岬への途中で、「間宮林蔵渡樺出港の地」の石碑を目にしました。
過去に何度もここを通りましたが、今まで気づきませんでした。
間宮林蔵は文化5年(1808)4月、郷里から持ってきた墓石をこの海岸に建て、樺太探検に出発して行ったそうです。
同年7月に再度樺太に赴き、樺太が島であることを確認し、その時作成した地図がシーボルトによって紹介され、樺太と大陸の間が「間宮海峡」と命名されました。

そして私は愛車「ロシナンテ」にまたがり、16時24分、宗谷岬に無事辿り着くことができました。

何とかなるとは思いましたが、本当に何とかなるものです。
学生の頃に比べ、今の体力は6~7割程でしょう。
しかし当時に比べ、気力、精神力、経験値、判断力で格段の差を実感しました。(しょせん当社比ですが。)
人生100年の自転車旅は、サミュエル・ウルマンの「青春とは」の言葉
青春とは人生のある期間ではなく心の持ち方を云う。
・・・
たくましい意志、ゆたかな想像力、燃える情熱をさす。
青春とは人生の深い泉の清新さをいう。
青春とは臆病さを退ける勇気、
安きにつく気持を振り捨てる冒険心を意味する。
・・・
年を重ねただけで人は老いない、理想を失うとき初めて老いる。
60歳であろうと16歳であろうと人の胸には、驚異に惹かれる心、
おさなごのような未知への探求心、人生への興味の歓喜がある。
・・・
人から神から美・希望・喜び・勇気・力の霊感をうける限り君は若い。
・・・頭を高く上げ希望の波をとらえる限り、
80歳であろうと人は青春にして已む。
を噛みしめる旅となりました。

宗谷海峡を挟んだ海の向こうに、樺太が見えていました。
間宮林蔵があの島に渡った頃、伊能忠敬は人生50年と言われた歳で隠居し、そこから天文学を学び、74歳で没するまで、日本中を歩き巡り、地図を作り続けました。
宗谷岬で私は、今から200年以上も前に、第二の人生を50歳でスタートさせ、「心の欲するところに従って」余生を全うした偉人を思いました。
伊能忠敬と同様に、私には忘れられない方がおられます。
その方は脇坂順一さん。
脇坂さんは久留米大学の教授で、アフリカのシュバイツァー博士のもとで医療活動などに尽力さました。
脇坂さんは登山家としても有名で、久留米大学の名誉教授になられてから、世界の峰々に挑戦し、満70歳の古希の日にマッターホルン10登を果されています。
その登頂を契機として出版されたのが、以下の「七十歳はまだ青春」です。
私は脇坂さんの日本百名山走破のお手伝いを頼まれ、大雪トムラウシ山のガイド役として、昭和59年にご一緒させて頂きました。
その後脇坂さんは75歳でもマッターホルンに登り、海外100登頂達成。80歳でモンブランに登頂、85歳で200回目の海外登頂に成功し、2003年に89歳でお亡くなりになるまで、山に登る人々に勇気を与え続けてくれました。

私は伊能忠敬や脇坂順一さんのような訳にはいきません。
しかし、人生100年を平々凡々に終えたとしても、十分に感謝すべきことを教えて頂きました。
還暦を過ぎ、何かを為せれば幸いですが、例え結果を残せなくとも、「心の欲する所に従って矩(のり)を越えず」活き活きと愉しく、意のままに、自然体で過ごすことが人生と、先人達に教えて頂きました。
人生100年、今の日本人は人類未経験の、未踏峰からの景色を望められるようになりました。
その頂きまで、100歳までの道をどう進むべきかの問いに、人の目や評価に惑わされず、心の欲する所に従って、青春という時期に求められる、自らの力で道を拓く勇気と気力が・・・、
つまり結局、100歳まで生きたとしても、人それぞれの生き様は、年齢とは関係ない話なのです。
宗谷岬に夜の帳が降りようとしています。
地球が生まれてから46憶年。人類が誕生してから14万年。
私が生をうけてから、たった64年。
今日も平穏に日が暮れてゆきます。
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