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魏志倭人伝(ぎしわじんでん):中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑 東夷伝倭人条の略称。
「俾弥呼(ヒミカ)」(古田武彦 著) 巻末資料2 倭人伝(紹煕本三国志)読み下し文
*ウイキ等に掲載されてるものとはだいぶ異なる
*文中(注)は当方。
*今後、文中の熟語などの(注)を、更に、随時、追加・補筆していく予定・・・。
(2017.7.9 第1回掲載)
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倭人(い(ゑ)じん)は帯方の東南大海の中に在り、山島に依りて国邑を為す。旧(もと)百余国あり、漢の時朝見する者あり。今使譯通ずる所、三十国。
郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓国を歴るにて、乍ち南し、乍ち東し、その北岸、狗邪韓国(コヤカンコク)に到る、七千余里。
始めて一海を度る、千余里。対海国(タイカイコク)に至る。その大官は卑狗(ヒコ)と曰い、副は卑奴母離(ヒヌモリ)と曰う。居する所絶島、方四百余里なる可し。土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿の径(ケイ)の如し。千余戸有り。良田無く、海物を食して自活し、船に乗りて、南北に市糴す。
(注)市糴(シテキ):(大字源)穀物を買い上げる (参考)市糶(シチョウ):(大字源)市場に売り出す米
又、南、一海を渡る。千余里、名づけて瀚海と曰う。一大国(イチダイコク)に至る。官を亦卑狗と曰い、副は卑奴母離と曰う。方三百里なる可し。竹木・叢林多く、三千許りの家有り。差(やや)田地有り、田を耕せども、猶食するに足らず。亦、南北に市糴す。
又、一海を渡る、千余里、末盧(マツロ)国に至る。四千余戸有り。山海に浜(そ)うて居る。草木茂盛し、行くに前人を見ず。好んで魚鰒を捕え、水深浅と無く、皆、沈没して之を取る。
東南陸行、五百里、伊都(イト)国に到る。官は爾支(ニシ)といい、副は泄謨觚(セモク)、柄渠觚(ヘコク)という。千余戸有り。世に王有るも、皆、女王国に統属す。郡使の往来、常に駐まる所なり。
東南、奴(ヌ)国に至ること、百里。官は兕馬觚(ジマク)と曰い、副を卑奴母離と曰う。二万余戸有り。東行、不弥(フミ)国に至ること、百里。官は多模(タモ)と曰い、副は卑奴母離と曰う。千余家有り。南、投馬(ツマ)国に至ること、水行二十日。官は弥弥(ミミ)と曰い、副は弥弥那利(ミミナリ)と曰う。五万余戸なる可し。南、邪馬壹国(ヤマイチコク)に至る、女王の都とする所、水行十日・陸行一月。官は伊支馬(イキマ)有り。次を弥馬升(ミマシ)と曰い、次を弥馬獲支(ミマカキ)と曰い。次を奴佳鞮(ヌカテ)と曰う。七万余戸なる可し。女王国自(よ)り以北、その戸数・道里、得て略載す可し。その余の旁国は遠絶にして、得て詳(つまびら)かにす可からず。
次に斯馬(シマ)国有り、次に巳百支(イハキ)国有り、次に伊邪(イヤ)国有り、次に郡支(グキ・クキ)国有り、次に弥奴(ミヌ)国有り、次に好古都(コウコト)国有り、次に不呼(フカ)国有り、次に姐奴(セヌ・ソヌ)国有り、次に対蘇(タイソ)国有り、次に蘇奴(ソヌ)国有り、次に呼邑(カイフ)国有り、次に華奴蘇奴(カヌソヌ)国有り、次に鬼(キ)国有り、次に為吾(イゴ)国有り、次に鬼奴(キヌ)国有り、次に邪馬(ヤマ)国有り、次に躬臣(クシ)国有り、次に巴利(ハリ)国有り、次に支惟(きゐ)国有り、次に烏奴(ウヌ)国有り、次に奴(ヌ)国有り、此れ、女王の境界の尽きる所なり。
その南、狗奴(コヌ)国有り、男子王為(た)り。その官に狗古智卑狗(ココチヒコ)有り。女王に属さず。郡より女王国に至る。万二千余里。
男子は大小と無く、皆、黥面文身す。古(いにしえ)自(よ)り以来、その使中国に詣(いた)るや、皆、自ら大夫と称す。夏后少康の子、会稽に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍の害を避けしむ。今、倭の水人、好んで沈没して魚蛤(ギョコウ)を捕え、文身し亦以って大魚・水禽を厭(はら)う。後、稍(やや)以って飾りと為す。諸国の文身は各(おのおの)異なり、或いは左にし、或いは右にし、或いは大に、或いは小に、尊卑差有り。その道里を計るに、まさに会稽、東冶(トウチ)の東に在るべし。
その風俗淫ならず。男子は、皆、露紒(ロカイ)し、木緜(綿)を以って頭に招(か)け、その衣は横幅、但結束して相連ね、略(ほぼ)縫うこと無し。婦人は被髪屈紒(クッカイ)し、衣を作ること単被の如く、その中央を穿ち、頭を貫きて之を衣る。
(注)紒:(大字源 🈩ケイ(漢・呉音)①ゆう。髪を結う。②さとくない 🈔ケツ(漢音)🈩①に同じ。 🈪カイ(漢・呉音)印のひも。)
禾稲(カトウ)、紵麻(チョマ)を種(う)え、蚕桑・緝績(シュウセキ)して細紵(サイチョ)、縑緜(ケンメン)を出だす。その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲(ジャク)無し。兵に矛・楯・木弓を用いる。木弓は下を短く上を長くし、竹箭は或いは鉄鏃、或いは骨鏃なり。有無する所は儋耳(タンジ)・朱崖(シュガイ)と同じ。
(注)縑(ケン):①かとり。かとりぎぬ。・・・ ②きぎぬ。 ③きぬ。
倭地は温暖、冬夏生菜を食す。皆、徒跣(トセン)。屋室有り、父母兄弟、臥息(ガソク)処を異にす。朱丹を以てその身体に塗る、中国の紛を用うるが如きなり。食飲には籩豆を用い手食す。
(注)籩 (ヘン:竹を編んだ高坏) 豆(トウ:木をくり抜いた高坏)
その死には、棺有るも槨無く、土を封じて冢(チョウ)を作る。始め死するや停喪(テイソウ)十余日、時に当りて肉を食らわず、喪主哭泣し、他人就いて歌舞飲酒す。已に葬れば、挙家水中に詣(いた)りて澡浴し、以て練沐の如くす。
(注)練沐:白い絹の喪服を着て沐浴する(中国の練沐)
其の行来・渡海、中国に詣るには、恒に一人をして、頭を梳らず、蟣蝨(キシツ)を去らず、衣服垢汚、肉を食らわず、婦人を近づけず、喪人の如くせしむ。これを名づけて持衰(ジサイ)と為す。若し、行く者吉善ならば、共にその生口・財物を顧し、若し疾病有り、暴害に遭えば、便ち、これを殺さんと欲す。その持衰謹まず、と謂えばなり
真珠・青玉を出す。その山に丹有り。その木には枏(ダン)・杼(チョ)・予樟・楺(ボウ)・櫪・投・橿・烏号・楓香有り。その竹は篠・簳・桃支。薑・橘・椒・蘘荷(ジョウカ)有るも、以て滋味となすを知らず。獮猴(ビコウ)・黒雉(コクチ)有り。
(注:ウイキの解釈文から)タブノキ(枏=楠)、コナラ(杼)・・・(ウイキでも?となっている語あり)・・・、ヤマグワ(烏号)、ヤダケ(簳)、真竹?(桃支)、蘘荷(=茗荷?)、獮猴(アカゲ猿) ・・・要・継続調査・・・
*ウイキも原典(紹煕本)も「“獮”猴」となっている・・・が、「“獼”猴(ビコウ):(大字源)さるの一種。おおざる。」の事と解しているものと思われる。
*「蘘荷(ジョウカ)」:(大字源)草の名。みょうが。
その俗挙事行来、云為する所有れば、輒(すなわ)ち骨を灼きて卜し、以て吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。その辞は令亀(レイキ)の法の如く、火坼(カタク)を視て兆を占う。
(注)令亀法:中国の占い。 火坼:火によって出来た裂け目
その会同・坐起には、父子・男女別無し。人性酒を嗜む。(魏略に曰う。「其の俗、正歳、四節を知らず。 但 春耕・秋収を計りて年紀と為す)
大人の敬する所を見れば、但 手を搏ちて以て跪拝に当つ。その人の寿考、或いは百年、或いは八、九十年。その俗、国の大人(タイジン)は皆四、五婦、下戸(ゲコ)も或いは二、三婦。婦人は淫せず、妬忌せず。盗窃せず、諍訟少なし。其の法を犯すに、軽き者はその妻子を没し、重き者はその門戸及び宗族を没す。尊卑各(おのおの)差序有り、相臣服するに足る。租賦を収む。邸閣有り。国国は市有り。有無を交易す。使大倭(シタイイ(ゐ))之を監す。
女王国自り以北には、特に一大率を置き、検察せしむ。諸国之を畏憚す。常に伊都国に治す。国中に於いて刺史の如き有り。王の使を遣わして、京都・帯方郡・諸韓国に詣らしめ、郡の倭国に使するに及ぶや、皆、津に臨みて捜露す。伝送の文書・賜遺の物、女王に詣るに、差錯(ササク)するを得ざらしむ。
下戸、大人と道路に相逢えば、逡巡して草に入り、辞を伝え事を説くには、或いは蹲り、或いは跪き、両手は地に拠り、之が恭敬を為す。対応の声を噫(アイ)と曰う。比するに然諾(ゼンダク)の如し。
其の国、本亦男子を以て王と為し、住(とど)まる七・八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち一女子を共立して王と為す。名づけて卑弥呼(ヒミカ)と曰う。鬼道に事え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも夫婿(フセイ)無く、男弟有り、佐(たす)けて国を治む。王と為りしより以来、見る有る者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。唯(ただ)男子一人有り、飲食を給し、辞を伝え、居所に出入りす。宮室・楼観・城柵、厳(おごそ)かに設け、常に人有り、兵を持して守衛す。
女王国の東、海を渡る、千余里。復(ま)た国有り、皆倭種。又侏儒(シュジュ)国有り。その南に在り。人長は三・四尺。女王を去る、四千余里。又、裸(ラ)国・黒歯(コクシ)国有り。復(ま)た、その東南に在り。船行一年にして至る可し。
倭地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或いは絶え或いは連なること、周旋五千余里なる可し。
景初二年六月、倭の女王、大夫難升米(ナンシメ)等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守・劉夏、吏を遣わし、将(ひき)いて送りて京都に詣らしむ。
其の年十二月、詔書して倭の女王に報じて曰く、「親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方の太守劉夏、使を遣わし、汝の大夫難升米、次使・都市牛利(トイチギュウリ)を送り、汝献ずる所の男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈を奉じ、以て到る。汝の在る所遠きを踰(こ)え、乃ち、使を遣わして貢献せしむ。是れ汝の忠孝、我甚だ汝を哀れむ。今、汝を以て親魏倭王と為す。金印紫綬を仮し、装封して帯方太守に付して仮授す。汝、其れ種人を綏撫し、勉めて孝順を為せ。汝が来使難升米・牛利は遠きを渉り、道路勤労す。今、難升米を以て率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為し、銀印青綬を仮し、引見労賜して、遣わし還す。今、絳地(コウチ)交龍錦五匹・絳地縐粟罽(シュウゾクケイ)十張、蒨絳(センコウ)五十匹、紺青(コンジョウ)五十匹を以て、汝が献ずる所の貢直に答う。又、特に汝に紺地句文錦(コンジコウモンキン)三匹・細班華罽(カケイ)五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各(おのおの)五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に付す。還り到らば、録受し、悉く以て汝が国中の人に示し、国家汝を哀れむを知らしむ可し。故に、鄭重に汝に好物を賜うなり」と。
(注)「絳地(コウチ)交龍錦五匹」 (臣松之、以為(おもえ)らく、地は応(まさ)に綈(テイ)と為すべし。漢の文帝、皁衣を著す。之を弋綈(ヨクテイ)と謂うは是なり。此の字、体ならず。魏朝の失に非んば、即ち伝写者の誤なり。)
正始元年、太守・弓遵、建中校尉・梯儁等を遣わし、詔書・印綬を奉じて倭国に詣り、倭王に拝仮し、并(なら)びに詔を齎(もたら)し、金帛・錦罽(ギンケイ)・刀・鏡・采物を賜う。倭王、使に因って上表し、詔恩を答謝す。
(注)正始元年(240)
其の四年、倭王、復(ま)た使大夫伊声耆(イセイキ)・掖邪拘(エキヤコ)等八人を遣わし、生口・倭錦(イ(ゐ)キン)・絳青縑(コウセイケン)・緜衣(メンイ)・帛布・丹・木拊(モクフ)・短弓矢(タンキュウシ)を上献せしむ。掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壹拝(イチハイ)す。」
(注)絳青縑:赤、青の目の細かい絹。
其の八年、太守王頎(オウキ)官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭載(イ(ゐ)サイ)斯烏越(シオエツ)等を遣わして、郡に詣り、相攻撃することを説かしむ。塞曹掾史(サイソウエンシ)張政等を遣わし、因りて詔書、黄幢を齎し、難升米に拝仮し、檄を為して之を告諭せしむ。
卑弥呼、死するを以て、大いに冢を作る。径百余歩。徇葬する者、百余人。更に男王を立てしも、国中服せず。更に相誅殺し、当時、千余人を殺す。復(ま)た、卑弥呼の宗女、壹与(イチヨ)年十三なるを立てて王と為し、国中遂に定まる。政等は檄を以て壱与に告諭す。
壹与、倭の大夫、率善中郎将掖邪拘等二十人を遣わし、政等の送りて還らしむ。因りて、臺に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠(コウシュ)二枚、異文雜錦二十匹を貢す。
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魏志倭人伝(ぎしわじんでん):中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑 東夷伝倭人条の略称。
「俾弥呼(ヒミカ)」(古田武彦 著) 巻末資料2 倭人伝(紹煕本三国志)読み下し文
*ウイキ等に掲載されてるものとはだいぶ異なる
*文中(注)は当方。
*今後、文中の熟語などの(注)を、更に、随時、追加・補筆していく予定・・・。
(2017.7.9 第1回掲載)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
倭人(い(ゑ)じん)は帯方の東南大海の中に在り、山島に依りて国邑を為す。旧(もと)百余国あり、漢の時朝見する者あり。今使譯通ずる所、三十国。
郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓国を歴るにて、乍ち南し、乍ち東し、その北岸、狗邪韓国(コヤカンコク)に到る、七千余里。
始めて一海を度る、千余里。対海国(タイカイコク)に至る。その大官は卑狗(ヒコ)と曰い、副は卑奴母離(ヒヌモリ)と曰う。居する所絶島、方四百余里なる可し。土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿の径(ケイ)の如し。千余戸有り。良田無く、海物を食して自活し、船に乗りて、南北に市糴す。
(注)市糴(シテキ):(大字源)穀物を買い上げる (参考)市糶(シチョウ):(大字源)市場に売り出す米
又、南、一海を渡る。千余里、名づけて瀚海と曰う。一大国(イチダイコク)に至る。官を亦卑狗と曰い、副は卑奴母離と曰う。方三百里なる可し。竹木・叢林多く、三千許りの家有り。差(やや)田地有り、田を耕せども、猶食するに足らず。亦、南北に市糴す。
又、一海を渡る、千余里、末盧(マツロ)国に至る。四千余戸有り。山海に浜(そ)うて居る。草木茂盛し、行くに前人を見ず。好んで魚鰒を捕え、水深浅と無く、皆、沈没して之を取る。
東南陸行、五百里、伊都(イト)国に到る。官は爾支(ニシ)といい、副は泄謨觚(セモク)、柄渠觚(ヘコク)という。千余戸有り。世に王有るも、皆、女王国に統属す。郡使の往来、常に駐まる所なり。
東南、奴(ヌ)国に至ること、百里。官は兕馬觚(ジマク)と曰い、副を卑奴母離と曰う。二万余戸有り。東行、不弥(フミ)国に至ること、百里。官は多模(タモ)と曰い、副は卑奴母離と曰う。千余家有り。南、投馬(ツマ)国に至ること、水行二十日。官は弥弥(ミミ)と曰い、副は弥弥那利(ミミナリ)と曰う。五万余戸なる可し。南、邪馬壹国(ヤマイチコク)に至る、女王の都とする所、水行十日・陸行一月。官は伊支馬(イキマ)有り。次を弥馬升(ミマシ)と曰い、次を弥馬獲支(ミマカキ)と曰い。次を奴佳鞮(ヌカテ)と曰う。七万余戸なる可し。女王国自(よ)り以北、その戸数・道里、得て略載す可し。その余の旁国は遠絶にして、得て詳(つまびら)かにす可からず。
次に斯馬(シマ)国有り、次に巳百支(イハキ)国有り、次に伊邪(イヤ)国有り、次に郡支(グキ・クキ)国有り、次に弥奴(ミヌ)国有り、次に好古都(コウコト)国有り、次に不呼(フカ)国有り、次に姐奴(セヌ・ソヌ)国有り、次に対蘇(タイソ)国有り、次に蘇奴(ソヌ)国有り、次に呼邑(カイフ)国有り、次に華奴蘇奴(カヌソヌ)国有り、次に鬼(キ)国有り、次に為吾(イゴ)国有り、次に鬼奴(キヌ)国有り、次に邪馬(ヤマ)国有り、次に躬臣(クシ)国有り、次に巴利(ハリ)国有り、次に支惟(きゐ)国有り、次に烏奴(ウヌ)国有り、次に奴(ヌ)国有り、此れ、女王の境界の尽きる所なり。
その南、狗奴(コヌ)国有り、男子王為(た)り。その官に狗古智卑狗(ココチヒコ)有り。女王に属さず。郡より女王国に至る。万二千余里。
男子は大小と無く、皆、黥面文身す。古(いにしえ)自(よ)り以来、その使中国に詣(いた)るや、皆、自ら大夫と称す。夏后少康の子、会稽に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍の害を避けしむ。今、倭の水人、好んで沈没して魚蛤(ギョコウ)を捕え、文身し亦以って大魚・水禽を厭(はら)う。後、稍(やや)以って飾りと為す。諸国の文身は各(おのおの)異なり、或いは左にし、或いは右にし、或いは大に、或いは小に、尊卑差有り。その道里を計るに、まさに会稽、東冶(トウチ)の東に在るべし。
その風俗淫ならず。男子は、皆、露紒(ロカイ)し、木緜(綿)を以って頭に招(か)け、その衣は横幅、但結束して相連ね、略(ほぼ)縫うこと無し。婦人は被髪屈紒(クッカイ)し、衣を作ること単被の如く、その中央を穿ち、頭を貫きて之を衣る。
(注)紒:(大字源 🈩ケイ(漢・呉音)①ゆう。髪を結う。②さとくない 🈔ケツ(漢音)🈩①に同じ。 🈪カイ(漢・呉音)印のひも。)
禾稲(カトウ)、紵麻(チョマ)を種(う)え、蚕桑・緝績(シュウセキ)して細紵(サイチョ)、縑緜(ケンメン)を出だす。その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲(ジャク)無し。兵に矛・楯・木弓を用いる。木弓は下を短く上を長くし、竹箭は或いは鉄鏃、或いは骨鏃なり。有無する所は儋耳(タンジ)・朱崖(シュガイ)と同じ。
(注)縑(ケン):①かとり。かとりぎぬ。・・・ ②きぎぬ。 ③きぬ。
倭地は温暖、冬夏生菜を食す。皆、徒跣(トセン)。屋室有り、父母兄弟、臥息(ガソク)処を異にす。朱丹を以てその身体に塗る、中国の紛を用うるが如きなり。食飲には籩豆を用い手食す。
(注)籩 (ヘン:竹を編んだ高坏) 豆(トウ:木をくり抜いた高坏)
その死には、棺有るも槨無く、土を封じて冢(チョウ)を作る。始め死するや停喪(テイソウ)十余日、時に当りて肉を食らわず、喪主哭泣し、他人就いて歌舞飲酒す。已に葬れば、挙家水中に詣(いた)りて澡浴し、以て練沐の如くす。
(注)練沐:白い絹の喪服を着て沐浴する(中国の練沐)
其の行来・渡海、中国に詣るには、恒に一人をして、頭を梳らず、蟣蝨(キシツ)を去らず、衣服垢汚、肉を食らわず、婦人を近づけず、喪人の如くせしむ。これを名づけて持衰(ジサイ)と為す。若し、行く者吉善ならば、共にその生口・財物を顧し、若し疾病有り、暴害に遭えば、便ち、これを殺さんと欲す。その持衰謹まず、と謂えばなり
真珠・青玉を出す。その山に丹有り。その木には枏(ダン)・杼(チョ)・予樟・楺(ボウ)・櫪・投・橿・烏号・楓香有り。その竹は篠・簳・桃支。薑・橘・椒・蘘荷(ジョウカ)有るも、以て滋味となすを知らず。獮猴(ビコウ)・黒雉(コクチ)有り。
(注:ウイキの解釈文から)タブノキ(枏=楠)、コナラ(杼)・・・(ウイキでも?となっている語あり)・・・、ヤマグワ(烏号)、ヤダケ(簳)、真竹?(桃支)、蘘荷(=茗荷?)、獮猴(アカゲ猿) ・・・要・継続調査・・・
*ウイキも原典(紹煕本)も「“獮”猴」となっている・・・が、「“獼”猴(ビコウ):(大字源)さるの一種。おおざる。」の事と解しているものと思われる。
*「蘘荷(ジョウカ)」:(大字源)草の名。みょうが。
その俗挙事行来、云為する所有れば、輒(すなわ)ち骨を灼きて卜し、以て吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。その辞は令亀(レイキ)の法の如く、火坼(カタク)を視て兆を占う。
(注)令亀法:中国の占い。 火坼:火によって出来た裂け目
その会同・坐起には、父子・男女別無し。人性酒を嗜む。(魏略に曰う。「其の俗、正歳、四節を知らず。 但 春耕・秋収を計りて年紀と為す)
大人の敬する所を見れば、但 手を搏ちて以て跪拝に当つ。その人の寿考、或いは百年、或いは八、九十年。その俗、国の大人(タイジン)は皆四、五婦、下戸(ゲコ)も或いは二、三婦。婦人は淫せず、妬忌せず。盗窃せず、諍訟少なし。其の法を犯すに、軽き者はその妻子を没し、重き者はその門戸及び宗族を没す。尊卑各(おのおの)差序有り、相臣服するに足る。租賦を収む。邸閣有り。国国は市有り。有無を交易す。使大倭(シタイイ(ゐ))之を監す。
女王国自り以北には、特に一大率を置き、検察せしむ。諸国之を畏憚す。常に伊都国に治す。国中に於いて刺史の如き有り。王の使を遣わして、京都・帯方郡・諸韓国に詣らしめ、郡の倭国に使するに及ぶや、皆、津に臨みて捜露す。伝送の文書・賜遺の物、女王に詣るに、差錯(ササク)するを得ざらしむ。
下戸、大人と道路に相逢えば、逡巡して草に入り、辞を伝え事を説くには、或いは蹲り、或いは跪き、両手は地に拠り、之が恭敬を為す。対応の声を噫(アイ)と曰う。比するに然諾(ゼンダク)の如し。
其の国、本亦男子を以て王と為し、住(とど)まる七・八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち一女子を共立して王と為す。名づけて卑弥呼(ヒミカ)と曰う。鬼道に事え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも夫婿(フセイ)無く、男弟有り、佐(たす)けて国を治む。王と為りしより以来、見る有る者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。唯(ただ)男子一人有り、飲食を給し、辞を伝え、居所に出入りす。宮室・楼観・城柵、厳(おごそ)かに設け、常に人有り、兵を持して守衛す。
女王国の東、海を渡る、千余里。復(ま)た国有り、皆倭種。又侏儒(シュジュ)国有り。その南に在り。人長は三・四尺。女王を去る、四千余里。又、裸(ラ)国・黒歯(コクシ)国有り。復(ま)た、その東南に在り。船行一年にして至る可し。
倭地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或いは絶え或いは連なること、周旋五千余里なる可し。
景初二年六月、倭の女王、大夫難升米(ナンシメ)等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守・劉夏、吏を遣わし、将(ひき)いて送りて京都に詣らしむ。
其の年十二月、詔書して倭の女王に報じて曰く、「親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方の太守劉夏、使を遣わし、汝の大夫難升米、次使・都市牛利(トイチギュウリ)を送り、汝献ずる所の男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈を奉じ、以て到る。汝の在る所遠きを踰(こ)え、乃ち、使を遣わして貢献せしむ。是れ汝の忠孝、我甚だ汝を哀れむ。今、汝を以て親魏倭王と為す。金印紫綬を仮し、装封して帯方太守に付して仮授す。汝、其れ種人を綏撫し、勉めて孝順を為せ。汝が来使難升米・牛利は遠きを渉り、道路勤労す。今、難升米を以て率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為し、銀印青綬を仮し、引見労賜して、遣わし還す。今、絳地(コウチ)交龍錦五匹・絳地縐粟罽(シュウゾクケイ)十張、蒨絳(センコウ)五十匹、紺青(コンジョウ)五十匹を以て、汝が献ずる所の貢直に答う。又、特に汝に紺地句文錦(コンジコウモンキン)三匹・細班華罽(カケイ)五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各(おのおの)五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に付す。還り到らば、録受し、悉く以て汝が国中の人に示し、国家汝を哀れむを知らしむ可し。故に、鄭重に汝に好物を賜うなり」と。
(注)「絳地(コウチ)交龍錦五匹」 (臣松之、以為(おもえ)らく、地は応(まさ)に綈(テイ)と為すべし。漢の文帝、皁衣を著す。之を弋綈(ヨクテイ)と謂うは是なり。此の字、体ならず。魏朝の失に非んば、即ち伝写者の誤なり。)
正始元年、太守・弓遵、建中校尉・梯儁等を遣わし、詔書・印綬を奉じて倭国に詣り、倭王に拝仮し、并(なら)びに詔を齎(もたら)し、金帛・錦罽(ギンケイ)・刀・鏡・采物を賜う。倭王、使に因って上表し、詔恩を答謝す。
(注)正始元年(240)
其の四年、倭王、復(ま)た使大夫伊声耆(イセイキ)・掖邪拘(エキヤコ)等八人を遣わし、生口・倭錦(イ(ゐ)キン)・絳青縑(コウセイケン)・緜衣(メンイ)・帛布・丹・木拊(モクフ)・短弓矢(タンキュウシ)を上献せしむ。掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壹拝(イチハイ)す。」
(注)絳青縑:赤、青の目の細かい絹。
其の八年、太守王頎(オウキ)官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭載(イ(ゐ)サイ)斯烏越(シオエツ)等を遣わして、郡に詣り、相攻撃することを説かしむ。塞曹掾史(サイソウエンシ)張政等を遣わし、因りて詔書、黄幢を齎し、難升米に拝仮し、檄を為して之を告諭せしむ。
卑弥呼、死するを以て、大いに冢を作る。径百余歩。徇葬する者、百余人。更に男王を立てしも、国中服せず。更に相誅殺し、当時、千余人を殺す。復(ま)た、卑弥呼の宗女、壹与(イチヨ)年十三なるを立てて王と為し、国中遂に定まる。政等は檄を以て壱与に告諭す。
壹与、倭の大夫、率善中郎将掖邪拘等二十人を遣わし、政等の送りて還らしむ。因りて、臺に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠(コウシュ)二枚、異文雜錦二十匹を貢す。
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