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オホーツク海に沿って

2015-10-12 17:08:19 | 自転車でコスモスの島へ

 

 オホーツク海に沿って自転車を進めて行くと、朝陽が明るく照らす海に、小さな漁船の姿が見えていました。

 

 

 オホーツクの海は静かに広がり、細紐のような波が磯部を縁どっていました。

 

 風のそよぎさえも聞えない朝の道に、小鳥達の声が響いていました。

 

 

 沖の小島にウミウが8羽、朝餉の後の寛ぎにひたっています。

 

 

 しかしやがて、道の先に丘が現れ、その後ろに丘陵地帯を控える場所に差し掛かって、登り坂が始まりました。

 

 

 昨日、稚内方面から眺めた、白い風車が並ぶ宗谷丘陵の中に入って来たようです。

 

 

 地中の水分が凍結融解を繰り返すことで形成された、周氷河地形と呼ばれる、独特の稜線と谷が海の際まで続いていました。

 

 

 標高が100mあるかなしかの丘陵地帯を越えて、道は続きます。

 

 

 道路の横に、電信柱ほどの高さで、下を向いた矢印のようなものが見えています。

 

 これは、冬になって、一面の雪野原となったとき、道路端を車に教える為の標示物です。

 

 この道も40年程昔、何度も仕事の車で通りましたが、流氷がオホーツクに広がる季節は、丘も海も、全てが白一色の世界でした。

 

 

 緩い丘を登り、緩い丘を下って道は南下します。

 

 

 

 宗谷岬を出発してから休みなく自転車を進め、知来別(ちらいべつ)で初めて小休止を取りました。

 

 バス停前の縁石に座り、荷物に潰れてぺしゃんこになった大福餅を頬張りました。

 

 

 それにしても、見事な青空です。

 

 

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日本最北端 宗谷港の「てっぺんドーム」

2015-10-12 10:36:10 | 自転車でコスモスの島へ

 

 9月16日

 

 宗谷岬先端の、漁港の芝生に張ったテントの中で朝を迎えました。

 

 

 テントを張った宗谷港には、平成16年度に完成したユニークな親水護岸「てっぺんドーム」があります。

 しかし、その存在はあまり知られてはいないようです。

 

 上写真の左手に、二層構造の「てっぺんドーム」が写っています。

 但し、逆光なので少々判り難いかもしれません。

 

 「てっぺんドーム」は日本最北端の港のドームなので、てっぺんの名を付けたのだと思います。

 二階が展望台で、一階部分は漁業活動を想定した岸壁となっていました。

 

 

 展望台に登りますと、海から登る朝陽に照らされ、全身に血が巡り始るような感動を覚えました。

 

 

 振り返れば、展望台へと通じるスロープ越しに、宗谷岬の民家や灯台などが朝陽に照らされていました。

 

 

 殆どの船が漁に出払ってしまった後の朝の漁港は、すっからかんとした光景を見せています。

 

 

 展望台からの階段を下りて行くと、港の北側が壁となったドーム状の護岸が続いていました。

 

 朝の漁を終えた漁船はここで、水揚げ量日本一を誇るミズダコを陸揚げするのでしょうか。

 

 

 一匹の瘦せこけたキタキツネが、昨晩からテントの周囲を徘徊します。

 

 しかし決して、餌は与えませんでした。

 

 漁船が帰えればきっと、新鮮な雑魚に恵まれると思います。

 

 

 朝日に包まれた宗谷港に別れを告げ、国道238号線へとべダルを踏み出しました。

 

 

 

 昨日出会った若者達に教えてもらった日本最北端のコンビニ以降、全てのものに「日本最北端」の形容詞が付されています。

 

 日本最北端のガソリンスタンドが朝陽に輝きます。

 

 

 日本最北端の宗谷郵便局前を通過します。

 

 

 そしてこれが「日本最北端の学校」の栄光に輝く、稚内市立大岬小学校です

 

 

 そして少しずつ、日本最北端に別れを告げて、南へと走り進みました。

 

 

 

 

 

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人生100年の自転車旅 宗谷岬にて

2015-10-12 00:22:11 | 自転車でコスモスの島へ

 

 岬への途中で、「間宮林蔵渡樺出港の地」の石碑を目にしました。

 

 過去に何度もここを通りましたが、今まで気づきませんでした。

 

 間宮林蔵は文化5年(1808)4月、郷里から持ってきた墓石をこの海岸に建て、樺太探検に出発して行ったそうです。

 

 同年7月に再度樺太に赴き、樺太が島であることを確認し、その時作成した地図がシーボルトによって紹介され、樺太と大陸の間が「間宮海峡」と命名されました。

 

 

 そして私は愛車「ロシナンテ」にまたがり、16時24分、宗谷岬に無事辿り着くことができました。

 

 

 何とかなるとは思いましたが、本当に何とかなるものです。

 

 学生の頃に比べ、今の体力は6~7割程でしょう。

 

 しかし当時に比べ、気力、精神力、経験値、判断力で格段の差を実感しました。(しょせん当社比ですが。)

 

 人生100年の自転車旅は、サミュエル・ウルマンの「青春とは」の言葉

 

  青春とは人生のある期間ではなく心の持ち方を云う。
  ・・・
  たくましい意志、ゆたかな想像力、燃える情熱をさす。
  青春とは人生の深い泉の清新さをいう。

  青春とは臆病さを退ける勇気、
  安きにつく気持を振り捨てる冒険心を意味する。
  ・・・
  年を重ねただけで人は老いない、理想を失うとき初めて老いる。
 

  60歳であろうと16歳であろうと人の胸には、驚異に惹かれる心、
  おさなごのような未知への探求心、人生への興味の歓喜がある。
  ・・・
  人から神から美・希望・喜び・勇気・力の霊感をうける限り君は若い。

  ・・・頭を高く上げ希望の波をとらえる限り、

  80歳であろうと人は青春にして已む。 

 

 を噛みしめる旅となりました。

  

 

 宗谷海峡を挟んだ海の向こうに、樺太が見えていました。

 

 間宮林蔵があの島に渡った頃、伊能忠敬は人生50年と言われた歳で隠居し、そこから天文学を学び、74歳で没するまで、日本中を歩き巡り、地図を作り続けました。

 

 宗谷岬で私は、今から200年以上も前に、第二の人生を50歳でスタートさせ、「心の欲するところに従って」余生を全うした偉人を思いました。

 

 

 

 伊能忠敬と同様に、私には忘れられない方がおられます。

 

 その方は脇坂順一さん。

 

 脇坂さんは久留米大学の教授で、アフリカのシュバイツァー博士のもとで医療活動などに尽力さました。

 

 脇坂さんは登山家としても有名で、久留米大学の名誉教授になられてから、世界の峰々に挑戦し、満70歳の古希の日にマッターホルン10登を果されています。

 

 その登頂を契機として出版されたのが、以下の「七十歳はまだ青春」です。

 

 私は脇坂さんの日本百名山走破のお手伝いを頼まれ、大雪トムラウシ山のガイド役として、昭和59年にご一緒させて頂きました。

 

 その後脇坂さんは75歳でもマッターホルンに登り、海外100登頂達成。80歳でモンブランに登頂、85歳で200回目の海外登頂に成功し、2003年に89歳でお亡くなりになるまで、山に登る人々に勇気を与え続けてくれました。

 

 

 私は伊能忠敬や脇坂順一さんのような訳にはいきません。

 

 しかし、人生100年を平々凡々に終えたとしても、十分に感謝すべきことを教えて頂きました。

 

 還暦を過ぎ、何かを為せれば幸いですが、例え結果を残せなくとも、「心の欲する所に従って矩(のり)を越えず」活き活きと愉しく、意のままに、自然体で過ごすことが人生と、先人達に教えて頂きました。

 

 人生100年、今の日本人は人類未経験の、未踏峰からの景色を望められるようになりました。

 

 その頂きまで、100歳までの道をどう進むべきかの問いに、人の目や評価に惑わされず、心の欲する所に従って、青春という時期に求められる、自らの力で道を拓く勇気と気力が・・・、

 

 つまり結局、100歳まで生きたとしても、人それぞれの生き様は、年齢とは関係ない話なのです。

 

 

 

 宗谷岬に夜の帳が降りようとしています。

 

 地球が生まれてから46憶年。人類が誕生してから14万年。

 私が生をうけてから、たった64年。

 

 今日も平穏に日が暮れてゆきます。

 

 

 

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