大学で工学を専攻した友人が、
「ららみさん、東大の五月祭に一緒に行かない?
私、行ってみたい催し物があるのよ。」
と誘ってくださいましたので、
先週末は、東京大学
に行って来ました
さすがに五月祭は想像以上の混みようで、
すっかり気後れしてしまったのですが。。。
私達は「本郷の名建築と歴史ツァー」という企画に参加しました。
現役の東大生が、構内の建物を歩きながら説明してくださるのです。
その時、「安田講堂」にまつわる話を聞き、とても感銘を受けましたので、
かいつまんで御紹介したいと思います。
東大のシンボルとも言える「安田講堂」は、
安田善治郎さん(1838年~1921年)の寄付により建設されました。
安田善治郎は、安田生命(今は明治安田生命)の創始者で、
「五十、六十は鼻たれ小僧 男盛りは八、九十」
の言葉でも有名な 実業家です。
また、東京市に慈善事業費として300万円を寄附したり
東京帝国大学に講堂建築費として100万円を寄附した篤志家でもありました。
しかし善治郎は
「名声を得るために寄付をするのではなく、陰徳でなくてはならない」
として匿名で寄付を行っていた為、
生前、これらの寄付が行われたことは世間に知られていなかったのです。
この陰徳思想は、善治郎の父親から譲り受けたもので、
人知れず黙々と善行を積めば、自然と人格が磨かれる~と云う教えでした。
そんな篤志家の善治郎が、大磯の別荘に滞在している時、
国粋主義者の朝日吾平が訪れます。
朝日吾平は、貧富の格差に矛盾を感じ、資産家に強い反感を持っていました。
そして、当時82歳だった善治郎に襲いかかり、殺してしまいます。
善治郎が「陰徳」として匿名で寄付を続けていたことが、
仇(あだ)となってしまったのです。
善治郎の寄付により既に大講堂を建設していた東京大学は、
その後、善次郎を偲び、大講堂を【安田講堂】と呼ぶようになったそうです。
1925年(大正15年)に建てられた【安田講堂】は、
およそ100年経った今でも、東京大学のシンボルとして健在です。
(安田講堂での音楽会の話に続きます~)