1ヶ月もブログをお休みしていたら、さて何か記事を書いて更新しようと思っても、これといって書きたいことが思い浮かんで来ない。それで何か思い浮かぶことがあるかと思い過去記事を読んでいたら、下記のようなものが出て来ました。6年前のものですが、訪問してくださる方もその頃とは違うと思うので再アップさせてもらいます。読んでいただければ幸いです。
≪とんでもない誤解≫
人間は誰でも寛大になりたいのであって、狭量になりたいなどと思っている人はいないはずだと思うのだが、不思議なことに、世界には自分たちが崇めている神を、人間が神様の気にいらないことをしたら怒って罰を当てるなどと信じている人がたくさんいるらしい。
人間だって良い親なら子供に寛大であるはずで、もし、子供に怒ってしまったら、親として情けなくなるのが普通ではないかと思う。もちろん、怒らなければならない時もあるだろうが、しかし、どんな親でも子供に罰を与えたいとは思わないだろう。その癖、神様は罰を当てるものだと信じている。そして一方では、神は愛だという。考えて見れば不思議なことだ。神を信じていない人でさえ、なんとなく神様をそんなイメージで見ているようだ。
ニール・ドナルド・ウオルシュ著の『10代のための神との対話』という本の中で、「私は裁かない」と神が言うと、オスロの13歳の少女がびっくりしたように、こう答えている。
「神が裁かないですって?それが神様のすることだと思ってたわ!」
わたしも生長の家の教えを知るまでは、神がいるとは思ってなかったが、それでも、ばくぜんとした神のイメージがあって、そのイメージはこの少女と同じようなものだったと思う。だからこの少女が口にしたことは、実に素直だと思うし、とても共感できる。
「神ははたして人を罰するのか、それとも、全然そうではないのか?」
多くの人にとって、こんな疑問はどうでもよいかもしれないが、まあ、神様の言い分をちょっとだけ聞いてやって下さい。
これからいうことは、ニール・ドナルド・ウオルシュ著の『神との対話』シリーズの中で書かれていたことですが、まあ、こんなようなことを言っています。(いい加減な記憶ではありますが、大きな間違いはないはず)
○わたしは何人も罰したりはしないし、裁くこともない。人間は「悪いものは罰しなければならない」という考えに捉われていて、その考えをわたし(神のこと)にあてはめて「神は罰する」ものだと考えはじめた。この考えは、神を信じていない人たちにも広く浸透している。そして、さらにそこから、自分と考えの違う者を殺りくしてもよいと正当化するようになり、殺戮を神の意志だというものまで現われた。人類は長い歴史の中で幾度もそんなことを繰り返してきた。そんな歴史の繰り返しに終止符を打ちたいなら、神が人を裁いたり罰したりするという、あなたがたの神に対する信念を変える必要がある。
いやあ、これが本当なら、たかが迷信などと笑っておれないですね。
ちなみに少女が「神が裁かないですって?それが神様のすることだと思ってたわ!」に対し、神の返答はこうなっています。
神:人間は長い間、ずっと、そう思ってきたね。でも違うんだ。それは真実ではない。それは大きな「誤解」の一つだ。あなたがたの思い違いなんだよ。「裁き」があるという幻想、そして、それは「非難される」という幻想につながっていく。『聖書』にも、「裁くなかれ、非難するなかれ」と書いてあるのにね。
≪補記≫
聖書のマタイ伝にはイエス・キリストの言葉として次のように書かれています。
○天の父はその日を悪しき者のうえにも、善き者のうえにも照らし、雨を正しき者にも、正しからぬ者にも降らせ給うなり。 (マタイ伝 第五章 四十五節)
また、親鸞聖人にはこんなふうに言っています。
○大悲倦(あ)くことなく我を照らす。
「大悲倦(あ)くことなく我を照らす」、いいですねえ。この言葉を思い出すだけで神の愛に包まれている気がしてきます。
≪今回の追記≫
神罰はなくとも、人間は自分自身、気がとがめるようなことをすると、自分は悪い奴という観念が働いて、それによって自分自身を罰したりしやすいので、神罰はなくとも、できるだけ気がとがめるようなことをしないで、反対に、自分を褒められるようなことをすることが、運命をよくする秘訣なようです。
神との対話〜何回か手に取ったのですが
熟読しないままでした。
立ち読みした時
谷口雅春先生のお話みたいと思いました。
suzuhideさんのお話を
読むと気持ちが明るくなります。
お疲れ様でした🍀
コメントありがとうございます。
この話が分かりやすいといっていだけて良かったです。
『10代のための「神との対話」』では、例えばどんな罪深いことをした人でも、
どうして彼がそんなことをしたのか、神は余りに彼のことを理解しすぎている。
だから神罰など与えることができないのだ、と話していました。
私はここを読んだとき、「わあ、凄い!」と思いました。
こんな話を聞くと、ますます神様が好きになってしまいますよね。(笑)
>谷口雅春先生のお話みたいと思いました。
そうですね、私もそう思います。
もし違っていたらこんなに読まなかったと思います。
なのでどちらも大好きで、どちらも手放せない愛読書という感じです。
ところでriraさんの英語の恩師と言う方は、どんな人だったのですか。
きっと素晴らしい先生だったのでしょうね。
何か聞かせてもらえたらありがたいです。
私の勝手な『神』の解釈は
人間が何をしようと、ただ見ていてなにもしないと言う存在だと思います。
悪いことをしようが良いことをしようが。
『神』に感情はあるのかさえわかりませんが。
人間が『神』の子なら愛情はあるのでしょうか。あると良いな~(*´▽`*)
母に見せたら「この教えは知っているわ。
何もあげるものがなくても
笑顔は一番の贈り物!と言ってるのを知ってるで」
と教えてくれました。
母が病気になった時、E先生に言ったら
「心の眼でお母さんの実相を見なさい」と
教えてくれました。
子供ができたら、谷口先生 鹿沼先生 徳久先生の本を
紹介してくれました。その本は
問題児は優秀児!心眼で実相を見る事を記していました。
先生には今も時々電話して、感謝を伝えています。
ご高齢ですが、若々しく頭脳明晰で
どんな目にあっても不安を持たない明るい
スーパーウーマンです。
ありがとうございます🍀
Mocamocaさんの神のイメージ、よくわかる気がします。
本当かどうかはわかりませんが、「神との対話」によれば゛、
神は自分の愛ぐし児である人間に、誰の奴隷にもならず自由で自主的な存在であることを願っているそうですから、その神が、人間に対して、こうせよ、ああせよと指図することも強制することもないし、また人間が苦しまないように強制的に助けることもないそうです。人間の中には、自分の犯した罪滅ぼしの為、苦しむことを望んでいる人もたくさんいるそうですよ。
だからmocamocaさんの言うように、「悪いことをしようが良いことをしようが」、
神は何もせず、見ているだけというのは正解かもしれません。
でも、「だから、神は私たちを助けることはない」と言うと、それは違うと思います。
私は何度か困った時の神頼みで助けられた経験がありますし、
めったに人に放せないような不思議体験もあります。
あいつ頭がおかしいと思われそうな。(笑)
>『神』に感情はあるのかさえわかりませんが。
勿論、私もわかりませんが、人間にしても、神にしても、機械ではなく、
生きたいのちであれば、感情があると考える方が自然ではないでしょうか。
といっても、確かめようもないですね。
>人間が『神』の子なら愛情はあるのでしょうか。あると良いな~(*´▽`*)
この願いは、私もまったく同感で~す。
ただ、神が言うには、「あなたの本質は愛である」と言うのだから、
これは絶対間違いないと、そこに希望をもっているのですが・・・。
もし、そうでなかったとしても、希望をもって生きられただけ得、
ということでどうでしょうか。(笑)
神の話になって、つい長くなってしまいました。どうもすみません。
何もあげるものがなくても、笑顔は一番の贈り物!
なんて、こんな言葉を憶えていて、すぐ口に出せるおかあさん、すてきですね。
徳久先生、鹿沼先生、どちらも本当に素晴らしい先生で、懐かしいし、
E先生もriraさんのよき相談相手であり、
また優しく親切な先生だったことがお話から伝わってきました。
今も時々電話されているとのことで、これもまたいいお話で、
どれも心温まるお話をきかせていただき、ありがとうございました。
全く知らなかったriraさんからこのような話を聞くのが不思議な感じですが、
同時に、ご縁があってとても嬉しく感じます。ありがとうございます。