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<「漢字の学習の大禁忌は作輟なり」・・・「作輟(サクテツ)」:やったりやらなかったりすること・・・>
<漢検1級 27-③に向けて その121>
●「文章題訓練」その㊿です。復習・おさらい用にどうぞ👍 「文章題訓練」も今回で最終です。なんとか50作まで完成した。お付き合いいただいた方々、お疲れさまでした。本番でのご健闘をお祈りします👍少しでも役に立ってると嬉しいのですが(^^;)
●難度は並・・・チャレンジャーは80%(24点)以上・・・。リピーターは90%以上はとりたいところ(^^)
●文章題㊿:次の文章中の傍線(1~10)のカタカナを漢字に直し、傍線(ア~コ)の漢字の読みをひらがなで記せ。(30) 書き2×10 読み1×10
「・・・雲海蒼茫 佐渡ノ洲 郎ヲ思ウテ 一日三秋ノ愁 四十九里 風波悪シ 渡ラント欲スレド 妾ガ身自由ナラズ・・・
ははあ、来いとゆたとて行かりょか佐渡へだな、と思った。題を見ると、戯翻竹枝とある。
それは彼の伯父の詩文集であった。伯父は一昨年(昭和五年)の夏死んだ。その(1)イコウが(2)マトめられて、この春、文求堂から上梓されたのである。清末の(3)セキジュで、今は満洲国にいる羅振玉氏がその序文を書いている。その序にいう。
「予往歳(ア)滬江(上海のこと)ニ(4)グウキョス。先後十年間、東邦ノ賢豪長者、道ニ滬上ニ出ヅルモノ、(イ)縞紵ノ歓ヲ聯ネザルハナシ。一日昧爽、櫛沐ニ方リ、打門ノ声甚ダ急ナルヲ聞キ、楼欄ニ憑ツテ之ヲ観ルニ、客アリ。・・・日本男子中島端ト書ス。懐中ノ(5)チョボクヲ探リテ予ト筆談ス。東亜ノ情勢ヲ指陳シテ、傾刻十余紙ヲ尽ス。予(ウ)洒然トシテ之ヲ敬ス。行クニノゾンデ、継イデ見ンコトヲ約シ、ソノ館舎ヲ(エ)詢ヘバ、豊陽館ナリトイフ。翌日往イテ之ヲ訪ヘバ、則チ已ニ行ケリ矣。…………」
・・・ 伯父の遺稿集の巻末につけた、お髯の伯父の跋によれば、死んだ伯父は「狷介ニシテ善ク罵リ、人ヲ仮ス能ハズ。人マタ因ツテ之ヲ仮スコトナシ。大抵視テ以テ狂トナス。遂ニ自ラ号シテ斗南狂夫トイフ。」とある。従って、その遺稿集は、『斗南(オ)存藁』と題されている。この『斗南存藁』を前にしながら、三造は、これを図書館へ持って行ったものか、どうかと頻りに躊躇している。(お髯の伯父から、これを帝大と一高の図書館へ納めるように、いいつけられているのである。)図書館へ持って行って寄贈を申し出る時、著者と自分との関係を聞かれることはないだろうか? その時「私の伯父の書いたものです」と、昂然と答えられるだろうか? 書物の内容の価値とか、著者の有名無名とかいうことでなしに、ただ、「自分の伯父の書いたものを、得々として自分が持って行く」という事の中に、何か、おしつけがましい、図々しさがあるような気がして、神経質の三造には、堪えられないのである。が、また、一方、伯父が文名(6)サクサクたる大家ででもあったなら、案外、自分は得意になって持って行くような軽薄児ではないか、とも考えられる。三造は色々に迷った。とにかく、こんな心遣いが多少病的なものであることは、彼も自分で気がついている。しかし、自己的な虚栄的なこういう気持を、別に、死んだ伯父に対して済まないとは考えない。ただ、この書の寄贈を彼に託した親戚や家人たちが、この気持を知ったら烈しく責めるだろうと思うのである。
だが、結局彼は、それを図書館に納めることにした。生前、伯父に対してほとんど愛情を抱かなかった罪ほろぼしという気持も、少しは手伝ったのである。実際、近頃になっても伯父について思出すことといえば、大抵、伯父にとって意地の悪い事柄ばかりであった。死ぬ一月ばかり前に、伯父が遺言のようなものを予め書いた。「勿葬、(7)ブップン、勿碑。」(・・・葬式を出すな。墓に埋めるな。碑を立てるな。)これを死後、新聞の死亡通知に出した時、「ブップン」が誤植で、「勿憤」になっていた。一生を焦躁と憤懣との中に送った伯父の遺言が、皮肉にも、憤る(カ)勿れ、となっていたのである。三造の思出すのは大抵このような意地の悪いことばかりだった。ただ、一、二年前と少し違って来たのは、ようやく近頃になって彼は、当時の伯父に対する自分のひねくれた気持の中に「余りに子供っぽい性急な自己反省」と、「自分が最も嫌っていたはずの乏しさ」とを見るようになったことである。
彼は、軽い罪ほろぼしの気持で『斗南存稾』を大学と高等学校の図書館に納めることにした。但し、神経の浪費を防ぐために、郵便小包で送ろうと考えたのである。図書館に納めることが功徳になるかどうか、すこぶる疑問だな、などと思いながら、彼は、渋紙を探して小包を作りにかかった。
・・・
右の一文は、昭和七年の頃、別に創作のつもりではなく、一つの私記として書かれたものである。十年経たつと、しかし、時勢も変り、個人も成長する。現在の三造には、伯父の遺作を図書館に寄贈するのを躊躇する心理的理由が、もはや余りにも滑稽な羞恥としか映らない。十年前の彼は、自分が伯父を少しも愛していないと、本気で、そう考えていた。人間は何と己れの心の在り処を自ら知らぬものかと、今にして驚くの外はない。
伯父の死後七年にして、支那シナ事変が起った時、三造は始めて伯父の著書『支那分割の運命』を(8)ヒモトいて見た。この書はまず袁世凱・孫逸仙の人物(9)ゲッタンに始まり、支那民族性への洞察から、我が国民の彼に対する買い被り的同情(この書は大正元年十月刊行。従ってその執筆は民国革命進行中だったことを想起せねばならぬ)を(キ)嗤い、一転して、当時の世界情勢、就中、欧米列強の東亜侵略の勢を指陳して、「今や支那分割の勢既に成りて復、動かすべからず。我が日本の之に対する、如何にせば可ならん。全く分割に(ク)与らざらんか。進みて分割に与らんか」と自ら設問し、さて前説が我が民族発展の閉塞を意味するとせば、勢い、欧米諸国に伍して進んで衡を中原に争わねばならぬものの如く見える。しかしながら、この事たる、究極よりこれを見るに「黄人の相(ケ)食み相闘ふもの」に他ならず、「たとひ我が日本甘んじて白人の牛後となり、二三省の地を割き二三万方里の土地四五千万の人民を得るも、何ぞ黄人の衰滅に補あらん。又何ぞ白人の横行を妨げん。他年(コ)煢々孤立、五洲の内を環顧するに一の同種の国なく一の(10)シンシ輔車相倚り相扶くる者なく、徒らに目前区々の小利を貪りて千年不滅の醜名を流さば、豈大東男児無前の羞に非ずや。」という。則ち分割のこと、これに与るも不利、与らざるも不利、然らばこれに対処するの策なきか。曰く、あり。しかも、ただ一つ。即ち日本国力の充実これのみ。「もし我をして絶大の果断、絶大の力量、絶大の抱負あらしめば、我は進んで支那民族分割の運命を挽回せんのみ。四万々生霊を水火塗炭の中に救はんのみ。蓋し大和民族の天職は殆ど之より始まらんか。」思うに「二十世紀の最大問題はそれ殆ど黄白人種の衝突か。」而しこうして、「我に後来白人を東亜より駆逐せんの絶大理想あり。而して、我が徳我が力能く之を実行するに足らば」則ち始めて日本も救われ、黄人も救われるであろうと。そうして伯父は当時の我が国内各方面について、他日この絶大実力を貯うべき備えありやを顧み、上に聖天子おわしましながら有君而無臣を慨き、政治に外交に教育に、それぞれ得意の辛辣な皮肉を飛ばして、東亜百年のために国民全般の奮起を促しているのである。・・・」「斗南先生」(中島敦)
👍👍👍 🙊 👍👍👍
(1)遺稿 (2)纏 (3)碩儒 (4)寓居 (5)楮墨 (6)嘖々 (7)勿墳 (8)繙(紐解) (9)月旦 (10)唇歯(脣歯)
(ア)ここう (イ)こうちょ (ウ)せんぜん (エ)と (オ)そんこう (カ)なか (キ)わら (ク)あずか (ケ)は (コ)けいけい
👍👍👍 🙊 👍👍👍
<「漢字の学習の大禁忌は作輟なり」・・・「作輟(サクテツ)」:やったりやらなかったりすること・・・>
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●「文章題訓練」その㊿です。復習・おさらい用にどうぞ👍 「文章題訓練」も今回で最終です。なんとか50作まで完成した。お付き合いいただいた方々、お疲れさまでした。本番でのご健闘をお祈りします👍少しでも役に立ってると嬉しいのですが(^^;)
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●文章題㊿:次の文章中の傍線(1~10)のカタカナを漢字に直し、傍線(ア~コ)の漢字の読みをひらがなで記せ。(30) 書き2×10 読み1×10
「・・・雲海蒼茫 佐渡ノ洲 郎ヲ思ウテ 一日三秋ノ愁 四十九里 風波悪シ 渡ラント欲スレド 妾ガ身自由ナラズ・・・
ははあ、来いとゆたとて行かりょか佐渡へだな、と思った。題を見ると、戯翻竹枝とある。
それは彼の伯父の詩文集であった。伯父は一昨年(昭和五年)の夏死んだ。その(1)イコウが(2)マトめられて、この春、文求堂から上梓されたのである。清末の(3)セキジュで、今は満洲国にいる羅振玉氏がその序文を書いている。その序にいう。
「予往歳(ア)滬江(上海のこと)ニ(4)グウキョス。先後十年間、東邦ノ賢豪長者、道ニ滬上ニ出ヅルモノ、(イ)縞紵ノ歓ヲ聯ネザルハナシ。一日昧爽、櫛沐ニ方リ、打門ノ声甚ダ急ナルヲ聞キ、楼欄ニ憑ツテ之ヲ観ルニ、客アリ。・・・日本男子中島端ト書ス。懐中ノ(5)チョボクヲ探リテ予ト筆談ス。東亜ノ情勢ヲ指陳シテ、傾刻十余紙ヲ尽ス。予(ウ)洒然トシテ之ヲ敬ス。行クニノゾンデ、継イデ見ンコトヲ約シ、ソノ館舎ヲ(エ)詢ヘバ、豊陽館ナリトイフ。翌日往イテ之ヲ訪ヘバ、則チ已ニ行ケリ矣。…………」
・・・ 伯父の遺稿集の巻末につけた、お髯の伯父の跋によれば、死んだ伯父は「狷介ニシテ善ク罵リ、人ヲ仮ス能ハズ。人マタ因ツテ之ヲ仮スコトナシ。大抵視テ以テ狂トナス。遂ニ自ラ号シテ斗南狂夫トイフ。」とある。従って、その遺稿集は、『斗南(オ)存藁』と題されている。この『斗南存藁』を前にしながら、三造は、これを図書館へ持って行ったものか、どうかと頻りに躊躇している。(お髯の伯父から、これを帝大と一高の図書館へ納めるように、いいつけられているのである。)図書館へ持って行って寄贈を申し出る時、著者と自分との関係を聞かれることはないだろうか? その時「私の伯父の書いたものです」と、昂然と答えられるだろうか? 書物の内容の価値とか、著者の有名無名とかいうことでなしに、ただ、「自分の伯父の書いたものを、得々として自分が持って行く」という事の中に、何か、おしつけがましい、図々しさがあるような気がして、神経質の三造には、堪えられないのである。が、また、一方、伯父が文名(6)サクサクたる大家ででもあったなら、案外、自分は得意になって持って行くような軽薄児ではないか、とも考えられる。三造は色々に迷った。とにかく、こんな心遣いが多少病的なものであることは、彼も自分で気がついている。しかし、自己的な虚栄的なこういう気持を、別に、死んだ伯父に対して済まないとは考えない。ただ、この書の寄贈を彼に託した親戚や家人たちが、この気持を知ったら烈しく責めるだろうと思うのである。
だが、結局彼は、それを図書館に納めることにした。生前、伯父に対してほとんど愛情を抱かなかった罪ほろぼしという気持も、少しは手伝ったのである。実際、近頃になっても伯父について思出すことといえば、大抵、伯父にとって意地の悪い事柄ばかりであった。死ぬ一月ばかり前に、伯父が遺言のようなものを予め書いた。「勿葬、(7)ブップン、勿碑。」(・・・葬式を出すな。墓に埋めるな。碑を立てるな。)これを死後、新聞の死亡通知に出した時、「ブップン」が誤植で、「勿憤」になっていた。一生を焦躁と憤懣との中に送った伯父の遺言が、皮肉にも、憤る(カ)勿れ、となっていたのである。三造の思出すのは大抵このような意地の悪いことばかりだった。ただ、一、二年前と少し違って来たのは、ようやく近頃になって彼は、当時の伯父に対する自分のひねくれた気持の中に「余りに子供っぽい性急な自己反省」と、「自分が最も嫌っていたはずの乏しさ」とを見るようになったことである。
彼は、軽い罪ほろぼしの気持で『斗南存稾』を大学と高等学校の図書館に納めることにした。但し、神経の浪費を防ぐために、郵便小包で送ろうと考えたのである。図書館に納めることが功徳になるかどうか、すこぶる疑問だな、などと思いながら、彼は、渋紙を探して小包を作りにかかった。
・・・
右の一文は、昭和七年の頃、別に創作のつもりではなく、一つの私記として書かれたものである。十年経たつと、しかし、時勢も変り、個人も成長する。現在の三造には、伯父の遺作を図書館に寄贈するのを躊躇する心理的理由が、もはや余りにも滑稽な羞恥としか映らない。十年前の彼は、自分が伯父を少しも愛していないと、本気で、そう考えていた。人間は何と己れの心の在り処を自ら知らぬものかと、今にして驚くの外はない。
伯父の死後七年にして、支那シナ事変が起った時、三造は始めて伯父の著書『支那分割の運命』を(8)ヒモトいて見た。この書はまず袁世凱・孫逸仙の人物(9)ゲッタンに始まり、支那民族性への洞察から、我が国民の彼に対する買い被り的同情(この書は大正元年十月刊行。従ってその執筆は民国革命進行中だったことを想起せねばならぬ)を(キ)嗤い、一転して、当時の世界情勢、就中、欧米列強の東亜侵略の勢を指陳して、「今や支那分割の勢既に成りて復、動かすべからず。我が日本の之に対する、如何にせば可ならん。全く分割に(ク)与らざらんか。進みて分割に与らんか」と自ら設問し、さて前説が我が民族発展の閉塞を意味するとせば、勢い、欧米諸国に伍して進んで衡を中原に争わねばならぬものの如く見える。しかしながら、この事たる、究極よりこれを見るに「黄人の相(ケ)食み相闘ふもの」に他ならず、「たとひ我が日本甘んじて白人の牛後となり、二三省の地を割き二三万方里の土地四五千万の人民を得るも、何ぞ黄人の衰滅に補あらん。又何ぞ白人の横行を妨げん。他年(コ)煢々孤立、五洲の内を環顧するに一の同種の国なく一の(10)シンシ輔車相倚り相扶くる者なく、徒らに目前区々の小利を貪りて千年不滅の醜名を流さば、豈大東男児無前の羞に非ずや。」という。則ち分割のこと、これに与るも不利、与らざるも不利、然らばこれに対処するの策なきか。曰く、あり。しかも、ただ一つ。即ち日本国力の充実これのみ。「もし我をして絶大の果断、絶大の力量、絶大の抱負あらしめば、我は進んで支那民族分割の運命を挽回せんのみ。四万々生霊を水火塗炭の中に救はんのみ。蓋し大和民族の天職は殆ど之より始まらんか。」思うに「二十世紀の最大問題はそれ殆ど黄白人種の衝突か。」而しこうして、「我に後来白人を東亜より駆逐せんの絶大理想あり。而して、我が徳我が力能く之を実行するに足らば」則ち始めて日本も救われ、黄人も救われるであろうと。そうして伯父は当時の我が国内各方面について、他日この絶大実力を貯うべき備えありやを顧み、上に聖天子おわしましながら有君而無臣を慨き、政治に外交に教育に、それぞれ得意の辛辣な皮肉を飛ばして、東亜百年のために国民全般の奮起を促しているのである。・・・」「斗南先生」(中島敦)
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(1)遺稿 (2)纏 (3)碩儒 (4)寓居 (5)楮墨 (6)嘖々 (7)勿墳 (8)繙(紐解) (9)月旦 (10)唇歯(脣歯)
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