気の向くままに

山、花、人生を讃える

解放のとき

2009年04月20日 | 人生
うららかな晴天の日曜日。
まさに山日和ですが、残念ながら、娘が来るというので自宅待機でした。

娘が来ると、見事な蘭の鉢植えを手にしていて、還暦祝いのプレゼントだとのこと。
デンドロビュームという種類だそうで、レモン色が見事です。すっかり魅せられてしまいました。
それにしても、男にとって娘はいつまでも花のような存在ですね。

ちなみに、のんびりと家にいる次男坊は、気のない口調で「あ、そうお。おめでとう」でおしまい。(笑)  ・・・いかにも、らしくて可笑しかったです。
わたしも、父の還暦のとき、「ふーん」でおしまいでした。

わたし本人はと言うと、いよいよ60歳になったか・・・という思いはあっても、それが還暦とはあまり結びつかず、「還暦?あ、そうお」という程度なもの。
ただ、60歳まではともかく大丈夫という、なんとない自信があったので、生命保険に加入しないできたので、まずはめでたし、めでたしと思っています。

ところで、女性は生まれつき「育てる、育む」という志向が備わっていて、いわゆる「愛」を持っているように思われるのですが、それに比べると、自分が例外なのかもしれませんが、男性は一般に自己中心的で、「自分の思うように」という志向で生きている気がします。
(他の男性の方違っていたらすみません。ちなみにわたしの血液型はO型です)。

もっと言えば、自分でもなかなか気づかないところに「支配欲」というようなものがあるのではないかという気がします。例えば「俺の言うことに従え!」というような。
少なくとも、自分はそうだったと今ははっきり言える。もちろん今でもたっぷりありますが。
そのことに気付かされたのは、自分が、多少なりとも開放されてからでした。

それから、開放されて気づいたのですが、「正しくあれ、清くあれ、男らしくあれ」と、何か外から強制されるようなものを感じていたように思います。純粋に内からの「かくあれ!」というものだったらいいのですが、そうではなく、外から、あるいは神からそれを要求されている・・・。そして、自分も他に要求するようなところが多分にあったように思います。

ところが、そうではなかった。
「ねばならぬがない教え」といわれている通り、外から強制するものは何もなかったのですね。
神様が書籍をとおして、そういう強制や縛りから解放してくれたのでした。

「わたしはあなたがたに何も要求していない。わたしが望むことはただ一つ。あなたがたの望むことが実現することだけだ。(その為に、言葉という道具を与えた)」

「わたしは、すべてのすべて。すべてがすでに備わっている。だから必要とするもの何もないし、何も要求するものもない」というわけですね。
で、わたしも神様に何も要求されていない。完全に自由。ただ、愛されている!
それが神様の愛だという。

ジーンときました。解放とともに神様の愛を感じ、涙がこぼれ落ちました。
初めて神様の「愛」を感じた瞬間でした。

うれしいですね。わたしたちは何者からも、何も要求されておらず、完全に自由なんですね。
どんな自分であろうと、ただ愛されている!

だから、わたしにとっての愛とは、まず、自分の接する人たちに「かくあれ!」と要求するのをやめること。できるだけ、無条件に「放つ」こと。それから、できればそういう神様の愛を、聞いてくれる人に話すこと。こういったことが、今のわたしにとっての「愛の基本」であるような気がしています。
ありがとうございます。

≪写真:ザゼンソウ≫
座禅しているように見えるから、ザゼンソウだそうです。
良くいく山に、ちょっと季節を変えて行ってみたら、この4月にやっと巡り合いました。
植物園で3月に初めて見たのですが、山では初めてでした。背丈はおよそ10センチほど。
コメント (2)
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