歳のせいもあり忘れてしまいかねないので・・・きのうの続きとして、池辺源太郎の履歴を紹介しておくことにします。といっても、池辺義象の兄の源太郎であるかどうかまだ確証がないので、あいまいな紹介ということになります。
じつは、「池辺源太郎」で検索すると、国立公文書館に池辺源太郎という人を含めた147ページに及ぶ叙位のことが出てきます。そこで、そこに入ってみました。
簿冊標題は「叙位裁可書・明治三十五年・叙位巻十」、件名は「陸軍砲兵上等工長門多能誠ほか四十四名叙位ノ件」
すると、136・7ページに「池邉源太郎」の履歴書がありました。いま役職上の異動のみを抜き出すと、次のようになります。昇給・昇叙は略。
本貫/族籍:長崎県士族、生年月日:安政6〔1859〕年8月28日、
明治12年3月12日 司法省等外出仕
14年12月28日 長崎控訴裁判所詰
15年3月29日 裁判所書記
23年11月1日 長崎控訴院書記
32年9月1日 長崎地方裁判所書記兼長崎地方裁判所検事局書記
34年12月23日 (司法省賞勲局より)賞与
これから、この人は34年まで長崎にいたことがわかります。もしこの人が池辺義象の兄の源太郎ならば、前回書いたように、『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築く- 』日本林業調査会(J-FIC)の明治38年8月7日の項に、東京で亡くなったことがありますから、34~38年7月の間に異動が発令され、上京したことになります。
次に、「長崎県士族」とあります。これは、昨日取り上げた池辺武人の履歴書に、「本籍地」欄に「熊本市」とありますから、違和感があります。もっとも、本籍地は熊本だが、長崎県の士族ということならありえるのかもしれません。もちろん、神足勝記の本籍は熊本です。
そして、生年月日が安政6〔1858〕年8月28日とあります。妻の波が慶応2〔1866〕年11月7日生まれでしたから、約8歳年上となり、これはあり得ると思われます。そうなら、源太郎は1905年8月7日死亡ですから、47歳少し前に亡くなったことになります。
最後に、源太郎の職業ですが、この履歴では裁判所の書記をしていたことになります。しかし、池辺源太郎が裁判所書記をしていたと「勝記日記」に書かれていたかどうか、残念ながら記憶がありません。
この件、後日を期して書き止めておくことにしました。
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