須永博士美術館スタッフブログ

熊本県阿蘇郡小国町にある、須永博士美術館。スタッフ佐藤から様々な情報をお伝えします。

須永博士の人生①【誕生~中学生】

2025年02月03日 | 須永博士の人生

今日は立春ですね。

来週、2月11日に83歳の誕生日を迎える須永博士です。

東京生まれの須永博士が50歳の時に、ここ熊本県小国町に出逢って1998年に須永博士美術館をつくってから27年になり、多くの方が全国各地からお越しくださってきました。

全国各地の旅と展覧会、講演会をして人の前で自分の人生を語ったり、目の前の人に心打つ詩を書き続けてきた人生で、語られてきたこともありますが、あまり話すこともなかったこともあり、

昨年3月に沖縄へ講演会に行くことを機に須永博士の旅や出逢い、そして私が須永博士から聞いた事、ファックスや手紙で教えてもらってきたことをまとめた本、

「生きる力をあなたへ」というタイトルで作りました。

その中に掲載しました自叙伝を、今日から数日に分けて紹介いたします。

 

【須永博士誕生~】

昭和17年2月11日 東京下町で小さな写真屋を営む父・実(みのる)と、母・静枝の長男として生まれました。

 きょうだいは、いません。

一人息子の自分を母は大切に、大切に育てました。

それが生き甲斐でした。

父は大酒のみで、家業の写真屋が軌道に乗っていたこともあり、そのお金で外で飲み歩き、

家ではいつも酔っ払っていた記憶が多くあります。

 父と母が楽しそうにしている姿は見たことがなく

笑顔のない家の中で、母は自分に全愛情を注いで守られるように毎日を過ごしました。

今はっきり言えるのは

 「母の過保護」

でした。
いつもそばにいて、


 「これをしなさい」
 「この子と遊びなさい」
 「これはダメ」


と、ピッタリくっついていました。


 母は、帝王切開での出産で腸が癒着しよく寝込んでいた記憶があります。

 

【第二次世界大戦による疎開】

昭和20年 3歳のころ第二次世界大戦の影響で母の親戚がいる千葉県茂原市へ疎開しました。

父は東京に残り、戦地の記録を撮るカメラマンをしていました。

親戚の家は精肉店を営んでいて、肉牛を育てていました。

朝早くに叔父に牛小屋へ連れて行ってもらい仔牛に乳をあげたり

親牛に餌をあげたりするのがとても楽しかった記憶があります。

田舎での疎開生活は自然に囲まれていて川や田んぼでザリガニやドジョウを泥だらけになりながら

捕まえたりして遊んでいました。

その年の夏、日本は敗戦となり昭和21年に母と東京に戻りました。

父と母と自分の3人の生活がまた始まりました。

【小学生】

昭和23年春 小学校へ入学。

小学校では、勉強がきらいでした。根本的に「なんで勉強しなければいけないのか」が分からず、

「なぜ難しいことや意味の分からないことを覚えなければいけないのか」そう思って、まったくしませんでした。


 遊びはべーゴマや、どんちっぱ、くぎさし それと、やっぱりいろいろな絵を真似して、マンガを描くのが好きでした。

身体はあまり強くなく、性格もおとなしいほうだったと思います。

ともだちは、いたけれど「なんとなく」一緒にいて「なんとなく」遊んでいた感じでした。

それなりに家に友達を連れてきたりもしましたが、母が「あの子はどこの家の子なの?」「親は何をしているの?」と聞かれるのがとてもイヤでした。

友達を連れてくると喜んだ母は、いつも必要以上にたくさんお菓子を出すので、それを目当てにうちに来ていたのではないかとも思いました。

【中学生】

昭和29年春   中学校に入学

 「また、退屈な学校生活が始まるなぁ・・・」と思っていた中学1年生の始まり。全校マラソン大会があり、思

いがけず学年2位に。

「お、やればできるじゃん。」

と自分でもおどろき、その勢いで陸上部に入部。野球も好きだったけど、野球部が無かったので陸上部に入部しました。

長距離が好きで、800mと1500mの選手になり、3年生の時には荒川区の中学連合体育大会で800mで優勝しました。

自分の活躍を母も一番喜んでいました。でも、期待が大きく膨らみすぎていました。

 3年生の時、マラソンの大会があり全校で6人選ばれる選手の選考に落ちたとき、学校に母親が文句を言いに行ったのです。

自分では、「マラソンは自分に合わないな。800mが走りやすい。」と思っていたので選考に落ちたことも納得していたのですが、

母は期待しすぎていたのです。

 そんな事件もありましたが、3年間、陸上を続けられたことは自分自身の大きな自信に繋がりました。

 中学時代の性格は小学生の頃と変わらすおとなしいまま。

ともだちも「なんとなく」。走ることと、絵を描くことは一生懸命にできるけど、

そのほかのことは本当に、「ただ、何となく・・・・。」すごしてました。

友達といるときは笑ったりそれなりに会話をしていたけれど、自分から何か行動に

移すようなことはせず目立たない、 特徴の無い子供だったと、自分では思います。

高校受験は、特に行きたい高校も無く、担任の先生に勧められた高校を受験することに。

 「君の成績ならこの学校が良いでしょう・・・。」といわれるままに。

1校落ち、合格したもう1校へ「まぁ、いいか。」というような気持ちで進学することにしました。


 

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