気の向くままに

山、花、人生を讃える

花からの暗示

2013年11月18日 | 信仰

「生長の家」では人間本来罪無しと教えられている。                                                                             そして、きっとそれは真実であるに違いないとわたしは信じている。そう信じてはいるのだが、しかし、「神の完全円満ないのちだから罪無し」と観念的には考えられても、じゃあその罪なきいのちとはどんなものかと想像を働かしてみても、具体的に想像することができず、最近までのわたしにはなんのイメージも湧いてこなかった。

今年の4月1日、足慣らしで近くの山へ登ったときに、バイカオウレンという白い小さな花が咲いているのを見つけた。珍しい花ではないが、この山で見たのはこの時がはじめてで、まだ咲いたばかりのときだったせいか、本当に花の妖精を見るような特別な感銘を受けた。

そして、その花に見入っている時、「混ざり気がない」「穢れがない」「汚れようがない」「真っ白」「純白!」という言葉を連想し、「本来罪なき実相のいのち」とはこんなものか、と思った。

それからは、神想観で「神の無限の生命の海なり、神の無限の生命の海なり」と念じるとき、この花を見た時の印象を思い浮かべ、罪なく、病なく、汚れようにも汚れようのない、穢れようにも穢れようのないいのちをイメージするようになった。

それは言って見れば、真っ白な花の色であり、澄んだ谷川の水であり、そこから花や谷川の形を取り払ってしまって、そのイメージだけが残ったもの、それが空気のように自分の周りに満ち満ち、また生命の河となって流れている。そして、最終的には呼吸と共にそのいのちを吸いこんで、自分のいのちも、それと同じいのちである、と、今はそんな感じで神想観をしている。

ただ、いつもこのようにはっきりイメージできるわけではないし、すでに、当初の頃の印象も薄れかけている。それでもこのように「本来罪なきいのち」をイメージできるようになったのはうれしい。それは普段自分が思っている自分とはまた別の「自分」である。

言葉にすると誇大になってしまうが、心の中に「罪なく、病なく、汚れようにも汚れようがない!」そんな看板が掲げられているような感じで、それが自分の中では合言葉のようになっている。

 

ところで、最近、谷口雅春先生の『愛と光の生活』を読み始めた。                                                    その中には、「凡てのものがあなたに話しかけている」という小見出しがあって、こんなことが書かれていた。

○同じ花でも、朝日に照り輝いている花は暖かいうれしい感じを与えます。それはその花が「暖かい、嬉しい」と私達に話しかけているのです。雨にぬれている花は悲しいしょんぼりした感じを与えます。それはその花が「雨にぬれて悲しい」と語っているのです。

○すべてのものはカーテンでも、テーブルでも、本の表紙でもみんな何かを話しかけているのです。あなたたちはそのコトバをきいているのです。そのコトバが知らず識らずあなたの心に應へて、あなたの心を動かすから、あなたは何を見ても、そのものから一々別な感じを受けるのです。此の「知らず識らずあなたの心に應へるコトバ」を暗示というのであります。

○聲を出さないものでも、吾々に常に何かを話しかけている。このことを知らない人は折角ひろい世界を狭く生きている人であります。聲あるコトバだけを聴いて、聲なきコトバを聴くことの出来ない人は、半分の聾(つんぼ)です。

 

「半分の聾(つんぼ)です。」というところには、ちょっとピックりしたが、もしかして花に見入っている時、勝手に自分が連想したのではなく、知らず識らずのうちに花と自己同一して、花と無言の会話をしていたとしたら、嬉しいことだ。
このあと、『愛と光の生活』にはこのようなことも書かれていた。

 

○もし、皆さんの部屋の飾りものがみんな明るく楽しいものばかりでありましたならば、あなたはその部屋にお入りになることによって、明るい楽しい気持ちになって、愉快な歌でも歌いたくなるでしょう。それはその部屋の飾り物が「私は明るいんです。私は楽しいのです。私はとても愉快なのです。一つ一緒に楽しくなろうではありませんか。楽しい歌を歌おうではありませんか」と聲なきコトバで話しかけるからなのです。

 

バイカオウレン(梅花黄連)  4月1日撮影 

 

コメント
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