきました。これを「林政統一」と表現していますが、これをまとめたものの代表的な1冊が上に掲げたものです。
 神足の事業と戦後の林政統一がどう結びつくのかといいますと、神足たちの測量事業の成果が測量簿としてまとめられてました。(これについて、たとえば『神足勝記日記』345ページ~348ページをご覧ください。本州分だけで500冊ほどが記載されています。)これが、林政統一に伴って国有林の台帳となり、それが現在でも基本台帳として使用されているのです。
 その意味で、結果としてですが、現在の国有林野の地籍の礎を築いたわけですから、しかも、現在もまだ民有地・民有林との境界が確定されていない係争地もあるわけですから、ふさわしいと思われるわけです。

  
   高尾の林業試験場で















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