気の向くままに

山、花、人生を讃える

心配無用

2013年12月21日 | 信仰

少し長いが、谷口雅春先生著『愛と光の生活』(日本教文社)からの抜き書きです。

○考えて見ると吾々を「肉としての人間」と自覚する限り死刑の宣告を受けた死刑囚と同じであります。・・・・・生活難も何もないのに、ただ「自分は死刑囚だ」と考えるだけで苦しいのであります。釈迦もその苦痛を脱するために家出せられた。父王の嘆きも顧みる暇がなかったのであります。それは人間を肉の方から見たらまさにその通りであります。ところが人間は肉ではないのだ。その中に宿っているところの不滅の理念こそ人間である。「内に宿るキリスト」「一切衆生悉有仏性」の其の「仏性」こそ本当の自分である。その仏性が仏性たらんとして慈悲を行ずるために此の世に生まれて来たのが出生であり、また「父と子」の理念を実現するために生まれて来たのが出生であると云うことが判るならば、はじめて親孝行の心が油然(ゆうぜん)と湧き出て来るのであります。吾々の本当の親は神様でありますが、その「親と子が一体である唯一神の理念」が現実になるためには現実の親と現実の子が地上に顕れねばならない。父母ありしがために、神のいのちが地上に神性受胎を実現するところの機縁が与えられたのであります。                                                                                 例えば宇宙には空中電気が充満しているのですけれども、それが陰陽に分かれて再び結び合って呉れたので、はじめて空中電気が熱エネルギーとなり、光となり動力エネルギーとなって働きを顕して呉れるようなものであります。 P127

○われわれは宇宙に満つる「神の生命そのもの」であると云っても、「仏性即自分」であると云っても、それが実現するためには陰陽の結びを必要とするのであります。父母陰陽の結びと云うものは、吾々「仏性」なる自分が神聖受胎する神聖なる機縁を与えて下さったのであります。これが父母の愛であります。斯う観じて来ますと、父母の恩が海よりも深く山よりも高きことが判って来るのであります。吾々は親の肉体本能のために犠牲になったのではなく、親の愛が、愛の念波が、宇宙普遍の生命――仏性――を引出してここに神聖受胎せしめられたのであります。決して親の「無明」によって、十二因縁をたどって人間は受胎したのではありません。 P128

 

いやあ、すばらしいなあ。(素晴らしい芸術品を見ているような思い)

ほんと、思想の芸術だなあと思います。

これを読んで、感銘と共にはじめて「なぜ親孝行しなければならないか?」その意味が分ったような気がしました。

 

わたしは今シアワセな日々を送っていて、「こんなことなら今まで何にも心配することなどなかった。心配は全部無駄だった」と、時々思ったりします。                                                                                                                                          心配したことがが無駄になったのなら、「ああ、良かった」と喜べばいいようなものですが、おかしなもので、損したようなを気分になるのです。だから、これからは心配などしないで、もっとゆったりと楽しく生きようと思います。

「退行催眠」治療の記録が書かれた本を読みますと、本に書かれている範囲でのことですが、生まれ変わりの回数が20回前後と云う人が多いようです。それで仮に20回生まれ変わっているとすると、普通の臨終は5回ぐらいで、あとの15回は、いわゆる不幸な死という、ざっくばらんに言うとそんな程度の割合になると云う記事を読んだ記憶があります。この割合はともかく、誰でも過去に何回かは飢饉による飢え死にとか、疫病などの流行り病や個人的な病死、地震や津波といういわゆる天災、あとは紛争とか戦争、個人的な争いなどで死んでいると思ってまちがいはなさそうです。

とすると、わたしも例外ではなく、何度かは世間で言ういわゆる不幸な死を経験していることになります。しかし、過去にどんな不幸な死に方をしているにしても、今、こうして幸せに生きています。それを思うとなんだか不思議な気がするのですが、それとともに、ここでもやっぱり心配するだけ損だなということを思ったりします。

それに、周囲の人は、非業の死をとげた人を見て「気の毒に」と思うかもしれませんが、本人はきれいな花園の中を気持ちよさそうに歩いているかもしれません。

それからしばらくすると、この下の写真のように生まれ変わって来るわけです。                                 そして、まわりの人たちから、                                                                      「わあ、かわいい!」「笑った、笑った」と、まるで、天使が笑ったかのようにうれしそうにはしゃがれます。

 

どうですか、この笑顔。                                                                             まさに、天使のいのちを宿した顔ではありませんか!

 

だから、肉から見れば、生まれて死ぬ、それだけのこと。                                                  そして内から見れば、                                                                            ○仏性が仏性たらんとして慈悲を行ずるために此の世に生まれて来たのが出生であり、また「父と子」の理念を実現するために生まれて来たのが出生である。

というわけで、これからも心配はやめましょうと、またまた思ったことでした。

有り難き哉、神性受胎!

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