気の向くままに

山、花、人生を讃える

神様に「ありがとう」と言える幸せ

2013年11月15日 | 信仰

昨日、自分がすごく幸せであることに気がついた。

といって別に大げさなことではないのだが、夜寝しなに簡単な神想観の後、「(神さま)ありがとうございます」を唱えていたら、要は、健康で、働く仕事もあり、住む家があり、不自由なく生活できるお金もあり、車もあり、テレビもあり、パソコンもあり、生活用品の一切がそろっていて、仕事の後には菓子をつまみながらコーヒーを飲む楽しみな時間があり、好きな本を読む時間があり、目指す夢があり、神がいて、知人がいて、似たもの夫婦の家内がいて、何の不自由不足もないことに気がついたというわけです。

まあ、ここにあげた程度のことは現代の日本人には珍しいことではないが、しかし、気がついて見れば、何の不自由も不足もなく、あることといったら、反対に楽しみなことばかりではないか。

それなのに、いままで、いったい何を不足のように感じていたのだろうか、ちょっと不思議だ。

 

ここまで書いて思いだしたのだが、昔、飛田給練成を受けた時、徳久先生がこんな話をされた。

「笑っている時、笑っているのは顔だけでなく、全身が笑っているんですよ。皆さん、針で足の裏をちょっと突っついてごらんなさい、痛っ!となるでしょ?足の裏を突いたんだから、足の裏だけが痛くてよさそんなもんなのに、全身が痛っ!となりますね。これとおんなじで笑っている時は、全身の細胞が笑っているんですよ。」

と、まあこんな話だったのだが、これとは少し違うが似たようなものだろう。
他のすべてが満たされているのに、ときたま現われるちょっとした小さなこと、思いどおりにならなかったことに気をとられ、不平を起こし、そのことに、また、自分のいたらなさを思って、自分への不満を感じたりする。

だが、本当はこんなにも幸せであったのだ。                                                                        恵まれた環境、そして、あるのは日々の楽しみだけ。                                                         時折の不満に思うような事柄も、実は生活の味付けである塩、胡椒のようなものだったのだ。

 

だが、ちょっと待てよ。ここまで書いたことだけでは、なにかまだ足らない気がする。
そうだ、こんなに恵まれた生活も、やっぱり神がいなかったら味気ない。神様に「ありがとうございます」と言える、幸せ。                                                          神がいて、神様に「ありがとう」と言える幸せだ。

 

         ≪窓からの朝焼け≫

      

     寒くなるにつれ、朝の光は一段とうれしいものだ。思わず顔もほころぶ。

 

       ≪幸せを運ぶ道具たち≫

     

剪定の仕事をするようになるとは思いもしなかったが、道具を見ていると、いかにも剪定職人になった実感がわいてくる。それとともに、幸せ気分になってひとりでに顔がニンマリになる。自分が剪定を仕事にしていることが不思議だ。

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